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2023-11-05

anond:20231104202358

芸能人とか文化関係理由叙勲にはそういう噂は実際に運用されているかもしれんけど、別に叙勲されるのは芸能人だけじゃないし、全国から推薦される叙勲候補者の家庭の状況なんて宮内庁が調べられるはずがなく、そんなことしてたら一般人勲章もらえなくなる。

 

秋の叙勲 県内39人、各分野で功績|佐賀新聞LiVE

https://web.archive.org/web/20141111004349/http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/121429

ひとり親家庭支援20年 旭日小綬章 

 県職員として母子福祉などを担当した経験を生かし、20年にわたって、ひとり親家庭支援に携わってきた。全国母寡婦福祉団体協議会理事長も務める。

 自身も40年前に離婚。2人の子育てと仕事を両立できたのは、実家の協力があったからだった。「他の母子家庭に比べたら苦労も少ない」というが、「結婚仕事を辞めていたら、もっと大変だった」。女性が生きていくうえで、経済的な困難さを思わずはいられない。

2023-10-31

好きな人から突然連絡が来なくなった

ので、頭の整理のためにも書いていく。

彼との出会い7月。私は風俗店で働いていた。

お客様として予約をもらい、会うまではHP経由でトークをした。

デリを使うのは初めてだからコースとか色々教えて欲しい」といった内容を丁寧な文章で送ってきてくれてとても好感が持てた。

他のおじ客はいきなり下ネタぶっ込んできたりするから

初めて会ったとき清潔感があって外見も私のタイプで、歳も近いしこんなお客さんに会えるなんて!ってテンションが上がった。

しかし、この日の出勤時に私はお店を辞めることを店長に伝えていたので、彼にも「せっかく会えて嬉しいけどお店辞めるんだ~」と伝えた。とても残念がってくれた。私もこの人は辞める子に入ることはないだろうな、と思っていた。

しかし、その後辞めるまでの2ヶ月はまめに会いに来てくれた。

私もほぼ一目惚れのような状態だったので、本当はいけないけど本番行為もした。

私が生理中のときも呼んでくれてテレビ見ながらホテルお酒を飲んだ。

辞める直前に来てくれたときLINEを交換したから、それからLINEでやりとりをしていた。

もう連絡する手段がないと思っていた、と彼はとても喜んでくれたように思う。

恥ずかしい話だが私には借金がある。

早く返したくて風俗店で働いていたのだけど、私には向いていなかったみたいでお茶で帰る日が立て続いてから辞めたのだ。

風俗を辞めてからは昼職しながら土日は派遣で働いていたからなかなか会える時間を作れなかった。

ただ、会えない中でもLINEで連絡は取り合っていた。

恋愛自体ご無沙汰で久しぶりに「私を好いてくれているお客さんではないかっこいい男性」と連絡が取れて舞い上がる私と、「きっと裏がある」と冷静な私がいてぐちゃぐちゃな感情だったのを覚えている。

そんな日々の中で突然彼から連絡があって、その日のうちに会うことになった。

なんてことは無い風を装っていたけど相当ドキドキした。

会うのは2ヶ月ぶりだった。

少し遅刻してきた彼と、会話盛り上がるかな、なんて心配している私。

その日は1件だけ飲んで帰った。

その2日後に遠出をした。1日一緒にいてこの人のことが好きだなぁと思った。

遠出をした次の日も普通にLINEをして、次会った時に好きだって伝えようと思っていた。

その週末に連絡をしたらLINE既読にならなかった。

ただ忙しいだけかな?と思ったけど2日後に連絡しても既読にならない。LINE通話をしても出ない。

スタンプは送れるからブロックはされてないみたい。

事件事故かな、なんて心配して県内ニュースを見てみたけれど彼らしき人は載っていなかった。

彼の家は知らないけど、会話の流れで聞いたので職場は知っている。

心配から見に行きたい気持ちはある。

でも私のことが嫌いになって連絡を絶たれているのなら職場に現れる私はストーカーだ。

ここ数日泣いて過ごしている。

酒の量も増えた。やけ食いもしている。

ただでさえ醜いのにどんどん醜くなる。

私は人に興味がなく、ほとんど恋愛経験がなく生きてきた。そんな私が久しぶりに恋愛をした。

から余計に忘れられないんだと思う。

もう会えないなら言って欲しかった。

好きだって気持ちがまだ残ってる。

どこかで幸せに、健康で過ごしてくれていますように。

2023-10-27

anond:20231027174350

信大県内からの進学率って、実はそんなに高くないんやで・・・

いろんな県から信州土地を魅力に思ってくれるのはええんやけど、地元民の学力だと一大勢力になるほど進学できんのや。

で、ガチエリート旧帝大普通にいくんやね

2023-10-25

中学受験をしてない人生経験してみたかった

docomo配信サービス配信されている、とあるアイドルオーディションサバイバル番組にどハマりしてずっと見ている。過去シリーズまで追って、そこからデビューしたアイドルを推すほどハマっている。

そんな番組出会ってしまたことをきっかけに、自分人生について、過去に無いくらい考えて悔やんで分析して、を繰り返している。

両親のことは大好きだ。

奨学金なんて必要いくらいの収入があった父親専業主婦毎日「おかえり」と言ってくれる母親、3食おいしいご飯、たまの家族旅行、何一つ不自由なく育ててもらった。

中学入って以降は、私のやりたいことが私の成長に繋がるのならばと、できる限りを尽くしてやらせてもらった。

ガチャかい言葉だって必要ないほど恵まれ環境で育った。


でも、自分のことはびっくりするほど好きじゃない。

顔とかスタイルとか容姿ではなくて、人としての中身の問題だ。

根暗で、卑屈で、俯瞰してて、ひねくれていて、粘着質で、冷めていて、僻みがちな中身の問題だ。

絶対に生まれた時からこんなんだったわけじゃない。

少なくともまだ年齢の数字が1桁だったときは、明るくてよくしゃべる、放課後毎日遊びに行くような友達の多い子だったと思う。

それなのに変わってしまったのは自分の中で明確なターニングポイントがあって、それが「中学受験」だったと思っている。

身バレしたらしたで仕方ない。

ずっと抱えてきた贅沢な息苦しさを誰かに聞いてほしい。

から話す私の生い立ちがとんでもなく恵まれていることなんてわかってる。今から話す全てがとんでもなく甘いことなんてわかってる。無いものねだりの高望だってことだってわかってる。だから、この長くてまとまりのない文章をもし読んでくれるのであれば、この親不孝ものが、甘ったれが、クズが、って、思う存分バカにして反面教師にして笑ってほしい。


物心ついたときから、歌ったり踊ったり楽器演奏したりするのが大好きだった。

私の通っていた郊外幼稚園にはたしか必須クラブ活動があって、年少さんのときは親の意向で「お作法クラブ」に入れられた。お着物を着てお茶の飲み方を教わったり毛筆書道を並んで書いたり、素敵なことなんだけれど、3歳の私は幼いながらにかなり堅苦しさを感じていた。

クラスで一番仲の良かったおともだちがバレエクラブに入っているのがとても羨ましかった。ことあるごとに私もバレエクラブがいい、来年は変えて!と主張し続け、年中になった時には晴れてバレエクラブに入れてもらえたが、年長に上がった段階ではなぜかもとのお作法クラブに戻されていた。

幼稚園の3年間はクラブ活動とは別で習い事をしていた。英会話教室と、今は無きn田チャイルドアカデミー(n=7)だ。英会話教室は5歳になっても何のために何をやっているのかわからなかったのと、言葉先生に通じないのとでかなりストレスを感じていたと思う。

n田は、英会話教室なんかよりもはるかに何のために何をやっているのかわからなかったのと、毎日課される難解な宿題プリントと、自分習い事をどういうふうにおともだちに説明すれば伝わるのかがわからなさすぎて、何が何だかよくわからないまま終えた。

ピアノバレエを習っているおともだちがそれはそれは羨ましかった。


小学校に上がるタイミング関東の割と都会な地域引っ越した。その地域から無理なく通える範囲に高偏差値私立中高一貫校が2つもあり(以下A中学•B中学、A中学のほうがレベルが高い)、どうやら親はその学区の良さに惹かれてその地域に引っ越すことを決めたようだった。

n田の難解な宿題プリントはなぜか小学生に上がってからも続いた。学校宿題とは別で、毎日ノルマを課されていた。新しい学校で持ち前の明るさを発揮し、近所に友達もたくさんできて、遊びたい盛りだった低学年の私には、異常に難しい問題を怒られながら泣きながらこなすのは相当な苦行だった。

小学2年生になってからは、年に2,3回、大手中学受験塾のオープンテストを受けるようになった。気づいたら申し込まれていて、気づいたら受験票があって、気づいたら当日その塾に連れて行かれて謎のテストを解いている、そんな状態だった。n田の毎日プリントのおかげか、成績は相当良かった。

あなたはこれからA中学を目指すのよ、みんなと同じ隣の中学校にはいけないの。地元中学校に行くのはちょっとばかなのよ。と言われる(刷り込まれる)ようになる。

地域お祭りに行った時にステージで見た、小学生ダンスチームの発表がとてもかっこよく見えて、釘付けになった。家に帰ってから親にそのことを話し、「私もダンスやってみたい、習い事したい」とお願いをしたら、「5年生くらいになったらいいよ」と言われ、私はその言葉を信じて3年待ってみることにした。

風呂オリジナルの歌を歌ってみたり、適当な踊りを作ってみたり、自分カリスマアイドルとしてデビューするような妄想をしていたのもこの時期だったと思う。

小学3年生になってもオープンテストは言われるがままに受け続け、2月には「新4年生」としてついに入塾していた。ちょうどこの頃、近くの高校中高一貫ではない、以下C高校)の合唱部が私の小学校演奏会をしに来てくれて、その演奏の素晴らしさに感動し、ほのかにC高校に行きたい!という思いが芽生えた。


4年生になり、中学受験がはじまった。目標はA中学県内屈指の進学校を目指して塾通いが始まった。事前の数年間のオープンテストの結果、クラスは一番上になり、受験が終わるまでクラスが落ちることは一回も無かった。

自体はとても楽しかった。10数年経った今でも連絡を取り合うような大事な仲間もできたし、なにより当時は小学生にして他校に友達がいるという事実が誇らしかった。


常になにがなんだかわからないままテストを受け続けてついに始まった中学受験生活だったが、私の意識は常に「親に怒られるから仕方なく勉強している」だった。

今までは存在しなかった授業ごとの予習•復習の行程、難しい問題で躓き、とくに算数強敵だった。ほんとうに難しかった。

からなくて、理解できなくて、私の勉強のあまりの進度の遅さに怒られ、毎日のように殴られ、教科書を破られ、ノートを破られ、こっそり楽しんでいたニンテンドーDSliteは見つかって真っ二つに折られ、悔しさと意味のわからなさに泣き叫び、近所から苦情が入り、さらに怒られ、テストの点が悪いとため息をつかれ、そんな日々が3年間続いた。

受験直前にはもう燃え尽きていて、自習と嘘をついてショッピングモールに出かけたりもしていた。当然バレて、さらに怒られた。口も悪くなったし、このあたりから私も何かあるとすぐキレてしまうような難しい性格になった。


学校環境も少し問題だった。

小学4年生ともなるとだんだん人間味を帯びてくる。ヒソヒソ話や悪口友達グループ化が激化する。塾に行くようになってからは遊びに行くことも減り、放課後も付き合いがあるような友達も減った。

塾に行くようになったことで、授業中の発言普段言動に対して「いい子ぶってんじゃねーよ」「頭いいからって偉そうにしないでくれる?」と言われるようになった。

自分問題があるんだと思い、明るかったのが嘘のようにあまりさな子どもになった。実際何かしら偉そうに聞こえるような言動はあったんだと思う。

5,6年生のときクラス3分の1が中学受験をしている子たちだった。

学年の受験生がほぼ固められているにもかかわらず、次の担任中学受験に対する理解がまるで無かったので、日記帳を1日見開き1ページ書くという宿題毎日出た。

大体の日はそれにプラスしてワークなどがあった。当然、学校宿題の量と塾の与復習の両立に苦戦した。家ではそれが原因でさらに怒られた。

周りの受験生も学校宿題が大変と愚痴をこぼしていたので、私だけじゃないと知って安心した。

クラスで私を仲間はずれにした女子のことを陰で女王様揶揄っていたら、誰かにそれを担任にチクられ、授業をひとつ潰してまで説教された。

泣いて謝り許しを乞うまで説教は終わらなかった。世の中には私の味方なんていないんだと思った。

そういえば、2年生だったあのときから待ちに待っていた5年生になったので、めちゃくちゃダメ元で親に「ダンス、習わせてくれるんだよね…?」と聞いたら、何わけわかんないこと言ってんの勉強に集中しなさいと一蹴された。

中学受験中にダンスなんてやってる場合じゃないのはわかってはいたけど、それはそれでつらかった。

頭打ちの成績、勉強に対するやる気の無さ、新しいクラスでできた友達とも遊びたい、そんないろいろな要因が重なって、家庭内でも勉強をしたがらない私に対する怒鳴り声は常に飛んでいた。

怒られない日の方が珍しかった。

自分の気力、体力、学力には到底合わない高いレベルの内容には正直ついていけていなかった。

当然勉強は嫌いになった。少し理解できない問題が続くとなんでそんなにできないのと怒られ顔を引っ叩かれ毎日泣いて、ある日勇気を出して「受験をやめたい」と言ってみた。

親にはA中学B中学に行くとこんなにいいことがあるんだよお前の将来の選択肢が広がっていい大学にもいけるしいいところに就職できるんだよ、それはみんなは高校受験競争率が高い中やることだから中学のうちにやっておいた方がいいんだぞ、それでもお前は受験をやめるのかと言われたが、私はある日にはC高校に行きたいと自分意思で思ったんだから高校受験でそこを目指したいんだと強い意志を持って受験をやめる選択をした。

地元中学に行く奴はバカと言われて育って来たので少しプライドが許せなさそうだったが、それよりもこの受験生活が、「私のため」の名のもとに暴言暴力の飛び交うこの異常な家庭が嫌だったので、受験をやめる決断をできたことにほっとしていた。

後日優しい口調の親に丸めまれ、なぜか受験は続行することとなった。正直どうしてこうなったのか何も覚えていない。

結局中学受験は完遂し、A中学は落ち、B中学そもそも受験せず、家からは少し遠い第3志望のD中学入学することになった。

B中学よりはレベルの高い進学校だったので、A中学に落ちたことによってプライドが傷つくこともそこまでなかった。

中学に上がり、かねてより部活というものに、特に運動部に憧れがあったので、そのまま運動系部活に入った。

チアリーディング部はあったが、正直ヒップホップ系ダンスがやりたかったのと、小学生の時にあてられた記憶女子集団が完全に苦手になってしまったので、チアリーディング部には入らなかった。

これが「初めて自分で何かを選択できた瞬間」だった。

毎日練習が楽しくてヘトヘトになって帰ると、勉強する体力とやる気なんて残っていなかった。

最初地頭で乗り切っていた定期試験だんだん順位が落ちていき、高校に上がってから留年スレスレ彷徨うこととなった。

中学受験で完全に捻くれた性格が災いし、人間関係の構築は部活以外では皆無であった。

内向的になりかけていた自分性格さら内向的になり、何重にも殻に閉じこもるようになった。

順調に過ごす周りの同級生を見て、どうしてこの子達は同じ壮絶な受験経験しているはずなのにこんなに真っ直ぐで明るいのだろうと疑問に思っていた。

中高一貫校性質上、入学早々にやらかすとそこから卒業までは取り返しがつかなかったので、本当に部活の仲間以外の友達はいないに等しかった。

進学校勉強についていけないことと友達のいないストレスが相まって、学校の授業は休んだり遅刻したりすることが多かった。それでも部活時間には必ず練習場に行って、毎日練習には参加した。その甲斐あって、部活の方は最終的には目標だった県の上位層に食い込むことができた。

家庭では大学受験を見据えろとか勉強しろとかは一切言われなくなった。

流石に留年が危ぶまれた時は進級できるくらいにはなってくれとは言われたが、それくらいだった。希望ではないもの進学校に入れることができた満足と、あと妹の中学受験が始まっていたのも一因だったと思う。

結果的に妹は黙々と学習を重ね国内トップレベル中学入学したし、私は大学受験勉強を相当サボりつつも、運良く上位校と呼ばれるような私立大学のよくわからない学部に現役で合格した。

私の中学受験生活が酷すぎたぶん、妹には重い重い期待がかかっていてプレッシャーだったと思う。妹は妹で家庭でもあまり感情を出さずおとなしくして親の言うことを素直に聞いているように見えた。

姉のふり見て我がふり直せ、だったんだろう。

申し訳ないことをしたと思っているし、やはり我が家中学受験なんて向いてない家庭だと思っている。


半年に一回くらい、ボイストレーニング無料体験に申し込んで、無料体験レッスンだけ受講したことが何回かあった。ボーカリストオーディションとか受けてみたいなと思い調べることもあったが、一回も応募したことはなかった。



そして今、私は大学生をしている。

持ち前の勉強嫌いを発揮していくつかの単位を落としながら、中高でやっていた運動は続けながら、アカペラサークルミュージカルサークル所属してステージに立ってみたこともあった。

お金が想定よりかかったり、思ったよりも本気で音楽に向き合う人がいないいわゆる形だけのサークルだったりで、どちらもすぐ辞めてしまった。

そして、とある前世持ち練習生の存在きっかけに、冒頭に書いた某アイドルオーディションサバイバル番組配信に辿りついた。

が、その番組や前シリーズやそこからデビューしたグループを見ていくうちに、自分と同年代の子達がデビューに向けて取り組むのを見ていくうちに、何か動悸がするような、焦るような気持ちが抑えられなくなっていた。

大きいステージに立っているアイドルを見ていると涙が出てくる。

私もそっちに行きたいって。

アイドルを目指していたなんて言えるほどの努力は一切していないけど、ステージ表現して人の心を掴むということに対する強い憧れはずっと持っていて、悔しさがこみ上げてきて。

私の好きなアイドル10年を超えるダンス歴で、とにかくいろんなステージに立っていろんなオーディションを受けて大きな挫折も味わって、そんな長い下積みの末やっとデビューした。

その人が「小学生の時にダンスを習い始めて、そのおかげで内気だったのが明るい性格になった」とたびたび話していて、でもそれを聞くたびにすこし胸が苦しくなる。


中学受験じゃなくて、ダンスだったら?

私は音楽が好きで、自分で何かを表現たかったという気持ち絶対にずっとあって、それを無理に抑えてこなかったら?

中学受験の時のあの地獄のような家庭環境が無かったら、ダンスというずっとやりたかたことで自己表現ができていたら、もっとまっすぐな明るい子だったのではないか

小学校からダンスや歌を本格的にやらせてもらっていたら、私もあの番組ステージに立てたのではないか

私の勉強嫌いは完全に中学受験からきているわけで、それが無かったら別に高校受験からでもこの大学に入ることはできたんじゃなかろうか。勉強自発的にできるようになって、もっと良いところに行けてた可能性もあったんじゃなかろうか。逆も然りだけど。

今考えたらあの習い事クラブ活動も全部親の決めたもので、私の意思なんてこれっぽっちもなくて、全てが勉強につながるようなもので、だから今の私は勉強がとてもとでも嫌いだし、大学生になった今でも勉強自分のためではなくて新卒大卒獲得のためにやらされるものだと心の底では思っている。

中学受験の時の生活は今考えたら虐待だったね本当にごめんねと親は言ってくるけれども、明るかった小学3年生以前の私の性格はもう帰ってこない。

元の形の記憶を失うほどにねじれて拗れてズタズタになってしまったあの時の私から変われる気配なんてない。今から明るく優しい子になんてなれない。

家庭内でたまに言い方がきついと怒られそれがきっかけで大きな喧嘩になることもあるけれど、あの多感な時期に毎日怒られ怒鳴られ殴られ続けて親の口調が移らないわけない。私の口調と親の口調はびっくりするほどそっくりだ。


全部、中学受験のせいだと思ってしまう。


私のために全力でサポートしてくれたんだと思う。でも別に中学受験させてくれなんて頼んでなかった。あんな怒鳴り声と泣き叫ぶ声と暴力の絶えない家にしてくれなんて頼んでなかった。あんなんなるなら、地元中学でもよかった。


やりたいことなんて何もできなかったし私の話なんて微塵も聞いてくれなかったなと思ってしまう。


それでも、ここまで育ててくれて、私のことを考えて人生設計の手助けをしてくれて、中高大10年間の私立学費を惜しみなく出してくれた親には本当に感謝している。本当に恵まれた家庭で何ひとつ不自由なく育ったと思う。


それに、本当にダンスや歌がやりたかったなら、中学に上がったタイミング部活に入らずに、今度こそダンスを習わせてほしいボイトレに通いたいと親を説得することだってできたはずだ。そうしなかった段階でそこまで本気じゃなかったんだと思う。このことに気づいて、初めてあ

中学受験をしてない人生経験してみたかった

docomo配信サービス配信されている、とあるアイドルオーディションサバイバル番組にどハマりしてずっと見ている。過去シリーズまで追って、そこからデビューしたアイドルを推すほどハマっている。

そんな番組出会ってしまたことをきっかけに、自分人生について、過去に無いくらい考えて悔やんで分析して、を繰り返している。

両親のことは大好きだ。

奨学金なんて必要いくらいの収入があった父親専業主婦毎日「おかえり」と言ってくれる母親、3食おいしいご飯、たまの家族旅行、何一つ不自由なく育ててもらった。

中学入って以降は、私のやりたいことが私の成長に繋がるのならばと、できる限りを尽くしてやらせてもらった。

ガチャかい言葉だって必要ないほど恵まれ環境で育った。


でも、自分のことはびっくりするほど好きじゃない。

顔とかスタイルとか容姿ではなくて、人としての中身の問題だ。

根暗で、卑屈で、俯瞰してて、ひねくれていて、粘着質で、冷めていて、僻みがちな中身の問題だ。

絶対に生まれた時からこんなんだったわけじゃない。

少なくともまだ年齢の数字が1桁だったときは、明るくてよくしゃべる、放課後毎日遊びに行くような友達の多い子だったと思う。

それなのに変わってしまったのは自分の中で明確なターニングポイントがあって、それが「中学受験」だったと思っている。

身バレしたらしたで仕方ない。

ずっと抱えてきた贅沢な息苦しさを誰かに聞いてほしい。

から話す私の生い立ちがとんでもなく恵まれていることなんてわかってる。今から話す全てがとんでもなく甘いことなんてわかってる。無いものねだりの高望だってことだってわかってる。だから、この長くてまとまりのない文章をもし読んでくれるのであれば、この親不孝ものが、甘ったれが、クズが、って、思う存分バカにして反面教師にして笑ってほしい。


物心ついたときから、歌ったり踊ったり楽器演奏したりするのが大好きだった。

私の通っていた郊外幼稚園にはたしか必須クラブ活動があって、年少さんのときは親の意向で「お作法クラブ」に入れられた。お着物を着てお茶の飲み方を教わったり毛筆書道を並んで書いたり、素敵なことなんだけれど、3歳の私は幼いながらにかなり堅苦しさを感じていた。

クラスで一番仲の良かったおともだちがバレエクラブに入っているのがとても羨ましかった。ことあるごとに私もバレエクラブがいい、来年は変えて!と主張し続け、年中になった時には晴れてバレエクラブに入れてもらえたが、年長に上がった段階ではなぜかもとのお作法クラブに戻されていた。

幼稚園の3年間はクラブ活動とは別で習い事をしていた。英会話教室と、今は無きn田チャイルドアカデミー(n=7)だ。英会話教室は5歳になっても何のために何をやっているのかわからなかったのと、言葉先生に通じないのとでかなりストレスを感じていたと思う。

n田は、英会話教室なんかよりもはるかに何のために何をやっているのかわからなかったのと、毎日課される難解な宿題プリントと、自分習い事をどういうふうにおともだちに説明すれば伝わるのかがわからなさすぎて、何が何だかよくわからないまま終えた。

ピアノバレエを習っているおともだちがそれはそれは羨ましかった。


小学校に上がるタイミング関東の割と都会な地域引っ越した。その地域から無理なく通える範囲に高偏差値私立中高一貫校が2つもあり(以下A中学•B中学、A中学のほうがレベルが高い)、どうやら親はその学区の良さに惹かれてその地域に引っ越すことを決めたようだった。

n田の難解な宿題プリントはなぜか小学生に上がってからも続いた。学校宿題とは別で、毎日ノルマを課されていた。新しい学校で持ち前の明るさを発揮し、近所に友達もたくさんできて、遊びたい盛りだった低学年の私には、異常に難しい問題を怒られながら泣きながらこなすのは相当な苦行だった。

小学2年生になってからは、年に2,3回、大手中学受験塾のオープンテストを受けるようになった。気づいたら申し込まれていて、気づいたら受験票があって、気づいたら当日その塾に連れて行かれて謎のテストを解いている、そんな状態だった。n田の毎日プリントのおかげか、成績は相当良かった。

あなたはこれからA中学を目指すのよ、みんなと同じ隣の中学校にはいけないの。地元中学校に行くのはちょっとばかなのよ。と言われる(刷り込まれる)ようになる。

地域お祭りに行った時にステージで見た、小学生ダンスチームの発表がとてもかっこよく見えて、釘付けになった。家に帰ってから親にそのことを話し、「私もダンスやってみたい、習い事したい」とお願いをしたら、「5年生くらいになったらいいよ」と言われ、私はその言葉を信じて3年待ってみることにした。

風呂オリジナルの歌を歌ってみたり、適当な踊りを作ってみたり、自分カリスマアイドルとしてデビューするような妄想をしていたのもこの時期だったと思う。

小学3年生になってもオープンテストは言われるがままに受け続け、2月には「新4年生」としてついに入塾していた。ちょうどこの頃、近くの高校中高一貫ではない、以下C高校)の合唱部が私の小学校演奏会をしに来てくれて、その演奏の素晴らしさに感動し、ほのかにC高校に行きたい!という思いが芽生えた。


4年生になり、中学受験がはじまった。目標はA中学県内屈指の進学校を目指して塾通いが始まった。事前の数年間のオープンテストの結果、クラスは一番上になり、受験が終わるまでクラスが落ちることは一回も無かった。

自体はとても楽しかった。10数年経った今でも連絡を取り合うような大事な仲間もできたし、なにより当時は小学生にして他校に友達がいるという事実が誇らしかった。


常になにがなんだかわからないままテストを受け続けてついに始まった中学受験生活だったが、私の意識は常に「親に怒られるから仕方なく勉強している」だった。

今までは存在しなかった授業ごとの予習•復習の行程、難しい問題で躓き、とくに算数強敵だった。ほんとうに難しかった。

からなくて、理解できなくて、私の勉強のあまりの進度の遅さに怒られ、毎日のように殴られ、教科書を破られ、ノートを破られ、こっそり楽しんでいたニンテンドーDSliteは見つかって真っ二つに折られ、悔しさと意味のわからなさに泣き叫び、近所から苦情が入り、さらに怒られ、テストの点が悪いとため息をつかれ、そんな日々が3年間続いた。

受験直前にはもう燃え尽きていて、自習と嘘をついてショッピングモールに出かけたりもしていた。当然バレて、さらに怒られた。口も悪くなったし、このあたりから私も何かあるとすぐキレてしまうような難しい性格になった。


学校環境も少し問題だった。

小学4年生ともなるとだんだん人間味を帯びてくる。ヒソヒソ話や悪口友達グループ化が激化する。塾に行くようになってからは遊びに行くことも減り、放課後も付き合いがあるような友達も減った。

塾に行くようになったことで、授業中の発言普段言動に対して「いい子ぶってんじゃねーよ」「頭いいからって偉そうにしないでくれる?」と言われるようになった。

自分問題があるんだと思い、明るかったのが嘘のようにあまりさな子どもになった。実際何かしら偉そうに聞こえるような言動はあったんだと思う。

5,6年生のときクラス3分の1が中学受験をしている子たちだった。

学年の受験生がほぼ固められているにもかかわらず、次の担任中学受験に対する理解がまるで無かったので、日記帳を1日見開き1ページ書くという宿題毎日出た。

大体の日はそれにプラスしてワークなどがあった。当然、学校宿題の量と塾の与復習の両立に苦戦した。家ではそれが原因でさらに怒られた。

周りの受験生も学校宿題が大変と愚痴をこぼしていたので、私だけじゃないと知って安心した。

クラスで私を仲間はずれにした女子のことを陰で女王様揶揄っていたら、誰かにそれを担任にチクられ、授業をひとつ潰してまで説教された。

泣いて謝り許しを乞うまで説教は終わらなかった。世の中には私の味方なんていないんだと思った。

そういえば、2年生だったあのときから待ちに待っていた5年生になったので、めちゃくちゃダメ元で親に「ダンス、習わせてくれるんだよね…?」と聞いたら、何わけわかんないこと言ってんの勉強に集中しなさいと一蹴された。

中学受験中にダンスなんてやってる場合じゃないのはわかってはいたけど、それはそれでつらかった。

頭打ちの成績、勉強に対するやる気の無さ、新しいクラスでできた友達とも遊びたい、そんないろいろな要因が重なって、家庭内でも勉強をしたがらない私に対する怒鳴り声は常に飛んでいた。

怒られない日の方が珍しかった。

自分の気力、体力、学力には到底合わない高いレベルの内容には正直ついていけていなかった。

当然勉強は嫌いになった。少し理解できない問題が続くとなんでそんなにできないのと怒られ顔を引っ叩かれ毎日泣いて、ある日勇気を出して「受験をやめたい」と言ってみた。

親にはA中学B中学に行くとこんなにいいことがあるんだよお前の将来の選択肢が広がっていい大学にもいけるしいいところに就職できるんだよ、それはみんなは高校受験競争率が高い中やることだから中学のうちにやっておいた方がいいんだぞ、それでもお前は受験をやめるのかと言われたが、私はある日にはC高校に行きたいと自分意思で思ったんだから高校受験でそこを目指したいんだと強い意志を持って受験をやめる選択をした。

地元中学に行く奴はバカと言われて育って来たので少しプライドが許せなさそうだったが、それよりもこの受験生活が、「私のため」の名のもとに暴言暴力の飛び交うこの異常な家庭が嫌だったので、受験をやめる決断をできたことにほっとしていた。

後日優しい口調の親に丸めまれ、なぜか受験は続行することとなった。正直どうしてこうなったのか何も覚えていない。

結局中学受験は完遂し、A中学は落ち、B中学そもそも受験せず、家からは少し遠い第3志望のD中学入学することになった。

B中学よりはレベルの高い進学校だったので、A中学に落ちたことによってプライドが傷つくこともそこまでなかった。

中学に上がり、かねてより部活というものに、特に運動部に憧れがあったので、そのまま運動系部活に入った。

チアリーディング部はあったが、正直ヒップホップ系ダンスがやりたかったのと、小学生の時にあてられた記憶女子集団が完全に苦手になってしまったので、チアリーディング部には入らなかった。

これが「初めて自分で何かを選択できた瞬間」だった。

毎日練習が楽しくてヘトヘトになって帰ると、勉強する体力とやる気なんて残っていなかった。

最初地頭で乗り切っていた定期試験だんだん順位が落ちていき、高校に上がってから留年スレスレ彷徨うこととなった。

中学受験で完全に捻くれた性格が災いし、人間関係の構築は部活以外では皆無であった。

内向的になりかけていた自分性格さら内向的になり、何重にも殻に閉じこもるようになった。

順調に過ごす周りの同級生を見て、どうしてこの子達は同じ壮絶な受験経験しているはずなのにこんなに真っ直ぐで明るいのだろうと疑問に思っていた。

中高一貫校性質上、入学早々にやらかすとそこから卒業までは取り返しがつかなかったので、本当に部活の仲間以外の友達はいないに等しかった。

進学校勉強についていけないことと友達のいないストレスが相まって、学校の授業は休んだり遅刻したりすることが多かった。それでも部活時間には必ず練習場に行って、毎日練習には参加した。その甲斐あって、部活の方は最終的には目標だった県の上位層に食い込むことができた。

家庭では大学受験を見据えろとか勉強しろとかは一切言われなくなった。

流石に留年が危ぶまれた時は進級できるくらいにはなってくれとは言われたが、それくらいだった。希望ではないもの進学校に入れることができた満足と、あと妹の中学受験が始まっていたのも一因だったと思う。

結果的に妹は黙々と学習を重ね国内トップレベル中学入学したし、私は大学受験勉強を相当サボりつつも、運良く上位校と呼ばれるような私立大学のよくわからない学部に現役で合格した。

私の中学受験生活が酷すぎたぶん、妹には重い重い期待がかかっていてプレッシャーだったと思う。妹は妹で家庭でもあまり感情を出さずおとなしくして親の言うことを素直に聞いているように見えた。

姉のふり見て我がふり直せ、だったんだろう。

申し訳ないことをしたと思っているし、やはり我が家中学受験なんて向いてない家庭だと思っている。


半年に一回くらい、ボイストレーニング無料体験に申し込んで、無料体験レッスンだけ受講したことが何回かあった。ボーカリストオーディションとか受けてみたいなと思い調べることもあったが、一回も応募したことはなかった。



そして今、私は大学生をしている。

持ち前の勉強嫌いを発揮していくつかの単位を落としながら、中高でやっていた運動は続けながら、アカペラサークルミュージカルサークル所属してステージに立ってみたこともあった。

お金が想定よりかかったり、思ったよりも本気で音楽に向き合う人がいないいわゆる形だけのサークルだったりで、どちらもすぐ辞めてしまった。

そして、とある前世持ち練習生の存在きっかけに、冒頭に書いた某アイドルオーディションサバイバル番組配信に辿りついた。

が、その番組や前シリーズやそこからデビューしたグループを見ていくうちに、自分と同年代の子達がデビューに向けて取り組むのを見ていくうちに、何か動悸がするような、焦るような気持ちが抑えられなくなっていた。

大きいステージに立っているアイドルを見ていると涙が出てくる。

私もそっちに行きたいって。

アイドルを目指していたなんて言えるほどの努力は一切していないけど、ステージ表現して人の心を掴むということに対する強い憧れはずっと持っていて、悔しさがこみ上げてきて。

私の好きなアイドル10年を超えるダンス歴で、とにかくいろんなステージに立っていろんなオーディションを受けて大きな挫折も味わって、そんな長い下積みの末やっとデビューした。

その人が「小学生の時にダンスを習い始めて、そのおかげで内気だったのが明るい性格になった」とたびたび話していて、でもそれを聞くたびにすこし胸が苦しくなる。


中学受験じゃなくて、ダンスだったら?

私は音楽が好きで、自分で何かを表現たかったという気持ち絶対にずっとあって、それを無理に抑えてこなかったら?

中学受験の時のあの地獄のような家庭環境が無かったら、ダンスというずっとやりたかたことで自己表現ができていたら、もっとまっすぐな明るい子だったのではないか

小学校からダンスや歌を本格的にやらせてもらっていたら、私もあの番組ステージに立てたのではないか

私の勉強嫌いは完全に中学受験からきているわけで、それが無かったら別に高校受験からでもこの大学に入ることはできたんじゃなかろうか。勉強自発的にできるようになって、もっと良いところに行けてた可能性もあったんじゃなかろうか。逆も然りだけど。

今考えたらあの習い事クラブ活動も全部親の決めたもので、私の意思なんてこれっぽっちもなくて、全てが勉強につながるようなもので、だから今の私は勉強がとてもとでも嫌いだし、大学生になった今でも勉強自分のためではなくて新卒大卒獲得のためにやらされるものだと心の底では思っている。

中学受験の時の生活は今考えたら虐待だったね本当にごめんねと親は言ってくるけれども、明るかった小学3年生以前の私の性格はもう帰ってこない。

元の形の記憶を失うほどにねじれて拗れてズタズタになってしまったあの時の私から変われる気配なんてない。今から明るく優しい子になんてなれない。

家庭内でたまに言い方がきついと怒られそれがきっかけで大きな喧嘩になることもあるけれど、あの多感な時期に毎日怒られ怒鳴られ殴られ続けて親の口調が移らないわけない。私の口調と親の口調はびっくりするほどそっくりだ。


全部、中学受験のせいだと思ってしまう。


私のために全力でサポートしてくれたんだと思う。でも別に中学受験させてくれなんて頼んでなかった。あんな怒鳴り声と泣き叫ぶ声と暴力の絶えない家にしてくれなんて頼んでなかった。あんなんなるなら、地元中学でもよかった。


やりたいことなんて何もできなかったし私の話なんて微塵も聞いてくれなかったなと思ってしまう。


それでも、ここまで育ててくれて、私のことを考えて人生設計の手助けをしてくれて、中高大10年間の私立学費を惜しみなく出してくれた親には本当に感謝している。本当に恵まれた家庭で何ひとつ不自由なく育ったと思う。


それに、本当にダンスや歌がやりたかったなら、中学に上がったタイミング部活に入らずに、今度こそダンスを習わせてほしいボイトレに通いたいと親を説得することだってできたはずだ。そうしなかった段階でそこまで本気じゃなかったんだと思う。このことに気づいて、初めてあ

2023-10-23

anond:20231023164619

千葉って東京ベットタウン化されて、その路線しかいからなあ。

内房工業地帯なんかも、県内から行こうとすると結構不便だったりする。

昔っから地方はほんと陸の孤島みたいな感じ。

ま、それが好きで千葉県に住んでんだけどな。

2023-10-19

anond:20231019012834

条件に反しますが地質調査会社とか土木系の営業どうでしょう

県内役所土木課を車で訪問して名刺を配っているおじいちゃんたちも50過ぎて未経験転職しているとか普通から35歳はまじで重宝される出世頭。待遇役所より明確に上。

異業種はあまりおすすめしない。忙しくなるだけ(普通、暇な会社求人しない)。まじで土木業界土木というだけで若者が来ない。

anond:20231018225203

長崎グラバー園とかのある辺りと平和公園ハウステンボスバイオパークに行きたいけど県内交通の便があんまり良くないか

青森奈良美智の🐕を見に行きたいけどそのためだけに飛行機でわざわざ…と思うとなかなか踏ん切りがつかないか

2023-10-11

子供放置しないために皆で働き方改革しようよ

埼玉県議会で取り下げられた子供放置禁止条例案、取り下げられてよかったんだけど、親も子供を好きで一人にしてるんじゃないわけ。一人にせざるを得ない状況なんだわ。

そのフラストレーションの大部分を減らすには、親の仕事を早く上がらせろよ。ってか子供の親だけじゃなく、日本全体で残業やめてくれ。そういう働き方になって初めて、ひょっとすると今回の条例が受け入れられるくらいに子供を育てる環境が整うんだと思う。

子供いねえんだから関係ないだろって思うだろ?そうじゃないんだな。あなたが定時で帰るスピード仕事してくれないと、子持ち(や介護持ちや病気持ちやモチベーション低下持ちや推し持ちや趣味持ちなどその他大勢)も平静に働けないんだな。自分のペースだけで働ける人が、好きに残業やりまくって仕事さっさかこなしちゃうと、そのペースで仕事しろやってことになっちゃう。いま日本社会ではそうして仕事しまくる人が偉いってことになってるから。だから良くない子育て環境改善したいなら、みんなで働き方改革(つってもセーブするだけ)するしかないのよ。

埼玉県議会は、県内企業働き方改革を強化しまくる条例案でも出して、テレ玉カラオケ大会に出てる人たちに根回ししときゃ、全国の模範になれたんじゃないかな。りそなあたりが先陣切るでしょ。

子供放置問題なのは程度の差があれ多少同意する部分はあるが、「親が見とけ」で思考停止するのは日本の良くないところ。日本はすぐ「注意喚起!ヨシ!」「標語掲示!ヨシ!」で末端最前線リスク対策押し付けるが(今回もそうね)、ホントはそうならないように頭をひねらせて仕組みを改善しなきゃあ。

親だけに押し付けるな、ベビーシッターや一時保育の拡充を、と叫ぶ声もある。もちろんそれも大切。ベビーシッターもっと使いやすくなるとすごくいい。でもそれって、生じた需要に手当するだけの応急処置にすぎない。ベビーシッター利用助成の拡充だけやって対策した気になるんじゃねえぞ内閣府

2023-10-10

もう20年以上前の話で、時効だと思うからここで吐き出したい。高校生の時、私は今で言う陰キャグループ人間だった。オタクでおどおどして、陽キャリア充とは程遠くて。おたくなかまでぐふぐふら笑って、身だしなみも気にしなくて。でも高校三年生の時、同じオタク仲間と最後文化祭ぐらい楽しみたいよねって話になって、ちょうど中間ぐらいのクラスメイトサブリーダー立候補してくれないかと密かに頼んだ。他のクラスにも友達がいたし、色んな層の人と広く話せる人だったし、年上の彼氏もいたらしいし、その人もアニメ見る人だったから、本当にちょうど真ん中だった私たちからしたら。その人はいやー私はそういうタイプじゃないからと言ったので、お金なら払うからと仲間内で集めた今にしたら賄賂にすらならない金額の入った封筒を用意した。何度も話して、そしたらその人が最後お金はいいからと折れてくれて、最後文化祭陽キャ以外も楽しめるものになった。今までは私たちみたいなオタクは周りのノリに合わせるしかなかったのだが、その人が入ったおかげで役割のあることをやらせてもらえたり、意見を聞いてもらえたりできた。楽しかった、頼んでよかった、そう思っていた。その人がサブリーダーをやったことで、本当はサブリーダーやりたかった陽キャ女子たちがその人の陰口を言っていたことを、陰口を言われても頼まれたからとも何も言わずに、自分で選んだのだとやってくれたことを、私たちは後になってから知った、頼まれたからと言えばあんなに言われずに済んだのに。申し訳ないと思って謝ったら、私が自分立候補したんだよ、と言われて、私たちはとんでもないことをしたと思った。私たち私たち無責任を誰かの責任にしていた。

大人になって稼げるようになって、せめて何かお礼の品を、あの時渡せなかったからなにかしらをと思ったけど、その人の連絡先は既に変わってて、結婚した話は聞いたけど、県内のどこにいるとかもわからない、それを聞くツテがグループ違いの私たちには残されていなかった。SNS私たちが知れる限りでは見つけられなかった。

今もどこかで元気でやっていてほしい、あの時はごめんなさい、どうか、どうか届いてほしい。あの時はありがとう、おかげで私たちのものも、楽しい思い出を作ることができました。あの時一緒にクラスの飾りを作ってくれてありがとう、あの時当番を一緒にやってくれてありがとう。今もアニメ見てるかな、かつてガンダムの話で一瞬盛り上がれて楽しかった。

スキップローファーを見て、私は彼女のことを思い出した。私たち私たち青春のために彼女青春の一瞬を奪い取ったのだと、明確に理解した。ごめんなさい、届いてください。

2023-10-09

とある天才」に振り回された人々の話

中学のころ地方都市私立中高一貫校に入学した。特に進学校でもなくたいした勉強をしなくても入れる。地元中学より制服がオシャレとか自転車通学できるとか、その程度の動機で選んでいた。後、スポーツが強かった。

特に野球は強く地方大会で優勝するレベルにあって非常に人気だった。おもてだった野球特待生はいなかったが、有望な野球少年はほぼ顔パス入学できた。しか高等部野球部はさらに強豪校で県内から人材を集めていたので、中等部野球メンバーは進学しても2,3人しか入部を許可されない。

そして、うちの学年には天才がいた。俺は野球部ではなかったので彼の実力のほどは知らなかったが、体育の授業でマット競技とかハードルの授業でおそろしいバネを披露していた。もちろん、うちの高校へのエスカレーター枠とみなされていた。

しかそいつ素行問題大有りだった。授業中の態度は悪く、気の弱い先生など標的にしていじめていた。一人の先生は完全に病んでしまっていた。

また中学生にもかかわらず女癖が本当に悪かった。相手妊娠中絶とかその領域の話もあった。事態大事になったら何故か女子生徒の方が地元公立中学に「転校」させられた。そいつを何としても野球高校に進学させるためだったのだろう。

ただ、最後に手を出された女子生徒の両親は一歩も引かず行政通報した。先生たちも男の方を庇いきれなくなってそいつが退学処分になった。かつて転校した女子たちは復学させるという噂もあったが、結局一人も戻ってこなかった。

ここからは完全に伝聞になるが、そいつは別の高校野球をしたらしいが、事態が急変する。化けの皮が剥がれ始めたのだ。中学までは発育がよかっただけで高校になると成長が止まり始めた。はっきりいって学校が色んなものをゆがめてまで守る選手ではなかったのだ。

遅すぎる話だが、周りの大人は何故彼の才能が瞬間的なものだということが気づかなかったのか、あったところで特別扱いして良いことなんて一つもなかったのだ。

今母校はどんなにスポーツができても、ある程度勉強しないと入学できなくなったそうだ。あの当時の不幸を糧にして変わってれば幸いである。

とある天才」に振り回された人々の話

中学のころ地方都市私立中高一貫校に入学した。特に進学校でもなくたいした勉強をしなくても入れる。地元中学より制服がオシャレとか自転車通学できるとか、その程度の動機で選んでいた。後、スポーツが強かった。

特に野球は強く地方大会で優勝するレベルにあって非常に人気だった。おもてだった野球特待生はいなかったが、有望な野球少年はほぼ顔パス入学できた。しか高等部野球部はさらに強豪校で県内から人材を集めていたので、中等部野球メンバーは進学しても2,3人しか入部を許可されない。

そして、うちの学年には天才がいた。俺は野球部ではなかったので彼の実力のほどは知らなかったが、体育の授業でマット競技とかハードルの授業でおそろしいバネを披露していた。もちろん、うちの高校へのエスカレーター枠とみなされていた。

しかそいつ素行問題大有りだった。授業中の態度は悪く、気の弱い先生など標的にしていじめていた。一人の先生は完全に病んでしまっていた。

また中学生にもかかわらず女癖が本当に悪かった。相手妊娠中絶とかその領域の話もあった。事態大事になったら何故か女子生徒の方が地元公立中学に「転校」させられた。そいつを何としても野球高校に進学させるためだったのだろう。

ただ、最後に手を出された女子生徒の両親は一歩も引かず行政通報した。先生たちも男の方を庇いきれなくなってそいつが退学処分になった。かつて転校した女子たちは復学させるという噂もあったが、結局一人も戻ってこなかった。

ここからは完全に伝聞になるが、そいつは別の高校野球をしたらしいが、事態が急変する。化けの皮が剥がれ始めたのだ。中学までは発育がよかっただけで高校になると成長が止まり始めた。はっきりいって学校が色んなものをゆがめてまで守る選手ではなかったのだ。

遅すぎる話だが、周りの大人は何故彼の才能が瞬間的なものだということが気づかなかったのか、あったところで特別扱いして良いことなんて一つもなかったのだ。

今母校はどんなにスポーツができても、ある程度勉強しないと入学できなくなったそうだ。あの当時の不幸を糧にして変わってれば幸いである。

2023-10-01

[]anond:20231001190816

1979年まれ地方出身

1979年に生まれ東京へは日帰りでは出かけられない場所で育った。

出張で不在が多い父、専業主婦の母、祖父、4歳下の弟、私。

母は私たちが幼い頃に大病を患って、強い薬の副作用に苦しむ姿もあった。

父の不在が多い中、余裕がなかったこともあったのだろう、私は厳しく躾けられた。

母の機嫌を常にうかがい過ごしていたが、思春期には反発をしては殴られて叱られた。

はいつも、自分子供の頃は大人に殴られて育てられた。子供なんて、猿と同じだから、叩かないと分からないんだと言いながら、私を殴ったり棒で叩いたりしていた。

中学校時代は、優等生で過ごした。

友人関係でつまづいたこともあったが、周囲に嫌われたくない仲間はずれにされたくないという想いが強かった。

周囲を見ても、いじめヤンキー障害がある子へのからかい普通にあった。

部活運動部で、先輩後輩の上下関係が厳しかった。顧問教師も、大声で怒鳴り物を投げつけるような人だった。

高校時代部活顧問も同様だった。練習中に過呼吸で倒れても、叱責され何の対応もなかった。

大学進学の時期になり、学びたい分野と進みたい学校があったが、親に反対された。

こんな分野の勉強をしても、就職出来るはずがない。

県内大学で、自宅から通うなら金を出す。と言われた。資格が取れて就職出来る分野にすすめと。

絶望した気分で過ごし、勉強する気持ちも失った。

結局、県内簡単に入れる大学に進学した。

大学卒業とともに取得できる資格がある。親の言う通りの進路だった。

就職活動もろくにしなかった。取得した資格で働ける職場で働くことにした。

パワハラセクハラが当然にあり、事務所内でも会議中でも男性喫煙可能環境だった。

新卒3年目のころ、ストレス食事が出来なくなったこともあった。

こっそり精神科に通いながら働いた。

あれから20年以上が経ったが、まだ同じ分野で仕事を続けている。

途中、結婚子供も出来た。

家事育児ほとんど自分がしている。

夫は仕事熱心。何度か話し合ったが、収入の多い夫が家事育児負担することは、今もない。

専業主婦の家庭で育った夫、義母完璧家事をこなす人なので手伝いをすることもなかったそうだ。

1970年代まれの夫、そんな家庭はたくさんあっただろう。

育児中、自分が親にされてきたことは絶対にしたくないという強い気持ちで過ごしている。家事は息子には一通り教えた。今や何でも1人でこなせる。

仕事中も、自分が周囲にされてきたことは絶対に下の世代の子達にはしたくないという強い気持ちで過ごしている。

それらの取り組みは当たり前のことと思っているけど、たまに自分ばかりが消耗していると感じてしまって苦しい時がある。

負の連鎖を止めたいけど、何故自分ばかりが。

今日はその気分が強くて吐き出した。

いまの中年世代で、同じような人はいるかなと思って。

1979年まれ地方出身

1979年に生まれ東京へは日帰りでは出かけられない場所で育った。

出張で不在が多い父、専業主婦の母、祖父、4歳下の弟、私。

母は私たちが幼い頃に大病を患って、強い薬の副作用に苦しむ姿もあった。

父の不在が多い中、余裕がなかったこともあったのだろう、私は厳しく躾けられた。

母の機嫌を常にうかがい過ごしていたが、思春期には反発をしては殴られて叱られた。

はいつも、自分子供の頃は大人に殴られて育てられた。子供なんて、猿と同じだから、叩かないと分からないんだと言いながら、私を殴ったり棒で叩いたりしていた。

中学校時代は、優等生で過ごした。

友人関係でつまづいたこともあったが、周囲に嫌われたくない仲間はずれにされたくないという想いが強かった。

周囲を見ても、いじめヤンキー障害がある子へのからかい普通にあった。

部活運動部で、先輩後輩の上下関係が厳しかった。顧問教師も、大声で怒鳴り物を投げつけるような人だった。

高校時代部活顧問も同様だった。練習中に過呼吸で倒れても、叱責され何の対応もなかった。

大学進学の時期になり、学びたい分野と進みたい学校があったが、親に反対された。

こんな分野の勉強をしても、就職出来るはずがない。

県内大学で、自宅から通うなら金を出す。と言われた。資格が取れて就職出来る分野にすすめと。

絶望した気分で過ごし、勉強する気持ちも失った。

結局、県内簡単に入れる大学に進学した。

大学卒業とともに取得できる資格がある。親の言う通りの進路だった。

就職活動もろくにしなかった。取得した資格で働ける職場で働くことにした。

パワハラセクハラが当然にあり、事務所内でも会議中でも男性喫煙可能環境だった。

新卒3年目のころ、ストレス食事が出来なくなったこともあった。

こっそり精神科に通いながら働いた。

あれから20年以上が経ったが、まだ同じ分野で仕事を続けている。

途中、結婚子供も出来た。

家事育児ほとんど自分がしている。

夫は仕事熱心。何度か話し合ったが、収入の多い夫が家事育児負担することは、今もない。

専業主婦の家庭で育った夫、義母完璧家事をこなす人なので手伝いをすることもなかったそうだ。

1970年代まれの夫、そんな家庭はたくさんあっただろう。

育児中、自分が親にされてきたことは絶対にしたくないという強い気持ちで過ごしている。家事は息子には一通り教えた。今や何でも1人でこなせる。

仕事中も、自分が周囲にされてきたことは絶対に下の世代の子達にはしたくないという強い気持ちで過ごしている。

それらの取り組みは当たり前のことと思っているけど、たまに自分ばかりが消耗していると感じてしまって苦しい時がある。

負の連鎖を止めたいけど、何故自分ばかりが。

今日はその気分が強くて吐き出した。

いまの中年世代で、同じような人はいるかなと思って。

2023-09-30

東工大女子奨学金おかしくないだろ

女子奨学金あなたたちが何か不利益を被りましたか

女子奨学金で、男子向けの奨学金の枠が減らされでもしまたか

他者優遇されたからって憤って足の引っ張り合いをするなよ、頭の悪いフェミニストとやってること同じだぞ。

東京医科大は騒がれたのに!」って、あれは男子優遇することで女子不利益を被ってるから当たり前。

県内に住む人しか受けられないタイプ医学部地域枠は差別ですか???

2023-09-20

anond:20230920105404

気になって自分の住まう市内の保育園待遇を見てみた。

4大卒正社員で手当込み初年度の年収モデルが350~400万とかで、短大卒だと330~380万。

残業は少なめ(求人票に記載されているのが正しいなら)、年の休日120日以上と一般企業と比べても良い待遇だ。

一方で非常勤パート求人で見てみると、こちらはものすごく待遇が悪い。

一日8時間労働だとして正社員比較すると20%ほど月収入が少なく手当も賞与もなし、年収で見ると240万ぐらいだろうか。

これではまともに生活も出来ないだろう、離職率が高いのは正社員ではなく非常勤パートタイマーの職員のほうだと思われる。

運営されている保育園保育士割合非常勤パートタイマーが多くなると保育の質も落ちることが懸念されるのではないか

そういえば私の母が保育士で知り合いに正社員として保育園での働き口を斡旋するというのをしばしば行っていたのだが、物凄く感謝されていたのをよく覚えている。

この待遇の差を見るならばその感謝にも納得がいくものだなぁと思った。

---

追記

どこの話だとか自分の知る保育士実態とは異なるという意見があったので書ける範囲で書いてみる。

自分住まいは一都三県内地方自治体であり、その中でも財政黒字を続けている、比較お金のある自治体です。

ベットタウンとして都市開発が推進されており子持ち家庭の割合が伸びている地域でもあります保育園も急速に数を増やしており子育て比較的行いやすい街です。

(ここまで書けば行政に詳しい人ならある程度範囲を絞れるかもしれません。)

自分の知っている保育士実態とは違うという意見も少なからず見受けられましたので、私の出身地、つまり私の母が保育士として働いていた地域についても求人情報から収入がどの程度なのかを調べてみました。

地方求人票だと4大卒短大卒のような記載のされかたはしておらず「有資格者」という枠でしか募集がありません、加えて新卒枠という記載もみつかりませんでした。

月給の範囲は18~25万と大きい開きがありました、また賞与は具体的な記載があるところは少ないものの書かれている文から読み取るに2~3ヶ月程度と見受けられます

ですので、260~360万が地方保育園での年収になるでしょうか?

間をとると310万なので、この投稿言及元に記載されている300万という数字はある程度正しいものである判断出来ます

給与以外で目立つ記述としては、たいていの場所で「持ち帰りなし」という記載が目立ちました。

また、残業代全額支給という記述も目立ちます厚生労働省の調べでは保育士の平均残業時間は5時間程度だそうです。

この内容が正当なものであるなら業務自体が激務であるというのは疑わしく思えます、一方、保育士は激務であるという声も多く見受けられるのでこれが何らかの情報操作でないならサービス残業という形でのしかかっていることになりますから労働環境自体は非常悪いのだろうと考えられます

真実保育士及び関連業者しか知りません、ちなみに私の母(保育士)は残業をすることはほとんどありませんでしたし家で持ち帰りの仕事をしている姿も見たことがありません。

なお、地方保育士のうち非常勤パート実態はどうなのか調べるのは正社員が何とか年収300万というラインなのを見ると悲惨実態が浮き上がりそうで辛い気持ちになるのが見えたので調べていません。

興味のある方は地獄の扉を自分で開けてみるといいかと思います

顧問先の保育園

保育園運営する社会福祉法人を多く顧問先として抱えている税理士です。雇われですが。

つの保育園のみ、という法人もあれば県内10か所構えている法人もあります顧問先の職員数を合計すれば1,000人を超えます

給与計算しているのである程度勤務実態が分かるのですが、長時間労働している保育士ほとんどいません。ほとんど、というのは3月10時間を超える残業が発生する人が多少出るだけ、ということです。

他の月はほとんど残業代がありません。一月の給与総額が数百万円のところ数万しか発生しない、時には1万円未満の月もありますので定時に帰る職員が多いということになります

早番、遅番のシフトなので延長保育で7時半から18時半まで園が開いてますが、長時間労働する職員はいません。

離職率は悪くないのですが、やはり各園年に1人は辞めていきます配偶者の転勤などの理由が多いですが、最近出産などでは辞めずに戻ってくる方が多い印象です。

基本的専属事務職員を必ず1名置いており、利用者の登下校はシステム管理、午睡もセンサーシステム管理している園が増えましたね。連絡帳は手書きですが。また給食顧問先では園内調理がほとんどです。イベント一般的保育園と変わらず行っています運動会、お泊り保育など。

給与については処遇改善加算ⅰ、Ⅱ、Ⅲにより大分改善したと思います新卒でも年収300万円は超えるようになりました。10年ほどのキャリアで500万円、園長で800万円超えくらいなので好待遇とまでは言えないかもしれませんが。

それでいて毎年決算には30%基準に悩まされている法人ばかりなので経営は良好です。

税理士顧問があるから健全経営できている、又は税理士顧問を依頼できるほどに健全経営している、どちらかは分かりませんがある程度適切な環境下で働いている保育士さんも多い、という事は知って頂きたいです。増田の見過ぎで保育士全員がブラック労働を強いられていると思う人もいるかもしれないですからね。

少し追記

みなさん保育園が全てブラックでないと都合が悪いんですか…?

まず、30%基準四苦八苦してると書いている通り、残業を隠して賃金を抑えるメリットがありません。

また、保育園運営する社会福祉法人の多くは理事長が実務に携わっていないケースが多く、実質的管理である園長も雇われの立場なのでこれもまた賃金を抑えるメリットがありません。

様々にIT化を進めているのは効率化のためです。

それでもサービス残業がある、というならばそれはもう仕方がありません。

追記

聞き捨てならないコメントには反論しますよ。

preciar 産業保健や事故調査では「現場を見ずに数字だけで判断する奴は最悪の無能。居ない方がマシ」って言われるんで、上がってくる数字だけ見て健全とか言ってるなら馬鹿にされて当然でしょ

なんの根拠もなく、あっても知り合いの保育士は程度でサービス残業があると断定する人たちに馬鹿にされたくない、というのはおかしいですか?

「全ての」保育園とも言っておらず、こういう保育園もある、という話でしかないんですよ?

2023-09-18

保育士、一気に辞めたらよくない??

県内いづらいとか思うなら都会に出ればいいじゃん

都会のほうが、家賃補助とか残業手当しっかりつくような労基法に則った新しい園が見つかりそう

2023-09-17

母親高卒(+偏差値県内底辺学校)、父親高校中退の両親からまれ母子家庭で育った

母親がどこかから「知能レベル遺伝する」って知識仕入れていたので勉強は好きだったけど高校卒業したら大学へ行かずに働くのが幼い頃から既に決まりごとだった

「両親の知能レベル遺伝するからお前もきっと知能が低いし優秀には育たない」

といつも言われていたし、そういうものだと理解している

今も自分能力が低いんだろうなと認識自覚しながら働いている

実際、能力が低いから同期の中でもすぐ落ちこぼれて、人より多く勉強して必要知識をとにかく手広く詰め込み暗記する事でなんとか無理やり追いついた

その足掻きを、上司が「努力」だと過大に評価してくれて役職をくれようとしたけど、そんな事をしないとみんなについていけない程度の出来の悪い人間は向いていないと思ったので断った

リーダーを断るならこっちをやれとの命令教育研修担当チームに入れられたけど本当はこれも降りたい

頭のいい大卒新人たちに能力の低い馬鹿仕事を教えるのはおかしいと思う

それから男性も苦手

頭の悪い女と話すとイライラする、というような話をよく聞くので他人不快にさせないようにそもそもさないようにしていたか仕事以外の話が出来ないし分からなくて、仕事が絡まないと相手がして欲しそうな返事を考えて発言する事しか出来ない

まあ、恋愛結婚をして子供なんて産んだら私の低い知能が子供遺伝して可哀想からそれで良いとは思っているけど

知能の低い子供が産まれる事がもっと早く分かっていたら母親は私を産まないでいてくれたのかな

堕天使拷問

県内図書館に1冊もおいてないとかマジかよ

2023-09-14

ギリギリアラサー

美人非コミュゆえ特にモテ期もなく呑気に生きてきたが、

30も半ばになり一応した方がいいのか?くらいの感じで婚活を始めた。

殆どいいねも無し、こちから送っても返ってくることはなしなの

一年半以上アプリ触ってて面接なるものもふた月に一度あるかないか

結構な偏食かつ晩飯外食したくねえ~という確固たる意志があるため

店や日時なんかは積極的自分提案してる。

ネットで見るところの「男が何故奢らないといけないのか」という意見もそりゃ確かにと思ったので、

大体2回目会うことな相手フェードアウトするし

変に恨みを買いたくなくてお茶と昼食程度だし自分が奢ってる。

これは男と会う頻度が低いのと

年齢の割に小金を溜め込んでて財布があまり痛まないからやれることでもあるが。


正社員ではあるがこどおばなので

断られない限りは相手居住地の近くで会う。

ふと思って興味本位付近にある場合のみ、

ネットで何かと炎上させられがちなサイゼ提案するのだが一度も行けたことがない。

あとコメダ10割「それはちょっと…w」みたいになるのが釈然としない。

星野珈琲と倉式珈琲むさしの森珈琲大丈夫だった。

なんでコメダダメなのか本気で分からん

県内あちこちにあるし、基本移動手段が車なのでコメダはどこも大きい道路沿いにあって

駐車場が停めやすくて最高なんだ。

オシャレな個人経営カフェは道と駐車場いまいち

何でコメダが向いてないのか分からいか非コミュ非モテであると言われるとそうかもしれないが、

やっぱりコメダは行きやすくて商品も美味しい良い店だと思うんだけど。

ミックスジュース行くたびに飲んでしまう。

2023-09-07

本当に俺はただの凡人なのか

初めてここに文章を残してみる。

こういう場所文章を書くのは初めてのことだから

改行がどうだとか、段落の後は1マス空けるとか、そういう文章上のルールは一旦無視する。

ダイアリーとあるからには自分語りも許されるだろう。

俺はもう30になる。

23歳で結婚して、26歳で1人目、

28歳で2人目の子に恵まれた。

27歳のとき田舎ではあるものの、

人並みの一軒家を購入した。

理想的人生だと思う。

クセのない、みんなが頭の中で思い描くような。

仕事についてもなんだかんだで

IT系会社で勤務していて、

それなりに出世できそうなポジションにいる。

要は「無難」と言える様な人生を歩んでいる。

しかし、俺は満たされているのかと問われれば

素直にYESと言えなかった。

これは安いプライドなのだと思う。


少し生い立ちを振り返る。

自分で言うのも憚られるが、

俺はきっと優秀な子だったはずだ。

小学生の頃に関してはあまり記憶が明確じゃない。

さな体でサッカーをして、

友達ケイドロをして、

ロックマンエグゼポケモンをしていた気がする。

中学生になったとき、俺は地元公立中に

進学して部活を始めた。

小学生のころからやっていたサッカーではなく、

バレーボール部に入部した。

バレー部に入ったのは、

サッカーJリーグジュニアユースチームで

やることになったからだ。

当時、俺の中学強制的

部活に入らなくてはいけない決まりで、

サッカークラブチームに入っている子は

サッカー部には入らない子が多かった。

理由は単純で、大会において

籍がクラブチームにある子は

中学のチームで試合に出れないからだ。

結論から言うと、俺はジュニアユース

全国ベスト8まで行ったし

u15日本代表合宿にも呼ばれた。

それと同時に、片手間のバレー部では

ジュニアオリンピックの県選抜に選ばれた。

俺は自分のことを天才だと思った。

それは当然驕りであり、

もっと自分を戒めるべきだとったはずだ。

でも、そんなことが15歳の中学3年生に

出来るわけがなかった。

ユースチームからの昇格内定も出ていたし、

バレーボールでも県内、県外の強豪から

スカウトが来ていた。

俺は将来、サッカープロになるだろうなと

当時は漠然と思っていた。

そうはならなかった。

怪我でも何でもなく、

俺は自分より年下の子にあっさりと負けた。

チームとしてではなく、個人として。

挫折を知らない自称天才は、

このとき簡単に折れてしまった。

俺はサッカーを辞めて、バレーも辞めた。

地元偏差値60程度の高校に進学して、

アニメオタクとして3年間を過ごした。

大学も同じようなものだ。


器用貧乏だった。

器用貧乏というには、少し器用すぎた。

俺のサッカー万年1回戦負けの学校でも

レギュラーになれないレベルだったら?

俺のバレーボールサーブカット

まともにできないレベルだったら?

俺の偏差値が40で地元工業高校に進学していたら?

もっと早くに諦めがついて、新しい道を探せていたんじゃないのか。

先にも述べた通り、俺は今それなりの生活を送っている。

それでも、後悔や過去への想いが絶えない。

俺は特別な誰かになれたはずじゃないか?と。

ここまで読んでくれた人たちが言いたいことはわかる。

俺もうっすらと、しか確信めいている。

きっと俺は何者にもなれない凡人だ。

何回繰り返してもそれは同じなんだ。

俺と同じような思いをしてる人もいるだろう。

これから俺と同じような思いをする人もいるだろう。

俺が自分人生を通して、言いたいことがある。

それは、「お前たちは凡人だ。早めに見切りをつけて、優れた凡人になれ。」ということじゃない。


お前たちが仮に凡人だったとしても、

お前たちが凡人である証明を時の成り行きに任せるな。

やれるところまで突き詰めて、

本気で何者かを目指してくれ。

そうじゃないと過去に思いを馳せるだけの凡人になる。

何者にもなれない。

ということだ。


俺は幸せな凡人を目指していく。

2023-09-06

店主「値上げすると年金生活してるおじいちゃんおばあちゃん来られなくなっちゃうんで」

年金生活者のためにワンオペこなして営業してる中華料理屋の店主の一言

別に若い客も来てるみたいだし、年金生活の金のない老害ことなんて考えなくて良いだろ。

金も何もない年寄りに気遣ってる人を無条件に嫌いになってしまう。

俺にも祖父はいるが、大学卒業してから一貫して某県の職員として働き部長職を経て、定年して十年以上経った今でも県内第三セクター地方銀行役員行政委員会委員転々としてる。祖父曰く「もう引退したいのに次々と仕事を任せられる。任せられたら断るわけにはいかない」そうだ。年収だってそこらの開業医独法病院の院長並みに貰ってるから年金に頼ってケチケチ生活したり現役世代負担をかける必要もない。

俺も祖父のように歳を取っても金に困らず現役世代迷惑をかけない高齢者になりたい。

2023-08-31

anond:20230831053935

金沢駅前の鼓門は、金沢の人たちの来県者に対するおもてなし気持ちが具現化したものだっていたことがある。 <h3>o- ********</h3>

704 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

県民性~ 「越中強盗加賀乞食…」

北陸三県県民性の違いを言い当てる言葉に、 「越中強盗加賀乞食越前詐欺師」 というのがある。

生活に窮した時、加賀百万石・金沢の人は、 なすすべもなく乞食になってしまう。

越中富山の人は、強盗を働いてでも…越前福井の人は、詐欺まがいの行為をしてでも… 生残ろうとする。実際に強盗詐欺を働くというのではなく、最後最後まであきらめずに、 しぶとく生きようとする県民性を例えたものです。

富山県人の商魂たくましさの一旦を語る逸話がある…

富山といえば「配置薬」。戦前、常備薬の産業化に成功し、中国東南アジア中南米へも輸出するようになった。

相争う中国軍閥双方に常備薬を売り付け、 負けた方から集金できないことを計算に入れて、しっかり利益をあげていたという…軍閥を手玉に取った話です。

一方の石川県人…「能登はかわいや土までも」と言われるように、 能登の人は純朴なことで知られる。

金沢の人は「おっとりしていて、お人良し」…直ぐ人にだまされる。

昔、 ねずみ講北陸に入ってきた時…或はトヨタ商事事件の時…加害者側も被害者も一番多かったのが石川県…。

新しいことに直ぐ飛びつき、 友人や知人が持ち込んでくる話を、何の疑問もなく信じ込み…断れない。

富山空襲福井空襲に続いて大地震と、辛酸をなめた。

災害に見舞われなかった石川県人は、苦労知らず…人を疑うことを知らない。

見栄っ張りでお金使いが荒く、派手好み。 家庭ゴミの量が” 日本一” というのも、 うなずける…。

ヤンキース松井選手故郷小松は、 表と裏の顔が違って見える。

同業者が足を引っ張り合い、 時折内部告発悪事が表ざたになる…市場が狭いゆえでしょうか。

福井県に隣接する大聖寺は、十万石城下町のなごりでしょう…気質金沢に似て、純朴でやさしい。

私が会社勤めをしていた頃、 県内あちこち営業に歩いた。

お客様と接した経験から、 そう思うのです。

いよいよ竣工お引渡しのとき能登の人は、 問題ケ所を箇条書きにして、誓約書を入れたら、その場で残金全額支払ってくれます金沢の人は、誠意をもって問題ケ所を処理したら、支払ってくれます

ところが高岡の人… 指摘されたクレームを全て処理しても、 新たに問題ケ所を出してきて、「何とかしろ!」と言う。そうこうするうちに、 「納期が遅延した」「引越し段取りが狂った」と、 値引きを請求されたり、残金を踏み倒されるという、苦い経験をしている。

子どもの頃、 父親がよく愚痴っていたものです…「高岡商人は、 仕入れる時に散々値切っておきながら、支払う時、更に端数を値切ってくる。

それに対して金沢商人は、支払いはきれいだ… 端数を値切ることはめったにない」と…。

富山市のある” 呉東”よりも、 高岡の”呉西”の方が、 お金にはシビアなようです。

金沢よりほんの少しだけ、 金銭感覚シビアなのでしょうが

富山では苦労させられました。 金沢へ転勤して、つくづく能登金沢仕事がやりやすいと思った。

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