はてなキーワード: ももちとは
この努力は僕が Google に来る為に Amazonを離れた2005年半ばも続いていた。でももっとずっと進化していたよ。 Bezos が命令を出してから僕が離れるまでの間に、 Amazon は全てにおいてまず最初にサービスを考える企業へと文化的に変化していった。外部の日の目を決して見ることの無いような、スタッフへの内部的なデザインも含めて、今ではそれがデザインというもの全てに対しての基本的なアプローチになっている。
その時点では、彼らはもはや解雇の恐怖からそうしているわけではなかった。つまり、もちろんビビってはいたけれど、ドレッドヘアの海賊 Bezos 様にご奉仕するのは日常生活の一部だからね。そうじゃなく、彼らはそれが正しいことだと理解したから、サービスを提供しているんだ。確かに SOA のアプローチには長所も短所もあるし、短所を書き出してみたら切りが無い。でも全体として、 SOA ドリブンのデザインというものこそが、プラットフォームを可能にする、これは正しいことだ。
これが、 Bezos が彼の指令書で企んだことだった。彼はチームの健康状態なんて興味もなかったし(今もそうかも)、使われている技術もそうだったし、結局の処のどう取りかかるかなんて結果ができあがるまで気にもしていなかった。けれど Bezos は、 Amazon 社員の大多数が理解する前に、 Amazon はプラットフォームにならなければならないということを悟っていたんだ。
だって考えてもみてよ。なんで一オンライン書店が、拡張可能な、プログラマブルなプラットフォームになる必要がある、なんてことを考える?。そうだろ?
ともかく、 Bezos が気づいた最初の大きなポイントは、本を売り、出荷し、色々とやる仕組みが、素晴らしいコンピューティングプラットフォームに再利用でき得るということだ。だから今、彼らには Amazon Elastic Compute Cloud があるし、 Amazon Elastic MapReduce があるし、 Amazon Relational Database Service があるし、その他たくさんの aws.amazon.com で見つけられるサービスを持っている。しかもこれらのサービスは大成功した企業のバックエンドを努めていたりもする。 reddit なんか僕のお気に入りだね。
もう一つ、彼が理解した大きなポイントは、常にいつでも正しい、そんなものを作ることはできないということだ。これは Larry Tesler が、ママはこのくそったれサイトを全く使えないよと言ってのけたりでもした時に、 Bezos にピンと来るものがあったんだと思う。誰のママのことを言ったのかははっきりしないし、そんなことは問題じゃ無い。問題は、誰のママだろうとそのウンコサイトを使えないってことだ(訳注:アドバイス thx !)。実際、僕自身、そこで5年ほど働いていたわけだけど、あのサイトは胸がザワザワするくらいひどいと思う。でも僕はその気が散るようなサイトに慣れてしまって、トップページのど真ん中あたりの数万ピクセルに集中できるようになったんだからね。
とまあ、実際の処 Bezos がどうやってその理解、一つのプロダクトで、全ての人にとってふさわしいものを作り上げることはできないということに、たどり着いたのかは定かじゃあ無い。でもその方法は問題じゃ無くて、彼は理解してるってことが重要だ。実のところこの現象には正式な名前だってある。そう、それはアクセシビリティと呼ばれるものだ。コンピューティングの世界で最も重要なものだ。
君は思うかも知れないね。「はあ?つまりそれって、目が見えない人や耳が聞こえない人のあれ?あのアクセシビリティ?」ってね。まあ君だけじゃないと思う。とにかく世間には、アクセシビリティってものを正しく理解していない、君みたいな人たちがいっぱいいっぱいいるんだから。ただそこにたどり着いてない人たちがね。だから、アクセシビリティを理解していないのは、目の見えない人や耳の聞こえない人や手足が不自由な人やその他障碍のある人の責任じゃないように、君の責任じゃない。ソフトウェアが(この場合アイデアウェアといった方が正しいかもしれない)何らかの理由で誰かにとってアクセシブルでないというとき、それはソフトウェア自身の、あるいはアイデアの伝え方そのものに責任があるんだ。それがアクセシビリティの失敗というやつなんだ。
人生における重要なその他もろもろと一緒でさ、アクセシビリティには邪悪な双子がついている。小さいときにパパとママの偏った愛情で見捨てられて、今や同じくらいの力を持つまでに育った宿敵って奴がね(もちろんアクセシビリティには宿敵はたくさんいる)。それはセキュリティだ。一体全体こいつらが仲良くやっていること何てあるかい?
でも、僕は主張したい。アクセシビリティは実際の処セキュリティより重要だということを。だって、アクセシビリティを0にダイアルするってことは、何のプロダクトも持たないってことさ。セキュリティを0にダイアルしたって、そこそこのプロダクトを持つことはできるだろう? Playstation Network みたいにさ。
まあつまりですね、僕はみんなが分かってくれないんだったら一冊丸々この話題で本を書くことだってできるよ。分厚くて、僕が働いてた会社のありんことピコピコハンマーのエピソードで一杯の面白いやつをね。でも僕がこの話を公開しなかったら、みんなが目にすることも無いだろう。そろそろまとめに入らなきゃ。
Google がうまくやれていない最後の一つは、プラットフォームだ。僕らはプラットフォームを理解していない。僕らはプラットフォームを自分のものにしていない。みんなの中にできている人はいるだろう。でも、そんな君はマイノリティだ。辛いことだけれど、これはこの6年で僕にはっきりと感じられた。僕は競争相手のプレッシャー、 Microsoft や Amazon や最近じゃ Facebook なんかが、僕らを一斉に目覚めさせて、ユニバーサルにサービスを始めるのを期待したりもした。アドホックな、中途半端なやり方じゃなくて、多かれ少なかれ Amazon がやったようにだ。一度に全てを。マジで。偽りなしに。今その瞬間から最優先事項として扱うというように。
でも、そうはなっていない。10番やら11番めくらいのプライオリティだね。いや15番かも?。知らないけど、とにかく低い。真剣に取り組んでいるチームもいくつかあるけど、多くのチームは考えてもいない。一度もだ。ごく一部の人々がちょっとした規模でやっているだけだ。
多くのチームに、彼らのデータと処理に対してプログラマティックにアクセスできるような、ちょっとしたサービスを提供させるのだって大変だ。彼らのほとんどは、俺達はプロダクトを作っているんだ、って思っているからね。そんでもってそのちょっとしたサービスなんてのはみじめなもんさ。 Amazon の教訓に戻ってリストを見てくれよ。そんで今すぐ使えるサービスを持ってきて見てくれ。僕が知る限りでは、そんなものはない。小ビンってのは便利かもしれないけどさ、そんなの車がいる時だけだろ?(訳注:この人、 Stubby という小瓶のビールと、 stubby という「ちょっとした・不格好な」という形容詞をひっかけてしゃべってます)
プラットフォームが無ければ、プロダクトなんて使い物にならない。いやもっと正確に言うならば、プラットフォームの無いプロダクトは、いずれ同等の機能を持ったプラットフォーム化されたプロダクトに、取って代わられる。
Google+ ってのはまったくまさに、エグゼクティブリーダーシップのとても高いレベルから(やあ Larry 、 Sergey 、 Eric 、 Vic 、やあやあ)枝葉の使いっ走りまで(やあ、君だよ)、全くプラットフォームを理解していないっていう良い例だ。そう、僕らはみんな、全く理解できていない。プラットフォームの黄金律ってのは、自分のドッグフードを食えってことだ。 Google+ プラットフォームってのは惨めなまでに後知恵だ。ローンチ時には一つたりとも API が無かった。そんで最後にチェックしたときには、僕らが提供してたのはわずかばかりのほんのちっぽけな API さ。ローンチの時、あるチームのメンバーが行進してきて僕にそれを説明してくれた。だから僕は訊いたんだ「でさ、これはストーカー用 API?」って。彼女はむすっとして、「ええ」ってだけ言った。いやジョークなんだよ…いや…ジョークじゃ無いんだ…僕らが提供する唯一の API は、誰かのストリームを読み出すだけ…。うーん、僕が間違ってたのか?
Microsoft はこの20年間ドッグフードルールで知られてる。この時代の彼らにとっての文化の一つなのさ。デベロッパにドッグフードを食わせて、僕らだけ人間のご飯を食べようってわけにはいかない。それは単に短期の成功のために長期のプラットフォーム価値を損なう行為だ。プラットフォームってのはまったく長期的な視点が必要なんだよ。
Google+ は脊髄反射の代物さ。 Facebook が成功したのは、彼らがすばらしいプロダクトを作ったからだって言う、まあ実に近視眼的なものの見方の結果として生まれたものだ。でももちろん彼らが成功したのはそんな理由じゃ無い。 Facebook は他の人たちにも何かをさせてあげられる、プロダクトの美しい集合全体を作り上げたから、成功したんだ。だから Facebook はみんなにとってそれぞれ違うものだ。 Mafia Wars に全ての時間を費やす人もいれば、 Farmville で遊ぶ人もいる。何百の、いや何千の、質の高い、暇つぶしができるってわけさ。つまり、みんなのためにふさわしい何かが必ずあるんだよ。
僕らの Google+ チームは、プロダクトを出した後のマーケットを見てこう思った。「おっとっと、我々もいくつかゲームが必要みたいだな。さっそくどこかと契約して、我々のために作ってもらおう」。これが信じられないくらい間違った考え方だってことが、君にもわかってきたかい?。問題なのは、僕らが、人々がほしい物を予測して、それを提供しようとしているということだ。
そんなことは出来ないんだよ。現実的にはね。確実にやる方法なんてない。もちろんコンピューティングの歴史全体を見渡せば、それを確実に信頼性を持ってできる人間ってのがごく数人いることにはいる。 Steve Jobs がそうだろう。でも、僕らの処には Steve Jobs はいない。悪いけど、いないんだよ。
Larry Tesler は、 Bezos が Steve Jobs じゃないってことを口説いたかもしれない。でも Bezos には分かっていた。全ての人にふさわしいプロダクトを提供する為に、彼が Steve Jobs になる必要はないっていうことを。インターフェースとワークフローこそが、人々が気に入り、安心感を得るものなんだっていうことを。彼はサードパーティの開発者にそれを可能にするだけで良かった。そうすれば、後の事は自動で進んでいく。
僕の言っていることが、あまりにも明白なことだろって感じているみんな(多かったらいいな)には申し訳ない。とにかくもうびっくりするほど自明なことなんだ。ただ、僕らがそれをやってないってことを除いてはね。僕らはプラットフォームを理解していない。プラットフォームを持っていない。アクセシビリティを理解していない。アクセシビリティを持っていない。これらは基本的には同じことだ。なぜならプラットフォームがアクセシビリティを解決するからだ。プラットフォームがアクセシビリティなんだよ。
※散文、乱文、オチ無し、主張なし、まとめなし
※なんか客宛に書いてるみたいな感じだけど、よくよく考えてみると、
どちらかというと客じゃないしなんも考えてもない第三者に「誇りを持って云々」て言われるのに一番ムカついてるっぽい
明らかに見下してるっていうか蔑んでる客にももちろんイラつくけども、
「○ちゃん女神だわ」とか「誇り持つべきだよ~」みたいに言ってくるジジイにイラつく。
ネットでも、風俗嬢や水商売の女がまとめブログのコメント欄で叩かれてたり、
フェミの人たちが「搾取されてる」みたいなことを言ったときに、
『いや、彼女たちは誇りを持ってやっているんだ、馬鹿にするな』みたいに言う人がいるけど、
なんかそっちのフォローしてくれてる方にモヤーっときちゃうんですわ。
その言葉によって隠れちゃう悲惨な現実もあるのに。いや、むしろ隠したいのかもしれんが。
肉便器とか生きてる価値なしとか言われるとマジで怒りに震えるし、
フェミの人に搾取云々て言われる時も、その奴隷扱いにムカついたりする。
フェミの人のそういう発言にムカつきそうになるとき、
で、なんでかっていうと、
ホントはこの仕事をやりたくないけどやらざるを得ないからやってる人はいっぱいいるんですわ。
こんな話すると『ネタだろ、今は女子大生やOLがお気楽にアルバイト感覚でやってるんだろ』、
とか思ってしまうオジサン方もおられるかもしれないけど、
実際、親の借金で、とか、学費や生活費が必要だけど時間と金のこと考えるとこれしかない(意外と下の兄弟の学費のためとかも多い)、とか、
もちろん自分の借金のためって人もいるし、明らかに頭が弱くて(知的障害一歩手前?)これ以外に仕事が無い、とか、
一見普通だけど会話しようとしてもなんか成立しなくて(発達障害系かな)こりゃ一般的な職場では働けないだろうなという人とか、
シングルマザーの人とか、会社クビになって働き口がない人とか、精神病んでいて毎日会社に行くのが不可能とか、、、
そういう人がかなりいるんですよ。
なぜかって言うと、やっぱり、開き直ろうとか堂々としようとか思っても、
ずーっと刷り込まれてきた常識(風俗嬢は汚い存在、的な)はやっぱり拭えなくて、
自分の人気が金に直結するシビアな仕事だからストレスも貯まるしで、
摂食障害を患っている人や自傷行為をする子もかなりいるんですわ。
あとはもともと病んでる人も多い。
だいたい、罰金制度みたいな違法な制度が普通に横行してるのは、
やっぱ、従業員が辞めたくても『辞められない』って現状をわかってるからであって、
そういうのを搾取と言うんかな、と思ったり。
こういう仕事をするしかないくらいに追い詰められている状況で、
お気楽に稼げるとか自分で選んだ仕事なんだから誇りを持てとか……。
うーん、という感じですわ。
だから客に「○ちゃんはプロ意識あっていいなぁ、女神だよ、それに比べてうちのOLは…」
みたいなこと言われたり、
ネットで知らないオジサンに「彼女たちは誇りを持ってやってるんだ!馬鹿にするな!」
みたいにフォローされたりすると、
「は?何が女神だよ誇りだよクソが。こっちはしかたなくやってんだよ。
大量に食ったものを嘔吐し、手首を切り裂き、不眠で眠剤飲みながら、
それでも金のためにしかたなくやってんだよ。お前の会社のOLになれるならなりたいわクソが。
誇りもクソもねーわ。
自分が気分よくちんこ勃たせるために現実を見たくないのはわかるが、それが現実じゃクソが」
って言いたくなってしまうんですよ。
結局、お前が気分よくちんこ勃たせるためだけだろ、って思っちゃうんすわ。
「風俗嬢が何言ってんの。そういう仕事はコソコソ隠れてやるもんだろ」ってなるわけで。
『プロ意識(笑)を持ち、悲惨な裏事情を微塵も感じさせず笑顔で接客。しかし堂々とできる身分ではないのでそこはわきまえる』
っていうのがオジサンたちの理想なんかもしれん。
風俗嬢に対する評価っていつも、「賛美」か「蔑み」しかなくてすげー極端。
だからと言って「風俗嬢は可哀想な人達!」みたいに一刀両断されてもムカつくんですわ。
もちろん、この仕事がしたかった、そしてこの仕事に誇りを持っている、っていう人もいますし。
わたしはアルバイト感覚で始めたけど今は一応プロ意識(笑)みたいの持ってやってるし。
普通の仕事に対しては、可哀想だと思ったり、蔑んだり、変に神格化したり、っていうのはあんまり起きないから、
いちいちそれで「死ね肉便器」って言われたり、
そうかと思えば「誇り持ってやってる女神」なんて扱い受けたりしなかったし。
辛いことも楽しいことも誇りもあったりイヤなこともあったりする普通の仕事とは違うんだよな。
自分は高額アルバイトという感覚で始めてあまり苦しんだ記憶もないので、
そういうオジサンの言葉でイラついたりしなくてもいいんだろうけど、
悲惨な同僚の姿なんかを見ると、モヤっとせずにはいられないんですわ。
理解者のふりして女神とかなんたら言ってるけどな、お前が抱いてるのはこういう子なんだ、血反吐吐いてでも頑張ってやってる子なんだ目ん玉ひん剥いて見やがれ、みたいな。
そういう、誇りたくても誇れない、みたいな状況があるわけですよ。
誇りたいけど、そういう同僚の姿を見ると、やっぱりこれは弱者に対する搾取的なものに見えるし。
自分が一生懸命やってる仕事が「搾取されてるだけ」とか思いたくないし、かといって社畜の大将みたいにもなりたくないし。
「これはこうこうこういう貧しい学生が1日中苦しみながら、バナナを熱湯に漬ける仕事をして作ったんだ…」
とかは考えない。
だから、風俗嬢の裏事情まで全部背負えとかいうのはおかしいのかもしれないし、
むしろその人の個人的な問題まで考えろってことになると、
風俗嬢ってやっぱサービスだけを売る仕事じゃなくて、まるっと自分を売ってる仕事っていうことになるんかな、
そうだとしたらなんか違うし、自分はサービスだけを売ってるつもりだし、
なんていうか、スーパーのレジ打ちみたいに、ただレジを打ってお釣り渡す仕事みたいに、
ただ単純にサービスを売ってる、って感じで風俗できないかな、っていっつも考えるけど、
でもやっぱそういうオジサンの言葉にいらついたりするってことは、
やっぱ、サービスだけって考えれてない、ってことなのかな、と思ったり、
http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000821.html
「地方公務員とか出先機関の国家公務員の皆さんというのは正直あまり他に能力・技能を生かせる場所がないかもしれず、多少待遇を切り下げたって辞めないよと言われたらそうかもと思う」と言いつつ、「警察官を警戒しないといけないような社会ってものが特に社会的弱者にとってどれだけ過酷か」と言うのは説得力がないように思う。警官はほとんど地方公務員なんだから、多少待遇を切り下げたってやめないというのを認めるなら、たいして低下しないから費用対効果考えたら気にする必要ないんじゃないの?キャリア官僚の質低下を警官の質悪化という話にすり替えてるだけじゃないの?ってなるだろうに。しかもその後で優秀な人材をウォール街に集めたから彼らが富を独占して一般庶民が貧困化したかのように書いてるのでますます支離滅裂。民間に行って私利私欲のため世界中に迷惑をかけるような優秀かつ邪悪な連中に警官やらキャリア官僚として権力を握らせることに警戒心を持たないなんて幸せな人だなと思う。そもそも大統領が替わるたびに官僚上層部も入れ替えて金融業も含め民間からくるのに、優秀な人材が官界ではなく民間にいたから金融危機が起こったかのように言うのも事実認識としてどうかと思うが。それにアメリカよりはるかに大きな政府のEUが今まさに財政危機で世界中に迷惑をかけようとしてることについては「優秀な人材が官界にいったから」ってことにはならないのはダブルスタンダードじゃないのか?仮に民間に行く方が悪さをしやすいなら、待遇下げたら代わりに警官になるであろう人が今民間にいることは問題ないの?とも問い詰めたくなる。官民関係なく無能はそもそも働くなという話かもしれんが、それを言い出すと能力向上のための職業教育とか無駄だからやめろとなって長期的にどうなの?と思う。
この前の移動が直前だから公務員住宅が必要(じゃあもっと前に言えよとしか思えない)とか公務員擁護するにしてももちょっとましなこと書きゃいいのに。別に公務員人件費減らせとか普段はおもわないがこういうの見たら、さっさとけずっちまえよと思う。
ふるさとが濁った水で浸しになっている。
夜、曇天、何か目的があったらしい僕は、その流れに身を任せたり、たまに抗ったりして、母校へ向かう。
その母校は小学校だった。しかし、中で待ち受けていたのは中学校時代の音楽教師だった。
3年生の時に僕の部活の顧問となった当時25歳のその若い女性は、僕が引退するかしないかというところで妊娠が発覚し、僕らの年代が引退するに併せて産休に入った。
卒業してから顔を合わせたことのないその女性は変わらぬ姿でそこにいて、僕と再開した。
ここでわかったことなのだが、どうやらこの水浸し、僕と100人ほどの学生のしわざだということで、反省文を書かされることとなった。
そして通された部屋が近所のマクドナルドの二階席。そこで僕らは談笑しながら反省文を綴った。
ちらほら帰る人も出てきたあたりで僕も仕上がり、反省文も受理されて帰宅の運びとなった。
外を出れば未だに急流は衰えず、その流れに身を任せて自宅へと戻った。
なんと、僕が反省文も書いている間に黙って一家揃って引っ越したという。待ってるから早くおいで、と、電車で一本で着くから、駅の近くだから、との文面。
どこだかわからない。とりあえず自宅(小学校時に借りていたアパート)に向かう。
そこももちろん水浸しだが、家は原型をとどめていた。宛もない旅が始まる。
==ここで一度目を覚ます。暑くて穿いだタオルケットがテーブルにまで届き、コップが床に転がった音で目が覚めた記憶はある。しかし、治す気もせず、また眠る。目が覚めたのはここではないかもしれない==
場所はどこともわからない部屋の一室。水浸しどころではなく、潜らないといけないところもある。なぜいるのかはわからない。ところどころでアメリカ人とすれ違う。
「オー、ニホンジンtie’ヘンネー。ミズbeatAシノヘヤデ Sayカツnounテ デキマセ’ーン」とアメリカ人は言い、黒のパジェロJr.に乗っていずこへと去りゆく。
それを幾人か見届けた後、僕も部屋を出、家族を探しに歩く。
隣町の離れた森、小学校のとき、クワガタを捕りによく父と車で通った道を歩く。木を蹴るだけで、ミヤマクワガタがごっそり取れた、森。
そこに、駅があった。正確には、森は現実にあるが、駅は夢のなかだけ、そこにあった。駅名は覚えていない。
中は、山手線に走っている車両と同型だと記憶している。見た目はとても清潔で、人は4,5人ほどしか乗車していない。とても空いている。
そこの、緑のシートの座席に腰掛ける。このとき、僕はまだ全身水浸しだ。床もシートも濡れる。
途中下車をする。というより、手がかりもないので、ひと駅ひと駅虱潰しに当たるほかない。
確か、この駅に降りたとき、誰か女性と一緒にいた気がする。しかし、外に出たときは、僕一人だったはずだ。
駅の外に出るまでは、改札を抜けてからもうひとつ噛ませてあって、レストランやら、蕎麦屋やら並ぶ通りを抜けなければならなかった。
ここで、確か昼ごはんを食べようとするが、結局やめたのだった。
ちなみにこの駅、この町は見覚えがない。
外に出ると、森にあった駅の隣なのに、人が集まっていた。道路も整備され、郵便局も駅前にあり、商店街があり、生鮮市場もあった。
その風貌はいわゆる都心とは違い、たとえば温泉街のようなところだったり、たとえば小さい町の駅周辺だったり、そんな感じだ。たしかヤマザキショップもあった気がする。
そこの駅名は、よく思い出せないし、夢のなかで見た時も初めて見たとか、この世ではないどこかのような印象を持ったことは、覚えている。
名前は、人偏に鬼のような漢字と、『離』という字とも『雑』という字とも取れるようなものを、もう少し難しくしたような漢字の、二字で表記されていたはずだ。
そこのマーケットに足を運んで、いろいろ物色していたのだけど、食べ物が面白い。
全部現実のものより食材だけが大きくて、背負ったり両手で持たないと運べないようなものばかりだった。
面白いのだけど、仕入れてる人が持ってきた手羽先のから揚げが、持ち運ぶときに何度も地面を擦ってるのを見てしまい、がっかりしてマーケットを出た。
そして駅に戻り、電車に乗る。いくつもの駅を通り過ぎ、気が付けば300km以上は進んでいたのではないか。
このメールは、目を覚まして数時間経った今でもはっきりと思い出せる。
こんな内容だ。
僕ははっきりおかしいと思った。ここには電車一本では付かないからだ。
そこで僕は以前の森の中にあった駅で降りて、歩くことにした。
歩いて、歩いて、報徳の駅にたどり着いた。
ここも寂れており、ちょうど富士急行に乗り継ぐあたりのような駅の風貌だ。
これもまた、はっきりと覚えている。僕はここで何かに絶望したのだ。絶望しながらも、満足したのだ。あとのことは覚えていない。
目を覚ます。
時刻は8時40分を過ぎようかというところだ。
WEBサイトを所有し、サイトを何らかのカタチで活用しながらビジネスを営んでいる人にとって、SEOは必要不可欠な時代となっています。SEOという言葉は以前に比べてかなり普及してきておりますが、「SEO=ビジネス拡大・売上拡大」という認識はまだまだ広く根付いているのではないかと思います。もちろん、ビジネスの拡大にSEOは必要なのですが、SEOさえやっていればWEBサイトの売上は上がるんだろう、という誤った認識をしている人が多く存在します。
突然ですが、【1:5の法則】という言葉を聞いたことがありますでしょうか?マーケティングを勉強した人であれば必ずといっていいほど聞いたことがあると思われるほど、基本的なマーケティングの法則なのです。
1:5の法則…新規顧客に販売するコストは既存顧客に販売するコストの5倍かかる、というマーケティングの法則。
分かりやすくいうと、同じ商品を購入する顧客がいた場合、新規顧客は既存顧客に比べて、販売に関するコストが高くなり、結果として利益率が低くなる、ということでしょうか。ビジネスを拡大していくためには、新規顧客を獲得することももちろん大切です。しかし、それよりも既存顧客の満足度をどのようにして高めていくのか、ということをおろそかにしてはならないのです。
このブログを読んで下さっている方は、少なくともSEOに携わっている人であり、WEBサイトに関する業務を行っている方が多くいらっしゃると思うのですが、では、果たしてWEBサイトにおける「新規顧客」「既存顧客」をどのように捉えればよいと思いますか?
単語をそのまま汲み取ると、一度でも自社サイトで商品やサービスを購入してくださったお客様が既存顧客、となるかと思いますが、私は下記のように理解をしています。
新規顧客・・・今後自社サイトにアクセスをしてきてくださるユーザー
ちょっとわかりにくいかもしれませんが、「アクセス解析で計測できるユーザー」のことを既存顧客と私は称しています。新規顧客は「未来訪問予定ユーザー」と捉え、あくまでも今後サイトに来訪してくるだろうユーザーと認識しています。
SEOやPPCという手法を用いて、「未来訪問予定ユーザー」をどのようにして増やそうか、ということに力を注ぐことはもちろん大切です。しかし、それ以前に、「アクセス解析で計測できるユーザー」が自社サイトにどれだけ満足したのかを検証し、アクセスしたあとの訪問者の満足度を高めていかないと、いつまで経っても売上が上がることはないと思います。
例えば、30ページあるサイトで、1訪問あたりのページビューが2にも満たないWEBサイトに、SEOやPPCでアクセスを集中させたとして、売上が上がると思いますか?このようなサイトの場合、平均ページビューが4~5ページまで増やすための施策を行ったほうが、SEOやPPCよりもはるかに低コストでコンバージョンを増やすことが可能ではないかと私は考えます。
どのようにしてコンバージョンに繋がるサイトにするのか、その為にはユーザーの導線がしっかりしているかを検証したり、デザインを見直したり、文字の大きさや適度な画像配置など、それこそ多岐に渡った分析や修正が必要です。このあたりの分析は、SEOだけを学んでいる人には難しいことかもしれません(もちろんSEO専門の人でもこのあたりの分析が得意な方もいらっしゃいます)。
SEOはあくまでも新規顧客を増やす1つの手法にすぎません。SEOで新規顧客を獲得することに偏らず、既存顧客の満足度を高める施策を行うことの重要性を認識していただければと思います。
イギリス人やオーストラリア人と話していると、英語ももちろん口語において基本の文法をムチャクチャとびこえることがあるのも分かる。
(というか仕事で一番彼らのアクセントやジョーク、変な言い回しに困る)
繰り返しになるけど、一般的に僕は何もいえないけど、自分の経験を振り返るなら、国語の先生が目指していたのは『教科書に書いてあることを、教科書に書いてある仕方で、使えるように、理解させ、訓練させる』という点では同じような感じであったかもしれない。
言語は他者に向かう運動だから(エクリチュールとしても)、『何を伝えたいか分かるように表現する』ということを第一義には掲げてほしいよね。
いったいどうなっているのか
いったい、どうなっているのでしょう。
とても理解できません。
10年ほど社会部にいたので随分事件取材もやらされました。
その後もそんな事件ばかり取材しました。
その点では、大変わかりやすいのです。
ビデオテープで埋まった宮崎勤の部屋の映像を覚えている方も多いと思います。
実は、事件後あの部屋に初めて入ったのは私です。
なんと、まだ警察官も来ていなくて、
3-4人の他社の記者が彼の両親を取り囲んで話していました。
そのうち、だれかが彼の部屋を見せてほしい、と言ったところ、
彼の父親はどうぞ、どうぞ。
母屋から彼の部屋には幅30センチほどの板が通路代わりに渡されていました。
幅が狭いので一人ずつ渡ることになり、
で、私が一番になった、というわけです。
部屋に一歩入ったときのことは忘れられません。
窓がなくて薄暗く、
そんな部屋は見たことありません。
まさに「理解不能」でした。
おそらく、あの部屋の映像を覚えておられる方は、
あのビデオはみんな、アダルトとか盗撮とかロリータとかそんな類のものだと思っているのではないでしょうか。
実は違うのです。
その中に、おぞましい映像が入ったビデオも含まれていたのですが、
少なくともそれはごく一部だったのです。
については理由があります。
部屋の隅には、数十冊の雑誌の山がありました。
その中に「若奥様の生下着」という漫画が1冊ありました。
それで、あの雑誌の山が全部、さらにビデオもほとんどがそういう類のものだという、
ま、犯した犯罪からすれば、そのくらいは誤解されても仕方がないかもしれませんが、
そんなことを思い出しました。
これを思い出した。すぐ消されたけどな
2011 9/8 失敗したものと部屋の選び方を追加しました
2012 9/29 わあ!また上がってるぜってことで、またちょっと追加です。
見た目の良さは度外視している。
本当にずぼらでめんどくさがり(しかも貧乏)だが、できるだけ清潔に便利に(そしてできれば健康に)暮らしたいという人向け。
そんなの今更目新しくねーよってことばかりだけど一応。
俺は、めんどくさがり屋だが、それ以上にパンクしやすい人間だ。
ゴミ、未実行の工程(畳む、拭く、しまう)などが貯まると、パンク、というかショートして何もできなくなり、どんどん散らかり汚くなっていく。
だからできるだけ、工程を減らしつつ、ひとつひとつの工程のハードルを低くしつつ、散らかりにくくすっきりした暮らし方を目指している。
■オサレじゃなくていいが、すっきりと清潔にしたい
■できるだけ自炊したい(俺は人工甘味料で腹を壊しやすい体質だし、カップラや弁当を食い過ぎるとニキビができるからな)
おれがとりあえず言いたいこと
■整理整頓ができていないと、掃除はできません
■食事は【体に良い物を取り入れる】よりも、まず【体に悪いものを取り除く】方が簡単で効果的
■↓意外ににめんどくさくないこと
金のある人はもちろん外食やなんかでもいいんだが、俺は如何せん金がない。
メンドクサイ→外食、ってできればいいんだが、それができない。
メンドクサイ→でも金無い→カップラーメンとか安い弁当→体調壊す、ってなっちゃうんで、
体に良い(マシ)なものを、いかにインスタント食品のように簡単に(できれば美味しく)食すか、という風に工夫している。
ご飯やスープを冷凍していれば、カップラーメンをたべるのと同じくらいの時間で、腹を満たすことができる。
■↓失敗した!!
■↓これから引っ越したり、新生活をはじめるやつに言いたいこと
■↓ミニ知恵
続ける秘訣は在庫を切らさないこと、つまりはまとめ買い、かもしれない。
アルコールティッシュなんかも、
なくなる→詰め替えがない→買い忘れる→また買い忘れる→なんとなくヤル気失せる、
ってなっちゃうんで、クイックルワイパーとか、アルコールティッシュなんかは買いだめが良いです。
■追記(11/08/29)
もちろん何もかも習慣化してシステマチックに動くのが一番良いかもしれない。でもなかなかできない、ずぼらだから。でもできるだけ頑張ります。
服も何度もたたもうとしたんだが、
最初は調子よく畳む→忙しくなったりで畳めてない洗濯物がたまる→パンクする、ということの繰り返しになってしまう。
確かに俺はずぼらに見えないかもしれない。
でも俺はハウスダストアレルギーと弱い腹の持ち主なので、ある程度きれいにしておかないと、鼻水下痢お化けになってしまうのだよ。
その条件下でいかにサボるか、という風に生活していたら、こういう感じに落ち着いた。
実際俺は、一人暮らしを始めて2年くらいまでは、半年に1度くらい必要に迫られて大掃除をするだけ、六畳間が一杯になるほどゴミを貯め、食料を腐らせ、食器をカビさせ、洗い物のたまったシンクから腐敗臭をさせ、あらゆる粉類をこぼしまくり、出したものは出しっぱなし、服は床に山のようにぐちゃぐちゃに…という生活をしていたのさ。もちろん友達なんか呼べねぇ。生活の質も著しく悪い。台所がちらかって料理できないから、出来合いのものばかり食って腹を壊し、大事なモノもすぐなくす。毎日ホコリやカビのせいでかゆいし鼻水だらだら出るし。
これはそういう事態を改善するための最低限の習慣なんだよ。
そしてこれは、そんな俺にできる精一杯のことだ。はっきりいってこれ以上やることを増やすと、パンクして元の状態に戻ってしまうだろう。
■蛇足(11/08/30)
まあ、ずぼらに思えないわな。真のずぼらのみなさん申し訳ない。
なんというか、別にホコリで痒くなったりしないし、腹も壊さないし、ニキビもできないし、ものをなくしたりしない人ならば、
掃除とか整理整頓とかしなくていいんじゃねーですかね。こういうのは必要に迫られてる人だけすれば良いというか。
俺も数年前までは、自分はそういうことが必要のない人種だと思っていたし。
でも、あまりにも常に鼻をずーずーやっていて目が充血、ひどい時には喉がピーピーなりだすので、
こりゃなんだろうと病院へ行ったら、ひどいハウスダスト(その他あらゆる花粉)のアレルギーだったことが判明したのですよ。
「よくこれまで我慢できたねwww」と医者に笑われるレベル。
それで、抗ヒスタミン剤なんかを飲んでやりすごそうとするんだけども、眠くなったり、ホコリとかダニが多すぎて薬が効かなかったりやらで、
こりゃいかん、と少しはがんばろう、と思ったわけですわ。
それに、脂漏性皮膚炎という皮膚の病気と、脂っぽいものと甘いものですぐにニキビだらけになる顔の持ち主なんで、
ところが、小さい頃から母に、
「出したものはしまいなさい!」「服を脱いだら洗濯機に入れるか畳みなさい!」「蓋を開けたらしめなさい!」「ものをこぼしたら拭きなさい!」「部屋を片付けなさい!」を、
家を出るまで言われ続け、1度もできたことのなかった俺なので、本当にできないんですよ。
「ふっ。本当のライフハッカーにゃ特別な道具なんていらねー。砂糖の袋なんか洗濯バサミでとめときゃいいんだよ」
とか思ってやってみるんですけど、その一手間「洗濯ばさみで袋を閉じる」ということが出来ず、開けたまま放置、湿気て塊だらけにした挙句、こぼす。
野菜食おうと思って野菜炒めとかつくるけど、思ったより野菜食えない割に手間かかるし美味しく作れないし、ですぐにやめる。
そんなかんじで試行錯誤してるうちに、いきついたような感じです。
絵を描きたいと思ったとき、動機は何でもいい。
すばらしい絵を見て感動したとか、いつも抜いてるロリコン漫画みたいなのを描きたいとか、どんな高尚なものでも低俗なものでも良い。
とにかく理由があるなら、絵を描くのをためらわないことが大事だと思う。
はじめるのに必要なのは鉛筆と紙だけ。こんなに安上がりな趣味もない。
絵を描くことをためらってしまう人は結構多い。特に20代も過ぎて、オタク趣味が高じて絵描きに興味を持ったみたいな人に多いと思う。
今までずっと消費する側で、自分は作る側になれるんだろうか。小さい頃から描いてるわけじゃないから、もう遅いのではないか。
はっきり言うと、気持ち次第なので手遅れだとも言えるしそうでないともいえる。
なぜ子供の頃から描くと絵が上手になれるのかと言えば、子供には絵に対する偏見や抵抗が何もないからだ。
大人のように「いい年こいて幼児レベルの絵しか描けない自分が恥ずかしい」なんて思わない。
この気持ちさえ持てればいつから始めても絵はうまくなる。
焦ってしまう人は多い。
特に、絵を描く段階で何が描きたいのか決まっている人などがそうだ。
「可愛いロリ絵を描きたい」などと明確にビジョンがある場合、能力が追いついてないのに焦ってしまう。
そうすると、だんだん精神が圧迫されていき、「絵は描きたくないけどロリ絵は描きたい」という非常に複雑で矛盾した状態に陥る。
こうなってしまうと、絵を描くことが苦痛になり、理想とは程遠い現実に絶望することで「才能がない」という無意味な思い込みを抱き、
やがて心に深い傷を残したまま絵を描くという行為をやめることになる。
この状態から抜け出すのに重要なのは、「子供のように」絵を描くことを楽しむということだ。
絵を描くことは実に楽しい。自分が見たものを、そっくりそのまま平面に再現出来る。まる、しかく、さんかく、そういった図形を丁寧に描いて見たり、
簡単な立体を観察してみたり、あるいは音楽を聴いたりリラックスするのも良いだろう。
絵を描く時、とても大切になるのは「落ち着いた心」と「絵を描くのが楽しいと感じる心」だ。
ここで紹介するのは、絵を描いているのに絵を描く以外のことばかりしてしまっている人々だ。
彼らは絵が上達する見込みが低いか、全く上達しない。なぜなのか。
お絵かき講座をしている中で、特に絵がたいしてうまくないのに講座をやっている人はこのタイプだ。
なぜ彼らは絵が下手なのにお絵かき講座などということをしているのだろうか?疑問に思う人も多いことだろう。
おそらくだが、彼らは手をつかって絵を描くよりも「ノウハウ」をひたすら探し続けた人々なんだと思う。
つまり、誰かに絵を描く技術を教えられるくらい知識だけは身についたが、絵の練習はしなかった。
こういったタイプは、確実に「自分には才能がない」と思い込んでいる。思い込んでいるので手っ取り早く絵が上達するテクニックを探すが、探しているうちに絵を描く気力がなくなってしまったのだ。
稀なタイプだが、絵がうまくないにも関わらず自分のサイトをグーグルなどを利用して宣伝している人がいる。
宣伝にかかる費用は自らが出さなければならないのに、なぜそこまでして自分の絵を宣伝したいのか。
このタイプの人々はつまるところ絵を描きたいのではなく「絵がうまくてちやほやされている人」が羨ましくて彼らのようになりたいのである。
これは何も絵に限ったことではない。彼らはたまたま絵を選択しただけで、一般化すれば「才能に恵まれて人々に注目される」ことをあまりにも強く望みすぎている。
注目される人というのは別に注目されたくてそれらを続けているわけではない。(ただし、お金が絡んでいる人の中には、注目されるために何かをしている人もいる)
そのことに気づくまで、彼らは宣伝費をどぶに捨てながらサイトカウンタを気にする無駄な日々を送ることになる。
絵が上手くなりたいとき、小手先のテクニックは全くと言っていいほど必要ない。
必要ないというのは多少語弊があるが、つまりはこういうことだ。「テクニックは上達していく過程で発見するもの」
巷に溢れるテクニックというのは、無意識的な上達過程のある一部分だけを切り取って言語化したものであるに過ぎない。
だから、一定程度の真実は含まれているが、それを座学で真面目に勉強したところで、身につくのは左脳的な知識だけだ。無意識で処理できるものを意識的にやると上手くいかないことが多いのは、たとえば無意識で処理されている自転車のこぎ方などを意識的にやってみるとわかると思う。
答えは一つである。
「自然を観察しろ」
人間が絵を描くというのは、「自然を模倣する」一つの形でしかない。
だから、身の回りのものや人、あるいはテレビに映る映像や写真をよく観察し見よう見まねでそれを模写したりなどするだけで、絵は上達する。
自然や写真ではなく、他人の絵を真似たりするのももちろん有効だ。その場合、ある程度まで上達したら彼らの絵から離れる決意が必要になる。
慣れてくれば、様々なイメージがストックされ、自然を観察しなくてもイメージだけで描けるようになる。そこまでいけば、上達したと言うことは出来るだろう。
絵を描くというのはそれほど複雑な行為ではない。ものを見て、それを写し取る。それが目の前にあるものか、心の中で見えるものかの違いはあっても、基本的にはそれだけなのだ。
自然を観察といっても、何を観察するかは人によって異なる。
人それぞれだから別に書かなくてもいいことなのだが、一応アドバイス的なもの。
もし絵を描くのがほとんど初めてな人だったら、まずは単純な自然物から描くのがいい。
単純というのは、「動かない」ということも含まれる。
つまり、描く順番としては植物→動物→人間がいいのではないかと思う。
人体がこの世で最も複雑な自然物であることは疑いなく(だからと言って種として優れているというわけではないけど)、ポーズなども含めればさらに複雑になる。
僕は昨年の10月頃まで2年ともう少しの期間をある女性と付き合っていた。
ある理由から、理由はともかくきっかけはとてもくだらないことだった、が別れる事になった。
当初彼女はまたよりをもどしたいというようなことを言っていた、僕もそれを望んでいた。
その時僕は互いに落ち着く時間が必要だと思っていた。
熱にうなされるのではなく、本当に相手が必要かどうか確かめる時間が必要だと思っていた。実際その時は彼女もそれには同意してくれたようだった。
でも実際はちがった。僕はその期間を経ることで二人の関係がよりよいものになると考えていた。しかしそれは愚かな思い違いだった。
最初のうちは頻繁にあった連絡も頻度が減って行き、いつしかほとんどこなくなった。僕があえてあまり連絡を取らないようにしていたことももちろん影響はあったと思う。そしてよりを戻したいという話ははるか過去の話になり、やがて彼女は僕に苛立ちを感じるようになった。
僕は彼女を見誤った。自分自身も見誤った。彼女は実際のところ、そういう理性的な話よりも安らぎがほしかったのだと思う。
しかし言い出せなかった。なぜならそれは正しかったから。でもそんなものに価値はなかった。よしんばあったにせよたいした価値ではなかった。
そしてそれが理屈よりも優先されることなんて古今東西一度もなかったし、これからもないだろうと思う。
そういうことにいまさら気づいた。あまりにも遅かった。いや本当は知っていた。でも忘れていた。より厳密に言えば、思い出そうとはしなかった。
もはや彼女の気持ちは僕にはない。当然だ。別れてからのおよそ1年ほど僕は彼女に孤独と苦痛しか与えて来なかった。彼女は未来を、幸せをつかむためにすでに踏み出してる。もはや彼女の中で僕は過去の何かだ。それがなんであれ僕の望む未来につながらないことはわかってる。いまどき小説だって、僕の望む奇跡は起こりはしない。
過去にも似たような理由で大切なものを失った。つまり自分の強さの基準で相手を測るということで。その時僕は今度はうまくやると、思った。でも結果はどうだろう。まったくといっていいような愚かな勘違い、自らの傲慢さを味わう結果になった。むしろ過去よりもひどいといっていい。
そしてさらに愚かなことに、そのもろもろのものが彼女に与えている影響のせいで彼女を不幸な未来に追いやったのではないかという考えがどうしても抜けない。ただしなにもしてやれない。そうしたことを考えることすら、愚かであり、もし彼女が聞けばきっと怒り出すだろう。何様のつもりだと。反論のしようもない。
こうしてこんなことを書いていること自体、見苦しいことだというのはわかってる。でもこうでもしない限り気が狂ってしまいそうだった。死んでしまいそうだった。いつかこれを見直したとき笑い飛ばせるときがくるだろうか。今の僕に確信はもてない。
いつだって僕は持ってるものを過小評価する。感謝の気持ちを忘れ傲慢になる。それがこうした結果を招くという事実を何度も味わっているにもかかわらず。いつのまにかその味を忘れてしまうほどに薄く。それは救いなのか呪いなのか。少なくとも今の僕は忘れたがってる。必死に、醜く、すべてがなかったことになれば言いと願ってる。
全員その会社のブログやっててtwitterやっててFace Bookももちろんやってる。
ただ、そのブログとかつぶやき全部がなんか気持ち悪いなーってずっと思ってた。
週末はサーフィン、休みをとったら屋久島トレッキング、ちょっと長く休んで自分を探しにインドネパール。
常に前向き。自分と向き合って向上していこう、仲間は最高。
その会社の人たちのブログ、全員そう。ことあるごとに表彰されては仲間最高、号泣。
彼らがそういう人間じゃないのは昔から知ってたし、会ってもそこまで気持ち悪く無いのにネット上の彼らはそれを演じている気がしてならない。
と、思ってたらその会社の有名社長は社員のブログとかtwitterチェックするのが大好きだそうで。
ネットでの発言て誰が見てるかわからないから当たり障りないことしか書けないのはわかるけど。
http://anond.hatelabo.jp/20110719211848
いい悪い、っていうんじゃない。ただめんどくさそうだなあ、と。
要は自分と感情を共感させ、感覚を共有しなければ友達じゃない、と。この文章からはそれが透けて見える。
私が苦しかったらあなたも苦しくなきゃダメで、あなたが幸せそうだったら私は幸せじゃないからもう付き合えない。
私は今日が誕生日って事でとても楽しみにしてるんだけど、あなたももちろん私と同じ気持ちよね?
オレは友達がどんだけ稼ごうとも偉くなろうとも幸せになろうともそんなのどうでもよろしい。
ただ同じ時間を過ごす時に楽しく過ごせるかどうか。それで十分だけどね。
よく、実年齢とか精神年齢とかって言い方をするけど、
それは、「恋愛年齢」。
恋愛年齢は、
「いかに相手のことを考えて行動できるか」
「いかに恋愛における男女のシナジー効果を最大限に引き出せるか」
あえて相手を傷つけてみる人とかいるじゃない?
わざと嫌がらせのようなワガママを言って相手を試したりとかさ。
そういう人の恋愛年齢は低い、と言えると思うんだ。
逆に、糟糠の妻みたいに、
相手がしんどい時にガッチリ支えてあげられるような人の恋愛年齢は、
高いと言えるよね。
世の中のカップルっていうのは、
この恋愛年齢の差によって、
お付き合いの形態がだいたい決まっているように見えるの。
例えば、
恋愛年齢が極端に高い女性と恋愛年齢が極端に低い男性のカップルは、
傍から見ると彼氏が彼女を振り回しているようにしか見えないんだけど、
実は交際の真の鍵を握っているのは彼女の方だったりする。
どちらかというと彼氏の方が恋愛から受ける恩恵は大きいんだけど、
スパッと見捨てられることもあるから注意……みたいなさ。
こうやって見ていくと、
カップルが抱える様々な問題がだいたい予測できるから面白いんだよね。
例えば、恋愛年齢が高い者同士だと、
「すごく気は合うし大好きなんだけど、
どうも夜の方では盛り上がれなくて」
みたいな老夫婦的悩みが出てきたりとか。
例えば、恋愛年齢が低い者同士だと、
本気で別れようと思うことがしょっちゅうある」
自分自身の関係について振り返ってみる時も、
恋愛年齢はすごく参考になるよ。
もし差があるとしたらそれは何歳くらいの差なのか……
そうやって考えていくと、色々な問題の解決方法や、
関係を長続きさせる秘訣がおのずと見えてくる。
単純にカップルとしてもっと安定したいなら、
たまには恋愛年齢の若さを「演出」してみる上級テクニックもアリかもしれないね。
人の好みは様々だから、
一概には言えないと思うのね。
けどひとつ言えるのは、
相手の恋愛年齢が低すぎると他の色々な部分にまで悪影響が出てくるから、
いわゆる「いい男」「いい女」の恋愛対象にはしてもらいにくいかもしれないってこと。
でももちろん、
恋愛年齢がうんと若い人が好きな「恋愛年齢で言うところのロリコン」みたいな人もいるから、
これもまた一概には言えないだろうけどさ。
基本的には実年齢と同じく、
似たような恋愛年齢の相手とくっつくことが多いんじゃないかと思うよ。
※自分のブログ「青い鳥ブログ(http://ameblo.jp/aoitoriblog/)」にUPした内容なのですが、
はてなユーザーの方々の忌憚ないご意見をお伺いしたいと思って投稿しました。
俺はいつも「スーパーが家庭環境の縮図」だと唱えている。俺みたいな独身が唯一子供と親の実態を感じ取れる場所だからだ。
俺が仕事帰りの18時過ぎにスーパーに行くといつも感じるのが、「子供が野放しにされて暴れ回っている」ことだ。
親は例外なくほぼ100%に近い確率で子供を叱らないのだ。むしろ暴れている事を元気がよいと捉えている節もある。
スーパーの店員ももちろん、そんな子供を注意することは出来ず、ただただうるさい店内で俺は黙々と夕食の買い物を済ますわけだ。
http://anond.hatelabo.jp/20110710190800
一行まとめ:「ゆとりが使えぬと嘆く前にゆとりへ知識継承をしましょう」
人間は段階的にしか発達できない。って断言するほど発達について詳しい訳じゃないが日頃そう感じている。
ある日そのコップから液体があふれるときがその人にとっての成長の1段階だ。
コップは1サイズ大きなものに取り替えられ再び液体を満たしていく作業に戻る。
さてこの液体を満たす作業だが、上記のとおり経験や学習が主なのだが、先人たちの知識の口伝を受けるのも良い方法だ。
稽古ごとで言えば良い師匠も必要だが、ここでは兄弟子的な意味だ。
インターネットで答えをググってくるような方法だけだと、課題に対する複数の解決手法間の善し悪しを探る能力が育たない。あるいは複数の解決手法が存在することに気づかない。
兄弟子であれば、同じような問題に突き当たったときどのように考え、どのように悩み、どのように解決したか教えてもらえる。
解法を得るためのプロセスそのものの学習ができる。これは非常に効率的な学習方法だ。
ただ私の職場ではこの約20年間で全社員の4分の1にあたる100人が減員となった。「兄弟子」たちが大きく減っている。逆に「弟弟子」がプロセスを学習する余裕もなくなっている。
社員の減少には業務の効率化によるものももちろんあるだろうが、効率化により失われたテクノロジーを本当になくしたままでいいのかという思いがある。効率化によって置換された元の知識(あるいは技術・規則・法律の理解等々なんでもいいけどスタートポイントになったもの)を知らずしてこの先の時代にどこに向かって進んでいくのか分からなくなりはしないか?私の勤め先は50年以上続いている企業なので過去の知識の蓄積も馬鹿にできない。あと書類も。
アメリカさんならこんな悩み一切ないんだろうね。
これらの「失われた知識」を一番持っているのは団塊の世代から下10年くらいの人たちか。
この人たちからしっかり技術を継承していかないと企業によっては突然死する。
技術革新ももちろん重要なのだが、継承することもまた大事。継承するのは人間なので人間を育てることもまた大事。
30〜40代はあてにならない。上記の段階的発達理論wになぞらえて言えば、ゆとりの方達をもっとしっかり育てて早くコップの大きさを大きくしてもらいましょう。時間は限られている。
「ゆとり使えねー」というのは、言ってる側の焦りの表れかもしれない。
※おことわり
少し時間ができたので、最近ちょっと考えたことをまとめておこうと思う。
単なるメモでも良かったけれど、次の展開を期待してあえて発信してみる。
ただ、自分の意見への少しの共感が、ごくわずかな人からでも得られたら…
と、どこかで期待しているのも否定しない。
重たいタイトルだが、以下は要するにキャリアについてのまとめ。
自身はすでに就職先の決定など、人生における比較的重要な選択を終え、
どうしても帰納的なキャリアの導き方となるが、そこは了承いただきたい。
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俺は哲学者でも何でもないけれど、自分のキャリアを考えているうちに、
進むべき道を定義するためには、自分の生きる意味なり目的なりを
ある程度はっきりさせておく必要があるのでは、と考えた。
いわゆる、人生の“コンセプト”というやつだ。
それが定まっていると、なんとなくラクだろうな~と思う。
例えば就職活動など、人はどこかの段階で人生における重要な選択を迫られる。
この時、選択したものに対して論理的な説明ができなければならない。
特に大きな問題はないだろうというのが正直なところだ。
それでも論理的な説明を用意しておくべきだと考えるのは、
自分を納得させるためでもある。
自らのキャリアを選択するのに悩む場面が出てくる。
そんな時に、思考の上で帰る場所があれば、と思うのだ。
迷ったら帰る場所であり、それは同時に目的地、ゴールでもある。
一度そこに立ち返って、演繹的な思考を重ねれば正しい選択を導ける。
いや、正確に言うと正しいかどうかは判断できないが、
少なくとも自分を納得させられるだけの論理構成を組み立てることが可能だ。
「キャリア」についての説明が不足していたので少し補足しておく。
途中、いくつかの岐路があってどこに進むか選択しなければならない。
選択を誤ると、目的地まで遠回りすることになったり、
これは普段気づきにくいことだが、
…という話をするとどうしても抽象的になるが、
いずれも、ここで言うキャリアに含まれる。
少し脱線したが、そもそもなぜこういうことを考えるに至ったか…
改めて検討しようと考えたからだ。正しかったのか…というよりは、
間違っていなかったことを証明したかったという方が正確かもしれない。
自分が納得のいくための説明をするためには、
論理構成が正しく組み立っていることが大切だ。
論理的に正しいということはつまり、なぜ?に対して答えられるということ。
しかし、なぜ?を何度か繰り返すと必ず壁にぶつかる。
なぜ、生きるのか―。
千差万別の答えが得られそうだが、
俺の結論を先に言うと“子孫を繁栄させるため”だ。
さらに子や孫、あるいはその世代が
よりよい生活を送られるように、環境を整えようとする。
では、どう生きるか―。
これもまた、十人十色の答えがあるだろう。
俺が導いたそれは“適応的に生きる”ということだった。
そんな変化の多い時代、
子孫を繁栄させることができる。
少し横道に逸れるが、キリンの話を。
遺伝の変異で首の長い種が誕生したのだが、それが環境に適応した。
これまで地面に生える草木をエサとしていた草食動物。
しかし、エサとなる草木にも限りがある。
そこにはエサの取り合い、熾烈な生存競争があった。
キリンはその長い首を生かして、
他の動物が手の(口の?)届かない高い樹木の葉を食べた。
これなら他の種と争うことも無く、エサに不自由することがない。
繰り返しになるがとどのつまり、
文明の進展によって、人は社会と呼ばれる環境を自ら作ったのだ。
すなわち、現代を生きる人にとっての適応とは、
すごく簡単な言葉に置き換えると、
時代の流れにうまく乗る、と言ったところか。
その社会環境への適応のためには、今を分析して未来を予想する必要がある。
…ならないのだが、俺は識者でも学者でもなければただの一般人。
ゆえに、ここからは完全に私見になるためやや省略ぎみに。
また、情報爆発の時代ではITリテラシーの有無が情報格差につながる。
情報取得、選別能力の高さがそのまま社会環境への適応力の高さに。
そんな中では、人としてのコミュニケーション能力が重要。
さて、これまで長ーく書き連ねたけど、
もっと言うと子供や孫、さらにはその世代の人々も、
みんな幸せを実感しながら生きられたら、と。
結果、コンセプトのある生き方なのかな、と。
そこから導いたのが上のような考え。
もっと欲を言えば、自らが適応できる社会環境をつくっていけたらと。
そうするために、自分が出来ることはなんだろう?
これからも考えながら歩んでいこうと思う。
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※おわりに
それなりにやることやってきたのかな?と思う。
そのためには色々なものを見て、たくさんの経験をすることが必要。
1つのことを徹底的に深める人は本当にカッコイイと思うけど、
自分はそれよりも広さを追求しようと思う。