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2023-07-23

anond:20230723161022

そうか……本当のクズ公務員試験面接以前に筆記が解けない……それは予想できてなかったな。

あんなの中学入試レベルだと思うんだけど。

2023-07-20

文化資本へのアクセスの軽さが羨ましい

親が全く音楽とか美術博物館に興味がない家で育った。

それ以前にど田舎から近くに美術館とか博物館がなかったんだけど。

資料館はあった。縄文時代のやつ。

小学生入場無料だったのと夏の時期に館内がめちゃくちゃ涼しいって理由つけて自転車でめちゃくちゃ通ってた。

まが玉づくり体験とかもやってたんだけど「そんなのに参加してなんになるの」と親に一蹴されて終ぞ参加できないまま成長してしまった。

就職して自分で金を稼いで一人で東京旅行に行ったとき上野博物館に初めて入って感動した。

本当は記念メダル目的で、しかもそのときは朝まで友達と飲んでてめちゃくちゃ二日酔いで体調最悪だったんだけどそんなの吹き飛ぶくらいの感動だった。

新幹線時間もあって長くは居れなかったんだけど、東京の人はこういうところにすぐ来れるんだと思うと羨ましかった。

水族館とかもそう。

車で3時間くらい運転しないと水族館がない。

薄暗いところで魚を見るのが好きで何周もしたいんだけど、水族館に行くっていうと着いてくる親にあからさまにめんどくせぇみたいな顔をされる。お前がついてきたんじゃろがい。

不機嫌になられるほうが面倒なので泣く泣く帰ることばかりだった。

親曰く「泳いでる魚見て何が楽しいのかわかんない」って言うけどなんで着いてくるんだ。断ろうとすると不機嫌になるのも本当にやめてほしい。

動物園に行くのも結構好きなんだけど、親に「その年になって動物園(笑)」みたいな馬鹿のされ方をするのでとてもつらい。

これもまあ案の定近場には存在していないので気合いを入れて行かねばならない。

帰りの運転をする体力も考えなきゃいけないのでなんか今一つ楽しみきれない。

ライブだってそう。好きなアーティスト田舎に来ない。隣の県にはかろうじて来る。車で2時間かかる。

ライブで騒いだ後に夜道を2時間運転して無事に帰れる自信がない。

帰る時間とか体力を気にせずに文化資本に触れられるって本当に恵まれてると思う。羨ましい。

高卒で親に促されるまま受けた公務員試験に受かってのんべんだらりと地方公務員をやってて、ようやく親を説き伏せてアパート暮らしをしてる。

自分の行動に口を出されずに、馬鹿にされなくなってとても精神的に楽になった。家の中で顔色を窺わなくていいってこんなに楽なんだな。

家が心休まる場所とか何の冗談だよって思ってたけどこれは心休まるわ。

東京引っ越したい。でもこんな田舎で30年近く生きてきた高卒東京に出て就職できるんだろうか。

面倒くさがりの権化からなんの資格も持ってないし、タイピングが速いわけでもない。物覚えも悪いし人の顔も覚えられない。

正直に言うと無能なのでどこにも就職できない気がする。

でも文化資本に気軽に触れられるところに住みたい。

この間だって、好きなクリエイター個展を開くって言って、金土日の三日間だけここでやりますっていう告知をしてた。

東京。全部東京。なんもかんも東京

うらやましいな~~~~~東京

2023-07-10

就職が出来ないまま、アラサーになった。

どこに吐き出せばいいのかもわからない自分気持ちと、きっと誰の記憶にも残らないであろう自分人生増田に投下したい。

要旨はタイトルの通りでしかないが、就活に失敗し続けて無職のままアラサーを迎えてしまった。今年はもう就活すらしていない。

就活は売り手市場だなんだと聞いていたが、それは結局平均的にコミュ力のある人間にとっての話であって、自分のようなコミュ障で陰気な人間にとっての話ではないのだなと痛感した。

ふと思い返せば友達が居た記憶があるのは小学生の頃までだったし、その頃もたまたま流行っていたポケモンに詳しかたから仲間に入れてもらえていただけだったんだろうなと今になって思う。

中学入学したあたりでクラスバラバラになり、小学生の頃のグループ自然消滅してしまった。

誰にも声をかけられることはなく、かといって声をかける勇気もなく、本当にただ孤独に過ごしていた。

部活にも入らなかった。正確には入れなかった。

聞こえてくる話を聞く限り、中学入学した時点で皆は入りたい部活まで既に決めている人が多かったようだった。

特にスポーツ経験もなく、かといって文化的素養もない俺にそのようなものはなかった。

「この部活に一緒に入ろう」と声をかけてくれるような人も当然いなかった。

経験部活の仮入部に飛び込む勇気もなかった。気がつくと入部届の提出日は過ぎていた。

そこから孤立の日々だった。

友達はもちろん欲しかったが、既に俺以外の人たちで完結しているように見えたコミュニティに入り込めるような人間ではなかった。

最初入学式の時点で、席が近い人たちか、同じ小学校出身の人たちで話して仲良くなっていた。俺だけが孤立しているような錯覚を覚えて、行きたくもないトイレに逃げて泣きそうになったのを今でも覚えている。

中学生にもなると皆携帯を持ち始めるようになっており、誰々とメアドを交換したとか言う話題が聞こえるようになった。

親にねだって携帯を買ってもらった。結局誰1人としてメアドを交換することはなかった。

中2の時だったと思うが、モンスターハンター3rdが学年中で流行っていた時があった。

みんなで放課後に誰かの家や公園で集まって一緒にプレイしているような話が聞こえてきた。

親にねだってPSPモンハンを買ってもらった。話しかけてもらいたくてわざわざ学校PSPカセット持って行き、わざと休み時間に机の上にそれらを出した上で寝たふりをしていた。

国語先生に見つかって取り上げられ、皆の前で叱られ、反省文を書かされた。あの瞬間が中学生活の中で1番みんなからの注目を集めた瞬間だったんだろうな。悲しすぎる。

今にして思えば、ポケモンに詳しかたことで仲間に入れてもらえた小学生の頃の成功体験を引きずり続けて、同じ手法でなんとか挽回しようと考えている自分の浅ましさがもう情けないよな。

勉強だけは頑張った。成績が良かったテニス部クラスメートが色んな人に「勉強を教えて!」と声をかけられているのを見たからだ。それもまた、今思えば笑ってしまうくらいに浅はかだけれど。勉強ができるから声をかけられていたのではなく、テニス部の人気者だから勉強理由に声をかけてもらえてただけなのに。その構造を見抜くだけの頭の良さは残念ながら当時の私は持ち合わせていなかった。

勉強甲斐あって、地元で1番の公立高校合格した。親以外に祝っては貰えなかったが、それでも良かった。

合格と同時にiPhoneを買ってもらった。LINEインストールした。

中学の頃は初手で部活に入ることに失敗したことや、コミュニケーションを取ろうとアクションする前に既に人間関係ができてしまっていたことが敗因であると考えていた。今回は入学式の日からちゃんと人に声をかけると強く決意した。

失敗した。

出身中学が同じもの同士で既に固まっていたし、何より塾が同じもの同士での結びつきもかなり強固であった。

3~4日目にして、ついに席の近いクラスメートが声をかけてくれたことでクラスラインに加入することには成功したが、人数から察するに私が最後メンバーであった。

私が入った頃にはクラスラインでの会話は殆ど無く、既に仲の良いもの同士でより小さなグループを作ってそこでコミュニケーションをしていた。

同じ塾での繋がりから合格発表があったその日には学年のグループができており、入学式の日にはもうクラスラインが出来ていたらしい。

結局、中学生の頃に友人を作れなかった負債高校生になっても苦しめられるのかと思った。

部活動にも入ろうと思った。未経験でも最初の入部の時点であれば飛び込めるのだと学んでいた私は、新歓で惹かれた剣道部に入部した。

2ヶ月で辞めた。

私以外の入部者が全員経験者であり、初心者が私しかいなかったからだ。

先輩はもちろん自分のために練習に付き合ってくれたが、同級生や先輩達のレベル自分立ち位置があまり乖離しており、自分1人だけが別で初歩的な練習をしているのが、晒し者にされているような気がして嫌になり、逃げ出してしまった。

自分けが初心者だという引け目から同級生ともろくに話せずに終わってしまった。

ここで投げ出さなければ…と今なら思えるが、やはり当時の自分には無理だったのだろうなという諦めのような感情もある。

同じような基礎練習に打ち込む初心者がもう1人でも居れば…と仮定しては、さも自らが理不尽な状況下にあるかのような想像をして自分正当化しようとしていたことを何故か今でも覚えている。

幸いだったのは学校自習室があったことで、これにより部活動の時間分を自習室勉強することで、親には部活動を続けているようなフリをし続けていた。今思えばバレていたのだろうか。

中学の頃から帰宅部であり、友人と遊ぶようなそぶりすら見せてこなかった俺を、親はどう思っていたのだろうか。

何も言わないでいてくれた親の気持ち想像すると、胸が苦しくなる。

高校Twitter流行った時期もあった。例に漏れず私もアカウントを作った。当時のTwitterはまだ身内感が強かったこともあり、高校名や氏名で検索しては片っ端から同級生フォローした。

フォローバックも多少はしてもらえたと思う。

しかしながら、結局何もツイートすることはできず、ただ同級生の動向を監視しているだけの気持ち悪いアカウントに成り下がっていた。

一言も喋らない陰気な奴が変なことをツイートしたらどう思われるのだろうかと、怖くて何もツイートできなかった。

一瞬、LINEツムツムが流行たことがあった。

LINEを交換しているもの同士でスコアランキング形式で共有されるのだが、たまたま引いたマレフィセントというツムで圧倒的なスコアを叩き出したことがあった。

その時にクラスメートが「上手いんだね!」と声をかけてくれたことがあったが、気の利いた返しが浮かばず、ぎこちない笑みを返すことで精一杯だった。

3年以上碌に会話をしていないのだから当たり前なのだが、もはや会話をするという行為自然には出来ないようになってしまっていた。うまく言語化できないが、相手の言っている内容を理解した上で、それに対する返答をいくつか頭で構成し、そのうち最適なもの選択して口からアウトプットするという一連の行為自然に出来ないようになってしまっていた。目を合わせるだとか、自然な表情を作るだとか、そんなことは言うまでも無くできなかった。

その会話での失敗は自分の中でも忘れられず、次に同じように話しかけられた際の返答を何度も何度もシミュレーションした。

ツムツムも継続してスキルを磨き、ランキングではトップを取り続けた。

当たり前だが、次の機会は来なかった。

高校3年間は最も密度の高い青春の3年間だったと知り合いの誰かがTweetしていたが、俺の3年間は思いつく限りの思い出で上記限界だと思うと、本当に虚しい気持ちになってしまう。

大学は通える範囲にある旧帝大合格した。

今度こそ失敗しないようにと臨んだが、やはりダメだった。

講義における自由な席のシステムや、そもそもクラスなどが存在していないという状況で、自ら人に話しかけるだけのスキルを持ち合わせていなかった。出身高校予備校基本的には違うはずなのに、即座にそれぞれで仲良くなれていたのが不思議で仕方なかった。

サークル新歓にも行った。バーベキューだった。同じ机に先輩が2人、新入生が3人の5人で座っていたのだが、気がつけば私を除いた4人での会話になっていた。

先輩が時折私に話を振ってくれていたのだが、明らかに気を遣ってくれているのだとわかり、余計に苦しく、惨めだった。

新歓用のライングループがあったようだが、私には加入の声もかからなかった。

勉強に逃げようと思ったが、逃げる先も見つからなかった。

自ら興味のある分野を見つけ、そこに飛び込むだけの主体性すら持ち合わせていなかった。

テストは同じ授業の過去問を持ち合わせているかどうかで対策の可否が大きく変わるものだった。友達のいない私には非常に厳しかった。

授業に一度も来てないようなテニサーの奴よりも、私の成績の方が悪かった。友人は居なかったが、それでも勉強だけは出来た自分にとって、学業の成績は唯一の精神的支柱であったのだろう。かなりメンタルにきたのを今でも忘れられない。

しかし、そうは言っても今更友人を作ろうと発起するのも見苦しいように思えて、結局何の行動も起こせなかった。

ゼミはそれなりに興味のあった行動経済学ゼミを志望したが、人気ゼミ面接に通るはずもなく落ちた。

結局、不人気な統計学ゼミに入った。幾つ上かもわからない留年生と私の2人だけだった。

自分存在は何度も留年を繰り返す謎の男と同じ程度なのだと言われているようで苦しかった。

そして就活の時期を迎えた。

まず情報弱者だった自分は出だしからつまづいた。

講義室で聞こえる会話で周りが既にインターンというものエントリーしていることを知った。その後、焦って就活について調べ始めるものの、そもそも特にやりたいこともなく、また、特段興味がないものに対して熱意があるかのように見せられるだけの技量もなかった私は、悉くインターンにも落ちた。

志望動機経験(あまり好きではない語彙だが「ガクチカ」と呼ばれるもの)に嘘や誇張した内容を書くような人々を見下していたが、結局採用されるのは見下していたはずの人々だった。

奴らは汚いことをしているのだと内心見下すことで、倫理的には彼らより優位にあると思いたかったのだと思う。そんな卑屈さで小さなプライドを守ったところで、何一つ実利はなく、ただ不幸になるだけだということに気づけなかった。

その後、大学名の威光もあってか1dayのインターンには通ったものの、グループワークが中心の1日に馴染めるはずもなく、ひたすら透明人間を演じた上で、最後儀礼的に連絡先だけを交換して終わった。

同じグループの人は関関同立(関西ではそれなりの地位にある大学群)の同学年だったが、グループワークでのリーシップの発揮ぶりは私とは比にならなかった。社員の見る目も違っていた。もちろんその後を知ることはないが、きっと大手企業内定を得て働いるのだろうなと思う。

休みの会話で、高校は私と同じ地域にある偏差値50程度の私学であることを知った。指定校推薦大学に入ったらしい。

学業しか縋れなかった私は、恥ずかしながらも内心では関関同立を見下していたし、偏差値50程度の高校に行った人とは今後交わることすら無いものだとすら思っていた。卑屈な選民思想を持った自分が恥ずかしかったし、完全に下に見ていた人々にも逆転されたという事実を突きつけられたのはかなりショックでもあった。

後日講義室で聞こえてきた「1dayインターン意味がない」という言説を信じ、1度きりで申し込むのを辞めた。今思えば、傷つきたくないがために縋ってただけなんだろうな。人は信じたいものを信じるように出来ているとはこういうことなのだろう。

そうこうしているうちに、気がつくと本選考の時期が到来した。最終的に50社くらいはエントリーしたと思うが、全落ちした。

就活対策の本を立ち読みしたが、内容のバカバカしさに呆れて買うこともしなかった。ここで変な意地を張らずに素直に買って、その内容を再現できていれば結果は変わったのだろうか。正直そうは思えないが。

他にも面接対策をやっているサークルの一室を訪れようとしたが、室内の華々しさに気圧されて扉の前で踵を返してしまった。

あんな楽しそうに就活に臨んでいる人々はどうせ碌な結果を得られないのだと自分に言い聞かせて帰路についた。

ゼミ教授の勧めで留年することにした。

無職で世に放たれるよりは学生身分があった方がいいとの計らいだった。多分留年を繰り返していた彼も、同じような配慮留年を続けていたのだと思う。本当に有り難かった。

しかし翌年の就活も失敗した。諦めて卒業した。

結局、面白くもないyoutubeを観ていただけの1年だったと思う。観ていた動画の内容すら思い出せない。

卒業の翌年、公務員試験を受けることにした。

勉強だけは出来たのだから学業勝負するのが自分にとって最適な戦略だと今更思い至った。

予備校に通い勉強をしていた。数年振りに自分の得意分野で勝負ができて、純粋に楽しかたことを覚えている。

筆記試験には合格したが、その後の面接(厳密にはこれも試験という名前ではある)で落ちた。

国家だけでなく、地方すらも落ちた。

周りを見るに自分と同程度にはコミュニケーション能力が疑わしい者も散見された。少なくとも就活面接では考えられないほどにレベルは低かったと思う。それでもダメだった。

いよいよ俺に出来ることはないんだろうなと深く絶望した。

無職の悪いところだが、時間だけは無限に持て余しているせいで、絶望的な場面が何度もリフレインしてしまう。

あの時こうしていたら…という後悔があまりに多すぎる。

どこが俺の人生の岐路だったのだろうか。

どうしていれば俺はこうならずに済んだのだろうか。

1年引きこもってもその答えは出せずにいる。

何度考えても、命を絶つ他にないんだろうなとは思うのだけれど、それにしたってどの選択を取っても両親に多大なる迷惑をかけるんだと思うと踏み切れない。

ここまで育ててくれて、何も言わず無償の愛を注いでくれた両親に、最期に出来ることは何かないだろうか。

こう振り返ってみても、本当に家庭環境も含め、両親には恵まれ人間だと想う。だからこそ、その結果がこのザマで本当に情けなく、申し訳ない。

せめて迷惑だけはかけずに、ただ俺1人だけが苦しむだけで済むような方法を取りたいとは考えているが、それすら踏み出せないのかもしれない。

ここまで読んでくれて本当にありがとう

想像の通り俺に友達なんてものは1人たりとも居ないし、今まで生きてきた人生も、今まで抱いた感情も誰にも共有できず、誰の記憶にも残らずに終わったんだと思う。

その意味で、誰か1人でもこれを読んで、誰かの記憶に少しでも残ることができたかなと思うだけで、なんとなく心が軽くなった気がする。

増田があって良かったよ。ありがとう

2023-06-24

anond:20230621210336

リーマンショック世代の末路を語るよ。

氷河期世代を語る流れがあるからそれに乗ってみる。リーマンショック世代を忘れないでくれ。

筆者は女で、2007年大学入学2011年卒業国立旧帝大文系卒業してる。彼氏大学は違うが旧帝大文系だった。

まず、筆者が1年だった時の4年生、つまり3学年上の2008年卒の先輩方や、2学年上の先輩方はすんなり就職決まってた印象である高学歴だし、普通にやってれば決まるって感じ。

ところがリーマンショックが起きて、1学年上の2010年卒の人たちから雲行きが怪しくなってきた。学者肌ってタイプでもないのに院進して就活を遅らせる人や、最初から公務員目指してたのではなく民間が受からいから諦めて卒業してから公務員試験目指す人、全く専攻を活かせないパチンコ屋に就職する人が増えてきた。

筆者の年もひどかった。人手不足教員不足が叫ばれる現在では考えられないだろうが、余裕で受かると思ってた公立教員採用試験落ちたり、優秀な人が決まらなかったり。あえて就職留年する友人も多かった。女性活躍(笑)空気もまだまだなくて、女は採ってないんだな…と面接に行ってから思わされることも多かった。

真面目な人は病んでいた。そりゃ、真面目に一生懸命勉強してきたのに時代のせいでパイが少なければ病みもするだろう。筆者は真面目なタイプではなかったので、病まずに済んだ。やりたい仕事も将来の夢もなかったので、大した就職活動もせず、内定は無かった。SPI等は高得点だったが、やる気がないのを面接官に見破られていたんだと思う。

彼氏高学歴好青年なのに就活で苦労し、中小企業とも言えないような小企業入社を決めた。

筆者は、30ぐらいまでなら働きたくなったら公務員でもなれるだろうし、出生率からすると将来の人手不足は間違いないと踏んで(後出しではなく、本当に既にこの時そう考えていたのだ)、高学歴新卒カードをドブに捨て、長く付き合ってた彼氏との結婚に踏み切った。とりあえず住む場所が決まってからその後のことは考えればいいと思っていた。多くの家族人知人に反対された。一世一代の大博打であった。

卒業と同時に結婚、22歳貯金なし夫婦爆誕である

夫が就職した企業昭和ワンマン企業であった。真正ブラックとまでは言えないが、ほんのりブラックだった。残業代社長の気分でついたりつかなかったりした。

就職はいつでもできるが、子供若いうちしか産めないと思ったので、先行きも不透明なままに子供を二人産んでみた。もちろん男性育休なんて取れず、孤独子育てをした。

2014年アベノミクスが始まった頃、夫が会社を辞めて大企業転職した。3年しか経ってないのに、2011年卒業時とは社会空気が変わっており、ポンポン面接に進んですぐに内定が取れた。狐につままれたような気分だった。

2017年子育ての辛さに耐えきれず、子育てから逃げるために筆者は就職活動を始めた。両立ができなければ、いざとなれば、無理でした〜とケツまくって逃げれば良い。やってみなければ分からない。一人で家で子育てするより、保育園に預けて働く方が楽かもしれない。その可能性に賭けた。当時は待機児童が多く保育園も圧倒的に足りてなくて、認可外に入れつつ派遣社員として働き始めた。デスクワークだったので、仕事の方が楽だった。読みが当たった。

2018年、認可外で派遣社員なら月によっては保育園代>筆者のお賃金 になるのが馬鹿らしくなって未経験職の正社員転職した。

今、筆者は仕事幸せな家庭も子供も手に入れてるが、それはたまたまの結果でしか無い。一歩違えばどんな未来があっただろうか。

卒業と同時に結婚せず、真面目に就活して、キャリアを追求してたらどんな未来があっただろうか、とは思う。

あの頃はそうするしかなかった、と自分を言い聞かせる。正しい道なんてない。選んだ道を正解にしていくしかないのだ。

2023-06-22

anond:20230620104704

就職氷河期世代でも、最高に酷い扱いを受けている世代がある。

卒業したら新卒扱いされない世代だ。

就職難が社会問題になり、卒業数年までを新卒とみなすようになるまでの世代の人たちは、大変な苦労を強いられた。

私が大学1年の時の4年はまだ内定拘束があったり、交通費を出さな会社ケチ揶揄していた時代だったが、

私たち就職活動する頃には、もはや交通費は出す会社が珍しく、そもそも採用しない会社がちらほらあったり、採用しても人数を絞っていた。

急速に減ったパイ学生が群がってくる。

そうすると当然、有名大学の学生でも内定が取れない人が出てくる。

そうして卒業した人は、たとえ東大卒であっても新卒採用を受けられなかった。

私は有名私立法学部にいたが、語学クラスの半分が内定を取れず、

新卒扱いで再度就職試験を受けるためだけに留年したり院へ進学したり、心折れた人たちは公務員試験や書士・司法試験へ流れた。

この問題私たち卒業後数年で解消されたが、

うっかり卒業してしまいその後も正社員の職にありつけなかった人たちは、そのままずっと非正規雇用人生を歩み続けている。

やっとの思いをして司法試験に受かった人で、弁護士になった人たちもあまり順調とは言えない。

そもそも入学当初から司法試験を目指して目指して予備校通いしていた人たちとはスタートが違うので、

合格に何年もかかった人も多い。新司法試験になってようやく受かったという人は珍しくない。

それらは旧司法試験合格から馬鹿にされたりする。

司法試験改革合格者数を増やしたが、裁判官検察は増えなかったので、弁護士が増えすぎてしまい、

相対的に儲からない仕事となったのは今の有様を見れば分かる通りだ。

この時期に司法書士を取った人は勝ち組と言える。

その後の司法書士が扱える業務が拡大したことにより司法書士の人気・収入が上がり、一時は司法試験よりも合格が難しいと言われるほどになったからだ。

大学院に進学した人たちは悲惨だ。就職浪人のつもりだった人はともかく、博士まで行った人たちのキャリアは完全に詰んでいる。

氷河期世代教授になれた人間ほとんどおらず、世界100人博士だったら、という話まで出てくるぐらいだ。

ポスドク年収は大体300万もあればいい方ではないだろうか。

うまく行って准教授という名の短期雇用で、例え東大准教授になったとしても、数年で無職となる。

上が詰まっているので、教授になれるのはごく運がいい人か、よほどの実力者だけだ。

40代半ばで助教授になれなければ教授になれないと言われていたのが90年代だったので、

今後、研究者を続けられるかどうか以前に、生活できるかどうかも怪しい状態に置かれている。

追記

それでも有名私立実学系の学部にはよそよりも有利な点があったと思う。

ゼミ教授からコネや、リクルーターになった先輩から勧誘など。

リクルーターは今でもあるかは知らないが、銀行保険などの金融系の業種であったもので、

正規新卒採用ルートとは別に入社1年目の人たちが後輩のめぼしい人に声をかけて、

会社の人と会わせて非公式面接を行うというものである。ここで内定がきまると楽だった。

今の学生サークルに入らないというが、こういうリクルーターコネサークル経由でもあり、それ目当てでサークル所属する人もいた。

また、筆記試験に行くと、「ここにいるのは全員早慶東大の人たちですから名前を書けば筆記は通過できます」なんて試験官が言うこともあった。

内定拘束も今はないかもしれない。ライバル会社就職面接に行かないように、内々定を出した学生入社1年目の社員が呼び出して、

あちこち連れ回して行動を拘束することである

映画を見たり喫茶店へ行ったりとあったが、中には相撲を見に行ったと言う人もいて、

相撲接待を笑っていた。当然その費用会社持ちだ。

氷河期とは言ってもおおらか(大雑把)な時代だったなと思う。

2023-06-21

anond:20230620104704

就職、冬の時代なんて言われてたんだよね。最初は。

それがいつまで経っても春が来ないから誰かが「氷河期」と言い出した。

大学生内定取り消しニュースが出た時は、まだ高3くらいだったと思う。私が就活する時じゃなくてよかったなと思った。お花畑だったから、これは一時的不景気で、すぐにまた(バブル期の)好景気…当時は平成景気と言う人もいた、に戻ると思い込んでいた。

Z世代はこれ突っ込んでいいよ。

で、97年に山一自主廃業ニュースがあって、その頃は公務員試験教員採用試験勉強をしている学生も多かった。

家に送られて来るマイナビの厚みが男子学生女子学生全然違ってた。当時京都に住んでて、住所がすごく長かったので、資料請求葉書を書くのが辛かった。

内定が出なかったので実家に戻って非常勤仕事をしてた。

2023-06-20

氷河期なんていわれた世代だよ

山一證券内定が決まってた同級生がいた世代。なので、記憶ちょっと曖昧なところもあるかもしれないが許してほしい。

山一廃業ニュースが流れた日、内定をもらっていたその人は大学に姿を見せなかった。翌日青白い顔をして現れ就職相談課へ向かったが、状況はどうにもならないようだった。

10人に内定を出していた企業は、2月になって1人を除いて内定取り消しを知らせてきた。そんなことがあちこちで起こった。

内定を取り消された者への補償など、誰も何も言わなかった。だってそれは仕方がないことだから不況からね。山一が倒れるくらいだから他の企業も潰れてもおかしくないだろう? そういうリスクがあるのはわかってるんだから、なんで公務員試験を受けなかった? そんな空気だった。もっと公務員試験教員採用試験も受けたところで採用される確率はとても低く、強いコネでもないと決まらない時代でもあった。

当時の空気感は今と全く違うし、知らない世代には通じないものがあると思う。そんな話をしていきたい。

まず、当時はインターネットがそんなに普及してなかった。地方に行くほどその傾向は高く、他所で何が起きているかを把握するまでに少し時間がかかった。一番早くてテレビそれから翌日届く朝刊。口コミの伝播も遅かった。東京流行っているファッションアイテム地方に届くまでにも、半年くらいかかっていた。

就職のための情報収集もとにかくアナログで、ホームページのある企業はまだ少なかったし、あっても用を成さなものと見做されていた。だからリクルートがくれる分厚いカタログについてくるハガキ資料請求

そんなことをしてると部屋中企業案内のカタログだらけ…になると思うだろ? 企業ハガキにある大学名を見て送ってこなかったりもしたから、そんなに増えないのだ。そして応募しても当たり前のように落ちるし、酷いところは結果も知らされない。絶対電話で結果は連絡しますといっても、かけてこない企業の方が圧倒的に多かった。電話代もいちいちかけるには高いもんな。当然封書での不採用通知ほとんどくることはなかった。履歴書も戻ってくることはほとんどなかった。

パソコンよりワープロのほうが普及していたけど、増田のいたゼミ卒論手書きで出してた割合の方が高かった。そして履歴書は当然手書き。当時はそんなソフトもない。(頑張れば履歴書も作れたかもしれないが、当時の手書き文化の前で認められることはなかっただろう)そんな手書き履歴書を何十、何百枚と書いて各企業に郵送していた。当然、コピーなど許されなかった。ペンだこができるまでボールペンを握り続けた。ちなみにボールペンも昔はたいして種類がなくてソフトグリップなんてものはまだ多くなかった。だから履歴書も手を真っ黒にして書き続けるしかなく、その多くが徒労に終わった。

ちなみにあの頃ケータイは高すぎて、学生は皆ピッチ(PHS)かポケベルを持ってた。田舎住まいだと実家に帰ると電波が入らなくて、履歴書にも家電の番号を書いていた。

しかしながら増田の周りの女子大生特に短大生の内定率は高かった。まだ腰掛けが当然の時代で、30歳前、早ければ25歳くらいで女性社員結婚理由にどんどん退社していく。つまり常に会社には若い女性が入れる隙間があった。そして企業がそんな若い女性に求めるのは、「将来的にいいお嫁さんとして最適な時代に辞めていくこと」でしかなく、学生側もそれを良しとしていた。総合職を目指す女子大生は求められていなかったのだ。そこは厳選された男子学生の席だった。

男女雇用均等法はまだ、あってないようなものだった。インターネットが普及していないかたから、今のように誰でも気軽に告発するようなこともできなかった。そういったことは共産党相談するしかなく、それはとても高いハードルだった。

氷河期世代理由に今も不遇をかこっているのがおじさんばかりなのもそこに理由がある。あの当時、女子大生短大生はサクッと内定を獲得し、数年働き、そのほとんどが結婚を機に職場を去っている。そして家を建て、車を買い子供を産んだ。

もちろん、そうはいかなかった女もいる。これを書いている増田だ。中学生の頃から母がフルタイムで働いていて、自分でもそうするのが当たり前だと思っていた。だから分不相応にも就職活動ではキャリアを目指したいなどと言ってしまった。

結果、どこにも決まらなかった。そんなものはまだ必要とされていない時代だったのだ。

内定先を見つけられないまま卒業式を迎えた。求人誌で見つけた大手企業アルバイトに応募したら案外あっさりと決まった。社員登用もありなんて書かれると人は弱い。そんなことは結局起きなかったが。

アルバイトながら4月1日に勤務開始。仕事は主に伝票計算。社保も厚生年金も入れず自分で払うと最低時給の給料は吹き飛んだ。そしてその職場には、同じく就職できなかった女子がいた。卒業した大学増田よりはるかに上のランクだった。こんな人でも決まらなかったのか。彼女はやはり25歳になる前にお見合いをして職場を去った。

増田も30前にしてやっと手に職をつけることができた。アルバイト先を辞めて実家を出て、なんとか就職できた。

数年働いた後、昔のバイト先が消滅したとバイト仲間から知らせを受けた。紙と手でチェックしていた伝票計算仕事が無事にすべてIT化され、施設自体が閉鎖、アルバイトも全員解雇されたのだ。

だが昔の仲間を労っている暇はなかった。キャリアも何もないアラサーの女は多少のことで辞めはしないだろうという激務につぐ激務で、体を壊した。

転職しようと就職支援会社に行くと「年齢とキャリアミスマッチですね」と言われ、紹介できる会社はないと遠回しに言われた。ずっとこの言葉はついて回るのかと思いながら、別の会社を経由して無事に転職した。このときにはもう、履歴書手書きで出す必要はないと言われた。いつのまにか時代は変わっていた。ネットに落ちているExcel履歴書ダウンロードして入力して、プリントアウトして提出した。あっさりしたものだった。

無事に転職した直後に、リーマンショックがきた。暮れのテレビでは派遣村ニュースをやっていて、自分もいつそこへ行ってもおかしくないと痛感した。当時付き合っていた人は不況煽りを受けて職場倒産し、その後変な山師みたいなおっさんについてベトナムに行くと言って連絡が取れなくなった。風の噂で今は日本にいると聞いたが、どうしているのかまでは知らない。

それから震災やら大コケするビッグプロジェクトやら家族との別れなど、色々なことに遭遇しながら、今も一人で生きている。会社は辞めたが、仕事はしている。久しぶりに自分健康保険国民年金を払ったら、思った以上に高くなっていた。この先もずっとこんな感じで生きていくと思う。職をつけてよかった。

増田には今、大学同級生たちとのつながりがほとんどない。世の中にSNSが普及したころ、彼女たちは子育ての真っ最中でそれどころではなかったのだ。Facebookで卒大のグループを見てもそれらしいアカウントは見つからなかった。かろうじて繋がっている数少ない友人たちもLINEをやるくらいで、SNS積極的に発信することはない。特に言うべきこともないからだ。

2023-06-16

anond:20230616121100

リーマンブラザーズが破綻した翌年の秋に就活スタート

前年まで大量採用してたメガバンですら採用予定人数半減を表明するなど、

不況突入から時間差はほぼなしで就職氷河期スタートした世代だけど、

日東駒専ですら非法学部生は公務員に対する認識はこんなもんだった。

市役所内定した同級生

市役所なんか行くの???窓口やるの???

ああ、『公務員試験』って市役所就活にも含まれるんだな」

みたいな反応された。マジで謎の進路扱いだった。

2023-06-14

公務員試験問題は名門私立中学の類題で決まり

過去問解くなんてせこい真似をさせるな

首都圏行政が喉から手が出る程欲しいのは有名中学出身

公立出身が受かるかは市長次第かな

2023-06-08

助けてくれ

また癌恐怖症を発症してしまった。

しかしたら今回ばかりはマジでネットで調べた症状が全て当てはまるから癌かもしれん。20代後半だから何十万人に一人とからしいけど、なるときは誰でもなってしまうって所が怖すぎる。

公務員試験直前かつ病院受診する金もないって時に。

高校受験大学受験卒論作成期、就活期、二度の公務員試験大事な時に限っていつも癌に当てはまる症状に襲われて恐怖で手がつかなくなり失敗する。

なんでみんな体調悪くても平然と生きられるの?

進行してる癌だったら、今まで自分がやって来たことも今自分が頑張ってることも全部無意味になって衰弱死するんだぞ?

よく狂わないでいられるな。

俺みたいな豆腐メンタルが生きるにはあまり現代医療技術稚拙すぎる。

2023-06-02

焼き肉ゴチよりセックスたかった

就職活動失敗したまま大学卒業して実家でぶらぶらしてた。親には「公務員になる」とは言ったもの殆ど勉強せず小遣い貰いながらソシャゲか快活通いで2年連続筆記落ち。

ニート3年目、25歳になる直前に母親同士が仲良くて部活の後輩だった子から帰省ついでと飲みに誘われた。

「しっかりして下さいよ」とか色々言われてたけど適当に聞き流してて、後輩も暖簾に腕押しなのを見てか話を変えてきた。

後輩「先輩って彼女いたことありますか?」

俺「ないよ」

後輩「じゃあまだ童貞なんですか?」

俺「そう」

後輩「セックスしてみたいですか?」

俺「できる機会あるならしたいね」(ここまでは腑抜けたまま)

後輩「もし私がセックスしようって言ったら私とできます?」

俺「できる!したい!」(めっちゃ食い気味だったと思う)

後輩「じゃあ公務員試験受かるかちゃん正社員になったらセックスしましょう」

と言われた。

後輩は普通に可愛くて、中学時代自慰行為時の妄想への出演頻度3、4位だった。なんとなく幼少期から知ってる子って感じで実際に付き合いたいとか男女の関係になりたいとかは思ったことなかったが俄然やる気が出た。

その日の帰宅からめっちゃ勉強して、ハローワークがやってる若者向けの面接対策講座も見つけて通い始めた。自慰めっちゃした。次の年に県庁所在地市役所合格した。

後輩に連絡したら「おめでとうございます!」って言われ、その後に「セックスのこと本気にしてましたか社会人になるんですから自分相手探して下さい。私の方が社会人としては先輩なのでご飯くらいは連れてってあげます」という感じの返信が来た。

後日、焼き蟹も食べられる高い焼き肉屋に連れて行ってくれてご馳走してくれたが俺はセックスがしたかったな…。

でもありがとう

2023-05-29

母が死ぬまでは死なないという確約が欲しい

俺は30代なりたての男なんだが、大学生の頃から死恐怖症(特に癌恐怖症)が治らない。

きっかけは大学時代病院に行っても解決しなかった謎の膝痛に数ヶ月近く悩まされたこと。レントゲン撮ってもMRIやってもわからなかった。

色々調べてた時に見つけたのが骨肉腫という病気。そしてYouTube骨肉腫を再発し当時の自分と同じ年齢で亡くなった女の子の闘病ドキュメンタリーを見たことがきっかけだった。結果的に膝痛はなくなり今ではなんともないが、それ以来俺は癌恐怖症になった。

記憶にないアザや怠さ、歯茎出血があれば白血病しこりがあれば悪性リンパ腫、ほくろがあればメラノーマ下痢になれば大腸がん、幼少期からの鼻炎持ちで鼻くそに血が混じれば副鼻腔癌などなど。

何か一つの症状がある癌に当てはまれば癌だと思い動悸や立ちくらみに襲われ「ついにか…」と倒れそうになる。バイトもあり、思い立って翌日に病院に行ける訳ではないため病院に行き検査結果が知らされる不安で何も手につかない。総合診療医では信頼できず各専門クリニックに行くのでセカンドオピニオン含め財布には12枚の診察券、そして4つの病院電子診察券を持っている。

「30歳でバイト?」と思っただろうが、この性格なので癌に当てはまる症状が出ると何もできなくなる。留年もしたし、就活も失敗したし、公務員試験も失敗したので現在バイト暮らしだ。県立中高一貫校から一橋商学部卒業しているので、幼少期からの親の教育投資を随分無駄にした。

死への恐怖は癌だけではない。電車では後ろに人がいたらホームの先頭には立てない。強盗が怖く、自宅を買い集めた防犯グッズや自作防犯システムで完全防御。大通りや赤信号も常に警戒。

俺は自分死ぬのが怖いわけではない。

俺の両親は俺が幼稚園卒園前に離婚しており、以来母が看護師として育ててくれた。自称経営者の父は養育費大学学費用なども「無い袖はふれない」と一切出さず、母は実家とも疎遠なので大学卒業するまでにかかったお金は全て母が稼いでくれた。

俺は母に「母よりも長生きする」「立派になった姿を見せる」「妻と孫を見せる」という3点を誓っていた。しかし、この死恐怖症によりレールから脱落し立派になった姿を見せることも結婚も孫を見せることも不可能になった今、俺が母のためにできることは母よりも長生きし母を看取るということだけである

から俺は何があっても母よりも先に死ぬことができない。先ほど言ったように母は独身実家とも疎遠で俺は一人息子なので俺が先に死んだら母は一人になってしまう。

それなのに、常に俺に忍び寄って来て隙があれば俺の命を狙おうとする癌や突然の事故犯罪に対して俺は極度に恐怖し強い怒りを感じる。

永遠の命はいらないから「母が死ぬまでは死ぬことはない」という確約が欲しい。

2023-05-20

anond:20230520204302

商社厨かよ

なまじ有名大に限って商社しか受けずに就職浪人して次の年も内定ないまま卒業して、バイト生活して、年齢制限ギリギリ公務員試験受け始めて筆記は通るけど新卒若さもなく社会人のような経験もなく面接で落ちて、年齢制限超えて公務員になれなくなったら司法試験予備試験勉強始めるのがいるんだよな〜

俺もその一人。伊藤真の門下生の一人だ。

人生頑張ろうぜ

2023-05-19

anond:20230519013535

ああ、確か広汎性って言ってた。忘れていたよ。

青い薬をもらって「俺がなんか改善したら教えてくれ」って言われたが、結果的特に変わらなかった。

公務員試験とかもクリアできる程度の頭なんだが、人より幼いし理解力が遅い感じがする。

2023-05-16

anond:20230516161035

公務員試験ガチるのが1番良い。

肉体労働が嫌な人って仕事内容だけじゃなく肉体労働従事してる同僚とも多分気が合わず辛いだけだと思う。

俺もコミュ障就活全落ちで翌年公務員試験受けて地元の隣県の県庁に入った。人物重視って言っても会話のキャッチボールして建前的な志望動機用意できれば全然問題ないよ。

がんばれ。

anond:20230516163251

公務員試験考えてました。筆記試験は内容見る限り全く問題無さそうですが、出身県や地元自治体面接カード口コミを見たら学生時代の取りくみや志望動機、なぜ民間じゃなくて公務員かという点についてかなり深く掘り下げられるとありまして、筆記ではなく人物をかなり重視するともあったので難しそうです。

2023-05-10

育てられ方の差で死にたくなってる

高卒就職した。

小学生のころから「お前は高卒公務員試験を受けて就職するんだよ」と両親に言われて育てられてきた。

姉も同じように育てられてきた。

違う点は、姉はピアノ習い事10年近くやってたことと公務員試験に落ちて私立大学に進学したこと

私は習い事なんてさせてもらえなかったし、公務員試験に受かってしまってクソ田舎から一歩も出ずに生涯を終えるのが確定してしまった。

高校自称進学校(笑)だったけど公務員試験勉強しかしてなかったからめちゃくちゃ成績悪かった。

なにもかも手遅れになってから人工血管とか人工心臓についてすごい興味を持って、それについて学んでみたいと思ったけど全部遅かった。

大学卒業して東京就職した姉は、付き合った男を追いか退職して大阪引っ越しもの破局してメンタル病んで実家に帰ってきた。

今はなんかホルモンバランスが悪いとかなんとかでトドみたいに太って、働かないまま実家ゴロゴロしてる。

ホルモンバランスのせいで痩せにくくなっててさー」っていいながらスナック菓子食べながらチューハイ飲んでて、改善させる気ないだろって思った。

ぷよぷよとかじゃなくて、中身がみっしり詰まったデブになっててマジで引いた。

明らかに手をかけられて育てられたのに両親の思うように育たなかった姉は、今なぜか両親にとてもかわいがられている。

両親が示した道を歩んだはずの私はつまはじきにされた。

何が違ったんだろう。性格か。

2023-05-08

IT系就職すれば良かったという後悔が凄いのでIT系ネガキャンしてくれ

最近IT系ポジティブ話題を聞くことが多くて困っている。

あれはまだ平成が終わるとき天皇死ぬときだと誰もが思っていた頃の話。

俺はIT系に進むべきか公務員になるべきか迷って、氷河期世代の死にっぷりと未だ竹中の爪痕深きIT系オワコンっぷりから公務員の道を選んだ。

だがそれを後悔しなかった日はない。

公務員試験を受けていた頃から「この時間を使っていればまともなIT企業就職できたのでは?」という疑問は日々付きていなかったが、もしもブラック企業に入ってしまったあとで、新卒カードを失くした俺がまともに再就活を出来る自信がなかった。

最初腰掛けのつもりだった。

3年ぐらいやりながらその間に転職をしようと。

だが小泉政権の残した禍根に、民主党政権が重なり公務員にとって悪夢時代がやってきた。

俺はとにかくただ働くために働くために働くのに忙しく、休日は失われた精神力や散らかった部屋を回復させるだけで費やされた。

気づけば俺は新卒後ダラダラと公務員を続け、何の能力も身につかないまま(本当に凄いことにエクセルワードビジネスマナー技術さえも大学時代よりも劣化していくのだ!)時間が過ぎていった。

出ていくはずだった3年の間に得たものは「自分責任でもないのに頭を下げることを受け入れるのが給料をもらうということ」という僻みきった世間擦れ労働哲学ぐらいであり、若さ能力も活力も日本語力も無くなって、転職先の目処もつかなければIT系技術力はもはやすっかり錆びついていた。

完全に絶望した俺は、ひとまず仕事がそこそこ回るまで公務員を続けることにした。

今、ようやく仕事が回りだしてきたが、それでも全く先は見えない。

予算は削られ続けるし、無駄な複雑さは加速していく、デジタル進歩はペーパーワークとの二重化という地獄以外の何も生み出さない。

しろ職場PC相対的な性能がドンドン目減りしていくのでデジタル方面においては後退しているといっていい。

(助けてくれ4GBPCMcAfeeを始めたとした無数かつ無意味かつ無造作セキュリティソフトが常駐し続け、単なる自動アップデートのたびにタスクマネージャの4つの値(GPU公務員PCにはない)が真っ赤になるのだ。信じられるか?セキュリティソフト自動アップデートネットワークディスク書き込みもついていけないしCPU限界を迎えてメモリの残りは完全な0になり世界が凍りつくんだぜ今どきだぜ。)

こんな場所で働いても何も身につかない……強いて言うなら社会の掃き溜めの下で暮らすゴミクズとしてゴミを分解して世界を循環させるバクテリアのように生きる覚悟を決めることぐらいしか成長の方向性はない……。

もう年齢的にもITに行ける年ではないが、仕事に対しての虚しさは募るばかりだ。

やっている内容以上に、やってくる面倒ごとの内訳にこそ飽き飽きしている。

大部分はどこにも記載のないくだらんローカルルールに合わせるための訂正で、内容に統一を測ることで精度を上げるためだと語られるローカルルールに沿わせることに多くの注意力は使い切られ、その結果として思いもよらぬ所から綻びが起きる。

ときには取り返しのつかない失敗が発生し、それを公の権力によって民間に尻拭いをさせつつ、自分たちのミスのあとは砂消しマジックで消してやるのさ。

信じられん……理不尽不正高慢低能溶鉱炉だ。

指を立てて沈んでいく文書主義お題目国民貢献意識の姿には涙を禁じえない。

とにかく全てが虚しい。

こんな所で日々更なる無能へと成り代わり、転職可能性は失われていく。

周囲の人間性に対しても疑問は尽きず、「俺は赤ちゃんのようなオッサンからお前らが面倒を見てくれるべきなんだ」という態度の中年太りの連中が非正規女性事務員に日々身勝手愚痴を聞かせては相槌を打たせている。

同じ空気を吸いたくもないのに、給料という餌を食わねば死んでしまうからこの世界から抜け出せずに居る。

俺の人生は失敗した……だが本当に失敗したのか?

しかしたらIT系に行ったらもっとひどい地獄が待っていたんじゃないのか?

もう俺が縋れるものはそれしかないんだ。

頼む。

ITはこんなに地獄だぞ!」

「お前の嫌っている赤ちゃん体系アラフィフ歳児はITにも沢山いるぞ!」

給料が良いとか言ってるのは転職サイトのセールスで90割は公務員の方がマシな給料もらってるぞ」

ななどのお便り楽しみにしております

きっとね、俺以外にも同じ様な後悔をしてる人がいるんだよ。

ある人は飲食に、ある人はビルメンに、ある人は運送業、ある人は清掃、ある人は介護、ある人はエンタメ業に。

IT業界に行きたいという夢を持ちながらも、ハゲタカコンサル共の手によってグチャグチャにされてしまった業界でババを引かずに住む自信がないから逃げ出して、後悔の中で10年20年と生きてきたんだよ。

救ってやってほしい。

俺を救ってほしいし、俺と同じ境遇の皆が救われてほしい。

徳を積もうぜ。

天国がある可能性にちょっと賭けておくの爆アドやんって誰か言ってたろ?


追記:おっ、早速ついてる。あざっす!思ってた感じのコメントもらえて嬉しいっす

2023-05-03

anond:20230503234751

就職活動上手くいってない時期に本屋たまたま公務員試験過去問とか参考書見たら簡単すぎてビビり、地元公務員試験が他の自治体より遅めでまだ出願間に合ったから受けて、受かったのでそのまま入ったって感じ。今じゃちょっと後悔してるけど死ぬほど嫌だって訳じゃないし、ほかに入れるような所もないから続いてる

たとえば明日突然腹が痛くなって病院行ったら膵臓がんだったとする

俺は今までの人生を後悔するだろう。

じゃあ10年もあればそれが無いように出来るのか?

それについて考えているウチに気づけば40歳になった。

大学在学中に同じことで悩みまくってメンタルが死んで引きこもり、2年休学して大学卒業するも就活は難航。

こりゃもう筆記の点数で全部解決するしかねえなと勉強しまくって公務員試験勝負し、今は係長、部下に仕事押し付けつつ上司の頼みは断りまくる技術を磨いたので残業はあまりせず年収は550万だ。

仕事空虚さや職場でのイメージの悪さを考慮しなければ人生はそこそこ上手く行っているはずだと思う。

趣味はない。

特技はない。

伴侶はない。

両親はまだ健在だがそろそろ怪しい。

正直、人生でやりたいことが思いつかないのだが、何も成し遂げていないということに対しての無力さだけは凄い。

せめて消費活動ぐらいは精を出そうと、35ぐらいの頃にベストセラーを読み切ろうとしていたが、毎年の売上1位と直木賞芥川賞辺りを読み切った所で飽きてしまった。

そういえば30歳の時には映画オールタイム・ベストを見漁っていたが、アレで何かが得られたという気もしない。

ゲームも完全に飽きている。

こういう輩がAI絵師だのなろう作家だのをやるべきなのだインターネットじゃよく聞くが、ちょっと試してみて合わなすぎたので辞めた。

表現したいことがないわけじゃないんだが、表現しきれたと思えるレベルに行くまでにかかる時間や手間が割に合わないと感じてしまう。

たとえば脳みそから直接イメージを吸い出せる装置が20年後に開発されたりして、それから全部やればいいんじゃないかという気持ちさえある。

でもそれを待ってる間にがんで死んだりするんじゃないかという不安があるわけだ。

どうしたものか。

多分みんな同じことで悩んだことがあり、そのあとに「考えても仕方がない」で終わらせたんだろうな。

自分も一度はそれで乗り切ったが、再び見つめ合ってみると、どうもコイツについてちゃんと片付けずに終わらせないとあとで本当に後悔するんじゃないか不安になってきた。

そういえば大学とき就活に失敗してやりたくない仕事毎日やって過ごすことをどう思い過ごすかが悩みの中心だったように思う。

あれから15年公務員をやっているが、自分人生において実に無駄価値のないゴミのような時間だった。

本当にただただ給料最低賃金よりは多く貰えることにしか価値がない。

公文書偽造スレスレを常に自己責任で歩まされ、いつ犯罪者としてさらし者になるのかと怯えながら暮らしてきたことを考えると給料に見合わなすぎる。

まあ、工場最低賃金を下回って働いている人達労災もまともに降りないまま指や視力を実際に失っているのに比べれば、まだ起きてもない公訴リスクなんて軽々しいのかも知れんが。

虚しいな。

こんなレベル人生電卓をはじいていることが虚しい。

どうすればよかったんだろう。

これからどうすればいいのだろうか

中学高校を律儀に通っていたことを未だに後悔してる

頭が悪くて不細工運動神経も悪かったので教師同級生からゴミみたいな扱いを受けてた俺は、学校環境が堪らなくストレスだった。

学校に行くだけで酷くストレスだったのて、高校定時制に行って自分のペースで勉強たかったが、親に拒否され、ゴミみたいな中学の成績を抱え近所の底辺高校入学した、高校に入るとみんな比較的落ち着いていて、女の子ゴミ扱いされることしかなかったので、同級生に殴られることもなく平和に過ごせた。

俺の社会性は中学でバチボコにぶっ壊されて、高校では壊死していてもう社会に何も希望を持てなかったので働きたくなかった。親には「2年で公務員になるから浪人させてくれ」といって公務員浪人をさせてもらった。

2年間、公務員試験過去問を解きまくった俺は最寄りの市役所筆記試験突破し(一年目は厳しかった)、同級生からゴミみたいな扱いを受けて社会性が壊死していた俺も元々は人好きで人懐っこい性格だったので、年配者の多い二次試験面接スムーズパスし晴れて市の正規職員になった。

振り返ると中高の6年間は俺にとって何もプラスになっておらず、教育機関を離れた途端好転し始めたように感じる。

学校がしんどかったけど、行くたびに慣れてくるやつ」も中には居るんだろうけど、俺は行けば行くほど疲弊していた。中学の頃、俺の母親小学校同級生の親御さんから増田くん白髪すごいあって顔が疲れてたけど大丈夫?なんかあったの?」と心配していたと言っていた。たぶんうちの親も狂ってるんだと思う。学校に通うストレス身体に出てる息子の心配よりも、息子が不登校やレールを外れる心配が上回るのだ。家にいるのは学校にいるよりマシ程度の地獄で、当時はよく世界が曇って見えた。

中学から不登校になってたら、今頃どんな生活してたんだろう。と時々ふと思う。

2023-05-01

anond:20230501214421

汎用スキル非正規やるか、人手不足分野の非正規やるか、薄給零細の正社員やるか、資格公務員試験勉強するか、どのルートが正解だろう

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