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はてなキーワード: 鎌倉時代とは

2017-12-27

anond:20171227143307

日本仏教なんて鎌倉時代ぐらいから終わってるぞ!

悪人正機説踊念仏なんて釈迦が聞いたら卒倒するレベルだろう。

2017-12-15

anond:20171215105036

増田は多分賢いんだろうけど

数学は積み上げ型なので、分からなくなったら(問題が解けないとか、教科書説明理解できないとか)、もっと前の段階に戻って、躓いている箇所を点検していけばいい。

これを自力で出来るやつ案外少ない。元増田みたいにな。

ソレに対して国語社会は、まぁひらがなが分からなかったら絶望的では有るけど古文がわからいか現代文がわからないことはないし、鎌倉時代がわからいか江戸時代がわからない(ただ、全然入ってきかたが違うけど)ことなんてないって意味数学だと思う。

2017-10-13

ペンギンは死んだらどうなるの

グレープくんが死んでしまってお悔やみツイートが流れてくるんだけど

・死後フルルの元に行く

・死後天国からフルル活躍を見守っていてほしい

の2パターンあって、

フルルはどこにいるのか、

ペンギンは死後どうなると考えられているのか

みたいなことが気になってしまってしょうがない。

死んだらジャパリパークに行けるのならばどんなに良いだろうと思う。

鎌倉時代浄土思想に傾倒した民衆の話歴史時間に聞いて、

当時はなんだかよくわからなかったけど、今ならわかる。

死後サーバルちゃんが向こうからやって来て

図書館まで一緒に連れていってくれるならなんてありがたいのだろう。

2017-10-06

anond:20171006111919

鎌倉時代の頃から農民をはじめとした肉体労働者は昼に間食をとっていて、それが「食事」として定着したのが江戸時代というだけだよ。

別に贅沢で食事が増えたんじゃなく、必要とされて昼食が求められてきたんだから、「本来なら必要ない」という論調は誤りだね。

2017-09-12

今度鎌倉旅行に行くので鎌倉時代のこととか調べてるんだけど

めっちゃ人死にすぎない??

平清盛源氏から北条氏執権政治あたりまで、次から次へと暗殺やら病死やら反乱やらで死んでない??

兄弟、親子で争うのは当然のこと、天皇上皇やらのお偉いさん方までお互いいつ相手のことを消してやろうかって考えている。

これはなんだ、参考にした集英社学習まんが日本の歴史が良くないのか。

2017-09-05

反実仮想の「まし」とか英語仮定法とか

はてブエントリしている(していた)

日本語口語文法)のクソな所で打線くんだwwwwwwwwww

http://blog.livedoor.jp/news23vip/archives/5262274.html

6(二):反実仮想助動詞消失

「ましかば~まし」という現実とは異なる仮定現実不可能な願望を表すことが

かつての日本語ではできた

いまや「もしも~だったら」というただの仮定・条件と同じ表現しかできないという悲しみ

というのが入っている。


うろ覚えだけど、反実仮想の「まし」は鎌倉時代あたりに単なる推量になって

その後消失したというのを何かで読んだ記憶がある。

また英語でも12世紀頃(中英語時代)から仮定法(の一部)が衰退していったという話がある。

たぶん日本語史における中世期も英語史における中英語期も、言語の変化が比較的大きな過渡期の時代だったはず。

で思い出したのが、少し前に、はてブエントリ入りしてた

特定の条件下の話ができない人が多い

https://anond.hatelabo.jp/20170829143814

という話。

「例えば」とか「仮に」といった仮定上の話ができない人が多いという内容なんだけど、

たぶん言葉を使い始めたばかりの人間にとっては、

事実ではない仮定上や主観上にすぎないことというのは、

現代人間以上に理解が難しかっただろう。

そうした状況において、仮定上の話をマーク付けする特別文法というのは

理解認知を助ける上で大きな利便性があったのだと思われる。

でも言葉によって反実仮想を語れることが当然のことになってしまうと

(今でも反実仮想の話を理解するのが困難な人や状況があるとしても)、

利便性よりも、専用の文法を用意している冗長性の方が大きいと感じられるようになって、

言語の変化が比較的大きな時期では、捨てられる方向に動いたのかなと何となく思った。

2017-06-04

山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない

山川出版の日本史いかに凄いかについて情熱的に説明する」

http://blog.tinect.jp/?p=40198

はてなブックマークの人気記事だったので開いてみたのですが、驚くほど中身のない記事でした。

これ、おっさん居酒屋でしゃべっているレベルですよね??

『詳説日本史』を引用するなり参照するなりして、具体的にどこがどうすごいかを語ってほしかったです。

僕も10代の頃はあれが本当に理解できなかった。けど今ならああい教科書が作り続けられる理由がよくわかる。物事を語るにあたって、中立を維持しようとするとなると、事実しか語れなくなるのである

ストーリーというものは、基本的には何らかの価値観を元に構築されるものである日本民族いかに優れているかという視点で歴史を分析すると、それは右翼的な記述にならざるをえないし、平等であろうとすれば、それは左翼的価値観を元に記述せざるをえなくなる。

客観的な記述がされている、左右に偏向していない、中立だからすごいゾ、という感想には呆れ果てました。

いったい全体、どこが情熱的ですか? 教科書を読み返さず、いい加減な記憶をもとに語っても、多分これくらいのことは言えると思います。 

  

クソ記事を読んでしまい、あんまりにもムシャクシャしたので、私が自分で『詳説日本史』を引っ張りだしてきて調べました。

例えば「源平の騒乱」という項目は、次のように記述されています

平清盛後白河法皇幽閉し、1180年に孫の安徳天皇を位につけると、地方の武士団中央貴族・大寺院のなかには、平氏の専制政治に対する不満がうずまき始めた。この情勢を見た後白河法皇皇子以仁王と、畿内に基盤を持つ源氏源頼政は、平氏打倒の兵をあげ、挙兵を呼びかける王の命令(令旨)は諸国の武士に伝えられた。

これに応じて、園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ち上がり、ついで伊豆に流されていた源頼朝信濃の木曾谷にいた源義仲をはじめ、各地の武士団挙兵して、ついに内乱全国的に広がり、5年にわたって騒乱が続いた(治承・寿永の乱)。

平氏は都は福原(現・神戸市)へと移したが、まもなく京都にもどし、畿内を中心とする支配を固めてこれらの組織に対抗した。

しかし、畿内西国を中心とする養和の飢饉や、清盛の死などで平家の基盤は弱体化し、1183年(寿永2)年、平氏北陸で義仲に敗北すると、安徳天皇を報じて西国都落ちした。やがて、頼朝の命を受けた弟の源範頼義経らの軍に攻められ、ついに1185年に長門の壇の浦で滅亡した。

この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。

ここには明らかに編者の歴史観と、因果関係説明が詰め込まれています

  

まず、平清盛後白河天皇幽閉したこと、安徳天皇即位させたことは、この教科書では「平氏の専制政治」と評されています

当時の人たちがそう感じていたのか、それとも教科書の編者がこの評価を下しているのか、どちらなのか判然としませんけど、ともかく本書はこの評価にもとづいて記述がされています

  

次に、この「平氏の専制政治」が地方の武士団中央貴族・大寺院の不満につながって、 以仁王源頼政はそういう情勢を見たので挙兵したと書かれています

これはまさしく因果関係に言及しているわけです。

  

このように、教科書は単なる事実の羅列ではありません。歴史に対する評価因果関係がしっかりと述べられているのです。

そこにどういう学問的な裏付けがあるか、歴史学に無知な私はよく知らないです。あのブログ記事ではそのへんの話を説明していると思ったのですけど、まったくの期待外れでしたね。

  

なお、この教科書とおなじ編者がつくった参考書『詳説日本史研究』(山川出版社)によると、次のように説明されています

治承・寿永の乱は、一般には源氏平氏の戦いといわれている。しか歴史学的にみた場合、この全国的な動乱を単に源氏平氏勢力争いとみるのは正しい理解ではない。以仁王挙兵以降、軍事行動を起こすものが相次いだ。美濃近江河内源氏若狭越前加賀の在庁官人、豪族では伊予の河野氏・肥後の菊池氏である。彼らはあくまでも平氏の施政に反発したのであって、はじめから源氏、とくに源頼朝に味方したわけではない。彼らの背後には在地領主層があり、在地領主たちは自己の要求を実現するために各地で立ち上がったのである

彼らの動向をまとめあげ、武家棟梁となる機会は頼朝以外の人、例えば源義仲源行家、あるいは平宗盛にも与えられていた。頼朝が内乱に終息をもたらし得たのは、彼こそが在地領主層の要望に最もよく答えたからである。この意味で幕府の成立は、時代の画期ととらえることができる。

教科書である『詳説日本史』では、これがたった一文にまとめられているのです。

この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。

こういう史観が妥当なのかというのは、私にはちょっと分からないんですが、この点を強烈にプッシュしているのが『詳説日本史』の特徴と言えるでしょう。

他の教科書を読んでみても、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)を除き、この史観はあまりプッシュされていないと感じました。

  

【参考文献】

山川出版社『詳説日本史』(日B 001)

山川出版社『高校日本史 改訂版』(日B 017)

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B 018)

東京書籍日本史B』(日B 004)

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

桐原書店新日本史B』(日B 011)

(このエントリは上記7冊を参照しています。いずれも平成22年ごろ購入。)

  

  

  

余談:教科書の読み比べ

  

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B 018)

伊豆に流されていた源義朝の子・源頼朝も、妻・北条政子の父北条時政とともに挙兵して南関東を掌握し、10月には源氏根拠地鎌倉に入った。頼朝は父祖以来の結びつきを背景に、三浦千葉上総氏などの有力な東国武士主従関係を結んで御家人とし

頼朝の挙兵が、東国武士との「父祖以来の結びつき」を背景にしていたものだったということは、他の教科書ではなかなか分からないと思います

三浦千葉上総という武士名前が沢山出てくるのもおもしろいですね。(三浦氏名前が出てくる教科書は多いですが、それはこの時点ではなく幕府成立後、十三人の合議制か、宝治合戦ときに唐突に登場します。)

[寿永二年十月宣旨から義仲滅亡までの]この間、鎌倉の頼朝は没収した平氏の所領(平氏没官領)を法皇より与えられ、経済基盤を固めていった。また御家人を統制する侍所を設置し、その長官である別当には和田義盛を任命した。これに加えて、行政裁判制度を整えるための公文所(のちに政所)・問注所がおかれ、その長官にはそれぞれ京から招かれた朝廷の役人である大江広元三善康信就任した。前後して、義経軍らは一の谷・屋島平氏を追い、1185(文治元)年に壇ノ浦平氏を滅ぼした。

[]は引用者註。

この教科書の特徴は、幕府の政治機構の形成過程を、治承・寿永の乱の進行に併記していることです。

鎌倉幕府の成立が1192年(いいくに)なのか、1185年(いいはこ)なのかという論争は、世間でよく知られているぐらい有名になりました。どちらが正しいかは諸説あるとしても、ただ一つ言えることは、どこかの時点でいきなり幕府が完成したというわけではありません。治承・寿永の乱が続いていた期間に、徐々に幕府の政治機構が形成されたのです。この教科書はその史観が反映されています

  

  

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

北条時政の援助によって挙兵した頼朝は、東国武士たちに支持されて、富士川の戦い平氏を破ったが、その後は鎌倉にとどまって、東国地盤を固めることに専念した。これに対して平清盛は一時、都を福原神戸市)に移して態勢を立てなおそうとしたが、まもなく京都に戻り、1181(養和元)年に病死した。一方、義仲は1183(寿永2)年、北陸方面から急進撃して、平氏一門を京都から追い出した。しかし、義仲は後白河法皇対立したので、法皇は同年、頼朝に東海東山両道(東国)の支配権を認め、義仲追討を命じた。頼朝は弟の範頼・義経らを上京させて、義仲を討たせた。範頼・義経さら平氏追討に向かい、1185(文治元)年、長門壇ノ浦平氏一門を滅ぼした。

この教科書歴史用語の詰めこみを回避しているようで、内容は簡単、文章としても平易です。

上記引用でも分かるとおり、「頼朝に東海東山両道(東国)の支配権を認め」という記述があるくせに、寿永二年十月宣旨というキーワードがありません。治承・寿永の乱、一の谷、屋島の戦いなどは年表に記載されていますが、本文中に記載なし。養和の飢饉、平氏都落ち安徳天皇を伴ったことも言及なし。

というわけで受験生には不向きですが、他の教科書にはない特色もあります

  

鎌倉将軍に尽くして家人となった武士のことを、鎌倉御家人といった。鎌倉御家人になる目的は、将軍面接して(見参)、先祖伝来の所領を承認してもらい(本領安堵)、さらに勲功のあった者は新たな所領を恩賞としてうける(新恩給与)ことにあった。

教科書の中では唯一、桐原書店けが「見参」を掲載しています。これは鎌倉幕府の権威の構造がどういったものであったかを知るための手がかりになるかも。

(他の教科書ではこの用語がないどころか、「将軍面接して」という説明も省かれています

  

["新恩給与"についての註]

土地のものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権を与えられるのが普通で、そのおもなものが地頭職であった。

これは「職の体系」のことを言っています。他の教科書とは違って、地頭をあえて「地頭職」と見なす視点を紹介し、その意味するところを簡潔に説明しているのがすごい!

所有権が重層的に重なりあっていたというのは、中世土地支配構造を知るうえで一番大切なポイントだと思います

なお、山川出版の『日本史B用語集』には「職の体系」という用語は不掲載で、かわりに「職」の項でそれを説明しています

職(しき)②:一般に職務に伴う土地からの収益とその職務自体を指す。荘園場合、有力者への寄進が何回も積み重なり、下記のような複雑な職の改装秩序を生じた。

本家職①、領家職②、預所職②、下司職②、荘官職①

  

[引用者註:丸の数字はこの用語を掲載している教科書の数]

山川出版『日本史B用語集』より

この説明は悪くないと思いますが、桐原書店は「土地のものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権」のことと明記しているので、その方が的確です。

しかも、いかんせん、『日本史B用語集』は「職」の用語説明を「院政期の社会文化」のページに掲載しているので、これと鎌倉時代の地頭職との関連が全然分からないです。そして「鎌倉幕府の成立」のページにある「地頭職」の用語説明は、次のようになっています

地頭職(じとうしき)⑤:職とは役職に伴う権益意味。地頭職は御家人が地頭に任命されて認められた兵糧米の徴収や免田(給田)経営などの権利

  

山川出版『日本史B用語集』より

これは間違っていませんけど、この説明を読んで、重層的な土地支配構造があったことを理解できますか? 絶対に不可能ですよね?

せめて「職」「地頭職」という用語同士を紐付けて相互参照させてほしいです。ふざけんなってかんじです。

  

さて、桐原書店教科書に話をもどすと、欄外にこういう豆知識も載っています

幕府とは、近衛府の唐名であるが、転じて近衛大将の居館のことをいった。のちには近衛大将とは関係なく、武家政権意味する語となった。頼朝は1190年に上洛し、右近大将に任ぜられたが、まもなく辞任した。

[ふたつの源頼朝像]

Aについては南北朝時代武将とする説もあり(伝・藤原隆信筆,京都神護寺蔵)、Bも注目されるようになった(山梨甲斐善光寺蔵)。

とてもユニークですね。受験には使えないかもしれませんが、知っておいて損はないです。

  

  

  

東京書籍日本史B』(日B 004)

養和は平氏政権が用いた年号で、これを認めない頼朝の支配する関東では、ひきつづき治承の年号が用いられた。

網野善彦著作『東と西の語る日本の歴史』に、たしかこの話があったと思います

他の教科書には載ってませんが、ピンポイント東大入試に出題されました。

  

源氏鎌倉の関係は、源頼信のころに源氏氏神となった石清水八幡宮を、前九年合戦の際、子の頼義が相模国由比郷に勘請して鶴岡若宮八幡宮前身)を建設したことから始まった。鎌倉は前面に海をもち、三方を山にかこまれた要害の地で、切通によって外部と結ばれていた。

鎌倉という土地をこれだけ情熱的に語っているのは、東京書籍教科書だけです。

上記引用とはまた別に、「コラム 武家の都鎌倉経済流通」というのも掲載されています

東大入試では、「院政時代から鎌倉時代にかけての京都と鎌倉都市の発展」について論述させる問題が出されたことがありますが(1990年)、この教科書はその答案を書くうえで非常に役立つものだと思います

  

  

  

山川出版社『高校日本史 改訂版』(日B 017)

こののち、後白河法皇義経を重んじ、頼朝追討の命令を下したが、これに失敗すると、頼朝はその責任を追及し、逆に義経追討の命令を得た。さらに頼朝は義経をかくまっていた奥州藤原氏を滅ぼそうと朝廷に追討の命令希望したが、法皇がそれを拒否すると、1189(文治5)年に頼朝は追討の命令を待たず、大軍をもって奥州藤原氏を滅ぼした。ここに全国を平定し、その後、法皇死後の1192(建久3)年に頼朝は念願の征夷大将軍に任じられた。

頼朝の悪人っぷりがこれでもか!?というぐらい強調されています

あいつは自分の野望を実現するため、ときには法皇に逆らって圧力をかけたり、朝廷命令無視して独断専行する奴だった、ということを言いたげな記述です。

  

それはともかく、奥州藤原氏を守ろうとした法皇朝廷側と、それを潰そうとした頼朝の厳しい対立がわかるのは、この教科書だけでしょうね。

両者のぴりぴりした緊張関係が伝わってきます

関西にある政権東北地方を使って、関東独立の動きを牽制するというのは、日本の歴史において繰り返し出てくるパターンなので、この視点を漏らさず記述しているところはアッパレ

  

  

  

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

平氏安徳天皇を奉じて西国に落ちていったが、後白河法皇は京都にとどまり、新たに後鳥羽天皇をたてて政権を維持した。法皇は義仲には平家追討を命じるいっぽう、頼朝には上京をうながして、京都の義仲に対抗させ、武士たちをたがいに牽制させて政局の主導権をにぎろうとした。しかし頼朝は、東国の安定に意をそそいでみずからは鎌倉を動かず、弟の範頼・義経を上京させて、1184(元暦元)年、義仲を討たせ、源氏一族の長となった。ついで義経らは、その当時勢力回復して都にせまっていた平氏を一の谷・屋島などの合戦でやぶり、さらに翌1185(文治元)年にはこれを長門壇ノ浦に追いつめて滅亡させた。

この時代に2人の天皇が同時に存在していたとする視点を取り入れているのがナイス

都落ちした平氏はそのままあっけなく滅んだわけじゃなくて、京都にいる天皇とは違う天皇を奉じて勢力を盛り返していたのです。

どちらの天皇が正統かというのは、つまるところ結果論にすぎません。この教科書はそんな歴史観に基づいて書かれています

  

ちなみに、この教科書の編者は、大半が関西教育機関に属する人たちみたいです。後白河法皇平氏を主軸にした書き方は、編者の関西びいきが反映した結果なんでしょうか。(笑)

例えば奥州合戦について、「奥州進撃のために頼朝は東国だけでなく西国武士もひとまず鎌倉に動員し、これを機会に国ごとに御家人組織の整備をいっそうすすめた」とありますさら西国御家人東国御家人とどう違うかを説明しているのもおもしろく、この教科書関西中心っぽい史観は独特です。

  

  

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

  

……って、おい!? 増田がここで文章を掲載できなくなったんだが??

せっかくこの先が本番なのに、文字数の上限なのだろうか。

つづき→http://anond.hatelabo.jp/20170605001028

2017-05-19

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[1]。天台教学中国に発祥し、入唐した最澄伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられた。

目次 [非表示]

1 日本天台宗

1.1 天台密教台密

1.2 四宗兼学

1.3 止観行

1.4 所依

1.5 主要寺院寺格

1.5.1 天台宗山門派

1.5.1.1 総本山

1.5.1.2 門跡寺院

1.5.1.3 大本山

1.5.1.4 別格本山

1.5.1.5 その他の寺院

1.5.2 天台寺門宗

1.5.3 天台真盛宗

1.6 その他天台系宗派

1.6.1 天台宗新宗教

1.7 教育機関

1.7.1 大学

1.7.2 天台宗中学校高等学校

1.7.3 養成機関

2 中国天台宗

3 韓国天台宗

4 社会運動

5 脚注・出典

6 関連項目

7 外部リンク

日本天台宗[編集]

正式名称天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後呼び名日蓮教学法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。

初め、律宗天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍日本に入った。次いで、伝教大師最澄767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである最澄特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。

この時代、すでに日本には法相宗華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄日本帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問修行を修めるという革新的最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇勅許下り名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。

天台密教台密)[編集]

真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。

当初、中国天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。

しか日本天台宗宗祖最澄伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しか最澄帰国して一年後に空海弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。

はいえ、最澄自身法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教系譜は、円仁円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。

なお真言密教東密)と天台密教台密)の違いは、東密大日如来本尊とする教義を展開しているのに対し、台密あくまで法華一乗の立場を取り、法華経本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである

四宗兼学[編集]

また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国天台宗とは違い、最澄が開いた日本天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。

止観行[編集]

天台宗修行法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在日本天台宗修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在仏性が宿るという天台本覚思想確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗浄土宗浄土真宗臨済宗曹洞宗日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。

所依[編集]

法華経

涅槃経

大品経

大智度論

主要寺院寺格)[編集]

天台宗山門派)[編集]

総本山[編集]

比叡山延暦寺滋賀県大津市

門跡寺院[編集]

滋賀院(大津市

妙法院京都市東山区

魚山三千院京都市左京区

青蓮院京都市東山区

曼殊院京都市左京区

毘沙門堂京都市山科区

大本山[編集]

関山中尊寺岩手県西磐井郡平泉町

日光山輪王寺栃木県日光市

東叡山寛永寺東京都台東区

定額山善光寺大勧進長野県長野市

別格本山[編集]

毛越寺岩手県西磐井郡平泉町

瑞国海岸観音寺宮城県気仙沼市

正覚山蓮前院安楽寺茨城県常総市

星野山中院(埼玉県川越市

狭山山不動寺(埼玉県所沢市

大鱗山雲洞院天龍寺埼玉県飯能市

浮岳山昌楽院深大寺東京都調布市

向山常楽寺長野県上田市

宝積山光前寺(長野県駒ヶ根市

龍谷山水間寺大阪府貝塚市

書写山圓教寺兵庫県姫路市

大山寺鳥取県大山町

山大興善寺(佐賀県基山町

六郷満山両子寺(大分県国東市

その他の寺院[編集]

谷汲観音寺北海道河東郡音更町

青柳山談義堂院龍蔵寺(群馬県前橋市

星野山喜多院(埼玉県川越市

谷汲華厳寺岐阜県揖斐郡揖斐川町

清香寂光院京都市左京区

根本山神峯山寺(大阪府高槻市

三身山太山寺兵庫県神戸市

補陀落山長尾寺香川県さぬき市

清水観世音寺福岡県太宰府市

海山大恩教寺釈迦院(熊本県八代市

阿蘇山西巌殿寺(熊本県阿蘇市) 

王寺熊本県山都町宮司豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である) 

天台寺門宗[編集]

総本山 長等山園城寺三井寺)(滋賀県大津市

天台真盛宗[編集]

総本山 戒光山西教寺(滋賀県大津市

その他天台系宗派[編集]

聖観音宗 

浅草寺東京都台東区

和宗

四天王寺

本山修験宗寺門派系)

聖護院京都市左京区

金峯山修験本宗

金峯山寺奈良県吉野郡吉野町

浄土真宗遣迎院派

遣迎院京都市北区

妙見宗

本瀧寺大阪府豊能郡能勢町

粉河観音宗

粉河寺(和歌山県紀の川市粉河

善峰観音宗

善峰寺京都府京都市西京区

天台宗新宗教[編集]

念法眞教

孝道教団

鞍馬弘教

教育機関[編集]

大学[編集]

大正大学

天台宗中学校高等学校[編集]

比叡山中学校・高等学校

駒込中学校・高等学校

養成機関[編集]

叡山学院

壬生寺(みぶでら)は、京都市中京区壬生にある律宗大本山寺院である本尊地蔵菩薩、開基は園城寺三井寺)の僧快賢である中世に寺を再興した融通念仏の円覚上人が創始したとされる「大念仏狂言」を伝える寺として、また新選組ゆかりの寺としても知られる。古くは地蔵院、宝幢三昧寺[1]、心浄光院と号した。

目次 [非表示]

1 歴史

2 境内

3 文化財

3.1 重要文化財

3.2 焼失した重要文化財

3.3 重要無形民俗文化財

4 行事

5 関連項目

6 アクセス

7 脚注

8 外部リンク

歴史[編集]

園城寺三井寺)の僧快賢が、991年(正暦2年)に自身の母のために建立したとされる。京都では珍しい律宗総本山奈良唐招提寺寺院である

中世に融通念仏の円覚上人が中興。大念仏会の際に上演される重要無形民俗文化財の「壬生念仏狂言」(壬生狂言)は円覚上人が始めたものと伝えられる[2]。

江戸時代後期の幕末には京都治安維持目的活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠壬生村の八木家に置かれた。当寺境内新選組兵法調練場に使われ、武芸などの訓練が行われたという。その縁で境内には局長近藤勇銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある(近藤勇の墓とされるものは、当所以外にも会津若松市三鷹市などに存在する)。

当寺旧本尊地蔵菩薩半跏像(鎌倉時代後期の作)は、「壬生地蔵」と呼ばれ信仰を集めていたが、1962年昭和37年7月25日放火により本堂とともに焼失した。現在本尊地蔵菩薩立像は、火災後に本山唐招提寺から移されたものである

境内[編集]

現在の本堂は1970年昭和45年)の再建である境内には他に大念仏堂狂言舞台重要文化財)、近藤勇銅像壬生塚、千体仏塔(パゴダ様式仏塔に1000体の石仏を円錐形に安置したもの)などがある。

文化財[編集]

重要文化財[編集]

木造地蔵菩薩立像唐招提寺旧蔵、平安時代

錫杖(しゃくじょう)

紙本墨画淡彩列仙図 長谷川等伯筆 六曲一双(左隻の一扇を欠く)

壬生寺念仏堂狂言舞台)(附 道具蔵、脇門、土塀2棟、棟札2枚)

典拠2000年平成12年)までに指定国宝重要文化財については、『国宝重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録名称索引統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

焼失した重要文化財[編集]

木造地蔵菩薩半跏像 旧本尊鎌倉時代

木造四天王立像 鎌倉時代

金鼓 正嘉元年(1257年)銘 - 「金鼓」は仏堂の軒先に吊るす「鰐口」のこと

以上3件は1962年火災で焼失した。[3]

重要無形民俗文化財[編集]

壬生狂言

壬生六斎念仏踊り(指定名称は「京都の六斎念仏」)

行事[編集]

壬生狂言

毎年節分春秋に演じられる無言劇。大念仏狂言(だいねんぶつきょうげん)とも呼ばれる。重要無形民俗文化財指定されている。公開は2月節分の当日と前日、4月29日から5月5日まで、及び10月体育の日を含む3日間(年間12日間)[4]。詳細は「壬生狂言」を参照

壬生六斎念仏踊り

年中行事として、かつては毎年8月9日精霊迎え火、16日の精霊送り火23日の地蔵盆壬生寺で上演されていたが、現在は9日にの実施されている。重要無形民俗文化財。詳細は「壬生六斎念仏踊り」を参照

地蔵盆時の出開帳

壬生寺は、地蔵菩薩本尊とする寺として、地蔵盆の際に地蔵石仏を貸し出す、俗称レンタル地蔵」を行っていることでも知られる。

京都でも新興住宅地などでは地域地蔵がなく、地蔵盆が行えないことがある。この場合宗教色を薄めた「夏祭り」とする所もあるが、地蔵を借りてきて地蔵盆を行うところもある。壬生寺場合は、明治時代から京都各地の区画整理などに伴って祀れなくなった石仏が多数引き取られており、これを出開帳の形式をとって希望する各町に貸し出しているのである

のもりのかがみ【野守鏡】

鎌倉時代歌論。作者は,源有房,天台僧(氏名不詳)など諸説がある。1295年(永仁3)9月に成立。書写山(播磨円教寺)に参詣したおりに住僧から聞きえた話を紹介するという趣向は,《大鏡》などと同巧。上下2巻から成り,上巻では二条派的な平淡美を重んじる歌論を説き,京極派,とくに為兼を批判,下巻ではおもに宗教論を述べ,禅宗浄土宗非難している。反京極派の歌論として,また仏教思想史上の資料として貴重。【赤瀬 知子】

出典|株式会社日立ソリューションズクリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

世界大百科事典内の野守鏡の言及

歌論】より

…為家の子の代で,二条家京極家,冷泉れいぜい)家と歌の家が三つに分裂し,以降,派閥争いが激化したために,〈歌論〉も本質理論的に深めるという方向ではなく,派閥意識をあらわにして,他派を攻撃するケースが増えていったかである。たとえば《野守鏡(のもりのかがみ)》は作者未詳の歌論であるが,二条派立場に立って為兼を初めとする京極派を攻撃した書であったし,《延慶両卿訴陳状(えんきようりようきようそちんじよう)》と呼ばれる,《玉葉和歌集》の選者をめぐっての二条京極両家の厳しい対決を伝える応酬もある。南北朝室町時代では頓阿(とんあ)の《井蛙抄(せいあしよう)》,二条良基・頓阿の《愚問賢注》,良基の《近来風体抄(ふうていしよう)》等の二条派歌論書,冷泉派今川了俊の《弁要抄》《落書露顕(らくしよろけん)》などがある。…

鎌倉時代僧侶・一向俊聖(暦仁2年(1239年)? - 弘安10年(1287年)?、以下「一向」と表記)を祖とする宗派

一向は筑後国草野家の出身で、はじめは浄土宗鎮西派西山派という異説もある)の僧侶であった。後に各地を遊行回国し、踊り念仏天道念佛を修し、道場を設けた。近江国番場蓮華寺にて立ち往生して最期を迎えたという。

以後、同寺を本山として東北関東尾張近江に一向の法流と伝える寺院分布し、教団を形成するようになった。鎌倉時代末期に書かれた『野守鏡』にはこの教団を一向宗と呼んで、後世の浄土真宗とは全く無関係宗派として存在している事が記録されている。

一向と一遍智真は同時期の人物であり、ともに遊行や踊り念仏を行儀とする念仏勧進聖であることから、一向の「一向宗」は一遍の「時衆」と混同されるようになっていく。『天狗草子』に記された「一向宗」は、一遍の衆を指したものである(一向俊聖の項を参考)。たしかに一向も一遍と同様に浄土宗の影響を受けて自己教義確立させたものであるが、全く別箇に教団を開いたものである。また、一遍と違い一向の教えは踊り念仏を行うとはいえ、念仏のもの特別宗教的意義を見出す事は少なかったとされている。ところが時代が降るにつれ、一向の教えが同じ踊り念仏一遍の教えと混同され、更に親鸞の興した浄土真宗とも混ざり合うという現象が見られるようになる。特に一向の教義が早い段階で流入していた北陸地方ではその傾向が顕著であった。

浄土真宗本願寺八世の蓮如北陸地方活動の場を求めた時に、布教対象としたのはこうした一向や一遍の影響を受けて同じ浄土教の土壌を有した僧侶信者であり、蓮如はこれを「一向衆」(「一向宗」ではない)と呼んだ。蓮如布教時に、一向宗時宗支配層との結びつきを強め、民衆から離れ、一向宗民衆蓮如教団になびいた結果、一向宗と呼ばれるにふさわしかったともいわれる[1]。本願寺及び蓮如北陸における成功の背景にはこうした近似した宗教的価値観を持った「一向衆」の存在が大きいわけであるが、同時に蓮如はこれによって親鸞の教えが歪められてしまう事を恐れた。さらに別の事由から宗派より「一向宗」と呼称されていたこと(後述)も彼の憂慮を深めた。文明5年(1473年)に蓮如によって書かれた『帖外御文』において「夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是則一向宗なり」とし、一向宗が一向の教団でもあることを明記して本願寺門徒一向宗名前を使ったもの破門するとまで書かれているものの、ここでも一遍と一向の宗派混同されている。

江戸時代に入ると、江戸幕府は本末制度の徹底を図り、系譜を異にするさまざまな念仏勧進聖が、清浄光寺総本山とする単一宗派時宗」の管轄下に編成された。この際、一向の流派独立した宗派とは認められず、「一向宗」の呼称を用いる事も禁じられた。『時宗要略譜』によると、時宗十二派のうち、一向派と天童派が一向の法脈を受け継ぐものとされている。一向派(かつての一向の一向宗)は再三にわたり時宗から独立を求めたが実らなかった。

明治時代になって、中期に一向派から独立転宗を唱える者が出現し、一向派は浄土宗宗務院に「所轄帰入願」を、時宗教務院に「時宗一向派独立認可願」を提出した。しかし一向派の独立・転宗を認めてしまうと、明治以降衰退著しく、時宗寺院が少ない上に、さらに減少することになるので、時宗当局は、これを認めようとしなかった[2]

大半の寺院時宗を離れ、一向の母体であった浄土宗帰属するようになったのは、昭和時代に入った1943年の事であった。

ゆかり寺院[編集]

番場蓮華寺滋賀県米原市

佛向寺(山形県天童市):現在でも踊躍念仏を伝える。

浄土真宗の「一向宗」[編集]

浄土真宗、ことに本願寺教団を指す呼称。教団自身はこの名を自称しなかったので注意が必要である

「一向」とは「ひたすら」「一筋」という意味であり、「一つに専念すること」を意味している。『仏説無量寿経』に「一向専念無量寿仏」と記されていることから、とくに阿弥陀仏名号を称えることと解釈され、親鸞宗祖とする教団(本項では「真宗教団」とする)を他の宗派から指す呼称となった。とくに浄土宗は、親鸞の教団が「浄土真宗」と自称することを嫌い、「一向宗」の称を用いた。

したがって「一向宗」は真宗教団の門徒から見て正しい呼称ではなく、また一向俊聖の「一向宗」と混同される事から望ましい呼び方でもなかった。だが、中世において同じ念仏を唱える浄土教宗派であった両派が混同され、更に時衆などとも漠然と同一のものとして捉えられるようになっていった。蓮如は前述のように「他宗派の者が(勘違いして)一向宗と呼ぶのは仕方ないが、我々浄土真宗門徒一向宗自称してはいけない」という主旨の発言をして違反者破門するとまで述べているが、逆に言えばこれは、真宗教団の門徒ですら「一向宗」を自称する者がいた事を意味する。

こうした指導により教団内部では「一向宗」の語は正式に使われることはなくなり、「浄土真宗」または「真宗」と称するようになった。しかし、門徒たちを中心とする一揆が「一向一揆」と呼ばれるなど、真宗教団のことを教団外から一向宗」と呼ぶ風潮は収まる事はなかった。

江戸幕府は、真宗教団を指す名称として「一向宗」を公式に用い続けた。この経緯としては、徳川家康三河一向一揆により家中統制で苦しめられたこと、徳川将軍家が(真宗教団が「浄土真宗」を称することを望まない)浄土宗信仰していることが挙げられる。これに対して、真宗教団側は本願寺の分裂などの影響があり、長らく具体的な対応が取られることがなかった。

2017-03-28

鎌倉時代の終わりって今みたいな感じだったんだろうか

御恩と奉公バランスが崩れちゃってる

2017-03-02

http://anond.hatelabo.jp/20170302094136

あれ、うちの学校だけかな?まともな私立&国公立はそうでもないのかもしや。

世界史数学選択コースの人なんか、下手したら鎌倉時代にすら行き着いてないわうちの学校

2017-01-29

栄養教科書」の読書メモ

2017/01/29
下記書籍適応読書した。読書時のメモを以下に記す。

中嶋 洋子(監修),"改訂新版 いちばん詳しくて、わかりやすい! 栄養教科書",新星出版社2016.


栄養学の基礎知識
  栄養学入門
    栄養とは
      生きるため
      体内で体を作る成分
      活動エネルギー摂取すべき食物の中の成分を栄養素と呼ぶ
      消化管で消化 吸収
      体の五割 水分 
      タンパク質
      脂質
      ミネラル
      1番多く食べるのは糖質だが 体内量はわず糖質エネルギーとして消費されやすい
      過剰な糖質脂肪に変換され 体内に蓄えられる
      エネルギー源
      成長 体の維持
      栄養素の代謝
      栄養とは 食べて生命維持などする生物活動のこと
      代謝 同化 異化
    栄養健康とは肉体的、精神的、社会的に良好な状態のこと
      栄養学では、体の健康だけでなく精神的な健康社会的状態までを広く視野に入れて考えることが大切
      栄養素が不足すると
        活動力低下
        感染ストレスへの抵抗力低下 病気になりやすかなる
      栄養目的意識時代とともに変わる
      食糧不足→満ち足りた 物余り
      今日 健康増進 生活習慣病対策
      精神的緊張の増大
      運動不足
      新しい栄養問題
      外部環境要因 遺伝要因 生活習慣要因
      様々な病気生活習慣病という観点で捉えることができる
      生活習慣の改善主体的に取り組む
      食塩血圧
    食品
      食品
        栄養素を供給
        一種類以上の栄養素を含む
        有害物を含まない
        食べるのに好ましい嗜好特性を持っている
        経済性
        手軽さ
        便利さ
      食品が生体に与える効果 食品機能
        一次機能 栄養機能 体成分の素材 エネルギー タンパク質 糖質 脂質 ミネラル ビタミン 五大栄養生命維持
        二次機能 感覚機能 香り 味 色 歯ざわり おいしい 嗜好性 テクスチャ 味覚嗅覚応答
        三次機能 生体調節機能 体の調子を整えて健康状態をよくする 病気を予防する保健効果 機能性食品 生体防御 体調リズムの調節 老化抑制 病気防止 病気から回復
    一次機能
      糖質 脂質 タンパク質 ビタミン ミネラル/無機質
      五大栄養摂取量大 前三者 三大栄養素酸素
      食物繊維
      栄養素の体内での働き
        熱量糖質 脂質 タンパク質
        構成タンパク質 脂質 ミネラル 水
        調節素 ビタミン ミネラル タンパク質
      必須栄養熱量素の糖質 脂質 タンパク質必要に応じて互いに変換されながらエネルギー源へ
        過剰 糖質は脂質へ
        糖質が不足 タンパク質糖質
        体内で合成できない、できても必要量に足りない → 食事でとらないといけない 必須栄養ビタミン13種
        ミネラル16種
        必須アミノ酸9種
        必須脂肪酸3種
      栄養素の種類 摂取量 バランス
      栄養バランスに深刻な影響 要因 貧困
      日本人食事摂取基準2015 エネルギー産生栄養バランス
        三大栄養素エネルギー摂取量にどの程度占めるか 割合
        まずタンパク質
        脂質
        残りを炭水化物
        が適切
    二次機能
      なぜ おいしさ 嗜好
      これは、食べたとき化学的・物理的刺激が口腔や鼻などの感覚受容器で受け取られ、神経を通って大脳皮質に送られ、食物の風味として評価された結果
      味や匂い 感覚 食物 認識
      危険食べ物を食べないよう注意
      食欲増進 食べる楽しみを与える
      消化吸収活動 活発化
      おいしさ評価
        視覚 形状 外観 色 つや
        嗅覚 香り
        味覚 味
        触覚
        温覚
        冷覚
        聴覚
        かたさ 歯ごたえ のどごし
        味蕾
          甘味
          酸味
          塩味
          苦味
          うま味
        皮膚感覚をともなう辛味 渋味 えぐ味
    三次機能
      保健機能食品
        トクホ
        栄養機能食品
        健康食品
  栄養を摂る上で知っておきたいこと
    食品成分表示
      日本食品標準成分表
        どんな成分がどれだけ含まれいるか
        食品別
        成分別
        文科省 測定 データ分析 資料作成
        2015版 最新 2191食品
      エネルギー 水分 タンパク質 脂質 炭水化物 灰分 無機質 ビタミン
      可食部 100gあたりのエネルギーや成分含有量
      廃棄部 廃棄率
      一部では調理後の成分量も
      実際 部位 季節 地域 状態で差
      あくまで標準成分値
      食品の分類
        18食品群
        大 中 小 細分の四段階
        原動植物 加工度合い
    食事摂取基準
      日本人食事摂取基準 厚生労働省
      推定エネルギー必要エネルギー摂取量は、消費量釣り合って体重に変化のない状態が最も望ましいという考え方のもとで
      推定エネルギー必要量(キロカロリー/日) = 基礎代謝量x身体活動レベル指数
      レベル 低い 普通 高い
      栄養素についての判断指標
      推定平均必要量
      推奨量
      目安量
      目標生活習慣病の一次予防
      耐容上限量
      不足のリスク ← → 過剰摂取による健康障害リスク
        推定平均必要量 推奨量 目安量 耐容上限量
    何をどれぐらい食べれば良いのか
      主食 ご飯 パン 麺類 穀類 糖質エネルギー
      主菜 肉 魚 卵 大豆製品 タンパク質 脂質
      副菜 やさい きのこ いも 海藻 ミネラル ビタミン 食物繊維
      プラス 乳製品 果物
      食事バランスガイド
        食事の望ましい組み合わせと量
        食生活指針
        厚生労働省 農林水産省
        コマイラストでわかりやすhttp://www.maff.go.jp/j/balance_guide/index.html
        食べる量をカロリーではなく、つ SV サービングという単位
        料理という単位 生活に取り入れやすく
        水やお茶 コマの芯
        運動 コマの回転
      どの食品からも満遍なく
    食生活指針
      国民健康増進
      QOL向上
      食糧の安定供給
      生活習慣の一次予防
      何を どれだけ どのように
      10個の大項目
        食事を楽しみましょう
        一日の食事リズムから、健やかな生活リズム食生活QOLの向上に最も大きな役割を果たす
        主食主菜副菜を基本に食事バランス料理について
        ごはんなどの穀類をしっかりと
        野菜 果物 牛乳 乳製品 豆類 魚なども組み合わせて
          食材について
        食塩脂肪は控えめに
          栄養素について
        適正体重を知り、日々の活動に見合った食事量を
          食事運動関係
        食文化地域産物を活かし、ときには新しい料理も
          食料の安定供給食文化配慮
        調理や保存を上手にして無駄や廃棄を少なく
          食料資源環境問題配慮
        自分食生活見直してみましょう
          実践するために今までの食事見直し これから健康目標を作るなどの行動期待
      体のしくみを知って
        体のしくみ
          組織
            上皮
            結合・支持
            筋
            神経
          器官 器官系
          消化
            高分子物質→低分子物質に分解
          大腸
            発酵
            腸内細菌 ごう?業?
            腸内に有益菌が優勢になるよう
          糖質の吸収後のゆくえ
            食事直後の糖質の貯蔵
            肝臓で貯蔵 血中にでてエネルギーインスリン作用により、食後の過剰なエネルギー肝臓 筋肉 脂肪組織一時的に蓄積
            血糖の維持
            濃度は一定に
            低下すると、肝臓から送り出される
            脳 神経系脂肪酸エネルギー源として利用できない 血糖値の維持 重要
            グルコース 1g 4kcal
            グルコースピルビン酸→水と二酸化炭素
            解糖系
            酸素が不足 ピルビン酸→乳酸
            酸素が十分 ピルビン酸→アセチルCoA
            TCAサイクル 水素抽出 酸素と結合
            ATP エネルギー貯蔵物質
          脂質
            皮下脂肪
            内臓脂肪
            脂肪酸→β酸化→アセチルCoA
            1g 9kcal
            脂質は水に溶けない リポタンパク質形成して血中を輸送
          タンパク質
            代謝回転
            アミノ酸
          エネルギー代謝
            食品もつエネルギー測定 ボン熱量計 燃焼 水の上昇温度
            1g
              糖質 4
              脂質 9.45
              たんぱく質 5.65
              キロカロリー
            完全には利用されない
            生体利用エネルギーアトウォーター係数
            基礎代謝生命維持に必要な最低のエネルギー代謝量
              食後12時間後 早朝 空腹 20-25℃ 室内 目を覚まして静かに横になった状態で測定
              体重で割ると性別 年齢別にほぼ一定の値 基礎代謝基準値
              男性 18-29 24.0 63.2kg 1520kcal/day
            実際に必要エネルギー消費量
              推定エネルギー必要量 が設定されてる
              男性 18-29 170.3 63.2 レベルII 2650kcal/day
  その他
    糖質
      過剰 脂肪
      不足 酸血症 筋肉量減少
    1日3食 大原鎌倉時代から 生体リズム 栄養素の十分な摂取
    心と体が喜ぶ食事
    朝食 必ず
    バランス
      5
        色 赤 緑 黄 白 黒
        味 甘 塩 酸 苦 うま
        調理法 焼く 煮る 蒸す 揚げる 生
    青年壮年自己管理
      生活習慣
      リカバリー
      週末に一週間単位で振り返って、全体のバランスを取るようにするなどの工夫
      食べ過ぎ注意
      脂質 塩分控えめ
      食物繊維
      積極摂取 カルシウムビタミンb1
        乳製品 小魚 レバー 魚介類 豚肉
    肥満
      BMI 22が適正
      内臓脂肪りんご型
      皮下脂肪型 洋なし型
    体脂肪
      適度な量
      男性 18%
      女性 23%
      測り方
        手と足など複合的に測るものがよい
        食前や入浴前に測るとよい
    サプリメント健康補助食品 薬でない 医学効果保証されてない サプリ飲んでおけばいいというのは誤り 利用する場合専門家相談
    腹八分を心がけて免疫アップ
    食物アレルギー
      成人
      甲殻類 果物 小麦 魚介類
      エビ 小麦 そば 鶏卵 ピーナッツアレルゲン特定 重要
      アレルギーミルク
    健康診断
    生活習慣病になりやすい体質 遺伝子レベルで診断 テーラーメイド医療


以上。

2016-10-12

[]

苗木遠山史料館でもよおされた「美濃の刀展」に行ってまいりました。

これでわたくしも刀剣お嬢鯖の仲間入りですわね。

べ、べつに秋刀魚が気になるわけではありませんわ!

常設展示では遠山の金さんの遠縁である苗木遠山氏が治めた苗木藩の歴史が紹介されています

1万石と最小サイズ大名なので財政のやりくりには苦労したようです。

東濃歴史には悪名高い森長可も関わっており、(3)6人斬りを自慢して悪趣味に名付けた歌仙兼定のレプリカも置かれていました。

美濃の刀展では近隣神社から寄託された鎌倉時代室町時代太刀が大きく扱われていました。

国や県の重要文化財である

備前国長船住近景

吉則

貞綱

三振ですわ。腰に下げるときと同じく、太刀は刃を下向きに、刀(脇差短刀も)は刃を上向きに展示していると

説明されていて感心しました。他所刀剣をみるときにも役立ちそうなトリビアですわ。

刀身58cmの脇差があって、そのあたりの定義がよくわかりません。

神社の刀は拵えを直す機会がないので目釘の穴を空けなおしたあともないですわ――と気づいた気持ちになったのですが、

他の刀も目釘の穴を空けなおしているものは少数派でしたわ。

展示されている刀の大半が個人蔵で、当館所蔵のものは一振りだけでした。

秘蔵されているものを拝見する機会をくださって感謝しますわ。

2016-10-09

http://anond.hatelabo.jp/20161009222344

日本人権侵害は今に始まったことではなくて、

江戸時代戦国時代、平安鎌倉時代奈良時代にまでさかのぼることができるんですな。

こうなるともう日本の伝統文化というか、遺伝子に刻み込まれているんじゃないか

考えざるを得なくなるのです。

2016-10-04

[]馬鹿

馬鹿は、サンスクリット語で「無知」や「迷妄」を意味する「baka」「moha」の音写莫迦(ばくか)」「募何(ぼか)」が転じたとされる。

日本では、鎌倉時代末期頃から「ばか」の用例があり、室町中期の「文明本説用集」には、馬鹿異表記として「母娘」「馬娘」「破家」をあげ、「とんでもない」の意味で「狼藉之義也」と説明している。

以上のことから、「ばか」を「馬鹿」と書くのは、当て字と考えられる。

馬鹿語源の俗説には、『史記(秦始皇本紀)』の故事「鹿をさして馬となす」からというものがある。

これは、秦の趙高二世皇帝に、鹿を「馬である」と言って献じた。

群臣は趙高の権勢を恐れて「馬です」と答えたが、「鹿」と答えた者は暗殺された。

このことより、自分の権勢をよいことに矛盾したことを押し通す意味として「馬鹿」と言うようになったというものである

しかし、「鹿」を「か」と読むのは大和言葉で、漢文では「ばろく」と読むため、この故事が「ばか」の語源とは考え難く、「ばか」に「馬鹿」の字が当てられた由来として考慮するにとどまる。

その他、「おこがましい」の語源となる「をこ」を語源とする説もあるが、「をこ」から「ばか」という音変化は考え難い。

http://gogen-allguide.com/ha/baka.html

2016-05-24

守護がでかい問題

鎌倉時代初期、東国において政権確立した源頼朝によって設けられた守護職は、軍事警察的な権限を持つのみであり、地域統治権限は依然として国司にあった。

後年、鎌倉幕府が滅び室町幕府が成立すると、室町幕府はその守護制度踏襲する。

しか守護は、次第に国司権限をも包摂し、独自の領国支配を固めていくようになる。このようにして広域領主化した守護を「守護大名」といい、守護大名トップとした地域支配体制大名国制と呼ぶ。

広域領主として実権を握った守護に対し、足利将軍家の影響力は薄れ、室町幕府守護大名による連合政権様相を呈していく。

さら肥大化した守護大名たちは互いに自己利益を追求して相争い、応仁の乱代表されるような戦乱を巻き起こすようになった。

これを「守護がでかい問題」と呼ぶ。

そして、守護がでかい問題対処し切れなかった室町幕府は衰退し、日本戦国時代突入していったのである

2016-04-07

http://anond.hatelabo.jp/20160407140836

しろ圧倒的に女の権力を強めるべきだよ。

http://1-az.com/mt/sexual/555_1.html

母系大家族制度は、祖母(おばあちゃん)が家庭の中心で、一族資産管理します(家長財産は、代々女性に引き継がれていきます)。家族全員が祖母(おばあちゃん)の血を引き、結婚という制度をとらず、男は、妻を娶(めと)らず、女は嫁(とつ)がず(お嫁にいかず)、生まれた家で、母親兄弟姉妹と、生涯を一緒に暮らす女の国です。

男性は、子どもの養育義務も無く、父というよび方も無い存在です。

この地に住むものにとって、何の疑いも無く女系社会は最高に良いといいます。女は自立するし、好きな母親家族と生涯助け合って過ごすことが出来るし、子どもも全員で育てるから素直で良い子になるといいます

日本鎌倉時代以前は、母系社会であった。

2016-02-26

鎌倉時代から東京にずっと住んでる家で生まれた俺としては、はっきり言ってこれ以上東京に人が増えるのは迷惑なんだよね

地方にいる奴らは自分たちの力で自分たちの生まれ故郷を盛り上げていこうって気はないの

俺はこの東京死ぬまで支えるつもりだよ

関ヶ原に勝ち、空襲を乗り越えて東京を支えてきた我が家としては、フリーライドしているだけの無能にこれ以上東京を汚されたくないんだわ

2015-12-21

[] 一遍

「一度」の意味鎌倉時代のお坊さんのことではない。

一遍上人「いっぺん違いですよ?」

2015-12-07

日本古墳の盗掘についてのコピペ

最近よく見かけるようになったのが、

日本造幣局で教えていたイギリス人技師勝手古墳を盗掘して中の物をイギリスへ送った」という内容の2chコピペ

日本人天皇古墳の盗掘なんてしないから警備なんてなくて、そこを狙われて次々に盗掘されてしまった

なんて意地汚いイギリス人

こんな内容がそこら中のコピペサイトに書かれているのだが

調べてみるとどうも事実ではないようだ

日本人は盗掘なんてしない」というのがそもそもデタラメ

ネット検索しただけで鎌倉時代江戸時代大正時代、に盗掘の犯人が捕まったという記録が確認できた

最近では昭和61年にも盗掘の犯人が捕まっていたらしい

(勿論記録があるのは捕まった場合のみで、盗掘にきづけなかったことのほうが多いようだ)

イギリス人ウィリアム・ゴーランド技師としての貢献は大きく、政府はいくつか勲章を送っている

また、日本古墳研究第一人者であるらしく、彼の研究資料現在でも重要な位置づけをされているらしい

上記はネットに書かれていた情報なので、これが間違っているという可能性もあるが……

みなさんはこのコピペについてどう思うだろうか?

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