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はてなキーワード: 県内とは

2023-12-31

バディ制度を導入しよう

【将来推計人口2050年青森県 4割減の75万人に 22市町村で半数以下に 約2人に1人が高齢者

https://news.yahoo.co.jp/articles/ac333065529a847c6eed11895d47318b6cb9408b

「改めてひじょうに厳しい状況と感じています 若者の県外流出、それに伴う県内少子化の進行この2つに歯止めをかけなければいけない 特に大事なのは若い世代所得を向上させていくことがポイントと考えている」

県は魅力ある仕事作りや安心して子どもを産み育てる環境作りに取り組むとしています

20年前も同じことを言ってそうだし、20年後も同じことを言ってそう。

ただ、県や担当者努力不足ということではない。

もう人為的にはどうしようもないフェーズに入っている。

それよりも、お年寄りとそれ以外の年代がちょうど1:1になるのをよい機会ととらえて、市町村で支える相手と支えられる相手のバディ制度を導入したほうがよい。

ふだんの税負担社会保障とは別に、一人の若年層につき近隣の一人のお年寄りを支える。

小学生の子も一人一人、近所のおじいちゃん、おばあちゃん担当する。

おじいちゃん、おばあちゃんが元気でお金もあるなら逆に小学生の子の方にお小遣いを上げてもいいし、何とか回していきたい。

2023-12-27

https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/838090

答え。工員が多いことと地理的要因の複合。

工員が多いのは栃木県1世紀まり工場誘致を続けており、工場誘致以外の産業政策をやっていないから。

公共交通が未発達で工場県内数カ所の工業団地に集中しているため、工業団地周囲の通勤時間帯は必然的に数万台の自家用車が集中し交通麻痺する。

工業団地に朝8時に出勤するには5時前に起きて6時前に家を出て1時間渋滞にはまって7時に工場に着いて8時まで駐車場スマホマンガゲーム時間潰す。そのためマンガ雑誌をふくむ読書量も全国有数。

ちなみに栃木県は中卒か高卒工業団地現地採用正社員になるのがいちばん楽で安定して高収入。3代つづいた工員の家などというもの普通にある。

地元学士以上の知見を要する企業はほぼ皆無。大卒だと工学系の一部をのぞいて工場正社員採用はない。

anond:20231227123106

asahi.com(朝日新聞社):玉城デニー氏当選 民主、沖縄の選挙区で初議席 - 2009総選挙

普天間問題では党の方針通り、県内移設反対の姿勢をみせたものの、選挙戦では真っ正面から論陣を張ったわけではない。「基地反対」を叫ぶだけでは沖縄問題解決しない――。それが米軍基地が集中する島で生きてきた実感だからだ。ただ、当選を決めた30日夜には、普天間について「10年以内には、県外、国外への移設道筋をつけたい」と決意を示した

2009年衆院議員として初当選したときには既にこういう主張だったみたいですが。

2023-12-22

結局 草津謝罪もしないままアワード笑決定

ォロー

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結果発表】みんなで選ぶ!🏆チェンジメーカーアワード 2023🏆

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Change.org Japanチェンジドット・オーグ)

Change.org Japanチェンジドット・オーグ)

2023年12月21日 16:08

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新型コロナが5類に引き下げられ、3年ぶりに社会が動きを取り戻した2023年。各地ににぎわいが戻る一方で、物価高による値上げが相次ぎ、日本各地で記録的猛暑自然災害に見舞われるなど、私たち生活を直撃するニュース目白押しの1年でした。

この1年でChange.org日本版で立ち上がったオンライン署名は1,031件。「チェンジメーカーアワード2023」では、ユーザーのみなさんから投票によって、大賞および8つの部門賞が選出されました。2023年に最もユーザーをエンパワーした署名活動社会により良いインパクトを生み出したオンライン署名として、ユーザーのみなさんが選んだ今年の大賞は……?

目次

🏆チェンジメーカーアワード 2023 結果発表🏆

大賞👑 神宮外苑1000本の樹木を切らないで~再開発計画見直しを!

部門賞: 本当の働き方改革を求めて

部門賞: みんなの声で作るエンターテインメント

部門賞: 子どもを産み育てられる社会のために

部門賞: 身近な環境動物を守るために

部門賞: 未来を生きる若者子どもたちのために

部門賞: 大きく響いた小さな

部門賞: みんなの声で作る社会

部門賞: 平和世界を実現するために

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🏆チェンジメーカーアワード 2023 結果発表🏆

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大賞👑 神宮外苑1000本の樹木を切らないで~再開発計画見直しを!

署名信者ロッシェル・カップさん

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部門賞: 本当の働き方改革を求めて

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部門賞: みんなの声で作るエンターテインメント

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部門賞: 子どもを産み育てられる社会のために

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部門賞: 身近な環境動物を守るために

神宮外苑1000本の樹木を切らないで~再開発計画見直しを!」の署名活動が、大賞とW受賞!署名信者ロッシェル・カップさんの受賞コメントは大賞の発表からご覧ください。

部門賞: 未来を生きる若者子どもたちのために

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部門賞: 大きく響いた小さな

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部門賞: みんなの声で作る社会

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部門賞: 平和世界を実現するために

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2019年末に始まった「チェンジメーカーアワード」も、今年で5度目の開催となりました。投票してくださった6,820名の皆様、本当にありがとうございました

新型コロナ収束して、3年ぶりに制限のない日常を取り戻した2023年

ウクライナ戦争による物価高の影響で値上げが相次ぎ、7月には、世界の平均気温が観測史上高値となり、日本各地でも記録的猛暑に。戦争気候変動などの地球規模の問題を、私たち生活に直結する問題として実感した方も多かったのではないでしょうか。

物価はどんどん上がるのに、賃金は上がらない……。⁠日々の生活ますます苦しくなる中、インボイス制度開始が目前に迫り、2021年から反対の声をあげ続けていた「#STOPインボイス」の署名活動が一気に加速。日本オンライン署名最多賛同記録を10万以上上回って56万人を突破し、一大ムーブメントを巻き起こしました。

そして、2023年は、長い時間をかけて手繰り寄せてきた変化が、数多く実った年でもありました。

性犯罪に関する刑法の大幅な改正が実現され、7月から施行へ。2019年に開始された刑法改正を求める署名活動には、14万を超える人が仲間となって声をあげ、改正法の成立を実現する大きな力になりました。神奈川県では、2021年に1人の高校生が始めた署名活動が実を結び、2023年4月から県内公立高校全135校で再生エネルギーが導入が導入されました。

自衛隊での性被害告発し、2022年から公正な調査を求めてオンライン署名を行っていた元自衛官の五ノ井里奈さん。その後も長く訴え続けてきた事実がついに裁判所にも認められ、今年12月12日被告3人に有罪判決が出ました。

望んだ通りの変化がすぐに起こらなかったとしても。粘り強く活動し続けた先に実現できるという未来を、身を持って私たちに見せてくれました。

TIME誌の「次世代100人」にも選ばれた五ノ井さんは、メッセージビデオの中で「みなさんから応援メッセージに救われた」と語りました。

署名賛同した1人ひとりの声やコメント欄に書かれたメッセージは、勇気を出して最初に声をあげてくれた人の味方となり、長く険しい道のりを歩み続けていく大きな原動力になります

そして、集まったたくさんの声は小さな声の拡声器となり、社会無視できない状況や世論を作り上げてきました。それが決定権を持つ人にとってプレッシャーとなり、たとえ少しずつでも変化を起こすことができたのです。

「たった1人の声でも社会を変える力になる」

私たちは無力じゃない」

私たちはこれからも、変化を実現するまでの道のりを、皆さんと一緒に1つ1つ大切に積み上げていきたいと思っています

2024年も、Change.orgは皆さんの「変えたい」気持ちを形にできるよう走り続けます。これからも、何卒よろしくお願いいたします。

Change.org日本

スタッフ一同

🏆過去チェンジメーカーアワード大賞👑

2022年安倍元首相国葬中止を求める合同署名(*9月5日に合同で提出された4つの署名をまとめてノミネートしています

2021年

困窮者を生活保護制度から遠ざける不要有害扶養照会をやめてください!

2020年

私の夫、赤木俊夫がなぜ自死に追い込まれたのか。有識者によって構成される第三者委員会を立ち上げ、公正中立調査実施して下さい!

【緊急署名】これ以上教員疲弊させないで… 定時を延ばし 残業を隠す「変形労働時間制」 は撤回して下さい!

2019年

【緊急署名】これ以上教員疲弊させないで… 定時を延ばし 残業を隠す「変形労働時間制」 は撤回して下さい!


で、草津謝罪は?

2023-12-20

anond:20231220110638

県内リンゴの産地があると言うようだけど、標準語でもないし、標準語でそれに該当するものもないね

2023-12-19

anond:20231219123333

俺は金持ちではないが、自分のところの余剰野菜農協商工会の仲間から集めた肉、米、野菜果物を集めてフードバンクに送ったり、裏山を自然教室にしてるわ

県内や近県の団体が手一杯だが

2023-12-14

anond:20231214185728

あのなあ空きも余裕がないなら県内の競合他社もコメントRPもしてないやろ

2023-12-01

anond:20231201172301

ムサコはまだ川崎が至近だからわかる

千葉は本当に県内に何もないんだ

郊外ららぽーとイオン電車で行くにはちと不便

2023-11-25

妻の不倫

私35歳 妻45歳 子供25歳女 9歳男

先日妻が県外のオフ会に出かけると言い、見送りました

当時は運転していくのが不安、途中で帰れなくなったら迎えにきてねと冗談交じりで話しており、あまり外に出かけないこともあり、気持ちよく送り出しました

不安だと言っていたので一応心配しながら、携帯の「携帯を探す」アプリを見ていると、目的地とは逆方向に進んで行きました

それでも寄るところがあるのか、もしくは誰か拾ってから行くのか等、想像していました

休み中に再度確認したらまだ県内にいる様子で、この辺からおかしいなと、思い始めすぐに電話をしてみました

携帯を探すアプリを使っていることは伏せて、今どの辺か確認すると「もう着いた」と言われ、すぐに「またかける」と電話を切られました

仕事が終わりもう一度確認すると現在地案の定ラブホテル・・・

電話しても繋がらず夜0時頃ようやくつながり、ラブホテルにいることがわかっていると伝えると、Wi-Fiがつながる所がなく、探していたらつながるラブホテルを見つけ入ったと言います

漫画喫茶シティホテルでも十分だと伝えると、その考えはなかったと・・・

結局その日は帰って来ず、翌日帰ってきたので、話し合うことに

ホテルに行ったのは悪かった!でも本当に何もなかったから!ホテルに行ったのは妻・男・女の3人で行ったあ!等など言い訳なのか、嘘なのか確かめる術もないまま、平行線でした

最終的には離婚or家庭内別居になるが一番下の子供が中学に上がるまで、お互いに干渉しない、携帯を探すアプリも使わないと話は終わりました

それから数日たって、遅くなると連絡があった為携帯を探すアプリを使い確認すると、同じラブホテル・・・

正直もうどうでも良くなってきてすぐにでも離婚を考えています

2023-11-20

12年前の新東名マラソン

今年はギリギリまで暑い日があったのでこの日を特に思い出した。

未だに疑問に思っているのが水を提供していたのが観音温泉という旅館で、そこで販売している温泉水が提供されてたこと。

大抵大塚製薬とかコカコーラポカリやらアクエリアス提供しているよね。なんで県内の一温泉宿にまかせたのかと。

県民だけど全然知らなかった静岡銘菓の8の字を最後に出してきたり静岡製品のみ出すように指示があったんじゃないかなあと。

ずーっと、ずーっと、あいつが指示したんじゃねえかなといまだに思ってる。

2023-11-19

サッカーを一緒に見に行くぐらいの友人が欲しくなった話

およそ15年ぶりくらいに、カシマスタジアムサッカーを観た。

30代前半男性、既婚、2歳の娘と、神奈川県で3人暮らしをしている。

私は茨城出身で、昔から鹿島は身近な存在だった。

家には、アルシンドジーコを肩車している写真が飾られていた。

アレックス・ミネイロ活躍していた時期に、鹿島への興味が深くなっていった。

多分初めて試合を見に行ったのは、2006年頃だったと思う。

当時中学生だった僕は、中の良かったクラスメイトのS藤くんとF谷くんと一緒に、カシマに行った。

F谷くんは一番前で太鼓を叩くような子だったので、S藤くんと一緒に、ゴール裏で、覚えたてのチャントを歌っていた。

ゴールが決まってS藤くんハイタッチして、オブラディを歌ったことも覚えている。

2007年10冠達成の試合は、試合の当日にたまたまチケットを譲ってもらい、

父に車を飛ばしてもらい、前半途中からスタジアムで観戦した。

バックスタンドの2階に行ったが、席が無くて父と離れた席に座った記憶がある。

勝利して、10冠が決まったとき自然と涙がこぼれ、父と大喜びした。

そして、この試合が、今日に至るまでカシマスタジアムで観戦した最後試合だった。

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スカパーJリーグの中継が始まって、DAZNに変わっても、ほぼ必ず毎試合鹿島試合は観ている。

鹿島が大好きだから試合の日は何よりも優先したい気持ちがある。

でも、鹿島が大好きなくせに、カシマスタジアムでの観戦は、15年以上していなかったのだ。

何故か。



距離が遠いし、アクセスがクソ悪いかである



高校生までは同じ県内に住んでいたが、大洗鹿島線に乗ってとんでもない時間を移動しなくてはいけなかったし、

大学東京に進学してからは、さらカシマは遠くなった。(と思っていた。後述。)

ましてや大学時代、周りの友人にサッカー好きは少なく、居たとしても他サポで「カシマに行こう」とは言えなかった。

物理的に距離が遠いのである

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しかし、スタジアム観戦をしていなかったわけではない。

2014年ヴァンフォーレ甲府ホームが雪で使用できなくなり、旧国立競技場で行われた開幕戦

2015年、3-0でガンバ大阪に完勝したヤマザキナビスコカップの決勝。

2016年、完全アウェーの中で勝利したJリーグチャンピオンシップの浦和レッズ戦。

少し期間が空くが、今年はコロナが明け、子どもも少し大きくなったため、

三ツ沢横浜FC戦には家族で、新国立競技場名古屋戦はチケットが当たったので兄と行った。

しかしこれらは全てカシマでの試合ではない。

からアクセスがしやすかった国立埼スタニッパツで観戦したものだ。

ちなみに何故かは分からないが、これらすべての試合鹿島勝利している。私が勝利の女神なのかもしれない。

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今回の「モトフェス」。

開催が決定したその日のうちに、妻に

「この日、どうしてもカシマに行きたい。娘を見てもらうことになるけど、この試合だけは行きたい」

と伝え、了承を得た。

初めてスタジアムで観戦したあの頃、僕の中でのヒーロー本山雅志だった。

そんな選手引退する。カシマに帰ってくる。

行くしか無い、と思いチケットを取った。

東京からバスが出ていることをここで初めて知り(アホ)、最寄り駅が東京であることを知った(皮肉)。

幸いなことに指定席バスチケットも取れ、当日を迎えた。

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15年ぶりのカシマ

得も言われぬ感慨に耽り、いろんな記憶が蘇ってきた。

メンバーも大好きな選手ばかりだし、試合内容も素晴らしいものだった。

開始前にご飯が買えなかったため、前半最後ハラミ飯を買いに行ったら、佐々木竜太のゴールを見逃した。

でも全てが、幸せ空間だった。

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帰りのバスで、このブログタイトルのことを思った。

スタジアムに行って思ったことは、家族連れや夫婦カップル・友人同士など、複数人で来ている人がとても多かったこと。

そして、周りからそれぞれいろんな会話が聞こえてくる。

今日試合は、もちろん特殊ものではあったし、鹿島サポ・ファンしか居なかったとは思うが、

それでも各所から選手についての楽しそうな会話をしているなと感じた。

試合カシマに行くことは出来ないし、これからも年に数度のアウェー観戦がメインだと思う。

一人で行ったことは気楽ではあったが、一緒になって感動を話せるような友人が欲しいな、と感じた。

地元を離れて進学し、職に付き、家を持ち…当時の友人とは誰ひとりとして連絡を取っていないので、SくんやFくんの所在すら知らない。

スタジアムで会ったら隣であーだこーだ言い合い、中継で観戦するときWeb上で感想を言い合う、それくらいの仲の友人がいたら、もっとしかったんだろうな、と。

ちなみに、私の妻はスポーツ全般にまっっっったく興味がなく、

三ツ沢試合たまたま暇だったか家族3人で行っただけで、子どもは途中で飽きてしまい、後半はスタジアムの外で遊んでいた。

今日はもちろん誘うこともしなかったし、誘っても来なかっただろう。

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繰り返すが、今日試合は最高だった。

久しぶりのカシマスタジアムも、久しぶりの選手たちも、会場の雰囲気も、全てが最高だった。

またカシマに行きたいと思った。

から今度は、誰かとその「瞬間」の感情を、分かち合えたら良いな、なんて思う。

2023-11-18

香川オススメ喫茶店

以前香川文化というか観光地を紹介した増田anond:20230804232647)だけど、今度は香川県でオススメできる喫茶店居住者目線で紹介してみる。下に行くほどオススメ度が高い。☆は3段階評価

スターバックスコーヒー 丸亀マルタス店(丸亀市)

内装長居できる度本をゆっくり読める度
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

スタバなんてどこでも同じだろ? という声が聞こえてきそうだけど、東京都心部のいっつも勉強する学生さんやら仕事するリーマンやらで埋まってて空席を探すのも一苦労だったスタバしか知らない民としては、広々とした店内でゆったり座って本棚の本を読みながら滞在できることに感動した。ここは市民交流スペースとして作られた建物に入っているので、本棚に置いてある本(『NUMBER』みたいな雑誌編み物の本みたいなやつから地方自治環境問題に関するマジメ系の選書さらには香川に関する本まで、割と充実している。喫茶店本棚として見ればSSRでは)を自由に読むことができるし、空席も適度にあるので座る席を自由に選べる。窓際の広々とした席に座ってフラペチーノ啜りながら本をめくる時間は至福。

CLASSICOセトウチ珈琲三豊市URL: http://classico-setouchi.com/

内装長居できる度景色キレイすぎる度
☆☆☆☆☆☆☆☆

荘内半島の真ん中辺り、フラワーパーク浦島のすぐ近くにある喫茶店ランチメニューは(割とすぐに売り切れちゃうのでありつけないこともあるけど)普通に美味しいし、デザートケーキは凝った飾り付けをしてくれて素敵。内装も海沿いなことを意識した外国船乗り風でオシャレ。だが何よりも、テラス席に座って眺める瀬戸内海絶景が素晴らしい。ちなみにフラワーパーク浦島っていうのは端的にいうとお花畑なんだけど、地図見てわかるように海沿いにあるから、お花が咲き誇る様子と風光明媚瀬戸内海を同時に見渡すことができてすごくすごいきれいです(語彙力)。関東地方で育ち、海といえば見渡す限り水平線しか見えない太平洋、という人間にとっては、島がアクセントを添える瀬戸内海景色はすごい魅力的なんだよな……

名物かまど 高松店(高松市)

内装長居できる度和風喫茶に求めてるのはこういうのだよ度
☆☆☆☆☆☆☆☆

高松市内、宮脇書店本店の近くの和菓子屋さんの2階にある喫茶コーナー。店内がなんかこう、時代劇に出てくる甘味処みたいな雰囲気してる。和菓子屋直営なのでもちろん甘味はクッソ美味しい。クリームあんみつわらび餅抹茶ぜんざい、とオーソドックス和風スイーツが勢ぞろいしているので、なんか和風の甘いやつを食べたくなったらここに行くことにしている。気に入ったら1階の和菓子も見てみよう。名物かまど美味しいよ。

城の眼(高松市)

内装長居できる度現代建築を堪能できる度
☆☆☆☆☆☆☆☆☆

山本忠司、という建築家をご存知だろうか。詳しくはWikipediaの記事を見てほしいのだが、香川県庁に奉職し、丹下健三による香川県庁舎の建設に携わった後、瀬戸内海固有の風土に根ざした現代建築志向し、県内でいくつもの建築を手がけていった……という経歴の持ち主だ。讃岐石材を大胆に活かした設計が特徴で、香川県各地で学校体育館などの公共建築を手がけてきた。そんな彼の作品の1つが、高松美術館や宮脇書店本店のすぐ近くにあるこのお店。外観が非常に特徴的な石造りの建物で、言われてみればこういう石造りの現代建築県内でいっぱい見かけるな……! と香川風景解像度が上がる。これってそういう美術的背景があったんだ……! そして内装石材を活かしたデザインになっていて最アンド高すぎる.これだよこれこそが俺の好きなタイプ現代建築だよと急にテンションが上がるというか、内装がもうセンス良すぎて居心地良すぎるんだよな……

ケーキお茶の味は……普通……いやマジで出てくるもの普通というか、あっケーキからちょっとアルミホイルの風味がするな? ってくらい(あかんやろ)。まあ飲みもんや食いもんを期待して行くところではないです。讃岐風土に根ざした現代建築の中でゆっくり座って茶をすする体験にカネを出していると思いましょう。実際それだけの価値はあるので、現代建築好きなら足を運んで損はない。

珈匠 宇多津店(宇多津町)

内装長居できる度娯楽へのアクセスが良い度
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

宇多津にはイオンモールがあり、県内の数少ない映画館の1つであるイオンシネマ宇多津にはよく行くのだが、そこから歩いて数分という超便利な立地にある喫茶店がこのお店。コーヒーにこだわってるんだけど、地味にアイスティーも美味しいのでオススメ飲み物に100円くらいプラスすると小さな甘味をセットでつけられるのがお得感あって嬉しい。さら店員さんが基本客に無干渉なので割と長居できる。休日はこのまわりで映画見て昼飯食ってお茶を啜りつつ読書して、ってやると良い感じにリフレッシュできるんだよな。

RACATI(三豊市URL: https://racati.com/

内装長居できる度バリアフリーが行き届いてる度
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ショコラトリーに併設されている喫茶コーナー。パッケージされたチョコはお高いのでまだ買ったことないけど、喫茶はお手頃価格ショコラトリーだけあってチョコを使ったスイーツが何種類もあるけど、個人的オススメチョコムースかな。内装シンプルイズベストというか、地味にバリアフリーが行き届いていてすごい。トイレもかなり広々としてて車椅子利用でも何ら問題なさげ。いや、いつも徒歩だけど。あとあちこちに電源が設置されてるのも配慮を感じる。基本的あんま客がいなくて席が余ってるので長居しても気が咎めないのが最高(採算大丈夫なのかな)。

了見(高松市)

内装長居できる度高松商店街を見下ろせる度
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

このお店については元増田で書いたけど、付け加えるなら、家具メーカ「カリモク60」のショールームも兼ねていて、落ち着いたセンスの良い内装統一されているから居心地がめちゃくちゃ良い。お茶スイーツバリエーション豊富だし(高瀬茶っていう県内産の銘茶を推してるのが好感度高い。季節のショートケーキはいつ行っても最高)、店員さんが適度に放っておいてくれるし、他のお客さんもそんな多くないしで、心地よく長居できる良いお店です。

くつわ堂総本店 喫茶室(高松市)

内装長居できる度お手頃に高級感を味わえる度
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

高松商店街にある老舗和菓子屋「くつわ堂」総本店の2階には喫茶室があり、前々から存在は知ってたんだけど行ったことはなかった。なぜかといえば和菓子屋なのに表に出てるメニューコーヒーショートケーキというありふれたものだったからで、わざわざ行くこともないかなー、とも思ってたのだが、前増田ブコメで絶賛してる人がいたので、じゃあ1回くらいは行ってみるかと思って行ったところ内装が高級感あって最高だった。和菓子屋の上層階にこんな建物が隠れていようとは……一生の不覚……!

さら名物サバヨンクリームが美味。全然いたことない言葉だったからググったら2番目にこのお店の紹介が出てきて笑った。卵黄を使ったクリームらしく、絶品。この雰囲気とこのお味にしては庶民的なお値段なので地元民の客足が絶えない良い喫茶室だと思う。もっと早くチャレンジしておくべきだった……!

旅行者目線では

上に書いたのはあくまで「居住者目線」なので、長居できるかとかそういうのが基準になってるけど、旅行者目線(物珍しいものが見られる/食べられるか)でいうなら、

  • CLASSICOセトウチ珈琲>城の眼>>>くつわ堂総本店 喫茶室>>>>>>その他

になるだろうか。

あとは粟島にもいくつか良さげな喫茶店があるっぽいんだけど、まだ「あわろは食堂」(夏にしか営業してない。限定パフェウマー)以外は行けてないんよな。きちんと訪れたい。小豆島土庄町中心部ちょっと回っただけで、喫茶店開拓とかはできなかった。残念。喫茶店ではまったくないけど、長尾寺おはぎは美味しかった。あ、瓦町フラッグにあるジュンク堂書店高松店に併設されてるブックカフェもよく行きます。でも池袋かにあるのとなんも変わらんからなぁ……あのお店は無料コーヒー飲めるからいいよね!(いい加減電子書籍しろ

追記

Bean’s Cafe高松市)を忘れてた。駅でちょっと休みたいときに良い立地。ケーキや季節のスイーツが充実しているので、季節ごとに違った味を楽しめる良いお店だと思います(ただ、うーん、たまに店員さんがポカミスをすることがあり、うっかり本をテーブルに置けない雰囲気がありますね)。近くに立ち食い寿司屋もあって、そっちもリーズナブルで美味しい。カフェ ポーズさぬき市)はなんか隠れ家的な魅力がある割に新しい店なので設備が充実していて、そしてもちろんスイーツが美味しい。抹茶プレート最高でした。

皇帝高松市)を勧めてくれるブコメがあるけど、喫煙可なので行ったことないんや。すまんな(喫煙可な店を作る権利擁護するし、規制を厳しくするのは賛成できないけど、それはそれとして自分では通わない、というスタンス)。

ぶどうの木高松市)URL: https://www.budounoki-sanuki.com/は、香川伝統的な雑煮を味わえるという意味ではすごい良いお店なので、旅行者にはオススメ。ただ、店の構造的にまったく長居できる雰囲気がないのでここには含めてない(ここで挙げた「長居できる度」が☆のお店より更に長居できそうにない)。小ぢんまりとした落ち着いた雰囲気の良いお店なので、旅行で行く分には良いと思います

Shika(高松市)、スタート綾川町)、名物かまど 総本店坂出市)、umie(高松市)、gaouv rabari(観音寺市)、ワールド土庄町)はどれも行ったことなかった! 教えてくれてありがとう! 実は『からかい上手の高木さん』の聖地巡礼で近くまで行ったんだけど、ワールドを見逃していたのは痛恨の極み……!

2023-11-17

親が「うちは金がないか県内国立大学しか無理」というもので、他の大学に行ける学力はあったけど県内に進学した。後で「何でもっと我を通して県外の大学に行きたい、生活費バイトで何とかする」と言わなかったんだろう、と思った。

けどさらに後になると「バイト奨学金漬けの生活だったら耐えられただろうか」とか「より良い大学に行っても、将来のビジョンが無かったから虚無感が大きくなるだけだったかも」と思えてきたし、今現在自分に納得はしているから、あれで良かったのかもしれないとも思う。

選べなかった選択肢ほど美しく見えるのかね。

2023-11-13

男と一緒に自殺してくれる女子なんかいなかったんだよanond:20231113091749

友人3人で自殺図るも男子専門学生のみ死亡 女子学生2人は幇助逮捕 徳島

https://www.sankei.com/article/20231112-ZKV6IZMT4RJ2DJWMATLZCIXUVU/

専門学校生男性(19)の自殺を手助けしたとして徳島県警徳島中央署は12日、自殺幇助(ほうじょ)の疑いで徳島小松島市専門学校生の女2人=いずれも(18)=を逮捕した。3人は同県内の同じ学校に通う友人同士で、女2人は容疑を認めている。

逮捕容疑は10日午後、徳島市内で自殺に使うロープなどを購入。翌11日午前1時ごろ、同市の公園男性自殺したのを手助けしたとしている。

同署によると、3人は10日午後3時ごろ、男性の自宅で心中を決意し、ロープ風邪薬などを購入して風邪薬を数十錠飲むなどしたという。午後8時ごろ、3人は男性の車で徳島市の公園に行くも自殺を一時断念し、女のうち1人は怖くなり、自宅に帰った。

2023-11-12

そうか

危険物って県内複数個所に出願すれば1年で無理なくコンプってのも可能なんや

2023-11-05

anond:20231104202358

芸能人とか文化関係理由叙勲にはそういう噂は実際に運用されているかもしれんけど、別に叙勲されるのは芸能人だけじゃないし、全国から推薦される叙勲候補者の家庭の状況なんて宮内庁が調べられるはずがなく、そんなことしてたら一般人勲章もらえなくなる。

 

秋の叙勲 県内39人、各分野で功績|佐賀新聞LiVE

https://web.archive.org/web/20141111004349/http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/121429

ひとり親家庭支援20年 旭日小綬章 

 県職員として母子福祉などを担当した経験を生かし、20年にわたって、ひとり親家庭支援に携わってきた。全国母寡婦福祉団体協議会理事長も務める。

 自身も40年前に離婚。2人の子育てと仕事を両立できたのは、実家の協力があったからだった。「他の母子家庭に比べたら苦労も少ない」というが、「結婚仕事を辞めていたら、もっと大変だった」。女性が生きていくうえで、経済的な困難さを思わずはいられない。

2023-10-31

好きな人から突然連絡が来なくなった

ので、頭の整理のためにも書いていく。

彼との出会い7月。私は風俗店で働いていた。

お客様として予約をもらい、会うまではHP経由でトークをした。

デリを使うのは初めてだからコースとか色々教えて欲しい」といった内容を丁寧な文章で送ってきてくれてとても好感が持てた。

他のおじ客はいきなり下ネタぶっ込んできたりするから

初めて会ったとき清潔感があって外見も私のタイプで、歳も近いしこんなお客さんに会えるなんて!ってテンションが上がった。

しかし、この日の出勤時に私はお店を辞めることを店長に伝えていたので、彼にも「せっかく会えて嬉しいけどお店辞めるんだ~」と伝えた。とても残念がってくれた。私もこの人は辞める子に入ることはないだろうな、と思っていた。

しかし、その後辞めるまでの2ヶ月はまめに会いに来てくれた。

私もほぼ一目惚れのような状態だったので、本当はいけないけど本番行為もした。

私が生理中のときも呼んでくれてテレビ見ながらホテルお酒を飲んだ。

辞める直前に来てくれたときLINEを交換したから、それからLINEでやりとりをしていた。

もう連絡する手段がないと思っていた、と彼はとても喜んでくれたように思う。

恥ずかしい話だが私には借金がある。

早く返したくて風俗店で働いていたのだけど、私には向いていなかったみたいでお茶で帰る日が立て続いてから辞めたのだ。

風俗を辞めてからは昼職しながら土日は派遣で働いていたからなかなか会える時間を作れなかった。

ただ、会えない中でもLINEで連絡は取り合っていた。

恋愛自体ご無沙汰で久しぶりに「私を好いてくれているお客さんではないかっこいい男性」と連絡が取れて舞い上がる私と、「きっと裏がある」と冷静な私がいてぐちゃぐちゃな感情だったのを覚えている。

そんな日々の中で突然彼から連絡があって、その日のうちに会うことになった。

なんてことは無い風を装っていたけど相当ドキドキした。

会うのは2ヶ月ぶりだった。

少し遅刻してきた彼と、会話盛り上がるかな、なんて心配している私。

その日は1件だけ飲んで帰った。

その2日後に遠出をした。1日一緒にいてこの人のことが好きだなぁと思った。

遠出をした次の日も普通にLINEをして、次会った時に好きだって伝えようと思っていた。

その週末に連絡をしたらLINE既読にならなかった。

ただ忙しいだけかな?と思ったけど2日後に連絡しても既読にならない。LINE通話をしても出ない。

スタンプは送れるからブロックはされてないみたい。

事件事故かな、なんて心配して県内ニュースを見てみたけれど彼らしき人は載っていなかった。

彼の家は知らないけど、会話の流れで聞いたので職場は知っている。

心配から見に行きたい気持ちはある。

でも私のことが嫌いになって連絡を絶たれているのなら職場に現れる私はストーカーだ。

ここ数日泣いて過ごしている。

酒の量も増えた。やけ食いもしている。

ただでさえ醜いのにどんどん醜くなる。

私は人に興味がなく、ほとんど恋愛経験がなく生きてきた。そんな私が久しぶりに恋愛をした。

から余計に忘れられないんだと思う。

もう会えないなら言って欲しかった。

好きだって気持ちがまだ残ってる。

どこかで幸せに、健康で過ごしてくれていますように。

2023-10-27

anond:20231027174350

信大県内からの進学率って、実はそんなに高くないんやで・・・

いろんな県から信州土地を魅力に思ってくれるのはええんやけど、地元民の学力だと一大勢力になるほど進学できんのや。

で、ガチエリート旧帝大普通にいくんやね

2023-10-25

中学受験をしてない人生経験してみたかった

docomo配信サービス配信されている、とあるアイドルオーディションサバイバル番組にどハマりしてずっと見ている。過去シリーズまで追って、そこからデビューしたアイドルを推すほどハマっている。

そんな番組出会ってしまたことをきっかけに、自分人生について、過去に無いくらい考えて悔やんで分析して、を繰り返している。

両親のことは大好きだ。

奨学金なんて必要いくらいの収入があった父親専業主婦毎日「おかえり」と言ってくれる母親、3食おいしいご飯、たまの家族旅行、何一つ不自由なく育ててもらった。

中学入って以降は、私のやりたいことが私の成長に繋がるのならばと、できる限りを尽くしてやらせてもらった。

ガチャかい言葉だって必要ないほど恵まれ環境で育った。


でも、自分のことはびっくりするほど好きじゃない。

顔とかスタイルとか容姿ではなくて、人としての中身の問題だ。

根暗で、卑屈で、俯瞰してて、ひねくれていて、粘着質で、冷めていて、僻みがちな中身の問題だ。

絶対に生まれた時からこんなんだったわけじゃない。

少なくともまだ年齢の数字が1桁だったときは、明るくてよくしゃべる、放課後毎日遊びに行くような友達の多い子だったと思う。

それなのに変わってしまったのは自分の中で明確なターニングポイントがあって、それが「中学受験」だったと思っている。

身バレしたらしたで仕方ない。

ずっと抱えてきた贅沢な息苦しさを誰かに聞いてほしい。

から話す私の生い立ちがとんでもなく恵まれていることなんてわかってる。今から話す全てがとんでもなく甘いことなんてわかってる。無いものねだりの高望だってことだってわかってる。だから、この長くてまとまりのない文章をもし読んでくれるのであれば、この親不孝ものが、甘ったれが、クズが、って、思う存分バカにして反面教師にして笑ってほしい。


物心ついたときから、歌ったり踊ったり楽器演奏したりするのが大好きだった。

私の通っていた郊外幼稚園にはたしか必須クラブ活動があって、年少さんのときは親の意向で「お作法クラブ」に入れられた。お着物を着てお茶の飲み方を教わったり毛筆書道を並んで書いたり、素敵なことなんだけれど、3歳の私は幼いながらにかなり堅苦しさを感じていた。

クラスで一番仲の良かったおともだちがバレエクラブに入っているのがとても羨ましかった。ことあるごとに私もバレエクラブがいい、来年は変えて!と主張し続け、年中になった時には晴れてバレエクラブに入れてもらえたが、年長に上がった段階ではなぜかもとのお作法クラブに戻されていた。

幼稚園の3年間はクラブ活動とは別で習い事をしていた。英会話教室と、今は無きn田チャイルドアカデミー(n=7)だ。英会話教室は5歳になっても何のために何をやっているのかわからなかったのと、言葉先生に通じないのとでかなりストレスを感じていたと思う。

n田は、英会話教室なんかよりもはるかに何のために何をやっているのかわからなかったのと、毎日課される難解な宿題プリントと、自分習い事をどういうふうにおともだちに説明すれば伝わるのかがわからなさすぎて、何が何だかよくわからないまま終えた。

ピアノバレエを習っているおともだちがそれはそれは羨ましかった。


小学校に上がるタイミング関東の割と都会な地域引っ越した。その地域から無理なく通える範囲に高偏差値私立中高一貫校が2つもあり(以下A中学•B中学、A中学のほうがレベルが高い)、どうやら親はその学区の良さに惹かれてその地域に引っ越すことを決めたようだった。

n田の難解な宿題プリントはなぜか小学生に上がってからも続いた。学校宿題とは別で、毎日ノルマを課されていた。新しい学校で持ち前の明るさを発揮し、近所に友達もたくさんできて、遊びたい盛りだった低学年の私には、異常に難しい問題を怒られながら泣きながらこなすのは相当な苦行だった。

小学2年生になってからは、年に2,3回、大手中学受験塾のオープンテストを受けるようになった。気づいたら申し込まれていて、気づいたら受験票があって、気づいたら当日その塾に連れて行かれて謎のテストを解いている、そんな状態だった。n田の毎日プリントのおかげか、成績は相当良かった。

あなたはこれからA中学を目指すのよ、みんなと同じ隣の中学校にはいけないの。地元中学校に行くのはちょっとばかなのよ。と言われる(刷り込まれる)ようになる。

地域お祭りに行った時にステージで見た、小学生ダンスチームの発表がとてもかっこよく見えて、釘付けになった。家に帰ってから親にそのことを話し、「私もダンスやってみたい、習い事したい」とお願いをしたら、「5年生くらいになったらいいよ」と言われ、私はその言葉を信じて3年待ってみることにした。

風呂オリジナルの歌を歌ってみたり、適当な踊りを作ってみたり、自分カリスマアイドルとしてデビューするような妄想をしていたのもこの時期だったと思う。

小学3年生になってもオープンテストは言われるがままに受け続け、2月には「新4年生」としてついに入塾していた。ちょうどこの頃、近くの高校中高一貫ではない、以下C高校)の合唱部が私の小学校演奏会をしに来てくれて、その演奏の素晴らしさに感動し、ほのかにC高校に行きたい!という思いが芽生えた。


4年生になり、中学受験がはじまった。目標はA中学県内屈指の進学校を目指して塾通いが始まった。事前の数年間のオープンテストの結果、クラスは一番上になり、受験が終わるまでクラスが落ちることは一回も無かった。

自体はとても楽しかった。10数年経った今でも連絡を取り合うような大事な仲間もできたし、なにより当時は小学生にして他校に友達がいるという事実が誇らしかった。


常になにがなんだかわからないままテストを受け続けてついに始まった中学受験生活だったが、私の意識は常に「親に怒られるから仕方なく勉強している」だった。

今までは存在しなかった授業ごとの予習•復習の行程、難しい問題で躓き、とくに算数強敵だった。ほんとうに難しかった。

からなくて、理解できなくて、私の勉強のあまりの進度の遅さに怒られ、毎日のように殴られ、教科書を破られ、ノートを破られ、こっそり楽しんでいたニンテンドーDSliteは見つかって真っ二つに折られ、悔しさと意味のわからなさに泣き叫び、近所から苦情が入り、さらに怒られ、テストの点が悪いとため息をつかれ、そんな日々が3年間続いた。

受験直前にはもう燃え尽きていて、自習と嘘をついてショッピングモールに出かけたりもしていた。当然バレて、さらに怒られた。口も悪くなったし、このあたりから私も何かあるとすぐキレてしまうような難しい性格になった。


学校環境も少し問題だった。

小学4年生ともなるとだんだん人間味を帯びてくる。ヒソヒソ話や悪口友達グループ化が激化する。塾に行くようになってからは遊びに行くことも減り、放課後も付き合いがあるような友達も減った。

塾に行くようになったことで、授業中の発言普段言動に対して「いい子ぶってんじゃねーよ」「頭いいからって偉そうにしないでくれる?」と言われるようになった。

自分問題があるんだと思い、明るかったのが嘘のようにあまりさな子どもになった。実際何かしら偉そうに聞こえるような言動はあったんだと思う。

5,6年生のときクラス3分の1が中学受験をしている子たちだった。

学年の受験生がほぼ固められているにもかかわらず、次の担任中学受験に対する理解がまるで無かったので、日記帳を1日見開き1ページ書くという宿題毎日出た。

大体の日はそれにプラスしてワークなどがあった。当然、学校宿題の量と塾の与復習の両立に苦戦した。家ではそれが原因でさらに怒られた。

周りの受験生も学校宿題が大変と愚痴をこぼしていたので、私だけじゃないと知って安心した。

クラスで私を仲間はずれにした女子のことを陰で女王様揶揄っていたら、誰かにそれを担任にチクられ、授業をひとつ潰してまで説教された。

泣いて謝り許しを乞うまで説教は終わらなかった。世の中には私の味方なんていないんだと思った。

そういえば、2年生だったあのときから待ちに待っていた5年生になったので、めちゃくちゃダメ元で親に「ダンス、習わせてくれるんだよね…?」と聞いたら、何わけわかんないこと言ってんの勉強に集中しなさいと一蹴された。

中学受験中にダンスなんてやってる場合じゃないのはわかってはいたけど、それはそれでつらかった。

頭打ちの成績、勉強に対するやる気の無さ、新しいクラスでできた友達とも遊びたい、そんないろいろな要因が重なって、家庭内でも勉強をしたがらない私に対する怒鳴り声は常に飛んでいた。

怒られない日の方が珍しかった。

自分の気力、体力、学力には到底合わない高いレベルの内容には正直ついていけていなかった。

当然勉強は嫌いになった。少し理解できない問題が続くとなんでそんなにできないのと怒られ顔を引っ叩かれ毎日泣いて、ある日勇気を出して「受験をやめたい」と言ってみた。

親にはA中学B中学に行くとこんなにいいことがあるんだよお前の将来の選択肢が広がっていい大学にもいけるしいいところに就職できるんだよ、それはみんなは高校受験競争率が高い中やることだから中学のうちにやっておいた方がいいんだぞ、それでもお前は受験をやめるのかと言われたが、私はある日にはC高校に行きたいと自分意思で思ったんだから高校受験でそこを目指したいんだと強い意志を持って受験をやめる選択をした。

地元中学に行く奴はバカと言われて育って来たので少しプライドが許せなさそうだったが、それよりもこの受験生活が、「私のため」の名のもとに暴言暴力の飛び交うこの異常な家庭が嫌だったので、受験をやめる決断をできたことにほっとしていた。

後日優しい口調の親に丸めまれ、なぜか受験は続行することとなった。正直どうしてこうなったのか何も覚えていない。

結局中学受験は完遂し、A中学は落ち、B中学そもそも受験せず、家からは少し遠い第3志望のD中学入学することになった。

B中学よりはレベルの高い進学校だったので、A中学に落ちたことによってプライドが傷つくこともそこまでなかった。

中学に上がり、かねてより部活というものに、特に運動部に憧れがあったので、そのまま運動系部活に入った。

チアリーディング部はあったが、正直ヒップホップ系ダンスがやりたかったのと、小学生の時にあてられた記憶女子集団が完全に苦手になってしまったので、チアリーディング部には入らなかった。

これが「初めて自分で何かを選択できた瞬間」だった。

毎日練習が楽しくてヘトヘトになって帰ると、勉強する体力とやる気なんて残っていなかった。

最初地頭で乗り切っていた定期試験だんだん順位が落ちていき、高校に上がってから留年スレスレ彷徨うこととなった。

中学受験で完全に捻くれた性格が災いし、人間関係の構築は部活以外では皆無であった。

内向的になりかけていた自分性格さら内向的になり、何重にも殻に閉じこもるようになった。

順調に過ごす周りの同級生を見て、どうしてこの子達は同じ壮絶な受験経験しているはずなのにこんなに真っ直ぐで明るいのだろうと疑問に思っていた。

中高一貫校性質上、入学早々にやらかすとそこから卒業までは取り返しがつかなかったので、本当に部活の仲間以外の友達はいないに等しかった。

進学校勉強についていけないことと友達のいないストレスが相まって、学校の授業は休んだり遅刻したりすることが多かった。それでも部活時間には必ず練習場に行って、毎日練習には参加した。その甲斐あって、部活の方は最終的には目標だった県の上位層に食い込むことができた。

家庭では大学受験を見据えろとか勉強しろとかは一切言われなくなった。

流石に留年が危ぶまれた時は進級できるくらいにはなってくれとは言われたが、それくらいだった。希望ではないもの進学校に入れることができた満足と、あと妹の中学受験が始まっていたのも一因だったと思う。

結果的に妹は黙々と学習を重ね国内トップレベル中学入学したし、私は大学受験勉強を相当サボりつつも、運良く上位校と呼ばれるような私立大学のよくわからない学部に現役で合格した。

私の中学受験生活が酷すぎたぶん、妹には重い重い期待がかかっていてプレッシャーだったと思う。妹は妹で家庭でもあまり感情を出さずおとなしくして親の言うことを素直に聞いているように見えた。

姉のふり見て我がふり直せ、だったんだろう。

申し訳ないことをしたと思っているし、やはり我が家中学受験なんて向いてない家庭だと思っている。


半年に一回くらい、ボイストレーニング無料体験に申し込んで、無料体験レッスンだけ受講したことが何回かあった。ボーカリストオーディションとか受けてみたいなと思い調べることもあったが、一回も応募したことはなかった。



そして今、私は大学生をしている。

持ち前の勉強嫌いを発揮していくつかの単位を落としながら、中高でやっていた運動は続けながら、アカペラサークルミュージカルサークル所属してステージに立ってみたこともあった。

お金が想定よりかかったり、思ったよりも本気で音楽に向き合う人がいないいわゆる形だけのサークルだったりで、どちらもすぐ辞めてしまった。

そして、とある前世持ち練習生の存在きっかけに、冒頭に書いた某アイドルオーディションサバイバル番組配信に辿りついた。

が、その番組や前シリーズやそこからデビューしたグループを見ていくうちに、自分と同年代の子達がデビューに向けて取り組むのを見ていくうちに、何か動悸がするような、焦るような気持ちが抑えられなくなっていた。

大きいステージに立っているアイドルを見ていると涙が出てくる。

私もそっちに行きたいって。

アイドルを目指していたなんて言えるほどの努力は一切していないけど、ステージ表現して人の心を掴むということに対する強い憧れはずっと持っていて、悔しさがこみ上げてきて。

私の好きなアイドル10年を超えるダンス歴で、とにかくいろんなステージに立っていろんなオーディションを受けて大きな挫折も味わって、そんな長い下積みの末やっとデビューした。

その人が「小学生の時にダンスを習い始めて、そのおかげで内気だったのが明るい性格になった」とたびたび話していて、でもそれを聞くたびにすこし胸が苦しくなる。


中学受験じゃなくて、ダンスだったら?

私は音楽が好きで、自分で何かを表現たかったという気持ち絶対にずっとあって、それを無理に抑えてこなかったら?

中学受験の時のあの地獄のような家庭環境が無かったら、ダンスというずっとやりたかたことで自己表現ができていたら、もっとまっすぐな明るい子だったのではないか

小学校からダンスや歌を本格的にやらせてもらっていたら、私もあの番組ステージに立てたのではないか

私の勉強嫌いは完全に中学受験からきているわけで、それが無かったら別に高校受験からでもこの大学に入ることはできたんじゃなかろうか。勉強自発的にできるようになって、もっと良いところに行けてた可能性もあったんじゃなかろうか。逆も然りだけど。

今考えたらあの習い事クラブ活動も全部親の決めたもので、私の意思なんてこれっぽっちもなくて、全てが勉強につながるようなもので、だから今の私は勉強がとてもとでも嫌いだし、大学生になった今でも勉強自分のためではなくて新卒大卒獲得のためにやらされるものだと心の底では思っている。

中学受験の時の生活は今考えたら虐待だったね本当にごめんねと親は言ってくるけれども、明るかった小学3年生以前の私の性格はもう帰ってこない。

元の形の記憶を失うほどにねじれて拗れてズタズタになってしまったあの時の私から変われる気配なんてない。今から明るく優しい子になんてなれない。

家庭内でたまに言い方がきついと怒られそれがきっかけで大きな喧嘩になることもあるけれど、あの多感な時期に毎日怒られ怒鳴られ殴られ続けて親の口調が移らないわけない。私の口調と親の口調はびっくりするほどそっくりだ。


全部、中学受験のせいだと思ってしまう。


私のために全力でサポートしてくれたんだと思う。でも別に中学受験させてくれなんて頼んでなかった。あんな怒鳴り声と泣き叫ぶ声と暴力の絶えない家にしてくれなんて頼んでなかった。あんなんなるなら、地元中学でもよかった。


やりたいことなんて何もできなかったし私の話なんて微塵も聞いてくれなかったなと思ってしまう。


それでも、ここまで育ててくれて、私のことを考えて人生設計の手助けをしてくれて、中高大10年間の私立学費を惜しみなく出してくれた親には本当に感謝している。本当に恵まれた家庭で何ひとつ不自由なく育ったと思う。


それに、本当にダンスや歌がやりたかったなら、中学に上がったタイミング部活に入らずに、今度こそダンスを習わせてほしいボイトレに通いたいと親を説得することだってできたはずだ。そうしなかった段階でそこまで本気じゃなかったんだと思う。このことに気づいて、初めてあ

中学受験をしてない人生経験してみたかった

docomo配信サービス配信されている、とあるアイドルオーディションサバイバル番組にどハマりしてずっと見ている。過去シリーズまで追って、そこからデビューしたアイドルを推すほどハマっている。

そんな番組出会ってしまたことをきっかけに、自分人生について、過去に無いくらい考えて悔やんで分析して、を繰り返している。

両親のことは大好きだ。

奨学金なんて必要いくらいの収入があった父親専業主婦毎日「おかえり」と言ってくれる母親、3食おいしいご飯、たまの家族旅行、何一つ不自由なく育ててもらった。

中学入って以降は、私のやりたいことが私の成長に繋がるのならばと、できる限りを尽くしてやらせてもらった。

ガチャかい言葉だって必要ないほど恵まれ環境で育った。


でも、自分のことはびっくりするほど好きじゃない。

顔とかスタイルとか容姿ではなくて、人としての中身の問題だ。

根暗で、卑屈で、俯瞰してて、ひねくれていて、粘着質で、冷めていて、僻みがちな中身の問題だ。

絶対に生まれた時からこんなんだったわけじゃない。

少なくともまだ年齢の数字が1桁だったときは、明るくてよくしゃべる、放課後毎日遊びに行くような友達の多い子だったと思う。

それなのに変わってしまったのは自分の中で明確なターニングポイントがあって、それが「中学受験」だったと思っている。

身バレしたらしたで仕方ない。

ずっと抱えてきた贅沢な息苦しさを誰かに聞いてほしい。

から話す私の生い立ちがとんでもなく恵まれていることなんてわかってる。今から話す全てがとんでもなく甘いことなんてわかってる。無いものねだりの高望だってことだってわかってる。だから、この長くてまとまりのない文章をもし読んでくれるのであれば、この親不孝ものが、甘ったれが、クズが、って、思う存分バカにして反面教師にして笑ってほしい。


物心ついたときから、歌ったり踊ったり楽器演奏したりするのが大好きだった。

私の通っていた郊外幼稚園にはたしか必須クラブ活動があって、年少さんのときは親の意向で「お作法クラブ」に入れられた。お着物を着てお茶の飲み方を教わったり毛筆書道を並んで書いたり、素敵なことなんだけれど、3歳の私は幼いながらにかなり堅苦しさを感じていた。

クラスで一番仲の良かったおともだちがバレエクラブに入っているのがとても羨ましかった。ことあるごとに私もバレエクラブがいい、来年は変えて!と主張し続け、年中になった時には晴れてバレエクラブに入れてもらえたが、年長に上がった段階ではなぜかもとのお作法クラブに戻されていた。

幼稚園の3年間はクラブ活動とは別で習い事をしていた。英会話教室と、今は無きn田チャイルドアカデミー(n=7)だ。英会話教室は5歳になっても何のために何をやっているのかわからなかったのと、言葉先生に通じないのとでかなりストレスを感じていたと思う。

n田は、英会話教室なんかよりもはるかに何のために何をやっているのかわからなかったのと、毎日課される難解な宿題プリントと、自分習い事をどういうふうにおともだちに説明すれば伝わるのかがわからなさすぎて、何が何だかよくわからないまま終えた。

ピアノバレエを習っているおともだちがそれはそれは羨ましかった。


小学校に上がるタイミング関東の割と都会な地域引っ越した。その地域から無理なく通える範囲に高偏差値私立中高一貫校が2つもあり(以下A中学•B中学、A中学のほうがレベルが高い)、どうやら親はその学区の良さに惹かれてその地域に引っ越すことを決めたようだった。

n田の難解な宿題プリントはなぜか小学生に上がってからも続いた。学校宿題とは別で、毎日ノルマを課されていた。新しい学校で持ち前の明るさを発揮し、近所に友達もたくさんできて、遊びたい盛りだった低学年の私には、異常に難しい問題を怒られながら泣きながらこなすのは相当な苦行だった。

小学2年生になってからは、年に2,3回、大手中学受験塾のオープンテストを受けるようになった。気づいたら申し込まれていて、気づいたら受験票があって、気づいたら当日その塾に連れて行かれて謎のテストを解いている、そんな状態だった。n田の毎日プリントのおかげか、成績は相当良かった。

あなたはこれからA中学を目指すのよ、みんなと同じ隣の中学校にはいけないの。地元中学校に行くのはちょっとばかなのよ。と言われる(刷り込まれる)ようになる。

地域お祭りに行った時にステージで見た、小学生ダンスチームの発表がとてもかっこよく見えて、釘付けになった。家に帰ってから親にそのことを話し、「私もダンスやってみたい、習い事したい」とお願いをしたら、「5年生くらいになったらいいよ」と言われ、私はその言葉を信じて3年待ってみることにした。

風呂オリジナルの歌を歌ってみたり、適当な踊りを作ってみたり、自分カリスマアイドルとしてデビューするような妄想をしていたのもこの時期だったと思う。

小学3年生になってもオープンテストは言われるがままに受け続け、2月には「新4年生」としてついに入塾していた。ちょうどこの頃、近くの高校中高一貫ではない、以下C高校)の合唱部が私の小学校演奏会をしに来てくれて、その演奏の素晴らしさに感動し、ほのかにC高校に行きたい!という思いが芽生えた。


4年生になり、中学受験がはじまった。目標はA中学県内屈指の進学校を目指して塾通いが始まった。事前の数年間のオープンテストの結果、クラスは一番上になり、受験が終わるまでクラスが落ちることは一回も無かった。

自体はとても楽しかった。10数年経った今でも連絡を取り合うような大事な仲間もできたし、なにより当時は小学生にして他校に友達がいるという事実が誇らしかった。


常になにがなんだかわからないままテストを受け続けてついに始まった中学受験生活だったが、私の意識は常に「親に怒られるから仕方なく勉強している」だった。

今までは存在しなかった授業ごとの予習•復習の行程、難しい問題で躓き、とくに算数強敵だった。ほんとうに難しかった。

からなくて、理解できなくて、私の勉強のあまりの進度の遅さに怒られ、毎日のように殴られ、教科書を破られ、ノートを破られ、こっそり楽しんでいたニンテンドーDSliteは見つかって真っ二つに折られ、悔しさと意味のわからなさに泣き叫び、近所から苦情が入り、さらに怒られ、テストの点が悪いとため息をつかれ、そんな日々が3年間続いた。

受験直前にはもう燃え尽きていて、自習と嘘をついてショッピングモールに出かけたりもしていた。当然バレて、さらに怒られた。口も悪くなったし、このあたりから私も何かあるとすぐキレてしまうような難しい性格になった。


学校環境も少し問題だった。

小学4年生ともなるとだんだん人間味を帯びてくる。ヒソヒソ話や悪口友達グループ化が激化する。塾に行くようになってからは遊びに行くことも減り、放課後も付き合いがあるような友達も減った。

塾に行くようになったことで、授業中の発言普段言動に対して「いい子ぶってんじゃねーよ」「頭いいからって偉そうにしないでくれる?」と言われるようになった。

自分問題があるんだと思い、明るかったのが嘘のようにあまりさな子どもになった。実際何かしら偉そうに聞こえるような言動はあったんだと思う。

5,6年生のときクラス3分の1が中学受験をしている子たちだった。

学年の受験生がほぼ固められているにもかかわらず、次の担任中学受験に対する理解がまるで無かったので、日記帳を1日見開き1ページ書くという宿題毎日出た。

大体の日はそれにプラスしてワークなどがあった。当然、学校宿題の量と塾の与復習の両立に苦戦した。家ではそれが原因でさらに怒られた。

周りの受験生も学校宿題が大変と愚痴をこぼしていたので、私だけじゃないと知って安心した。

クラスで私を仲間はずれにした女子のことを陰で女王様揶揄っていたら、誰かにそれを担任にチクられ、授業をひとつ潰してまで説教された。

泣いて謝り許しを乞うまで説教は終わらなかった。世の中には私の味方なんていないんだと思った。

そういえば、2年生だったあのときから待ちに待っていた5年生になったので、めちゃくちゃダメ元で親に「ダンス、習わせてくれるんだよね…?」と聞いたら、何わけわかんないこと言ってんの勉強に集中しなさいと一蹴された。

中学受験中にダンスなんてやってる場合じゃないのはわかってはいたけど、それはそれでつらかった。

頭打ちの成績、勉強に対するやる気の無さ、新しいクラスでできた友達とも遊びたい、そんないろいろな要因が重なって、家庭内でも勉強をしたがらない私に対する怒鳴り声は常に飛んでいた。

怒られない日の方が珍しかった。

自分の気力、体力、学力には到底合わない高いレベルの内容には正直ついていけていなかった。

当然勉強は嫌いになった。少し理解できない問題が続くとなんでそんなにできないのと怒られ顔を引っ叩かれ毎日泣いて、ある日勇気を出して「受験をやめたい」と言ってみた。

親にはA中学B中学に行くとこんなにいいことがあるんだよお前の将来の選択肢が広がっていい大学にもいけるしいいところに就職できるんだよ、それはみんなは高校受験競争率が高い中やることだから中学のうちにやっておいた方がいいんだぞ、それでもお前は受験をやめるのかと言われたが、私はある日にはC高校に行きたいと自分意思で思ったんだから高校受験でそこを目指したいんだと強い意志を持って受験をやめる選択をした。

地元中学に行く奴はバカと言われて育って来たので少しプライドが許せなさそうだったが、それよりもこの受験生活が、「私のため」の名のもとに暴言暴力の飛び交うこの異常な家庭が嫌だったので、受験をやめる決断をできたことにほっとしていた。

後日優しい口調の親に丸めまれ、なぜか受験は続行することとなった。正直どうしてこうなったのか何も覚えていない。

結局中学受験は完遂し、A中学は落ち、B中学そもそも受験せず、家からは少し遠い第3志望のD中学入学することになった。

B中学よりはレベルの高い進学校だったので、A中学に落ちたことによってプライドが傷つくこともそこまでなかった。

中学に上がり、かねてより部活というものに、特に運動部に憧れがあったので、そのまま運動系部活に入った。

チアリーディング部はあったが、正直ヒップホップ系ダンスがやりたかったのと、小学生の時にあてられた記憶女子集団が完全に苦手になってしまったので、チアリーディング部には入らなかった。

これが「初めて自分で何かを選択できた瞬間」だった。

毎日練習が楽しくてヘトヘトになって帰ると、勉強する体力とやる気なんて残っていなかった。

最初地頭で乗り切っていた定期試験だんだん順位が落ちていき、高校に上がってから留年スレスレ彷徨うこととなった。

中学受験で完全に捻くれた性格が災いし、人間関係の構築は部活以外では皆無であった。

内向的になりかけていた自分性格さら内向的になり、何重にも殻に閉じこもるようになった。

順調に過ごす周りの同級生を見て、どうしてこの子達は同じ壮絶な受験経験しているはずなのにこんなに真っ直ぐで明るいのだろうと疑問に思っていた。

中高一貫校性質上、入学早々にやらかすとそこから卒業までは取り返しがつかなかったので、本当に部活の仲間以外の友達はいないに等しかった。

進学校勉強についていけないことと友達のいないストレスが相まって、学校の授業は休んだり遅刻したりすることが多かった。それでも部活時間には必ず練習場に行って、毎日練習には参加した。その甲斐あって、部活の方は最終的には目標だった県の上位層に食い込むことができた。

家庭では大学受験を見据えろとか勉強しろとかは一切言われなくなった。

流石に留年が危ぶまれた時は進級できるくらいにはなってくれとは言われたが、それくらいだった。希望ではないもの進学校に入れることができた満足と、あと妹の中学受験が始まっていたのも一因だったと思う。

結果的に妹は黙々と学習を重ね国内トップレベル中学入学したし、私は大学受験勉強を相当サボりつつも、運良く上位校と呼ばれるような私立大学のよくわからない学部に現役で合格した。

私の中学受験生活が酷すぎたぶん、妹には重い重い期待がかかっていてプレッシャーだったと思う。妹は妹で家庭でもあまり感情を出さずおとなしくして親の言うことを素直に聞いているように見えた。

姉のふり見て我がふり直せ、だったんだろう。

申し訳ないことをしたと思っているし、やはり我が家中学受験なんて向いてない家庭だと思っている。


半年に一回くらい、ボイストレーニング無料体験に申し込んで、無料体験レッスンだけ受講したことが何回かあった。ボーカリストオーディションとか受けてみたいなと思い調べることもあったが、一回も応募したことはなかった。



そして今、私は大学生をしている。

持ち前の勉強嫌いを発揮していくつかの単位を落としながら、中高でやっていた運動は続けながら、アカペラサークルミュージカルサークル所属してステージに立ってみたこともあった。

お金が想定よりかかったり、思ったよりも本気で音楽に向き合う人がいないいわゆる形だけのサークルだったりで、どちらもすぐ辞めてしまった。

そして、とある前世持ち練習生の存在きっかけに、冒頭に書いた某アイドルオーディションサバイバル番組配信に辿りついた。

が、その番組や前シリーズやそこからデビューしたグループを見ていくうちに、自分と同年代の子達がデビューに向けて取り組むのを見ていくうちに、何か動悸がするような、焦るような気持ちが抑えられなくなっていた。

大きいステージに立っているアイドルを見ていると涙が出てくる。

私もそっちに行きたいって。

アイドルを目指していたなんて言えるほどの努力は一切していないけど、ステージ表現して人の心を掴むということに対する強い憧れはずっと持っていて、悔しさがこみ上げてきて。

私の好きなアイドル10年を超えるダンス歴で、とにかくいろんなステージに立っていろんなオーディションを受けて大きな挫折も味わって、そんな長い下積みの末やっとデビューした。

その人が「小学生の時にダンスを習い始めて、そのおかげで内気だったのが明るい性格になった」とたびたび話していて、でもそれを聞くたびにすこし胸が苦しくなる。


中学受験じゃなくて、ダンスだったら?

私は音楽が好きで、自分で何かを表現たかったという気持ち絶対にずっとあって、それを無理に抑えてこなかったら?

中学受験の時のあの地獄のような家庭環境が無かったら、ダンスというずっとやりたかたことで自己表現ができていたら、もっとまっすぐな明るい子だったのではないか

小学校からダンスや歌を本格的にやらせてもらっていたら、私もあの番組ステージに立てたのではないか

私の勉強嫌いは完全に中学受験からきているわけで、それが無かったら別に高校受験からでもこの大学に入ることはできたんじゃなかろうか。勉強自発的にできるようになって、もっと良いところに行けてた可能性もあったんじゃなかろうか。逆も然りだけど。

今考えたらあの習い事クラブ活動も全部親の決めたもので、私の意思なんてこれっぽっちもなくて、全てが勉強につながるようなもので、だから今の私は勉強がとてもとでも嫌いだし、大学生になった今でも勉強自分のためではなくて新卒大卒獲得のためにやらされるものだと心の底では思っている。

中学受験の時の生活は今考えたら虐待だったね本当にごめんねと親は言ってくるけれども、明るかった小学3年生以前の私の性格はもう帰ってこない。

元の形の記憶を失うほどにねじれて拗れてズタズタになってしまったあの時の私から変われる気配なんてない。今から明るく優しい子になんてなれない。

家庭内でたまに言い方がきついと怒られそれがきっかけで大きな喧嘩になることもあるけれど、あの多感な時期に毎日怒られ怒鳴られ殴られ続けて親の口調が移らないわけない。私の口調と親の口調はびっくりするほどそっくりだ。


全部、中学受験のせいだと思ってしまう。


私のために全力でサポートしてくれたんだと思う。でも別に中学受験させてくれなんて頼んでなかった。あんな怒鳴り声と泣き叫ぶ声と暴力の絶えない家にしてくれなんて頼んでなかった。あんなんなるなら、地元中学でもよかった。


やりたいことなんて何もできなかったし私の話なんて微塵も聞いてくれなかったなと思ってしまう。


それでも、ここまで育ててくれて、私のことを考えて人生設計の手助けをしてくれて、中高大10年間の私立学費を惜しみなく出してくれた親には本当に感謝している。本当に恵まれた家庭で何ひとつ不自由なく育ったと思う。


それに、本当にダンスや歌がやりたかったなら、中学に上がったタイミング部活に入らずに、今度こそダンスを習わせてほしいボイトレに通いたいと親を説得することだってできたはずだ。そうしなかった段階でそこまで本気じゃなかったんだと思う。このことに気づいて、初めてあ

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