はてなキーワード: 原著とは
「何をするにあたって」原典にあたるという当然の事を重要視するか、って話ではあるよね
これメチャクチャ思いました。過去の査読云々の論争を思い出しちゃいましたよ( anond:20181009070341 とか、 anond:20181011090428 とか、このへんの話ね)。「翻訳するときは原典から訳すのが当然だろ!」「いや、別に重訳でも意味が取れてればそれでいいじゃん……」「出版のスピード感も大事だし……」っていうやり取り、まんま過去の「論文は全部査読するのが当然だろ!」「ええ、別に無査読で載せても、後続の論文でしっかり吟味されてればそれでいいじゃん……」「出版のスピード感も大事だし……」っていうやり取りとソックリというか。増田は「なんで原典にあたるという当然のことを重要視しないんだろう……」って思っちゃうんですけど、理系や経済学の人たちも「なんで査読という当然のことを重要視しないんだろう……」って思ってたわけですよね。まあだから、あんまり自分野の基準で他分野にケチつけるのはよろしくないなぁと、自戒を込めて。
はてなブログというサービスが無くはてなダイアリーをみんな書いてた時代に
はてなダイアリーで「理数系分野でも研究の際には原典読んだ方が良くない?」みたいな事を言った人がいて、それに対し色んな意見が出たのを思い出す。
ただこれは物理学を勉強してる人達がニュートンのプリンキピアを読んでないのはおかしい、みたいな極端な意見であり増田の言ってる事とは大いに違うし
あとそれを主張してた人が死んでしまったので批判はあまりしたくない
じゃあ、まずは数学や理論物理の専門書を翻訳する際に原典にあたる必要があるかと言う話をさせて貰うけど
数学や理論物理ではフランス語・ドイツ語・ロシア語辺りの本が英語に翻訳されて、英訳だけ読んだ専門家が各国の言語に訳す例なんて珍しくも無い。
皆が数学・理論物理の論理が完全に再現されているなら問題ないという立場だからこのような事態が起きている。
翻訳者だって訳す能力より専門分野に関する知識の方がずっと重要視されるし、論理的な構成に変更が無いなら文章の省略・追加・順番変更など平気で起きる。
あと最近の数学の専門書の話なんだが、日本語の本を英語に翻訳する際に日本語が分からない人が訳してる例なんかもあったりする。
訳者だって数式は別に分かるし日本語で書かれた数学の文は今なら機械翻訳通せば大体分かるからね。
主要な定義・定理・命題は著者の英語で書かれた論文と同じ分野内の英語の本見れば同じものが見つかるので
こんなやり方で訳しますよって提案に原著者はOKを出してしまう訳だ。
こうしてみると一般論として重訳は問題かと言うと全く問題視されない分野もあるという話になるので
一般論で主張するのは無理だよ北村紗衣さん、と言いたい訳です。
文系が大事にしているのは「文章それ自体」であって、文章それ自体を忠実に原語から訳すことが重要である、というのが文系の考え方。
いや正にそれが文脈を読むということであり、誰が書いたか、を重視する考え方そのものでしょ
例えば、
e^iπ + 1 = 0
という数式の素晴らしさはオイラーに依存するものじゃないでしょ オイラーの原著論文を読まなきゃ理解できないものでもないでしょ 一つの体系の中で論理だって矛盾せずに成り立つことが大事でしょ
無矛盾であることが重要で論理を示せれば記述言語に寄らないでしょ 「文章それ自体」は論理記述の様式であって論理そのものではなく付加情報でしょ
数学史において、オイラーが何を成したかを語るのであれば文章それ自体を忠実に原語から訳すことが重要であるのはその通りだけど
結局、21世紀の資本を文学として読むか技術書として読むかの違いなのだろうね。
文学として読むなら、原著にあたりながら細かなニュアンスまで可能な限り訳すべきとなるから、重訳では訳し落ちる部分があるという批判はよくわかる。
一方で技術書として読むなら、論理の流れや数字が合っていれば細かなニュアンスまでは不要となるから重訳でも問題ないし、ニュアンスなんかよりテクニカルタームを良く知っている専門家に訳してほしいのはよくわかる。
ややこしいのは21世紀の資本が経済のことを歴史から実証しようとする啓蒙書であるので、文学しても技術書としても読めるということ。
もちろん、フランス語に堪能でかつ経済学にも詳しい人が訳すのが最善なのだけど、そんなニッチな人が居るのか、居たとして引き受けてくれるかという問題がある。
次善の作はフランス語に堪能な人が訳した文を、経済学に詳しい人が(英訳を参考にしながら)監修することだけど、ただでさえ出版不況が言われている昨今で、数千部出れば御の字の学術書にそこまでコストをかけられるかというと出版社としては厳しいわな。
21世紀の資本はベストセラーになったけど、それはあくまで結果論でしかない。
個人的には、21世紀の資本では細かなニュアンスよりは論理の流れや数字の方が重要だと思うので、重訳に全く問題がないとまでは言わないが、大きな問題はないと思う。
前編からのの続きです。
https://anond.hatelabo.jp/20221022145133
舞鶴の「舞鶴クリエイティブアソシエーション(MCA)」というNPO法人が 「艦隊これくしょん -艦これ-」のIPを勝手に使って商売していて、KADOKAWAから警告書が届いたら市長候補の森本さんが怒ったというお話です。
MCAと言えば、地元の事業者に声をかけて「砲雷撃戦!よーい!」への協賛を集めていたというネタもありました。
もともとMCAと「砲雷撃戦!よーい!」の関係が既にアウトなので付加的な話ではあるのですが、二次創作の同人イベントに企業の協賛を集めるという「赤信号みんなで渡れば怖くない」的な行動力は目を見張るものがありますね。
協賛した銀行や信金に関しては法務部仕事しろと言いたくなります。
もしKADOKAWAが訴訟を起こしていたら影響範囲は図り知れず、商店街が焼け野原になっていたことは想像に難くありません。
移動、宿泊、飲食、お土産と、艦これのIPを勝手に使って、8年の間に何億くらい舞鶴市内の経済を動かしたんでしょうね(参加者のべ1万人の市内での平均消費額が1万円なら、それだけで1億円です)。
「砲雷撃戦!よーい!」が廃止になった途端に舞鶴市と艦これのコラボが始まったのは偶然ではないのだろうなと思います(廃止が2021年9月、コラボ発表が同年12月)。
舞鶴市からのオファーだったそうなので、これは想像ですが、商店街を守るため訴訟を思いとどまらせる代わりに公式コラボを提案するというバーターだったのではないかなと。
せめてそのくらいはないと、何年にも渡ってフリーライドを続けてきたMCAに対してKADOKAWAは優し過ぎませんかね。
展開している場所が赤れんがパークなのも、MCAの関わる同人イベントへの牽制にも見えてきます(もちろん海軍ゆかりの場所というのが表向きの理由でしょうが)。
当のMCAは「舞鎮駆逐隊」で一発逆転を狙い、森本さんは市役所をKADOKAWAとズブズブの関係だとか、市がアニメと提携するなんて論外だとか仰っているのですが、皮肉なものだなあと思います。
その森本さんですが、動画では散々「著作権侵害はだめですよ」と仰っていたのですが、実は自身で著作権侵害を行っていました。
2014年7月の「砲雷撃戦!よーい!」で森本さんは屋台を出しており、「提督」というワードを名称に含めた艦これと直接関係のないアイテムを販売していました。
そこで使われたポップに、艦これの二次創作イラストが使われていたんですね。
屋台の写真が残っているのですが、ご本人は認めていません(ノーコメントを貫いていました)。
ただし、MCAと言いますか地元事業者が「砲雷撃戦!よーい!」の運営で使っていたイラストを勝手に転用したという話がちらほらあるため、そのイラストを描いた人が当時どのような意図で描かれたのかは分かりません。
また、同じ出処のイラストが森本さんの会社の通販サイトに使われていたという事案がありました。
そのページに登録されていた製品は上記の「提督」グッズ等で、値段までバッチリ入ったものでしたが、森本さんは「打ち合わせ用の仮デザインでネット販売には使用していません」と仰っていました。
普通に考えて、イベントで販売したアイテムの販売ページを5製品分も作って売っていないとは考えにくいわけですが、残念ながら外部からは確認できません。
イラストの詳細については、「おそらくネット上でアップされている絵師さんのご自由にお使いください的なイラストを使わせてもらった」と嘘をついています。
動画へのコメントでMCA提供ですよと教えたのですが、頑なにノーコメントを貫き訂正もしてもらえませんでした。
許諾に関しては「艦これ運営に許諾は取ってないです(8年前当時には許諾が必要な認識が無かった)絵師さんを差し置いてこちらが独自に許諾を得ることはそれはそれで別の問題になります」とツイートしており、ご自身でアウト判定であることを証言しています。
最高裁まで争った「キャンディキャンディ事件」で、二次著作物(いわゆる二次創作物)の著作権は原著者と二次著作作者の双方に権利が発生し、利用の際には両方の承諾が必要という判決が出ています。
森本さんは少なくとも原著者の承諾は得ていないわけですから、著作権侵害にあたります。
森本さんがツイートしたような「8年前の社内のコンポアライアンス的には問題は無いです」では済まないんですよね。
今になって法的に問題化できるかと言えば難しいような気もしますが、動画で「著作権侵害はだめですよ」と繰り返し仰っていて自分のことは「8年前だからセーフ」とは…。
舞鶴での著作権侵害と言えば、「海軍御用達おみやげ館」も外せません。
これはMCAが運営している店舗なのですが、日常的に艦これの同人誌や同人グッズが販売されていたようです。
「舞鎮駆逐隊」の運営が「海軍御用達おみやげ館」にグッズ販売を委託する旨のツイートをしていたなど、ここでも親密さが伺えます。
同人誌や同人グッズの店売りは個人と法人の線引きが難しくなるものではありますが、同人ショップ以外の店売りは相当高リスクだろうと思います。
同人アイテムは販路や販売機会が限られているからこそ営利目的ではないという建前が成り立っている部分があります。
常設の店舗で売っており、売り切れたら補充します、次の製品も企画していますという話になれば営利目的と判定されるリスクは高くならざるを得ません。
同人ショップはどうなのかというのは難しいですが、あれだけ堂々と店舗を構えて公式とのコラボもやっていたりするので、関係者間でコンセンサスが取れているのであれば特に言うことはないかなとも思います。
大手同人ショップはコンテンツ業界にいれば知らない人はいないでしょうし、問題行為があればちゃんと問題になります。
あと、ここ2、3年は外していたようですが、「海軍御用達おみやげ館」は艦これキャラクターのスタンディング(キャラクターの大型立て看板)があったことでも有名ですね。
Googleのストリートビューに写真が残っていると少し話題になりました。
今年(2022年)7月に「はまっこ夜の市」という夏祭りのようなイベントが商店街でありました。
そこでドール系コスプレと言うのでしょうか、顔に被り物をしたコスプレの人がいまして、それが艦これのキャラクターでした。
お祭りなので多少は多目に見られても良いだろうと思うのですが、今年の話なので、「砲雷撃戦!よーい!」がなくなった後にこんなことしてていいんですかね…、とは思いました。
さて、MCAの話ばかりしてしまいましたが、森本さんの話に戻ります。
森本さんは、「砲雷撃戦!よーい!」の近くで展開された屋台村でモヒートやボルシチを販売し、人気を博した名物おやじでした。
多分人柄は良い人です。
本業は建材屋の社長で、2023年2月に行われる予定の市長選に出馬するそうです。
この話の発端は、「Aさん」のもとに角川アーキテクチャの弁護士から警告書が届いたことです。
いわく、「ルールを逸脱したイベントの開催の誘致や貴店その他における無許諾グッズの販売等本件作品の著作権や商標権等を侵害する行為や本件作品やその登場キャラクター世界観等にフリーライドした不正競争行為等及びにこれらに加担する行為を行わないように本書を持って警告します」。
ここまで読んで頂けたのであれば、この警告書が何を表しているかは明白であろうと思います。
森本さんは商店街のオリジナルキャラクターを持ち出し、「世界観等にフリーライドした不正競争行為等及びにこれらに加担する行為」のくだりをこれらのキャラクターの展開を阻害するためのSLAPP的な警告だと主張しました。
それどころか、艦これのモチーフである海軍文化は舞鶴等ゆかりのある地元のものであり、艦これはそれにフリーライドし、文化盗用をしているのだと持論を展開したのです。
しかし、そもそも現在の商店街のオリジナルキャラクターの源流にある「軍艦通り擬人化キャラクター」群は、艦これをヒントにして生み出されたとMCAが公表しています。
他のもっとヤバそうな部分は無視して、自分たちのキャラクターの元ネタに対して文化盗用とか言うんですか、そうですか…。
後編に続きます。
コピーレフト(英: copyleft)は、著作権(英: copyright)に対する考え方で、著作権を保持したまま、二次的著作物も含めて、すべての者が著作物を利用・再配布・改変できなければならないという考え方である[1]。
・二次的著作物の利用、コピー、再配布、翻案を制限してはならない
・コピー、再配布の際には、その後の利用と翻案に制限が無いよう、全ての情報を含める必要がある(ソフトウェアではソースコード含む)
・翻案が制限されない反面、原著作物の二次的著作物にも同一のコピーレフトのライセンスを適用し、これを明記しなければならない
一般に、芸術作品や評論、解説文、コンピュータプログラムなどを含む著作物は、その作者が著作権を持っている。そのため、作者の許可を得なければ改変したり、(個人的なバックアップを除いて)複製したり、配布・販売することはできない。しかし、このような制度の枠組みは、作品を共有して多人数で共同的な創造活動を行う際にはかえって妨げとなる場合がある。
第八十九条
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
グレーゾーン解消制度を利用して、公正取引委員会の建物に、第二記者クラブ(既存記者クラブに非加盟である記者のための記者クラブ)を設立する事が可能か確認をしたい!
https://www.youtube.com/watch?v=kYyPmLH-YCM
記者会見の生中継をめぐり、総務省記者クラブとフリーランスが激突
https://www.youtube.com/watch?v=9ilmWWOJtPQ
https://www.youtube.com/watch?v=-VbyWZpzhnw
カメラを止めるな! 7月28日(前編)
https://www.youtube.com/watch?v=LmQWlgv3NYI
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0
民間企業などが政府や官僚組織へ働きかけを行い、法制度や政治政策の変更を行なうことで、自らに都合よく規制を設定したり、または都合よく規制の緩和をさせるなどして、超過利潤(レント)を得るための活動を指す[1]。
記者クラブ―情報カルテル: ローリー・アンフリーマン (著), 義之,橋場 (翻訳), Freeman,Laurie Anne (原著)
「プリキュア」「ワンピース」など、東映アニメーション4作品の通常放送再開が発表 「お待たせをして申し訳ございません」
https://animeanime.jp/article/2022/04/06/68680.html
約十年前、曇りだったあの日。新卒で入った会社で人材営業をする日々に疲弊していた頃、新宿駅構内で、あるエンタメ企業の求人ポスターを見かけた。
アニメを作る仕事をしたことはなかったが、興味を感じて応募したところ、あれよあれよという間に内定をいただいた。役員面接はパスだった。
それからの私は、『アニメを作る仕事』に邁進する日々を過ごすことになる。長い時間だった。毎日が修業だった。
数年前、無理がたたって病院送りになった。心も体も限界だったのだ。大したレベルではないが後遺症も残った。退院後も結局、心身の調子は回復しなかった。
それで、退職を申し出て、東京から遠く離れた田舎に帰った(のんのんびよりの聖地が近くにある)。今はお堅い仕事に就いている。
十分な時間が過ぎた。そろそろ、当時を振り返ってもよいのではないか。あの日々への整理を付けられるはずだ。今から、エンタメ企業のアニメ部門で○年の時を過ごした男の話をする。
この記事で述べたいのは、シンプルに2点(5/4 以前はシンプリーでした。ブクマでご指摘いただきありがとうございます)。エンターテイメント業界で働いて面白かったことと、つまらなかったことだ。直情的に言うと、『心と体の奥底から感動できたこと』と、『エンタメ業界のほの暗いところ(要するに、こいつらマジでクソだなと思ったこと)』だ。どちらもけっこうな数がある。
それでは、さっそく説明していく。
子どもの頃はアニメが好きだった。一番ハマったのは、『魔法陣グルグル』だった気がする。衛星放送では『白鯨伝説』やCLAMP作品を見ていた。
だが、小学校生活の終わり頃から学習塾に通うようになり、夕方以降にやっているアニメを見れなくなった。中学で勉強漬けの日々を過ごしていた私は、いつの間にやらアニメのことを一切忘れてしまった。
いや、違う。大学の時は、深夜にやっているアニメをたまに見ていた。「コードギアス」「DARKER THAN BLACK -黒の契約者-」「蟲師」「夏目友人帳」あたりは確実に見ていた。
人材営業の会社で働くようになってからは、金曜日の深夜に自宅に帰った時、疲れ切った頭でテレビを点けて「こんなアニメあったっけ」と、ボンヤリした気分で視聴することがあった。
私はたぶん、アニメが好きだったんだろう。なぜ見なくなったのかと言えば、十分楽しめるだけの精神的余裕がなかったからだ。ならばいっそ、見ない方がいい。中途半端に楽しむのは嫌だ。中学生になった時も、そんな動機でアニメを一切見なくなったのだ。きっと。
そんな私が、アニメーション作品などを作る会社(以下「弊社」という。)に入社した後は、これまたどっぷりと『世界』に浸かることになった。入社から退職まで人事異動はなく、ずっとアニメ製作部門だった。
最初の頃は、アニメ雑誌のインタビュー記事に出るようなプロデューサーその他の足もとで働いた。雑用はもちろんのこと、小さい企画を考案したり、経理その他の事務や、各関係者とのスケジュール調整などを担っていた。ホワイトカラーに毛が生えたような業務内容だ。
ところで、人生で一番最初に携わったアニメは、某少女コミックでそこそこ人気を博した作品だった。タイトルは言わないが、雰囲気は『隣の怪物くん』に似ている。私が入社する半年前から企画が始まっており、当初の担当者から引継ぎを受けた。携わったといっても、スタッフロールに名前が載るわけでもない端役としてだが。実際、大したことはしなかった。やはりホワイトカラーの枠内に納まる仕事だ。
しかし、これは実際に私の世界を拡げてくれた。方々の兵が集まる企画会議に、必要とあらば関係各所を訪問して説得交渉にあたり、お金の雲行きが怪しくなればどうにかやり繰りをする(ダメなら追加出資か企画削減)。ごく稀に、スタジオ等の収録現場では声優の本気と、半面その悲哀を目の当たりにし(ここらへんは後述)、成功した作品の打ち上げ会では、自分達が作った数字を眺めて溜飲を下げる。
長い月日が経って、エンタメ業界に慣れてきた頃だと、新作の立ち上げに、利害関係者間の調整(交渉)に、プロジェクト全体の損益見通しの皮算用に、イベントの企画運営に、ホームページの管理に……とにかく、アニメを見ない日はなかった。
面白かったのは、いろんな業界の人に会えることだ。クリエイターには当然会えるし、経営者にも会えるし、事務屋とも話をするし、現場労働で身を焦がす人も間近で観られる。特に印象に残っているのは、漫画家と声優だ。アニメーターとは、あまり交流の機会がなかった……。
とあるアニメの原作者が一番印象に残っている。つまりは作品の神だ。例の人と呼ばせていただく。
例の人は、ほかの漫画家とは一線を画していた。私がいっぱしに携わったと公言できるアニメは計20本近くになるのだが、その半数は漫画原作である。私達は、最低でも一度は彼ら彼女ら(作品の神)の姿を拝むことになる。機会は少ないが。
原作とシナリオを変える時には事前に伺いを立てるし(ex.某鬼狩りアニメの敵役の台詞である「禍福は糾える縄の如しだろ~」は改変が検討されたらしい。彼が難しい言葉を知っている境遇ではないため)、重要な放送回だと制作現場に来てもらうし、打ち上げその他のパーティーがあれば楽しんでもらえるように最大限配慮する。
自作がアニメ化されるレベルの漫画家や小説家というのは、揃いも揃って個性派だ。めちゃくちゃに大騒ぎをする人もいれば、ひたすら黙って沈思黙考の人もいれば、なんかもう色々とはっちゃける人もいれば、欲望丸出しで悪い意味で子どもみたいな人もいれば、一般企業でも通用しそうな思考や行動の持ち主もいる。
例の人は、漫画家として優れているだけでなく、人格も見識も申し分なかった。落ち着いた性格で、人柄がよくて、教養もあった。話のやり取りすべてが学びに繋がり、励みになった。初めて会った時の吾峠呼世晴さんは、とにかく、これまで出会った数多の創造者の中で抜きん出ていた。
普通、ラスボスの人格の根底を太平洋戦争末期の日本の政治指導者(所謂ファシスト)に置くなど、誰が考えつくだろうか。私は、鬼舞辻無惨の例の粛清の場面を読んだ時、丸山真男の「現代政治の思想と行動」が真っ先に頭に浮かんだ。あの時、脳に痺れを感じたのを覚えている。
この類の書物を読んで、無惨様のキャラクターを作ったのは間違いないのだ。自らを善とするためであれば、どんな言辞をも取り入れ、どんな諫言も亡きものにする。
例として、あの粛清の時に魘夢が助かったのは、「無惨様を肯定したから」だ。「下弦の鬼を解体する」というトップが決めた戦略方針が、たったの一言で撤回された――常なる無謬性がファシズムの基本である。
あの時、「無惨様のキャラ付けは旧日本軍を意識したのですか」と聞いておけばよかった。残りの人生で聞くことができる機会は二度とない。無念だ。
しかも彼等はみな、何物か見えざる力に駆り立てられ、失敗の恐しさにわななきながら目をつぶって突き進んだのである。彼等は戦争を欲したかといえば然りであり、彼等は戦争を避けようとしたかといえばこれまた然りということになる。戦争を欲したにも拘らず戦争を避けようとし、戦争を避けようとしたにも拘らず戦争の道を敢て選んだのが事の実相であった。政治権力のあらゆる非計画性と非組織性にも拘らずそれはまぎれもなく戦争へと方向づけられていた。
この業界で働いていて、「この感じ、苦手だな」「マジでクソだな」と感じたことは当然ある。字数の関係もあるが、何点かに分けて述べていく。声優の悲哀とか、人間の嫉妬やねたみの話になる。
TVアニメ「CUE!」 [Amazon prime video]
https://www.amazon.co.jp/dp/B09PNVWC8S
まだ新人だった頃、先輩(兼上司)に連れられて現場を見ることがあった。現場というのは、アニメ制作会社とか、編集スタジオとか、音声の収録現場などだ。
そのためだけに現場に行くのではなく、何かの機会のついでに現場作業の見学を申し出るのだ。それで、不思議に思って聞いたことがある。
「(私達は)技術的なことはわからないのに、どうして現場に行くんですか?」
と。それに対して、彼はこう言っていたはずだ。
「確かに分からない。仮に、目の前で手抜きをされたとしても見抜けないだろう。でも、企画側である俺達が現場に行くことで、『あなたの仕事を見ている』というメッセージを伝えることができる。俺達はこの作品に熱をもっていて、いいコンテンツを作れる未来を目指してる。そういう想いを行動で伝えるんだ」
みたいな回答だった。
これは今の私が大事にしていることでもある。要は、発注側が受注側の実仕事をどこまで見るべきかという話だ。今現在の私は、受注側の失敗が社会的に許されない類の仕事をしている。転職後に大きな失敗をしでかさなかったのは、あの先輩のお陰だ。
さて。私が二十代後半の頃だ。例の先輩と一緒に、声優がいる収録現場に初めて音連れたのは。スタジオに入ってしばらく進むと、小ホールみたいな広い空間(座椅子が並んでいる待合スペース。十数人はいた。ほぼ声優+マネージャー)に出た。その奥に、マイクが並んでいる部屋が映った。木目調で温もりを感じる、しっとりとした空間なのだが、当時の私に予想できるはずもなく。カラオケみたいだなー、とテキトーに想念していた。
私と先輩が小ホールに入るなり、セミフォーマルな恰好の何人かが寄ってきて、隣にいる先輩に挨拶していた。私も混ぜてもらい、名刺を交換した。
雑談が終わって斜め後ろを振り向くと、女の子と淑女が1人ずつ、あとは男の子が1人、まごつくように並んで私を見ていた――人生で初めて見た声優だった。後で知ったが、攻めのある挨拶活動で知られる声優事務所だった。
ひとりずつ私達の前に出てきて、「~~と申します。(簡単な自己紹介)よろしくお願いいたします!」と、ハキハキした声でアピールをやってのけた。そのうちの淑女は、私の着ていた衣服(お気に入りのやつ)と指輪を褒めるとともに、香水をつけていることを見抜いた(やるな……と感じた)。男の子は謎の一発ギャグを仕掛けてきたのを覚えている。
※かなり昔のことだが、内容は一応伏せる。当日記では、声優個人の名前を出すことはない。
私も「よろしくお願いします」と返したものの、微妙な気分になった。たとえ私がどれだけ昇進しようと、彼女たちのキャスティングに関わる可能性は皆無だからだ。まったくゼロではないが……。
例えば、アナウンサーになりたい女子大生は、いろんなイベントにコンパニオンとして参加することで武者修行をするわけだろう。それらのイベントでは、今後関わり合いになる人だろうと、これっきりの人だろうと、あの子達は全力で挨拶活動をしていた。熱意は感じるのだが、やはり私には引っかかるものがある。
こんなことを思っている時点で、私はそういう職業には縁がないのかもしれない。今、私は『効率』という観点で物を考えた。あの声優の子が私に挨拶をしても報われる可能性はないのに、と考えた。夢中になっている人間は効率のことは考えない。やれることをすべてやる。それだけだ。
何かに心をとらえられ、たちまち熱中してしまうのは、謎にみちた不思議なことだが、それは子どももおとなと変わらない。そういう情熱のとりこになってしまった者にはどうしてなのか説明することができないし、そういう経験をしたことのない者には理解することができない。山の頂を征服することに命を賭ける者がいるが、なぜそんなことをするのか、だれ一人、その当人さえもほんとうに説明することはできないものだ。
はてしない物語(1982) 上田 真而子 (翻訳), 佐藤 真理子 (翻訳), Michael Ende (原著) P.17
あの子達は本気だった。報われようが報われまいが、声優として活躍すると決めたからには、生き残るために何でもやる。上でURLを貼ったアマゾンのレビューにもあるが、声優は堅気の仕事ではない。勝った負けたで全部決まる。精一杯頑張っても生き残れる保証はない。選ばれた者だけが生き残る――余談だが、あの時の淑女と男の子は今でも活躍している。女の子はだめだった。
さて。淑女と男の子は、実力があるうえに、礼儀正しく、サービス精神も豊富だった。それが生き残った理由だ。しかし、声優全般が行う営業活動には後ろ暗いものも当然ある。5ちゃんねるとかで、たまにアニメ業界の出身者がスレッドを立てて降臨することがあるだろう。
それで、やり取りの中で、誰かが「枕営業ってあるの?」と質問をする。スレ主は「そんなのないよ」「聞いたことない」と応えるのが定番だ。
これは、私個人の日記だ。この際だからはっきり言う。枕営業をしている声優はいるし、やらさせている声優もいる。重要なフォローをさせてもらうが、芸能界の表舞台――ひとつの契約で何百万もの金が動く――に比べれば圧倒的に数は少ない。声優関係のギャラというのは、例えば女性タレントが出るCM撮影や、青年誌のグラビアや、全国各所での公演活動と比べても相当に廉価だ。1回の収録につき数万円以内で呼べてしまう。表舞台に比べると利権は少ない。
それでも、そういうことはある。パターンは簡単に分けて2つ。いっぱしの声優になりたい、もしくは声優であり続けたい者が、キャスティング権がありそうな人に近づいて配役を得ようとする。
スタジオでの雑談や、小さい贈り物や、二人きりでの食事くらいで留めておけばいいものを、一線を超えてしまう場合もある。私が30才を過ぎた頃、例の収録現場で、声優に「よかったらご飯行きましょう」などと声をかけられたことがある(最終的な内訳:男性が2人、女性が5人)。
その際、はっきりと「ごめんね。私にキャスティング権はないんだ」と答えた場合、彼ら彼女らを傷つけてしまう可能性が高い。いや、はっきりいって『侮辱』である。なので断り方が難しかった。「帰って社内会議があるので」みたいな返答をしていた。
これはまだいい。声優個人or事務所の意思の問題だ。「あの役がほしい」とどうしても思っていて、そのためなら何でもやるという覚悟と責任さえあれば、枕営業は罪ではないと私個人は感じる。「この業界は堅気じゃない」とはそういうことだ。
(追記)正直に言うと、私の妻が声優だった頃に食事に行ったことがある。私から誘ったので上の内訳には入れていない。
以上、「この感じ、苦手だな」と思ったことを述べた。以下に語るのは「マジでクソだな」と思ったことになる。すなわち、個人が望んでいる保証のない枕営業のことだ。アニメ業界に限ったことではなく、エンタメ業界には先日話題になった映画監督のような『畜生』が何人もいる。結果を出している人間の一部がやりたい放題やっているのだ。
まだエンタメ業界にいた頃、そんな人間に捕まったと思われる(主に女性)声優の話を聞くたびに胸が痛くなった。このような話題が、どうして私などの塵芥の耳に届いているのか……? そう考えると、さらに心が抉られる思いがした。
おそらくは、やった本人または関係者が面白がって吹聴している。私のところまで噂が届くということは、そういうことだ。いろんな声優の姿が脳裏をよぎった。「あの子は大丈夫だろうか」といらぬ心配をしてしまうほど、当時の私には『噂』がグッサリと刺さった。
さて。エンタメ業界に恩があるのも事実だ。下種な話題はこれくらいに留めておこう。気が付けば字数がない。前後に分けることにする。
【後編】
本当に文脈以前に文字が読めないで困るわ。その上常識もないからな
それとも増田はこのレベルの人物が常駐してるのはフツーなのか?
後者(二次創作者=ワイ) 以外に読めたらなマジでどうかしてるやで
なにキレてんの?
前半と後半で真逆というか全く別のレイヤーの話にみえるんだけど…
前半:うんそうだね、それで?
後半:うんそうだね、それで?
自虐で自分の書いたことに対してわざわざ引用してキレてんの?単なる誤爆?ちょっと意味わからん…
どっちにしろ、
すでに訴訟で勝って損害を受けていた電子二次創作の売り上げ=利益をとりもどしたの(おまえがなんかブチキレてる?)「電子二次創作著作者」なんだけどさ。判決読んでくれた?https://www.softic.or.jp/semi/2021/1_210625/case.pdf https://bunshun.jp/articles/-/41237
あっpdfってスマホじゃよめないんだっけ。まあ同人誌 知財高裁 判決でググって
ゆくゆくはそれに原著作者の小金稼ぎものせたいよねって話なのかな。だれもそんな将来の話してなかったけど(さらにまたおまえかといわれるようなことも自分はしてないけど)なんかよほど怒ってていいたいことがあるんだろうなぁとしかお察しできないわ。
トレパクして政治ネタとかヘイトネタに使われるとかならともかくあの界隈の感覚理解できねぇわ
なお裁判で勝ったのは一部共通点はあるが絵柄含めて別物であると独自性が認められる(ひとめ見て原作と別物とわかる)という点な
漫画の「キャラクター」は,一般的には,漫画の具体的表現から昇華した登場人物の人格ともいうべき抽象的概念であって,具体的表現そのものではなく,それ自体が思想又は感情を創作的に表現したものとはいえないから,著作物に当たらない
(最高裁判所 平成4年(オ)第1443号,同9年7月17日第一小法廷判決)
仮に原著作物のシーンが特定されたとしても、本件各漫 画につき著作権侵害が問題となり得るのは、主人公等の容姿や 服装など基本的設定に関わる部分(複製権侵害)に限られるもの であり、本件各漫画の内容に照らしてみれば、主人公等の容姿 や服装など基本的設定に関わる部分以外の部分については、 本件各漫画に二次的著作権が成立し得るものというべきである。
(知的財産高等裁判所東京地方裁判所 令和2年(ネ)第10018号,令和2年10月6日知的財産高等裁判所第3部判決)
あからさまに共通点が多いから権利元から訴えられたらフツーにアウトだよ
下記で検索されるとよろしいのではなかろうかと
>任天堂が該当の同人誌を直接見つけたというわけでなく、一般人から内容がひどい同人誌があると情報提供があってから警察に届けを出した。
先輩のことは尊敬している面とうっとおしい面両方があり、最近うっとおしい面がどんどん出てくるようになった。
弊医局は比較的最近教授が交代し、それに伴いここ最近の医局人事も激変した。
常ならば動かされることがなかった人間が思いもよらない勤務地へ異動となり、一方で激しいパワハラを行う人間であっても教授が気に入っている・利用できると踏んだ人間はいつまでも大学病院に置いておかれるようになった。
それ以前はなんとなくゆるいムードであったのが、論文を書いたり教授の好きな集中治療を行っていなければ存在が許されなくなってきたのである。
先輩と自分は関連病院に所属しているのだが、先輩は俺様タイプなので関連病院のトップにはいたいけど上司がいる大学病院には戻りたくない。その代わりに専門分野が同じ自分を大学病院に差し出そうと画策してきた。
そんな中、教授が「君は論文が足りていないから後回しね(ニュアンス)」と自分の後輩を先に上げると宣言した。ちなみにこの後輩は集中治療チームに所属している。
(自分は実際は英語で原著論文を書いていたのだが教授が見落としたらしい)
それ自体はそうですか、教授の決定ですからね、で自分は納得したのだが、先輩はそれでは収まらなかった。
俺はお前をずっと推薦してきたのに上げてもらえなかったのはお前のせいだ、お前が後輩に嫌われているからだ、後輩が医局長に色々言ってるから行儀よくしろ…これが顔を合わせるたびに繰り返される。実に2年弱、これを毎日聞かされてきた。
パワハラして問題になっているのもあなたの後輩ですけどそっちは注意しないんですか、その後輩はやりたくない仕事は見ないふりする上に病棟で平然と更に後輩をいじめてますけどそれはスルーですか、とか言いたいことは山ほどあるが反論すると逆ギレするなと逆ギレされるので黙って耐えてきた。
そしたら今度は先輩自身が大学病院に異動させられることになり、自分に対する態度が更に悪化した。
本当はお前を大学に戻すつもりでいたのに~、その予定だったのに~がことごとく追加され、数人が集まっての会議の場でも口にするようになってきた。
教授の匙加減だと言うが医局とはそういうものだ(そうじゃないとは言っていない)、某後輩は論文を書いている(自分も書きましたが)、お前は異動先の上司の厳しい目にさらされて評価されるだろうからちゃんと自分の役割をしろ(言われなくてもやるつもりだし今までずっとあなたの無茶振りに応えてきたんですが)…あなたは壊れたテープレコーダーですか?
昔から同じことばかり言う人だったが最近本当に聞くだけで疲れるし何ならシャットアウトしたい気持ちでいっぱいである。
コロナウイルス禍で飲み会がなくなった影響もあると思うが自分をストレス解消目的のサンドバッグ代わりにするのはやめてほしい。
昔はこんなんじゃなかったのに、すっかり煤けてしまった感でいっぱいである。
もうこの辺りが潮時なんじゃないですかね、そんなに不満が多いならおやめになったも良いんじゃないんですかね。
ついでに自分もたいがい無礼なくせにすぐ医局長にギャーギャー言って自律神経失調症なんですぅとか言っていた後輩はさっさと退職してほしい。ちょうど2人目もできたところだし。
https://anond.hatelabo.jp/20211113201646
横田だけど、ちょっとググったらそれっぽいストーリーが立てられたので共有しておく。
三行でストーリーをまとめると
・「屍山血河」という言葉を考案したのは大日本帝国陸軍の文官で、陸軍教授の地位にいた樋口石城なる人物である。
・「屍山血河」は、旅順戦を記録したロシア軍人М. И. Костенкоの日誌 "Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"を邦訳する際、邦題として発案された。
・この邦訳を読んだ人々が邦題を熟語として認識。そのうち、司馬遼太郎が小説内で多用したことで日本中に広がった。
「屍山血河」の由来はなにか。まず、中国語で言うところの「成語」にそれらしい言葉はない。
かといって「屍山」とか日常言語で使う単語という感じではないし、自然発生した四字熟語でもないだろう。
普通に考えたら、中国語以外の言語にある熟語を、明治以降の文化人とかが邦訳するときに成語っぽく整えた、とかが一番ありそうなパターンだ。
しかし、「屍山血河」という単語は辞書に載っているが、用例として記されているのは司馬遼太郎の小説ばかりだ。後は三島由紀夫だが、司馬遼太郎の用例が古い。
辞書を作ったときにそれより古い用例が見つからなかった可能性が高い。
普通、辞書の用例はその用法で一番古いものを採用する。だれか他の文学者が創作したならそっちが採用されないのは奇妙である。
もちろん、司馬遼太郎が独自に考案したと考えるのは早計だろう。
司馬遼太郎が勝手に創作したとされていた史観や、事実関係が怪しい記述も、近年ちゃんと調べてみると「元ネタ」があるものばかりだったらしい。
もちろん、だからといって、それらが歴史的事実だというわけではなく、「元ネタ」を書いた人が勝手に創作したり、誤認識していたということらしいのだが。
ともかく、司馬遼太郎は無から発想したり、自分で説明なしに訳語を創作するような人間ではないと思う。
用例として採用しづらい対象で、司馬遼太郎が興味を持つ題材の日本語の資料で「屍山血河」を使ったものがあるはず。
この条件に合致しそうなのが "屍山血河" コステンコ 著,樋口石城 譯 [1]である。
ちょっと調べてみると、これは旅順戦を記録したロシア軍人М. И. Костенкоの日誌 "Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"[2]の邦訳だ。
М. И. Костенкоは旅順攻防戦に少将として参加した後、戦後は軍事法廷の議長とかをやった、とwikipediaに書いてあった。
旅順戦の日誌は貴重な資料であり、ロシアで広く読まれた。これが邦訳され、1912年に出版された。
しかしそれにしては邦題がおかしい。おかげでググっても原著がすぐ出てこなくてちょっとイライラした。
"Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"を機械翻訳すると、"旅順要塞の包囲と降伏:私の印象"となる。
実際、この本は1973年に田崎与喜衛に再訳されており、そのときの邦題は"旅順攻防回想録 "となっている[3]。
泥沼の旅順戦で主に大量の兵士、とくに日本兵が死んだ様子を描写して「屍山血河」と言っているのだろうが、戦闘記録の題名にするには文学的にすぎるだろう。
М. И. Костенкоが序文とかサブタイトル的な位置にこの単語を使っているのではなく、樋口石城が勝手につけた邦題である可能性が高い。
ロシア語でも Горы трупов (死の山)とか реки крови(血の川)という表現は戦争を表現する際、よく使うようだ。
熟語とまでは行かないが、並列して使われる例もググればそれなりに出てくる。
原著に直接この組み合わせが出てくるかはちゃんと調べていないので不明だが、本文検索してみたら、Горы труповは単体で積み重なった日本人の死体の表現として使われていた。
もしこの記録が文学作品だったらこの題をつけるのは適当かもしれない。
これ以降は完全に当て推量である。
陸軍教授、樋口石城がどういう人物なのかはググっても出てこないが、樋口季一郎の親戚とかだろう。しらんけど。
まあ、軍教授なのだし名家出身の学者で、ロシア語を含む文系の教養があって、仕事はロシア関連の軍事資料の邦訳を大量にやらされていたのだろう。
だから文学作品とかを書く暇もないので、やらされた邦訳の仕事で、多少のオリジナリティを発揮してみたくなったのではないだろうか。
そこで少し文学風に気取って成語っぽい「屍山血河」という語を創り、戦闘記録の邦題としてつけたのだ。
それを司馬遼太郎が資料として閲覧。そういう成語が既にあると認識、戦争小説で多用。
小説を読んだ人間もそういう語があると理解し、大量の死者が出る戦争を語る際に一般的な単語へと一気に昇格してしまった。
そしていざ辞書に載せようとすると、用例として明記できる古い例が司馬遼太郎以前にないことに気づく。
樋口石城の訳書も発見はされたのだろうが、題なので用例としては不適であり、スルーされた。
結局、遡れるのは司馬遼太郎の小説しかなかったのではないだろうか。
無論、上記は全てネット上で手に入る資料の断片からの推測であり、だいぶお粗末なものだが、もし当たっていればなかなか面白いストーリーではないだろうか。
以上、「屍山血河」の由来について横田が調べてみました。
[1]https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024298307-00
原著ではDoublethink