はてなキーワード: 松葉杖とは
精神を病んでホームレスになり、生活保護を受けながら就職活動してたら足の病気になって今は治療中。身長160センチで誰かとお付き合いしたことやセックスした事はなく、ただまあ別にいいかとそれなりに一人で楽しく生きてたんだけど、最近の弱者男性で盛り上がってるはてブを見るたびに「そうか、俺って弱者男性なんだな」と気付かされるわけです。俺は昔からそこらへん鈍感で、普段生きてて自分が低身長男性だと感じることはないし、松葉杖をついて歩くようになったらやたらと街ゆく人達が親切にしてくれるようになって世の中っていいもんだな、と感じてたりする。ただ、それはそれとして間違いなく俺は弱者男性のようだ。あなた達はてサーがそう分類するということは、街ゆく人達もまた俺を見てそう思ってるんだろうな。はあ、少しへこむなあ。
ある日、女はふと思った。
どうしていつも私ばかり道を譲っているのだろう。
ほとんど同時に回答は出た。なめられているのだ。
女は平均よりも小柄である。手足も比例して短く、肥るとすぐにずんぐりした印象になるので、体重が増えないように気を使っている。
毎日男達がやり取りする過程で生まれる大量の書類を、送付状をかけて三つ折りにしたり、封筒に入れて宛名シールを貼ったりして得た、お小遣い程度の給与で買えるペラペラの服に身を包み、年老いただけで責任の伴う出来事を経てこなかった人間特有の、実年齢の割にのっぺりと奇妙に幼い顔にドラッグストアで買った化粧品をおざなりに塗っている。
電車の座席などに女が座っていて、二つぶんのシートを開けてまた別の乗客が座っている場合など、次の停車駅で乗り込んできた新たな客は決まって女の隣に座る。
女の隣の座席のほうが余裕があるからだ。男の客などは左右の座席にはみ出すほど股を広げていたりするが、女は一人分の指定シートの範囲にすっぽりと収まっている。
車内がやや混み合っているときなど、女の、男の客より体格が劣るぶんだけのゆとりのあるスペースを見つけた乗客は、半ばほっとしたような顔つきで尻を滑り込ませる。
同じ調子で、人々は、道をすれ違うときもごく自然に体躯のいい男を避けて女のほうに寄ってくるのだ。女はさらに彼らを避けるために、体の小ささのぶん狭い歩幅で右に左に細かく蛇行しながら道を歩く羽目になる。物心ついた頃からその繰り返しである。
道いっぱいに広がって、他の人に迷惑をかけないようにしましょう。
幼稚園だったか小学校の頃だかの「交通マナー教室」でそんなことを聞いたような気もするし、少女時代にはそれを守っている「マナーのいい」自分をどこか得意に思っている節もあったけれど、いつの間にやらそんな物分かりよく振る舞っているのは自分だけのようだった。
それどころか得意満面で横一列に肩を並べて笑いあいながら歩くのが当然である。
これは男子中学生、高校生でも、スーツ姿のビジネスマンでも、中高年になっても同じなのが女には不思議でならなかった。
「あれは群れの序列を示していて、一歩後ろに下がると集団での地位が低いと見られるので、横一列にならなくてはいけないのだ」という言説をインターネットで見かけたが、本当なのだろうか。
女は男の集団に入ったことがなかった。彼らとぶつからないようにふらふらと漂いながら机を拭いたり、ゴミを捨てたり、他の女たちと話し合ってバレンタインデーのチョコレートを買ったりしていただけだった。
自分の家族や恋人とも頑なに並んで歩こうとする男も珍しくない。
他人に道を譲る思いやりのないところを大切な人に見せつけたいというのはどういう心境だろう、それならベタベタと腕を組んで引っ付き合って道の端に寄っているほうがまだマシではないかと考えてから、実際女は交際していた男と連れ立って歩いていて、他人とすれ違うときは自分が男の後ろに下がっていたことを思い出した。
女は昨年、仕事帰りに転倒して脚を痛めた。
体のほんの一部を怪我しただけで、これまで何でもなく行ってきた日常の動作が困難になるストレスは大きく、女は半ばヤケクソのような気持ちで松葉杖をつき、歯を食いしばりながら片足を引きずって歩いた。
すると、どういうわけか、これまで当たり前に女が道を譲ることを期待して反対側から歩いてきた人々は、女の杖や引きずった脚に目を留めるとバツの悪そうな顔で避けるようになったのだ。
彼らは、怪我人を思いやる程度には善良なごく普通の人々であった。
平時でも体格のいい人間とぶつかったら、私のほうが転んだり怪我をする可能性が高いことには変わりないのに、松葉杖のようなわかりやすい目印がないときは、彼らはそんなことは気にも留めないのだ。
道端に転がっている小石や落ち葉をいちいち気にしないのと同じだ。軽んじられているのだ。なめられているのだ。
思えば、どんな場面でもそうだった。医者も、タクシーやバスの運転手も、市役所の窓口の職員も、女を見るといつもよりぞんざいで、「そんなことも知らないのか」と言わんばかりの態度で、時にはため口を利く。女は当たり前のようにそれに敬語で従ってきた。
あるときは、さほど狭くもない道で、わざととしか思えない角度で急接近してぶつかってこられたこともあった。自転車ですれ違った男が、気づくと引き返してきていて、追い抜きざまに女の胸を掴んで走り去ったこともあった。
軽んじられているのだ。どんなふうに扱ってもいい存在だと思われているのだ。
女の中で怒りがとぐろを巻いて大きくなった。
松葉杖や車いすなら道を譲るくせに。もっとわかりやすくおばあさんなら道を譲るくせに。私が男だったら道を譲るくせに。
私が女じゃなかったらそんな口を利かないくせに。ぶつかったり体を触ったりしないくせに。
どうして私には何をしてもいいと思ってるんだ。おかしいじゃないか。おかしいじゃないか。おかしいじゃないか。
そういえば、女がまだ小学生か中学生だったころ、叔母と一緒に歩いていたら対向から若者の集団が歩いてきたが、叔母はまったく道を譲ろうとしなかった。
叔母とぶつかりそうになって寸でのところで若者は避け、忌々しそうに「クソババア!」と罵ったが、叔母は涼しい顔で歩き続けた。
思い返せば、これまでにすれ違った数多の人々の中にも、決然とした目つきでまっすぐに道を歩いてくる女たちがいた。
彼女たちは「絶対に道を譲るものか」といわんばかりの、睨みつけるような顔をしていた。
叔母も、あの女たちも、ある日こんなふうに気づいたのだろうか。
「なぜかいつも私ばかり道を譲っている」と、腹を立てて、「もう道を譲るのはやめよう」と思ったのだろうか。
女は心に決めた。
私も譲られるのが当たり前みたいな顔をしている人に譲るのは、もうやめよう。
ぶつかって転んでけがをするかもしれないけど、そのときは怒ればいい。「女だからなめてんだろ」「わざとぶつかっただろ」と。
右足の脛を完全骨折して3ヶ月松葉杖で東京で一人暮らしをしたことがある
特に骨折初期は折った足に全く体重をかけない歩き方(全免荷)が必要で
歩き方ができるようになってかなり楽になっていく)
慣れても階段が相当怖かった
雨の日は滑る恐怖で大変だった
なんか流れで手術しないでギプスのみの治療になったが
正直手術で固定した方がよかったと後悔した
プログラマーの業務委託で新規常駐案件入る直前で折ってしまって
2週間しか遅らせられないと言われて予定の2週間後に案件に入ることに
その某駅までどうたどり着くか悩んでとりあえず構内図を検索して地下鉄のルートを確認
バリアフリー化のおかげかエレベータで階段を使わずにいけるルートがあった
ただルートが複雑で構内も距離があり、今まで全く通ったことのないルートで
そもそも今の住居が3階かつ狭い階段のみで階段の上り下りの時点でしんどい始末
初日が相当不安で、ストレスのせいか帰りのタクシー内で過呼吸になった
担当の医者の方に相当冷たくあしらわれたのが本当に心につらかった
今苦しいからその治し方を聞いているのになんか精神的なものだから
あきれ顔で言われたのを覚えている
自分のできる範囲で息を止めることを繰り返した方が早く治ると思う
webによると紙袋をかぶせる方法は加減を間違うと窒息することがあるらしくやめた方がよいらしい
ちなみに上の原因と対応方法を担当医は全く教えてくれなかった)
初日から本当に気分が沈んで今後やっていけるか不安しかなかったが
おかげでどうにかなりました、本当にありがとうございました
使っていたため衣食に支障をきたしていた
家の中ではほとんど動けない
外に買い物に行けるわけもなく
常駐先では昼を買いに行くのは難しく
だからカロリーメイトと500mlのお茶を大量購入してリュックで持ち込み
昼まったく動かなくてすむようにしていた
(そのうち慣れて水も食料も社内自販機でどんどこ買うようになった)
ネットスーパーで下着を大量購入して外は汚さないように2~3回着回しつつ
2週間くらいためこんで親に来てもらって洗濯をお願いした
その後は2週間くらいためこんで1/3荷重かけられるタイミングで
一度できれば大体何とかなったのだが
一回だけ階段を二、三段くらい上ったところでバランスを崩し下に落ちて
死
と思ったことがあった
背中のかご→尻もちの順に落ちる感じで事なきを得た
タクシーは1日あたり往復10000円弱かかり金銭的にしんどかったのと
普段普通に歩いているときは皆誰にも関心がないように見えていたから
こんなに席をゆずられるとは思っておらず驚いた
サポートをもらったときは必ずお礼を言うように気を付けていた(と思いたい)
電車では譲ってくれた人を覚えておいて自分が先に降りる場合は改めてお礼を言うことを心掛けた
席を譲ってくれる人が増えてくれそうな振る舞いをしたかった
今はもちろん完治して、普通に歩いて生きている
今後松葉杖の方を見かけたら、今度は自分が譲る側になりたいと思う
昔を思い出してこの日記を書いた
北風と太陽ではないが、周りに不愉快や反発を生みそうな方法でなくて
もっと周りがサポートしたい、サポートしてよかったと思える方法で
社会を変えていくことってできないのかな、とちょっと悲しく思った
でも自分に思いつく案は車いすや骨折した女の子の日常系マンガぐらいしかないんだな
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余談
ギプスはかゆみとの闘いがやばい
それでも不十分で地獄の時を過ごすことになる
だがその地獄の後、ギプスを外せた直後は
足は非常に敏感になっていて
かくと本当に気持ちがよい
本当に気持ちがよい
(本当に気持ちよかったので二回書きました)
この気持ちよさを皆一回味わってみてほしい
が骨折は味わわないでほしい
と思ってぐぐったらアトピーの人でそうなっている人がいた
分かるー
完治する方法見つかったらいいな
視覚障害者(白杖の方)、車椅子、歩行器や杖を使った老人、松葉杖を使う病人の方、ヘルプマークの方やその介助者等が乗る車両だ。
女性専用車は別途設置、女性専用車の位置については各路線の混雑しにくい位置の車両をケースバイケースで設定すればいいと思う。
なんでこんなことを言い出したのかというと、私が鉄道会社で車掌をしているからだ。
障害者の介助は色々と大変で、車椅子用のスロープを用意したり視覚障害者の場合は肩を掴んでもらって誘導したり、介助を断られた場合も遠くから見守ったりと駅係員の方には頭が下がる思いだ。
元気なお年寄りが多いが、元気なつもりでも歩くのがゆっくりだったり荷物を乗せるのに苦労していたりといった光景は多い。
車掌視点だと、目で確認できる範囲は精々車両側面と後ろ2両の車内ぐらいのものだ。
かろうじて見えるシルエットや、駅によっては備え付けのモニター等を使用して状況を判断しながら扉を閉め、電車が出られる状態にするのが車掌の大きな仕事の一つだ。
そんな感じなので、全員の乗車が終わって扉を閉めるタイミングになってから編成の中程からヌルっと出てこられると非常に肝が冷える思いをすることになる。
そんな感じなもので、時折杖を挟んだまま発車した、ベビーカーを挟んだまま発車したなどの事故が発生する。
事故が起こったときの車掌の責任は結構重い。業務上過失傷害罪ですよ過失傷害。
正直乗務員は痴漢とかよりよっぽど気を尖らせている。自分の責任で人が死にかねないのだから当然だ。
まあ乗客はそんなこと知らずに飛び込んだり飛び降りたり杖挟んだり傘挟んだり。
介助者なしで乗り込もうとする無謀な車椅子や勝手に乗って降車駅で転倒する車椅子に、発車数分前に駅に来てすぐの電車に乗せろといい、断ればクレームを入れてくる車椅子の介助者。
確認のため声をかければ機嫌を損ねる視覚障害者に関係ない駅で飛び降りて騒ぎを起こす泥酔の客。
皆何かあっても自己責任だからとか考えてるんだろうけど何かあったときにはこっちの責任になるんだ。責任は自分一人だけなんて思い上がるのもそこまでにしてほしい。
最後尾は車内で一番車掌の目が届く場所だ。車椅子や白杖の客がいればだいたい目にとまる。
目にとまったら車掌は隙を見て降車駅の確認に伺えるしそうでなくても動向に注意することが出来る。会社によっては降車の手配もするところもあるだろう。
「とにかく最後尾は優先車両!」と業界全体でルールにしてくれたら初めて乗る路線でも分かりやすくていい。
自分で出来ることは尊重すべきとか障害者の自立とかないがしろにする気はないがこっちから言わせてもらえば安全第一だ。
電車のドアって万が一にも転落しないように物凄い空気圧で抑えてるんだよ。
一度挟まれてみたらいい(よくない)。大の大人でもすごく痛いから。
今の電車は加速も最高速も優れた迫りくる鉄の壁みたいなもの。駅のホームは危険の塊だから用心して行動してほしいの。
安全第一でお願い。
遅延は乗務員が詫びれば済む。数分の遅れ程度で問題になるようなスケジュールの杜撰さと心の余裕のなさが問題だろって内心多くの鉄道従事員は思ってるだろうけど取り敢えず詫びればいい。
と、DeepL翻訳を駆使して書いてみた。
その辺りはご愛嬌って事で。
なお、元増田は観に行ってません。
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これから書く文章はキングコング西野の絵本を劇場アニメ化した「えんとつ町のプペル」の感想である。
なお、私はこの映画を見てないし例え賄賂を貰っても観に行く事はないだろう。
つまり、これは私の想像に基づく感想文です。正確かもしれないし、正確でないかもしれない。
しかし、私は気にしない。これは語り継がれるべき物語だ。そして、それは全体として語られるに値する。では、始めましょう!
大前提として、キングコング西野がお笑い芸人を気取った炎上インフルエンサーであることに注目する必要がある。これは彼の作品に共通するテーマのようです。
これについては、「なぜ?これは、意志の弱い者のための松葉杖としての皮肉な現代の風潮に対する、ある種の皮肉なコメントなのだろうか?彼は本当にこのように気取っていたのだろうか?彼はそんなに面白かったのだろうか?(No.) 彼は刑期を終えて釈放されたヤンコ・ウルラの次の笑い中心のコメディアンになろうとしていたのだろうか? いやいや...
私はどこにいたんだろう?
どうやら「ペプル」なる少年を主軸としたジュブナイルファンタジーらしいのだが、私は原作を読んでないのでその様に類推した。が、もしかすると蒸気機関の様な何かが出て来るので、スチームパンク…もしくはそれに類する何かが出てくるのだろう。
重要なのは子供向けに作られたものだということだから、それはどうでもいいことだと思う。
私は子供向けの映画に文句を言う人ではありませんが(というか、誰がそうなのか!)、これは退屈しました。登場人物はすべて一次元的で、予測可能で、それらのどれもが歌うことができませんでした。
曰く「キングコング西野の影がチラついて鑑賞の妨げになる」と。
これは当然だと思います。
前述の通りキングコング西野は「炎上インフルエンサー」です。自身を執拗にアピールすることなぞ当たり前にやってのけます。それが彼の特技だからです。
「炎上インフルエンサー」は全員悪目立ちしないとお金が稼げない成年被後見人以下のクソ野郎なので、そこは笑って忖度してあげましょう。
しかし、この場合はキングコングが正解かもしれない。そう、この映画はひどい。でも、人が見に行かなければ世界が良くなるとは思えない。
最後に。
極端に聞こえるかもしれませんが この世の「炎上インフルエンサー」が 一人残らず絶滅することを心から願っています 数が多すぎるからね。
それは一般的に世界のために、これらの人々が死ぬべきであり、私は彼らが死ぬべきであると私たちの種族のために、特にそれがより良いと思います。
なぜですか?
もちろん、職業選択の自由はあるので一概には言えませんが、過激な言葉で注目を集める人が突然死しても何ら問題はないと断言します(YouTubeでも似たような行動をしています)。
彼らが絶滅してくれれば世の中が良くなると思う。彼らの才能で稼げなくなっても、いずれは消滅するだろうし、それはそれで良いことだと思います。
終わり。
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(おまけ。英語版)
What I am about to write is my impressions of "Pupel of Entotsumachi," an animated film based on King Kong Nishino's picture book.
I haven't seen this movie, and I wouldn't go see it even if I were bribed to do so.
In other words, this is an opinion piece based on my imagination. It may or may not be accurate.
But I don't care. This is a story that needs telling. And it deserves to be told in its entirety. So let's get started!
As a basic premise, it is necessary to note that King Kong Nishino is a flaming influencer pretending to be a comedian. This appears to be a common theme among his work.
I have no real questions about this except why? Is this some sort of ironic commentary on the modern tendency towards irony as a crutch for the weak-willed? Was he really this pretentious? Was he even that funny? (No.) Was he trying to be the next laugh centered comedian Yanko Urla released after his prison term? (No.)
Where was I?
Now, let's talk about the important part of the story.
It seems to be a juvenile fantasy about a boy named "Pepuru", but since I haven't read the original, I guessed it that way. I haven't read the original, so I'm guessing that's what it's about, but maybe it's steampunk or something similar, since there's something like a steam engine in it. I suppose it doesn't really matter, since the point is, this thing was made for children.
Now, I'm not one to grumble at a child's movie (I mean, who is?!) but this one just bored me. The characters were all one-dimensional, the predictable, and none of them COULD sing.
In fact, I knew the reputation of this movie beforehand.
I was told that "the shadow of King Kong Nishino flickers in the background and interferes with the viewing.
As I mentioned above, King Kong Nishino is a "flame influencer". It's no surprise that he appeals himself relentlessly. That's because it's his specialty.
All "flame influencers" are wards of the law or worse who need to stand out to make money, so let's just laugh at them and let them be disciplined.
In this case, however, King Kong might be in the right. Yes, this movie is terrible. But I'm not convinced the world would be a better place if people didn't go to see it.
Finally.
I know this may sound extreme, but I sincerely hope that every single "flaming influencer" in this world will die out. There are too many of them.
It is better for the world in general, that these people should die out, and I think it is better for our kind specifically, that they should die out.
Why?
Of course, there is freedom of choice, so it is difficult to say for sure, but I assure you that there is nothing wrong with the sudden death of those who attract attention with their radical words (or similar actions on YouTube).
I think the world would be a better place if they were to just go extinct. If they are unable to make money with their talents, they will eventually disappear, and that's good for all of us.
東京での人の道でのすれ違う時の様子には時代の変化も感じます。
私は昭和の高度成長期育ちなのですけど、子供の頃は都内の狭い道を大人同士が交差する時に「すみませんな」、「ごめんなさいよ」、「どうもね」等と声を掛け合って体を捻じ曲げるようにしてでも衝突を避けている人が大勢いましたね。下町だったからまだ江戸期から明治、大正、戦前の昭和までの庶民文化の片鱗が残っていたのかも知れません。衝突率は酔っぱらい以外はほぼほぼゼロです。
まぁ、無愛想な人もいるので頭を気持ち下げて片手をちょっと上げて無言の「どうも」サインの人も沢山いたけれど。個人的には、この時期に東京は地方からの大量の集団就職とかで来た人々が暮らしていて、地方のなまりを聞かれるのが嫌で黙っている人が増えたのかなと感じていました。そして、この無言派の人々が増えたよね。結果、無言同士の「どうも」サイン交差がメジャーになってたな。まだ聞こえるか聞こえないか位の小さな声かけが残ってたけど。
平成の中頃になってから気がついたのは「おや?日本人(東京でだけど)は全く無言で交差するようになったなぁ」と言う変化。ベビー・ストーラー(ベビー・カー)を押して来るお母さんや松葉杖の人に道を100%譲っても、かなりの人は無言「どうも」サインもないんだなー。まぁ、感謝して欲しいから道を譲ってる訳でもないし、個人主義とやらの時代なんだろうが、知らない人同士のコミュニケーションや潤滑油は消えたと感じたかな。悪意で解釈するとそれが当然の権利だとか主張されてる感じ。善意で解釈すると、そこまでシャイで内向的な人が増えちゃったの?と言う感想。そんなんだと結婚生活やら家庭生活大変だろうなとか余計な事を思ったりする。さらに雨の日なんかには「傘かしげ」すらしない人も激増しているから、無言のぶつかり合いをよく見るようになった。私はそういうの嫌なんで速攻逃げてますが。。そのうち、出るんじゃないかな、「お前の傘で怪我したろ治療費払えよ」詐欺。
因みに、米国とか雑多な民族が一緒に暮らしてる国だと、知らない人同志の声掛けやあいさつは常識レベル。日本で暮らし始めた米国人とかと目があうだけであいさつしてきたりする、あれ。あんな感じ。ビジネス街ではいちいち挨拶なんかしないけど、郊外の住宅街とかだと知らない人同士でも挨拶してた。日本ではバス待ちとかでは皆黙って静かに待ってるけど、米国(といってもワシントンDC近辺)では結構、知らない人同士でも会話する。ある時、赤ちゃんをだっこしたお母さんと私だけでバスを待ってたら、そのお母さんがいろいろ話しかけてくる。私もそういうのに慣れて返していると、途中で、そのお母さんとっても安心した表情になったんだよね。その時の雰囲気である事を悟った。あなたはヤバイ人じゃないよね、安全な普通の人だよね、私達親子に手出ししないでお互い何事もなくバス乗っていきましょうね、と確認してるんだなぁ、と。因みにこの国では通行で体がぶつかるなど絶対禁忌だからまず無い。もしそれが起こったらかなり面倒くさい。
米国から日本に帰ると、日本を良くも悪くも感じた。デパートのガラスドアの向こうに女性がやってくる。私が慣れたのは男性がドアを開けてあげて、女性をまず通してあげる文化。女性はニコッと微笑んで「ありがとう」と言ってくれる社会。日本でこれをやると女性が戸惑うか、極度に恐縮される。もしくは一部は過剰に喜ばれる。まぁ、早いもの勝ちで通ってく文化に、そう文句がある訳ではないけれど。
私は特に今の日本の悪口を言いたいわけでは無くて、その特徴や変化を述べたかっただけ。今の日本、暮らしやすくなったところもたくさんありますよ。例えば、昔は赤ちゃんを「おんぶひも」するのはお母さんの役割で、お父さんがこれをすると周りから奇異な目でみられて大変なプレッシャーがあった。我が家ではお母さんが疲れたら、赤ん坊のおんぶは犯罪ではないと社会の逆風に逆らってお父さんがおんぶしてたのですが、隣から物笑いの種にされたりでもう大変。今は普通にお父さんも「だっこひも」できる時代で良いよなーと感じます。
昔は良くも悪くも男尊女卑の時代。この時はみんなが喜んで暮らせる鍵は男にあって、男が周りを思いやって親切に努めるとかなりうまくいっていた。今は良くも悪くも女性の権利の時代。この時期にみんなが喜んで暮らせる鍵は女にあると思うな。女が周りを思いやって親切に努めると何が起こるだろうか。東京の通行で、実は女性がぶつかってくる時代の電子記録に、残しておきたい思いです。
先日ついうっかり足を捻挫してしまい、しばらく松葉杖生活となった。
その際に気付いたことがあるので書き留めておこうと思う。
「男性はぶつかってくる」
男性は駅や街の雑踏でぶつかってくる。それは女性を無意識に見下していて、避けないからだ。
これは女性なら多かれ少なかれ心のなかに共有された理解であると思う。私もそう思っていた。
もちろんわざわざぶつかってくる一種の変態もいる。彼らを置いておいて、男性一般に関しての話だ。
これらは集団としては成立するが、これを個人個人に還元しようとするのはナンセンスだろう。あくまでもマクロな話であると念を押しておく。
私が気付いたのは、「女性はぶつかってくる」ということである。
私は定期の関係で新宿や秋葉原でよく下車するため、コロナ禍の中でも雑踏を通る機会は多い。
それらの街は動線がグチャグチャだが、周囲に注意しつつ動けばなんとか動ける。そんな感じだ。
性別問わず誰も彼もぶつかってくるように見えたし、実際何度もぶつかりかけた。
結局どうしても動けず電話で友人を頼って一緒に助けてもらうこともあったが。
何日か経つと、なんとなく動けるようになった。
人の動きに意識を向けていると、なんとなく今まで意識していなかった法則性がつかめてくる。
真正面から来る人を避けるには、二人合わせて1人分の幅を譲り合えばいい。簡単のため、これを「人幅」という単位で表すことにする。
まずは男性。男性は比較的早い段階、10メートルほど前方から回避を始めている。これは意外だった。
男性は平均して0.7人幅ほど回避してくれる。(松葉杖をしているときはほぼ1人幅避けてくれていた)
あとの0.3人幅はあなたが避けてくださいね、ということだろう。
会計で女性に少額だけ出させて貸し借りにしないというのと同種の心遣いであろうか。(もちろんそこまで深く考えてのことではないだろうが。)
こちらも少しだけ避ければ回避できる。これは実にスマートなやり方である。
これはたまたまだが、検証の段階でわざとぶつかってくる男性とは遭遇しなかった。
一方、女性。
女性はあと数歩という段になって、ようやくこちらを認識し、迷惑そうな顔をしてきっかり0.5人幅回避する。
繰り返すが、平均である。きちんと回避する女性もいるのは当たり前である。
しかしその数歩、1.5メートル前後で回避できるのは運が良い時だけ。
他の通行人や互いの相対速度など、他の要素が入れば容易にその安全距離は消え、ぶつかってしまう。
こちらが検証ということで十全に注意していたから良かったものの、普段ならぶつかってしまうようなインシデントは多くあった。
ここから導き出されるのは以下の仮説だ。
1.男性と男性は互いに0.7人幅ずつずれているので、ぶつからない。
2.男性と女性は、男性が0.7人幅ずれている状態で、残りの0.3をずれるかどうかでぶつかるかが決まる。
3.女性同士は相対速度が小さいため、ぶつかりにくい。
さらなる検証が必要である。自分に加え、同僚の男性A氏の協力(意識と記録をしながら一週間通勤してもらった)もとりつけて実験を続行した。
1は、新宿駅中央通路での観察の結果、おそらく正しいという結論に至った。A氏の経験と観察からも、恐らく正しいということだった。
A氏は検証のため何度もぶつかりかけながら、正しいと結論付けた。
体感として「あと数歩で女性が0.3人幅避けるパターン」は4割、「女性が避けないため自分が避ける」のが6割ということだった。
6割のうち、男性が避けないことがあれば、それが「ぶつかった」ということであり、女性からすれば「男性がぶつかってきた」ということになるのだろう。
実際は男性が0.7避けてくれていて、大体の場合1.0人幅を丸々回避させてしまっているだけなのにも関わらずである。
自分でも観察したが、恐らくこれは正しい。もっとも、私の観察する限り男性が避けるパターンが8割ほどだった。
「女性が0.3人幅避けない」パターンだった。男性はきちんと避けていた。女性が全く避けなかったのだ。
男性は不快そうな顔をしただけで行ってしまったが、女性は痛そうにしていた。体格が違いすぎるのだ。私は自分の苦い思い出と重ね合わせつつ同情した。
男性の方も少しくらい心配しても良いではないか、と怒りが込み上げてきたが、彼からすれば「自分は0.7も避けてやったのにぶつかってきた」ということになるのだろう。これは客観的に見て正しいし、彼は道理としては被害者ではある。が、やはり痛そうにしている人のことを放っておくのは見ていて忍びない。
女性にとっては「男性がぶつかってきた」という記憶となって残ることだろう。誰も得をしていない。
3は、間違っていた。
女性同士は軽度の接触事故を多々起こしている。ニアミスもこのパターンが最も多い。
しかし運動エネルギーE=1/2mv^2の、mもvも互いに小さいために痛くない。(威力に握力は関係ない)
恐らく記憶に残りにくいのであろう。
ここまでの実験で「女性はぶつかってくる」ということがある程度立証できたと思う。
では何故ぶつかってくるのか。私は生物学にも文化人類学にも社会学にも明るくないため、門外漢(門外女?)の適当な妄想ではあるが考えてみた。
仮説1: 女性は動体視力や空間認識力がよくないため、相手の動線を上手く認識できない。
これは女性が運転が苦手な理由としてインターネットで見たものを流用した。狩猟を行っていたために動体視力が発達した男性に対し、女性は採集をしていたため静物を見るのが得意なのだ、という主張だ。が、これはいくらなんでもおかしい。現に私はきちんと認識できたし、人間の歩行速度なんてたかが知れている。トンデモ説として却下した。
これは若干迷ったが、却下した。確かに女性の方が歩きスマホ率は高かった。しかも見ていて気付いたのは、男性は歩きスマホをしていても前をこまめにチラチラと見ている場合が多いのに対し、女性は前を見る周期が低いかあるいは全く前を見ていない場合が多いということである。全く前を見ない女性は今までよくもまあ無事に生きてきたものだと感心してしまった。が、これも論拠としては弱いように思われる。スマホをしていなくてもぶつかってくる女性は多い。
仮説3: 女性は避ける気がない/避けるという選択肢をハナから持っていない
これだろうという気がした。
相手が避けてくれるだろう、自分が避ける必要はない。何故自分が避けなければならない? こういう意識で歩いているのではないかという気がする。そうすれば最もうまく説明がつく。上の危険歩きスマホもこれが根底にあると思われる。考えてみれば口喧嘩でもなんでも、女性の方が自説を曲げることが少ないような気がする。
これがポジティブに女性が胸を張って歩ける社会が来たと見るのか、ネガティブに女性が社会的に甘やかされているためだと見るのか、女性が本能的に傲慢だからと見るのか、どれが正しいのかは分からない。
これだけは言える。
そして世の女性諸氏に、ぶつかっているのは男性ではなく自分自身なのだと気付いてほしい。
ただ、男性には申し訳ないがもう少し避けてくれることをお願いしたい。あなたがたが避けてくれていることはよく分かった。でもあなた方はぶつかってもなんともないだろうが、女性との体重差は2倍近い。ぶつかられた方は、ものすごく痛い。少しだけ進行方向を変えるだけで救える命があります。
長くなったが、このささやかな研究に協力してくれた同僚のA氏、同居猫のB太、それから勝手に観察させてもらった新宿駅の通行人の皆様に感謝を伝えたい。
ホットエントリーに上がっていたこんな記事にふとした気まぐれで目を通した。
業界人が選ぶ、過去10年で最も優れていたビデオゲーム(IGN Japan)
https://jp.ign.com/games/46189/feature/10
ゲームは年に1本買うか買わないかのライトゲーマーなので大半の作品はタイトルも知らなかったし、業界人たちのコメントを読んでいてもピンと来るものはなかった。しかしその中でひとつのコメントにちょっと心が動いた(太字筆者)。
簡単な答えは『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』ですが、統計的な考え方では、私は『Gorogoa』を選びたいです。デモの早期リリースと、その結果である早い時期でのハンズオン体験のおかげで、本作は何年にもわたって私のGOTYであり続けました。『Gorogoa』は魔法のように魅惑的で斬新なゲームです。明確なビジョンに基づいたこの作品は、ゲーム作りの過程が全く想像できないほどの複雑な成果をもたらしました。新しいメカニクスと新しいインターフェイスを持つ本作は、芸術と技術、物語、正真正銘のパズルをシームレスに融合させています。これは私がエッシャーの作品や、キット・ウィリアムズの絵本、「まほうの筆(The magic paintbrush)」をはじめとする私の好きなおとぎ話から得たすべてのものを凝縮した体験です。『Gorogoa』はハッと息を呑むような驚きを私に与え、私の心を喜びで満たしてくれました。開発者のジェイソン・ロバーツにはこの作品に満足したまま何もせず、別のゲームを作らないでほしいと私が願うほど、『Gorogoa』は本当に唯一無二の傑作です。
本職のゲーム開発者がここまで絶賛するゲームとはどんな作品なのだろう、と急に興味がわいた。
元来パズルゲームは好きなほう(MYSTシリーズは全部やったし、ふだんも数独や倉庫番をヒマつぶしに遊んでいる)なので、ちょっとやってみようかという気になった。PlayStation Store で1,528円。安い。
遊んでみた。雷に打たれたような体験だった。まるでマグリットの絵の中で『無限回廊』を遊んでいるような感じだった。
感想については私の拙い語彙でくだくだしく書くよりももっとすぐれたテキストがネットにあるのでそれを見てもらえば十分だ。
『Gorogoa』認知のフレームを軽やかに飛び越える絵画的パズルゲーム【インディーゲームレビュー 第40回】(ALIENWAREZONE)
https://alienwarezone.jp/post/1321
GOROGOA が見ている(ゲーム感想)(S. Miyata)
https://note.com/38tter/n/nb58c34279de7
そして本稿で私が書きたいのはこのゲームの紹介ではない。
この何の説明もなく謎だらけでタネ明かしもない不条理ゲームに、どうにかして「解釈」を与えたくなったので、そのメモである。
後半に至ってはほぼ創作だが、ゲーム中では語られなかった「裏設定」を私が想像で補完したものだ。
ある日、街に巨大な謎のクリーチャーが出現する。街並みに隠れて全容は見えないが、アパートの屋根ごしにカラフルなたてがみが見えるほどだからかなりの巨体だ。
古文書には、五色の果実が盛られた器を若者と年配者がふたりで支え捧げる様子が描かれている。
聖獣ゴロゴアの怒りを鎮めるには、世界に散らばる五色の果実をすべて集めて捧げなければならないようだ。
ひとつめの赤い果実は、とある民家の庭木の枝になっており、車椅子に座った謎の男が見守っていた。
枝にとまった烏がつと飛び立つと、赤い果実は器の中に転がり落ちた。
ふたつめの緑色の果実は、町はずれの穏やかな公園の女神像が手に持っていた。
廃墟にたたずむ松葉杖をついた男性がゴロゴアの姿を思い描くと、廃墟の壁紙の紋様はゴロゴアの瞳となり、その緑色の瞳は果実となって器の中に転がり落ちた。
ランプの灯りをたよりに仄暗い部屋で寝食を忘れて何ごとかを熱心に研究する男性。部屋の片隅には松葉杖。この男も足が悪いのか。
ランプのひとつひとつに星の明かりを捕まえ、その明るさに惹き寄せられて来た蛾たちに導かれるままに道を進むと、夜空の星のひとつが黄色の果実となって器の中に転がり落ちた。
気づくと色あせた写真の中にいた。壁にかけられた五枚の写真のうちの一枚だ。
杖をついて世界の果てを巡礼して回る男に助けられながら写真から写真へと歩みを進めると、どこにあるとも知れぬ神殿に捧げられた青い果実を手に入れた。
たくさんの資料に埋もれるように何かを研究する初老の男性。部屋の片隅には愛用のステッキ。
蜘蛛の巣のように街を縫って走る路面電車を初老の男性の助けを借りて乗り継いでいくと、高い塔の頂上で最後の果実、紫色の果実を手に入れた。
果実の盛られた器をゆっくりと宙に捧げると、五つの果実はまばゆく光りながら激しく燃え上がった。
──その時、突然器が砕けた。
ゴロゴアが怒り狂うと、空には虚無の淵がばっくりと口を開け、世界は暗黒の炎に包まれた。
儀式は失敗したのだ!
私は身体を闇の炎に焼かれながら尖塔のやぐらから転落し、瀕死の重傷を負った。
長いあいだ車椅子の生活を余儀なくされたが、頭はゴロゴアのことでいっぱいだった。
何がいけなかったのか。どうすればあの獣の怒りを鎮めることができるのか。
聖獣ゴロゴアは時おり暴虐の限りを尽くした。
ゴロゴアが暴れると街は爆撃を受けたように廃墟と化し、あちこちで火の手が何日もくすぶり続けた。
焼け残ったがれきの中から資料を掘り出し、聖獣ゴロゴアをよく知ることにつとめた。
一方、気まぐれに襲ってくるゴロゴアの攻撃の合間を縫って人々は街の復興を始めた。
がれきを片付け、建物を建て直し、鉄道を引き、時おりゴロゴアによる破壊を受けながらも、それを上回る勢いで街は発展を続けた。
私の部屋の壁はゴロゴア関連にとどまらず、世界の様々な伝説、伝承、考古学の書物で埋め尽くされた。
時おりゴロゴアの来襲があると電気は止まり、暗い中でランプの灯りをたよりに研究することもあったが、私は寝食を忘れて研究に没頭した。
その間中、私は「何かの視線」を常に感じていたが、それが何かはわからなかった。
ただ、私の研究が、誰とは知らぬその視線の主の助けになっている、そんな実感がなぜかあった。
研究を進めるうち、私の心のうちには、ゴロゴアに対するどこか畏敬の念のような気持ちが芽生え始めた。
そしてその畏敬の念は、やがて純粋な信仰心へと変化していった。
ゴロゴアの怒りを鎮めるには、我が身と心をゴロゴアに捧げなければならない。そうすることでしか儀式はきっと成功しない。
私はそう思い詰めるようになっていった。
私は巡礼者となり、ゴロゴア信仰の源流をたどって世界各地を巡礼することにした。
体調は決して万全とは言えなかったが、ゴロゴアにこの身を捧げるという信念が痛む脚を前へと運ばせたのである。
研究の進捗が遅々として進まず年月が無為に流れていくばかりになると、時おり深い絶望に襲われることもあった。
無力感にさいなまれるそんな時には、決まってあの悪夢の日、儀式に失敗した日の転落の記憶がフラッシュバックした。
そうした場面にも、常に「あの視線」は私とともにあった。
月日は流れ、私も初老と呼ばれる年齢になり、髪も髭もすっかり白くなってしまったが、私の研究は大詰めを迎え、ついにひとつの結論に到達しようとしていた。
この記述によれば、儀式はふたりの人間によって為されなければいけなかったように思える。
たしかに、最初の儀式は自分ひとりで行ったために失敗してしまった。
では、儀式を成功させるためには、あらためてふたりで執り行う必要があるのだろうか?
そうではなかった。
絵図に描かれたふたつの人物像は、「時間を隔てたひとりの人物」を表していたのである。
儀式はひとりの人物によって二度行われなければならなかったのだ。
思えば一度目の儀式へと至る道のりでは、さまざまな場面で陰日向に何者かの協力を得ていた。
その役割なくして儀式は成し得なかったとさえ言えるのだが、その協力者は、ほかならぬ私自身であったのだ。
時空を超えておのれ自身と手をたずさえ、二度の儀式を完遂させる。
それこそが聖獣ゴロゴアとの魂の交歓を成立させるための条件だったのだ。
私は今、復興いちじるしい街並みを見下ろしながら、二度目の儀式のために尖塔を登っている。
外出して道を歩いていると、松葉杖をついた見知らぬおっさんがブツブツと独り言を言っている。
普通に横を通ろうとしたら、視線がこちらを彷徨い、急に「このアホ野郎が!またうちに盗みに来たのか!」と大声で怒鳴り出した。
ハァ?誰と勘違いしてるんだ?とひどく嫌な気分になったので「うるせぇ!アンタとは初対面だよ!!」と、相手に負けない大声で叫び返した。
するとおっさんはびっくりしたようで、目をパチクリさせた後に「初対面の人間にそんな口を聞くなんて云々」と返してきたので、更にイラッときて「てめぇが先に言い出したんだろ、このアホッ!!」と言って、自分はおっさんを置き去りにしてサッサと別の道へ歩いて行った。
んで、本題。
みんなはいきなり攻撃されたりしたら、どうやって反撃してるの?
例えば学生時代を思い返すと嫌な場面でもなかなか嫌と言えなかったり、社会人になって反論をしたいが上手く考えがまとまらなかったり、今回のケースのように路上でいきなり攻撃されると即座に反撃の手段を思いつかない。
自分なんかはこの辺りの技術がないので、後で自宅に帰って『あぁ、こういう対処をすれば良かったのかなぁ』と反省ばかりな気がする。
以前に横断歩道を歩いていたら、向こう側から来たカップルの男がいきなり自分の腹にパンチをしてきた方が事があって、ムカついて相手の肩にパンチを当てたけれど、お互い歩いていたのでそのままになってしまった。
まさかいきなり知らんやつから腹パンもらうなんて想像出来ないよ…。
心が弱いから鬱になったって責められた話はよく聞くけど、骨密度が低いから骨折したって責められた人には会ったことない。心の強度に効くものは経口摂取出来ないけど骨密度を上げるものは経口摂取できる。
なぜ骨折したか、それは例えば階段から落ちたから、車に轢かれたから、余暇のスポーツの最中に。骨折したので数週間入院します、暫く腕を吊ります松葉杖を使います、検査のため早退します、出来ない業務が発生します。それは許される
なぜ鬱になったか、それは例えば上司からのパワハラ、取引先からのモラハラ、業務時間外の連絡、家庭内不和、親族の死。鬱になったので休職したいです。本当にあなたは鬱ですか?定型ですか非定型ですか?診断書は2つ以上の病院から貰うように、心療内科ではなく精神科、医師はベテランが望ましい。簡単には休ませられない、あなたにはあなたの業務がある。
骨折したなら少なくとも同じ部署の人間には周知する。あの人は不慮の事故で骨折したのでしばらく入院します、不便もあるから助けてあげてね。
鬱になったことを上司は隠したがる。悪く思う人もいるから、しばらく黙ってよう。よくなったらみんなで笑い話にすればいいさ。勤怠は少しなら大目に見るよ、有給あるでしょ?
例えばさ、学校とか人によっては会社とか、アレルギーについて説明するよね
「これ食ったら苦しむし、最悪のたうち回って死にます」って宣言して、死なないようにする為に
そうしたら、メシ出す人や手配する人、大人であれば飲み会だのランチ会だのの幹事もソレを理解してくれるじゃん
え?くれない?まぁ、話を最後まで聞いてくれ
とにかく、アレルギーである事を説明すればそれを出すのを避けてくれる訳だ
仮にその判断する側に人の苦しむ様を見たくて仕方ないソシオパスや、純粋にどうなるのか興味あるのでとりあえずやっちゃうサイコパス、あとは根性論で何でも解決したがる頭の硬い人がいたとしよう
そうしたら、自分にとってのクリティカルな毒物を手配されて「食え」と言われる訳で
もしかすると、そもそもその毒物が隠れてるメシを黙って出される可能性すらある
アレルギー以外にも、持病の薬を飲んでる姿見て「ああ、あの薬無いと苦しんだり死ぬのね」とか、妊婦さん見て「腹蹴り飛ばしたら赤ん坊死ぬな…」とか、車椅子や松葉杖の人見て「踏切のど真ん中でコレ壊したら恐怖に怯えた挙げ句に肉片になって弾け飛ぶんだろうな」とか、そういうの
そうしたいと思ったことすら無い俺でも、ふと思う事あるよ?そんなの絶対しないけど
じゃあさ、他の人も思うかもしれない、思っててもしないかもしれない
そう考えたら、人の良心や倫理観を頼って自分の弱点晒しちゃうの、怖くない?
俺は怖いよ、うんちうんち
気取らないお店や安く済ませられるお店が気楽でいい。というのはわかるけど時々はちょっと高いけど美味しいものを食べよう!とはならないんだろうか?
なることはある。ただ9割方ラーメンに行ってるのも事実で、多分頻度の話をしたいんだと思う
いいお店、だいたい量が少なくて値段が高いのでそもそも男はあまり行かず、知識がないのでフレンチくらいしか出てこないっていうのありそう
遅い方に合わせるんじゃなく速い方に合わせるみたいなところはありそう。あと純粋に男ってみんな歩く速度そんなに違わないというのもあるかな。流石に松葉杖ついてる友達を置いてったりはしない
たぶんそう。ソファー席を女性に譲る云々とかもあるしそういうところも含めた話なのでは? 男友達同士だと痔持ちとかじゃない限り席は気にしないな
これはマジで触れない。男は罵倒をコミュニケーションの基礎にしてるところがあって、あんまり褒められると気持ち悪いっていう心理がありそう ホモフォビアもちょっとある?
つまんない話は聞き流すとかオチは無いのか、って意見は本当に多いけど日常的にそんな面白い話しを心掛けてるの?毎回オチつけて話すのめんどくさくないの?
わからん 正直話の面白さに男女差を感じたことはない テーマ選びには感じるかな
こんな扱い有り得ない!と怒る女性に対して、今までそれだけ丁寧に男性から扱われてたんだよって意見があったけど、ここでいう「エスコート」に当たる扱いは女友達間で自然に行われてることが多いから違和感がすごい。
そうなんだろうなあ
身近な異文化だよねえ
背景と根拠を聞いたら、「コスト削減は経営方針だ」と繰り返す。
コスト削減が必要なのはわかるが、例えば「近年、ネット販売の比率が上がっているから、対面販売の経費は下げる、それで今までのリアル客の常連さんが離れても、仕方なし」とかいった方針・見通しをオーソライズするのがお前の仕事だろうと思う。
「コスト削減」を連呼する経営戦略室課長殿は、「すごく正しい」ことを言っている顔つきでそれが腹が立つ。よく見るとこいつ、顔の部品一つ一つが整いすぎだ。菊人形みたいな顔をしやがって。
菊人形課長は、エリートコースに乗っていて、順調に行けば役員コースらしい。
菊人形課長が階段を下りていく後ろ姿を見て、踊り場から勢いをつけてドロップキックを浴びせたい衝動に駆られた。いや、こういう奴にはキックじゃなくて、膝だな膝。ジャンピング・ニーアタックをかませてやる。菊人形だから、首の骨がぼきりと折れてバタンキューだ。ざまあみろーー。
しかし、自分の脚力と体重を考えると、菊人形課長まで届かず、自分だけが階段に落下して、脚の骨を折って松葉杖生活になる可能性大である。
こういう理不尽な世相だから、日本も米国のように銃社会であったならばと思う。
そうであれば、会社にライフルを持ち込みロッカーにしまっておいて、もう、カーッとなったら乱射事件ですよ。ライフルだと連射じゃないからカービン銃か。昔のマフィア映画みたいに、蜂の巣にしてやる。
しかし、カービン銃は会社の入り口で没収されるな。最近セキュリティ厳しいし。
それにやはり日本男児なんだから、らしく日本刀か。菊人形をばっさり斬りつけてやる。そのあと、振り回して皆殺しだ。「八つ墓村のたたりじゃー!」と叫ぶながらな。頭に鉢巻巻いてローソク灯して大暴れ。
血みどろになった職場を後にして、赴く先は、市ヶ谷の自衛隊駐屯地である。そこで演説である。「今ここで、クーデターより憲法改正より、天皇制より、もっともっと大事なことを発表する。それは、パンツのゴムが緩いと、ずり下がって気持ち悪いということだ」と叫き散らして、自決するのだ。しかしである、今は三島由紀夫の頃と違って、市ヶ谷の駐屯地はないらしい。第一、俺は私設軍隊を持ってないし、ボディビルして鍛えてないので、割腹自決は無理だろう。
結局は、サラリーマン生活で溜まったストレスは、溜め込むしかない。溜めて溜めて、恨みつらみを限界まで我慢して、最後は殴り込みをするのだ。背中に「唐獅子牡丹」の彫り物をしょって、池部良と一緒に「死んで貰います」と言ったあと大暴れしたい。
まあ、昭和の時代からサラリーマンはこうして高倉健の任侠ものなどを見ては鬱憤を晴らしていたのだろう。
俺も、久しぶりに「昭和残俠伝」見て、その後寝ようっと。