はてなキーワード: 助教授とは
https://ascii.jp/elem/000/000/331/331641/
日弁連は1996年9月にウェブサイトを開設している。その中に掲げられているサイト使用条件で、同会はリンクの許可条件として「下記事項を承認し遵守していただくことを条件とします」とし、(1)リンク元サイトのURL、管理者の住所、氏名、電話番号、メールアドレスを日弁連に事前に報告すること(2)リンク元サイトに対する第三者からの損害賠償、苦情その他いかなる請求についても、日本弁護士連合会は責任を負わない(3)公序良俗に反するもの、法律などに違反か違反するおそれがある内容を含むもの、その他日弁連が不適切と判断したものについてはリンクを断る――などを条件として掲げていた。
https://ascii.jp/elem/000/000/331/331957/
この問題は、日弁連のウェブサイトがリンクの許可条件として、リンク元サイトの管理者の実名と電話番号を同会に事前報告することや、「日弁連が不適切と判断したもの」へのリンクを断るなど、きわめて厳しい内容を掲げていたものだ。これに対してネット掲示板などを中心に「リンクの制限は表現の自由の侵害ではないか」といった批判が集中。日弁連は6月13日、ウェブサイト上の使用条件の文章を「当HPへのリンクは、原則として自由です」と改め、実名や電話番号などの要求を撤回していた。
「リンクの自由」は、古くて新しい問題だ。他のサイトからリンクを張ることはいわゆる「参照」の範囲内で、著作権侵害には当たらないと考える専門家は多い。リンクをたどる場合はユーザーが直接リンク先へのアクセスをたどっているのであり、コピーされたコンテンツを見ているわけではないからだ。またリンク先のウェブサイトはもともと公開されているもので、「リンクを張られることを快く思わないのであれば、そもそもWWW上にコンテンツを公開すべきではない」と指摘する専門家もいる。
昔、このような話題があったらしい。
インターネットで全世界に公開した情報は原則自由利用だと思うが。
(2)のリンク元サイトに対する第三者からの損害賠償等に対して責任は負えないという部分はまっとうである。
マルチ商法まがいのとある業者がウェブサイト上で、自社の合法性を証明するため、同会のウェブ上の文書を引用する形でリンクを張っていた。これにどう対応するか。インターネットに詳しい弁護士にも相談するなどした結果、リンク許可条件を掲示した方がよいのでは、という結論になったという。各地の弁護士会のウェブサイトを参考にし、その中でももっとも厳しい内容となっていた第一東京弁護士会のものを流用。
きっかけはこれだったそうだ。
マルチ商法まがいの事をするような悪徳業者が、法的な根拠のないリンク条件を守るのだろうか。
それに相手が悪徳業者であっても法律を正しく語る権利はあるはずである。もちろん法律を歪曲解釈してはいけない。そこはリンク問題とは別ではないか。
仮に、法律が悪くそれを悪徳業者に引用して欲しくないならそれは法律が悪いのであって、法律を改正すべきではないだろうか。もちろんそのような政治活動は日弁連の業務とは見なし難いとは思うが。
ごめん、よく知らんけど書いてみる。
大学の正職員の事務じゃなくて、教授の秘書(今はそんな人はいない?)、講座の事務、学科の事務という人。科研費とかなんかいろいろな経費で雇われている非常勤の事務。だいたい女性。
もともと割に合わないらしい。コンピュータの事務が出来て、場合によっては英語もできて、場合によってはTeXも使えて、そして給料はもともと安い。
でも、昔はなんかそういう仕事をしていると、助手とか助教授とかと結婚したりするチャンスがあるということとか、大学に勤めているというステータスとかがあって給料は安いけどやる人がいたらしい。
でも今は助教は公募を求めてあちこち異動するからか、あるいは学生のうちから彼女がいるからか、他で婚活するからか、それとも結婚する余裕などないからか、事務と結婚という話はあまり聞かない。まあ、そういう時代じゃないし。
一方で、雇止め禁止の例のアレとかで、逆に連続して雇用されなくなっている。まあ、科研費とかの期間限定資金では正職員に出来るわけもないが。そして、教員の事務量が増えているということは、事務員の事務量も増えているということで、高いスキルを求められ、給料は安く、仕事は多いし、残業しないと終わらないが、残業できないという状況だという話だ。
そんな時に、人手不足の波が来たら、やり手がいなくなる。そりゃあそうだろう。英語のメールに対応できるとか無理だから。そして非常勤事務がいなくなれば、研究者の事務量は益々増えるという話だ。
そんな話をどっかで聞いたような聞かないような。
読みました。
「社会全体で見たときの利益最大化」を追求すべきって観点ですね。
↓の話とかも近いかもしれないですね。
WinnyはCD売上を減らさず~慶應助教授の研究に迫る (1/3) - ITmedia Mobile http://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0503/29/news097.html
おそらく仰っていることの核は、
>KFPAは、最大限の譲歩である「(制作を辞退されるという最悪の事態を避けるためなら)12.1話でもなんでも自由にしていいよ」
>という切り札を当然持っていたにもかかわらず、それを切らなかったことが、シンプルに罪だと言えます。
よりスピーディにすべきだった、というところになるのでしょうね。
実態的には、たつき氏はファンが求めていることに対するセンスもあり、
彼の行動によって作品の根幹にダメージを負うようなことは無いだろうと私も思いますし、
「なんでも自由に」までは行かなくとも、
彼に関してだけは、作品に関する種々の情報発信を縛らない契約を結ぶことは可能だったかもしれません。
「その結果が、我々の収入に結びつくなら良いですよ」という判断をすると思います。
しかし、その条件をヤオヨロズへ提示するために、各権利者に交渉し、状況整理するには時間が要るし、
たつき氏個人に、何か間違いを起こしたときのリスクを負わせる必要だってあります。
また同時に、事業的な観点から見ても、たつき氏個人に権限を与えすぎることには、リスクがあります。
関わっている人数から考えても、それを進める上での判断に時間がかかってしまうのは、
KADOKAWAの責任ではないように思えますが、いかがでしょうか。
コンテンツは水物ですし、ファンが喜んでくれなければ意味がないのは、私もよく理解できます。
スピード感が重要なのも同意します。でもどうしたって、現実的な難しさもありますし、
http://anond.hatelabo.jp/20170221115635
その後、この S さんが菱沼聖子のモデルであることを確定する情報をいくつも発見した。
またこの人物の周囲にいた人物について CiNii その他で確認すると動物のお医者さんのサブキャラクターに似た名前の人物が複数存在する。例えば当時、漆原教授のモデルである橋本信夫教授は北海道大学の公衆衛生学講座にいたわけだが、その当時彼の下に高柳助教授という人物がいる。これは作中病院にいた高屋敷助教授のモデルなのであろう。
この事実から何がわかるか。恐らくハムテル、二階堂、おばあさんのみが完全オリジナルのキャラクターなのであってサブキャラクターは S さんの周囲に実際にいた人物が多くを占めるのだ。この点について注意しながらマンガを読むと、作中大学で「イベント」を起こす人物は菱沼さんであったり、清原であったり、小夜ちゃんであったりする。ハムテルと二階堂は常に受け身だ。
まあこの件はいきなり 30 年後に現れたネットストーカーの僕が最悪だねという話なんだけど。
たぶん、ああいう専門職を精密に描いたマンガというのを、このインターネット時代に描くことはなかなか困難だろうと思った。ああいうものは、特定の人物への長期間の取材無しに成立させることは困難だろう。当時であれば、北大関係者であればあああれはあの人なのね、、、みたいな感じで分かる、という程度の話であっただろう。しかし現代であればちょっと論文を検索するだけで誰でもモデルが特定できてしまう。
無論、佐々木倫子の「配慮」がかなり不足していたことは否めないのだが、まあ当時としては合格点ではないか。しかし今、誰が何をやっているのかというのは検索可能な世の中だから、完璧にモデルを隠し通すことは難しいと思う。そのような状況で当時の動物のお医者さんほどに大ブームとなれば、モデルとなる人物へ深刻な弊害が起こり得ることは、想像できる。実際俺のようなどうしようもない奴がいるわけだ。
動物のお医者さんは理系マンガ、研究者マンガの金字塔であったから、これに続くマンガがどこかで描かれればそれは大きな、途方もなく大きな社会的な財産になるだろうとは思う。ただそれはもう難しいことなのだ。
http://anond.hatelabo.jp/20170606174324
『原発は安全』な神話も御用学者によって"作られ"てきた。そして事実は暴かれた。メルトダウンによって。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%A8%E5%AD%A6%E8%80%85
現代における用法を定義することは難しいが、学術的な調査を改竄ないしは恣意的に解釈し、権力者や統治者、ないしは依頼者に都合の良い結果を導き出す者がこう呼ばれる。一方で、権力者などへの批判側が恣意的な解釈に基づき自らに都合の良い結果を導き出していることを指摘・批判する学者に対して、反権力側がレッテル張りとして用いる場合もある。
現代日本においては水俣病の例が嚆矢である。1956年(昭和31年)、熊本大学医学部の研究チームにより、有機水銀原因説が有力視されたのだが、同年11月12日には厚生省食品衛生調査会常任委員会・水俣食中毒特別部会が大学と同様の答申を出したところ、厚生省は翌13日に同部会を突如解散。1960年(昭和35年)4月、日本化学工業協会が塩化ビニール酢酸特別委員会の付属機関として、田宮猛雄・日本医学会会長を委員長とする「田宮委員会」を設置。後に熊本大学医学部研究班も加わることとなった。有機水銀説に対する異説として清浦雷作・東京工業大学教授らがアミン説を発表し、彼らの主張がそのままマスコミによって報道されたため、原因は未解明という印象を与えた[1]。
詳細はナイロンザイル事件を参照のこと。1955年(昭和30年)、日本の登山者がナイロン製のクライミングロープ(以降ロープと記述する)を原因として死亡した。ナイロンは引張りについては従来の麻のロープよりも遥かに丈夫だが、鋭利な岩角などに擦れた場合には容易に切断される。これはすぐに明らかになったが、大阪大学工学部教授で日本山岳会関西支部長の篠田軍治は、事前の実験でザイルが容易に切れることを確認した上で、公開実験ではあらかじめザイルが接触するコンクリート製のかどにヤスリがけをして十分な丸みをつけた状態で、作為的な実験を新聞記者等の前でデモンストレーションしてみせ、ロープメーカーの東京製綱および日本山岳会と共謀して、犠牲者に対する誹謗中傷運動を山岳雑誌・化学学会誌などで長期にわたって続けた。法改正で安全規格が定められ交付されたのは1975年(昭和50年)、最初の事故以降に確認されているロープの欠陥による死者(通産省の調査した範囲内での数字)は、20人を越えるとされる。なお、偽装実験をマスコミの前で実行した篠田軍治は、日本山岳会の名誉会員推薦により、1989年(平成元年)に評議委員会の全会一致で同会の名誉会員になっている。
哲学者の山脇直司東京大学教授は、安保理決議のないままブッシュ政権主導で2003年3月イラク戦争が始められたことへの日本政府の対応について、「アカデミシャンとしての私が今一番一番懸念していることは、アメリカを無邪気に支持し、フランスなどを非協力と言って批判する小泉首相や川口外相のお粗末きわまりない答弁の背後にいる『外務省お抱えの御用学者』の存在です。」「外務省お抱えの『御用学者の知的退廃』を暴く必要を今痛感しています。」[2]と書いている。また、2003年12月からの自衛隊イラク派遣を決定する過程について、政治学者でイスラーム教シーア派に詳しい松永泰行日本大学助教授は「私の知る限り、政府は研究者の実力よりも、政治家や官僚の都合で彼らが望むことを言ってくれる御用学者を起用している」と述べた[3]。
日本たばこ産業に研究費を支援してもらうかわりに、タバコを擁護する発言を行うなど、消費者の健康よりも特定企業の利益を優先するような行為をしている学者を指して使われた事例がある。[4] また、メーカーから多額の研究費を受け取っていたために、タバコと乳幼児突然死症候群との関係があるという論文が、根拠が乏しいというように書き換えられてしまったとの指摘が存在する[5]。 タバコ産業等からの研究助成については学界において問題視されており[6][7]、2003年10月22日に日本公衆衛生学会は学会員に対し「たばこ産業及びその関連機関との共同研究、及び同産業等から研究費等の助成を受けた研究を行わない。」との行動宣言を発している[8]。また、国際的にもたばこ産業による研究助成等について全面規制を求めるたばこ規制枠組条約のガイドラインが追加採択されている[9]。
今日の現実の社会の中では、例えば有力な学者が政府の公共事業などの施策に対して、自己の信念に基づく意見、思想を審議会などの場で反映させる為に、そうした機関に呼ばれる立場を確保するべく、ある種の手練手管として、権力へのおもねりと自己の真の主張を両天秤にかけながら駆け引きをする場合がある[10]。そのため御用学者か否かの線引きは困難な側面を有する。駆け引きに失敗して結果として権力へのおもねりの手練手管を権力に利用されるだけの結果となったときには、結果として御用学者呼ばわりされてやむを得ない側面がある一方、駆け引きに成功して自己の信念を政策に反映させることに成功した場合には、反骨の策士と評価される場合もありうる。また原子力発電の分野では、研究に多額の費用がかかることから権力におもねり、「安全神話」のお墨付きを与えることで電力会社等の支援[11]を受ける例があり、このもたれあいの関係を「原子力村」[12]と評される。
最近の話ではなく、昔の話です。ある大学に新設学科をつくることになりました。多くの新設学科にやってくるような人というのはその大学の中から異動する場合も、外からやってくる場合でも、あまり保守的じゃない人が来ることが多いです。新しいものをつくるのだから当然といえば当然かもしれません。
その学科のとある教授は当時の助教授(現在の准教授)のガチ公募を行い、東大出身の人を採用しました。そこから数年経ち、その准教授が別の大学で教授となったため、再度ガチ公募を行い、京大出身の人を採用しました。そこから数年経ち、当時の教授は退官しました。そして、その1年後に准教授は別の大学で教授となりました。
困ったのは学科に残った人たちです。とある研究室の教授も准教授もいなくなったのちに、その研究室の公募をして新たな教授と准教授を採用する必要が出ました。これまで東大、京大という順序で採っていたのでそれに倣って、教授を東大から、准教授を京大から採用しました。そのあとはその繰り返しで京大と東大から採用するルールが生まれました。
おそらく外から見ると初代教授の人が東大・京大と交互に採用をしたように見えたのかもしれませんが、単にそのときの公募で最も優秀な人を採用しただけに過ぎないのでした。しかし、いつのまにか暗黙のルールが生まれました。これは学閥ではありませんが、あとから来た人には崩すことは難しい伝統です。そして、この伝統の合理性はありません。私はどのようにすればよいのでしょうか?
https://twitter.com/goeland_argente/status/825881166334996481
Cinq idées reçues sur le “nouveau” Front national
フランス語はそんな上手くないし、フランスの政治には全然詳しくないのでひどい訳です。
どんどん誤りを指摘してください。補足してください。何ならもっといい翻訳をつくってください。
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モンペリエ大学とパリ政治学院の政治科学の助教授であるアレクサンドル・デゼは、『問題になっている「新しい国民前線」』の中で、ステレオタイプに反して、国民戦線については、新しい点よりも昔から変わらない点の方がはるかに重要であることを示した。
2014年の選挙での国民戦線の戦績が良くなったことは否定すべくもない。しかしながら、そのことを過大評価してはならない。アレクサンドル・デゼは次のことを思い出すように促す。地方選挙において、国家的レベルと結びつけて考えるなら、1995年のときのように、票の4.7%しか獲得していない。これらの結果を、2012年の大統領選挙の時の人口10000人以上の都市におけるマリーヌ・ル・ペンの結果と比較してみよう。そうすると、今回の地方選挙の結果は、票数に関してはいくらか劣っているものだと言える。ヨーロッパ選挙に関していえば、かつて聞かれたように、29.4%のフランス人が国民戦線に投票したのではない。棄権を考慮に入れるならば、有権者の10%だけである。
奇妙にも、県の選挙の結果は、彼らの前進を示している。ただ、世論調査での高い予想のせいで、この結果は過小評価されている。国民戦線の候補者は43の県で1位であり、1107の小郡(canton)で、降りずに留まっている。
これらの結果というのは、国民戦線を彼らのスローガン通りの「フランスの第一党」とするには不十分なものである。アレクサンドル・デゼは、国民戦線の存在感というのは、市町村レベルでは副次的なものであり、地域圏(1880人の議員のうち118人、議長は1人もいない)・県(4108人の議員のうち62人、議長は1人もいない)・国会(577人の代議士のうち2人)のいずれのレベルでも甚だ不完全なものである。党員の数について言えば、国民戦線には42000人の活動家がいるが、その数は依然共和党と社会党よりも少ない。
2011年1月にマリーヌ・ルペンが国民戦線の党首に選ばれてから、「脱悪役(dédiabolisation)」という戦略が実行されるようになってから、エリゼ宮(※大統領官邸)への道のりは既に引かれたのだ、という声がしばしば聞かれるようになった。しかし、全くそうではない、とアレクサンドル・デゼは静観している。「この読みはメディアの大多数によって共同でつくられ引き継がれたことによって認められているのだから、政治的なフィクションの領域に属するような話である。」
国民戦線は、国政の責任者に至るまでには、おそろしいほどに枠組みを欠いている。他の党との「融和」を誇示するような最近のいくつかの手がかりのうち、いくつかはあまりに短い間であったし、あるいは、内部で問題視されていた。さらに、権力の扉は国民戦線に対して無情にも閉じられたままであるだろう。選挙制度上の理由で、今まさにそうであるように、国民戦線は政治的に孤立したままでいるだろう。「この孤立は、2回に分けての多数決投票が影響力をもつ政治システムのうちでは、権力への道を妨げる最大の障害物になる。」
国民戦線は他の党と同じような党になったのだろうか? マリーヌ・ル・ペンによってなされた刷新というのは、本当に党の顔を変えてしまったのだろうか? アレクサンドル・デゼによれば、これらの疑問への答えは改めて否定的なものである。マリーヌ・ル・ペンの就任の前と後での国民戦線の戦略、プログラムとその支持者を比較して語るところでは、「マリーヌの国民先生とルペンの国民戦線の間には、新しくなったところよりも十分多くの変わらないところが多い」のである。脱悪役? 国民戦線の歴史は、絶え間なく更新される脱悪役の試みの歴史である。したがって、右派へと国民戦線が差し出す手のうちに、あるいは、立派な風貌を打ちだすことによって新しい支持者を集めているとされている周辺的なさまざまな手段のうちに、新しいものは何もないのである。
プログラムに関していえば、国民戦線は常に自らの基礎に立脚している。反体制的批判、国家の特恵、国家の防衛、欧州連合の拒否、ユーロ圏からの離脱、失業と不安の原因と見なした上での移住の拒否である。反リベラルへの再定位は1992年に遡るが、マリーヌ・ル・ペンの社会的な演説は、連続性を担っている。
リーダーシップに関して言うと、マリーヌ・ル・ペンは、彼女の父親のイメージとの対照によってそのメディア上のイメージが形作られている。「このような対照性が推測されていることは、国民戦線に新しく投票するようになった人が、自らの投票を正当化するために持ち出されるような、最先端の議論になっている」とアレクサンドル・デゼは語る。しかしながら、言説における一連の相同性や、マリーヌ・ル・ペンが自分の父親について反対を示さなかった機会を列挙するこの研究者によれば、マリーヌ・ル・ペンと彼女の父親との差は、思われているよりも微々たるものである。例えば、2014年5月に父ルペンが「エボラ殿下」の介入が「人口爆発」と移民の問題を解決しうると主張した時、あるいは、彼が2015年1月に「私はシャルリーではない。私はCharlie Martel(※イスラム教徒のヨーロッパへの進出をイベリア半島までで食い止めた8世紀フランク王国の王)だ」といったとき。これらはいずれも、議員の免責特権の恩恵を被ることはなかった(「人種的憎悪の扇動」として彼女を追及することは、現在進行系で行われている)
最後に、その組織図に関して、「粛清」という幻影を生み出しながら、党によって過激すぎると判断された特定の諸個人を排除した。しかしながら、アレクサンドル・デゼが述べるところでは、「国民戦線は過激な極右のグループや活動家たちと、緊密な関係を維持している。」コゴラン市(Cogolin)の国民戦線の市長は、GI(Génération identitaire)の共同創設者であるジュリアン・ランゲラ(Julien Langella)を広報担当として2014年に起用した。ボーケール(Beaucaire)の国民戦線の市長は、GIのスポークスマンであるダミアン・リュー(Damien Rieu)を、市の広報部長補佐として任命した。二つの例を挙げれば十分だろう。
あの森博嗣って人。
作家になりたきゃ本を読む暇があればまず書くべき。と言っている。
どうも作者の書籍やその著書自体を読んでおらず、ツイッター(ツイッタ)見てると言葉だけが独り歩き(ウォーカロン?)している状況
あれはつまり「まずやらなくてはならないことをやれ」という森先生の基本ポリシー(ポリシィ)前提に、話が進んでいる。
森は本を読まないんだ!と言っている人居るけれど、森は自分のおすすめ本をあつめて紹介するという本を2冊だったか3冊だったか出している。
本を読むのはめちゃくちゃ遅いけど(しかし人より丁寧に読みこむため、内容を一つも忘れない。そもそも速読否定派なのだ)、めちゃくちゃ読書家(作家になるまでに千冊は軽く超えてたということを読んだ記憶)。まぁ書くのをはじめてから忙しくて減ったような感じではないか。
本を読まないというのは多分「日本語の本を読まない」っていう意味もあって、基本的に読むのは洋書。
森先生は常に「小説は得意じゃない」って言いながら、常に億万長者で自分の山に列車を走らせている。
あと名古屋で最初に同人即売会を始めた人。当時はオリジナルをメインにして、東京に次ぐ勢力だった。
そういうのを踏まえた上で、森論は聞くべきですよ。
母親は太一と同じくオックスフォード大学出身で
太一は母親の話をばかりして話をできる状況ではなかったのでそのまま何も言わずに帰ってしまう。
このように前半では順子にとって頼りのない父親のように描かれるわけだけれども、
後半になるとここからいろんな引き出しを見せて実はすごい父親なんだぜーと言うのがわかるような描写になっている。
マスターキートンを読んだことがある人ならば1番最初に衝撃を受けたと思われるであろう話が3割出てくる
4大文明なんて嘘っぱちです。科学的調査法のなかった100年前ならいざ知らず現在の調査では少なくともこの時期約20の米があったこれが今の考古学の定説ですと。この話最初読んだ時は超びっくりしましたねやっぱりネットで検索とかしてみると確かにそうらしいと。
それで気になって百合子が大使と1番最初にファーストフード店で話していたインドとヨーロッパの部族の関係についても調べてみるとやはりならったのと違うわけですね。それまであまり教科書の話などを開いて疑ったり考えたりとすることがなかったのでこの漫画は読んだときに結構びっくりしました。
多分もっと稼いでるような気がする。
この人の話を聞くと「もしかしたら金持ちの道が開けるんじゃ」と思えてしまう。
この人ほど「天才」を「天才」としてキャラクターに昇華してる人も居ないと思う。
この人は、片手間で書いた小説で15億稼いで、小説より庭園鉄道の製作に励んでいる。
(しかも工学博士を名乗るだけあって、本格的過ぎる。森博嗣 庭園 でググったら初めて見た人はビビるだろう)
それは研究者として10時間ほど研究していたから、本業が小説家じゃ無かったときだ。
しかしこの人のペースはとにかく早い。1時間に6000字を書く。20年で280冊以上出している。
どうやらそのペースで一週間あれば文庫1冊書けるらしい。怖い。
研究職を疎かにしていたようにも見えない。修士中に賞をとり、たくさん論文をかき、それでまた賞もとっている。
別にコネも無いはずなのに30歳で旧帝大助教授(名古屋大学。ノーベル賞だしたとこ)。
学者はお金を貰えないと思い込むが、一応名大准教授なのでそこそこ貰ってたはずだ。
コミケ主催をしてたという異色の経歴もある。意味が分からないよ。
すべてがFになるの原作の問が、名大入試に使われたとかなんとか。そりゃあ本も考えないとついていけない。
もう趣味で小説書いてるらしい……なのに2016年は5本。文庫化合わせると11冊…。
この人の凄いところは、新刊を買うと次に発売する予定タイトルが何作も書かれていることだ…。
そういえば森先生は天才なので、20年前に出した作品やエッセイで言われた架空の未来が、実現してたりする。
「無重力状態で紙飛行機の挙動」を予測し毛利衛が実験し的中とか、NASAの問題解いてるので、その辺書いてもちんぷんかんぷんなのだが、
増田だったり、Twitterだったりも約20年前の森博嗣の予言(予測)のうちだ。
怖い怖い。書かれたのインターネット元年くらいだよ。
だから今更すべてがFになるを映像化しても、逆に新鮮に思えたりするのだ。
http://www.lifehacker.jp/2016/02/160219speed_reading.html
森先生は「小説家という職業」という本で速読を否定していた。大体上記記事に書いてある理由と同じ理由で、だ。
ああ、もう怖い。
この人の予言でそろそろ来そうなのは、出版社が消えることかな。
森先生に「予言凄いですね」って言うと「何でもは知らないよ。知っていることだけ」って言いそうだよね。あれ羽川翼(物語シリーズ@西尾維新)の決め台詞だけど、もともと国枝桃子(S&Mシリーズ)の名言だからね……。
森先生に一つお願いしたいことがある。一回本気で書いてみてくれ。
本気出さないと勝負にならない、とかいう馬鹿なことは言わない。ただ天才の本気を見てみたいだけだ。
でも無理なんだろうな……。
これ以上お金がかかる趣味を見つけない限り、執筆に時間をかけることは無いと言っているし。
「海のない帯広では、頑張ったお造り。箸をつける気にはなりませんが」
http://masadinner.blog.jp/archives/54234
masaとは?
著書(http://www.amazon.co.jp/dp/4902884208)
以下2ch(http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/welfare/1412255868/)より転載
◯「ぼけ」「認知症」「高齢者」「疾病」「醜い」「白髪頭」「老害」 と当時末期がんだった池田省三氏(999年に龍谷大学助教授、2000年より同教授。専門分野は政策科学、地域ケア政策ネットワーク(C2P)研究主幹、社会保障審議会介護給付費分科会委員、「介護の社会化を進める一万人市民委員会2010 平成25年4月23日永眠)を罵倒。 弁護士に乗り込まれるといつもの強気もふっとびあっさり謝罪
◯自分のとこの利用者家族にクレームをつけられこれに憤慨しブログへ本人・家族の許可もとらず掲載。自分の正しさを主張するため不特定多数にウェブアンケートをとる
◯勝手に他人が作成した資料を盗用。本人から講義を受けてもと法令遵守と普段口にしているのにかかわらずぼけてうやむやにする。
◯講演に招かれて主催者が用意してくれたホテルが気に食わない(ダブルじゃなかったり など)とブログで不平不満
◯講演に招かれて懇親会(もちろん本人はお金を払わない)の食事が気に食わないとブログで不平不満
就職面接を受ける際、男性的な魅力がある人物は不利だというのだ。
見た目の良さはすべての成功につながっていると言われていたが、特定の場合においてはそれに反していたのだ。
この研究は、専門誌「組織的行動と意思決定過程研究(in the journal of Organizational Behavior and Human Decision Processes)」に発表されたもの。
■顔がいいだけでライバル視、そしてハジかれる!
研究によれば魅力的な男性は“仕事ができる”と見えてしまい、それゆえに男の雇用者側にとって競争相手と感じられてしまうという。
つまり“コイツが入ってきたら、俺負けちゃうかも”と、イケメンは面接官に勝手に思われてしまうというわけ。
ちなみに女性は逆。魅力的な女性は競争相手とは思われないようで、根深い偏見“ブロンド美人はおバカさん”というのがあるようだ。
同研究の執筆者の一人である、マルコ・ピテサ(Marko Pitesa)助教授によれば
「イケメンはそうでない男性たちよりも競争相手として常に見られてしまうのです」とのことで、
また「男性女性をとわず、イケメンは有能という認識がある」という。
魅力あふれる男たちはルックスの良さによる逆説的な偏見を持たれているということだ。
卒業生の追い出しと新たに配属される4年生の歓迎会で、ボスはこうこぼした。次のM2の進路の話題になった時の話だ。隣のテーブルで話していた研究室のボスと僕の同期が話していた。僕は隣のテーブルの学生達の輪の中にいたが、ちょうど自分にも関係のある話のようにも思われたので、どちらのテーブルからも身を引き、静かに聞き耳を立てていた。
「進路はどうするんだ?」
ボスが聞く。
「ウチかどうかは決めてませんが、進学しようと思います」
友人が答える。彼は研究室の中でも研究に対するセンスがあって、なんとなくこいつは研究に生きていくんだろうな、というような雰囲気もある。
ボスが続ける。
「そうか。それは良かった。研究っていうのはもともと純粋な疑問を突き詰める学問で、もっとやる人が多くてもいいし注目されるべきだと思う。博士取らないのに他の人はなんで修士でやめてしまうんだろうな。」
友人が答える。
「確かにそうですよね。修士でやめるなら行かなきゃいいのに。」
僕が思ったことを書く前に、少しこの研究室について紹介しておこう。うちはいわゆる基礎実験系の研究室で、出来てから日が浅く、純粋培養ドクターはまだいない。他大からは一人いるが。ボスがドクターを取る時には同期が全てD進し、今は全国各地で教授やら助教授やらをやっている。
実験は楽しい。没頭感があり、仮説通りの結果が出れば手放しに嬉しい。ボスが言う純粋な疑問を突き詰めるっていうのにも賛同できる。しかし、これを20,30年こういう環境で続けていく自信は正直、僕にはない。この自分の中の自信のなさを追求していくと、学問を続けるには、衣食住、さらには心の余裕が必要だということに気付いた。よく言われるようなマズローの欲求5段階説が説明するのにわかりやすいと思う。基礎的研究というのはかなり高いところまで満たされなければ追求したいと思えないのではないかと思った。そして、これが(研究にたいして)優秀な友人と僕の違いだろうと思った。
僕はその辺りのマネジメントが上手くないというか、余裕が無い。実験をすると、時間がなくなるのでバイトできない。実験をする。友人とも飲みに行けない。実験をする。心の余裕がなくなる。実験に失敗する。はてな民らしく大脳が壊れる。というようなループにすぐ陥る。それに対して友人は高学歴一家で、親戚に医者や大学教授、大企業役員などがいる。スポーツもやってたらしいし大脳も壊れていないのだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20141219210418#tb
知ってる研究の世界では、上から引き継いだお題をそのままコピペし動詞を受動態とか助動詞変えたりとか加工する人多い。
それに、コピったりパクったりって、医学系の研究者は医師免許持ってない生物系研究者おw低レベルって馬鹿にする。
そして馬鹿にする割には化学・物理・情報系の研究者を遠巻きに見て批判するだけ。
でもあいつらは医師免許ないんだって馬鹿にしながら、理工学系の築き上げたツールを我が物顔のように使いまくる。
なんか、既得権益っていう謎の優越感があるんだよね。医師免許持ってる研究者って。
生物系出身の小保方さんが医学部出身の研究者の中でやっていけるとは、2月の時、最初は目を疑っていた。
だって、医師免許持ってる方から見たら結局は、医学のことわからないしかも私立出のただの生物系の人ってだけ。
生物の人は数理プログラミングにもたけていないし、エントロピーすらわかんねえだろwwwとか馬鹿にした態度で批判されやすいピペット奴隷。
そんなのが医師免許持ってるエリートのとこで論文発表したらドッコイドッコイの下世話な周りが叩いて当たり前なわけ。
それに、理工系の博士課程崩れとか人間関係やピペット奴隷になって、精神病んだたくさんの博士号持ちの人たちは彼女のできすぎたストーリーにもやもやするわけよ。
笹井先生がなくなったとき、うちの研究室ではニヤニヤしてる若手助教授とか面白がってどうなんのかネットにくぎづけだった院生ばかりが団欒していた。
自分はその時、研究でも、研究室内のいじめと人間関係でもうまくいってなくて困っていた時だったので、
彼が亡くなった時・・・いいなあ・・・重荷が取れてって感じたよ。
(笹井先生の抱えてる業績の重さに比べて、俺の重荷なんかksみたいな程度なんだけどね)
結局は、足の引っ張り合いなんだよね。
独自の没頭できる分野で、制限なく集中でき、かつ、自分にとって生きがいと生きていく糧をもてるフィールドがこの日本には本当に少なくてつらい。