はてなキーワード: 一世代とは
増田はたぶんこの元増田よりはきっともう一世代年下という事になると思う。
要するに初期のニコニコやYouTubeの頃、動画文化の走りぐらいの世代間の人間である。
だが感覚としては同じで、「当時尊敬していた大人は狂人になってしまった」という印象である。
当時からおっさんだったような人は、大体おもんないジジイに進化した。
昔は無邪気で楽しいおっさんだった。面白いものを作るおっさんだった。場を盛り上げるのが上手なおっさんだった。
おっさんはキッズよりも博識で、交流があったおっさんからは色々と良く教わったものだった。
ただそれも後半になってくるとどちらかというと「シュババババwww」というニュアンスになってきたような気がする。聞いてもいないのに飛んできたりな。
おっさんたちは最近、何も創らない。作ってるならいいけど何も作ってない。
ただ今日の政権にケチをつけて、東京都の今日の感染者数を確認して、炎上現場にガソリンをまきに行って、インフルエンサー()に噛みついて、競馬を見ているだけのおもんない1年を過ごしている。
元増田は男らしさとの関連を見出していたりもしたが、自分の場合は女性もちらほら居たのでその話もしよう。
政治経済へ物申すところは男とあまり変わりないが、特徴的なのは痴漢とか家事をしない夫の悪口なんかをRTしてくる事だ。
自己矛盾を起こしていることで有名なポリコレ腐女子と化してしまった人もいる。
昔はあんなに面白い動画を作っていたのに。楽しい人だったのに。そんな人たちがネットで見かけるクソ女カテゴリーになってしまった悲しみは筆舌し難い。
ニコニコ動画ないしこの時代感のクリエイター文化では、ここを出身として後に有名になった人もそんなに珍しくなく存在している。
世代感としてはさらに少し後になるが、最も有名な所だと音楽業界の頂点まで上り詰めてしまったハチこと米津玄師氏などがそうだろう。
特に音楽系においてはボカロPや歌い手からメジャーデビューする人も多く、例を挙げるだけでも絞るのが大変なぐらいである。
それ以外の分野においてもニコニコで手描きMADを書いていたうp主がプロのイラストレーターになって活躍していたとか、
MMDをやっていた人が3Dモデラーとして発注を受けるような立ち位置になったとか、ゲーム実況者がえげつない数のファンを獲得していてそれで生計を立ててるとか、
あるいは大きな知名度は無くても、その分野でちょっとした有名人の立ち位置を未だにキープし続けている人だったりとか。
有名とか人気とかにも度合はあるが、クリエイターとしてある程度成功を収めている人っていうのは結構いる。
なんでこんなことを話題にしたかというと、おもんないジジイあるいはクソフェミババアに進化した彼彼女らは
この「未だにクリエイターとして活躍しており、大なり小なりそれなりの人気を維持している人」”ではない”という共通点があるからである。
要因はいろいろあるだろう。時間が無くなって物理的に作れなくなった人も、体力が尽きてしまった人も、もう感性を失ってしまった人も、文化についていけなくなってしまった人も、クリエイターとして挫折してしまった人もいるだろう。
どこを経由したかはさておき、いずれにしても「ニュースに物申す老人」という結果にたどり着いていく。
逆に活躍している人ほどセルフマネジメントとしてセンシティブな話題への言及を意図的に避けているというのもあって、どの程度センシティブな話題に触れるか自体がある意味脱落者チェッカーの役割を果たしているような気もする。
言うて一世代前でも👴👴👴👴だぞ
興味深く読んだ。ありがとう。おつかれさま。
一読した感想だけど、12年前と現在とでは、たぶん男女の意識も相当変化しているだろうという感じがする。今から見れば、既婚未婚の意識の差など、まだまだ12年前は昭和の規範意識の残存があっただろうと思わせるものがある。一世代経過した現在の男女の結婚に対する意識は相当変化しているのではないだろうか。
その上で、議論が12年経っても深まっていないことには確かに驚きを覚える。ここのところ散見される増田の議論も、定義が曖昧な堂々巡りに見える。重要なのは、「誰の」「何の」問題を解決することが大切か、そして、その際に欠かせない視点とは何か、を整理することなのだろうな。
増田が男性ならば股間に二つのお稲荷さんがついていると思う。それが複”利だ。
人類は生涯で大体一組の男女が3~4人の子供を残すとされている。ということは一世代を経ることに人間の数は1.5倍~2倍になっていくということだ。
最初アダムとイブの二人だけだった人類が70億人になるまで何世代が必要になると思う?
でも、賢い増田ならこれまでの情報から答えが導き出せるはずだ。多分33代くらいだ。
複利っていうのは倍々が積み重なっていくことなんだ。だからとてつもないスピードで子供も増えていく。
■大人になったなぁ
今月ようやく息子が1歳になる。20代で結婚するとは思っていなかったが、何か大きな力に流されるように理想的な女性と出会い結婚し、子供をもうけることになった。
この一年は本当に長かった。生まれてから数ヶ月はそれこそ2時間おきに泣き声を上げ、そのたびに我々が授乳する。朦朧とした状態で哺乳瓶に粉ミルクをスプーンでひとすくい、ふたすくいと投入する。眠いので何杯入れたか数えられず、息子は曖昧なミルクを飲み込んでは吐き出した。
そんな息子もようやく1歳だ。彼は両足で立ち上がり、我々の顔を認識して指差したり笑ったり。ようやく一年経って息子と人間らしいコミュニケーションをとることができるようになった。
先程博品館で息子の誕生日プレゼントを選んでいたら、昔自分がワクワクしながら連れてきてもらった場所に「父親として」来ていることがとても不思議に思えた。ポケモンカードやベイブレード、GBAをねだったぼくの父親はもういない。けれどあの頃子供だったぼくが今は父親になり、息子へのプレゼントを買っている。一世代経ったんだなとしみじみした。
まだまだ会社では若手だけど、ぼくは大人になったんだなあと思った。ぼくの父親もこんな気持ちでおもちゃを買ってくれたのかな。
そろそろYouTubeで邦楽流しながら仕事するの飽きてきたんじゃないか? ぜひチャイニーズポップ (C-POP) 聴いてほしい。中国語は日本語と全然違うけど、曲の雰囲気はなんとなく似ている。そして輸入K-POPみたいにダンスダンスしていないので (もちろんそういうのもある)、BGMとして大変よい。
この記事では有名歌手が多い台湾・香港・シンガポールに焦点を当てて、暴力的に絞った8人/グループを紹介する。知名度が高く、かつあまり古すぎないものを選んだら2000年代あたりの楽曲ばかりになった。
注: これを書き上げてから、同じことをやっているブログ記事を見つけた。
なかなか選曲がいいのでぜひ参照されたい。 (被りまくった...。)
日本ではジェイ・チョウと呼ばれている。英語名をカタカナ表記にするとダサいという信念があるので中国名で呼ばせてほしい。周杰倫は台湾の歌手で、2000年にデビューして以来ずっと死ぬほど売れてる。ある時期から身体を鍛え始めて、MVで肉体を見せがち。
有名曲はたくさんあるが、七里香は日本をイメージした曲ということでピックアップした。周杰倫は伝統楽器を入れたりして中国っぽいメロディーになっている楽曲がいくつかある。
その他: 『髮如雪』『東風破』『青花瓷』(今は知らないが、中国東方航空の着陸後BGMとして採用されてた)
中華圏で最も有名なバンド (異論は認める)。台湾のバンドで、日本でいうとミスチルみたいなポジション。初期の曲は中高生に刺さる雰囲気だったが、最近はメンバーがおっさんになって落ち着いてきた。日本ではメイデイと呼ばれていて、来日してライブしたりもしてるらしい。五月天の曲は伸びがあって気持ちいいのが多い。
失恋してから音沙汰なかったのに、急に便りを聞いてまた恋しくなっちゃったよ、という曲。こういう内容ホントに多い。たぶんC-POPの8割はこれ (言い過ぎ)。
その他:『洋葱』『温柔』『後來的我們』
シンガポール出身の歌手。中国人的には決して見た目がいいわけではないらしいが、それでもバカ売れするくらい作曲と歌がうまい。高音が神がかってる。
MVがやたら凝ってるという点でこの曲を選んだ (曲は3:30くらいから始まる)。残念ながら人生にIfはないという内容の歌である。好きな人がいたけど告白できずに後悔するって話。このパターンもC-POPに非常に多い。そういう美学があるらしい。
その他: 『小酒窩』『修煉愛情』『Twilight』
台湾の原住民族をルーツに持つ女性シンガー。ハスキーボイス。歌はうまいがしゃべるとやかましい、たぶん前世は倖田來未。前の3人より登場が古くて、ここ数年は曲を出してるイメージがない。
張惠妹の一番の代表曲といえば『聽海』という気もするが、最近中華食品スーパーに行ったときに流れていたこの曲にした。邦楽で似ているのを聴いたことがあるような気がするけど思い出せない。
その他: 『聽海』『我可以抱你嗎』『如果你也聽説』
厳密に言うと北京出身なのだが、歌を出していたのは香港ということで、ここで紹介する。一世代前の歌手かな。でも老若男女知らない人はいない。2年前春節特別番組 (紅白歌合戦的なやつ) に出演した際の衣装に似たゴム手袋がネットショップで爆売れするくらいのスター (画像リンク)。ファイナルファンタジーVIIIの主題歌である『Eyes On Me』を歌っていた人として日本では知られているかもしれない。
ザ・代表曲。歌詞も美しい。作詞を担当した林夕も非常に有名。(上の『我最親愛的』でも作詞を担当。)
その他: 『我愿意』『因為愛情』『匆匆那年』(持ち歌ではないけど: 『傳奇』『歲月』) (日本語カバー曲だけど 『Valentine's Radio』)
香港の歌がうまいおじさん。C-POPに回顧して傷心する系の曲の大家である。とにかく哀愁があってよい。王菲とデュエットした『因為愛情』は名曲。
その名の通り失恋の歌である。作曲作詞は周杰倫。天才かよ...。この曲は『非誠勿擾』という人気お見合いテレビ番組で、男性ゲストが女性全員にフられて退場する場面で使われていた。そういうシチュエーションでこの曲を流すとウケると思うのでぜひ試してほしい。
その他: 『十年』『好久不見』『我們』
顔に歳が出ない系の人。安達祐実やYUKIが食べたのと同じ悪魔の実みたいなのをたぶん食べてる。この人はソングライターではなくて、プロデュースされたものを歌うスタイル。曲調とかアレンジとかにJ-POP感がある。僕の中では大塚愛的なポジション。
珍しく失恋でも何かを後悔する曲でもない、希望にあふれる何か。お気づきかもしれないが、歌詞の繰り返しがとても多い。AメロとかBメロの歌詞も平気で繰り返す。これこそ中国語曲の特徴で、カラオケで歌うと特にわかり味が深い (光良の『童話』とか)。最近の歌詞はそうでもないらしい?
その他: 『欧若拉』『遺失的美好』『淋雨一直走』
台湾の女性歌手。代表曲はKiroroの『未来へ』のカバー曲という、Winkみたいな存在である。無表情で踊ったりはしない。この人は別に最近売れているというわけではないが、日本人に馴染みのある曲を歌っているということで紹介。
Kiroro『未来へ』のカバー。歌詞中の「ほら」に当てられている後來 (Houlai; ほうらい) という中国語は未来という意味で、これを思いついた作詞者は助走をつけてガッツポーズしたに違いない。ちなみに曲のテーマは当然、失恋だ。
その他: 『很愛很愛你』『為愛痴狂』『成全』(林宥嘉によるカバーが良すぎるので聴いてほしい)
本当は曲ごとにリンクを貼りたかったが、スパムフィルター的なものに引っかかるらしくできなかった。がんばって検索してください。
「一人でも楽しめる、人とつるまない私たちの主張を聞け」みたいなのってインターネット文化ではここ10年くらい主流の価値観だと思う
実際に世の中はそっちの方向に動いていってる
エンタメもたくさん増えてきて、個人で楽しむのに良い環境があると思う
「人は一人じゃさびしい」というような、主流の価値観に対して反発した現象だというのはわかる
そういうのはたくさんある
「誰しもが飲み会したいわけじゃない」
「誰しもがエロいことしたいわけじゃない」
「誰しもが出世したいわけじゃない」
みたいな、マイノリティーが声高に叫ぶというのは特にインターネットのような若いコミュニティではよく起こる
ただ、そういうのって大抵声が大きくなりがちだ
「世間に対するアンチのコミュニティの中に居るアンチ側の人間」が最も割を食う
例えば私はそういったインターネットコミュニティとか、先進的な価値観のコミュニティとか、一人最高みたいな人らの中に居るが
普通に一人嫌いだし別に一人最高とか思ってない、ただ下手なだけで
まあ別に下手なのは良い、それは自分の問題だし自分でどうにかすべきことなんだけど
「一人最高だから私たちに構うな」みたいな大きな声は鬱陶しく感じる
こういうのって「最近の若者」とかもあるんだろうなと思う
最近の若者は飲みニケーションとかしないんだろ?みたいに思うかもしれないが、普通にそういう奴も居る
もちろんインターネットコミュニティにでもそういう志向を持った人はいる
ただ空気的に「飲みニケーションダメゼッタイ」みたいにされるとその人達は身動き取れなくなる
わかるかな
現時点で、国際語となっている英語には、すでに多数のバリエーション(つまり方言)が存在しているのだ。イギリス英語、アメリカ英語、オーストラリア英語が違うことはよくネタにもされるので普通に知っているだろうが、英語を母語とする話者が一定いる地域が誕生すればそこには必ず方言が誕生するのだ。仮に日本が公用語を英語と定め、数世代あとに日本人が英語を母語とするようになっても、気候、歴史、文化等々が他とことなるこの地で話される英語は必ず「日本的英語」、ジャパニーズイングリッシュ、英語の日本弁になってしまうのだ。つまり「統一」など最初からできないのだ。(そして、極めてリアルに想像すれば、方言である「日本的英語」は、英語話者の中では、おそらく社会的に差別される方言になるのだ。日本でも、方言話者がどのように扱われるかを見れば、それは簡単に理解できるのだ。)
なぜなら、言うまでも無く、日本という地や文化、歴史等々についてこれまで書かれた文献はそのほとんどが「日本語」で記されているのだ。日本に住む者にとって極めて重要な情報源のほとんどが「日本語」なのだ。にも関わらず、それらの文化的リソースを、数世代後の我々の子孫はそれを母語レベルで理解することができなくなってしまうのだ。これはものすごいロスなのだ。もちろん、「その代わりに膨大な英語圏に関する文化的リソースを手に入れられる」じゃない?と反論したいのだろうが、それは怪しいのだ。なぜならば、言葉と文化はセットだからなのだ。文化的な背景、自然、文物に対する理解がない中で言葉だけを習得しても、それは月面で育つ地球人のようなもので、言語的文化的資産の十全な継承などおぼつかない、それは単に「全く新しい文化を一から作る」のとほとんど同じことなのだ。それは「古文・漢文」がかなりの割合で読めなくなってきている現代の日本が抱える問題でもあるのだ。
移行期間といっても、切り替えるだけなら実はそれほど時間はかからず、おそらく数世代で完了するのだ。上で触れた「文語→口語」の切り替えなど、一世代もかからなかったのだ。つまりそういうことは大した問題ではないのだ。ただ、その先に誕生するのは、上で述べたように「日本語的英語を使い、英語文化のバックボーンはなく、かつ過去の自分たち自身のリソースへのアクセス力までも失った、新しい文化を一から創出しなくてはならない1億人」なのだ。人口1,000人の小さな島で起きたことなら、その悲劇を理解する人すらやがていなくなるだけで終わるだろうが、世界に大きな影響を与えるそれなりの規模の国家で行ったらどうなるか、想像するだに悲惨なのだ。まあ、日本が没落することで喜ぶ国があるとすれば、その国にとっては喜ばしいことなのだ。
英語が公用化された第一世代は、日本語が入り交じった、たどたどしい英語を使うのだ(これを「ピジン」という。)一部の人は、留学などを通して「正しい英語」を身に付け特権階級化するが、だいたいの人はピジンの方を使うのだ。そうして次の世代になると、最初からピジンを母語として使いこなし始めるのだ(これを「クレオール」という。)上の方で、日本の公用語を英語にしても、使用されるのは「日本語的英語」になる、というのは、つまりこの「クレオール」のことを指しているのだ。
たとえば「洋食」。カツ。カレーライス。いずれも食のクレオールなのだ。仮に「正しいカツレツとは○○である」とか「カリアー&ライスは一バリエーションであってそもそも英国式はカリアースパイスドシチューだ」みたいな蘊蓄を並べて啓蒙しようとする人がいても、残念ながら世間では「かつ丼」やら「カレー」が登場し、オリジナルの「カツレツ」や「カリアー&ライス」とは全く別の料理が定着し文化になってしまうのだ。かつ丼もカレーもうまいから仕方ないのだ。言語でも、それと全く同じ事が起こるのだ。仮に最初に一所懸命カツレツを作るフランス料理人を招いて教えてもらったところで、最終的に定着するのは「かつ丼」なのだ。従って、「日本語を廃して英語を公用語化しよう」なんて主張しても、「日本の食を全て『フランス料理』にするために和食を廃止する」ことにはならなくて、単に「日本の食を全て『かつ丼』にするために、和食を廃止する」みたいな訳分からないことにしかならないのだ。そもそもかつ丼がうまいのは、和食がうまいからなのだ。つまり本末が七転八倒なのだ。
ここまで書いて何だが、元ネタの話に戻るなら、結局「言語は滅ぶもの」なのだ。これは避けられないことなのだ。日本語だって、10年前と現在ではかなり違うのだ。むしろ、言語は日々滅びており、そして日々滅びることをやめたとき、言語は「死ぬ」のだ。方言が生まれるのも、見方を変えれば「標準語の滅び」だし、方言が消えるのも、見方を変えれば「標準語(という新たな方言)の誕生」なのだ。そこに貴賤はないのだ。だから、言語学者は「言語が滅びてはいけない」というような価値判断をもって言語に向き合うべきではないのだ。もちろん、自分が研究対象としていた言語の話者が絶滅したら途方にくれるのは理解するが、それは文化史論的な見地から言うと、一つの現象に過ぎないのだ。たとえば、関西では最近TV等の影響もあり、日常的にかなり関東風のイントネーションで話す姿を多く見かけるようになってきているのだ。これは、一種の「滅び」でもあるし「誕生」でもあるのだ。なのに、「滅び行く関西弁を守れ」とか言い出したら、それは愚かなのだ。そういうのは、たとえば生物多様性が失われる……といった話とは全く違ってただの懐古厨なのだ。そのあたりを勘違いすると、元ネタの言語学者のように妙なエッセイを書き散らすことになるのだ。
日本語廃止論への反論は、上に書いたように政策的にマイナスであり、そして現実的にも不可能だという話に尽きるのであって、「滅び行く言語を守れ」みたいな感情論に落とし込んではいけないのだ。感情論は現実の利の前には極めて無力なのだ。
愛機iPhone SE(第2世代)を使いつつも、Google先生の最新機種が気になります。
で、浮気というわけではないのですが、Pixel 4aについて調べてみたのですよ。
私「ふ〜ん」
お値段42,900円、ブラック・128GBモデルのみの販売、ミドルレンジのスペック。
カラーとROM容量が絞られているのはコロナの影響でしょうか。
iPhone SEを意識したと思われる価格はかつてやはり局所的に一世を風靡した名機Nexus 5を彷彿とさせます。
私はNexus 5が登場したときは発作的に衝動買いしてしまったのですが、今回は比較的冷静に対処できました。ええと、衝動買いの顛末はここ( https://anond.hatelabo.jp/20140119132435 )を見てね。
私「サブ機に42,900円か……」
もうiPhone持ってるんで、Pixel 4aをお迎えしてもオモチャ的ポジションしかありません。
さらにAndroid機はiPhoneに比べて価格下落のスピードが速いです。例えば約15ヶ月前に発売されたPixel 3aは49,500円→約21,000〜23,000円程度に値下がりしています。つまり発売直後のAndroid端末を買うのは損なのです。
しかし、私はガジェオタ。理性がストップと言ってもスマホを買いたいわけです。
そしてしばしの逡巡を経て、私は記事タイにあるようにPixel 3aをヤフオクでポチりました。20,000円なら良いかなと、一世代前の機種で手を打ったのです。
そういう経緯で手に入ったPixel 3aをせっかくなのでレビューしようと思います。
全体的な印象としては「マシンスペックを要求するゲームはキツイけど、快適にウェブブラウジングできる程度のスペックはあるよ」といった感じでしょうか。
あとは、あとは……特にこれといった特徴はないですね……
Nexus 5のときもそうだったのですが、Google先生が作る泥端末は「高コスパのネイキッドアンドロイド」が基本コンセプトです。なのでレビューは「値段の割によく動くよ」みたいな単純なものになってしまいます。
それでも無理に端末に言及しようとするならカメラの性能ですかね…… カメラの強化はここ数年のトレンドですけど、もう行き着くところまで行ってしまっていると私は感じています。
最後にまとめというかオチですが、Pixel 3aは現在Twitter専用機として活躍してくれています。サブ機って言ったってiPhoneで何でも済むからTwitterくらいしかやることないんですよ。
たしかに、ウルトラマン(80とアニメのやつ)、仮面ライダー(スカイライダー)が失敗し、続編が作られなくなった。
その一方で、TVではファーストガンダム、ドラえもん、ジャンプ発のアニメ(北斗の拳やキン肉マン、アラレちゃん等)が人気を博し、
TVの外ではゲームウォッチ、ガンプラ、ファミコンが大ヒット。
その後、スーマリ、ドラクエを経てTVゲームが子ども向け娯楽の主役になった。
やっぱり、1980年前後に子ども向けエンタメに大きな世代交代があった感じがする。
根拠は全くないけど、小さなころからゴレンジャー、ガッチャマン、タイムボカンを観て育った世代には、ウルトラマン、仮面ライダーという一世代前の子ども向け番組は単調で受け入れられなかった、という気もする。