はてなキーワード: ギルバートとは
僕は上海シャンハイだって何べんも知ってるよ。」みんなが丘へのぼったとき又三郎がいきなりマントをぎらっとさせてそこらの草へ橙だいだいや青の光を落しながら出て来てそれから指をひろげてみんなの前に突つき出して云いました。
「上海と東京は僕たちの仲間なら誰たれでもみんな通りたがるんだ。どうしてか知ってるかい。」
又三郎はまっ黒な眼を少し意地わるそうにくりくりさせながらみんなを見まわしました。けれども上海と東京ということは一郎も誰も何のことかわかりませんでしたからお互たがいしばらく顔を見合せてだまっていましたら又三郎がもう大得意でにやにや笑いながら言ったのです。
「僕たちの仲間はみんな上海と東京を通りたがるよ。どうしてって東京には日本の中央気象台があるし上海には支那の中華ちゅうか大気象台があるだろう。どっちだって偉えらい人がたくさん居るんだ。本当は気象台の上をかけるときは僕たちはみんな急ぎたがるんだ。どうしてって風力計がくるくるくるくる廻まわっていて僕たちのレコードはちゃんと下の機械に出て新聞にも載のるんだろう。誰だっていいレコードを作りたいからそれはどうしても急ぐんだよ。けれども僕たちの方のきめでは気象台や測候所の近くへ来たからって俄にわかに急いだりすることは大へん卑怯ひきょうなことにされてあるんだ。お前たちだってきっとそうだろう、試験の時ばかりむやみに勉強したりするのはいけないことになってるだろう。だから僕たちも急ぎたくたってわざと急がないんだ。そのかわりほんとうに一生けん命かけてる最中に気象台へ通りかかるときはうれしいねえ、風力計をまるでのぼせるくらいにまわしてピーッとかけぬけるだろう、胸もすっとなるんだ。面白おもしろかったねえ、一昨年だったけれど六月ころ僕丁度上海に居たんだ。昼の間には海から陸へ移って行き夜には陸から海へ行ってたねえ、大抵朝は十時頃ごろ海から陸の方へかけぬけるようになっていたんだがそのときはいつでも、うまい工合ぐあいに気象台を通るようになるんだ。すると気象台の風力計や風信器や置いてある屋根の上のやぐらにいつでも一人の支那人の理学博士と子供の助手とが立っているんだ。
博士はだまっていたが子供の助手はいつでも何か言っているんだ。そいつは頭をくりくりの芥子坊主けしぼうずにしてね、着物だって袖そでの広い支那服だろう、沓くつもはいてるねえ、大へんかあいらしいんだよ、一番はじめの日僕がそこを通ったら斯こう言っていた。
『これはきっと颶風ぐふうですね。ずぶんひどい風ですね。』
『家が飛ばないじゃないか。』
『だって向うの三角旗や何かぱたぱた云ってます。』というんだ。博士は笑って相手にしないで壇だんを下りて行くねえ、子供の助手は少し悄気しょげながら手を拱こまねいてあとから恭々しくついて行く。
僕はそのとき二・五米メートルというレコードを風力計にのこして笑って行ってしまったんだ。
次の日も九時頃僕は海の霧きりの中で眼がさめてそれから霧がだんだん融とけて空が青くなりお日さまが黄金きんのばらのようにかがやき出したころそろそろ陸の方へ向ったんだ。これは仕方ないんだよ、お日さんさえ出たらきっともう僕たちは陸の方へ行かなけぁならないようになるんだ、僕はだんだん岸へよって鴎かもめが白い蓮華れんげの花のように波に浮うかんでいるのも見たし、また沢山のジャンクの黄いろの帆ほや白く塗ぬられた蒸気船の舷げんを通ったりなんかして昨日の気象台に通りかかると僕はもう遠くからあの風力計のくるくるくるくる廻るのを見て胸が踊おどるんだ。すっとかけぬけただろう。レコードが一秒五米と出たねえ、そのとき下を見ると昨日の博士と子供の助手とが今日も出て居て子供の助手がやっぱり云っているんだ。
『この風はたしかに颶風ぐふうですね。』
『瓦かわらも石も舞まい上らんじゃないか。』と答えながらもう壇を下りかかるんだ。子供の助手はまるで一生けん命になって
『だって木の枝えだが動いてますよ。』と云うんだ。それでも博士はまるで相手にしないねえ、僕もその時はもう気象台をずうっとはなれてしまってあとどうなったか知らない。
そしてその日はずうっと西の方の瀬戸物の塔とうのあるあたりまで行ってぶらぶらし、その晩十七夜のお月さまの出るころ海へ戻もどって睡ったんだ。
ところがその次の日もなんだ。その次の日僕がまた海からやって来てほくほくしながらもう大分の早足で気象台を通りかかったらやっぱり博士と助手が二人出ていた。
『こいつはもう本とうの暴風ですね、』又またあの子供の助手が尤もっともらしい顔つきで腕うでを拱いてそう云っているだろう。博士はやっぱり鼻であしらうといった風で
『だって木が根こぎにならんじゃないか。』と云うんだ。子供はまるで顔をまっ赤にして
『それでもどの木もみんなぐらぐらしてますよ。』と云うんだ。その時僕はもうあとを見なかった。なぜってその日のレコードは八米だからね、そんなに気象台の所にばかり永くとまっているわけには行かなかったんだ。そしてその次の日だよ、やっぱり僕は海へ帰っていたんだ。そして丁度八時ころから雲も一ぱいにやって来て波も高かった。僕はこの時はもう両手をひろげ叫び声をあげて気象台を通った。やっぱり二人とも出ていたねえ、子供は高い処ところなもんだからもうぶるぶる顫ふるえて手すりにとりついているんだ。雨も幾いくつぶか落ちたよ。そんなにこわそうにしながらまた斯う云っているんだ。
『これは本当の暴風ですね、林ががあがあ云ってますよ、枝も折れてますよ。』
ところが博士は落ちついてからだを少しまげながら海の方へ手をかざして云ったねえ
『うん、けれどもまだ暴風というわけじゃないな。もう降りよう。』僕はその語ことばをきれぎれに聴ききながらそこをはなれたんだそれからもうかけてかけて林を通るときは木をみんな狂人きょうじんのようにゆすぶらせ丘を通るときは草も花もめっちゃめちゃにたたきつけたんだ、そしてその夕方までに上海シャンハイから八十里も南西の方の山の中に行ったんだ。そして少し疲つかれたのでみんなとわかれてやすんでいたらその晩また僕たちは上海から北の方の海へ抜ぬけて今度はもうまっすぐにこっちの方までやって来るということになったんだ。そいつは低気圧だよ、あいつに従ついて行くことになったんだ。さあ僕はその晩中あしたもう一ぺん上海の気象台を通りたいといくら考えたか知れやしない。ところがうまいこと通ったんだ。そして僕は遠くから風力計の椀わんがまるで眼にも見えない位速くまわっているのを見、又あの支那人の博士が黄いろなレーンコートを着子供の助手が黒い合羽かっぱを着てやぐらの上に立って一生けん命空を見あげているのを見た。さあ僕はもう笛ふえのように鳴りいなずまのように飛んで
『今日は暴風ですよ、そら、暴風ですよ。今日は。さよなら。』と叫びながら通ったんだ。もう子供の助手が何を云ったかただその小さな口がぴくっとまがったのを見ただけ少しも僕にはわからなかった。
そうだ、そのときは僕は海をぐんぐんわたってこっちへ来たけれども来る途中とちゅうでだんだんかけるのをやめてそれから丁度五日目にここも通ったよ。その前の日はあの水沢の臨時緯度いど観測所も通った。あすこは僕たちの日本では東京の次に通りたがる所なんだよ。なぜってあすこを通るとレコードでも何でもみな外国の方まで知れるようになることがあるからなんだ。あすこを通った日は丁度お天気だったけれど、そうそう、その時は丁度日本では入梅にゅうばいだったんだ、僕は観測所へ来てしばらくある建物の屋根の上にやすんでいたねえ、やすんで居たって本当は少しとろとろ睡ったんだ。すると俄かに下で
『大丈夫です、すっかり乾かわきましたから。』と云う声がするんだろう。見ると木村博士と気象の方の技手ぎてとがラケットをさげて出て来ていたんだ。木村博士は瘠やせて眼のキョロキョロした人だけれども僕はまあ好きだねえ、それに非常にテニスがうまいんだよ。僕はしばらく見てたねえ、どうしてもその技手の人はかなわない、まるっきり汗あせだらけになってよろよろしているんだ。あんまり僕も気の毒になったから屋根の上からじっとボールの往来をにらめてすきを見て置いてねえ、丁度博士がサーヴをつかったときふうっと飛び出して行って球を横の方へ外そらしてしまったんだ。博士はすぐもう一つの球を打ちこんだねえ。そいつは僕は途中に居て途方もなく遠くへけとばしてやった。
『こんな筈はずはないぞ。』と博士は云ったねえ、僕はもう博士にこれ位云わせれば沢山だと思って観測所をはなれて次の日丁度ここへ来たんだよ。ところでね、僕は少し向うへ行かなくちゃいけないから今日はこれでお別れしよう。さよなら。」
みんなは今日は又三郎ばかりあんまり勝手なことを云ってあんまり勝手に行ってしまったりするもんですから少し変な気もしましたが一所に丘を降りて帰りました。
九月六日
一昨日おとといからだんだん曇って来たそらはとうとうその朝は低い雨雲を下してまるで冬にでも降るようなまっすぐなしずかな雨がやっと穂ほを出した草や青い木の葉にそそぎました。
みんなは傘かさをさしたり小さな簑みのからすきとおるつめたい雫しずくをぽたぽた落したりして学校に来ました。
雨はたびたび霽はれて雲も白く光りましたけれども今日は誰たれもあんまり教室の窓からあの丘の栗くりの木の処を見ませんでした。又三郎などもはじめこそはほんとうにめずらしく奇体きたいだったのですがだんだんなれて見ると割合ありふれたことになってしまってまるで東京からふいに田舎いなかの学校へ移って来た友だちぐらいにしか思われなくなって来たのです。
おひるすぎ授業が済んでからはもう雨はすっかり晴れて小さな蝉せみなどもカンカン鳴きはじめたりしましたけれども誰も今日はあの栗の木の処へ行こうとも云わず一郎も耕一も学校の門の処で「あばえ。」と言ったきり別れてしまいました。
耕一の家は学校から川添かわぞいに十五町ばかり溯のぼった処にありました。耕一の方から来ている子供では一年生の生徒が二人ありましたけれどもそれはもう午前中に帰ってしまっていましたし耕一はかばんと傘を持ってひとりみちを川上の方へ帰って行きました。みちは岩の崖がけになった処の中ごろを通るのでずいぶん度々たびたび山の窪くぼみや谷に添ってまわらなければなりませんでした。ところどころには湧水わきみずもあり、又みちの砂だってまっ白で平らでしたから耕一は今日も足駄あしだをぬいで傘と一緒いっしょにもって歩いて行きました。
まがり角を二つまわってもう学校も見えなくなり前にもうしろにも人は一人も居ず谷の水だけ崖の下で少し濁にごってごうごう鳴るだけ大へんさびしくなりましたので耕一は口笛くちぶえを吹ふきながら少し早足に歩きました。
ところが路みちの一とこに崖からからだをつき出すようにした楢ならや樺かばの木が路に被かぶさったとこがありました。耕一が何気なくその下を通りましたら俄にわかに木がぐらっとゆれてつめたい雫が一ぺんにざっと落ちて来ました。耕一は肩かたからせなかから水へ入ったようになりました。それほどひどく落ちて来たのです。
耕一はその梢こずえをちょっと見あげて少し顔を赤くして笑いながら行き過ぎました。
ところが次の木のトンネルを通るとき又ざっとその雫が落ちて来たのです。今度はもうすっかりからだまで水がしみる位にぬれました。耕一はぎょっとしましたけれどもやっぱり口笛を吹いて歩いて行きました。
ところが間もなく又木のかぶさった処を通るようになりました。それは大へんに今までとはちがって長かったのです。耕一は通る前に一ぺんその青い枝を見あげました。雫は一ぱいにたまって全く今にも落ちそうには見えましたしおまけに二度あることは三度あるとも云うのでしたから少し立ちどまって考えて見ましたけれどもまさか三度が三度とも丁度下を通るときそれが落ちて来るということはないと思って少しびくびくしながらその下を急いで通って行きました。そしたらやっぱり、今度もざあっと雫が落ちて来たのです。耕一はもう少し口がまがって泣くようになって上を見あげました。けれども何とも仕方ありませんでしたから冷たさに一ぺんぶるっとしながらもう少し行きました。すると、又ざあと来たのです。
「誰たれだ。誰だ。」耕一はもうきっと誰かのいたずらだと思ってしばらく上をにらんでいましたがしんとして何の返事もなくただ下の方で川がごうごう鳴るばかりでした。そこで耕一は今度は傘をさして行こうと思って足駄を下におろして傘を開きました。そしたら俄にわかにどうっと風がやって来て傘はぱっと開きあぶなく吹き飛ばされそうになりました、耕一はよろよろしながらしっかり柄えをつかまえていましたらとうとう傘はがりがり風にこわされて開いた蕈きのこのような形になりました。
耕一はとうとう泣き出してしまいました。
すると丁度それと一緒に向うではあはあ笑う声がしたのです。びっくりしてそちらを見ましたらそいつは、そいつは風の又三郎でした。ガラスのマントも雫でいっぱい髪かみの毛もぬれて束たばになり赤い顔からは湯気さえ立てながらはあはあはあはあふいごのように笑っていました。
耕一はあたりがきぃんと鳴るように思ったくらい怒おこってしまいました。
「何なに為すぁ、ひとの傘ぶっかして。」
又三郎はいよいよひどく笑ってまるでそこら中ころげるようにしました。
耕一はもうこらえ切れなくなって持っていた傘をいきなり又三郎に投げつけてそれから泣きながら組み付いて行きました。
すると又三郎はすばやくガラスマントをひろげて飛びあがってしまいました。もうどこへ行ったか見えないのです。
耕一はまだ泣いてそらを見上げました。そしてしばらく口惜くやしさにしくしく泣いていましたがやっとあきらめてその壊こわれた傘も持たずうちへ帰ってしまいました。そして縁側えんがわから入ろうとしてふと見ましたらさっきの傘がひろげて干してあるのです。照井耕一という名もちゃんと書いてありましたし、さっきはなれた処もすっかりくっつききれた糸も外ほかの糸でつないでありました。耕一は縁側に座りながらとうとう笑い出してしまったのです。
九月七日
次の日は雨もすっかり霽れました。日曜日でしたから誰たれも学校に出ませんでした。ただ耕一は昨日又三郎にあんなひどい悪戯いたずらをされましたのでどうしても今日は遭あってうんとひどくいじめてやらなければと思って自分一人でもこわかったもんですから一郎をさそって朝の八時頃ごろからあの草山の栗の木の下に行って待っていました。
すると又三郎の方でもどう云うつもりか大へんに早く丁度九時ころ、丘の横の方から何か非常に考え込んだような風をして鼠ねずみいろのマントをうしろへはねて腕組みをして二人の方へやって来たのでした。さあ、しっかり談判しなくちゃいけないと考えて耕一はどきっとしました。又三郎はたしかに二人の居たのも知っていたようでしたが、わざといかにも考え込んでいるという風で二人の前を知らないふりして通って行こうとしました。
「又三郎、うわぁい。」耕一はいきなりどなりました。又三郎はぎょっとしたようにふり向いて、
「おや、お早う。もう来ていたのかい。どうして今日はこんなに早いんだい。」とたずねました。
「日曜でさ。」一郎が云いました。
「ああ、今日は日曜だったんだね、僕ぼくすっかり忘れていた。そうだ八月三十一日が日曜だったからね、七日目で今日が又日曜なんだね。」
「うん。」一郎はこたえましたが耕一はぷりぷり怒っていました。又三郎が昨日のことなど一言も云わずあんまりそらぞらしいもんですからそれに耕一に何も云われないように又日曜のことなどばかり云うもんですからじっさいしゃくにさわったのです。そこでとうとういきなり叫さけびました。
「うわぁい、又三郎、汝うななどぁ、世界に無くてもいいな。うわぁぃ。」
すると又三郎はずるそうに笑いました。
「やあ、耕一君、お早う。昨日はずいぶん失敬したね。」
耕一は何かもっと別のことを言おうと思いましたがあんまり怒ってしまって考え出すことができませんでしたので又同じように叫びました。
「うわぁい、うわぁいだが、又三郎、うななどぁ世界中に無くてもいいな、うわぁい。」
「昨日は実際失敬したよ。僕雨が降ってあんまり気持ちが悪かったもんだからね。」
又三郎は少し眼めをパチパチさせて気の毒そうに云いましたけれども耕一の怒りは仲々解けませんでした。そして三度同じことを繰り返したのです。
「うわぁい、うななどぁ、無くてもいいな。うわぁい。」
すると又三郎は少し面白おもしろくなったようでした。いつもの通りずるそうに笑って斯こう訊たずねました。
「僕たちが世界中になくてもいいってどう云うんだい。箇条かじょうを立てて云ってごらん。そら。」
耕一は試験のようだしつまらないことになったと思って大へん口惜しかったのですが仕方なくしばらく考えてから答えました。
「それから? それから?」又三郎は面白そうに一足進んで云いました。
「それから? あとはどうだい。」
「家もぶっ壊かさな。」
「砂も飛ばさな。」
「それがら、塔とうも倒さな。」
「アアハハハ、塔は家のうちだい、どうだいまだあるかい。それから? それから?」
「それがら、うう、それがら、」耕一はつまってしまいました。大抵たいていもう云ってしまったのですからいくら考えてももう出ませんでした。
「それから? それから? ええ? それから。」と云うのでした。耕一は顔を赤くしてしばらく考えてからやっと答えました。
すると又三郎は今度こそはまるで飛びあがって笑ってしまいました。笑って笑って笑いました。マントも一緒にひらひら波を立てました。
「そうらごらん、とうとう風車などを云っちゃった。風車なら僕を悪く思っちゃいないんだよ。勿論もちろん時々壊すこともあるけれども廻まわしてやるときの方がずうっと多いんだ。風車ならちっとも僕を悪く思っちゃいないんだ。うそと思ったら聴きいてごらん。お前たちはまるで勝手だねえ、僕たちがちっとばっかしいたずらすることは大業おおぎょうに悪口を云っていいとこはちっとも見ないんだ。それに第一お前のさっきからの数えようがあんまりおかしいや。うう、ううてばかりいたんだろう。おしまいはとうとう風車なんか数えちゃった。ああおかしい。」
又三郎は又泪なみだの出るほど笑いました。
耕一もさっきからあんまり困ったために怒っていたのもだんだん忘れて来ました。そしてつい又三郎と一所にわらいだしてしまったのです。さあ又三郎のよろこんだこと俄かにしゃべりはじめました。
「ね、そら、僕たちのやるいたずらで一番ひどいことは日本ならば稲を倒すことだよ、二百十日から二百二十日ころまで、昔むかしはその頃ほんとうに僕たちはこわがられたよ。なぜってその頃は丁度稲に花のかかるときだろう。その時僕たちにかけられたら花がみんな散ってしまってまるで実にならないだろう、だから前は本当にこわがったんだ、僕たちだってわざとするんじゃない、どうしてもその頃かけなくちゃいかないからかけるんだ、もう三四日たてばきっと又そうなるよ。けれどもいまはもう農業が進んでお前たちの家の近くなどでは二百十日のころになど花の咲いている稲なんか一本もないだろう、大抵もう柔やわらかな実になってるんだ。早い稲はもうよほど硬かたくさえなってるよ、僕らがかけあるいて少し位倒れたってそんなにひどくとりいれが減りはしないんだ。だから結局何でもないさ。それからも一つは木を倒すことだよ。家を倒すなんてそんなことはほんの少しだからね、木を倒すことだよ、これだって悪戯いたずらじゃないんだよ。倒れないようにして置けぁいいんだ。葉の濶ひろい樹なら丈夫じょうぶだよ。僕たちが少しぐらいひどくぶっつかっても仲々倒れやしない。それに林の樹が倒れるなんかそれは林の持主が悪いんだよ。林を伐きるときはね、よく一年中の強い風向を考えてその風下の方からだんだん伐って行くんだよ。林の外側の木は強いけれども中の方の木はせいばかり高くて弱いからよくそんなことも気をつけなけぁいけないんだ。だからまず僕たちのこと悪く云う前によく自分の方に気をつけりゃいいんだよ。海岸ではね、僕たちが波のしぶきを運んで行くとすぐ枯かれるやつも枯れないやつもあるよ。苹果りんごや梨なしやまるめろや胡瓜きゅうりはだめだ、すぐ枯れる、稲や薄荷はっかやだいこんなどはなかなか強い、牧草なども強いねえ。」
又三郎はちょっと話をやめました。耕一もすっかり機嫌きげんを直して云いました。
すると又三郎はすっかり悦よろこびました。
「ああありがとう、お前はほんとうにさっぱりしていい子供だねえ、だから僕はおまえはすきだよ、すきだから昨日もいたずらしたんだ、僕だっていたずらはするけれど、いいことはもっと沢山たくさんするんだよ、そら数えてごらん、僕は松の花でも楊やなぎの花でも草棉くさわたの毛でも運んで行くだろう。稲の花粉かふんだってやっぱり僕らが運ぶんだよ。それから僕が通ると草木はみんな丈夫になるよ。悪い空気も持って行っていい空気も運んで来る。東京の浅草のまるで濁にごった寒天のような空気をうまく太平洋の方へさらって行って日本アルプスのいい空気だって代りに持って行ってやるんだ。もし僕がいなかったら病気も湿気しっけもいくらふえるか知れないんだ。ところで今日はお前たちは僕にあうためにばかりここへ来たのかい。けれども僕は今日は十時半から演習へ出なけぁいけないからもう別れなけぁならないんだ。あした又また来ておくれ。ね。じゃ、さよなら
僕は上海シャンハイだって何べんも知ってるよ。」みんなが丘へのぼったとき又三郎がいきなりマントをぎらっとさせてそこらの草へ橙だいだいや青の光を落しながら出て来てそれから指をひろげてみんなの前に突つき出して云いました。
「上海と東京は僕たちの仲間なら誰たれでもみんな通りたがるんだ。どうしてか知ってるかい。」
又三郎はまっ黒な眼を少し意地わるそうにくりくりさせながらみんなを見まわしました。けれども上海と東京ということは一郎も誰も何のことかわかりませんでしたからお互たがいしばらく顔を見合せてだまっていましたら又三郎がもう大得意でにやにや笑いながら言ったのです。
「僕たちの仲間はみんな上海と東京を通りたがるよ。どうしてって東京には日本の中央気象台があるし上海には支那の中華ちゅうか大気象台があるだろう。どっちだって偉えらい人がたくさん居るんだ。本当は気象台の上をかけるときは僕たちはみんな急ぎたがるんだ。どうしてって風力計がくるくるくるくる廻まわっていて僕たちのレコードはちゃんと下の機械に出て新聞にも載のるんだろう。誰だっていいレコードを作りたいからそれはどうしても急ぐんだよ。けれども僕たちの方のきめでは気象台や測候所の近くへ来たからって俄にわかに急いだりすることは大へん卑怯ひきょうなことにされてあるんだ。お前たちだってきっとそうだろう、試験の時ばかりむやみに勉強したりするのはいけないことになってるだろう。だから僕たちも急ぎたくたってわざと急がないんだ。そのかわりほんとうに一生けん命かけてる最中に気象台へ通りかかるときはうれしいねえ、風力計をまるでのぼせるくらいにまわしてピーッとかけぬけるだろう、胸もすっとなるんだ。面白おもしろかったねえ、一昨年だったけれど六月ころ僕丁度上海に居たんだ。昼の間には海から陸へ移って行き夜には陸から海へ行ってたねえ、大抵朝は十時頃ごろ海から陸の方へかけぬけるようになっていたんだがそのときはいつでも、うまい工合ぐあいに気象台を通るようになるんだ。すると気象台の風力計や風信器や置いてある屋根の上のやぐらにいつでも一人の支那人の理学博士と子供の助手とが立っているんだ。
博士はだまっていたが子供の助手はいつでも何か言っているんだ。そいつは頭をくりくりの芥子坊主けしぼうずにしてね、着物だって袖そでの広い支那服だろう、沓くつもはいてるねえ、大へんかあいらしいんだよ、一番はじめの日僕がそこを通ったら斯こう言っていた。
『これはきっと颶風ぐふうですね。ずぶんひどい風ですね。』
『家が飛ばないじゃないか。』
『だって向うの三角旗や何かぱたぱた云ってます。』というんだ。博士は笑って相手にしないで壇だんを下りて行くねえ、子供の助手は少し悄気しょげながら手を拱こまねいてあとから恭々しくついて行く。
僕はそのとき二・五米メートルというレコードを風力計にのこして笑って行ってしまったんだ。
次の日も九時頃僕は海の霧きりの中で眼がさめてそれから霧がだんだん融とけて空が青くなりお日さまが黄金きんのばらのようにかがやき出したころそろそろ陸の方へ向ったんだ。これは仕方ないんだよ、お日さんさえ出たらきっともう僕たちは陸の方へ行かなけぁならないようになるんだ、僕はだんだん岸へよって鴎かもめが白い蓮華れんげの花のように波に浮うかんでいるのも見たし、また沢山のジャンクの黄いろの帆ほや白く塗ぬられた蒸気船の舷げんを通ったりなんかして昨日の気象台に通りかかると僕はもう遠くからあの風力計のくるくるくるくる廻るのを見て胸が踊おどるんだ。すっとかけぬけただろう。レコードが一秒五米と出たねえ、そのとき下を見ると昨日の博士と子供の助手とが今日も出て居て子供の助手がやっぱり云っているんだ。
『この風はたしかに颶風ぐふうですね。』
『瓦かわらも石も舞まい上らんじゃないか。』と答えながらもう壇を下りかかるんだ。子供の助手はまるで一生けん命になって
『だって木の枝えだが動いてますよ。』と云うんだ。それでも博士はまるで相手にしないねえ、僕もその時はもう気象台をずうっとはなれてしまってあとどうなったか知らない。
そしてその日はずうっと西の方の瀬戸物の塔とうのあるあたりまで行ってぶらぶらし、その晩十七夜のお月さまの出るころ海へ戻もどって睡ったんだ。
ところがその次の日もなんだ。その次の日僕がまた海からやって来てほくほくしながらもう大分の早足で気象台を通りかかったらやっぱり博士と助手が二人出ていた。
『こいつはもう本とうの暴風ですね、』又またあの子供の助手が尤もっともらしい顔つきで腕うでを拱いてそう云っているだろう。博士はやっぱり鼻であしらうといった風で
『だって木が根こぎにならんじゃないか。』と云うんだ。子供はまるで顔をまっ赤にして
『それでもどの木もみんなぐらぐらしてますよ。』と云うんだ。その時僕はもうあとを見なかった。なぜってその日のレコードは八米だからね、そんなに気象台の所にばかり永くとまっているわけには行かなかったんだ。そしてその次の日だよ、やっぱり僕は海へ帰っていたんだ。そして丁度八時ころから雲も一ぱいにやって来て波も高かった。僕はこの時はもう両手をひろげ叫び声をあげて気象台を通った。やっぱり二人とも出ていたねえ、子供は高い処ところなもんだからもうぶるぶる顫ふるえて手すりにとりついているんだ。雨も幾いくつぶか落ちたよ。そんなにこわそうにしながらまた斯う云っているんだ。
『これは本当の暴風ですね、林ががあがあ云ってますよ、枝も折れてますよ。』
ところが博士は落ちついてからだを少しまげながら海の方へ手をかざして云ったねえ
『うん、けれどもまだ暴風というわけじゃないな。もう降りよう。』僕はその語ことばをきれぎれに聴ききながらそこをはなれたんだそれからもうかけてかけて林を通るときは木をみんな狂人きょうじんのようにゆすぶらせ丘を通るときは草も花もめっちゃめちゃにたたきつけたんだ、そしてその夕方までに上海シャンハイから八十里も南西の方の山の中に行ったんだ。そして少し疲つかれたのでみんなとわかれてやすんでいたらその晩また僕たちは上海から北の方の海へ抜ぬけて今度はもうまっすぐにこっちの方までやって来るということになったんだ。そいつは低気圧だよ、あいつに従ついて行くことになったんだ。さあ僕はその晩中あしたもう一ぺん上海の気象台を通りたいといくら考えたか知れやしない。ところがうまいこと通ったんだ。そして僕は遠くから風力計の椀わんがまるで眼にも見えない位速くまわっているのを見、又あの支那人の博士が黄いろなレーンコートを着子供の助手が黒い合羽かっぱを着てやぐらの上に立って一生けん命空を見あげているのを見た。さあ僕はもう笛ふえのように鳴りいなずまのように飛んで
『今日は暴風ですよ、そら、暴風ですよ。今日は。さよなら。』と叫びながら通ったんだ。もう子供の助手が何を云ったかただその小さな口がぴくっとまがったのを見ただけ少しも僕にはわからなかった。
そうだ、そのときは僕は海をぐんぐんわたってこっちへ来たけれども来る途中とちゅうでだんだんかけるのをやめてそれから丁度五日目にここも通ったよ。その前の日はあの水沢の臨時緯度いど観測所も通った。あすこは僕たちの日本では東京の次に通りたがる所なんだよ。なぜってあすこを通るとレコードでも何でもみな外国の方まで知れるようになることがあるからなんだ。あすこを通った日は丁度お天気だったけれど、そうそう、その時は丁度日本では入梅にゅうばいだったんだ、僕は観測所へ来てしばらくある建物の屋根の上にやすんでいたねえ、やすんで居たって本当は少しとろとろ睡ったんだ。すると俄かに下で
『大丈夫です、すっかり乾かわきましたから。』と云う声がするんだろう。見ると木村博士と気象の方の技手ぎてとがラケットをさげて出て来ていたんだ。木村博士は瘠やせて眼のキョロキョロした人だけれども僕はまあ好きだねえ、それに非常にテニスがうまいんだよ。僕はしばらく見てたねえ、どうしてもその技手の人はかなわない、まるっきり汗あせだらけになってよろよろしているんだ。あんまり僕も気の毒になったから屋根の上からじっとボールの往来をにらめてすきを見て置いてねえ、丁度博士がサーヴをつかったときふうっと飛び出して行って球を横の方へ外そらしてしまったんだ。博士はすぐもう一つの球を打ちこんだねえ。そいつは僕は途中に居て途方もなく遠くへけとばしてやった。
『こんな筈はずはないぞ。』と博士は云ったねえ、僕はもう博士にこれ位云わせれば沢山だと思って観測所をはなれて次の日丁度ここへ来たんだよ。ところでね、僕は少し向うへ行かなくちゃいけないから今日はこれでお別れしよう。さよなら。」
みんなは今日は又三郎ばかりあんまり勝手なことを云ってあんまり勝手に行ってしまったりするもんですから少し変な気もしましたが一所に丘を降りて帰りました。
九月六日
一昨日おとといからだんだん曇って来たそらはとうとうその朝は低い雨雲を下してまるで冬にでも降るようなまっすぐなしずかな雨がやっと穂ほを出した草や青い木の葉にそそぎました。
みんなは傘かさをさしたり小さな簑みのからすきとおるつめたい雫しずくをぽたぽた落したりして学校に来ました。
雨はたびたび霽はれて雲も白く光りましたけれども今日は誰たれもあんまり教室の窓からあの丘の栗くりの木の処を見ませんでした。又三郎などもはじめこそはほんとうにめずらしく奇体きたいだったのですがだんだんなれて見ると割合ありふれたことになってしまってまるで東京からふいに田舎いなかの学校へ移って来た友だちぐらいにしか思われなくなって来たのです。
おひるすぎ授業が済んでからはもう雨はすっかり晴れて小さな蝉せみなどもカンカン鳴きはじめたりしましたけれども誰も今日はあの栗の木の処へ行こうとも云わず一郎も耕一も学校の門の処で「あばえ。」と言ったきり別れてしまいました。
耕一の家は学校から川添かわぞいに十五町ばかり溯のぼった処にありました。耕一の方から来ている子供では一年生の生徒が二人ありましたけれどもそれはもう午前中に帰ってしまっていましたし耕一はかばんと傘を持ってひとりみちを川上の方へ帰って行きました。みちは岩の崖がけになった処の中ごろを通るのでずいぶん度々たびたび山の窪くぼみや谷に添ってまわらなければなりませんでした。ところどころには湧水わきみずもあり、又みちの砂だってまっ白で平らでしたから耕一は今日も足駄あしだをぬいで傘と一緒いっしょにもって歩いて行きました。
まがり角を二つまわってもう学校も見えなくなり前にもうしろにも人は一人も居ず谷の水だけ崖の下で少し濁にごってごうごう鳴るだけ大へんさびしくなりましたので耕一は口笛くちぶえを吹ふきながら少し早足に歩きました。
ところが路みちの一とこに崖からからだをつき出すようにした楢ならや樺かばの木が路に被かぶさったとこがありました。耕一が何気なくその下を通りましたら俄にわかに木がぐらっとゆれてつめたい雫が一ぺんにざっと落ちて来ました。耕一は肩かたからせなかから水へ入ったようになりました。それほどひどく落ちて来たのです。
耕一はその梢こずえをちょっと見あげて少し顔を赤くして笑いながら行き過ぎました。
ところが次の木のトンネルを通るとき又ざっとその雫が落ちて来たのです。今度はもうすっかりからだまで水がしみる位にぬれました。耕一はぎょっとしましたけれどもやっぱり口笛を吹いて歩いて行きました。
ところが間もなく又木のかぶさった処を通るようになりました。それは大へんに今までとはちがって長かったのです。耕一は通る前に一ぺんその青い枝を見あげました。雫は一ぱいにたまって全く今にも落ちそうには見えましたしおまけに二度あることは三度あるとも云うのでしたから少し立ちどまって考えて見ましたけれどもまさか三度が三度とも丁度下を通るときそれが落ちて来るということはないと思って少しびくびくしながらその下を急いで通って行きました。そしたらやっぱり、今度もざあっと雫が落ちて来たのです。耕一はもう少し口がまがって泣くようになって上を見あげました。けれども何とも仕方ありませんでしたから冷たさに一ぺんぶるっとしながらもう少し行きました。すると、又ざあと来たのです。
「誰たれだ。誰だ。」耕一はもうきっと誰かのいたずらだと思ってしばらく上をにらんでいましたがしんとして何の返事もなくただ下の方で川がごうごう鳴るばかりでした。そこで耕一は今度は傘をさして行こうと思って足駄を下におろして傘を開きました。そしたら俄にわかにどうっと風がやって来て傘はぱっと開きあぶなく吹き飛ばされそうになりました、耕一はよろよろしながらしっかり柄えをつかまえていましたらとうとう傘はがりがり風にこわされて開いた蕈きのこのような形になりました。
耕一はとうとう泣き出してしまいました。
すると丁度それと一緒に向うではあはあ笑う声がしたのです。びっくりしてそちらを見ましたらそいつは、そいつは風の又三郎でした。ガラスのマントも雫でいっぱい髪かみの毛もぬれて束たばになり赤い顔からは湯気さえ立てながらはあはあはあはあふいごのように笑っていました。
耕一はあたりがきぃんと鳴るように思ったくらい怒おこってしまいました。
「何なに為すぁ、ひとの傘ぶっかして。」
又三郎はいよいよひどく笑ってまるでそこら中ころげるようにしました。
耕一はもうこらえ切れなくなって持っていた傘をいきなり又三郎に投げつけてそれから泣きながら組み付いて行きました。
すると又三郎はすばやくガラスマントをひろげて飛びあがってしまいました。もうどこへ行ったか見えないのです。
耕一はまだ泣いてそらを見上げました。そしてしばらく口惜くやしさにしくしく泣いていましたがやっとあきらめてその壊こわれた傘も持たずうちへ帰ってしまいました。そして縁側えんがわから入ろうとしてふと見ましたらさっきの傘がひろげて干してあるのです。照井耕一という名もちゃんと書いてありましたし、さっきはなれた処もすっかりくっつききれた糸も外ほかの糸でつないでありました。耕一は縁側に座りながらとうとう笑い出してしまったのです。
九月七日
次の日は雨もすっかり霽れました。日曜日でしたから誰たれも学校に出ませんでした。ただ耕一は昨日又三郎にあんなひどい悪戯いたずらをされましたのでどうしても今日は遭あってうんとひどくいじめてやらなければと思って自分一人でもこわかったもんですから一郎をさそって朝の八時頃ごろからあの草山の栗の木の下に行って待っていました。
すると又三郎の方でもどう云うつもりか大へんに早く丁度九時ころ、丘の横の方から何か非常に考え込んだような風をして鼠ねずみいろのマントをうしろへはねて腕組みをして二人の方へやって来たのでした。さあ、しっかり談判しなくちゃいけないと考えて耕一はどきっとしました。又三郎はたしかに二人の居たのも知っていたようでしたが、わざといかにも考え込んでいるという風で二人の前を知らないふりして通って行こうとしました。
「又三郎、うわぁい。」耕一はいきなりどなりました。又三郎はぎょっとしたようにふり向いて、
「おや、お早う。もう来ていたのかい。どうして今日はこんなに早いんだい。」とたずねました。
「日曜でさ。」一郎が云いました。
「ああ、今日は日曜だったんだね、僕ぼくすっかり忘れていた。そうだ八月三十一日が日曜だったからね、七日目で今日が又日曜なんだね。」
「うん。」一郎はこたえましたが耕一はぷりぷり怒っていました。又三郎が昨日のことなど一言も云わずあんまりそらぞらしいもんですからそれに耕一に何も云われないように又日曜のことなどばかり云うもんですからじっさいしゃくにさわったのです。そこでとうとういきなり叫さけびました。
「うわぁい、又三郎、汝うななどぁ、世界に無くてもいいな。うわぁぃ。」
すると又三郎はずるそうに笑いました。
「やあ、耕一君、お早う。昨日はずいぶん失敬したね。」
耕一は何かもっと別のことを言おうと思いましたがあんまり怒ってしまって考え出すことができませんでしたので又同じように叫びました。
「うわぁい、うわぁいだが、又三郎、うななどぁ世界中に無くてもいいな、うわぁい。」
「昨日は実際失敬したよ。僕雨が降ってあんまり気持ちが悪かったもんだからね。」
又三郎は少し眼めをパチパチさせて気の毒そうに云いましたけれども耕一の怒りは仲々解けませんでした。そして三度同じことを繰り返したのです。
「うわぁい、うななどぁ、無くてもいいな。うわぁい。」
すると又三郎は少し面白おもしろくなったようでした。いつもの通りずるそうに笑って斯こう訊たずねました。
「僕たちが世界中になくてもいいってどう云うんだい。箇条かじょうを立てて云ってごらん。そら。」
耕一は試験のようだしつまらないことになったと思って大へん口惜しかったのですが仕方なくしばらく考えてから答えました。
「それから? それから?」又三郎は面白そうに一足進んで云いました。
「それから? あとはどうだい。」
「家もぶっ壊かさな。」
「砂も飛ばさな。」
「それがら、塔とうも倒さな。」
「アアハハハ、塔は家のうちだい、どうだいまだあるかい。それから? それから?」
「それがら、うう、それがら、」耕一はつまってしまいました。大抵たいていもう云ってしまったのですからいくら考えてももう出ませんでした。
「それから? それから? ええ? それから。」と云うのでした。耕一は顔を赤くしてしばらく考えてからやっと答えました。
すると又三郎は今度こそはまるで飛びあがって笑ってしまいました。笑って笑って笑いました。マントも一緒にひらひら波を立てました。
「そうらごらん、とうとう風車などを云っちゃった。風車なら僕を悪く思っちゃいないんだよ。勿論もちろん時々壊すこともあるけれども廻まわしてやるときの方がずうっと多いんだ。風車ならちっとも僕を悪く思っちゃいないんだ。うそと思ったら聴きいてごらん。お前たちはまるで勝手だねえ、僕たちがちっとばっかしいたずらすることは大業おおぎょうに悪口を云っていいとこはちっとも見ないんだ。それに第一お前のさっきからの数えようがあんまりおかしいや。うう、ううてばかりいたんだろう。おしまいはとうとう風車なんか数えちゃった。ああおかしい。」
又三郎は又泪なみだの出るほど笑いました。
耕一もさっきからあんまり困ったために怒っていたのもだんだん忘れて来ました。そしてつい又三郎と一所にわらいだしてしまったのです。さあ又三郎のよろこんだこと俄かにしゃべりはじめました。
「ね、そら、僕たちのやるいたずらで一番ひどいことは日本ならば稲を倒すことだよ、二百十日から二百二十日ころまで、昔むかしはその頃ほんとうに僕たちはこわがられたよ。なぜってその頃は丁度稲に花のかかるときだろう。その時僕たちにかけられたら花がみんな散ってしまってまるで実にならないだろう、だから前は本当にこわがったんだ、僕たちだってわざとするんじゃない、どうしてもその頃かけなくちゃいかないからかけるんだ、もう三四日たてばきっと又そうなるよ。けれどもいまはもう農業が進んでお前たちの家の近くなどでは二百十日のころになど花の咲いている稲なんか一本もないだろう、大抵もう柔やわらかな実になってるんだ。早い稲はもうよほど硬かたくさえなってるよ、僕らがかけあるいて少し位倒れたってそんなにひどくとりいれが減りはしないんだ。だから結局何でもないさ。それからも一つは木を倒すことだよ。家を倒すなんてそんなことはほんの少しだからね、木を倒すことだよ、これだって悪戯いたずらじゃないんだよ。倒れないようにして置けぁいいんだ。葉の濶ひろい樹なら丈夫じょうぶだよ。僕たちが少しぐらいひどくぶっつかっても仲々倒れやしない。それに林の樹が倒れるなんかそれは林の持主が悪いんだよ。林を伐きるときはね、よく一年中の強い風向を考えてその風下の方からだんだん伐って行くんだよ。林の外側の木は強いけれども中の方の木はせいばかり高くて弱いからよくそんなことも気をつけなけぁいけないんだ。だからまず僕たちのこと悪く云う前によく自分の方に気をつけりゃいいんだよ。海岸ではね、僕たちが波のしぶきを運んで行くとすぐ枯かれるやつも枯れないやつもあるよ。苹果りんごや梨なしやまるめろや胡瓜きゅうりはだめだ、すぐ枯れる、稲や薄荷はっかやだいこんなどはなかなか強い、牧草なども強いねえ。」
又三郎はちょっと話をやめました。耕一もすっかり機嫌きげんを直して云いました。
すると又三郎はすっかり悦よろこびました。
「ああありがとう、お前はほんとうにさっぱりしていい子供だねえ、だから僕はおまえはすきだよ、すきだから昨日もいたずらしたんだ、僕だっていたずらはするけれど、いいことはもっと沢山たくさんするんだよ、そら数えてごらん、僕は松の花でも楊やなぎの花でも草棉くさわたの毛でも運んで行くだろう。稲の花粉かふんだってやっぱり僕らが運ぶんだよ。それから僕が通ると草木はみんな丈夫になるよ。悪い空気も持って行っていい空気も運んで来る。東京の浅草のまるで濁にごった寒天のような空気をうまく太平洋の方へさらって行って日本アルプスのいい空気だって代りに持って行ってやるんだ。もし僕がいなかったら病気も湿気しっけもいくらふえるか知れないんだ。ところで今日はお前たちは僕にあうためにばかりここへ来たのかい。けれども僕は今日は十時半から演習へ出なけぁいけないからもう別れなけぁならないんだ。あした又また来ておくれ。ね。じゃ、さよなら
僕は上海シャンハイだって何べんも知ってるよ。」みんなが丘へのぼったとき又三郎がいきなりマントをぎらっとさせてそこらの草へ橙だいだいや青の光を落しながら出て来てそれから指をひろげてみんなの前に突つき出して云いました。
「上海と東京は僕たちの仲間なら誰たれでもみんな通りたがるんだ。どうしてか知ってるかい。」
又三郎はまっ黒な眼を少し意地わるそうにくりくりさせながらみんなを見まわしました。けれども上海と東京ということは一郎も誰も何のことかわかりませんでしたからお互たがいしばらく顔を見合せてだまっていましたら又三郎がもう大得意でにやにや笑いながら言ったのです。
「僕たちの仲間はみんな上海と東京を通りたがるよ。どうしてって東京には日本の中央気象台があるし上海には支那の中華ちゅうか大気象台があるだろう。どっちだって偉えらい人がたくさん居るんだ。本当は気象台の上をかけるときは僕たちはみんな急ぎたがるんだ。どうしてって風力計がくるくるくるくる廻まわっていて僕たちのレコードはちゃんと下の機械に出て新聞にも載のるんだろう。誰だっていいレコードを作りたいからそれはどうしても急ぐんだよ。けれども僕たちの方のきめでは気象台や測候所の近くへ来たからって俄にわかに急いだりすることは大へん卑怯ひきょうなことにされてあるんだ。お前たちだってきっとそうだろう、試験の時ばかりむやみに勉強したりするのはいけないことになってるだろう。だから僕たちも急ぎたくたってわざと急がないんだ。そのかわりほんとうに一生けん命かけてる最中に気象台へ通りかかるときはうれしいねえ、風力計をまるでのぼせるくらいにまわしてピーッとかけぬけるだろう、胸もすっとなるんだ。面白おもしろかったねえ、一昨年だったけれど六月ころ僕丁度上海に居たんだ。昼の間には海から陸へ移って行き夜には陸から海へ行ってたねえ、大抵朝は十時頃ごろ海から陸の方へかけぬけるようになっていたんだがそのときはいつでも、うまい工合ぐあいに気象台を通るようになるんだ。すると気象台の風力計や風信器や置いてある屋根の上のやぐらにいつでも一人の支那人の理学博士と子供の助手とが立っているんだ。
博士はだまっていたが子供の助手はいつでも何か言っているんだ。そいつは頭をくりくりの芥子坊主けしぼうずにしてね、着物だって袖そでの広い支那服だろう、沓くつもはいてるねえ、大へんかあいらしいんだよ、一番はじめの日僕がそこを通ったら斯こう言っていた。
『これはきっと颶風ぐふうですね。ずぶんひどい風ですね。』
『家が飛ばないじゃないか。』
『だって向うの三角旗や何かぱたぱた云ってます。』というんだ。博士は笑って相手にしないで壇だんを下りて行くねえ、子供の助手は少し悄気しょげながら手を拱こまねいてあとから恭々しくついて行く。
僕はそのとき二・五米メートルというレコードを風力計にのこして笑って行ってしまったんだ。
次の日も九時頃僕は海の霧きりの中で眼がさめてそれから霧がだんだん融とけて空が青くなりお日さまが黄金きんのばらのようにかがやき出したころそろそろ陸の方へ向ったんだ。これは仕方ないんだよ、お日さんさえ出たらきっともう僕たちは陸の方へ行かなけぁならないようになるんだ、僕はだんだん岸へよって鴎かもめが白い蓮華れんげの花のように波に浮うかんでいるのも見たし、また沢山のジャンクの黄いろの帆ほや白く塗ぬられた蒸気船の舷げんを通ったりなんかして昨日の気象台に通りかかると僕はもう遠くからあの風力計のくるくるくるくる廻るのを見て胸が踊おどるんだ。すっとかけぬけただろう。レコードが一秒五米と出たねえ、そのとき下を見ると昨日の博士と子供の助手とが今日も出て居て子供の助手がやっぱり云っているんだ。
『この風はたしかに颶風ぐふうですね。』
『瓦かわらも石も舞まい上らんじゃないか。』と答えながらもう壇を下りかかるんだ。子供の助手はまるで一生けん命になって
『だって木の枝えだが動いてますよ。』と云うんだ。それでも博士はまるで相手にしないねえ、僕もその時はもう気象台をずうっとはなれてしまってあとどうなったか知らない。
そしてその日はずうっと西の方の瀬戸物の塔とうのあるあたりまで行ってぶらぶらし、その晩十七夜のお月さまの出るころ海へ戻もどって睡ったんだ。
ところがその次の日もなんだ。その次の日僕がまた海からやって来てほくほくしながらもう大分の早足で気象台を通りかかったらやっぱり博士と助手が二人出ていた。
『こいつはもう本とうの暴風ですね、』又またあの子供の助手が尤もっともらしい顔つきで腕うでを拱いてそう云っているだろう。博士はやっぱり鼻であしらうといった風で
『だって木が根こぎにならんじゃないか。』と云うんだ。子供はまるで顔をまっ赤にして
『それでもどの木もみんなぐらぐらしてますよ。』と云うんだ。その時僕はもうあとを見なかった。なぜってその日のレコードは八米だからね、そんなに気象台の所にばかり永くとまっているわけには行かなかったんだ。そしてその次の日だよ、やっぱり僕は海へ帰っていたんだ。そして丁度八時ころから雲も一ぱいにやって来て波も高かった。僕はこの時はもう両手をひろげ叫び声をあげて気象台を通った。やっぱり二人とも出ていたねえ、子供は高い処ところなもんだからもうぶるぶる顫ふるえて手すりにとりついているんだ。雨も幾いくつぶか落ちたよ。そんなにこわそうにしながらまた斯う云っているんだ。
『これは本当の暴風ですね、林ががあがあ云ってますよ、枝も折れてますよ。』
ところが博士は落ちついてからだを少しまげながら海の方へ手をかざして云ったねえ
『うん、けれどもまだ暴風というわけじゃないな。もう降りよう。』僕はその語ことばをきれぎれに聴ききながらそこをはなれたんだそれからもうかけてかけて林を通るときは木をみんな狂人きょうじんのようにゆすぶらせ丘を通るときは草も花もめっちゃめちゃにたたきつけたんだ、そしてその夕方までに上海シャンハイから八十里も南西の方の山の中に行ったんだ。そして少し疲つかれたのでみんなとわかれてやすんでいたらその晩また僕たちは上海から北の方の海へ抜ぬけて今度はもうまっすぐにこっちの方までやって来るということになったんだ。そいつは低気圧だよ、あいつに従ついて行くことになったんだ。さあ僕はその晩中あしたもう一ぺん上海の気象台を通りたいといくら考えたか知れやしない。ところがうまいこと通ったんだ。そして僕は遠くから風力計の椀わんがまるで眼にも見えない位速くまわっているのを見、又あの支那人の博士が黄いろなレーンコートを着子供の助手が黒い合羽かっぱを着てやぐらの上に立って一生けん命空を見あげているのを見た。さあ僕はもう笛ふえのように鳴りいなずまのように飛んで
『今日は暴風ですよ、そら、暴風ですよ。今日は。さよなら。』と叫びながら通ったんだ。もう子供の助手が何を云ったかただその小さな口がぴくっとまがったのを見ただけ少しも僕にはわからなかった。
そうだ、そのときは僕は海をぐんぐんわたってこっちへ来たけれども来る途中とちゅうでだんだんかけるのをやめてそれから丁度五日目にここも通ったよ。その前の日はあの水沢の臨時緯度いど観測所も通った。あすこは僕たちの日本では東京の次に通りたがる所なんだよ。なぜってあすこを通るとレコードでも何でもみな外国の方まで知れるようになることがあるからなんだ。あすこを通った日は丁度お天気だったけれど、そうそう、その時は丁度日本では入梅にゅうばいだったんだ、僕は観測所へ来てしばらくある建物の屋根の上にやすんでいたねえ、やすんで居たって本当は少しとろとろ睡ったんだ。すると俄かに下で
『大丈夫です、すっかり乾かわきましたから。』と云う声がするんだろう。見ると木村博士と気象の方の技手ぎてとがラケットをさげて出て来ていたんだ。木村博士は瘠やせて眼のキョロキョロした人だけれども僕はまあ好きだねえ、それに非常にテニスがうまいんだよ。僕はしばらく見てたねえ、どうしてもその技手の人はかなわない、まるっきり汗あせだらけになってよろよろしているんだ。あんまり僕も気の毒になったから屋根の上からじっとボールの往来をにらめてすきを見て置いてねえ、丁度博士がサーヴをつかったときふうっと飛び出して行って球を横の方へ外そらしてしまったんだ。博士はすぐもう一つの球を打ちこんだねえ。そいつは僕は途中に居て途方もなく遠くへけとばしてやった。
『こんな筈はずはないぞ。』と博士は云ったねえ、僕はもう博士にこれ位云わせれば沢山だと思って観測所をはなれて次の日丁度ここへ来たんだよ。ところでね、僕は少し向うへ行かなくちゃいけないから今日はこれでお別れしよう。さよなら。」
みんなは今日は又三郎ばかりあんまり勝手なことを云ってあんまり勝手に行ってしまったりするもんですから少し変な気もしましたが一所に丘を降りて帰りました。
九月六日
一昨日おとといからだんだん曇って来たそらはとうとうその朝は低い雨雲を下してまるで冬にでも降るようなまっすぐなしずかな雨がやっと穂ほを出した草や青い木の葉にそそぎました。
みんなは傘かさをさしたり小さな簑みのからすきとおるつめたい雫しずくをぽたぽた落したりして学校に来ました。
雨はたびたび霽はれて雲も白く光りましたけれども今日は誰たれもあんまり教室の窓からあの丘の栗くりの木の処を見ませんでした。又三郎などもはじめこそはほんとうにめずらしく奇体きたいだったのですがだんだんなれて見ると割合ありふれたことになってしまってまるで東京からふいに田舎いなかの学校へ移って来た友だちぐらいにしか思われなくなって来たのです。
おひるすぎ授業が済んでからはもう雨はすっかり晴れて小さな蝉せみなどもカンカン鳴きはじめたりしましたけれども誰も今日はあの栗の木の処へ行こうとも云わず一郎も耕一も学校の門の処で「あばえ。」と言ったきり別れてしまいました。
耕一の家は学校から川添かわぞいに十五町ばかり溯のぼった処にありました。耕一の方から来ている子供では一年生の生徒が二人ありましたけれどもそれはもう午前中に帰ってしまっていましたし耕一はかばんと傘を持ってひとりみちを川上の方へ帰って行きました。みちは岩の崖がけになった処の中ごろを通るのでずいぶん度々たびたび山の窪くぼみや谷に添ってまわらなければなりませんでした。ところどころには湧水わきみずもあり、又みちの砂だってまっ白で平らでしたから耕一は今日も足駄あしだをぬいで傘と一緒いっしょにもって歩いて行きました。
まがり角を二つまわってもう学校も見えなくなり前にもうしろにも人は一人も居ず谷の水だけ崖の下で少し濁にごってごうごう鳴るだけ大へんさびしくなりましたので耕一は口笛くちぶえを吹ふきながら少し早足に歩きました。
ところが路みちの一とこに崖からからだをつき出すようにした楢ならや樺かばの木が路に被かぶさったとこがありました。耕一が何気なくその下を通りましたら俄にわかに木がぐらっとゆれてつめたい雫が一ぺんにざっと落ちて来ました。耕一は肩かたからせなかから水へ入ったようになりました。それほどひどく落ちて来たのです。
耕一はその梢こずえをちょっと見あげて少し顔を赤くして笑いながら行き過ぎました。
ところが次の木のトンネルを通るとき又ざっとその雫が落ちて来たのです。今度はもうすっかりからだまで水がしみる位にぬれました。耕一はぎょっとしましたけれどもやっぱり口笛を吹いて歩いて行きました。
ところが間もなく又木のかぶさった処を通るようになりました。それは大へんに今までとはちがって長かったのです。耕一は通る前に一ぺんその青い枝を見あげました。雫は一ぱいにたまって全く今にも落ちそうには見えましたしおまけに二度あることは三度あるとも云うのでしたから少し立ちどまって考えて見ましたけれどもまさか三度が三度とも丁度下を通るときそれが落ちて来るということはないと思って少しびくびくしながらその下を急いで通って行きました。そしたらやっぱり、今度もざあっと雫が落ちて来たのです。耕一はもう少し口がまがって泣くようになって上を見あげました。けれども何とも仕方ありませんでしたから冷たさに一ぺんぶるっとしながらもう少し行きました。すると、又ざあと来たのです。
「誰たれだ。誰だ。」耕一はもうきっと誰かのいたずらだと思ってしばらく上をにらんでいましたがしんとして何の返事もなくただ下の方で川がごうごう鳴るばかりでした。そこで耕一は今度は傘をさして行こうと思って足駄を下におろして傘を開きました。そしたら俄にわかにどうっと風がやって来て傘はぱっと開きあぶなく吹き飛ばされそうになりました、耕一はよろよろしながらしっかり柄えをつかまえていましたらとうとう傘はがりがり風にこわされて開いた蕈きのこのような形になりました。
耕一はとうとう泣き出してしまいました。
すると丁度それと一緒に向うではあはあ笑う声がしたのです。びっくりしてそちらを見ましたらそいつは、そいつは風の又三郎でした。ガラスのマントも雫でいっぱい髪かみの毛もぬれて束たばになり赤い顔からは湯気さえ立てながらはあはあはあはあふいごのように笑っていました。
耕一はあたりがきぃんと鳴るように思ったくらい怒おこってしまいました。
「何なに為すぁ、ひとの傘ぶっかして。」
又三郎はいよいよひどく笑ってまるでそこら中ころげるようにしました。
耕一はもうこらえ切れなくなって持っていた傘をいきなり又三郎に投げつけてそれから泣きながら組み付いて行きました。
すると又三郎はすばやくガラスマントをひろげて飛びあがってしまいました。もうどこへ行ったか見えないのです。
耕一はまだ泣いてそらを見上げました。そしてしばらく口惜くやしさにしくしく泣いていましたがやっとあきらめてその壊こわれた傘も持たずうちへ帰ってしまいました。そして縁側えんがわから入ろうとしてふと見ましたらさっきの傘がひろげて干してあるのです。照井耕一という名もちゃんと書いてありましたし、さっきはなれた処もすっかりくっつききれた糸も外ほかの糸でつないでありました。耕一は縁側に座りながらとうとう笑い出してしまったのです。
九月七日
次の日は雨もすっかり霽れました。日曜日でしたから誰たれも学校に出ませんでした。ただ耕一は昨日又三郎にあんなひどい悪戯いたずらをされましたのでどうしても今日は遭あってうんとひどくいじめてやらなければと思って自分一人でもこわかったもんですから一郎をさそって朝の八時頃ごろからあの草山の栗の木の下に行って待っていました。
すると又三郎の方でもどう云うつもりか大へんに早く丁度九時ころ、丘の横の方から何か非常に考え込んだような風をして鼠ねずみいろのマントをうしろへはねて腕組みをして二人の方へやって来たのでした。さあ、しっかり談判しなくちゃいけないと考えて耕一はどきっとしました。又三郎はたしかに二人の居たのも知っていたようでしたが、わざといかにも考え込んでいるという風で二人の前を知らないふりして通って行こうとしました。
「又三郎、うわぁい。」耕一はいきなりどなりました。又三郎はぎょっとしたようにふり向いて、
「おや、お早う。もう来ていたのかい。どうして今日はこんなに早いんだい。」とたずねました。
「日曜でさ。」一郎が云いました。
「ああ、今日は日曜だったんだね、僕ぼくすっかり忘れていた。そうだ八月三十一日が日曜だったからね、七日目で今日が又日曜なんだね。」
「うん。」一郎はこたえましたが耕一はぷりぷり怒っていました。又三郎が昨日のことなど一言も云わずあんまりそらぞらしいもんですからそれに耕一に何も云われないように又日曜のことなどばかり云うもんですからじっさいしゃくにさわったのです。そこでとうとういきなり叫さけびました。
「うわぁい、又三郎、汝うななどぁ、世界に無くてもいいな。うわぁぃ。」
すると又三郎はずるそうに笑いました。
「やあ、耕一君、お早う。昨日はずいぶん失敬したね。」
耕一は何かもっと別のことを言おうと思いましたがあんまり怒ってしまって考え出すことができませんでしたので又同じように叫びました。
「うわぁい、うわぁいだが、又三郎、うななどぁ世界中に無くてもいいな、うわぁい。」
「昨日は実際失敬したよ。僕雨が降ってあんまり気持ちが悪かったもんだからね。」
又三郎は少し眼めをパチパチさせて気の毒そうに云いましたけれども耕一の怒りは仲々解けませんでした。そして三度同じことを繰り返したのです。
「うわぁい、うななどぁ、無くてもいいな。うわぁい。」
すると又三郎は少し面白おもしろくなったようでした。いつもの通りずるそうに笑って斯こう訊たずねました。
「僕たちが世界中になくてもいいってどう云うんだい。箇条かじょうを立てて云ってごらん。そら。」
耕一は試験のようだしつまらないことになったと思って大へん口惜しかったのですが仕方なくしばらく考えてから答えました。
「それから? それから?」又三郎は面白そうに一足進んで云いました。
「それから? あとはどうだい。」
「家もぶっ壊かさな。」
「砂も飛ばさな。」
「それがら、塔とうも倒さな。」
「アアハハハ、塔は家のうちだい、どうだいまだあるかい。それから? それから?」
「それがら、うう、それがら、」耕一はつまってしまいました。大抵たいていもう云ってしまったのですからいくら考えてももう出ませんでした。
「それから? それから? ええ? それから。」と云うのでした。耕一は顔を赤くしてしばらく考えてからやっと答えました。
すると又三郎は今度こそはまるで飛びあがって笑ってしまいました。笑って笑って笑いました。マントも一緒にひらひら波を立てました。
「そうらごらん、とうとう風車などを云っちゃった。風車なら僕を悪く思っちゃいないんだよ。勿論もちろん時々壊すこともあるけれども廻まわしてやるときの方がずうっと多いんだ。風車ならちっとも僕を悪く思っちゃいないんだ。うそと思ったら聴きいてごらん。お前たちはまるで勝手だねえ、僕たちがちっとばっかしいたずらすることは大業おおぎょうに悪口を云っていいとこはちっとも見ないんだ。それに第一お前のさっきからの数えようがあんまりおかしいや。うう、ううてばかりいたんだろう。おしまいはとうとう風車なんか数えちゃった。ああおかしい。」
又三郎は又泪なみだの出るほど笑いました。
耕一もさっきからあんまり困ったために怒っていたのもだんだん忘れて来ました。そしてつい又三郎と一所にわらいだしてしまったのです。さあ又三郎のよろこんだこと俄かにしゃべりはじめました。
「ね、そら、僕たちのやるいたずらで一番ひどいことは日本ならば稲を倒すことだよ、二百十日から二百二十日ころまで、昔むかしはその頃ほんとうに僕たちはこわがられたよ。なぜってその頃は丁度稲に花のかかるときだろう。その時僕たちにかけられたら花がみんな散ってしまってまるで実にならないだろう、だから前は本当にこわがったんだ、僕たちだってわざとするんじゃない、どうしてもその頃かけなくちゃいかないからかけるんだ、もう三四日たてばきっと又そうなるよ。けれどもいまはもう農業が進んでお前たちの家の近くなどでは二百十日のころになど花の咲いている稲なんか一本もないだろう、大抵もう柔やわらかな実になってるんだ。早い稲はもうよほど硬かたくさえなってるよ、僕らがかけあるいて少し位倒れたってそんなにひどくとりいれが減りはしないんだ。だから結局何でもないさ。それからも一つは木を倒すことだよ。家を倒すなんてそんなことはほんの少しだからね、木を倒すことだよ、これだって悪戯いたずらじゃないんだよ。倒れないようにして置けぁいいんだ。葉の濶ひろい樹なら丈夫じょうぶだよ。僕たちが少しぐらいひどくぶっつかっても仲々倒れやしない。それに林の樹が倒れるなんかそれは林の持主が悪いんだよ。林を伐きるときはね、よく一年中の強い風向を考えてその風下の方からだんだん伐って行くんだよ。林の外側の木は強いけれども中の方の木はせいばかり高くて弱いからよくそんなことも気をつけなけぁいけないんだ。だからまず僕たちのこと悪く云う前によく自分の方に気をつけりゃいいんだよ。海岸ではね、僕たちが波のしぶきを運んで行くとすぐ枯かれるやつも枯れないやつもあるよ。苹果りんごや梨なしやまるめろや胡瓜きゅうりはだめだ、すぐ枯れる、稲や薄荷はっかやだいこんなどはなかなか強い、牧草なども強いねえ。」
又三郎はちょっと話をやめました。耕一もすっかり機嫌きげんを直して云いました。
すると又三郎はすっかり悦よろこびました。
「ああありがとう、お前はほんとうにさっぱりしていい子供だねえ、だから僕はおまえはすきだよ、すきだから昨日もいたずらしたんだ、僕だっていたずらはするけれど、いいことはもっと沢山たくさんするんだよ、そら数えてごらん、僕は松の花でも楊やなぎの花でも草棉くさわたの毛でも運んで行くだろう。稲の花粉かふんだってやっぱり僕らが運ぶんだよ。それから僕が通ると草木はみんな丈夫になるよ。悪い空気も持って行っていい空気も運んで来る。東京の浅草のまるで濁にごった寒天のような空気をうまく太平洋の方へさらって行って日本アルプスのいい空気だって代りに持って行ってやるんだ。もし僕がいなかったら病気も湿気しっけもいくらふえるか知れないんだ。ところで今日はお前たちは僕にあうためにばかりここへ来たのかい。けれども僕は今日は十時半から演習へ出なけぁいけないからもう別れなけぁならないんだ。あした又また来ておくれ。ね。じゃ、さよなら
毎週見てるやつ
パックと名前忘れた黒いやつかわいい。ハムスケとフィーロが全然出てこない
風風がマジカル横入りかわいい。モブ男子の落とし込みが本気なのかギャグなのかわからない
わんこかわいい。おっさんだけど。ギルバートかわいい。前後に長い生き物によわい
たまに出てくるモブ妖がかわいい。なくても見てたような気はする
名前忘れた白いきつねみたいなやつとカメかわいい。イベントなのに赤いの出てこないのはおかしい
諦めたやつ
旧12話相当まで見た。ここで終わりでもいいと思うんだ
モブかわいい。主人公が肌に合わなくて残念。丁寧なアニメだと思う
従軍慰安婦問題について、歴史修正主義者に好き勝手喋らせてその様子を動画に収めた映画『主戦場』が話題になっている。
この問題、はてブの一部では「研究倫理に違反するのでは?」という指摘が出ていた。そこで思い出すのが、ちょうど2年前に起きたpixiv論文問題だ。
両者の違いを比較してみた。
研究 | 『主戦場』 | pixiv論文問題 |
---|---|---|
研究対象 | 有名人 | 出版された小説(書いたのは無名人) |
「人を対象とした研究」か? | 直接インタビューしてるのでYES | あくまで文献調査にとどまるのでNO |
騙し討ちか? | 同意書は取ってあるが、研究対象が納得していない | 文献調査なので同意もクソもなく自由に研究してよい |
研究倫理に反しているといえるか? | 研究者側に瑕疵はない | 研究者側に瑕疵はない |
では公開し続けてもよいか? | 研究対象者が嫌がってるから、公開継続には問題があるといえなくもない | 取り下げる必要はなかった |
創作者としての視点で見たらどうか? | いいぞもっとやれ | もっと配慮しろよ…… |
社会的意義はあるか? | めちゃくちゃある | 特にない |
世間の同情はどちらに集まったか? | 研究者側 | 研究者に引用された側 |
『主戦場』とpixiv論文、世間の反応では前者では研究対象になった人たちが批判され後者では研究者が責められているのに、研究倫理という観点で見ると前者が微妙にグレーで後者がほぼ真っ白なのが興味深い。
大口病院での患者大量不審死事件にて、看護師が逮捕されました。大口病院では不審死が数十人にのぼることから、戦後最悪クラスのシリアルキラーと分類しても構わない事件と言えます。ただし、大多数の被害者のご遺体も灰になっていて、裁判の過程で殺人を実証できるのは2名ほどとなるかもしれませんが。
ブコメやツイッターの反応なのを見てると、看護師による犯行という事で、意外に思う方や、擁護する意見(単なる労働問題として国や施設を責めて看護師のおかれた状況に同情を誘おうとする傾向)が散見されました。「患者や遺族が悪い」というような必死に看護師を擁護するようなコメントは、事実から目を背けさせようとして「看護師の労働環境問題」と間違った方向に矮小化させる詭弁であり、危険です。悪意のある世論操作といっても良いでしょう。
今回の件は高齢者の延命問題とも、看護師の労働環境とも、全く別の話しです。もし本来、顧客の資産を守るべき銀行員が顧客のお金を横領したら、「銀行員の給料が安いからだ(可哀そう)、銀行の労働環境改善を」、とか「客が悪い」、「国が悪い」、となりますか? ならないでしょう。なぜか、女性の多い看護師という職業だからか、自らの幻想を投影してしまうエセ(自称)リベラルとでもいう「物わかりの良い人」のふりをして、害にしかならない事を盛んに言う人がいます。
医療関係者による連続殺人事件は、意外な話しでもありません。寧ろ逆です。啓蒙の意味も込めて、改めて、医療関係者とサイコパス的なシリアルキラーの事件と、その特性についてまとめてみたいと思います。
歴史的にみても、医療関係者によるシリアルキラー、大量殺人は多くあり、実際、過去30年のFBIの記録では、殺人事件が最も多く起きる職業は医療従事者であり、 有名な連続殺人犯も医療関係者が最も多いといいます。
欧米での研究では、こうした医療関係者による連続殺人魔を一つの類型として、 healthcare serial killers (HSKs)、ヘルスケア・シリアルキラーズと呼ぶほどです。
医療関係者が患者を手にかけた事件は過去にも相次いでおり、専門家は「治療を委ねた患者が身を守るのは困難で、『密室の通り魔』とも言える悪質な犯行だ」と指摘する。
東洋大の桐生正幸教授(犯罪心理学)は「医療関係者は『患者の命は自分がコントロールしている』と思い込む傾向が強い」
インスリン大量投与 「密室の通り魔」 相次ぐ医療関係者の犯罪(1/2ページ) - 産経ニュース
http://www.sankei.com/affairs/news/140820/afr1408200001-n1.html
「今回のような犯罪は『死の天使』型といって、世界的に多くの事例がある。もともと看護業界に多かった。医師と違い患者の命を直接左右できない看護師には、自分が患者を救ったという『自己効力感』を見いだせず、鬱憤を募らせる人が出てくる。わざと患者の症状を悪化させ、回復させることにやりがいを感じたりし、エスカレートして殺害に及ぶケースもある」
こういった「現象」は海外でも知られており、ある確率で存在する特殊な人々によって起こされる。それらは看護師、介護者といった医療関係者に多く、あまり一般的な呼び方ではないが「死の天使」と言われている。これらは連続殺人の研究で、ある類型としてこういう奇妙な人達が存在することが知られるようになった。
〈女性の連続殺人者は「神を演じる」ことで満足を覚える。介護者である彼女たちは、患者の生死を握っている。女性が健康な犠牲者を制圧するのは困難だろうが、すでに死にかけているか衰えた患者なら簡単だ。また、男性は暴力的な殺人手段を用いるが、女性はより攻撃性の少ない方法をとり、薬品や毒を使ったり窒息させたりすることが多い。〉
事件が明るみに出て警察に追及されると、彼女らはもっともらしい理由を言うが、本質は『個人的快楽のために他人を死に至らしめる』すなわち快楽殺人の一種なのである。・・ただ心理的な背景にあるのは、前掲の本の著者の解釈だが「根深い無力感と劣等感を克服し、他者を支配し、関心を集めたいという激しい欲望がある」のだそうだ。だから立場や能力的にはいまいちな人間がやってしまう。
アメリカ史上64人の女性連続殺人犯の素性や動機、殺害方法、精神構造を分析した。・・ 女性連続殺人犯たちの間に驚くべき類似点を見つけ出した。彼女らのほとんどは、ごくごく普通の家庭環境の出身で、おもな殺人の手段は毒殺。ほぼ全員が家族を含む顔見知りを手にかけていることがわかった。・・・彼女たちのほとんどは、ごくごく普通の家庭環境の出身で、看護や人の世話、教えるなど女性らしい職業に就いていることが多い。・・・女性の場合は金銭や権力のために殺す傾向があることがわかっている。・・・女性の連続殺人犯について、きちんと研究されたことはほとんどない。それは、女性があんな犯罪を犯せるわけがないという文化的な根深い思い込みのせいだろう。だがそれが大きな間違いであることは明らかだ。・・概して女性の連続殺人犯のほうが、男性よりも逮捕されない期間が2倍も長いという。
ナチスドイツ時代の医師・看護師が主導し、障がい者や精神病患者を「患者は患者だから」「生きる価値の無いものたち」といって、看護師が患者を笑顔でガス室に送り込んだ「T4プログラム」というのがあります。これはのちのユダヤ人ホロコーストに繋がっていきます。
CiNii 論文 - ナチT4作戦における看護師 : その役割分析と共犯のメンタリティーに焦点を当てて
「ナチT4作戦における看護師:その役割分析と共犯のメン タリティー」
https://ci.nii.ac.jp/els/contents110004875530.pdf?id=ART0008062566
医師・看護師の傲慢さの根源と、行き着く先というのが見えてくると思います。もともと医師、看護師と言った医療関係者たちはこういった性向に陥りやすい、という事なのです。
こういった事実を知っているかどうかで、未来は大きく違ってくるはずです。まずは、女性だから、看護師だから、そういった犯行は起きない、という偏見・先入観を捨て、研究し、対策をとる必要があります。
医療従事者は、上述したように職務内容的(Why)にも、犯行を行いやすいという機会的(How)にも、リスクが高い。そんな中に一人でもサイコパスが紛れ込めば、大変なことが起きてしまいます。WhyとHowがあるので、残りはWhen、つまり「いつ起きるか」「いつ」という時間の問題です。
看護師=性善説に立って物を考えるべきではない、という事です。事件は起きないだろう、では事件は防げません。
それどころか、むしろ看護師という職にある限り、必然的にモラル・倫理的に気が付けば滅茶苦茶な様態になる職だと認識し強く自覚し、教育をしていくことが必要です。
ところが、日本の看護業界では、やっと最近になって上っ面の倫理教育が出てきました(ほんのひと昔は無し。「続き」で詳述)が、こういった看護におけるモラル・倫理について、教育どころか、指針も規定も無い、無知という恐ろしい状態にあるのです。
残念な事に、「看護師=モラル高い人達」という幼稚な幻想や、看護師が何か問題を起こせば「環境による被害者」という風潮を、周囲やメディアも含めて、煽り過ぎている現状があります。
今回の事件を契機に、法整備も含めて、看護業界としても、意識改革をし、医療メンタリティ的にこういったことは起きやすいのだ、と看護師の倫理モラルの教育を改善して欲しいものです。
追記:誤解している人がいるようなのですが、「当該看護師に倫理教育していれば当該看護師はやらなかっただろう」などと短絡的な事は一言も言っていません。私が言っているのは、広く皆に知識として「こういうのは(一般感覚と異なり)起きやすいのだ、なぜなら~」という教訓的な知識の教育です。社会なり組織なりで「起きる」という事を認識しているのと、まったく認識していないのでは、結果は異なる、という事です。全然関係ない事に理由を求めたり、事件は起きないだろう、の意識では事件は防げません。
1800年代に、20年間にわたって400人以上の幼児を毒殺。
アーンフィン・ネセット看護師
1982年に、22人の患者を毒殺。裁判で証明されなかった人数を含めると138人を毒殺したとも。
1980年代、60人前後の乳幼児を筋肉弛緩剤を投与するなどして毒殺。命を操る自分に酔いしれ…
1999年、4人の患者毒殺で逮捕。実際は、131人の患者を毒殺したとされている。
1989年、看護助手たちによる49人の患者殺害。「患者を殺す事で、自分が神になったような、生と死の力を、自ら得たような気持ちを楽しんだ」
2014年、カリウム注射で患者38人殺害。「患者家族が気に入らない」という理由。ご遺体と共に自撮りをして親指を立てていた画像も出てきて、世間を戦慄させた。
1991年、幼児連続殺人犯。病院で新生児4人の幼児を殺害し、未遂が3人、傷害が6人。13の終身刑が科された。
1995年、患者の点滴にエピネフリンを大量投与し、蘇生させるを繰り返し、4人を殺害。実証された以外に40人以上を殺害したともいわれる。
2007~2014年に老人介護施設2か所でインスリンを投与し、75~96歳の入所者の男女8人を殺害したことを認めた。別の施設での犯罪を含む、殺人未遂罪4件、暴行を働いた罪2件も認めた。
2000年前後にかけて患者106人を殺害。「心不全や循環虚脱を引き起こす薬剤を患者らに注射した後、同僚らの前で「救い手」として目立つべく蘇生を試みたことを認めている。同受刑者は、患者が息を吹き返せば幸福感が得られ、失敗すると挫折感を覚えたと供述していた」
おまけ>医師では、200人以上(実際には500人ほどとも)を殺した医師のハロルド・シップマンが有名。
日本でも似たようなのは多数起きている。最近ので、ぱっと思いつくだけで、
今年1月、静岡県浜松市内の病院で、入院している夫の点滴にカリウムを混入させ、
病院の業務を妨害したとして、別の病院に勤務する看護師の女が25日、逮捕されました。
威力業務妨害の疑いで、25日逮捕されたのは、浜松市中区寺島町の看護師、小塲芳恵容疑者(34)です。
警察によりますと、小塲容疑者は今年1月、浜松市の聖隷三方原病院に心臓疾患で入院中の 30代の夫の点滴にカリウムを混入させ、病院の業務を妨害した疑いがもたれています。
TBS Newsi
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2526110.html
2015/7/ 2
同居する4歳の長男を殴ってけがを負わせたとして、細江署は2日、傷害の疑いで浜松市中区寺島町、無職の男(39)を逮捕した。
逮捕容疑は6月中旬ごろ、自宅で、長男の頭を手で殴って10日間のけがを負わせた疑い。
男は1月、浜松市内の病院に入院中、妻(34)=威力業務妨害容疑で逮捕=から点滴にカリウム溶液を注入された。事件に関連して細江署などが自宅を家宅捜索した際、長男の体の傷を見つけて発覚した。
これ、実は
1.夫が入院している病院で、夫の点滴にカリウムを注入し、業務妨害で妻の看護師が逮捕。
しかし反省の弁はなく、「夫がそれだけ悪いことをしたと分かってほしい」などと強弁。
3.なんとなんと、カリウム注入看護師がこんどは窃盗で再逮捕。
東京都世田谷区の日産厚生会玉川病院で、入院患者に本来必要がない糖尿病治療薬のインスリン製剤が使われた事件で、故意に投与した疑いが強まったとして、警視庁は1日、同病院の看護師***容疑者(25)=同区桜新町1丁目、休職中=を傷害の疑いで逮捕し、発表した。
http://www.asahi.com/articles/ASGD12T6TGD1UTIL006.html
ーーーーーー
高柳容疑者は今年4月、勤務先である世田谷区の日産厚生会玉川病院に入院していた91歳女性に、3回にわたってインスリンを大量投与し、低血糖状態にした疑いで捕まった。「高柳容疑者は女性の容体が急変するたび、医師の診断も仰がず、率先して回復措置に当たっていた。周囲は<なぜ低血糖発作と分かるのか>と怪しんでいたのです。捜査関係者は、高柳容疑者が“できるナース”であることをアピールし、院内の評価を上げようとした、とみています」「代理ミュンヒハウゼン症候群」なる言葉が注目を集めている。「意図的にドラマを作り出し、周囲の注目を集めよう、褒められようとする人のことです。例えば自分で火をつけながら、それを消火して“英雄”になろうとする放火犯などです。本当は自分に自信がないのに、自己顕示欲は異常に強い。喜怒哀楽の表現がオーバーだったり、わざわざ難解な言葉を使うなど、必要以上に自分を大きく見せたがる傾向があります」
続く
抜けてた。
あっけなかったな。
やっぱり"ただの狂った"ネトウヨか。
目的を遂げても遂げなくても
奴はそうした気高い志とは無縁で
本当に罪深い連中だと言わざるを得ない。
障がい者大量殺害、相模原事件の容疑者はネトウヨ? 安倍首相、百田尚樹、橋下徹、Kギルバートらをフォロー
http://lite-ra.com/2016/07/post-2447.html
そもそも、今回の事件に関しては、「容疑者はネトウヨ」というほうがまだ事実に近いのではないか。
たとえば、容疑者がツイッターでフォローしていた有名人を見てみると、安倍晋三、百田尚樹、橋下徹、中山成彬、テキサス親父日本事務局、ケント・ギルバート、上念司、西村幸祐、つるの剛士、高須克弥、村西とおると、ネトウヨが好みそうな極右政治家、文化人がずらりと並んでいる。
また、その中身も、最近、右派発言が目立つ村西とおるの「米軍の沖縄駐留は平和に大きく貢献している、米軍がいればこその安心なのです」という発言をリツイートしたり、「在日恐い」「翁長知事にハゲ野郎って伝えて!!」といった、ネトウヨ的志向がかいま見えるツイートも散見される。
奴は、自民党のJ-NSC(自民党ネットサポーターズクラブ)にいた
という説もある。真偽はわからない。
だが、自民党のJ-NSCが奴のようなネトウヨサポーターを利用し
歓迎していたのは事実だろう。
事件を起こす前までは。
奴は「障害者なんていなくなればいい」と言っていた。
かつてドイツ第三帝国は、
少なくとも知的障碍者や身体障碍者など20万人を殺害して殺した。
T4作戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/T4%E4%BD%9C%E6%88%A6
生きるに値しない命
そういう意味で言うなら、奴は
ナチス的な心情にも感化されていたとも言える。
ちなみに「ナチスに学べ」と言っていた麻生太郎の所属党である自民党は
「ネット対策特別チーム Truth Team」を作り、現在も運用しているが
「謝罪したい」と謝意を表明した相模原市障害者施設刺殺事件容疑者よりも
彼らはおそらく本気でそう思っているし
そして近い将来それを実行するだけの政治力が今の彼らにはある。
障がい者抹殺思想は相模原事件の容疑者だけじゃない! 石原慎太郎も「安楽死」発言、ネットでは「障がい者不要論」が跋扈
http://lite-ra.com/2016/07/post-2449.html
戦後最悪レベルのとんでもない凶悪な事件だけに、容疑者の異常性に注目が集まるが、残念ながら容疑者の“弱者を排除すべし”という主張は現在の日本社会において決して特殊なものではない。
石原慎太郎は、都知事に就任したばかりの1999年9月に障がい者施設を訪れ、こんな発言をした。
「絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状況になって……」
「ああいう問題って安楽死なんかにつながるんじゃないかという気がする」
ほとんど植松容疑者の言っていることと大差ない。舛添のセコい問題などより、こういった石原の差別発言のほうがよほど都知事としての資質を疑いたくなる。しかし、当時この発言を問題視する報道は多少あったものの、そこまで重大視されることはなく、その後、4期13年にわたって都民は石原を都知事に選び続けた。
+レヴェナント :未見 +ちはやふる :上の句見た。おもしろかった。 +愛の渦 :未見 +紙の月 :見た。おもしろかった。 +貞子 vs 伽椰子 :未見 +野火 :見た。すごかった。 +青い春 :未見 +花とアリス殺人事件 :見た。おもしろかった。 +リップヴァンウィンクルの花嫁 :見た。とてもおもしろかった。 +新しき世界(韓国) :未見 +そこのみて光輝く :見た。おもしろかった。 +海街ダイアリー :見た。まあまあおもしろかった。 +先生を流産させる会 :未見 +監督失格 :未見 +地獄でなぜ悪い :見た。おもしろかった。歯みがき。 +ファンタスティックMr.FOX :未見 +箪笥 :未見 +エデンの東 :未見 +クラウドアトラス :未見 +ファニーゲーム :未見 +エレファント :未見 +ライフイズビューティフル :未見 +小さな恋のメロディ :未見 +カッコーの巣の上で :未見 +歩いても歩いても :未見 +L.A Confidential :未見 +Zodiac :未見 +ウォーリアー :未見 +クラッシュ :未見 +博士と彼女のセオリー :見た。おもしろかった。 +フィフティシェイズオブグレイ :未見 +プレステージ :未見 +鍵泥棒のメソッド :見た。おもしろかった。 +アザーズ :未見 +サスペリア :未見 +スティング :未見 +ディセント :未見 +ニキータ :未見 +大逆転 :未見 +プリティ・ウーマン :未見 +地獄の黙示録 :未見 +50/50 :未見 +恋愛小説家 :未見 +カッコーの巣の上で :未見 +ノッティングヒルの恋人 :未見 +最高の人生の見つけ方 :未見 +最強の2人 :未見 +クロニクル :未見 +砂の器 :未見 +ビッグフィッシュ :未見 +ニューシネマパラダイス :未見 +フォレストガンプ :未見 +ビューティフル・マインド :未見 +ギルバートグレイプ :未見 +ノッキングオンヘブンズドア :未見 +ニューシネマパラダイス :重複 +フォレストガンプ :重複 +それでも恋するバルセロナ :未見 +ニキータ :重複 +砂丘 :未見 +アメリカの夜 :未見 +オータムインニューヨーク :未見 +ノッキングオンヘブンズドア :重複 +インヒアレント・ヴァイス :未見 +8月の家族たち :未見 +イミテーション・ゲーム :見た。とてもおもしろかった。 +落下の王国 :未見 +フォレストガンプ :重複 +ターミナル :未見 +ボーイフッド :未見 +ライフイズビューティフル :未見 +シークレットウインドウ :未見 +スペル :未見 +ヘンダーランド しんちゃん :未見 +フィッシャー・キング :未見
選定は「好きな芸能人がおすすめしてた」「amazonのレビューで評価高かった」「よくわかんないけど直感で絶対おもしろい気がしている」などなど
維新の会は最低賃金を撤廃し、足りない分を国が出すと言っている。
だが、ある国でこれと同じことを行い、財政の悪化と勤労意欲の低下を招いてしまった
1795年に始まるスピーナムランド制度は、物価連動制の院外救貧制度である。パンの価格に下限収入を連動させ、働いていても下限収入を下回る家庭には救貧手当が支給された。これはフランス革命の影響から物価が高騰するいっぽう、収入は増えず困窮する農民・市民が続出したためである。バークシャー州スピーナムランド村の治安判事は貧民の窮状を見かねて、対策を協議した。その結果、ギルバート法の院外救済の制度を拡大解釈し、パンの価格をもとに基本生活費を算出した。この基本生活費に収入が届かない家庭には、その差額分を補填した。
博愛精神から生まれたこの制度は、思わぬ副作用をもたらした。安い賃金でも差額を救貧費で埋めてくれるため、企業家たちが労働者の給与を切り下げだしたのである。救貧税は膨れ上がり、1810年ごろには当初の3倍以上に急増した。救貧税を負担していた農民は重税に耐えきれず貧民化し、いっぽうで貧民は働いても働かなくても収入がかわらず、勤労意欲を削ぐという事態まで引き起こした。
過去の過ちをまた繰り返してどうするんだよ
ちなみに維新の会がこの政策を実施し、企業が全く給料を支払わない場合に国が支払う総額は
となる。その総額なんと7兆円弱。(900円だと、9兆円弱必要)
#追記
金額が間違っているので訂正
こんにちは、分子生物学的恋愛論を専攻しているビオフェルミン嬢です。私は学会発表歴も論文もありませんしD6ですが、恋愛に関してはプロフェッショナル。今回は、モテるバイオ系女子力を磨くための4つの心得を皆さんにお教えしたいと思います。
1. あえて2〜3世代前のシークエンス解析結果を学会に持っていく
あえて2〜3世代前のシークエンス技法を使うようにしましょう。そしてポスター会場で好みの男がいたら話しかけ、わざとらしく自分のポスターを指していじってみましょう。そして「あ〜ん! この結果本当にマジでチョームカつくんですけどぉぉお〜!」と言って、男に「どうしたの?」と言わせましょう。言わせたらもう大成功。「DNAシークエンスとか詳しくなくてぇ〜! ずっとマクサム−ギルバート法使ってるんですけどぉ〜! 使いにくいんですぅ〜! ぷんぷくり〜ん(怒)」と言いましょう。だいたいの男は新しいシークエンサーを持ちたがる習性があるので、古かったとしても1世代前のシークエンサーを使っているはずです。
そこで男が「新しいシークエンサーにしないの?」と言ってくるはず(言ってこない空気が読めない男はその時点でガン無視OK)。そう言われたらあなたは「なんかなんかぁ〜! 最近次々世代シークエンサーが人気なんでしょー!? あれってどうなんですかぁ? 新しいの欲しいんですけど予算がなぁぁああい!! 私かわいそーなコ★」と返します。すると男は「次世代シークエンサーでしょ? 次々世代シークエンサーはまだ出てないよ。本当に良くわからないみたいだね。どんなのが欲しいの?」という話になって、次の休憩時間にふたりでメーカーブースめぐりのデートに行けるというわけです。あなたの女子力が高ければ、男が共同研究してくれるかも!?
「コミュ力あります!」とか「ジョブハンティング中!」などを表現するプライベート写真をスライドに入れると、フロアの男性研究者は「なんかこの子カワイイなぁ」や「雇ってあげたいかも」と思ってくれます。パワーポイント上では現実世界よりも成果が増幅されて相手に伝わるので、プライベート写真を多用することによって、男性はあなたを可憐で女の子らしいと勘違いしてくれるのです。そういうキャラクターにするとほぼ絶対にボスに嫌われますが気にしないようにしましょう。
3. とりあえず男の発表には「えー! なにそれ!? 知りたい知りたーい♪」と言っておく
学会などで男が話すことといえば自慢話や今後の計画の話ばかり。よって、座長にとってどうでもいい話ばかりです。でもそこで適当に「へぇーその結果が出ると何が嬉しいんですかぁ〜?」とか「よくわかんないですけどどこが新しいんですか」と返してしまうと、さすがの男も「この座長ダメだな」と気がついてしまいます。ダメ座長だとバレたら終わりです。そこは無意味にテンションをあげて、「えー! なにそれ!? 知りたい知りたーい♪」と言っておくのが正解。たとえ興味がない話題でも、テンションと積極性で質疑応答を乗り切りましょう。積極的に話を聞いてくれる座長に男は弱いのです。
いろいろと話を聞いたあと、「〇〇は〇〇で、〇〇が〇〇なんですね! 覚えたぞぉ! 転写転写!」とコメントすればパーフェクト。続けて頭に指をさしてくるくる回しつつ「キュンキュンキュン! キュンキュンキュン!」と言って、「どうしたの?」と男に言わせるのもアリ。そこで「私のクロマチンにエピジェネティック修飾によって記録しているのでありますっ☆」と言えば女子力アップ!
そこでまた男は「この子おもしろくてカワイイかも!?」と思ってくれます。私は学会発表歴も論文もありませんしD6ですが、こういうテクニックを使えば業績がない私のようなバカ女のほうがモテたりするのです。男は優越感に浸りたいですからね。
男と懇親会場に入ったら、真っ先にチーズやヨーグルトなどの微生物を使った料理を探して「あーん! 私これ食べられないんですよねぇ〜(悲)」と言いましょう。するとほぼ100パーセント「どうして? 嫌いなの?」と聞かれるので、「嫌いじゃないし食べたいけど食べられないんですっ><」と返答しましょう。ここでまた100パーセント「嫌いじゃないのにどうして食べられないの?」と聞かれるので、うつむいて3〜5秒ほど間をおいてからボソッとこう言います。「……だって、……だって、胃の中で微生物が死んじゃうじゃないですかぁっ! 細菌かわいそうですぅ! まだ細胞内小器官にもなってないのにぃぃ〜(悲)。腸内細菌叢すら形成できないんですよ……」と身を震わせて言うのです。
その瞬間、あなたの女子力がアップします。きっと男は「なんて優しいマーギュリスのようなコなんだろう! 絶対に共生してやるぞ! コイツは俺のミトコンドリアだ!」と心のなかで誓い、あなたに惚れ込むはずです。意中の男と付き合うことになったら、そんなことは忘れて好きなだけ発酵食品を食べて大丈夫です。「食べられないんじゃなかったっけ?」と言われたら「大丈夫になった」とか「慣れた」、「そんなこと言ってない」と言っておけばOKです。
Inspired by モテる女子力を磨くための4つの心得(http://youpouch.com/2011/04/26/162331/)