はてなキーワード: 上座部とは
この3者は本来それぞれ敵同士なんだけど、フェミとしては同じ女を攻撃してはいけないという縛りがあるのでそこがややこしい。内心ではフェミは夜職女も婚活女も嫌いだけど「男社会の被害者」ということで連帯しないといけないので、結局共通の敵が弱者男になってるというしくみがある。
ものは言いようで、ネガティブにも見えるけど、別の観点では吉兆とも見えるね。
現代フェミニズムは過去の上座部主義を改め、大乗フェミニズムに舵を切った。
フェミニズムの教義を体得したフェミニストだけが救われるのではなく、婚活女性も、夜職女性も、フェミニズムが救う。
いやたしかに日本の仏教がふにゃふにゃなのは同意なんだが、大乗仏教の歴史をざっと見ると、龍樹とか世親とかのビッグネームがいるじゃん
こいつらが説いた理屈はかなり強度がありそうに思えるから、潜在能力としてはなかなかしっかりした教理がありそうに思える
ポストモダンというのは基本的に「色即是空」としか言っていない。
仏教はそこから「空即是色」としてこの世界を引き受けようとするところがある。
ポストモダン的に言うと、すべてのものには本質や根拠、意味なんかなくて、単に名前をつけられた存在にすぎない。
でも仏教は、であるが故にこの世の中をどういうふうに引き受けるのか、この現世の中で意味ある生を生きていくのか、その精神をもう一度問う。
大乗仏教はプレモダンのように思えて、実はポストモダンを超克し得る可能性があるらしいんだわ
(色即是空空即是色つってるからここで言及されてる「仏教」は大乗仏教のことだわな)
こんな感じで、上座部を現代思想として捉えたとき、どういう視点を提供できるのかについてわりと気になってるんで、詳しい人いたら教えて欲しい
鈴木大拙は大乗を情の仏教で上座部を理の仏教だみたいに書いてたけどまさにそれ。
なんとなく寄り添って、肩入れして、励まして、あとはお経を唱えるだけで阿弥陀様が救ってくれるからねとかいって、それで解決するのかと。
ちゃんと仏法を説いて、理屈で説明して、実践手段を与えて、やらせて、指導して、時に「だらしねえぞ」としばいて、頑張らせる、当人が頑張るのが仏教でしょうと。
時代が違うから、救済宗教としての大乗仏教の需要がなくなっているのは仕方がない。
もともとの仏教は、個人が出家して修行したり知識を得たり戒律を守ったりすることで救われるという宗教だった。そういう自助によって救われるというのは現代の目から見ると納得感があるけど、古代や中世の時代にはそうとも言えない。
古代や中世では庶民は生きるだけで精一杯。戒律を守っている余裕なんかないし、そもそも識字率が低い時代だと仏教の教義を知ること自体が困難。
そうすると、救われるのは高位聖職者と金持ちだけになってしまう。そうした人間だけが天国に行ける宗教って何よ!?という問題意識から生まれたのが大乗仏教。「○○するだけで救われる」というのは、現代から見れば安易に見えるけど、古代や中世において庶民を救うには必要なことだった。
だから、現代の視点から大乗仏教を宗教の堕落みたいに言うのは間違ってる。
ちなみに、律法を守ることを重視するユダヤ教ファリサイ派に反発して、「人が救われるのは律法を守ることによってではなく、神を信じることによってだ」と主張したのがイエス・キリスト。だからキリスト教の聖典には、極端に○○せよ~などの決め事がない。
以下の浄土真宗コピペも、以上の理屈を知っていればよくわかる。
→浄土宗
ぶっちゃけ悟って仏になるの、俺ごときでは無理(←このへんが日本人的謙遜)働いてる一般人なんかもっと無理。今の仏教は金と暇のある金持ちにしか役立つ可能性がない。
でも安心しる。阿弥陀様って偉いお方が、自分が十分にレベルうpしたらおまいらも引っ張り上げてやんよ、ていってる。これはそこに張るしかないっしょ。
はらたいらさんどころじゃないよ。「あみださまに、全部」 さあ何度でもいいつづけよう
法然さまはおおむね正しいけど、阿弥陀様なめすぎ。念仏言った回数で差別するような方じゃねえはずだよ(←このへんが日本人的舶来びいき)心に思うだけで、修行とか、戒律とか自分をどうにかする必要もないよ。だから俺なんか結婚だってしちゃうもんね。ただ阿弥陀様に乗ればいいのさ
おまーも阿弥陀様なめすぎ。あの方は信者だろうと何だろうと、一切区別しないの。つまり俺たちは阿弥陀様のおかげで勝ち組。もう決まってんの。(←日本人的暴走)だから感謝の踊りを踊ろうぜ、let’s dance!
確定はしていない。よく批判する人として別の名前を挙げる人もいる
https://twitter.com/hakai_namagusa/status/1079689202516676610
林隆嗣「『論事』の正典化」斜め読み。またしても清水俊史さん批判されてるんだが、林先生の主張をみると清水さん、テキストを正確に読むことよりも先に自身のアイデアに当てはめて読んでいこうとする感じだね。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/67/1/67_445/_pdf/-char/ja
『論事』の正典化―上座部大寺派における「声聞所説」と「仏所説」
林隆嗣
emuaeda 仏教を研究しても仏教からは何も学べなかったのかな。個人的な感覚だけど、上座部仏教を学ぶ人は本当の仏教だと主張が激しく攻撃的かつ排他的な人が多い気がする。実際、大乗仏教と比べて紛争なども絶えないし。
2021/01/30
上座部仏教と大乗仏教なら確かに前者が後者に対し批判的になりがちだと思う。
(そういう対立が出る場合はということであって、その二者が同席したって99%そんな論争なんかしないが)
大乗仏教って何をやるんですかっていうと、お葬式やって、ふにゃふにゃしたお説教して、いい加減なもんでしょ。
だから地元檀家が減ったり葬式ビジネスが揺らいだりした途端に大乗仏教のお坊さんには売るものが無くなっちゃった。
だから上座部のお坊さんが売ってるような瞑想を急ごしらえで真似る大乗のお坊さんとかが増えてきた。
このあいだ増田でバズってたお坊さんだって、出家比丘の智慧と言えるようなものがどっかにあった?
どこにもないでしょ。
お説教慣れいい話慣れした学校の道徳の先生とかが言いそうな話でしかなかった。
色んな呪術的な儀式や祭礼とその格式みたいなものは構築してた。
でもそういうのに檀家としてガッツリ付き合ってくれる人達が減れば立ち行かなくなってくるよね。
その儀式に何の意味があるんだって言われると文化財的な価値認めてもらえない限り「無」だしさ。
情念というか、元増田に対する寄り添いの感情で押し切るような話だってでしょ。
上座部のお坊さんはあんな風に「温か」くはなくて、結構突き放したようなことを言う。
もっとましなことで悩んでもらえませんか?ぐらい言うことだってある。
鈴木大拙は大乗を情の仏教で上座部を理の仏教だみたいに書いてたけどまさにそれ。
なんとなく寄り添って、肩入れして、励まして、あとはお経を唱えるだけで阿弥陀様が救ってくれるからねとかいって、それで解決するのかと。
ちゃんと仏法を説いて、理屈で説明して、実践手段を与えて、やらせて、指導して、時に「だらしねえぞ」としばいて、頑張らせる、当人が頑張るのが仏教でしょうと。
もともと大乗仏教という名乗りは上座部仏教を「小乗」として見下し自分達を持ち上げる名乗りだったわけ。
念仏を一回唱えただけで極楽往生間違いなし!みたいなことじゃなきゃ世の中を広く救う、大多数のバカまで救う事なんてできないでしょうと。
いや念仏唱えて救われるってもう仏教でも何でもないし、呪術と迷信の凡庸な宗教ですよねと。
そんな話を広めたって迷信広めてるだけで誰のことも救ってないじゃんと。
自分達の教えは自分で頑張る人しか救わないけど、でもお釈迦様の教えがそうなんだからさと。
お釈迦さまは救い主じゃなくて教師だと名乗っていて、頑張るのはあんたらだよと言ってたよねと。
このような大乗VS上座部の激しめの論争がかつてはあり、(何百年以上前、さかのぼれば二千年前からの話よ)
大乗の方が後からできたものの常として勢いも鼻息も強くて攻める側だったの。
でも現代では大乗の大衆向けヒット商品だった呪術的な儀式とか念仏とかが全部通用しなくなって
上座部の教えとか瞑想のメソッドが「マインドフルネス」なんてパチモンが出回るぐらいに売れるようになったわけ。
だから今は上座部側の方が理屈で大乗に攻め込む立場で、大乗の方がそういう場面ではまあまあと誤魔化す、ぐらいになった。
ただ大乗仏教に紛争がないなんて言われるとそれはさすがにどうなのかってことで
日本の歴史の中で寺同士で殺し合い燃やし合いした荒くれ坊主は全部大乗仏教ですからね。
今でも創価学会が仲間割れした兄弟みたいなとこと争いまくってるけどあれだってどっちも大乗仏教の中の近い宗派でしょ。
世界的に見れば上座部仏教で仏教徒とイスラム部族と争ってるとことかあるけど
あれは上座部だから大乗だからっていうよりも政情とか民族とか経済の問題なんじゃないのかね?しらんけど。
“当人が頑張るのが仏教” こういう考えが嫌い。どうしようもなくなったときに、絶望しないためにあるというのは宗教の一つの機能の気がする。それがないなら、大乗でいいです
だから上座部仏教は宗教ではないという人が上座部のお坊さんにもいます。
天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[1]。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられた。
目次 [非表示]
1.2 四宗兼学
1.3 止観行
1.4 所依
1.5.1.1 総本山
1.5.1.2 門跡寺院
1.5.1.3 大本山
1.5.1.4 別格本山
1.5.1.5 その他の寺院
1.5.2 天台寺門宗
1.5.3 天台真盛宗
1.6 その他天台系宗派
1.7 教育機関
1.7.1 大学
1.7.3 養成機関
4 社会運動
5 脚注・出典
6 関連項目
7 外部リンク
正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。
初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が日本に入った。次いで、伝教大師最澄(767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本に帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである。最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。
この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。
真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。
当初、中国の天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。
しかし日本天台宗の宗祖・最澄(伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に空海(弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。
とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。
なお真言密教(東密)と天台密教(台密)の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである。
四宗兼学[編集]
また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。
止観行[編集]
天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。
所依[編集]
福王寺(熊本県山都町、宮司兼豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である)
その他天台系宗派[編集]
孝道教団
叡山学院
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20130121001007
で id:alloreverything が、
宗教はほとんどライフハックみたいなものなのに、ネット上にレビュー記事が少ないなあ。誰か「○○教に入信してみた」とか「××教が△△教より優れている5つの理由」とかってエントリあげてくれないかな。
と言ってたのでリクエストの答えてみたよ。
キリスト教とか仏教以外の宗教は今世のことばかり考えて他者に救いを求めてるよね! でも輪廻と因果の理を説いて過去世や未来世のことを考えないと世界を説明したことにはならないよね。だから仏教以外はここで落選!
小乗仏教の人たちは自分が悟りを開いて解脱することを目的としてるけど、大乗仏教は仏陀となって世界を救うことを目指してる。どっちがいいかは明らかだよね? 上座部のみなさんはここで脱落。
仏典はたくさんあるけど法華経が一番なんだ。なぜかって、おしゃかさまが最後に書かれた経典だからね。その他の経典では明かされなかった秘法があるんだから、これを最上のものとしなくてどうするというのだろう? 日蓮宗や天台宗以外のほとんどの宗派の皆さんは、ここでさよならだ。
「ウソも方便」って言葉は知ってると思うけど、法華経にも方便があるんだ。それが前半の14巻。特に2巻なんかはそのまんま「方便品」って名前だからね。方便は大事だけど、本当の教えと仮の教えとどちらが大事かは言うまでもないよね? 日蓮宗一致派のみなさん、残念でした!
末法の衆生には成仏をする機縁がないから、事の一念三千である御本尊に題目を唱えることによってしか成仏ができないんだよ。そうして下種を受けていない衆生はゴールが見えているけど道順が分からない迷子のようなものだね! え、何を言ってるのか分からないって? つまりおしゃかさまは末法でオシャカになっちゃった、ってことさ! 日蓮大聖人を末法の本仏としない日蓮宗身延派のみなさん、惜しかったね!
あと、現状の日蓮正宗は血脈が途絶えているから、大変残念なことになってるよ! そうなると、もう創価学会に入るしかないね!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E9%87%8D%E7%9B%B8%E5%AF%BE