2011年09月07日の日記

2011-09-07

福島県で見てきたことを書いておく

福島県観光にいってきた。

でも、今回は一人旅。少し古めの建物を見てきた。

誰かを誘ってというと誘いにくい。自己責任範疇を超えてしまからだ。

太平洋から100km離れている街でさえもマスクをつけた人がたくさんいた。

で、おみやげを買ってきたんだ。おみやげお菓子

別にさ、食べて直ちに害があるとは思えないんだけど、「食べて」とすすめにくい。

この気持ちのもやもや感が、この事故への対処に感じる不信感なんだろう。

県境を越えてかつて水俣病の被害が出た川沿いの町にもいった。水俣病の原因となった工場はかろうじて操業しているように見えた。

この公害が起きて以来、下流の魚は売れなくなってしまった。

当時の資料に目を通すと複雑な気持ちになった。

そのときの被害の広がり方やその被害がどれくらいの年月がかかって風化されたのかを考えるとまだ慎重に行動するしかないのかもしれない。

四大公害病を経て成立した大気汚染水質汚濁に関する法律が役に立っていないのが腹立たしい。

放射線を出さないタイプの汚染物質大気中や水中に出すと罰則で会社が傾く。傾くから抑止がかかる。

放射性物質については別に定めるって、仕事してないじゃん。

法学的なバランス観点からみるとあまりにひどい。

過去の過ちから学習することができないのか。日本が擁するエリートはその程度なのか。ほんとうにくやしい。

そろそろおのれの命と引き換えに国や人を守る人が出てくるのかもしれない。

そんな淡い期待は捨てたほうがいいのか。

今は無力感を文章に吐き出すことしかできない。

http://anond.hatelabo.jp/20110907230151

しかし、参考になるとか書いてる人はなんなんだろうね。

趣味にせよ仕事にせよ基礎中の基礎なんだが、それすらできてないとか

webデザイナー趣味もずいぶんズボラなやつが多いんだな。

Twitterをやっていると「日本語ハッシュタグ鬱陶しいな」とか「インタビュー多すぎ」とか「実況ポスト目障りだな」とか思ったりすることあるんだけど実際のところそれは「あぁその人のことそんなに好きじゃないだけなんだな」で完結する。好きな人が送信する陳腐ポストはいだって愛らしい。”

だそうだ。

とんでもない暴論である

百歩譲ってそうだったとしても、当然だ。

俺はお前のことが好きでフォローしたんじゃなくて

お前の投じた発言の1つか2つが好きでフォローしたんだ。

まあ、Twitterにはこういう「否定的な発言全般を封じ込める・嫌悪したお前が悪いと思わせる綺麗事」がたくさんある。

例えば「TLは自分の鏡」とか「TLは自由に作れるんだから嫌な発言が回ってくるのは自分のせい」とかな。

相手の発言内容や未来の発言までコントロールできるわけ無いんだから

そういう理論は暴論であることはすぐわかるのに、何故か支持されてしまうんだよな。

「「後輩に気を使う先輩」に謝意を感じる後輩」ごっこをあと何年続ければいいんだろう。自分が先輩になるときはそれを行える金も人望も無いが。

WiiUDQ10に対するそれぞれの信者達の反応を見てると

初期のPS3に対するPS3(ソニー?)信者の姿がチラつくんだよなあ。

ネガティブ要素を完全に黙殺したり、僅かなポジティブ要素がそれを補って余りある都合の良い未来妄想したり。

価格が高い」とか「ソフトが無い」とか、PS3が5年前に通った道だっちゅーねん。お前らあの頃のPS3信者の生き別れの双子の弟かっちゅーねん。

PS3は初期の低迷から持ち直すのに3年近くかかったけど(思えばよくもまあこれだけ我慢したもんだなソニーは)、果たして任天堂スクエニは伏して待つ事が出来るのか。

どっこにも吐き出せないんでここに吐き出す。

「私は悪いかもしれないけどしょうがないよね。いろいろあるしさ」

こう思ってるんならその色々を周りにきっちり伝える努力はしてくれ。

初めてあう人にそんな特別な事情なんてわからねーっての、その癖自分には伝える義務がないとか思わないでくれよ。

指摘したらしたでしょぼくれんなよ、かわりに矢面に立つ身にもなってくれよ。

こんこんいか自分が不幸かいまさら言わないでくれよ知らねーよ知ってっけどそんな愚痴につきあわせんなよ何の解決にもならねーっての。

だめだ、寝る。

責任の所在。

ライフハックを読んで満足して寝るよりも必要なことがあるんじゃないかと思う。

たとえば「同じ事を2回聞くな」と怒る人。一回でわかるように説明しなかった手前が原因だと思わないのだろうか。

だってどんな難しいことでも理解できる。ただしそのために必要な時間が個人によって違うだけだ。自分の言い分を理解してもらう、仕事を覚えてもらう、人を育てるというのはとてつもなく難しいことで、またその人も尊重すべき一個人なのだから、それだけのことですべての人格非難にまで及ぶのは、言う側の人格の問題なのだろう。

現在無責任時代だ。誰も彼も責任を取らない。メールはバカみたいにCCを入れなければならない。反対意見は言わない。空気を読み決してそれを変えない。

責任褒章がつりあっていないからだろう。もしくは評価が減点方式で何もしないのが結果的に高得点につながるからだろう。

もしくは、日本責任の取らせ方が下手だからだろうか。10円の失敗は10円の責任だ。なのに「ゼロでない」という評価から無制限の責任がつながる。結局、何もしなかった人が評価され昇進する。

ネット上のライフハックの記事は、いろいろ引用したり、紹介したりするけど、決して責任は取らない。そんな自分に都合のいい現実の選択をみてるるような気分になる。

あー、おっぱいもみたい。パンツみたい。

コミュニケーションパロディ化って、いつから始まったんだろうね。

平安時代とか、書籍が普及しだした時点で広まったのかな。それともテレビインターネットみたいな映像メディアが台頭してきた辺りからなのかな。

パロディ化したコミュニケーションって、黎明期やじわじわと広がり続けている最中においてはそのコミュニティを閉鎖的に表現するくせに、

一旦分水嶺を超えると一気にキャラクター固定化に流れて行ってしまうのが興味深い。まあ当たり前の事なんだけれど、そう言った名残が語尾表現なんかにあると想像すると面白い気がする。

パロディ化したコミュニケーション方法って、どうして広まるんだろう。どうして人は面白いって感じた表現方法を自ら取り入れて発言してしまうんだろう。

学習ってのは、それ自体が普遍的に行われ更新されていることなのかもしれない。パロディパロディとを組み合わせた表現オリジナルになるのかどうか。あちこちに考えが飛び火してる。

ブログ黎明期に「2ちゃん終わった」とか言ってた人って今どうしてるの?

大手ブログ2ちゃんまとめばかりな現状はどう思ってるの?

餃子食いたい。

あー餃子食いたい。

50個食いたい。

体罰推進派の多くが

自分体罰をやるが自分体罰をされるのは御免こうむるという人間ばかり。

戸塚宏なんかはその典型。

自分がやられる側になったら必死に刑務官などのやった人間を叩く。

体罰推進派の多くがただ単に楽に自分に従わせたいだけだから困る。

一日の大半を屋内で過ごすのに鼻毛の伸びが尋常じゃない

通勤で歩く港区空気が悪いのか

品川山手線あたりの駅の空気が悪いのか

職場空気おかしいのか

どれなんだろう

死にたいって言葉は助けてって意味だって

しかにそうだね。

死にたい死にたい死にたい

ほんとにやだ

死にたい死にたい死にたい

死にたい死にたい死にたい

誰に助けてって言えばいいの

誰か助けてくれる人はいるの

http://anond.hatelabo.jp/20110907212155

接吻させていただきます

「愛撫させていただきます

「挿入させていただきます

一度、心からこう言える人とベッドインさせていただきたい。

http://anond.hatelabo.jp/20110907211517

あなたはすでに奈良県十津川村が雨で大変だということを知っているのに、どうしてこの上更にNHKから情報を求めているの?

すでに知っていることをもう一度ニュースで確認しなおすってのは無駄な作業ではないの?

http://anond.hatelabo.jp/20110907212155

野球だと、「(安打を)打たせていただいた」なんてのもある。

地下原発って悪くともIAEA尺度レベル5まりメルトスルーしてチャイナシンドロームしても地上でせいぜい放射性の希ガスを吹く程度)じゃないかと予想しているんだが、そのあたりはどんなものなのだろう。

倫理的問題はあるが、ノバヤゼムリャあたりに実験用地下原子炉を実際に作って、人工的に暴走させてみないとわからんかも。

『させていただきます』っていう言葉きもちわるい

『司会を務めさせていただきます

『発表させていただきます

『書かせていただきます

出版させていただきます

『販売させていただきます

『消灯させていただきます

『発車させていただきます』 

『開催させていただきます

とか、そんなに謙遜してどうするのっていうくらい、オトナのしゃべる語尾に、『させていただきます』が当たり前のようにつくようになって久しい。謙遜というか卑下というか、とにかく自分をおとしめすぎててきもちわるい。これは文法的な話じゃなくて感覚的な話ね。もっとドシッと構えてスマートに振る舞えないのかなってその言葉に触れるたびに思う。

もちろんそれが正しいときもあるよ、『本当はダメだったことを許可を得て』させてもらうときとかね。逆にいえば、そういうニュアンスではないときは使わないほうがスマートだと思うの。

それなのに、たとえば電車アナウンスで『ドアを閉めさせていただきます』とか、『発車させていただきます』とか。

こっちはただのサービスの享受者なんですよ、サービス提供者がそうするといったらそれに従うんですよ、どうぞお好きなタイミングで閉めてください、発車してくださいよ、そんなへりくだらないでくださいよ、って思う。

あっちの提供するサービスに対して、それ相応の対価を払ってそれを享受するのがビジネスってもんでしょ。だからこっちは支払った対価以上の質を求めちゃいけないでしょ。ドアを閉めるタイミングとか発車するタイミングとか、そっちが決めることでしょ。こっちはそれに従うのが当たり前でしょ。それをなぜ『お客様が閉めてはいけないとおっしゃるところ私どもの勝手でたいへん申し訳ありませんが閉めさせていただきます』みたいなニュアンスアナウンスするの。駅員さんはもっとエラくていいはずでしょ。

たとえばブログエントリの冒頭に『~について書かせていただきます』とか。こっちは読み手なんですよ、書き手は書きたいことを勝手に書いてくださいよ、読む読まないはこっちが勝手しまから、って思う。読みたいものを読むだけなんだから、書きたいことを書けば良いでしょ。それをなぜ『読者の皆さまがこのような内容は書いてはならぬとお考えなのは承知しておりますがこの件だけは書かせていただきたい』みたいなニュアンスで書きだすの。おかしい。書き手さんはもっとエラくていいはずでしょ。

基本的に『させていただく』っていうのは、冒頭でも書いたけど、

  • 本当はダメなことを
  • 別に許可してもらった

状態で使うべきもので、そうじゃないシーンで無意味に使っても、私はそれをとてもしらじらしく思う。本心でいつも上に書いたような状況だと思っているのならそれはそれで状況の把握ができてなくておかしいし、とりあえずへりくだっておけばいいやみたいな意識の伴わない口癖として出てるだけならそんな余計なポーズきもちわるくておかしい。必要以上の謙遜とか卑下は滅んでいい。

サービス提供者がいて、享受者がいる。その間って必ず何らかの等価交換(金銭なり情報なり行為なり)があって、だからそうである以上両者の関係って、少なくとも『対等』のはず。何を間違っても、『享受者のほうがエラい』なんていう関係にはなりえない。

このあたり、どうも『享受者のほうがエラい』思考が、享受者側に蔓延してるような気もするんだよね最近。『お客様神様だ』って、お客様側が言ってどうするのよっていう話。で、サービス提供者は提供者で、享受者側のそういう風潮を汲んで、とりあえずへりくだっておけば文句ないだろみたいな空気だすの。なんだかなー。

もうちょっとね、サービス提供者側はね、もっとエラそうにどしっと構えていいと思いますよ。そして自分提供者側になったら、『~させていただきます』じゃなくて、『~いたします』ってしゃべりたいですね。

はいえ、『させていただきます』って言っておかないと怒るエラいひともいるんだろうなーと思う。ポーズだけでも取っておかないとうまくいかないことがあるのが、オトナの世界のいやらしい話。めんどくさいです

NHKのバカ

NHK9時のニュース作ってる奴バカじゃないか

奈良県十津川村が雨で大変だーって言ってるのに、

十津川村の被害よりも北海道新十津川町歴史インタビュー時間とってる。

 

そういうのはニュースじゃくて、ドキュメントでやれ。

日本人劣化したって言われても仕方ない。

http://anond.hatelabo.jp/20110907202241

あとどんなローションをどのように使ったとかも書くといいよね

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