頑張らなくても済んでいる自分自身にもっと自信を持て
頑張らなくてもいいならそれに越したことはない
長い歴史の中で、どれだけの人間が、頑張らなくてもいい人生を望んで、ついぞ叶わず死んでいったか
お前は恵まれているんだよ
ハイキング帰りで元気な老人が目の前に立ってたとしたら、
本来なら若い病人に席を譲ってあげたほうがいいと思う。
でも、老人を立たせてダルそうな若い男を座らせてたら、
まあ、極論を言えばそうなるね。
好きな男にちょっと冷たくされたからって、別の男を引き合いに出して話したり、
目の前で別の男に甘えてみせたりするのはどうかと思いますよ。
そりゃ、相手もあなたのことが好きなら多少は効果あるかもしれないけど、
そうじゃなかったら、ただ女の嫌なところを見せてるだけじゃないですか。
それじゃ余計に嫌われますよ。
俺は別になんとも思わないけどね。
職業に貴賎があると考えるひとと、ないと考えるひとが居るってだけだと思う。
そして、わざわざ『職業に貴賎なし』なんて格言がある時点で貴賎があると考えてる人が多いんじゃないだろうか。
親が老後を失敗した
年金生活まであと10年
ハローワークに通う日々
職なんかない
貯金を食いつぶす生活
ローンが残った家は売るしかない
悲惨な老後が待っている
自分一人で精一杯
親を養う体力なんかないのに
途方に暮れる子供
いつか王子様が現れて、私のトラウマを全部取り払ってくれて幸せになれるなんて物語を、馬鹿にしながらも期待していたけど、期待するだけ無駄なんだなぁ。
追記追記
麻生蓮治くんとか阿良々木暦くんとか高須竜児くんとかさ、いないよなー。
豚じゃだめなんだよ。
だから、親が最大限に望むことをかなえないことにきめたんだよ。
それが有効だとは思えない。それって結局親の柵からは逃れられてないんじゃないか。親がAって言えばBっていう、親がBっていえばAっていう状態。結局は親に支配されている。
そうじゃなくて、親がAと言おうがBと言おうが自分はCだ!って自分を貫く姿勢が大事なのでは?
まぁ理屈が通じる状態じゃないのはわかるけど。
http://anond.hatelabo.jp/20110830123425
http://anond.hatelabo.jp/20110830131314
おふたりともありがとうございます。
仲良くしてくれる友達は少しはいるので、その人を大切にしていきたいと思います。
ただ、そんな仲のいい人でも、それぞれに一番大事に思っている人がいて、
そのことはわかっているし普段は気にしていないのですが、会話の端々からふいにそういう人の存在を感じると、
自分だけが、このままずっとひとりなのではないかと思ってしまって、とても寂しくなってしまうのです。
たとえずっと友達として仲良くしていても、最後には、みな家族と呼べる人のところに行ってしまうんだろうなと。
ひとりでも楽しく生きていこうと思います。
・Android/Logkare.Aはターゲットのデバイスの通話記録、インストールされているアプリケーションのリスト、GPS位置情報、バッテリー残量を監視するスパイウェア…
http://www.mcafee.com/japan/security/virL.asp?v=Android/Logkare.A
悪いのは東電と放射能であって東海テレビのセシウムさんや京都市の送り火拒否を責めるなって言うけれど、その理屈はおかしい。
仮に飲酒運転の車に轢かれて大怪我を負った人がする。それを笑いものにし差別した奴らがいたとして、悪いのは運転手だけであってそいつらは何も悪くないって言うか?
勿論運転手は悪いよ、だけど怪我人を笑った奴らだって悪いに決まっている。
こう、前から歩いてくる人と道をふさぎ合っちゃうっていう…
掲題の件、ないですか?
私は日常茶飯事です。歩いていてもなりますが、特に自転車では顕著です。
自転車通勤なのですが、5割以上はディフェンス合戦している気がする。
毎度毎度あわわ…となり(すみません)と会釈してすれ違う訳です。
すこし前、前方から来た自転車を押した二人組みに相対した際(私は自転車に乗っている状態)
もう一方の相方が「何やってるの!」と大爆笑する出来事もありました。
で、ふと戯れに、
「このディフェンスの傾向はその人の人付き合いの性質を表しているのではないか」
と考えてみました。
まず
・ディフェンスしがち
→これは、人と向かい合った際に自分の方向性をはっきりさせず、
とりあえず相手の出方を見よう、それから自分の出方を決めよう という傾向
これに由来するのではないでしょうか。
さらに私は、どんな人ともディフェンスし合うのです。
たまに、周りの歩行者などお構いなしに、迷いなく真っ直ぐ自転車を走らせる人もいるのですが、
そういう人にもディフェンスしちゃいます。
これは、
・どんな人ともディフェンスしがち
→相手の出方を探ろうとしつつも、探った結果をそんなに考慮しない、できない
自分中心的な傾向
に由来するのではないでしょうか。
なんてこった。
あまり話さない同僚と2人で打ち合わせに行く時には、会話の糸口を必死に考えて浮かばず胃が痛くなる程度に苦手です。
人付き合いが得意な人はあまりディフェンス現象が起こらないとか、ないでしょうか。
この現象はそんなに頻繁に発生するのでしょうか?
ニコニコ、コミケなんぞを見ていて思うに、応援、購入が「一緒に作っている」つまり「創作」に含まれているのではないだろうか。
創作物にあふれかえってる今はすぐにでも何かを作るのをはじめられるのだけれども、完成させられる人は少ない。その上人に見せるだなんて!
といったところで安易な「擬似創作」に流れてるんじゃないかなぁ。
で、商業化するともめるし、後から来た人になんかいろいろ制約があったりなんて珍しくない。それは自分も「製作者」の一人なのだから、という自負からきている面倒くささなんだろう。
じゃぁ俺も便乗してみよう。
基本自炊だけど冷凍ものは味が落ちすぎて食わない&常備菜は勢いで作るけど平日はだらすぎるので食べ損ねる&整理整頓が致命的に下手な俺のずぼら術だ。
刮目してみよ!むしろ何も言わずにタブを閉じるべきかもしれん。
強迫症なところがあって、やらなきゃいけないと思うとできなくなるタイプ(だけど味が悪いものは絶対に食べれないとか、汚いトイレには入れないとか、ごみや洗濯もののにおいがすると発狂するとかそういうこだわりはある)なので主に俺のメモです。すみません。あと料理は好きだな。
これだけ。掃除機かけ忘れ安いのだけ注意だ。
でもなんとなくあいたシャンプーボトルとかが転がってたりする……
あと髪の毛困る
料理しやすいように配置すれば決まったところに戻すので特に散らからないなそういえば
とにかく場所をとらない・作業を毎日の日課してめんどくささを半減させるということを重視しているので道具はあまり買わない。
あと機械動かしている間にほかのことができるとかだとマジで忘れるので、基本的に便利道具は使わない。洗濯機と掃除機と冷蔵庫があれば俺には充分なんだ…それ以上はキャパオーバーだ(つうかやってたこと忘れる
布団乾燥機とか買ったはいいけど埃かぶったまんまになるのは目に見えているので買っていない。
食器洗い器・乾燥機・炊飯器も同様だ。洗濯機だけはないとどうしようもないので持ってるが、一時間待つのが辛い(忘れる)。
「そういえばキミさ、今年が厄年だよね?」
と聞かれた。
「ええまぁそうですが」
と曖昧に答えたのだが、
「厄払い行った?え行ってないの?じゃあしばらくキミは仕事を出せないよ」
と言われた。
確かに体調を崩したり精神的に迷いが出る年頃なのかもしれないが、
そんなことは厄年に限らずいつでも心構えているべきことだ。
厄年だから良くない事が起こるのではなく、厄年だからと仕事を減らされたり
さて、今の私に与えられた選択肢は3つだ。
(1)こんな客先とは付き合わない
最初の選択肢は自分の信念を貫き仕事を失うということである。プライドを取るか
仕事を取るかということだ。
2はその逆である。ある種のゴマスリである。いっそ本当に厄払いに行った方が
潔い気がするが、それこそ神社なり寺に対して失礼な気もする。
ただ、厄払いに行ったことを公言したところで、仕事上のトラブルが起きれば
あいつ厄年だからなぁと言われるのは目に見えている。厄を気にする人間とは
とでも言っておけば許されるだろうし、それが社会における処世術というものだろう。
しかしどこか釈然としないのはちっぽけなプライドを捨てきれないからだろうか。
3は効果的な気がするが、他人が持つ私のプロフィールにクリスチャンと
まったく、公の場で政治と宗教の話は避けるべきだとよく言われるが、厄の話も
しないで欲しいものだ。本当に悩ましい。