はてなキーワード: 歴史的とは
「Y遺伝子がどうだこうだ」みたいな疑似科学まで持ち出して、天皇家を特別にしてるのは男系家系としての歴史的継続性で、女系には意味がないから女系天皇はNGだ、ってのが彼らの理屈でしょうに。ただの平民が勝手に天皇家に同一化して、自分が持ってるわけでもない「高貴な血」にについての選民意識を披露すんの、すげえバカっぽい。
今年9月24日から26日にかけて中国・北京で開催された「北京国际游戏创新大会(北京国際ゲームイノベーション会議)」の内部資料がインターネット上で流通し、議論を呼んでいる。同大会は、政府主導で年に一度開催されるカンファレンスであり、テンセントをはじめ大手ゲーム会社が参加した。ここでのプレゼンテーションに用いられた資料が、インターネット上に流出したと見られている。
話題となっている文書に含まれるのが、「ゲーム出版コンテンツレビューの要点と分析」とされる資料だ。中国総局の監査専門家、Chen Zhenyu氏による文書となっている。文書のなかでは、実際にコンテンツ規制の対象となる内容が列挙。いくつかの項目に章立てられて、禁止の対象が挙げられた。非常に多岐にわたる規制対象が挙げられているが、興味深いのは、いくつかの中国内外のコンテンツが名指しで挙げられていることである。文書に含まれる広範な内容のなかでも、特定のタイトルを挙げて規制対象が示されている部分を中心にピックアップして見てみよう。
第一の対象が、「価値観」にまつわる規制対象である。ガチャやPay to Winなど金銭至上主義のデザインや、退廃的・アウトローな世界観などが、不適切なコンテンツとして挙げられた。「プレイヤーに善悪を選択する権利を与えること」も推奨されないとされている。さらに、「日本的な二次元文化」も規制対象とされる。ここでは漫画作品「NARUTO」やスマートフォン向けアプリ『陰陽師』『アークナイツ』などが高い市場シェアをもっている例として挙げられた。
続けて価値観的に不適切なコンテンツとして挙げられるのが、「反社会的・反人間的」とされるコンテンツ。疫病による人類滅亡を目指す『Plague Inc.』や戦争シミュレーション『This War of Mine』も槍玉に挙げられている。また「耽美、耽改」と呼ばれる、いわゆるBLジャンルも取り締まりの対象とされる。さらに注目したいポイントは、「女性的に見える男性」が不適切なコンテンツとして挙げられていることだ。判断基準としては「主観的に見て性別の判断に混乱をきたすこと(説明を見ないと男性だと分からないこと)」が挙げられている。ここでは『原神』における男性の多くが女性的に描かれているとされ、ウェンティが代表例として挙げられた。
第二の対象が、「文化性」にまつわる規制対象。ここではゲームタイトルなど名称にまつわる注意や、取り扱う題材に関する規制対象が挙げられた。例の一つとしては、日本の新選組や武士道精神などは不適切なコンテンツに相当するようだ。
第三の対象が、「歴史観」にまつわる規制対象。事実を歪曲したり、センセーショナルにしたり、歴史的人物を改変することが規制対象になるという。ここでは第二次世界大戦における“悪の勢力”を美化することのほか、日本・ドイツ軍の武器・装備を使用することや軍服を使った表現、歴史上の人物への言及も挙げられた。具体例として『アズールレーン』『ブラック・サージナイト』が挙げられている。このほか『信長の野望』は軍国主義的であるとして、「他国の歴史の過度な美化」に相当するそうだ。ほか、多数の歴史的な題材についての規制が挙げられた。
そして第四の対象が、「宗教」にまつわる規制対象。宗教上の人物を不適切に引用する例として『真・女神転生IV FINAL』が挙げられた。
こうしたコンテンツにまつわる規制対象のほか、技術的要件も含め、さまざまな規制の基準が明かされた。文書で挙げられた内容のなかには、先日中国でゲーム業界団体が発表した「自主規制ガイドライン」と重複する部分もあるように感じられる(関連記事)。しかし、先述のガイドラインでは解釈の余地が残されていたのに対し、今回公開された文書ではより厳しい規制基準が設けられていることが明らかとなった。
今回明らかになった当局における規制基準の厳粛さは、中国ユーザーにとっても驚きをもって受け止められたようだ。また中国国内SNSでは、本文書にまつわる投稿がのきなみ削除されたとも伝えられている。まだ資料段階の話であるが、中国国内のコンテンツ取り締まりはますます厳しくなっていきそうだ。『原神』をはじめ人気IPも苦境を迫られる可能性があり、今後の先行きは不透明となっている。
そうだね。S&P500なんかは、コロナショックを除けばリーマンショック後からずっと続いた歴史的にまれな長さの上昇トレンドだったから、もしかすると下落も歴史的なものになる可能性がある。
人のこととやかく言えるような喋り方をネットの連中、リアルのジジババ、おばちゃん、アラサー、クソガキ、誰ひとりやってねえってことだよな。
ババァ共はいまだに太宰の文法真似ときゃ格好良くなると信じてるし、
アラサー共はバラエティとネットのキメラ見たいな喋り方だよな、
そんでガキ共は淫夢語録だったりVtuberの真似をしやがる。
お前らのその喋り方も十分気持ち悪いっての。
昔の日本の書物がなんでもかんでも文語体の日記だったり、漢文至上主義見てーのだったり、宮廷で流行りの和歌っぽいのを取り入れ匂わせだったり、そういうのが歴史的な観点外してみるとその時代ごとの流行りが丸出しで「無駄に特徴的すぎる文章ばっか」だってのは何も変わらんだろ?
ソレに対して「お前の文章wwwお前の世代滲み出すぎてるだろ(核爆)」とか言うのはなんか違うよな。
「黒人って唇分厚すぎるだろwwwwだからジャズで管楽器吹かせると上手いんだなwwwww」ってのとどう違うんだ?
いいか。
まあ時代によっちゃあ「兎にも角にも差別された奴の負け」ってルールの時代もあったな。
まあそれってつまりは生まれたままの知能、詰まるところは幼稚園児レベルの感性から変化してねえってことだけどな。
おっと俺もまた「子供のほうが知能が低い」っていう差別をしてしまったな。
これは年功序列が激しかった時代は単なる区別だってことになっていたんだが、今の時代は怪しいものよな。
どうだ?
漢字文化圏で英語ではなく漢字で筆談してコミュニケーションをとることはできないか?
昔みたいに文字通り筆を使って筆談をする必要はなく、時代はデジタル筆談。
スマホやタブレットの画面に伝えたい言葉を入力して表示させ、相手に見せる。
なぜ文化的地理的人種的に近く歴史的にも深い関係にあった隣人と、わざわざ遠くにいる白人の言葉を使って意思疎通しなければならない?
遠回りだし、アジア人自らがアジアの文化、ひいてはアジア人としてのアイデンティティを否定し、白人の文化やひいては白人を崇拝していることの象徴だ。
大陸中国は大胆に漢字を簡略化したがはっきり言って形状が単純簡素化されるほど記憶しにくいし識別しにくくなる。
この人の一連のツイートに、今回の聖書考古学的隕石研究の科学的な問題点が書かれている。
https://twitter.com/RawheaD/status/1440509477879386124
補足すると、記事にも出てくる「米トリニティー・サウスウェスト大」って、俺が住んでるアルバカーキ市にありながら、だれも名前を聞いたことがないような、正式に学位授与することもできないキリスト教系「大学」で、ストリップモールのシガーショップとデリの間にあるようなところである。
ツングースカ級の小天体衝突で滅びた? ヨルダン渓谷の3600年前の遺跡で発見、ソドム伝承の由来にも
https://news.yahoo.co.jp/byline/akiyamaayano/20210921-00259423
以前から「トール・エル・ハマムこそソドムだった街」と主張している考古学者がいる。今回のUCSB発表論文の参考文献のトップに挙げられている文献の主著者で、ヨルダンのトール・エル・ハマム発掘プロジェクトの主任考古学者スティーブン・コリンズ氏だ。コリンズ氏はニューメキシコ州の神学校トリニティ・サウスウエスト大学(信仰に基づく教育を行っているため、学位を授与できる正規の大学ではない)に所属する聖書考古学者
トール・エル・ハマムで起きた災害が小天体の空中爆発とする説は、2005年から始まったトール・エル・ハマム発掘プロジェクトの11期(現在は15期まで進行)で提唱された
3年前の、同じ出どころほぼ同内容の研究成果発表を報じるクリスチャントゥデイ
ソドム滅亡の証拠? 研究チーム「上空からの高温の爆風」が死海近郊の都市を滅亡させた
https://www.christiantoday.co.jp/articles/26396/20181225/sodom-dead-sea.htm
研究チームのリーダーであるトリニティー・サウスウエスト大学(米ニューメキシコ州)のフィリップ・シルビア教授が発表
トリニティー・サウスウエスト大学のスティーブン・コリンズ教授は、
中略
同大など米国の2つの大学とヨルダン考古学庁の共同による「タルエルハマム発掘プロジェクト」の共同監督を務めている。
ほぼ同じ内容の研究発表が度々あるのは「トール・エル・ハマム(タルエルハマム)発掘プロジェクト」が長期間にわたって継続されているためで仕方のない面もある。
もしこの人の情熱的研究の結果、トール・エル・ハマムこそ聖書のソドムの地と比定されることになれば令和のシュリーマンと称賛されるだろう。
でも聖書の記述の元となった歴史的事象がみつかったとしても、聖書の内容(ex.創造説)が真実だということにはならないよね。
まず、自分は「児相・弁護士会ルートでの一時保護専用施設や児童養護施設の受入対象ではなく(あるいは馴染めず)、DVシェルターに親と一緒に入所できる対象でもないが、家庭内で虐待を受け、孤立している子」については、性別を問わず広く受け皿が整備され、より多くの対象者が保護・救済されたらいいなと思っています。
その受け皿のひとつである子どもシェルターは、まいと@虐待どっとネットさんのおっしゃる通り、女性用子どもシェルターが主で(といっても絶対数自体が非常に少ないですが)、男性が入れる子どもシェルター(両性用・男性用)は非常に少ない状況だと思います。
一方で、そうした男性対象者の受け皿としては、歴史的には自立援助ホームが中心的な役割を果たしてきたと思います。主な対象者は20歳未満と子どもシェルターの中心的保護対象とほぼ同じで、都市部にも地方にも多数存在し(子どもシェルターの約10倍)、男性・女性の定員は全国で450人程度でほぼ同数です。http://zenjienkyou.jp/%E8%87%AA%E7%AB%8B%E6%8F%B4%E5%8A%A9%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0%E4%B8%80%E8%A6%A7/ (法的には、子どもシェルターも自立援助ホームの一種として公費支給されているそうです)
ご指摘の「カリヨン子どもセンター」では、「カリヨン子どもの家ボーイズ」と男性用自立援助ホームの「とびらの家」が併設されていますが、他の子どもシェルター運営団体では、シェルターは女性のみ受け入れつつ、自立援助ホームでは男性または両性をケアしているところもあります。例えば「ピピオ子どもセンター」は、子どもシェルターは女性用で、自立援助ホームは男性用です。「子どもシェルターモモ」は、子どもシェルターは女性用で、自立援助ホームは男性・女性それぞれの施設があります。
こうした性別によるケア体制の差は、ひとつには「女性より男性のほうが、20歳以下でもそこそこの収入を得て自立できる仕事があった」という歴史的事情もあるのかもしれません。男性は未成年でも「自分で働いて稼いで暮らしていく」というルートに早期から乗せやすいから、(入所中に一定の費用負担がある)自立援助ホームを中心に「孤立や虐待で家庭にいられなくなった子」を救済してきたように思います。一方で女性の場合は、この年齢で自立生活できるだけの収入のある仕事が相対的に少なく(あってもいわゆる夜職が中心)、最初から自費負担しながら自立援助ホームに入るというコースが取りにくいことから、先行する配偶者DVシェルターの枠組を一部援用する形で、自費負担のない「女性用子どもシェルター」という救済枠組が整備されていったように思います。カリヨン運営の方もこのような認識は持たれているようです。
社会福祉法人カリヨン子どもセンター事務局長の石井花梨氏は,「男の子の場合は,いわゆる『ガテン系』(肉体労働)の仕事があるので,特に若いうちは日給で働いても,割と安定的な収入を得られます。しかし女の子は,どうしても飲食系の仕事が多く,特に今はほんとうにアルバイトしかないので,よほど頑張らないと,アパートで独り暮らしするところまで,なかなかいけません。そこで頑張れなくなったときには,性産業に走ってしまう。そのことも含めて私たちは性被害だと思っています」
もうひとつ、これは個人的印象によるところが大ですけど、DV加害者である親側の「子に対する執着」の傾向には子の性別による違いがあり、親の家を出た18〜20歳の子は、男性の場合は親側には子を奪還しようとする意思がより弱く、女性の場合は親側の奪還意思がより強いため、現場では配偶者DVシェルターと同じように保護対象のセキュリティを重視し、運営場所を秘匿して運営される「女性用子どもシェルター」のニーズが強く認識され、提供されるようになったのではないかと思います。
最後に、物理的事情もあると思います。子どもシェルターも自立援助ホームも一軒家を借り上げて定員6人前後で運営するパターンが多いため、団体のキャパシティが小さければ男性は自立援助ホームでケアし、大きければ男性向けもシェルターと自立援助ホームを分けて、入所者のステージと課題の変化に対応したケアを提供しているように感じます。東京拠点でキャパシティも大きいカリヨンは、男性対象者の支援を2ステップに分け、緊急・短期支援段階は「ボーイズ」で、生活構築段階では「とびらの家」でと切り分けているように思いました。
(なお、まいとさんの場合、児相ルートの児童養護施設と自立援助ホームどちらにも入所を検討されたものの、精神的不調がある、精神科への受診歴があるという理由で入所できず、不幸にもこれらの受け皿の両方にアクセスできなかったとのことでした。https://readyfor.jp/projects/gyakutaiN_first これは確かに制度の欠陥であり、改善されるべきだと思います)
こういう事情もあって、「虐待に遭う男児・女児は同数なのだから、子どもシェルターも同数あるべきだ」という一部の論旨には、自分は首肯しかねます。一方で自分が「それと別に男性専用シェルターが必要かと言われると、自分はその当事者ニーズをあまり認知してない」と書いたのは、多くが女性スタッフで運営されている女性用子どもシェルターの対照物として「男性スタッフによって運営され、男性のみが入所することで『セキュアな空間』を提供できるシェルター」が当事者に求められている、という感覚があまりなかったからなのですが、ここについては、振り返ってみると、自分も勝手に「対照的存在としての」という(元の文脈にはない)読み込みをしており、反省しています。「児童福祉法の保護対象から外れた未成年のDV被害」という要素に対して、多くの自立援助ホームの枠組では最重視されていない種類のケアを男性向けにも提供できるなら、それが当事者にとって「よりよい」ことなのは間違いないです。そういう観点にもとづいて既存の男性用自立援助ホームの機能強化・支援強化を図ること、あるいは自立援助ホームとは別に男性が入所可能な子どもシェルターを作ることは、どちらも賛成します。
一方で、男性用子どもシェルターが希少なことで、あたかも家庭で虐待を受けている男性当事者を保護する仕組みが全く存在しないかのような印象を持たれている方々が批判者・擁護者の両方に見受けられるのは、それはそれで実態と乖離しているとも思います(nero氏のまとめだけを読んだら、そう思う方は多い気がしますが)。児相の一時保護所・子どもシェルター・自立援助ホーム・DVシェルターの随伴入所など、相互に補完しあう分散的な児童福祉セーフティネットが現にあることを前提に、どうやってこのセーフティネットを「より漏れや隙間がなく、きめ細やかな仕組み」に整えていけばいいか、という観点で話をしていくのが良いように思いました。
個人的に、その参考になるのが更正保護関連の仕組みだと思っています。保護司制度、更生保護施設、自立準備ホーム(自立援助ホームとは別)など法的根拠を持った救済基盤が整備されていて、就労支援事業者機構という組織を中心に官民連携も密になされており、企業会員の寄付や協力雇用主会員をベースにした生態系を作っています(地方の大手企業の役員などが機構メンバーになって、中小企業相手にこまめに案内・勧誘したりしています)。制度化によって硬直化してる面も感じなくはないですが、こういう、金の出処も確保した官民連携が更正保護以外の分野にも拡大されていったらいいなと思います。
ここまで書いて思ったんですが、もしかしたら、2022年4月からの成年年齢の引き下げによって、「制度の狭間」(民法上の親権下にあるが、児童福祉法の保護対象ではない)となる18〜20歳の救済を中心に構築されてきた子どもシェルターの性格は、今後は大きく変わって行くのかもしれないなと思いました。児童福祉法の定める保護年齢と成年年齢が一致したことで、結果的に制度の隙間が解消され、「個別入所者にコタン弁護士がついて、親権者との調整を図る」という子どもシェルター独特の法的支援要素が不要になるわけです。今後は子どもシェルターは自立援助ホームと再融合していくのかもしれませんし、よりDV被害のケアを焦点化した支援組織になっていくのかもしれません。そのあたりは両方を運営している団体の方々がどう考えているのか知りたいなと思いました。
ブコメにもちょっと書いたけど、物理学的なところだけ見て考えられそうなことを書いてみるな。
最初に結論を言うと、「もし時間が戻ったら、歴史は同じことを繰り返すか?」と答えは「繰り返す」だろうと思う。量子力学によれば世界は確率的に決まるのだから、そんなことはない、と思うかもしれないが聞いてくれ。あと、「歴史が変わるタイプの時間の戻し方」の説明もする。
そもそも、時間というのは物理学的には一つの「次元」である。縦、横、高さと同じようなもので、我々は実は四次元空間にいるんである。そして、静止する我々は光の速さ(比喩ではなく)で時間次元方向に進んでいる。で、我々の速度はいつでも光の速さで一定。なので、もし縦方向に光の速さの半分で進めばその分時間方向の速度が遅くなる(時間の流れが遅くなる)という相対性理論的不思議現象が起きるのである。
ここで時間の次元を我々にとっての空間の次元のように観察することができる上位存在を仮定しよう。その存在からは世界が時間方向にぶっ飛んでいるように見えるわけだが、その存在がなんらかの力で我々の世界を時間軸方向に動かしたとするとどうなるか?我々の世界で起きた色々な歴史的事象は、「それが未来に起きるポテンシャル状態」に回帰することになる。が、あくまで上位存在からすれば、一つの次元方向に動かしただけなので量子力学的な確率分布の収束が変化する理由がない。我々が空間的に一旦別の場所に置いてから元の位置に戻した時、空間次元の観点からは本質的な変化が一切ないのと同じだ。この場合、歴史は変化しないことになる。
一方で、「時間が戻る」というのが、今この瞬間の宇宙を一旦分解して、例えば1000年前の宇宙と寸分たがわぬ宇宙に再構築する(量子テレポーテーションのようなイメージで、量子レベルで全く同一の宇宙を作る)、もしくは寸分たがわぬ別の宇宙を新しく作る。としたら話は変わる。上述の上位存在的にも、時間次元方向に動いていた世界が突然姿を変えるだけ(新しく生まれるだけ)である。そうすると、今度はそこから時間次元で先に進んだときに、確率分布が前回と同じところに収束する理由がない。なので、こんどは逆にありとあらゆる量子力学的事象が異なる収束先に収束するようになるわけだ(偶然同じところに収束することもあるだろうが)。
こっちのほうが元増田的にはロマンがある「時間の巻き戻し」だと思う。
ちなみに、量子力学的な現象はナノメートルオーダーのミクロでしか起きないので、「歴史を変えるほどの変化が歴史に起きるの?」という疑問を持つ人もいるかもだけど、これは「十分ある」。量子力学が日常スケールに影響を与える簡単な例の一つが、放射性物質の崩壊だ。放射性の原子一個がどのタイミングで崩壊するのかは量子力学的事象なのだけど、その結果出てくる放射線は日常スケールにも影響を与えうるんだよね。つまり、アレキサンダー大王の体内の自然由来の放射性物質が、偶然アレキサンダー大王を癌で早死させるタイミングで放射線を出した結果、アジアとヨーロッパの交流が格段に少ない歴史を歩んだ21世紀が来る可能性も全然あるわけ。早死するのがアレキサンダーでもカエサルでもヒトラーでも良いし、今の歴史で無名の誰かが癌死を免れて長生きした結果歴史が変わるのでも良いんだけどね。そういう現象自体はレアだけど、全人類、全動物で起きるその手のイベントがカオティックに影響し合うので、再構築から100年もすればなかり違う歴史になるんじゃないかなって個人的には思う。
LGBTQ+の権利の拡大が叫ばれている。
そのうち、特にトランスジェンダーの権利の拡大が行われるたび、これはどこまで続くのだろうと、少しの恐怖もある。
なぜ怖いのか、書きながら正直な気持ちを整理してみた。
まず、そもそもこの分野の言説では、男女を区分けする意味が雑すぎて、混乱が生じてる部分が多そう。
私の意識では、性自認、アイデンティティの部分だと本人が言ってることが正。意識の領域だから、意識が出してる答えが正。
でも例えば、スポーツで男性部門に出るか女性部門に出るかとかの問題だと、このホルモン値だったらとか、体に影響する治療をしてるのかとか、社会としてガイドラインを整備した上で、医師が判断するなどがよいのではないか。
身体は完全に生物学的にXYなのに、アイデンティティにあわせてXXの競技に出たら、筋肉量が少なかったりなどXXの選手にとってすごく不利になってしまうので、なぜ分けているのかの理由を考えてそれにあわせて対応する必要がある。
それと同時に男性部門、女性部門っていう呼び方をやめるとか、トランス当事者に苦痛の少ない方法を模索していく必要がある。
他にも例えば地震が来て避難所でナプキンを配る数を知りたいから男女どちらですか?って確認してるのに性自認で答えてたら双方困るよね。
不要な人に渡すのは物資がもったいないし、逆に性自認が男性でも身体に生理が来るならその人はナプキン要るでしょ。
だからここでもそもそも男性女性という区別/質問の方法がふさわしくないという話なんだけど。
そう、男性ですか女性ですかという区分けは雑だし、伝統的だからステレオタイプ的でもある。
これまでの男女どちらかの区分けでは対応できないことが社会的に認知されだしていて、2区分だけでは絶対足りない。どっちに押し込んでも潰される人は出る。
私としては、トランス女性は女性だし、トランス男性は男性だと思う。
その考えに従うと、今後は「女性」や「男性」という言葉の中に、身体的な特徴がXXの人、XYの人、どちらも含まれる。女性にも男性にもバリエーションが存在する。
だから、雑に男女で分けてればOKだった時代はもう終わったから、より明確に何のためにここでの区別は存在しているのか、という目的を改めて考えて、明示する必要があると思う。
個人的に一番気になるのは、自分の生活に影響してくる部分である、トイレや浴場での区分けで、安全を重視して考えたときに今後も残る区分だろう。
歴史的に男性から女性への加害が多かったことを考えると、ここで一番多数の人の安全を守れる可能性が高い基準というと、身体の持っている特徴がXXかXYか、というところに依らざるを得ないのではないか。
私は女性だが、相手の性自認に関わらず、ペニスがある人と同じ場所で着替えたりしたくない。
ペニスがはえていなければ、相手の自認が「男」でも構わない(というか、気付きようがない)。相手がこちらを性的に見ているかどうかも関係ない。伝統的な女性(身体がXXの特徴だった人)の中にもレズビアンやバイセクシュアルの人はいたわけだし。
平均的にXXはXYより力が弱く、膣に強引に挿入される形での性被害を受けやすい。
誰かの身体がXXあるいはXYであるとき、本人がその事実に苦しんでいたとしても、それを反対のようにみなすことはできない。意識上の自認が違うということは理解はできる。けれども、現にここに存在している身体、ペニスあるいは膣のついた(もちろんどちらにもあてはまらないあるいは両方である人もいるが)身体の、現実の特徴を無視することはできない。
性自認のみで考えろというのであれば、その要求は安全を考えたときに行き過ぎだ。
安全を譲歩することは、できない。
ルール変更によって加害を受ける可能性が高くなることが受け入れがたいのだ。
ペニスのついた体の人も「女子更衣室」を使ってOKです、となったときに、性自認しか基準がないと、それがトランス当事者なのか、トランス当事者を装った性犯罪者なのか、他人が容易に判断できない。加害の可能性にさらされ、その上不安を訴えれば自分が「差別者」になるのではないかという葛藤まで負わされる。不当だ。
公共のスペースで判断基準を設けるなら、他人が判断できるもの、つまり自認以外のものであるべきだ。
だから、そもそもの男性女性という区分けをやめ、ペニスがはえてるかはえてないかとかの事実でしかない区分けに変更するとかはしてもいいと思うが、自認が女性だから、(これまでの意味での)「女性用スペース」に入っていいとかにはしないでほしい。
でも、トランス当事者を含め女性にも男性にもバリエーションがあって、そのすべてのバリエーションを同じには扱えない。
トランス当事者の権利は拡張されるべきだ。例えばトランスジェンダーであることを理由に就職で差別される、容姿
を揶揄されるなどはあってはならない。
でも、次に主張される権利は私の安全を脅かすものではないか?その恐怖が頭をよぎり、手放しで応援できない。
男女の2区分では対応しきれないことは明らかなのだから、これまでの区分で言う男性用/女性用スペースに入る権利を拡張していくのではなくて、そもそも男女の区分でなくてもよいのでは、という見直しも含めた形で、苦痛の少ない社会を目指していければいいのに。
いま話題になっているニュースの一つに「3600年前に滅んだ町の遺跡が、聖書に書かれているソドムとゴモラのモデルになったのではないか」というものがある。
これの真偽はさておき、聖書と考古学を結びつけて、考古学的に聖書の内容を考えようという学問に「聖書考古学」というものがある。
聖書考古学のテーマとして、ノアの方舟やエデンの園、バベルの塔の実在性などが挙げられる。
日本ではこの聖書考古学に関する情報は驚くほど少なく、マイナーだ。
というのも、日本において聖書考古学を研究している大学はとても少ない。本格的に研究しているのは一部のキリスト教系大学だけなのだ。
日本人として聖書考古学(とその問題点)を直感的に理解するのはとてもむずかしい。なぜならばキリスト教系の価値観の土台と歴史があって、やっと感覚的に理解できることだからだ。
さて、例えばアダムとイブの起源やノアの方舟の実在性などと言った話題は、われわれ日本人からすればなんだかすごくワクワクするものだ。
本当かどうかはわからないが、大昔に似たようなことがあって聖書に書かれて……という経緯があったならわかりやすいし、ファンタジーが現実と繋がった感覚がしてとても感じが良い。
しかし、アメリカやヨーロッパといったキリスト教が深く根付いた(そして克服してきた)国家からすれば、聖書と現実が地続きであるというぼんやりとした感覚は、日本より実際的な問題となっている。
というのも、あちらでは数百年前までは「聖書は単なる神話であり、現実ではない」という主張をするだけで異端と認定され、ガチで殺されたり、社会的に抹殺されることが普通にあり得たからだ。
今日では、流石に聖書がまるまる真実だと信じている層は少なくなってきてはいるが、その余波は残っている。
例えば聖書では、神は自分の姿に似せて人間を作ったとされている。それなので、人間が徐々に進化して今の形となったという進化論は、今でもあちらでは反発が強い。
ということで、宗教と科学の分離というものは、日本ではあまり逼迫的な問題ではないが、あちらではより実際的な問題なのだ。実際にキリスト教が科学を圧迫してきた時代があることは、言うまでもない。
聖書考古学はその性質上、研究に従事する研究者のほとんどはキリスト教徒となっている。
そこで思うのは、「聖書考古学は科学的なのだろうか?」という疑問だ。聖書は歴史的に正しい事実だ、という前提で聖書を証明するために研究を行うのは科学的態度とはいえない。
実際のところ、聖書考古学はこういった懸念から、主流の考古学からは「宗教的な動機から生まれる擬似科学」としてみなされることが少なくなかった。
そこでアメリカやイスラエルを巻き込んだかなりデカいドタバタ騒動(これはメチャクチャ長くなるので書くのはやめる)があった後、やはり宗教的な前提を持ち込むのはやめて、より科学的なアプローチで取り組もう、となったのが現在の聖書考古学となる。
だがやはり、キリスト教も一枚岩ではない。より原理主義的な団体もたくさんある。そういったところが、「聖書を正しいと証明するために、科学的な態度を装って」聖書考古学を利用するというケースは今でも多々見られるのだ。
もちろん、冒頭の研究については調べていないのでよくわからないが、「聖書」と「考古学」という単語が繋がって出てきた場合、少し立ち止まって考えてみてほしい。
よく「(若者は特に)政治にに強い関心を持ちなさい」言うけれど、政治に強い関心を持つほど無力感を覚える。
特定の政治団体を非難しているわけではない。もっと根本的に、政治は世の中を良くする力を持っていないように思える。
半分は正しくて、半分は嘘だ。
「選挙に行く」というのは民主主義国家としての体裁を保つための国民の義務として正しい。
「社会を良くするために」が嘘。
特に政治的思想の無い無投票派が加わったところで票の分布は変わらない。
それはきっと「政治に関心を持て」派の人も分かっているようで、
「選挙に行け」の後には決まって「A党はこういう不祥事をもみ消している」だとか、
「B党は財源を無視した政策だ」など、投票先を誘導するような主張がついている。
つまり無投票派を自分の味方にするために「政治に関心を持て」と主張している。
ではなぜ政治に対して関心を持つ人がいるのか。
それは政治が自分事で、政治が良くなれば自分が幸福になれると信じているからだ。
それは本当だろうか?
まず「政治を良くしたい」人は今の政治は良くないと思っている。
満足をしている人は良くしたいとは思わないからだ。
今の政治の不甲斐なさを見て、ストレスを貯め、政治の啓蒙活動に励んでいる。
現在の日本は民主主義の形式をとっているため現在の政治は多数決によって選ばれている。
1.バッドエンド 愚かな大衆は間違えに気づかない
たいていはこれ。個人が路上やSNSで行う啓蒙などこの程度なのだ。
これを見た「政治に関心のある人」はありえない、と思うだろう。
これが一番起こりにくい。
少数派である自分の思想が変わらないのに大衆をひっくり返すのはさらに困難になる。
自分の大衆も同じ人間だ。大衆だけ愚かで簡単に思想が変わると思うのは傲慢だ。
大衆を愚かだと嘆きつつ、ストレスを貯めて生きていくしかない。
これでは幸せになれない。パンとサーカスを楽しんだ方が幸福である。
項番2を見て「格差や貧困は政治でしか救われない。幸福ではなく正しさのために政治に関心を持て」と言われるだろう。
ではそもそも政治に社会を良くする機能があるのかを考えていく。
よく野党は「国会を開いて議論をするべき」と主張するが、国会で議論は可能だろうか。
間接民主制はマニフェストを国民に提示し、賛成を得た議員が国会に集まる。
よって国会に集まっている時点で意見は固まっていて、変更はできない。
仮に議員が論破されて納得したとしても、意見を変えることはマニフェストを指示した国民を騙すことになる。
だから自由な議論は選挙前に国民向けのパフォーマンスとしてしか存在しない。
国会が議論の場でないからスキャンダル晒しや野次でパフォーマンスする場になっている。
ワクチンを打つか打たないかを決めるのは政治だが、打つと決めたらあとは仕事と技術の問題だ。
ワクチンが足りなかったりアプリの不具合だったりは政治的問題ではなく、単純に仕事ができるかできないかだ。
選挙のマニフェストでは仕事ができるかは分からないし(面接をしたって無能を採用することはある)、
だから政治的にどれだけ議論をしたところで解決する問題ではない。
戦争や革命直後(全員貧しくなる)以外で歴史的に格差や貧困を解消した国家があれば教えて欲しい。
ならば政治は富をどう再分配するかという話になるが、
金銭的な富を再分配しても今度は社会的地位、労働環境、容姿などで格差が生まれ、不平不満は生まれる。
「生まれながらに顔が良いから恵まれている」「男だから体力的に有利」なんて問題は完全に富を再分配しても起こる。
では部分的な富の再分配はというと、生活保護など現状も存在する。
じゃあ金持ちからもっと税を取って国民に分け与えればいいというのはもっともだが、
結果的に金持ちが国外に移住して税収が減り、再分配するための富がなくなる。
これを防ぐためには全世界の税率を共通にする必要があるが、それは世界征服でもしない限り不可能だ。
完全無欠な政治思想が存在しない以上、何かしら不満は生まれるものだ。
だったら「政治に関心を持」って啓蒙活動を行ってSNSや路上で騒ぐより、
貧しいものはそのハンデを覆すことが出来ない。
固定階級となり流動性がなくなる社会へと変化しつつあるのではないかという観測だ。
確かにそのような傾向はあるのだと思う。
とくに大きな戦争であるとか極端に社会が不安定になって革命的な出来事が起こらない
しかし、かつての階級社会のような完全な固定化には進むことはないと考えられる。
これは歴史的事象として古代ローマ帝国の継承者となったフランク王国が比較的に短期のうちに
その巨大な権力は分割されて強権を維持することが出来ずに
現在の欧州の国家の原型へと解体されたいったことでも理解できる。
が維持されている場合には階級社会への移行は難しいのではないかと思う。
と、いってそのような社会が絶対的に続くのかと問われればその保証はない。
そのことに気づいた国家が制度を大きく変えて長子相続制などを取れば
その国家の経済は非常に強力となりそのことでその国家が強力になり
FGOが中国からの検閲を受けて一部のキャラクターを変えたとかで話題になってたからまた毒を吐く理由を見つけた。マジで歴史的に実在した人物を名前はそのままにして性的消費にしか見えない美少女化するのはやめた方がいい。歴史的に活躍した物の美少女化は許せるけど、実在した人物や世界的に有名な伝説や創作物などを利用して金儲けするならエロゲみたいな格好のキャラデザインでブランドを広めるのは嫌悪しか湧かない。FGOはエロゲだという主張も見かけたけど、それなら年齢制限を18歳以上に上げろ。FGOはアダルトゲームの枠を超えて色んな場所でファンアートが目につく。大抵は際どい格好で美少女化された歴史的に有名な人物たちのイラストだ。FGOが実在した人物たちの威厳を金儲けのために利用している訳ではないと言いたいなら、ヒトラーや毛沢東など現在でも物議を醸す悪評高い歴史的人物をロリか巨乳美少女化でもして宣伝するガッツを見せろ。そうしたら少しは見直すかもしれない。
http://tsigeto.info/2001/writing/aoyagi2.pdf
村上( 1987:III117-120)は、例としてヨーロッパの支配階級における服装の変遷を挙げ
ている。男性の装飾は上半身、女性の装飾は下半身に集中するという対照的な歴史的傾向
が見られるのだ。男性は上半身は着膨れしても、足はぴったりした股引で活動性を保った。
女性の場合は、男性の欲望を満たすため飾るのだから、細いウエストと大きなスカートと
いう非常に動きにくい服であっても受け入れざるをえなかった。村上は明示していないが、
小川(1981:243-244)によれば、この対照的な服装の傾向は西欧中世後半(15 世紀)か
ら近世(19 世紀中期)にかけて顕著だったという。
一方、駒尺(1985:198-206)は現代のスカートの特徴を通して男性優位社会を分析し
ている。第一にスカートは無防備で動きにくい。これは服従の表示であり、媚態・誘いの
表示でもある。第二にロングスカート以外は露出性が高い。「女の足=見せ物」という(男
性の)意識が社会一般に広がっているためである。つまり、女性はスカートを通して貞節
と煽情性という相反するものを男性から求められているという。ヨーロッパにおいて男性
つまり、「スカートを好んで穿く女性」というのは男性の都合の良い妄想でしかなく、それを主張する女性は名誉男性だけ。
https://www.newsweekjapan.jp/reizei/2010/11/post-223.php
世界には多くの異なった価値観があって、強めの価値観から見ると日本では「当たり前」のことが全く別の評価になる、そのことに気づいていないというのも問題です。例えば、女性が動きづらい「十二単」は、現代の価値観からは「コルセットや纏足」と同列の女性蔑視に見えてしまいます。
これは私の中学時代の恩師(女性)から教わったことなのでソースはないが、「十二単」や、「髪の長い女性が美しい」という価値観は、「コルセットや纏足」と同様に女性を支配する構造であったとの見方があるらしい。
つまり、「好んで髪を伸ばす女性」というのは男性の都合の良い妄想でしかなく、それを主張する女性は名誉男性だけ。
あーバカバカしい。
あ、「そういう見方がある」ことそれ自体は興味深いと思うので、その辺の議論すら否定したがる一部反フェミの反知性的な側面に味方する気はないので悪しからず。
https://anond.hatelabo.jp/20180225105423
・『差別』は機械的に判定できる(現時点で、ある集団と別の集団が、全く相似の状態でなければ即ちこの状態を『差別』とする)
・『差別』は歴史的な文脈を伴う社会現象である(過去から現在に至るまでの歴史的事実を元に、権力構造の偏在を認めるものを『差別』という)
この2つの『差別』観が全く食い違っていることが、議論が平行線上に終わっていることの理由だよね。
元増田は明らかに前者(差別の機械的判定)の立場をとっていて、
その上で、「良い(許容できる)差別」と「悪い(許容できない)差別」は区別できる、という論をとっている訳だよね。社会的文脈を入れるポイントが違う。
つまり元増田は『差別』という言葉の定義から、社会的・歴史的文脈を切り離そうとする思想を(自覚的かどうかは分からないけれど)拡大しようとしてると言えるよね。
これは一見価値判断のタイミングが違うだけで同じことのように見えるけど、
元増田の『差別』観に基づけば、例えばかつて日本で女子の教育や就職機会が制限されていたことについて、その当時は概ね「良い差別」と考えられていた(異論はあったかもしれない)ことと、
現在の女性専用車両のような暫定的アファーマティブな措置については、