はてなキーワード: 土建屋とは
当たり前のことが言いたい。
まともな女子学生なら、インカレだのイベサーだのは、昔のスーフリのこともあるし警戒するはずだ。
でもチャラいのが好きなんだろう? イケメンが好きなんだろう? 慶応の育ちのいいのが好きなんだろう?
女子アナになりたいから、わざわざミスコンなんかに出てきたんだろう?
もちろん、男が圧倒的に悪いのは前提で、でも女もそんなのに好き好んで近づかなきゃいいのにと言いたい。
ところが、そういうのをちょっとでも口に出そうとすると、はいそれセカンドレイプ! と一蹴されるわけである。
広島県に藤田雄山という県知事がいた。土建屋の一族の出身で、今でも評価はあまりよくない。
米兵によるレイプ事件が起きた際、「朝の3時ごろまで、盛り場でうろうろしている未成年もどうかと思う」
という発言をやらかしたせいで、当時この人はずいぶん叩かれたようだ。
しかし、そこまで責められなきゃいけないことだろうか?
当たり前だが、夜中に盛り場をうろついている未成年はレイプしてよろしい、とは誰も言っていない。
未成年が真夜中に盛り場でうろついているという、わずか1%ほどの落ち度を指摘するだけで、
まるで全責任を負わせようとしているかのごとく非難されるのだ。これはいったいどういうことだろう。
まともな親なら、子供が遊びに行く時、「暗くなる前に帰ってきなさいよ」ぐらいは言うはずだ。
ところが、あるケースにおいて、その当たり前のことを言うのが許されなくなる。
若い女が被害者だった場合に限って、とにかくその女は何があろうと責めるべきではない、
というタテマエが突如として現れるのだ。
他ならこうはいかない。
中東で捕まった人がいた時には、自己責任だの税金の無駄だの散々言われたものだ。
首を切られてもバッシングがやまなかった。
殺人事件の被害者が、そうなるに至った経緯について、ことごとく晒されるということも珍しくない。
・長澤まさみが中の人はなんで飛騨についていった?(ヒマだから?)
彼女は「瀧を変えた女子がいるはずって予測してたんだから「その子に会うなら見てみたい」って事でしょ
・ムー好きの土建屋の息子と泣きぼくろの彼女はなぜ東京にいた?(岐阜にいない?)
・ヨツハも中学生になってどこか人の多い学校にいた風になってたけどもしかして東京にいる?
制服が夏服じゃなくなってて同一かわからんからどっちとも取れるけど地元ぽいかなあ
・反町長派がけっこういそうなのにみんな素直に避難に応じたのはなぜ?
それもそうだけど町長が応じたのも何故だよな
・ミツハが生理のときはどうしてた?(週に2~3なら該当するときがあるだろ)
考えたくは無いけど対処は無理ぽいよな。14日のうち前半3日と後半3日なら8日余るから何とかなるのかも。いや稼働日数よく知らんけど
・飛騨にあんな所あるの? 飛騨にないにしろモデルみたいな所あるの?(湖のあるところやご神体のあるクレーターなところ)
・人格が入れ替わる前のミツハもタキもどういう生活をしていたのかよくみえないんだけど(どっちも母親不在っぽい)それは監督のチカラ不足ってこと? それともなんか理由がある?
ミツハ姉妹はおばあちゃんに引き取られたとかタキは朝ごはんを父親と当番制でやってるとかわかるんだし十分じゃね?
東京だと満員電車でやられたとか聞く被害だけど地方だと無いのかな?ああいう店での事例は聞いた事ないけど無くはないだろなあ
・ヨツハがスマホに日記を書いていたようにタキもノートに日記を書いていたけど、それも消えた?
消えたんじゃないかねえ。デジタルデータは消えやすそうだけど紙まで?!って感覚なのかな。デジタルもそうそう消えないって感覚だわ
・高山ラーメンのオヤジは彗星が落ちる前の町にいた?(あと高山ラーメンはあんなじゃない記憶があるのだけど)
出身地みたいな言い方だったけど若い頃だけじゃなくある年齢までは住んでたように感じた
・ミツハのババアの過去にあった入れ替わりはなんか伏線としてある?
おばあちゃんにもお母さんにも経験としてあったのならお母さんから町長が何となく聞いててそれで避難に応じた可能性あるかなーって思った
・RADWIMPSってあんなBUMP OF CHICKENっぽかったっけ?
同じこと思った
「君の名は。」を観た。映画としては面白かったが、監督の東京至上主義的発想がにじみ出ていて気分の悪い作品だった。以下ネタバレこみでどこが気持ち悪かったか書く。
まず、三葉が飛騨に住んでいるのに東京の話ばかりするところが気持ち悪い。飛騨は一応岐阜の一部であり東海地方である。テレビも名古屋のニュースが入るはず。ならば、まず三葉が向かうべき都会は東京ではなく名古屋のはずである。もちろん、東京と名古屋では都市の規模に明確な差があるけれど、「カッフェ」はたくさんあるし雇用も最低限はある。実家の様子を見に行くことを考えれば名古屋に就職するという選択肢も考えられるはずで、そこがすっぽり抜け落ちているのが不思議だ。小説版では三葉が名古屋のことを「大きな田舎」と表現する場面があるらしいが、当たり前だが飛騨よりは名古屋のほうが何倍も都会だ。三葉たちが困っていたのは「カッフェ」がないこと、雇用がないこと、訳のわからない因習があることだ。それらから逃れるためだけならば東京ではなく、岐阜市なり名古屋市なり富山市なり近くの地方都市に引っ越せばいい話である。(岐阜や富山は雇用が少ないかもしれないけれど)三葉が「田舎」を脱出したいという気持ちはわかるが、その向かう先が「東京」である必然性は感じられなかった。
次に、三葉たち糸森村の若者たちが最終的に三人とも上京するというのが気持ち悪い。繰り返し書くが、三葉たちが「田舎」から脱出するなら名古屋に引っ越すという手段もある。それなのに三人が三人とも東京に出てくるのはなぜなのか?また、百歩譲って名古屋が飛騨と同じレベルの「大きな田舎」だとして、「田舎」に彼らが残らなかったのはなぜか?糸森が消滅したとして、その地元に愛着があるなら欠点はあれど飛騨に残るという考え方も抱けたはずだ。特にテッシーは親父が土建屋でその跡を継ぐという選択肢も考えられたはずであり、岐阜で就職することもできたはず。東京に行った三葉と地方に残ったテッシーという対比もできたのに三人とも上京してしまうというのが腑に落ちなかった。
そして、彗星が墜落したあとの三葉とテッシー夫婦以外の糸森町民の姿が描かれないのも気持ち悪い。町は半分くらい吹っ飛んだが避難は完了したはずで、三葉の妹やおばあちゃん、親父さんは生き残ったはずである。それなのにせいぜい三葉の親父さんが週刊誌に載ったことがわかるくらいで妹やおばあちゃんの後日談はない。あたかも彗星によって三葉たち以外の糸森町民は抹殺されてしまったかのようだった。また三葉たちは生き残ったが、糸森という文化は彗星墜落によって消滅してしまった。これは瀧が過去を改変する前も後も実は変わっていないように思えた。田舎の文化や田舎に残った人たちを瀧は実は救えていないのではないか。
(そもそもおばあちゃんや妹は生き残ったのかという疑問もある。ラスト付近で瀧が彗星の被害について振り返ったとき、彼は「突然の避難訓練によって、奇跡的に『ほとんど』の町民が生き残った」といった。この言葉からわかるのはあの彗星墜落によって少なからず死者が出ていたということである。その死者の中にテッシーの親父や三葉パパや四葉が入っていた可能性も後日談が描かれなかったから十分ありうる。神社や土建屋といった「田舎の因習」の象徴である彼らを監督は観客にはわからない形で彗星で消し去ってしまっていたのかもしれない。)
①「君の名は。」の世界には「東京」と「ど田舎(=飛騨)」しか存在しないのが気持ち悪い。地方都市の存在を無視している。
②若者たちは必ず「東京」へ行かなければならず、彼らが抜けだしてしまった「ど田舎」は描く必要がないという思想が気持ち悪い。東京は必ずしも「地上の楽園」ではないし、若者たちが抜けだしても飛騨に残った人たちの生活は続いている。「田舎」は「東京」へ向かう若者たちの踏み台ではない。
この二つは監督の「東京至上主義」から出てきているのではないか。東京以外に日本に都会はなく、あとは全て「田舎」である。「都会(=東京)」は素晴らしく、「田舎(=東京以外)」はくそったれであり、若者は必ず上京しなければならない。自分は新海監督のファンではないので彼が今までどういう映画を撮ってきたかよくしらない。だけど、「君の名は。」を自分なりに解釈するとこういうメッセージがあるように思えて仕方ない。そしてこの発想は「東京以外」にすむ自分としては非常に気持ち悪い。セカイ系だなんたら言われてる人らしいがその手の批判もむべなるかな、と思ってしまうような映画だった。
・追記
一部ブコメに返信
「miruna 軽井沢の田舎のボンボンにはTOKYOがあんなキラキラに見えるんだよきっと。ファーストフードの豊かさを無視してブルジョア高校生がクソ高いカフェでお茶してトラットリアでバイトするんだから。」
これは全くその通りだと思います。自分がなんでこんな増田を書いたかというと恐らく新海監督は長野のご出身(それも関東圏にかなり近い)なので都会=東京なんですよ。彼の原体験にはど田舎(長野)と都会(東京)しかない。近くに札幌や福岡、名古屋のようなそこそこ都会な都市がない。だから地方都市をぶっ飛ばして若者がみな東京にすい寄せられていく話を書いたんだと思います。でもそれは福岡や名古屋、札幌のほうが東京より近いエリアでは微妙に事情が違ってくるはずなんですよね。だから本当はご自身の出身である長野東部を舞台にされたほうがしっくりくると思います。
「Phenomenon あんだけ飛騨を美しく描いてるのにその解釈②はないんじゃない」
この点については「星の降る夜に”『君の名は。』(ネタバレ) - 私設刑務所CHATEAU D'IF http://chateaudif.hatenadiary.com/entry/2016/09/09/232626」というエントリーが自分以上にわかりやすく解説しています。
“ 新海誠本人の田舎への郷愁は景色のみで、ヒロインの言う「都会に行きたい」、東京大好きが本音というところだろうか。彗星には世界が滅びる鬱映画『メランコリア』的な破壊衝動も感じる。人が死ぬ必要はさらさらないけれど、場としての田舎は滅び去れ! 災害描写は3.11メタファーなのだが、滅びるのが予言通り、みたいな乱暴さもあり、ババアの教えや伝統芸能が、街が救われることプラス自分の恋愛のために存在した、というのはすごいナルシシズムだ。 ”
“ ヒロインや友人ら主要登場人物はみんな東京へと去り、親以上の世代のその後は語られないあたり、まさに「親殺し」の物語であったとも言える。”
「メランコリア」は未見なのでよくわかりませんが、自分は「君の名は。」を観て「アクシズが墜落してしまった逆襲のシャア」みたいな映画だなあ、と感じました。人は死ななかったわけですが、彗星の落下自体を「奇跡」で回避できなかったということは、実はかなり絶望的な映画なのではないか、と。彗星の落下は自然現象ですが、その落下を設定したのは監督自身です。彼には田舎の人間(若者以外)を全て抹殺したいという願望があったのでは?少なくとも私は田舎に対する愛着は感じられませんでしたね。
とにかく自分は事実誤認(四葉や彗星の死者数)をたくさんしているということもわかったので、もう一度見返したいと思います。そしたらまた追記を書くかも
君の名は。を見たときに、考えなければならないことがあると思った。
作中、東京に焦がれる三葉と、次第に糸守の町に惹かれていく瀧の対比が私にはすごく印象に残った。二人は入れ替わったときにお互いの日常を遂行するべく生活を送るんだけど、三葉の「早く東京で生活したい」と叫ぶシーンは特に目を引いた。東京という街と糸守という町は対称的であるが、こうした憧れは住んでいる場所だけじゃなくてその地に根ざす文化だったりも影響している、と思う。例えば、作中に口噛み酒っていう神社で行われる儀式があって、三葉は神社の娘としてこの儀式に参加してるんだけど、多分それがすごくイヤなんだよね。実際、同じ高校のちょっとませた感じの女の子に「きったない(笑)」って笑われてショックを受けてたりして。だからこその「東京へ行きたい」っていうセリフが際立ってるんだけど、この気持ちは多分三葉が糸守で生まれ、宮水の子として生まれたからなんだろうなって思う。糸守に住む幼馴染のてっしーは「なんとなくこの町で就職してなんとなく生きていくんだろうな」ってことを言う。てっしーは町の土建屋の息子で、多分会社を継ぐんだろうなって感じてて、でも本当はUMAとか宇宙人とかそういうのに興味があるんだと思う。誰も思うように生きれなくて、でも仕方ないかと思って諦めてる。それに対して瀧は都会の高校に通って、友達とオシャレなカフェ行って、バイト先の先輩に恋して、自分で何でもやりたいこと決めて好きなようにやってる様に三葉には見えたんだと思う。逆に瀧は、三葉と入れ替わってくうちにどんどん糸守と宮水のことを好きになってく。二人とも、二人の一部しか知らなくて、でもその一部にどうしようもない魅力を感じてしまうの、すごく好きだしわかるなって思った。
こういうことはよくある日常の一部なんだろうけど、解消されないといけない問題だと思うし、こういう社会が存在していることが多くの人に知られるべきだと思う。そういう意味からも君の名は。は評価されうる映画だと思った。
やー見てきた。素直に面白かったよ。
・長澤まさみが中の人はなんで飛騨についていった?(ヒマだから?)
あと、一時期流行った山ガールなんじゃね?服装気合はいってたし
・ムー好きの土建屋の息子と泣きぼくろの彼女はなぜ東京にいた?(岐阜にいない?)
→田舎の人間にとっては土着の場所が消滅すれば岐阜だろうが東京だろうが同じなんじゃない?
土建屋も地場の道路が消えればやってけないだろうし、田舎に仕事が無いから東京に来たんじゃないかな。
それか、行政の処置でみんな関東に来てるとか?だいぶスレたカップルになってたな。
・ヨツハも中学生になってどこか人の多い学校にいた風になってたけどもしかして東京にいる?
・反町長派がけっこういそうなのにみんな素直に避難に応じたのはなぜ?
・ミツハが生理のときはどうしてた?(週に2~3なら該当するときがあるだろ)
→野暮なこと聞くな胸糞悪い
・飛騨にあんな所あるの? 飛騨にないにしろモデルみたいな所あるの?(湖のあるところやご神体のあるクレーターなところ)
→わからん
・人格が入れ替わる前のミツハもタキもどういう生活をしていたのかよくみえないんだけど(どっちも母親不在っぽい)それは監督のチカラ不足ってこと? それともなんか理由がある?
→1%くらいトトロっぽさを感じたからその影響かも。たきくん家のお父さんは何となく浮気で離婚したと言われても納得いく雰囲気だったと思う
→現代人の悪意とか嫌な人を端的に描きたかったんじゃない?下にあるように実際ある行為だし。
・ヨツハがスマホに日記を書いていたようにタキもノートに日記を書いていたけど、それも消えた?
→消えたと思う
・高山ラーメンのオヤジは彗星が落ちる前の町にいた?(あと高山ラーメンはあんなじゃない記憶があるのだけど)
→それな。俺もてっきり土建屋の息子がラーメン屋になったのかと思っちまった
・ミツハのババアの過去にあった入れ替わりはなんか伏線としてある?
・RADWIMPSってあんなBUMP OF CHICKENっぽかったっけ?
→それはそう思う。あと、ちょっと曲が余計だったところはあった気がする
もしわかるって人がいたなら教えて下さい。
・長澤まさみが中の人はなんで飛騨についていった?(ヒマだから?)
・ムー好きの土建屋の息子と泣きぼくろの彼女はなぜ東京にいた?(岐阜にいない?)
・ヨツハも中学生になってどこか人の多い学校にいた風になってたけどもしかして東京にいる?
・反町長派がけっこういそうなのにみんな素直に避難に応じたのはなぜ?
・ミツハが生理のときはどうしてた?(週に2~3なら該当するときがあるだろ)
・飛騨にあんな所あるの? 飛騨にないにしろモデルみたいな所あるの?(湖のあるところやご神体のあるクレーターなところ)
・人格が入れ替わる前のミツハもタキもどういう生活をしていたのかよくみえないんだけど(どっちも母親不在っぽい)それは監督のチカラ不足ってこと? それともなんか理由がある?
・ヨツハがスマホに日記を書いていたようにタキもノートに日記を書いていたけど、それも消えた?
・高山ラーメンのオヤジは彗星が落ちる前の町にいた?(あと高山ラーメンはあんなじゃない記憶があるのだけど)
・ミツハのババアの過去にあった入れ替わりはなんか伏線としてある?
・RADWIMPSってあんなBUMP OF CHICKENっぽかったっけ?
・3年のタイムラグを感じさせる描写ってゲーム機以外になんかあった?
ただ、思いついたこと列挙しただけですね。
1番好きなシーンは泣きながらおっぱいを揉むところです。
私は基本的に「細けえこたあいいんだよ!」というタイプの人間なので突っ込みどころが多くてもさほど気にしない性質の人間だ。
で、本作の評価の多くは(私が見た限りだが)「突っ込みどころは多々あるものの面白かった」という感じになっている。面白い、の熱量も高め。
ぶっちゃけ新海節とか新海が描きたいもんが、今まであんまり自分にしっくりこなかった上に予告を見ても「うへえ」って感じだったんで観るつもりは最初なかった。
でも評価は高い。なら観よう。一般向けに一皮むけた、新たな新海が観られるかもしれん。観に行った。
面白かった、と思う。
が、一晩経って劇場効果が薄れた今、猛烈に文句ばかりが頭に残って、もはや怒りにすらなりかけている。いや、面白かったんだけどね、まあまあ。
以下文句。ちなみにこれは後から湧いた文句というより観ながら気になってて、でも劇場効果でまあいいや、と済ませていたもの。
・唐突なテレビアニメ風オープニングに感情がついていかない。せめて現在進行形の出来事をMV風にみせりゃいいのに完全に本筋と独立したMAD風になってて戸惑った。
・主人公の男女がそろって名前という記号に異常な執着を見せる心理が分からない。
・名前が大事なものであるらしいのに男の名前が苗字っぽくて最初混乱した。わが弟は最後まで瀧を苗字だと思っていた。
・女の名前が「みつは」でめっちゃ発声しにくい。クライマックスで神木きゅんが名前を連呼するとき「ミツハッミツハッ」ってすごい言いにくそうだった。
発声するときのことを想定しない名前をつけるとか、新海さんは何年監督やってるのかな?
・町の危機のさなかにいるかどうかも分からん女に会うために割と遠いご神体のとこに行く謎判断。
・名前を忘れないように、という考えで書いた文字が「すきだ」馬鹿かな?
・案の定名前を忘れた女が彗星が落ちようとする真っ最中に「彼の名前が思い出せないのー!」とか錯乱する余裕をみせる。馬鹿かな?
・こんな感じのせいで「生まれ育った町、家族、友達を守るために頑張るぞ!」という想いをみつはの中に見出せない。
最悪てめえ一人逃げ延びてタキに会いにいきゃいいじゃん、とか思ってしまう。
結局町を救うという行為が好きな男との約束を守る、という以上の意味をなしているようにみえない。
掘り下げれば面白そうな親友二人、土建屋、町長なんかも主人公たちの目的を達成するための装置にしかなっていない。友人らに対する主人公の思い入れを感じない。
・というか、入れ替わり終盤辺りから、この二人には恋愛以外の感情がねえのかよ、とか思ってしまう。
・口噛み酒を「みつはの半分…」とか言ってなんのためらいもなく飲みだすタキ。変態かな?
・ていうか二人とも入れ替わりの途中で三年のラグに気付けよ。普段何をみて、友達や家族と何の話してんの?
・記憶を失ったタキになんで奥寺先輩も司くんも何も教えてあげないの?ていうかタキもなんで訊かないの?記憶の欠落って結構重大なことじゃない?
せめて普段本体が接している友人らから本体の素敵エピソードを聞いて「へーそんな人なんだー…キュン」みたいなのがないと駄目じゃない?
思いついたままに並べたので順番が整理されてないかもだけど、まあ大体こんな感じの文句。以下良かったところ。
ぽっぽとかここさけの野球部みたいなのとかゆきあつとつるこの子どもかな?みたいな司くんとか、結構既視感あるデザイン多かったけど、今まで地味だった新海作品をよく彩ってくれてた。
・作画も良かった。特に口噛みガブーから時間逆行する時の演出。
・奥寺先輩がすごく可愛かった。長澤まさみのお芝居も素敵だった。
・よってタキと仲間たちの飛騨紀行も楽しかった。みつはたちの避難作戦を立案するくだりもここから楽しくなりそうだなあ!と思わせた。(思っただけだった)
以上。
なんかすげえ偉そうな駄目出しばっかりになったけど、本当にそこそこ楽しめたんです。上記の文句部分に疑問を持ちながらも。
新海がいつもの芸風で(オチも含めて)一般向けのエンタメに仕上げたことはとても評価すべきところだと思います。(何様)
少なくとも「バケモノの子」よりは明快なエンタメをしていたし、この夏のアニメ枠を飾るには十分だったのではないでしょうか。…メイン公開時期が初秋になっちまうけどな!
すごいめちゃくちゃで、ふわふわとした話を圧縮して(いるかのように騙されながら)、勢いで見せられたという感じである。
思いつくまま適当に文句を言います。誤字脱字はスルーしてください。読みやすさは保証できません。
単純に、これ、この二人の恋愛物語が、なんでこういう話でないといけなかったんだろうって思ってしまった。現実世界を写実的にアニメビジュアルで美しい世界でやっていればいるほど、プロットが進めば進むほど、リアリティがなくなって、ふわふわしてくる。秒速5センチとかは、ファンタジー要素は、クズ主人公が理由もなくモテること以外は別段、物語に存在しないから、ああいうクズのナルシシズムの物語として説得力があったが、君の名は。みたいに大きな舞台設定をコントロールする力量がないからもうひたすらめちゃくちゃで、あきれる。なんか最後の方とかエヴァもどきの精神世界みたいな描写とかもあったし。2016年であんな描写見て、何を説得したいのか謎だった。もっと普通のドラマの描写を作って言いたいこと言えよ。
もし、これがテレビアニメ1クールだったら、予算も時間も潤沢でなく、画面にオーラもなくお得意の映像美もろくすっぽ使えないだろうから、物語面が強調されて、みんながアレコレと粗を突っつくので「すごいきれいな映像の映画を見た!」っていう勢いがなくなり、凡作認定されていただろう。元々新海誠みたいなのって、エヴァンゲリオンと村上春樹を創作のよりどころにしているような、たいして才能のない作家であって、自意識過剰で独りよがりな恥ずかしい妄想で物語を構築しようとする奴が一人で短編アニメをそういう感性で作ってそれが玄人筋にセカイ系だのと変な刺さり方をしたせいで、なまじポエムとかキラキラした画面作りがうまかったせいで長編アニメ映画作家としてのレールに乗ってしまったのが間違い。このあたりの、「アニメーション映画の作家」のブランド化を擁立する回路と発想の貧しさってかなり根本的にどうしようもないことになってると思う。漫画みたいにさ何十人何百人と作家がいるんならいいんだけど、新海誠って、ただ異様に夢見がちで異様にロマンチストなだけでしょ? それがこのひとの作家性でしょう? 東宝が大衆向けに成立させるためにいろいろテコ入れ指導しただけで、悪いところは何にも治ってないよ。寝取られ趣味を指導されてセルフパロディで両想いハッピーエンドなんてところは作家の力量の場所じゃないだろう。
君の名は。にしたって文芸的な発想として、基本的にやってることは、ぶっちゃけ今やってるアニメだとリゼロあたりとほとんど変わらない。何か一つか二つ、使い古された仕掛けを元ネタとして、そこに自分の価値観人生観恋愛観青春観家族観女性観男性観などを展開していく土台にするわけだけど、この映画、雰囲気しかない。ひたすら美しい彗星を見上げるキミとボク、っていう。あそこから恋愛物語を出発させていくんだけど、それが、あの映画。40過ぎた男が「オリジナルで」やるのが、あれ。背景美術の美麗さ、超豪華アニメーター陣の画面の力をとっぱらえば、何がある? 単なる借り物の想像力で自分語りしているだけでしょ? その自分があまりに貧相なんでもうつらいつらい。
ポスト宮崎? つまり20年後の国民的な映画作家? 本当にこの人でいいの? まあジャニーズ帝国みたいにジブリ帝国だった時期があるせいでこういうことになってしまったんだろうけど、画面作りに非凡な才能があるというだけで、大した教養もない奴を神棚に飾らなければならないカリスマを祭り上げる発想が薄気味悪いし居心地悪いしもう最悪。
コイツ一度でもテレビアニメの平均的な予算と時間でやらせたほうがいいわ。君の名は。ではこれまでついてきてくれたアニメーターたちを切り捨てて東宝マネーであてがわれた超豪華なメンツのアニメーター引き連れて興行収入はこれまでの最高が1,5億を初日だけで軽々と塗り替えるくらいの大宣伝攻勢。プロデューサーたちは頑張ったよねえ。シン・ゴジラより興行収入あげちゃうかもしれないんだから。宣伝はうまくいったよね。口コミはどうなんだろうなあ。シンゴジラみたいになるのかなあ。どう考えても駄作だけどなあ。
本編のうざったさは、まず、入れ替わりの際の決まりごとの曖昧さ、具体的なルールや法則性の明示のされなさ。これにいらつく。元に戻れば記憶が薄れるとか、バカにしてるだろ。
他人と入れ替わったのに学校に行きバイトに行き、お互いの素性を知っても連絡を取ろうとしない。そんな日常を代行するくらい打ち解けても自分が生きている時間や日付に気付かないという脚本がわざと主人公たちをバカにしていて、もう序盤で冷めていた。写実的アニメのくせしてこのラインのリアリティの話なんだなと。思春期の男女が入れ替わって? 家族や友人がそれまでと変わらずに? 陰口叩いてくる同級生の威嚇のために机を蹴っ飛ばすの? ホントに大丈夫? そのレベルのリアリティでやってくの? 女子力が高い男子高校生と女子大生が仲良くなる過程のディテールもろくにかけないからランチして笑ってればいいの?
前半のガバガバなリアリティが死ぬほど退屈で、アホらしかったわ。憧れの年上のお姉さんのマネキンっぷり、生々しさの演出がタバコって失笑でしかない女性観。もう一段階読み込むと、バカな男たちが惹かれる顔と身体だけの女として、あの先輩を描いているかもしれない。青春の幻影的な? まあ嘘だけどね。魅力的な現代的な女性像なんて新海誠に誰も期待してないでしょう。もう単純に、長澤まさみばりにいい女っていう記号でしかない。
主人公をめぐる人間関係にしたって、後半の探索を円滑に進めるメンツの確保のためでしかなくて、ハリボテ感がすごいんだよね。まあこういう部分はオリンピック見ても分かるように日本中がスクールガールスクールボーイコンプレックスで単に学園物っていう牢獄にいるようなもんだから、ガキっぽい世界観になるのは国民病なんだけど、ただの事実として、選択した物語のギミックにふさわしい舞台設定の調整と情報量のコントロールがド下手。何か原作をつけてアニメを作ったこともない、TV放送で1話20分で回したこともないんじゃそうなって当然だよ。
まあこういう勢いで迫力を出している、野生のバカであるがゆえの新海誠という作家性があるのも事実とはいえ、君の名は。を名作として崇めようとするのはやめたほうがいい。新海誠は文芸的にはリゼロと同レベルなんだから。あのバイト先のレストラン、高級シャレオツぶってるけど、客の民度から察するに最低ランクでしょ? パンケーキのお店のほうがランクはるかに上なんでしょ? 物語の動かし方がつまようじドキュンを活用することでしか分からないんでしょ? やばいよ、あれは。つうか長澤まさみがなんか機転を利かすのかと思ったら謝るだけだったし、ガチで思春期男子が顔と身体だけであこがれてる女性っていうイメージなのかもしれないなあ。まあどうでもいいが。
最初から最後まで、子供っぽいふわふわした基準のリアリティで物事が進んでいく。入れ替わりギミックのぼんやりした設定だけじゃなくて、人間関係とかもヒロインにおいてすら、投げっぱなし。思わせぶりなセリフで色々匂わせるんだけど、それだけ。冒頭で、ヒロインとおばあちゃんが父親とうまくいっていないという物語的な課題を提示しているのにほっぽりだす。ヒロインの家系の巫女的能力があることだけほのめかして、クライマックスの筋に絡まない。ものすごい空虚な存在でしょ、父親が。碇ゲンドウ的ですらない。母親なんて排除しちゃってるもん。
後半の畳みかけるような展開は、正確に把握できたかどうか自信がないけど、もしかしたら、きっちりつじつまが合うように作られているのかもしれないけど、仮にそうだとしても、見ている側との意思疎通がほとんど感じられない。何がどうなれば物語としてオーケーなのか、ゴールが正確に提示されないでしょ? 酒を飲んだら入れ替わりが発生するとか、そんなん言われても、法則性はないのでどうとでもなる展開でさ。
んで助けに来て、おばあちゃんは入れ替わりに気付いても、彗星の話は信じないとか意味不明だろ。父親を説得にも失敗して声を荒げたら「お前は誰だ?」というところでやっぱりあの家系は死んだ母親ふくめて代々そういうことがあったんだと示唆されるわけだけど、なぜか場面転換して逃げ出すように「俺じゃ説得できないのか」って好きな女性の父親とのコミュニケーションを放棄して、なんか展開おかしいなあと思ったけど、彼女とバトンタッチで世代を超えて組糸の家族の和解がテーマかと思ったらそっちも何もない。わだかまりを解消するとっかかりが示されるわけでもない。
土建屋と放送部とか、人間関係と設定がご都合主義的なのはまだ許せても、カタルシスが用意できてない。子供と大人が揉めて、対立して、そこで何かしらのきっかけでうまくいきはじめて、カタルシスが生まれるはずなのに、あれ、なに? 避難訓練て。リゼロみたいに、自分が頑張ってますってアピールするためだけにあの状況があったの? 大人たちは?
現実なのかよくわからない「たそがれ」の場所で幻想的な背景の中でマジックで「好きだ」ださいわ~、普通書かれたらその場で見るだろ。ださいわ~。
そのへんのラノベアニメにないもんっつったら時間のメタファ~()であるあの伝統工芸とかなんだろうけど、物語の中のアリバイ作りとかになっちゃってない? 組糸にしたって、ただのドラマティックな恋愛の盛り上げ役っていうかさ、あのアニメの中の世界であの伝統芸能がどういう存在でこれからどうなっていくのか、とか故郷を災害で失い、跡形もなく消し飛ばされた人々は、東京でつつましく暮らして結婚とかしちゃいますよ? 憧れの先輩も結婚とかしちゃいますよ 君たちも幸せになろう? 頑張っていこう?
は?
震災の記憶と自意識過剰な文学青年が出会って作品にしちゃう最悪のケースの一つ。自分たちを彩る美しい壮大な光景、君の名は。の描く震災は、ロマンティックで残酷な恋愛が体験できるアトラクションなんだよ。BGMはRADWIMPSでさ。
要するに、子供の幼稚な恋愛の話しか興味がないし、子供の幼稚な恋愛の話しかできないの。この人は。庵野が言うコピー世代っていうのよりもう一段階ひどい。子供の世界観でしか物を語れないうえに、何か題材を選んだとしても、それを自分の自意識のファッションみたいに扱ってしまう。
なんか、今回の新海誠をとりまくメディアとかアニメファンの状況が、裸の王様が誕生した瞬間を目撃したような気分になる。
追記
トラックバックで白状がどうとか頭のおかしいこと言っている人がいますがなりすましの変人です。書いてることも奇妙でどういう意図があるのかよく分かりませんが。
はてな界隈だと、東京オリンピックなんてさっさと返上しろというのが意見の主流だけれど、
なんだかんだいって、4年後の夏には、それなりに盛り上がるだろうし、
選手が活躍さえしてくれれば、「やっぱり東京オリンピックをやって良かった」というのが、世論の主流になると思う。
なぜ、そう思うかといえば、長野オリンピックの時のことを思い出すからだ。
長野オリンピックの招致が決定したとき、今回の東京とは比べ物にならないくらい、盛り上がってはいなかった。
1991年のことだから、すでに、バブルは崩壊の兆しが見えていて、
まあ「失われた20年」がそのあとやってくるとは思っていなかったけれど、
不景気の入り口で、あんな土建屋がもうかるだけのプロジェクトやって大丈夫なんかという雰囲気があったし、
西武鉄道のグループ総帥、堤義明を中心にした政財界の利権のためだと、みんな思っていたからだ。
しかも当時、ウインタースポーツのスターといえば、フィギュアスケートの伊藤みどりくらいで、
(実際、92年のアルベールビルで銀メダルは取ったが、長野には出てない)、
日本で冬季オリンピックを見たい、という需用自体が、それほどなかったんではなかろうか?
それでも、東北・上越以来、久しぶりの開通となる長野新幹線の工事が進んだり、
志賀高原では、難易度が高く見せ場のあるコースをつくりたいスキー連盟と、コース設営が自然破壊だとする地元環境団体がもめて
そもそも、長野というのは、当時、冬季オリンピックの開催地としては最南端で、
年によっては、十分に雪が降らないこともあったりしたもんで
「利権のためにオリンピックなんか呼びやがって、まったく、今からでもやめられないのかね?」という世論は
それなりに蓄積されていた気がする。
当時は今ほどネットが成熟してなかったから、今ほどそれが顕在化することもなかったけれど。
そうこうするうちに開会式の日を迎えたのだが、それでもまだ、盛り上がりには欠けていた。
放映時間の時差の関係で真昼間に開会式を挙行しなければならなかったので
花火や照明をつかった鮮やかな演出が使えなかったというのは、確かに気の毒なのだが、
大体、浅利慶太がなぜ総合演出を手掛けることになったかといえば、
自民党の御用文化人だったから、というのはみんな分かっていたことで、
そもそも、あの人は、確かに政治権力に近づきつつ、日本においてミュージカルを「ビジネスとして成立する」ものにまで育て上げたのは
物凄い功績だと思うけれど、まあ、芸術家(演出家)としての評価は推して知るべしである。
ちなみに、先ごろ亡くなった蜷川幸雄は、すでに80年代には「世界のNINAGAWA」の名声を得ていたんだけれど。
これも、「オリンピックなんて、偉い人の利権とコネで進められている」ことの一つの証拠と思われていた。
開会式当日、なぜか、現代風にアレンジした巫女風の衣装をきて聖火台に点火する伊藤みどりの姿は、
なんだか、見てるこっちが恥ずかしくって、
日本女子フィギュア初の銀メダルをとった偉大な選手に、なんてことをさせるのかと憤ったものだ。
なぜかBGMにはプッチーニのオペラ、「蝶々夫人」のアリア「ある晴れた日に」が流れていたが、
あれは、かつて政治力を駆使して、イタリアでこのオペラを演出したことのある浅利慶太の自己顕示欲とコンプレックスがないまぜになった
選曲だったと信じている。
当時、伊福部昭は存命だったし、坂本龍一も、今ほど政治的な色もなくて純粋に「教授」として尊敬されていたし、
久石譲だって、すでに「宮崎アニメの作曲家」として評価を得つつあったのに、なんでそういう人たちに作曲させないで、
そんなこんなで、開会式を迎えても盛り上がらなかった(当社調べ)長野オリンピックだが、
日程を重ねるにしたがって、日本中の人々をテレビにくぎ付けにすることになった。
それは、日の丸飛行隊の、活躍であったり、キング・オブ・スキー荻原の雄姿であったりの、素晴らしいドラマがあったからだ。
スキージャンプ団体で、大雪が降りしきる中、原田雅彦が大ジャンプを決め、後続の船木選手を、
今にも泣きそうな顔で「ふなき~! ふなき~!」と見守っていた映像をご記憶の方も多かろう。
このとき、団体メンバーから外されメダルを取れなかった悔しさが、
結果としてレジェンド葛西紀明を生んだ、ともいえる。
閉会式の司会が萩本欽一、というのも、当時、「オリンピックについて決めている偉い人たち」のずれ具合を
如実に示す出来事だと思われていて、
すでに萩本欽一は「テレビ的に過去の人になるつつあるタレント」だったし、
欽ちゃん的なボケとかツッコミっていうのは、日本人同士で通じるもので、
あのノリを世界に向けて発信したら壮大に滑るんじゃないかと、自分の周りの人たちはみな心配していたが、
なにしろ、競技自体が盛り上がって、会場に集った選手たちが盛り上がってくれたせいか、
萩本欽一も、さすがに、わきまえた人なのか、
いわゆる「欽ちゃん節」は抑えて進行していたし。
かくて、無事、オリンピックは無事終了し、ウインタースポーツに新たなスターと伝説が生まれ、
テレビには「感動のオリンピック総集編」みたいな番組が溢れることになったのである。
その後、長野の財政がオリンピックのせいで、けっこう苦しいことになったらしいとか、
西武の株式をめぐるごたごたで有罪となり、表舞台から退場したはずの堤義明は、
いつの間にか日本オリンピック委員会の最高顧問になっていたらしいとか、
いろいろあるのだけれど、
選手さえ、頑張ってくれれば。
世間知らずって、逆に裏側が見えすぎるんだよ。土建関係の仕事しているし
いくつかの店持ってるし、うん十年投資もしてる。
こういう時こそ、土建屋はえげつなく稼ぐやん。
それでもやらないより、やったほうがいいのは分かるけど
ふるさと納税しても潤うのは一部やん。
みなさんの知恵を貸していただきたい。
悪いといっても、それはお前にとってだけだろ、と思われるだろうけど、
独自で調査をしてみたが、いろんな人から、よくない噂しか出てこない。
実際に過去の議会の議事録などもだいたいすべて目を通したが、有権者が政治に興味がないのも
悪いんだけど、住民を馬鹿にするような発言を平気でしたり、そのようなチラシを平気でくばったり
している。(このチラシは保存しています)
過去には一度不正をしてそれがばれ、その時に追放されそうになった。
議会で辞職勧告があったが、辞めずに残り続けた。地元の名士などとつながりがあるので、
それ以後も当選しつづけている。これも有権者が興味がないのが悪いんだけど。
確保している票田をつかって、自分の都合の良い方に話を進めるために、首長と取引をしたり、やりたい放題。
その議員の名前でぐぐっても、すぐに問題の記事などが出てきますし、2chとかでも悪く書かれています。(2chのソースはあまり信用できませんが)
どうも、土建屋・やくざなどとつながりがあるので、新聞記者にも話を聞きましたが
つっこんだことは命にかかわるのでかけないと言ってました。
野々村議員みたいに、テレビに取り上げられるようなことがあればいいんだが、
そうしたボロはださない。
どうしたらいいだろう。
追記:
中学の時の先輩の話だ。
俺はかなりのデブなのにも関わらず、サッカー部に所属していて、ベンチにも入れず、運動もできず、じゃあ何でお前部活なんかやってたんだと言えば、人間関係が好きだったからだ。
当時、周りが俺をどう思ってたかは知らないし、後輩は影で使えねー糞デブと呼んでいたのは薄々きづいていた。
ただ部活では戦力外であったけど、多分、人当たりがよかったんだろう、同学年もそうだし、先輩にも結構可愛がられていた。シゴキもたくさんあったが。
アキラくんはその中でも最も仲の良かった先輩で、且つ結構なヤンキーだった。俺は両親の心配する顔が浮かびとても、ヤンキーなんかとてもなれなかったのだが、心が弱く、すぐになびいてしまう男であった。
アキラくんはやたら俺をかわいがり…というと聞こえはいいが、度胸試しにぶっこまれたり、今でも言えないようなヤンチャな事も全部させられた。ハードコアなサンドバックから根性焼きまでほぼ全部させられた。
でも不思議とまぁ楽しかった。これは実際、その共同体にいないと分からないし、思春期特有の感情だったと思う。
練習はきつかったが、仲間の結束は結構かたかったし、こういったいじりも、どちらかと言うと当時の在野の中学生のノリで、「おめー俺らの中学だせーと思われるようなことすんなよ?」という、今考えるとよくわけの分からない理由だったらしい。
それぐらい俺は豚だったにも関わらず、皆からはだからこそ - 愛嬌があって、伸ばしのがいのある豚というか。
ある日、いつものようにアキラくんの家まで一緒にいくと、アキラくんがいつもと違う。
「おまえさぁー、●組のやつ知ってんだろ?」「●組の●田って子(女の子だ)も知ってる?」
(ここで組数を伏せているのはとんでもないマンモス校で、ドン引きするぐらい組数があったのだ。だから特定簡単。)
この●田は、バレー部の主将で身長は高く、顔はキリッとしていたが、顔の一部に大きなほくろがあり、それが魅力でもあったが、美人と最後に言い尽くすには何かが足りない、まぁとはいえ人気のあった女の子1人だった。
そして、俺は●組に友だちが多く知ってる奴がたくさんいた。特に●田は小学校に俺と仲良しの女の子の親友でもあったので、間接的によく知っている方だった。
いつもは結構なヤンキーで、すぐに他校と喧嘩して(俺は常に全速で喧嘩になるとチャリを漕いで逃げた)謹慎させられるアキラくんだったが、この時だけはいつもと違って見えた。
「あのさー、お前もし次に●田と話す時あれば、これ渡しておいてくれないかな?」アキラくんは俺に彼の書いたラブレターを渡してきた。
アキラくんは当時の俺でもはっきり分かる、幼い顔と大人の顔の中間のあの中学生特有のはにかんだ笑顔でいたずらっぽく笑ってみせた。
アキラくんは●田と付き合うことが出来、帰りに二人が歩いてる所を冷やかす奴がいたら、全て俺がアキラくんに報告する係となった。もう立派な舎弟である。
アキラくんたちと最後に行った試合は県大会の二回戦で、となり町の宿敵の中学に負け、アキラくんも俺も号泣した。俺はその5年後に初めての彼女が出来て、もう地元に戻るところもない。
http://nishikifruits.blog16.fc2.com/blog-entry-1577.html
これを読んでいて驚いたのは、自分の出身地(熊本県の人吉・球磨地方)が舞台であったということだ。
両親は中学校の教員であったため、経済的には特に不自由しなかった。
【以下思いついただけ】
子供の目からみてもこの惨状である。大人だったらたぶん気が違うであろう。
幸い東京に逃げ出すことができた。なんだかんだ言っても、東京などの大都市は真っ当だ。
夏目友人帳(ばらかもんやのんのんびよりもそうだが)を見て、田舎はいいと思っている人は考え直せ。
今ならまだ間に合う。田舎なんてクソだ。
「来場者数は4倍に増えた、貸出数も2倍に増えた、だから我が町にも!」
かと思います。
いやいや、癒着があるからだ!みたいな嫌儲の人たちの意見は無視して、行政サービスにとって利用者数って売上かそれ以上に意味があるものなので。
だれからも税金という形で前払いしてもらってるのに、一部の人間だけ享受できるではいけないわけで、広く全ての人が享受できないといけない。
そうなると、指標はどうしたって利用者数や貸出数、来館者アンケートになる。
そう考えると、あの来場者数や貸出数の増は魅力的で、来館者アンケートもいいときてる。
経費がかさんでも、そりゃ任せたくもなるでしょうよ。
それに対して、「○○が破壊される」「○○が失われる」というのは「利用者数や貸出数では測れないものがある!」と言うのと同じなんです。
一番簡単なのは、利用者数でも利用者満足ではなく、「アーカイバとしての価値が重要!」という主張ですが、どうやらそうでもない。
だったら、今までの成果を、こんなことをしてきた、こういう成果があった、それがこう失われた、そうやって示さなければならない。
たぶん、端を発したTカードの問題から来てるのでしょうけど、個人情報の問題はごもっとも、考えなければいけないけれど、嫌儲の話はややこしくするだけ。
市としては、来場者数や貸出数の増は魅力的で、それによってCCCが儲けるかどうかは関係ない。
公共事業で儲けることが悪というなら、土建屋はどうなるんだということで。
例えば大学等なら、
「整理されたライブラリーが用意されることで、研究が捗る。貸出数があろうがなかろうが、ライブラリーは常に揃えておく必要がある。」
といった具合に。
それが出来てない。
「取りづらい!」「分類が悪い!」みたいなことを言ったところで、
「でも来館者は増えてるよね?満足度アンケートもいいよね?しょうがないよ。HAHAHA」
になるのは当然かと。
エンブレムの件以来、いくらなんでもデザイナーやデザイン業界がバカにされすぎてて腹が立ってしょうがない。
普段デザインのデの時も興味のない、センスも何もない奴らがなんで上から目線で叩きを続けてるんだろう。
【互助会とか言ってるけど、互助会に入るためのハードルがどんだけ高いと思ってんの?】
多摩美武蔵美を出てもほとんどはカスみたいなデザイン事務所に就職してる奴らだらけで、
電博に入れるのなんてエリート中のエリートなの。その時点で「選ばれた人たち」なわけで
センスのかけらもない一般人のお前らが叩いていい相手じゃないの。
どうせしょうもないデザイン専門学校とか出てるクソみたいなデザイナーなんだろうけど、
お前らのせいでデザイン全体のレベルが下がってるのでデザイナー面しないでもらえますか?w
お前らなんて建築家に対しての土建屋みたいなもんなんだからしゃしゃり出てくんな。
【まさか普段デザイン展に行ってもいないくせに叩いてないよね?w】
あんだけ上から目線で叩いてるってことは、デザイン展とかもきちんと見に行っている
そういうのを見に行ってないくせに叩いてるやつは自分を恥じたほうがいいと思うけど。