はてなキーワード: 旧弊とは
素朴な意見だが、例のポスターに「もの申す」人々は、性を商品そのものにしている風俗業界、芸能界、TV業界についてのスタンスを明らかにすべきだと思う。
性を商品化することがよいことではない、という主張はよくわかるよ。分かる。
だが、「ポスターにもの申す」人々を見てると、明白に商品化され、言わば「奴隷」となっている「人間」がいる横で、人間を奴隷扱いした「絵」にいちゃもんを付けているようにしか見えなくて、とても滑稽だ。「いや、君、横に実物がいるよね? 見えないわけないよね? なんでそれには何も言わんの?」という。マジで。怖いの? まさか問題ないと思ってるわけないよね? そこにケチ付けるの面倒だから?
それか、美意識?って思う。風俗や芸能界に文句付けないのは、本当は端的に言って「キモくないから」だけじゃないの?
「ゾーニングされてるからOK」「日常を侵食してくるのが問題」…?あのさー。自分にさえ見えなければ誰が商品化され消費されていてもいいって、マジですか? その程度の公共意識で現代社会を論じようなんて滑稽を通り越して醜悪。「そもそも性的消費の対象とされる恐怖が…」?あのさー。たとえば自分が食肉として消費される恐怖ってものがあるとしてさ、そういうフィクションを規制してくれって言い分はそれなりに成り立つかもしれないよ。ただしその横に実際に人肉屋があるとしたらどうよ? まず問題視すべきなのがどっちかは明白だろ? 人肉屋を放置してフィクションを規制しようとする人間がいたら、ちょっとその意図を疑うだろ?
だから、こんな状態でどれほど正論を並べられようとも、残念ながら空理空論にしか聞こえない。「あいつらフェミニズムとか名乗りながら、やってることは単なる弱者イジメ。容姿や雰囲気だけを根拠に『キモーいw』『○ねばいいのに…プークスクス』って仲間内でヒソヒソやってるのとどこが違うのさ。」て思われるのがオチだし、オタク側の過剰に見える反応っておおむねそういう心情じゃないかと思う。
実際これに反論できるの? それとも「私個人は風俗業界も芸能界も認めていないからOK」なんですか?
じゃあTVは?
オレは、現代社会において極めて旧弊で危険なジェンダー観を常に生産し人々に固着させている第一にして最大の責任者はTV業界だと思う。NHKですら、まず朝から「女性を持ち上げているように見せて実は若いかわいいアイドルで視聴率を稼ぎたい脚本を使いまくる朝ドラ」とか「男性メインキャスター&サポートの女性アナウンサーという立ち位置を何十年も変えようとしないニュース番組」に始まり、何の問題意識もないよね。おばさんとか爺さんが主人公の朝ドラ、作ってみろよ。女性がメインキャスターで男性アナウンサーがサブ、というニュースはなぜないんだよ。
実際。朝から何百万人もの人間が毎日のように目にするこういうモノを放置して、オタクポスター叩き。一体そのどこに正当性を感じればいいのさ? オレが言ってること、おかしい?
おかしくないとすれば、そしてもし、それでもオタク叩きやめてTV叩きを始めたら仲間の皆さんから同意を得られない、って思うとしたら、それは要するに日本のフェミニズムなるもののレベルが「その程度」ってことだろ。憂えるべきなのは社会の意識ではなくてフェミニスト自身のこういう意識の低さだよ。
あっちの界隈で時々見かけるけど、無理筋だよね。
そりゃ、日本が併合する前の韓国なんて旧弊な中国の属国で、近代化なんて無理だったんだろうし、日本がインフラつくったり、ハングルの教育すすめたり、白菜持ち込んで白菜キムチの発展に寄与したのは事実かもしれないけどね。
でも「だから日本に感謝しろ」ってもそこは素直に感謝なんかしにくいだろ?
あっちの界隈の人たちが、原爆落として本土決戦を回避しつつ、旧弊な大日本帝国を滅ぼして、戦後日本が、一時的とはいえ世界第二位の経済大国になるためにいほいろやってくれたアメリカさんに心から感謝するかというと、んなことはないでしょ?
311よりさらに前、2004年のスマトラ地震後の東南アジアへの自衛隊派遣からずっと
軍人には敬意を持たねばならんとは思っているのだが
この人が訴えているような窮状(予算も人員もなく備品は乏しく、するとますます旧弊な精神論に頼る傾向)を一部の偉い人間に伝えると
「これも平和憲法のため自衛隊が白眼視されているせいだ → だからとにかく今すぐ憲法改正」という話にされてしまって
とにかく改憲で自衛隊の外面上の「名誉」だけ美辞麗句で飾れば解決すると思われる
憲法の条文だけ変えても腹の足しになんかならんのだよ
防衛大臣の給与を削ってでもとにかく備品と人員に金を回して改善しろ
話はそれからだ
まずセクハラ描写が男の願望だとか真似する奴がいるとかは間違いな
だって男の願望と言うなら今の漫画にはもっと高品質なものがたくさんあるから
凝ったシチュエーションで美少女にごほうびもらったりちやほやされたりさ
セクハラ描写というのはそういう凝ったシチュエーションを描けない作家(妄想力不足であったり照れであったり)がやるソリューションなんだよ
プロとしてお色気的なものを入れたい、けどそれに割ける創作力もページ数も乏しい、
そういうエロいことに奥手な漫画家ほど唐突なセクハラ描写を入れがち
セクハラは触ってゴラー言われて1ページ以内で完結するからエロいことにリソース割きたくない人ほど手軽に感じて採用してしまう
だからセクハラ描写やる漫画家がすけべだとか女を軽視してるとかは必ずしもそうではない
(ポリコレ的な知識があるかどうかとそれらとは実は別のことだ)
女との関係性もコミュニケーションも貧しい昭和前半の男のアクションであり
ワートリのケツさわりだってあんなもんサービスになってないし、トリトン体のスーツとか(熊谷隊の戦いは作画パワーが高くて素晴らしかった)のほうがよほど喜ばれてるわけで
ああいうつまんないセクハラ描写はもはやほっといても滅びていくから一部のまだやってる漫画家のことは旧弊を脱せない老人として生暖かく見守ればよい
そしてあれが喜ばれてるとか真に受けられてるとかいう珍分析を披露していた一部の女性は
たぶん男性とあんまり付き合いがないしコンテンツとしての性的なことに対する感性も鈍い、つまりセクハラ描写するような漫画家に負けず劣らずの奥手な昭和人間だと思う
https://twitter.com/katsuyatakasu/status/655958931190124544?s=19
昨日から高須院長が2015年10月にTwitter上で呟いたこの発言が左翼達によって叩かれている。
しかし僕はこう思う。
高須院長が信じたい物語を信じるその自由は、その権利は果たしてこの様に蔑ろにされていいものなのか、と。
皆で寄ってたかって高須院長の内心の自由及び表現の自由を毀損する目的で言論の棍棒で殴り付ける今の左翼達のやり方は、皮肉にも往時のファシズム国家の様だとさえ僕には思える。正直言えばかなり怖い。
左翼達からまるで歴史修正主義者のように悪し様に言われる高須院長だけども、そもそも院長は件のツイートにおいて「アウシュビッツは捏造だと思う」と言っているだけなのだ。
この文章からは院長がアウシュビッツで起きたとされるホロコーストのどこからどこまでが捏造だと思っているのか、を明確には判断できない。
そして歴史事実というものはその根拠とされる資料と考えられていたものが実は虚偽であったり、それより更に確かな資料が後に発見されたりする可能性が常に考えられる為に、未来永劫に渡って不変不動のものではないわけだ。
今回左翼達が息巻いて批判する「アウシュビッツで起きたとされるホロコーストを根底から捏造だと否定するもの」などではなくて、
「そうした確からしき歴史事実の全てが今後の再検証によっては変容し得る」という歴史学のセオリーについての指摘なのではなかったか、と僕は思う。
そして仮にそうじゃなくても高須院長の内心の自由、そして表現の自由はやはり護られなくてはならないと思う。
そして何より高須院長には信じたい事実を信じる広い意味での幸福追求権がある。
だからTwitterで息巻く左翼達は自分達が愛してやまない平和憲法に自ら背くような愚かな行為を今すぐ止めて、高須院長に即刻真心のこもった謝罪をするべきだと思う。
高須院長は懐の深い方だからきっと許して下さることだろうと思う。
それから今回の件でアウシュビッツ博物館の公式Twitterが高須院長の件のツイートに対しこの様なリプライを送っていた。
https://twitter.com/AuschwitzMuseum/status/1106462599540105218?s=19
僕が思うにこれはクソリプ以外の何物でもないと思う。
確かにドイツを初めとした欧州各国ではホロコースト否認が法律によって禁止されている場合があるので、アウシュビッツ博物館も今回遠く離れた異国の院長である高須院長に対してお国柄もあって過剰に反応してしまったんだと思う。
しかしこれがもしお互いが国家を代表する立場にあったなら、内政干渉にすらなり得た行為だったと強く自覚するべきだ。
これは極めて不謹慎だ。
なぜなら日本は旧弊的などこのドイツさんとは違い進歩的な平和憲法が存在し、この憲法の元ではナチス礼讃もホロコーストの否認も国民の権利として容認されているのだから、高須院長の今回の行為は日本国民として何一つ問題のない行為だったと言えるからだ。
よってアウシュビッツ博物館公式Twitterは即刻高須院長に真心をこめた謝罪をするべきだと僕は思う。
勿論、この場合においても極めて懐の深い高須院長ならば許して下さることだろうと思う。
どうだろう。ここまで僕は何か間違ったことを言っているだろうか?
はてなブックマーク - なぜ著者や編集者は「書店で買ってください」「初速が大事なんです」と言うのか|平林緑萌|note
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.mu/moegi_hira/n/nea1769736db5
これは『応援したいと思っている人はそうして下さい』とお願いしているだけで。そう思わない人に何も言ってない。この方自身も普段はamazonにリンク張ったりしているし。
だのに、全てを焼き払いに行く人気コメント主達、やれ旧弊の権化の出版業界は出版社も流通も本屋もまとめてなくなってしまえ!消費者に指図をするな!ケツを拭かされる理由は無い!お前らは淘汰される側だ!システムの不備を消費者に押し付けるな!などなど。
原文:https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/2675_6508.html
尤もっとも多い中には万年筆道楽という様な人があって、一本を使い切らないうちに飽あきが来て、又新しいのを手に入れたくなり、之これを手に入れて少時しばらくすると、又種類の違った別のものが欲しくなるといった風に、夫それから夫へと各種のペンや軸を試みて嬉うれしがるそうだが、是これは今の日本に沢山たくさんあり得る道楽とも思えない。
万年筆の最上等になると一本で三百円もするのがあるとかいう話である。
自白すると余は万年筆に余り深い縁故もなければ、又人に講釈する程に精通していない素人しろうとなのである。
万年筆に就ついて何等の経験もない余は其時丸善からペリカンと称するのを二本買って帰った。
そうして夫それをいまだに用いているのである。
其上無経験な余は如何いかにペリカンを取り扱うべきかを解しなかった。
夫それでペリカンの方でも半なかば余に愛想あいそを尽かし、余の方でも半ばペリカンを見限みかぎって、此正月「彼岸過迄ひがんすぎまで」を筆するときは又一ひと時代退歩して、ペンとそうしてペン軸じくの旧弊な昔に逆戻りをした。
酒呑さけのみが酒を解する如く、筆を執とる人が万年筆を解しなければ済まない時期が来るのはもう遠い事ではなかろうと思う。
ペリカン丈だけの経験で万年筆は駄目だという僕が人から笑われるのも間もない事とすれば、僕も笑われない為に、少しは外ほかの万年筆も試してみる必要があるだろう。
ペリカンを追い出した余は其姉妹に当るオノトを新らしく迎え入れて、それで万年筆に対して幾分か罪亡つみほろぼしをした積つもりなのである。
万年筆の最上等になると一本で三百円もするのがあるとかいう話である。
自白すると余は万年筆に余り深い縁故もなければ、又人に講釈する程に精通していない素人しろうとなのである。
そうして夫それをいまだに用いているのである。
其上無経験な余は如何いかにペリカンを取り扱うべきかを解しなかった。
ペリカン丈だけの経験で万年筆は駄目だという僕が人から笑われるのも間もない事とすれば、僕も笑われない為に、少しは外ほかの万年筆も試してみる必要があるだろう。
万年筆の最上等になると一本で三百円もするのがあるとかいう話である。
そうして夫それをいまだに用いているのである。
其上無経験な余は如何いかにペリカンを取り扱うべきかを解しなかった。
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去年長い日記つけてたのを思い出したので見返して、コメを見て、気が立ってたなーとか申し訳なく思い、自分の思ったことを書いておきたくなった。
もうすぐ試用期間が終わる。
今のところ短縮勤務のまま、英語も出来ないのに、普通に仕事している。
当時ぐちゃぐちゃしていた増田の転職理由は、今考えると以下に整理されそう。
・短縮勤務だと給料が上がる見込みが薄い
・事務や契約管理など向かない仕事が増えて、評価下がるので嫌気がさしていた
・旦那氏(同職場で一つ上の階級)から給与の比重的に仕事を軽視されており、超ムカついてた
・旦那氏から家事育児をこき下ろされ、プライドやメンタルがズタボロで、なんらかの自己承認が欲しかった
下の二つは増田家庭固有の問題だと思われる。詳細は家庭板案件なので伏せるが、所謂モラ夫系。ありがとうもごめんなさいもお互い様精神なくこき下ろされても相手を慮る気持ちを持ちつづけられる超人はそうしてほしい。増田は病みかけた。なので普通の転職とは少し気持ちが異なるかもしれない。
話が脱線した。
これがどうなったかと言うと。
◾️転職後
・新しい仕事は給料アップに繋がりそうな内容、最新技術もやらせてくれる。研修やセッションもネットワーク越しに受けられて最高。美容効果高い。
・短縮勤務だけど100万ほど給料上がった。上への道も管理系以外でも普通にあり、美容効果高(以下略)
・ジョブディスクリプション(職務記述書)あるから基本的には事務や契約管理作業は不要。美容(以下略)
・旦那氏と給料が並んだので「じゃあ稼げば?」の返しに黙らなくなりプライドが回復した。美容(略)
・現場が遠いため、旦那氏に少し育児ルーティンを任せることに成功した。美(略)
全経験を使って解決するから頭使うとか、年休が減ったとかは趣味的にはしんどいけど、基本いいことしか思いつかない。
旧弊社の人柄や居心地の良さが恋しい時もあるけど、でもやっぱり転職やって良かった。
人間、向き不向きがある。
育児家事は金でフォロー出来るところはしていくと割り切るほうがずっとメンタルが楽だ。
増田の持論は「根本的に苦手な内容は成長を考えず、その分強みを伸ばしてフォローを期待」だ。
なので稼ぎを今後も上げていきたい。
という意見を見るたびに、その個別の妥当性はひとまずおいておいて、
「○○さんちではああなのにうちではこうなのは恥ずかしい」
とか
「△△みたいなことをやったら他所様に顔向けできない」
とか
正義や思想や筋よりも「恥」を規範の最上位に置くやりくちがさ。
似てなくないか
見えてしまう
もちろん国際社会で日本が一人前の面するにはグローバルスタンダードを大事にしなきゃいけない
でも正義やロジックまでそこから持ち出すのは正当性があるんだろうか
自分たちの正義は自分たちのロジックで導く努力をすべきではないのだろうか
※以下の文章を書いた人間は、2018年の夏のある日、何者かに連行されて戻ってきませんでした。多分どこかの留置所で鼠に囲まれて暮らしているんだとおもいます。
オリンピックを2年後に控えた平成最後の夏を送りながら、なぜオリンピックに向けて気持ちが盛り上がらないかをつらつらと考える。
こういった大きなイベントに無邪気に期待を寄せられなくなってしまった原因のひとつは、純粋にイベントの本旨を楽しめなくなったためだ。オリンピックはその事前準備で、政治的な思惑に翻弄されまくりすぎた。復興五輪だと言い出したのは誰だったか、今となっては定かではない。復興に手を貸してくれた世界に復興の状態を知ってもらう、興味を持ってもらうということ自体は素晴らしい。しかし、例えば小池百合子氏の、長沼ボート場を巡る一連の経緯を見ると、うんざりしてしまうのだ。
頭の黒い鼠とは何かを調べると、こんなのが出てくる。インターネットは便利だ。
曰く、食物などをかすめ取る身近な人をネズミにたとえた語、物がなくなった時に、身近にいる人間が盗んだのだろうということを暗にいう言葉だという。
都民は失った。オリンピックの時に輸送を担う大動脈となりうるはずだった環状二号線の輸送能力とか、元から安全性には問題がなかった豊洲ブランドの安全イメージとか、年間200億円に上る市場移転延期経費とかを。そして何より、もっと健全な都政というサービスを受けられるはずだった2年間を。怪我の功名的に交政審の優先して整備されるべき6路線が整備されることになったのは皮肉だ(こんなのいままでだったら都が基金を積み立てるなんてあり得なかったが、彼の方が手柄を焦ったがために成立したように見える。早速8号線に江東区が食いついているし)。
そろそろ都民は気がついていいと思う。ていうか気がついているか。
オリンピック施設の見直しや、豊洲の市場の移転の一連で「支持率」とか「イニシアティブ」とか「期待感」とかっていう名前の”利権”をむさぼっていたのは誰なのか。そしてむさぼり尽くした挙げ句に後に残った膨大な敗戦処理をひっそりやり過ごそうとしているのは誰なのか。見せ方だけで国政に打って出ようとし、あまつさえ自民党の寝首すらかこうとし、さすがにそれはけっちんを食らって以来イメージカラーと称する緑を封印し、ギトギトしたイメージを払拭することに必死で、2020年に再選を狙っているのは誰か。
これの1:48からの顔面演技がとても好きで、シニカルな笑いをウィスキーの肴にしている。
こういう顔面芸でコトを進めるのではない、重厚で落ち着いた人が知事にならないだろうか。都道府県の政策遂行こそ、地に足の着いた住民本位のものであって欲しい。そういうのを見て国政が襟を正すくらいの、粛々とした都政運営であって欲しい。
そういうファンダメンタルな部分がしっかりしていて初めて、都民はオリンピックに無邪気に期待できたりするのではないだろうか。
小池氏の政策の特徴のひとつはイメージ戦略が幅をきかせることである。イメージ戦略も、確かに重要だろう。しかし小池氏のはイメージ「だけ」戦略ではないかと首をかしげるものが多い。ボランティアのユニフォームがダサいからもっと格好良くします、とか、&Tokyoは意味わからないのでTokyoTokyoOldmeetsNewにします、とかは、舛添前知事のカラーを消し去るためとしか意義が見いだせない。実際、ダサいといわれるボランティアのユニフォームは新デザインと併用で継続使用しているし、TokyoTokyoについては意味不明度合いでいうと&Tokyoとどっこいである。首都大学東京については石原慎太郎のネーミングセンスが悪いのはわかるが、それを変えろと言い始める時点で同じ土俵に乗った愚策になるという感覚がない。というか前の知事がやったことの色消しに躍起になるところが、そういうレベルで勝負していることが透けて見えて、心胆を寒からしめるのである。前政権の政策の否定はトランプ大統領の十八番だが、あちらは内容に賛否があるとはいえ公約の実施である。翻ってこちらは実施の意味がよくわからない。東京さくらトラム?都電荒川線で良かろう。そんなものに一体、いくら予算を割くつもりか。
小池氏が展開するイメージ戦略で個人的に最悪だと思っているのは、氏自らを指して女子呼ばわりすることである。首都のトップに君臨する首長が自らを指して女子呼ばわりとは、悪い夢である。一回ジェーン・スーに3時間くらいぶっ続けて説教されるといいと思う。そしてそれを氏のお好きなニコニコ動画で流してみればいいのではないか。自民党に代表される旧弊にいじめられ、ガラスの天井に阻まれるかわいそうな、しかしそれに負けない女子、小池百合子66歳。サリーちゃんやメーテルのコスプレもしちゃう(これについては、体制側がカウンターカルチャーにすり寄るナンセンスを指摘したいが、本旨からそれるのでやめる)。
強権発動して見せしめに部下や先達の粛正をするあたり、独裁者のよくあるスタイルである。どうせ強権を発動するのであれば、今時の民主主義的なやり方では速成が無理な都市改造を広域にするのが良かろう。狭域でデベロッパーがどや顔して整備する拠点開発に蹂躙される東京ではなく、広域で東京都ならではで推進できる内容を実施してみるのはいかがか。独裁者がトップに立ってきれいになるのは街並みと軍服くらいしかないのだから。でも小池氏は多分、しない。そこまで腰の据わった政策論を持っていないのだから。だって鼠だし。コスプレが好きな氏のこと、ミッキーマウスになれば見栄えも受け入れられやすいかも。あ、女子だからミニーマウスか。
https://anond.hatelabo.jp/20171112000738
https://anond.hatelabo.jp/20170222223450
初めに言っておくけど、私は妊婦や産休を取得する人間を非難したり揶揄したりすることには全く賛同しない。そのような言説には与しない。人口再生産という共同体に不可欠な任務を請け負った人間は社会から出来うる限りサポートされるべきであり、また、就業に関しても最大限考慮されるべきだと考えている。
その上で言いたいのは、だからといって私は妊婦を叩く増田を非難できず、また非難したくはない。
皆リベラル的な言説(例えば悪いのは妊婦ではなく会社だから会社に言え、仕事を切り上げさっさと帰れ等)という言説を正論であると主張している。しかし、何をもってそれを正論と言い切れるのか?
個人の自己決定よりも同質的な共同体の繁栄に重きをおけば、正論となるのはむしろ保守的な価値観(性役割分担やモーレツ企業)ではないだろうか。(私は自己決定に重きを置くので反対だけど)
はてブが正論として扱うものは、本当に正論なのだろうか。そんなものは存在するのだろうか。結局は価値観というものに収束してしまうのではないだろうか。
ミクロに見れば、あなたが元増田と同じ苦境に陥った時、果たして仕事を無視して定時で帰ったり上司に人員補充を進言できるのだろうか。上司や会社から不当な扱いを受けたり解雇されるかもしれないのに?
私だって労働者の権利は守られるべきであり、時代に合わせた経営が行われると嬉しいと考えている。
しかし元増田がその理想を実行しようとして、結果不利益を被った場合、誰がどうそれに報いるのだろう。理想のための礎となれと強要するのであれば、戦中の日本やISとどう違うというのだろう。
元増田にかける言葉として「こちらの価値観に賛同すれば回り回ってあなたにも利がある」という言説はまだ説得力を持つが、「こちらの価値観に賛同しないものは不利益を被っても我々の関知するものではない」というのであれば、それは結局全体主義と何が異なるというのか?
多様性の中で認められるものには、旧来の家父長制や性分業といった価値観も含まれる。リベラルというのはこういったものも包括してお互いに強制せず、認めあうものではなかったのか。そしてそのために対話があるのではないのか。
自分たちの思想に賛同しないものを、旧弊な価値観から抜け出せない蛮族として扱うことこそ、下劣で野蛮な行為だと私は思う。そして元増田のような苦境にある人物と対話するときに重要なのは、働く女性の苦境を繰り返し説いてわかってもらうこと、また過渡期に発生する元増田のような苦しみに対し、出来る限りの理解に努めることではないのだろうか。
追記
私は共同体に重きを置く価値観を「持っていない」、だけども「働く女性を的外れに叩くバカ」であっても安易に叩くことはやめませんか、と言ってんだけど読めてないんか。
あと性役割からの解放を目指した結果今の産休制度とかがあるんだと思うんだけど…
id:ooishikuranosukenowakenai
共同体に重きを置く価値観を持つのは勝手だけど他人におしつけたり因果関係のない性役割だのモーレツを持ち出すのはやめような。あと働く女性が戦ってるのではなく働く女性を的外れに叩くバカが叩かれてるのが現状
http://b.hatena.ne.jp/entry/348633710/comment/ooishikuranosukenowakenai
ハイキャリアないわゆるエリート女性の婚活話でいつも思うんだけど
うまくいかないのは要求の高さのせいではなく要求の方向性のせいちゃう?
大体そういう女性って自分と同じぐらいの学歴・職歴・収入の人を求めてるじゃん
それでそういう男性からの反応が思わしくなく苦戦して愚痴っぽくなっていく感じ
「自分と同格のエリート男性を求めるのは高望みでないはず。何故??」ってなる。
東大主席卒業のすごい頭いい女性弁護士も自分の婚活問題でこれ言ってた。
まず気付いて欲しいことは
そういうのを求める時点でものすごい競争率の買い札出してるんだってこと。
そして、そんな不合理な買い札出してるのはエリート女性だけだよ。
エリート男性は「僕と同じぐらいのエリート希望」って買い札は出してない。
エリート女性はエリート男性から引っ張りだこで飛ぶように売れてなきゃおかしいよね。
でもそうなってない。
つまり、エリート性とか高い収入ってのは2枚セットで揃えても効用が低いんだよ。
自分が仕事に傾いてて収入高いなら、配偶者はその逆のほうが互いに補える。
仕事の能力や収入を求めないぶん別のことを求めることが出来る。
これは家父長制とは関係ない。
自分の手持ち資産と相手の手持ち資産を見比べて良い組み合わせを考える、
自分に十分な収入があるほど配偶者候補の経済力要素の魅力は減っていく。
自分が高収入エリートなのに結婚相手に同じこと求めるエリート女性の選好がおかしい。
そこにあるのは単に自分が打ち込んできたジャンルへの執着心であり、虚栄心だ。
つまり、
経済力がなく性格がよく家事能力があり、容姿やフィーリングが好みの異性を選べばいいのだ。
経済力を張り合える「同格」の相手より、自分の経済力を素朴に尊敬し感謝してくれる異性を選ぶべきだ。
http://anond.hatelabo.jp/20170523004502
sktknko 私はエリートじゃないけど、自分より稼ぐ見込みのない人に魅力感じないから付き合えないし、単純に尊敬出来ない。
リンク2017/05/25
出ました。
貧しい女達が「自分より稼がない人はダメ」って言うのはいいの。
だって貧しい同士でくっついたら詰むだけだし。
女が収入を得られない時代のライフハックとして開発された価値観や選好としてならいい。
こういう発言って「旧弊的価値観に脳を冒された反動分子」が言ってるんだよね?
早く総括して、自分の稼ぎで配偶者を養うことに喜びを感じる正しい価値観を受け入れて欲しい。エリート男性と同じように。
ただもし、
「自分より稼がない男に魅力を感じないし尊敬できないのは女の本能」っていうなら
それはつまり……女は社会進出すればするほど、稼げば稼ぐほど、
もしもそれが本能なら、そんな本能を持った生物はあんまり稼がない方が幸せなんじゃないの?とすらおもってしまう。
「俺は自分より稼げない人間は好きじゃないし尊敬しないんだ」って言って炎上を免れる男はいない。
「うちの家内には家事と親の介護全部やらせてるけど家内に対する尊敬は無い。
あいつは稼げないから対等でないし愛も無い。」って言ってみ。絶対社会から許されない。
でも
sktknko 私はエリートじゃないけど、自分より稼ぐ見込みのない人に魅力感じないから付き合えないし、単純に尊敬出来ない。
リンク2017/05/25
それ以上の所へ出て行けない柵にもなってるし、守ってもらえるガードレールにもなってる。
ともあれ、ハイヒールは滅ぼさねばならない。
↑ これの筆者である。私がこのエントリを書くにあたって意識したのは、共産主義、ファシズム、ラディカル・フェミニズムだ。そこにミソジニーの味を加えてみた。
ついでに、最近話題のポリコレも組みこんだ。その点ではリベラル思想も汲んでいる。
文章はいい加減だし、今日の日本において実現可能性はゼロだと思うが、この主張自体はマジメに唱えているつもりである。
たとえば、労働問題について考えてみよう。
「過労死するほど働く自由」と「過労死するほど働かない自由」の両方を労働者に与えれば、それで十分だろうか?
私はそうは思わない。読者諸君も、一部のリバタリアンを除けば、「過労死するほど働く自由」を認めないはずだ。
「過労死するほど働く自由」なんていうものは、たとえそれを望む労働者がいるのだとしても、決して認めてはならない。政府が長時間労働を厳しく規制し、それを抑圧することが必要だ。
人が趣味や遊びをやりすぎて死ぬというのは愚行権の範囲で、一応は自由だと言えるかもしれない。しかし労働問題においては、そういう権利を適用するべきではない。
長時間労働は、それをやる自由とやらない自由の両方を認めてしまった場合、ブラックな労働環境の中で強制的にやらされて苦しむ人が続出するのが明らかである。
女性が労働するときのハイヒール・化粧についても、これと同様のことが言える。
明治時代の日本でも、あるいはどこかの後進国でもいいが、近代化の過程では必ず「上からの改革」がある。
「旧弊に従う自由も、旧弊に従わない自由も、どっちも認めましょう」という生半可な方法では、おそらく近代化を達成できない。国民はややもすると旧弊に従おうとするからだ。だから政府が強権的に指導し、旧弊を排除することで、国民はようやく新時代に適応できる。
たとえば女性差別がひどい国では、政府が女子教育の権利を提唱しても、おそらく多くの国民はそれに従おうとしない。
権利を与えるだけでは、都市部のごく一部の家庭が娘を学校に通わせるにとどまるだろう。貧困層や田舎にまで女子教育を普及させるには、政府が国民に権利を与えるだけでは不十分であって、その権利を行使することを国民に義務付けなければならない。
「おらが村では女子教育なんてやらない」とか、「うちの家庭は伝統的な女性にふさわしい育て方をしたい」とか、そういう保守的な反発をするのは男性だけではない。母親や祖母も「女はかくあるべし」と考えている。「女子を学校に行かせる余裕なんてない。家の手伝いをさせたい」と思っている毒親もいるだろう。
そして女子児童は、当人がまだ子供であるため、自分がどういう価値観に従うべきかを判断できずにいる。
ここにおいて「多様な価値観を尊重せよ」などという主張は有害だ。政府は旧弊にまみれた価値観をきっぱりと否定しなくてはならない。
当然ながら現代の日本で、後進国が近代化するときのような強権的なやり方は適さない。とはいえ、政府や会社のお偉いさんが主導しなければ何も改善しないというケースが多いのも事実だろう。
たとえば就活の会社説明会で服装自由と言われたら、参加者は皆がスーツを着てきたという笑い話がある。こういう未開社会のごとき状況を改善するためには、「必ず私服を着ろ。スーツを着るな」という強権的な命令が必要だ。
上から改革をおこなって、下々の者は全員一斉に従う。――今日でもこれが最も現実的な手段なのだ。
私はなにも女性からハイヒール・化粧の権利を奪おうというのではない。会社や官庁ではそれを禁止しろと言っているだけである。
前回に書いたとおり、ハイヒールも化粧も、やりたい人だけがプライベートな時間に楽しめばよい。(短髪はすぐに伸ばせないけれども、それならカツラをつけて好きなヘアスタイルにすればよい)
私がこのように主張するのは、リベラル思想の影響を受けたからだ。
もし本物の極左ファシストであれば、プライベートな時間にもどんどん介入し、ハイヒール・化粧を完全に禁止するであろう。しかし、私はそこまで厳しい統制には反対である。
近年、女性蔑視の"萌え絵"等が問題になっているのをよく見る。
そのときのリベラル側の主張は、「女性蔑視の表現は政治的に正しくない。プライベートでその表現を楽しむ自由を制限するつもりはないけれども、公共の場所ではちゃんとポリコレに配慮せよ」というものであった。
私はこれに賛成だ。そしてそうである以上、ハイヒール・化粧もまた、公共空間から追放せねばならないと思う。それらのものは非常に女性蔑視的であるからだ。
もっとも、ハイヒール・化粧は女性たちが好んで選択しているという場合が多いだろう。
「女性の主体性を尊重しましょう」――これがリベラルにとっての錦の御旗なのだ。
しかし、私は世のリベラルほど無邪気になってその御旗を掲げることはできない。前回に書いたことの繰り返しになるが、女性がハイヒールや化粧を好んで選択することは、被差別者がなぜか自分の受けている差別を肯定するという現象だからである。
被差別者が望むならば差別を受ける自由はあるのか? 被差別者であればその差別を正当化してよいか? これはきわめて難しい話である。ただ一つ言えるのは、ここにポリコレ的な問題意識を持たないリベラルは、よっぽど鈍感か、よっぽど不誠実ということだ。
(この意味では、リベラルを気取っているフェミニストなんかより、ラディカル・フェミニズムの方が先鋭的になって突っ走っている分だけ、かえって正しい認識を持っている。)
私は歴史に詳しくないため、このさきは与太話しか書けないが、昔の中国には纏足という習俗があった。
そしてこれはあまり知られていないことだが、お上が纏足を強制していたわけではない。とりわけ清朝は漢民族のこのバカらしい習俗を忌避し、それを禁止する傾向にあった。にも関わらず人々は好んで纏足を選択し、競うようにその美しさを賞賛していたという。
女真族(満州族)の建てた清朝が纏足禁止令を出しても止めようがなく、結局、義和団の乱以後の近代国家への動きの中で反対運動が起こり、まずは都市部で罰則との関係で下火になった。しかし隠れて行われ、中国全土で見られなくなるのは第二次世界大戦後のこととなる。最終的に絶えた理由として、文化大革命で反革命的行為と見なされたこともある。このため、現在でも70歳以上の老人に一部見受けられる。
当時、女性が嫁に行くと、嫁ぎ先では何よりもまず最初に、花嫁の足を調べた。大きな足、つまり纏足をしていない普通の足は、婚家の面目をつぶすものだ。姑は、花嫁衣装の裾をめくって、足を見る。足が十二、三センチ以上あったら、姑は裾を投げつけるようにして侮蔑をあらわし、大股で部屋から出て行ってしまう。婚礼に招かれた客は、その場にとり残された花嫁に意地の悪い視線を投げかけ、足を無遠慮に眺めて、聞こえよがしに侮蔑の言葉を口にする。母親のなかには、幼い娘の苦痛を見るにしのびなくて纏足を解いてしまう者もいる。だが、成長した娘は、嫁入り先で屈辱を味わい世間の非難をあびると、母親が心を鬼にしてくれなかったことを責めるのである。
この引用で注目するべきは、姑や母親たちが纏足を推進していたということだ。
そして子供のときは纏足を痛がっていた娘自身も、親に纏足してもらえてよかったと考えていることだ。
さらに言うと、纏足は、男性中心の社会から女性たちが悪弊を強制されていたという観点だけで語ることはできない。それは女性自身が願望するところの"オシャレ"でもあった。
「纏足は、女性の誇りだった」「女性は肉体で動くから、痛みに耐えれば、高貴でよりよい人間になる」「母から娘への 女性になるための教え」「痛みを通して、身体を使って、女性は成功する」「足をより小さく、洗練して優美にすることで、女性は大きな誇りを感じた」
http://coconutpalm.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/--10---0239.html
西洋で女性を苦しめたコルセットにしても、きっと纏足と同様、女性自身が望んでやりたがるオシャレという側面があったはずだ。
これはまさしく、現代日本の女性が「ハイヒール・化粧はめんどくさい。強制されるのは嫌だ」と考えていながら、一方ではそれをやりたい願望を持っていて、結局それが手放せなくなってしまい自家撞着するのと同じ心理だ。
ハイヒール・化粧をやるかどうかに関して、「女性の主体性を尊重しましょう」とか「強制にならないかぎり両方自由です」ということを言っているリベラルは、あまりに鈍感かあまりに不誠実か、そのどちらかのために、この観点を見落としている。
無論、健康面やそれにかかる手間を考えれば、纏足やコルセットよりもハイヒール・化粧は随分とマシである。ただ、それは差別が過酷なものから軽いものになったというだけだ。進歩はしているけれども、まだ差別を克服できていない。
だから我々はさらなる進歩のため、おしゃれをしたいという女性の願望を抑圧しなければならない。ハイヒール・化粧を好んで選んでしまう女性性(女性らしさ)は、政治的に正しくないのである。逆にそれを憎悪するミソジニーこそが政治的に正しいのだ。女がオシャレをやめることで初めて男女平等を達成できると私が主張するのは、この洞察に基づくものである。
なお、議論はここにおいて、私が冒頭に書いた長時間労働の問題につなげることができる。「過労死するほど働く自由」を是認しようとする資本家・知識人は、プロレタリアの敵である。我々はこれを打倒しなくてはならない。
この理論を適用すれば、女がオシャレをする自由を是認しているリベラルと一部のフェミニストこそ、女性差別の温存を図っている連中だと言えるだろう。
twitterをなにげなく読んでいたら、たまたま的確な言葉を見つけた。
リベラリズムの本質的価値-自由、平等など-は、どこにあるのか? 逆説めくが、リベラリズム自体はその本質的価値を原理主義の激しい攻撃から救えるほど強くはない。 リベラリズムがその重要な遺産を生き延びさせるためには、ラディカルな左派の同志愛による助けが必要となるだろう。
「スラヴォイ・ジジェクbot @SlavojZizek1949」より
https://twitter.com/SlavojZizek1949/status/864981669509332995
前回のエントリは、穏健なリベラリストから散々顰蹙を浴びた。それは投稿前に分かっていたことだ。