はてなキーワード: サックスとは
この記事を読んで、自分もそういうのあったなぁって思ったので書いてみた。
仲間がいるように思えてちょっと嬉しい。
でも仕事が忙しかったりで家でも練習せず、お金ももったいないなと思い始めたので辞めた。
写真をバンバン撮って、ネットにアップロードして売っちゃうぜ!
なんて考えていたけど、カメラが重いし持ち運びも不便だしで触らなくなってしまった。
ちなみに一眼レフカメラは2台(時期をずらして)買ったけど埃を被っている。
・バイク
続いている趣味と言えば趣味なんだけど、数ヶ月乗らなかったりもする。
ちなみにアドベンチャータイプのバイクと大型ツアラーと2台所有してる。
・車
車が趣味というより、自転車代わりにどこか近所に出かけたりするのに使ってる。
ちなみに車をいじったりとかは全然興味ない。
Civ系が面白いと聞いたのでやってみたけど、自分には操作が不便で面白さが分からなかった…
他にも面白そうなものとかはあったんだけど、インタフェースが英語なので諦めた。
・旅行
旅行行くだけで数万飛ぶし、休み潰れるしで「旅行行きたいな」って思うだけで十分なことに気がついてしまった。
・小説
歳取ったせいか(30代後半)、昔ほど「この本を一気に読むぞ!」という気力も無ければ、読んでる本を途中で読んでることすら忘れてしまうことが多い。もうダメかもしれない。
面白いのとかもあるんだけど、1〜2時間ずっと見続けるってのは意外と根気が必要で、だるいなぁって思うのが先に勝ってしまう。
・映画
ネット配信動画と同じ感じで、たまに映画館には行くけど、よっぽど見たいものでなければ行かなくなってしまった。
・サバゲー
興味はあるし、中学生の時にちょっとやってたんだけど、身近にやる人がいないので何も手つかず。
・イラスト
安いペンタブ買ったけど、もともと絵心がないのもあって埃被ってる。
・家庭菜園:前にも少しやってたけど、水をあげることすら忘れてしまう…
客席のブス弄りした直後に慰めにサックスあげるんだよな
20年前、中学2年生のときに参加した秋の吹奏楽コンクール。夏休みをつぶして練習をしていた彼女たちを横目に見ながら、ステージの上で俺は何もせずに突っ立っていた。割り当てられた楽器はトライアングル。特定のパートで音を鳴らすだけだった予定だが、誰かのミスで俺の楽器がステージに用意されることなく終わった。別にトライアングルを準備しなかった誰かを怨んじゃいないし、たぶん本当にただのミスだったんだと思う。悪いのは夏休み中に一回も練習に参加しないどころか、辞める意思を伝えなかった俺だと思う。
うちの家族は音楽一家だ。俺が小5のときに死んだ父親はフルートの奏者で、同期の友人を集めて社会人サークルを作ってときどき演奏会をしていた。姉も姉でピアノが得意でときどき、受験勉強の合間に演奏をしていた。妹もサックスの奏者で運転免許教習のためにと渡した金で自分用のサックスを買ってた。母親は別に音楽はしなかったが、彼女たちを育てるのにリソースを費やしていた。そんな家族だったから俺も音楽が好きで、得意できっと才能もあるのだろうと思っていた。
俺が楽器に触っていた一番古い記憶は幼稚園のころにピアノを習っていた記憶だ。音大を卒業したばかりの若い女性の先生を家に呼んで姉と俺が習っていた。彼女の教え方は結構自由な感じで、俺は楽譜を無視して勝手にペダルを押してみたり、習ってもない黒鍵を押して変な音を出したが彼女は「じゃあ、アレンジしてみようか」って言って楽譜の改変を許してくれたし、そんな優しい対応をしてくれる大人の女性に気恥ずかしさを感じた記憶がある。
それに対して母親はどちらかというと教科書的に楽譜を覚えさせようとする人で、幼稚園から帰ってピアノを自主練する時間になるとひたすら楽譜の同じフレーズを繰り返させられた。ちょっとでも間違えると「あと10回繰り返しなさい」という具合。これが原因でピアノが嫌いになってしまって先生を呼んでの個人レッスンも辞めてしまった(辞めた時の具体的な流れはもう覚えていない)。
そんな俺だったが小5のときに父親が死んだ。彼が残したフルートを見て「これを俺も吹けるようになりたい」と思った。そんなことを思いはしたものの、具体的に行動は起こさず、塾やら剣道やら(これも嫌いだった)中学受験に失敗したりしているうちに進学先の中学校に吹奏楽部があることを知ってそこに入部した。思えばこれが間違いだった。
俺の入部した吹奏楽部は俺以外全員女子。顧問はまさかの俺の父親の知り合いで、そこに男子が参加したものだから舞い上がっていたように思う。最初に割り当てられた楽器はチューバだった。いわく、低音でバンドの全員を支えろとのこと。チューバ奏者には申し訳ないのだが、これが全く楽しくない。低音を鳴らしても自分が何を演奏しているのか分からない。顧問は部員のモチベーションをあげるためなのか、自分の趣味なのか分からないがみんな知っているポップスや歌謡曲を演奏させたが、メロディを奏でるメンバーが聞いたことのあるフレーズを演奏しているのに対して低音が演奏している音は一体何の役に立つのか全く分からなかった。定期的に同じ音を鳴らすこの行為になんの意味があるのか分からなかった。ついでに俺は残念ながら肺活量が低くてチューバを満足に吹くことができなかった。その後、顧問の命令でアルトサックスへ、そして最後はコントラバスに転向。もはや管楽器ですらなくなり、この辺で完全に俺のやる気は消失して部活をさぼるようになっていた。
で、中学2年生の夏休み。俺は部活に行くと言って家を出てから友達の家へ行って連邦VSジオンで遊んでいたものの、あるタイミングで顧問がその友達の家に乗り込んできて俺は拉致されてしまった。与えられた楽器はトライアングル。夏休み明けのコンクールは部員全員で参加して今の3年生を送り出すんだから、お前も参加しろとのこと。無理やりワンフレーズだけのパートを練習させられて、そして迎えた本番で事故は起きた。トライアングルが無い。
理由は分からない。楽器を運ぶ担当の1年生からも下に見られていた俺は、楽器の用意をしてもらえなかったのかもしれない。それか、俺が自分の責任で運ぶように指示されていたのかもしれない。分からないが、ステージ上で何もせずに突っ立っていた記憶だけは残っている。指揮棒を振る顧問の困った顔、演奏が終わった後でほかの部員から向けられた視線。すべてが苦痛で俺は逃げるように会場を後にした。顧問はさすがに哀れんだのかそれとも呆れたのか、それ以降俺を部活に連れていくことはなくそのまま俺の存在は自然消滅した。
そんなことがあって、何年もの月日は経過したが幸いなことに音楽自体を嫌いになることはなかった。どちらかというとDreamcast勢だった俺はクレイジータクシーやソニックアドベンチャーで洋楽に触れて、バンドの存在を知って低音が奏でる面白さをそこで初めて知った。と言って、特に具体的な行動を起こすでもなく大学に行ってからはギターヒーローとかドラムマニアでときどき遊ぶ程度。あとはオーケストラやマーチング、ジャズなんかをときどき思い出しては聞く程度だった。だけど心の中で、音楽をもう一度やってみたいと思う気持ちだけはちょっとずつ育っていっていた。
結婚して子供もできて、その子供が8か月になったころの2020年からコロナの影響を強く感じるようになった。仕事はそれ以前から完全リモートだったので特に支障はなかったのだが、趣味の温泉旅行が制限されたのはつらい。そんな中でおこもり需要の一つとして注目されたのが楽器だったわけ。俺もその例にもれずヤマハが発売しているヴェノーヴァを購入してみた。生まれて初めて自分のお金で買った楽器。これがめちゃくちゃ面白い。
練習はだいたい朝子供を保育園に送る前と夕方、保育園から帰ったあとの夕食までの時間。だいたいどっちも20分くらいだから1日のうち40分くらい。しかも最近は寒いから朝の練習はしない日もある。練習と言っても昔のように間違えたフレーズをなんども繰り返すわけじゃない。最初こそ音を鳴らす練習や指の運びの練習はしたけど、一通りそれっぽく音が出せるようになったら後は自由だ。楽譜を買ってきて自分が好きな曲を自分が満足するまで吹けばそれでいい。アニメや特撮が好きなので「ドラえもんのうた」とか「ウルトラマンのうた」とかを一通り吹いて、サビだけ吹けるようにしておしまい。最近はコンビニで曲ごとに譜面を印刷できるので、気になる曲だけ印刷してくれば1枚400円くらいで収まる。飽きたらまた別の曲をやるし、ときどき思い出して前にやった曲を吹いてみて自分の中の変化に目を向けると、ちょっとは上手になったかな?と思って自己満足する。それだけでいい。
子供の時にやっていたバイエルをひたすら反復する練習は何だったのか。中学のときに面白さが全く分からなかった低音をひたすら鳴らしていたのは何だったのか。そんなことやる必要なんてなかった。自分が好きな曲を適当に吹いてひとまず満足して、そしてまた戻ってきて高みを目指したり目指さなかったりすればいい。そう言う物だったんだな。
今にして思えば父親が俺に音楽を教えてきたことは無かった。たぶん、彼は今の俺と同じことが分かってて練習を強要するんじゃなくてやりたくなったらやればいいくらいのスタンスだったのだと思う。俺もそういう気持ちで子供に接して行きたい。
キュレーターとは,現代美術の文脈において展覧会の企画・運営等を総合的に指揮する人のことである。どんな作品を取り扱うのか,どんなタイトルの展覧会にするのか,展示の順はどうするのか,ライティングは?解説は?チラシに掲載するキャッチフレーズは?等々。
今日のクラシックにおける自主企画の演奏会は,多くの場合「プレイヤーがやりたい演目をやる」ということになっている。もちろんそこにコンセプトやテーマがあったりする場合もあるのだが,美術作品とお客さんをキュレーターという専門家が架橋している美術市場と異なり,クラシック市場にはキュレーションを専門に勉強している人がいない。現状コンサートのマネジメントは演奏家がやっているわけだが,あまりに画一化しすぎているのではないか。クラシック音楽にも,お客さんと作品をキュレーションで架橋する発想があってもいいのではないか。そのあたりのことが気になってのツイートだった。
ということで,このnoteではこの件についてもう少しだけ深堀してみようと思う。久々の投稿ですが,お付き合いください。
目次
1.現状は相変わらず「上手い人一強」の世界
5.まとめ
1.現状は相変わらず「上手い人一強」の世界
繰り返しになるが,現状のクラシック系自主企画コンサートは「演奏家がやりたい演目を披露する場」として機能している。これ自体が悪いわけではないし,演奏家の独りよがりだと批判するつもりもない。もちろん演奏家は選曲やプログラムノートに苦心しているし,そこには確かに工夫の痕跡がある。
でもね,正直クラシックのコンサートの演目って似たり寄ったりじゃないですか。
コンサートに「一度も聞いたことのない楽曲」が含まれていることは稀だし,大体定番曲が並んでたまに新曲初演があるくらい。クラシックのサックスなんかはまさにそうだ。クラシック音楽が「過去の音楽を再現する」文化である以上,演目の重複は避けられない。まぁこれは仕方のないことではある。
ただそうすると,当然誰しもが「同じ曲を聴くなら上手い人の演奏聴きたいよね」と思うようになる。つまり,技術で劣る演奏家の演奏会に行く理由がなくなってしまうのである。
このnoteでも何度も言っていることだが,クラシック音楽は特に「文化的に醸成された良さや美しさの基準」が強烈に機能するジャンルで,「この人あんま上手くないけど個性的で好き!」とか「この若手は下手だけどトッププロにはない魅力があるなぁ」みたいな評価が生じにくい。また,特にクラシックサックスのように難しい近現代曲が必須のレパートリーになっているジャンルは,必須とされる技術レベルが結構高い。例えば音色がめちゃくちゃ魅力的だったとしても「指が回らない人は使えない」「スラップタンギングできない人はコンクールの一次予選の課題曲が吹けない」みたいな悲しい評価が下される。
結果的に,クラシック演奏家市場では「楽器の上手さ」が保障されているプレイヤーにしか人が集まらない状況が生まれやすいのである。これは,ブルーハーツと東京事変がどちらもCDになって成功できるポピュラー音楽とは事情が全く違う。ブルーハーツみたいなパンクロックって,演奏したり作曲したりするのに必要な西洋音楽的技術が結構低いんですよ。川谷絵音や東京事変やKing Gnuの曲とは複雑さが全然違うわけです。それでもブルーハーツとかモンゴル800とかが世間に認められてCDを出しているという事実は,「ポップスはクラシックに比べて多角的に評価されている」ということの証左だろう。個人的にはとても健全だと思う。一方のクラシック演奏家市場は,「楽器の上手さ」がほぼ唯一の評価の観点として強烈に幅を利かせているのである。
「プロの世界なんてそんなもんだよ」というかもしれない。でも,僕はこの「楽器の上手さというパラメーターが最強の世界」が気にくわないんですよね。
例えばこれが「クラシック演奏家育成」をテーマとするソーシャルゲームだったら,と思って考えてみてほしい。
このゲームでは,プレイヤーが最初のガチャで引いたキャラを「一流のクラシック演奏家」に育て上げることが目標とされている。当然キャラクターには「楽器の上手さ」というパラメーター以外にも「音楽史についての知識」とか「自身の活動への俯瞰的視座」とか「個性的な音色」とかのパラメータもあるわけで,キャラによっては「音楽史についての知識」が先天的に強い,みたいなやつもいる。当然プレイヤーもその辺をコツコツ育てたりするわけだ。なのに,「音大卒業」というチュートリアルイベント以降,ゲームで勝っているのは「楽器の上手さ」のパラメータに全振りしてキャラ育成をしたプレイヤーのみ。もっといろんな勝ち方があるとおもってたよ…最初のキャラガチャで「音楽史についての知識」が強いキャラを引いた人はどうしたらいいの…運営しっかりしてくれよ…
まともなゲームの運営なら「これだと勝ち筋がひとつしかないゲームになってしまうな。よし,他のパラメータを育成した人が勝てるようなイベントを投下するか!」などといった対応がなされるはずだ。しかし,このゲームにおいて運営がそのような神対応をすることはない。いつになったら修正はいるの?まだなの??もう勝てそうにないし…リセマラするかゲームやめるかどっちかだな…。
…まぁでも現実世界にはゲームの運営はいないし当然リセマラもできない。だれもゲームバランスの調整をしてくれないのだ。結果的に,「楽器の上手さ」が一定値を超えていない人は今後も仕事がないし,今仕事がある人でさえもそれを上回るパラメータをもった若手が現れた瞬間に仕事を取られる世界になっている。多様性とは程遠い市場が出来上がってしまっているのである。
そこで,「せめて僕の周りにいる音楽家には幸せになってほしい(そして一生楽しい飲み会に付き合ってほしい)」と考えている僕は,「演奏会のプログラミングやプログラムノート等に拘りまくってお客さんの聴取経験を素敵なものにデザインできれば,技術でトッププロに勝てない演奏家にもファンがつくのでは?これってつまりキュレーションでは?」と考えた。
「モナリザ」みたいな超有名絵画を目当てに美術館に行く場合を除き,僕たちは「特定の絵」を見にいくというより「その展覧会でデザインされている体験」に価値を感じて美術館に足を運ぶ。例えば僕は以前「ベルギー奇想展」という展覧会にいったのだが,一つ一つの絵のクオリティというよりも,複数の絵の鑑賞を通して得られたその展覧会全体の印象のようなものに興味を覚えた。「作品の価値」ではなく「作品群を総体として経験することの価値」に感動したのである。まさにキュレーションの賜物だったのだろう。
また,「ベルギー奇想展」というタイトルやチラシに載せられていたペストマスクみたいなデザインのキャラクターにも強烈に惹かれた。頻繁に美術館にいくタイプではない僕でさえ,「行ってみたい」と思えたのである。そして,この辺のこと全てを把握し,「美術館での体験」をデザインする人がキュレーターなのである(と僕は思っているんですがあってますかね。もしかしたら広報にはそこまでコミットしないキュレーターもいるのかもしれない)。
一方,クラシック音楽の演奏会はどうだろうか。そこに「体験のデザイン」という発想が見て取れる場合は少ない。もちろん選曲や曲順にこだわりが詰め込まれていることはわかっている。それでも,普段美術館に行かない僕に足を運ばせたような,「作品群を総体として経験することの価値」を際立たせるようなコンサートってなかなかないんじゃないかな。少なくとも,多くのプレイヤーは,「コンテンツは演奏(楽曲)のクオリティ,そのほかはあくまで付属品」だと考えているし,むしろ演奏のクオリティのみでガチンコ勝負することが美徳だとされている感さえある。でも先ほども指摘したように,この土俵で戦って勝てるのは「楽器の上手さ」というパラメータが抜きん出ている人だけだ。
キュレーターは自分で作品を作れない。その代わりに,個別の作品の羅列に「作品群を総体として経験することの価値」を付与する。演奏家も,キュレーターのように体験をデザインすることができれば,お客さんを呼べるのではないか,というのが冒頭で引用したツイートの意図だった。つまり,「楽器の上手さ」以外のパラメータを活かせる場はありますよ,ということだ。
具体的には,音楽史や楽曲分析に関わるパラメータを磨いてきた人は,それを用いてMCや曲目解説,選曲で魅せることができるだろう。その場合,チラシやSNS広報のあり方も抜本的に考え直さなければならない。このへんについては別途記事を書こうかな。とにかく,僕は「楽器の上手さ」のパラメータが高い上位5%の演奏家しか生き残れない現状を打破する手段として,キュレーションの発想を生かさない手はない,と考えている。
とはいっても,「そんなことできねーよ」という声も聞こえてきそうだ。キュレーションそれ自体を仕事にする人がいるんだから,「作品に対する俯瞰的視座をもって聴取体験をデザインする」とかめちゃくちゃ高度じゃん。自分たちは演奏家なんだよ,演奏以外やりたくねぇ!
…まぁもちろん気持ちはわかるんですが,今の僕が「楽器の上手さ」のパラメータで勝てない人にできるアドバイスは,①プレイヤー兼キュレーターになれ,もしくは②プレイヤー兼クリエイターになれ,くらいしか思いつかないのが現状だ。すいません。
クラシックの演奏家って特殊な立場なんですよね。CDやスピーカーがなかった昔のヨーロッパなら,演奏家はまさに一家に一台欲しい人材だったはずだ。演奏家がいないと音楽を聴くことすらできなかったのである。そのような時代背景とパトロンがいてこそ演奏家という仕事は成立していた。でも現代ではbluetoothスピーカーとAppleMusicがあればいくらでも自宅で音楽を聴けてしまう。馬車や人力車が自家用車にとって変わられたように,そして今後タクシー運転手が自動運転にとって変わられるように,中途半端な演奏家はオーディオ機器および音源の中の一流プレイヤーにとって変わられるだろう。個人的には,オーディオ機器や音楽サブスクリプションサービスの発達は,演奏家という職種に対する破壊的イノベーションだと思っている。
だからこそ,演奏家は「他者の作品の再現」以外の価値を作らなければならないのだ。
こういうと,「演奏家だって生演奏という価値を生み出している!!」という反論が聞こえてきそうだ。もちろんわかってます。僕はクラシック音楽愛好家なので,生演奏に魅力を感じています。でも「生演奏は素晴らしいのでサブスクで聴かずに演奏会に来てください!」という売り方をしたとしても,多くの人は,「わざわざホールまでいって中の上くらいの生演奏を聴くより,自宅のスピーカーでトッププロの演奏を聴く方が楽だよな…」と考えるのではないだろうか。コンサートホールまで往復2時間かかるし,演奏会って夜ご飯の時間に丸かぶりだし,拍手するタイミングとかマナーとかよくわからないし…だったら家で聞けばいいや,「楽器の上手さ」ならこのCDの中の人の方が上でしょ?…これが一般人の残酷な本音のような気がする。だからこそ,「作品群の連続体験をデザインする」というキュレーターとしてのスキルを磨いてはどうか,という提案をしているというわけだ。
また,オリジナル作品を作れる演奏家も強いと思う。むしろこっちの方がわかりやすく価値を提示でき,周りと差別化できるような気もする。「他者の作品の再現」や「生演奏」以外の価値を生み出す上で手っ取り早いのは作品を作ってしまうことだ。もちろん,他の作曲専業の人々と張り合うような作品を作るのは難しいしむしろ得策ではないので,毎回演奏するアンコースピースだけ作るとか,曲間に即興演奏を入れるとか,そんなことから始めてもいいかもしれない。
ちなみに,「自分の作品を持った方がいい」と言っているクラシックサックス演奏家出身の僕自身が作品を作っていないのはなんか説得力がないと思ったので,最近気が向いた時に曲を作っています。
世界が今年のベスト(#AOTY2020)を出す中、11月のベストです!今年中に年間ベスト、来年の1月中に2020年12月のベスト書く予定、まだまだ2020年は終わらない終われない!
Sankofa Season / Andrew Ashong & Kaidi Tatham
Kaidi Tathamが大好き人間なので、もちろん最高でした!クラブジャズ〜ブロークンビーツの良さの一つに、打ち込みで肉体的なフレーズを再現しようとした絶妙な違和感があるのですが(あくまで個人的な感覚です)、もれなくその魅力が炸裂する高密度の異形ジャズ空間。即興性があるけれど時間軸は繰り返されていそうな不思議さというか。「そんなフレーズ突如ユニゾンするの?」「このキメで合うの?」みたいな。
Andrew Ashsongのソウルフルな歌声でより肉体性とDAW感が混乱し融解していく感覚がたまらなかったです。
Sin Miedo (del Amor y Otros Demonios) ∞ / Kali Uchis
Kali Uchisの2ndアルバムであり、スペイン語として1stとなるアルバム。レゲトンやラテン・ポップスを取り入れた所が肝なんですが、個人的には上記の曲のような、ローファイでサイケ、ダウナーでドリーミーにチルい音像が素晴らしかったです。一歩間違えれば悪夢的な濃密さが凄い。
Girls FM / Girls of the Internet
今年頭から定期的に出すシングルが毎回良かったGirls of the Internet、その総集編的なアルバム。基本的に歌物ローファイハウスという感じなんですが、音数がしっかり少なく、チャラいけれどストイックである絶妙な塩梅が良かったです。各フレーズをしっかり作っている印象で、丁寧さがクオリティに繋がっていました。
Jordan RakeiのジャズハウスプロジェクトDan Kye。思ったより歌中心で、そういう意味だと割とそのまんまJordan Rakeiなんですが、M1"Mogeri"のダークでミニマルなトラックが素晴らしかったです。ドープな方向に行ってもダンス・ミュージック的な明るさや開放感があることに、勝手にオーストラリア・シーン的な雰囲気を感じました(活動拠点はもうUKですが)。
Muvaland / Cakes Da Killa x Proper Villains
ラッパーCakes Da KillaとプロデューサーProper VillainsとのコラボEP。ハウスにラップを乗っかる「ヒップハウス」が中心。要素としてはディスコラップっぽくなりそうなんですが、両者とも攻め攻めです。快楽的で攻撃的な4つ打ちに狂気を注入するCakes Da Killaのラップが最高でした。
The Angel You Don't Know / Amaarae
ガーナ出身のシンガー/プロデューサーAmaaraeの1stアルバム。Alté(オルテ)シーンの一人ですね。ギターの使い方が上手く、ラグジュアリー&リラクシンな音が良かったです。ウィスパーボイスでフロー感ある歌がトラック含めて聴きたくなるバランスにしていると思います。
Ekundayo / Liam Bailey
El Michels AffairのLeon MichelsのレーベルBig Crown Recordsよりリリースされた、ジャマイカン・ルーツを持つシンガー作。曲としてはオールドスクールなんですが、ヴィンテージ的なざらついた音にすることで、むしろ今っぽい感じに聞こえる面白さです。
January 12th / Matthew Tavares & Leland Whitty
元BBNGのキーボーディストMatthew TavaresとBBNGの管楽器奏者Leland Whittyのコラボのライブ版。今年3月に『VIsions』というアルバムを出していて、それと同様のメンバーです。即興のセッションとのことなんですが息の合い方が素晴らしく、むしろ長尺&壮大&有機的にうねっていくための決め事の少なさなんじゃないかと思ってしまいます。ざっくりとスピリチュアル・ジャズ系ではあるんですが、マスロックみたいな瞬間からアンビエントまで行き来する幅広さも魅力でした。スペーシー。
Speak Low II / Lucia Cadotsch
スイス出身のシンガーLucia Cadotschに、サックス奏者Otis SandsjöとベーシストPetter Eldhが加わったコードレス、ドラムレスのトリオ編成によるアルバム。楽曲によってはチェロとハモンドオルガンが加わりますが、いずれにせよ支えに回る演奏はなく全員自立。緊張感のある隙間多めの演奏がかっこよかったです。この編成で歌い切るLucia Cadotschがひたすら凄いし、時にはリズミカルに時にはオブリとして動くOtis Sandsjö(今年出たアルバムよかったです)が魅力的でした。
Imminent / The Comet Is Coming
爆音爆圧爆裂!笑っちゃうくらいテンション振り切っていて最高でした。この異様な熱量の中で吹き切るShabaka Hutchingsも素晴らしいし、エレクトロ由来のビートを生々しく再解釈して叩くBetamaxもかっこ良い!そしてそれ以外すべてを司っていると思うとDanalogueすごすぎないかと思うトリオですね。爆音といえば→EDM感に行きそうでいかず、徹底的にハードコアであるバランスが見事!
近況
生まれて2万日目を迎えた。覚えていたわけではないが、Googleカレンダーのリマインダで気づいた。節目なので、いったん今までの人生を振り返ってみる。1965年生まれのおっさんである。
こんなところである。
ウリにされている話をしていたので、
と思ってた。
その時のイメージは、
ただそれだけだった。
なので良い意味で期待裏切られた。
てっきりシェフ服の上から筋肉が盛り上がってるじゃないかと心配だったんだけど
漫画の読みすぎだったみたい。
何よりぼさぼさの長髪がすごいよかった。
非常に整った濃ゆいお顔なので、髪の毛が影になって
髪を1つにくくるシーンにどきっとした。
よく男性が、女性が髪をかきあげたり、髪をアップにしてうなじがいいと
やー納得しました。
そしてマッチがすごく苦手なのですが、服を脱がない限り
シェフに骨抜きにされました。
で早速インスタに飛んで、ムキムキの美ボディに玉砕。
でも、どうしても怖い。
お顔が整っているので余計に怖い。
マッチョ好きの女性はたまんないだろうけども、母親が愛読していた
萩尾望都の美少年漫画を子供の頃から読んでいたので、ただただ男臭さが怖い。
昔は、男のすね毛も許せなかったけども、大人になって
幻想は捨てた。
ただやっぱりいまだに、男の裸もマッチョボディーも苦手なんだよ。
ともあれ来週も楽しみです。
違うようだけど、これはこれでアリ。
いちごちゃんの探偵への恋愛感情は原作にもないしいらなかった気もするけど
それにその設定がないと、ただのうるさい女の子になっちゃうからなあ。
ありがと
https://anond.hatelabo.jp/20200322025040
They walked along by the old canal
A little confused, I remember well
And stopped into a strange hotel
( ・3・) ふたりは古い運河に沿って歩いた。少しまごついていたのをわたしはよく覚えている。そしてふたりはネオンの輝く奇妙なホテルに入った。
――「奇妙なホテル」とは?
( ・3・) ホールにフランク・ザッパの蝋人形でも飾ってあったんじゃないか? ああ、この strange というのは unfamiliar ということだな。――ネオンの輝く見知らぬホテルに入った。彼は夜の熱気に打たれるのを感じた。まるで運命のひとひねりと共に走る貨物列車がぶつかってきたようだった。
( ・3・) 夕暮れの公園にいたふたりが歩きだす。ネオンが光っているから、あたりはもうすっかり暗くなったんだろうな。「わたし」の記憶によると、少しまごついていたようだが……。
――「わたし」が出てきましたね。
( ・3・) ふたりの背後に忍びよる謎の人物……。落ち着かない心の内までお見通しとは、たいした観察力だ。
――……。
( ・3・) いや、分かってるよ。賢明なる読者諸氏ならば、「わたし」の正体は説明せずともお分かりになるはずだ、ってことだろ? 分からないとおかしい。ナボコフの『 』を読んで、「 」と「 」とが同一人物だと気づかないようなものだ。
――『 』は読んでいないのですが……。
( ・3・) だから少しは本を読めって。ただしまともな本だぞ。『死にたくなければラ・モンテ・ヤングを聴きなさい』みたいなのは読書にカウントされないからな。
――話を元に戻しましょう。
( ・3・) 三人称の物語だったはずなのに、一人称の「わたし」がぱっと現れて、さっと消える。聴き手は混乱するんだけど、何事もなかったかのように、彼と彼女との物語が続いていく。
――はい。人称の問題は後で見直すとして、脚韻についてはどうでしょう。
( ・3・) 1行目と2行目、canal と well は母音が合っていないんじゃないか?
――子音しか合っていません。脚韻は、強勢の置かれた母音以降の音が一致しないといけないので、この箇所は韻を外していることになります。そのうえ、1行目と2行目とでは旋律も違います。
( ・3・) 違ったっけ。
――違うんです。第一スタンザでは、1行目・2行目・3行目はきれいに韻を踏んで、旋律も同じかたちでした。ところが、第二スタンザでは、1行目・2行目で母音が揃わず、canal は上昇する旋律、well は下降する旋律です。というか、"I remember well" のところは、はっきりした音程がありません。そこだけ語りのようになっています。
( ・3・) 例の「わたし」が出てくるところだな。ひょっとしたら、わざと韻を外して、旋律も外して、「わたし」に対する違和感を際立たせようとしているんじゃないか?
――わざとかどうかは分かりませんが、定型から逸脱することで、聴き手の注意を喚起する効果はあると思います。
( ・3・) となると、韻を踏まないことにも意味がありうるわけだ――あれ、6行目と7行目、train と fate も韻を踏んでいないぞ。
――6行目は train ではなく freight train の freight が脚韻にあたります。
( ・3・) まず列車の概念があって、それからより具体的には貨物列車、という思考の流れではないんだな。まずフェイトという音の響きがあって、その響きが無意識の言葉の渦からフレイトをひっぱり出してくる。それから列車の概念がフレイトにくっついてやってくる。意味が音を追いかけているみたいで面白いな。
A saxophone someplace far off played
As she was walkin’ by the arcade
As the light bust through a beat-up shade
( ・3・) どこか遠くでサックスを吹いている人がいた。――これは順番をひっくり返さないとうまくいかないな。――彼女がアーケイドを歩いていると、どこか遠くからサックスが聞こえてきた。くたびれた日よけから光が差し込み、彼は目を覚ました。
――まだ覚ましてはいません。
( ・3・) ――彼は目を覚ましつつあった。彼女は門のところで盲人のカップにコインを入れた。そして運命のひとひねりのことは忘れてしまった。
( ・3・) 夜から朝になった。どこか遠くでサックスを吹いている人がいる。時を同じくして、彼女はどこかへ歩いていく。そしてまた時を同じくして、夢うつつで横になった彼の部屋に光が差す。一行ごとに場面が切り替わって、映画みたいだ。
( ・3・) どこかへ歩いていく彼女は、そのまま消えてしまう。盲人のカップにコインを入れる、というのが何か象徴的な行為なんだな、きっと。運命、盲人、テイレシアス、と連想が働くせいでそう感じるのかもしれないが。
――何を象徴しているんですか?
( ・3・) 何かをだよ。メルヴィルの白鯨は何を象徴しているんだ?
――何かをですね。
( ・3・) そう。ある行為や対象が何を意味するのか一義的に定まらないとき、その行為や対象は象徴性を帯びるんだ。ひとつ賢くなったな。
――とはいえ、門のところの盲人は運命を告げるわけではなく――
( ・3・) それどころか、彼女は運命のひとひねりなんて気にしてないんだな、ちっとも。
――強い。
( ・3・) 強い。運命に抗う者は悲劇的な最期を遂げるが、運命に関わらない者はいつまでも幸せに暮らすんだ。――じゃあ、ありがたい教訓も得られたことだし、次に進もうか。
――その前にひとつだけ。わたしが面白いと思うのは、彼女が去っていくのを誰も見ていない点なんです。まず、どこか遠くのサックス奏者は物語に関与しない。
( ・3・) 音だけの出演。
――部屋では彼はまだ寝ている。そして門のところの盲人には――
( ・3・) 彼女は見えない。なるほど、興味深い指摘だ。きみ、名前は?
――……。
( ・3・) 名前は?
( ・3・) アルトゥーロ、ありがとう。そんなところにも彼女の強さというか、優位性が表れているのかもしれないな。
He woke up, the room was bare
He told himself he didn’t care
Felt an emptiness inside
To which he just could not relate
――ハーモニカの間奏を挟んで、ここからは後半です。彼と彼女とがいっしょにいる、あるいは少なくとも近くにいるのが前半でしたが、ディラン先生のハーモニカを聴いている間に、彼女のいた世界は彼女のいなくなった世界に変わってしまいました。――では、どうぞ。
( ・3・) 彼が目を覚ますと、部屋は熊だった。
――クマ。
( ・3・) 「かすみの間」「うぐいすの間」みたいに、「グリズリーの間」だったんだよ。泊まった部屋の名前が。
――真面目にやりましょう。
( ・3・) 彼が目を覚ますと、部屋は空っぽだった。彼女はどこにもいなかった。どうってことはないと自分に言い聞かせ、彼は窓を大きく押し開いた。心の内に虚しさを――
――虚しさを?
( ・3・) 虚しさを感じた。で、その虚しさというのは、彼がどうしてもリレイトできない――
――He just could not relate to an emptiness inside ということです。
( ・3・) どうしても関わることのできない虚しさ?
( ・3・) おまえが引きたいというのなら。
――ランダムハウスにちょうどいい例文が載っています。I can’t relate to the new music of Miles Davis. マイルス・デイヴィスの新しい音楽はわたしにはしっくりこない。――1972年に『オン・ザ・コーナー』を聴いた人はそう感じたかもしれません。そもそも1967年の『ソーサラー』からして、もう調性は不
( ・3・) 自分自身の虚しさとうまくつきあっていけない、と考えればいいのか。――どうしてもなじむことのできない虚しさを感じた。運命のひとひねりによってもたらされた虚しさを。
( ・3・) さっき "he was wakin' up" のところで「まだ目を覚ましてはいない」って添削が入ったのは、このスタンザの "He woke up" が念頭にあったからなんだな。
――そうです。ここではっきりと目を覚ます。
( ・3・) 彼女はいなくなっている。大丈夫だと自分に言い聞かせるってことは、大丈夫ではないわけだ。窓を開けたら心の内に虚しさを感じた、のくだりはなんだか分かる気がするな、感情の流れが。ぐっときたぜ。
――まず部屋が空っぽだという状況が語られる。でも本当に言わんとしているのは、彼の内面が空っぽになったことです。開いた窓のところに立って外と内とを画定することで、内面という言葉が自然に導かれています。
( ・3・) きみ、名前は?
He hears the ticking of the clocks
And walks along with a parrot that talks
Hunts her down by the waterfront docks
( ・3・) 時計がチクタクいうのが聞こえる。言葉を話すオウムを連れて歩く。水夫たちがやってくる港で彼女を捜す。また彼女が彼を見つけてくれるかもしれない。どれだけ待たなければならないのか。もう一度、運命のひとひねりが生じるのを。
( ・3・) 時計の音が聞こえてくるのにあわせて、時制が現在形になった。ここからは彼にとってまだ過去の出来事ではないんだな。
――彼女のいない現実が、一秒ごとに動かしがたいものになっていく。コンクリートが固まるみたいに。
( ・3・) 「言葉を話すオウムを連れて歩く」は何を意味するんだ? アメリカ文学で鳥がしゃべるといったら、ポウの「ザ・レイヴン」だな。死に別れた恋人と天国で再会できるだろうかと訊くと、鳥は「二度とない」と予言するんだ。
――このオウムは実在するんでしょうか? どこからともなく現れましたが。
( ・3・) そこを疑うの? 「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました」「エヴィデンスは?」みたいなものじゃないか。
――いえ、そうではなく、おそらく肩の上、耳元でオウムが話しているわけですよね、彼女を捜して歩いている間ずっと。それは暗喩ではないかと思うのですが。
( ・3・) おじいさんは暗喩としての山へ暗喩としての柴刈りに行きました。
――「周囲の人たちの話が、オウムの言葉のように空疎に聞こえてしまう」を暗喩的に言い換えると「言葉を話すオウムを連れて歩く」になりませんか?
( ・3・) 心ここにあらずだから、「よう、調子はどうだい?」と声をかけられても、「ヨウ、チョウシハドウダイ」と聞こえるわけか。まあ、そうかもしれないな。
To know and feel too much within
( ・3・) 内面を知りすぎてはいけない、感じすぎてはいけないと人は言う。わたしは今でも信じている。彼女はわたしの双子だったと。しかしわたしは指輪をなくしてしまった。彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた。運命のひとひねりのせいで。
( ・3・) 「わたし」が出てきたな。二番目のスタンザでは存在をちらっと匂わせる程度だったが、ようやく正体を現した。
( ・3・) そう。三人称・過去のかたちで物語が始まり、彼女がいなくなって時計の秒針が意識に上ったときから三人称・現在になる。そして今、一人称・現在で「わたし」=「彼」が胸の内を明かしている。
――すべて過去形で書くこともできたし、すべて三人称、あるいは一人称で書くこともできたと思うんですが、どうしてそうしなかったんでしょう?
( ・3・) なんだか「学習の手引き」みたいになってきたな。時制が変わるのは、彼女の不在が彼にとって現在の出来事でありつづけているから。人称が変わるのは――そうだな、最後のスタンザの心情は、客観的に、距離をおいて語れないんじゃないか。まだ傷が生々しくて。
――第四スタンザの「部屋は空っぽだった」から「窓を大きく押し開いた」のあたりはハードボイルドの流儀で、あまり感傷的にはなるまいという抑制が働いているんですが、最後のスタンザになると――
( ・3・) 抑制が外れて、ついでに三人称の仮面も外れる。他人の物語であるかのように体裁を保っていたのが、保てなくなる。こういう効果を生むためには、人称の変化が必要だったんだな。