はてなキーワード: 偶発とは
あー…。既にあちこちでよく聞く話なんだが、神社の公式ホームページなんかにはまずこういう話は載らねえし、他の神主どもが個人でやってる偽善者ブログでもどうせ触れないんだろうから、ここで書かないと周知すらされずに終わるんだろうな。
何かクッソバカバカしい話なんだが、しばらく様子見しててもネットに上がるでも衆人の口の端に上るでもなし、まあ気持ち悪いから一応書いとくわ。
二ヶ月前ぐらいに、地方自治体からメールが回送されてきた。神社宛のメールがこっちにも送られてきたとかいう話だった。全然知らねえし。
だが文面やそれが送られてきた諸状況から察するに、恐らくこのメールはテンプレだったくさい。
○月○日まで○○から○○を商用で訪れ、大変楽しく過ごさせて頂いた者です。旅館やお店の方はどなたも親切で、○○・○○・○○など興味深い所もあり、前から一度行ってみたいと思っていた期待を裏切らない土地でした。
掛けられている絵馬を見ていたところ、「韓国人が滅亡しますように。日本人より」という絵馬があったのです。
今、国と国の関係がぎくしゃくしている中、それでも日本に興味を持って旅行に来てくれた韓国の人々がこれを目にしたら、どんな気持ちがするでしょうか。どんなに街の皆さんがおもてなしの心で受け入れても、○○や日本の良いイメージ・楽しかった思い出が一瞬にして吹き飛ぶでしょう。(韓国人で日本語のわかる人は、日本人で韓国語のわかる人よりはるかに多いです。)そして、帰ってからも人の口を通じてどんどん広がることでしょう。
また、現代はネット社会です。もしこれを目にした人が写真を自分のブログやfacebookなどに掲載したら、写真は瞬く間に広がります。絵馬ですから、○○の人ではなく恐らく外の人間が書いたのでしょうが、そんなところまではネットでは伝わらず『○○のメッセージ』として間違った形で拡散する可能性があります。ネットは炎上してからでは間に合いません。○○に来訪者が来なくなるだけでは済まない可能性があります。
人には好き嫌い・言論の自由はもちろんありますが、特定の民俗や社会的階層を名指しでおおやけに誹謗中傷することは、国際的にもタブーで有り、もしアメリカで同様の事がもし起きたらそれを知りつつ放置した側も訴えられたり社会的制裁を浴びたりすることになります。何よりも、良識ある日本人として許してはならないと考えます。
以上の理由から、一刻も早く、問題の絵馬を責任を持って撤去されることを望みます。
○○が、これからも世界中の人から愛され続ける○○でありつづけますよう、心からエールを送ります。
さーて。
調べたら確かに問題の絵馬はあったさ。なぜか、どういうわけか、本当に、な。
んで。これを普通に読めば、善意の第三者様が老婆心でご忠告くだすった有難くも尊い、篤志のメールとも受け取れるんだがな。
残念ながらそうはならなかった。
なぜなら、このメールにあった日付当日には、本当にたまたま、別の作業の為に全ての絵馬を確認していたからだ。
(絵馬掛けの移動の為に絵馬をすべて外す必要があって、順番整理の為に文面や記名者を一通り確認している)
で、結論として言えばこんな絵馬なんてなかった。それどころかこんな文面の絵馬、過去にさえ見た事はない。
じゃあ、この老婆心溢れる御婆様は、一体いつ絵馬を見たって言うんだろう?
たまたまこの人が来るちょっと前に、この絵馬を書いた奴がいて、タイミング良く奉納していた。そういう可能性も無いわけじゃあない。
しかし絵馬掛けは大勢の職員から常時目に触れる位置にあるし、不審な連中がいたり異変が起きていればすぐにそれとわかる。
まあ、ここははっきり言っておこう。私も神社にもう長い事勤めているんだが、そもそもこんな文面の絵馬が奉納されてる所なんて見た事がない。
加えて言おう。絵馬の内容はカップルの幸せから世界制覇まで多々あれど、絵馬の内容について苦情が来た事すら一度もない。そりゃそうだ。普通の人は他人の絵馬なんて見やしない。
そんなレア級の内容の絵馬が掛けられ、直後にそんなレア級の人の絵馬見るような参拝者が訪れ、そしてレア級の苦情を呈した。
普通に考えたら、こんな都合のいい展開があるはずがない。こういう事が偶発的に起こり得るというのなら、既に長い奉務経験の中に一度や二度は起きているはずだ。
となれば結論はひとつ。
苦情メールを送ってきた奴本人かその与類が、絵馬を奉納し、後で苦情メールを自治体へと送りつけたって事なんだろう。
さーて☆以上を前提として、神主さん、メールの文面にいちいちひとつひとつ反撃していっちゃうぞー★
神社に対して文句があったんならまず神社に言えや。無理矢理自治体にケツ持ってって話大事にしようとしてんじゃねえよクソババア。
>○月○日まで○○から○○を商用で訪れ、大変楽しく過ごさせて頂いた者です。旅館やお店の方はどなたも親切で、○○・○○・○○など興味深い所もあり、前から一度行ってみたいと思っていた期待を裏切らない土地でした。
>掛けられている絵馬を見ていたところ、「韓国人が滅亡しますように。日本人より」という絵馬があったのです。
あったのですじゃねえよ。どうせお前が自分で掛けたんだろうが。何を「感動が台無し!」みたいな話のもって行き方してんだよ鬱陶しいババアだなおいコラ。
>今、国と国の関係がぎくしゃくしている中、それでも日本に興味を持って旅行に来てくれた韓国の人々がこれを目にしたら、どんな気持ちがするでしょうか。
ああ俺ら本当に嫌われてるんだなーって思うんじゃねえの? でもそもそも絵馬ってのは願い事を書くものであって、人目に触れさせる為に書かれるものじゃないからねえ。大体普通の日本人だったら、他人様の奉納した絵馬とかわざわざジロジロ見たり内容チェックしたりしないんだよ? ああ!唐突に思い出したんだけど、まとめブログで見たわー。何でも、対馬の神社に掛けられた絵馬に韓国人が落書きしまくって困ってるんだってー? 全然関係ないけどー、そういうのって困るよねー。関 係 な い け ど さ あ 。
>どんなに街の皆さんがおもてなしの心で受け入れても、○○や日本の良いイメージ・楽しかった思い出が一瞬にして吹き飛ぶでしょう。
そりゃお前、それこそ自己責任って奴だろうよ。だいたい、自治体や神社が奉納した絵馬じゃねえんだよ。何をしれっと責任転嫁しようとしてやがるんだこいつは。
>(韓国人で日本語のわかる人は、日本人で韓国語のわかる人よりはるかに多いです。)
えっ…。そうなの? いやその情報初めて聞いたわ。いかにも常識ですみたいな感じでさらっと書いてるけど、何でそんな事普通に知ってるの? ね え な ん で ?
それに、今指摘された事は多分事実なんだろうけど、それってどう考えてもおかしくない?
だって、反日教育してるんでしょう? そんな国の人達が、なぜ敵だ悪だと幼少時から教え込まれる国の言語をわざわざ習得しているの?
しかも。日本は特に反韓教育も何もしていないし、人口もずっと多いよね。なのになぜ、韓国語を習得した日本人数よりも、日本語を習得した韓国人数の方が多いの? ね え な ん で ?
>そして、帰ってからも人の口を通じてどんどん広がることでしょう。
いや頼まなくたって煽らなくたって勝手に火病起こして拡散するじゃない、あの国。
>また、現代はネット社会です。もしこれを目にした人が写真を自分のブログやfacebookなどに掲載したら、写真は瞬く間に広がります。絵馬ですから、○○の人ではなく恐らく外の人間が書いたのでしょうが、そんなところまではネットでは伝わらず『○○のメッセージ』として間違った形で拡散する可能性があります。ネットは炎上してからでは間に合いません。○○に来訪者が来なくなるだけでは済まない可能性があります。
うん、つまり要約するとこの絵馬を奉納した人間の行いは一切問わずに、地方自治体や神社の責任を問い、そして「地方自治体からのメッセージ」って事にして拡散しちゃうよ!って事かな?
えっ? 何? まさかとは思うけど脅迫してんの? 脅してんの、地方自治体と神社を? それって重大な犯罪行為だよね?
>人には好き嫌い・言論の自由はもちろんありますが、特定の民俗や社会的階層を名指しでおおやけに誹謗中傷することは、国際的にもタブーで有り、もしアメリカで同様の事がもし起きたらそれを知りつつ放置した側も訴えられたり社会的制裁を浴びたりすることになります。何よりも、良識ある日本人として許してはならないと考えます。
あれっ? わざわざアメリカの例を出してきたって事は、もしかして知らないの?
日本でも公に差別やら何やら行った場合は訴えられたり社会的制裁を受けたりするんだよ?
もしかして日本人は公然と差別を行っているという認識なのかな? そして、そういう差別を受ける、被差別対象層だった事があるのかな?
一体どれだけ歪んだ日本人観なのかな? というか、随分とまあ、どこかの国特有の教育を受けた人達にそっくりな考え方をするんだね?
>以上の理由から、一刻も早く、問題の絵馬を責任を持って撤去されることを望みます。
ハァ? 責 任 だ ぁ ? 何言ってんだこいつ本当に頭おかしいんじゃねえのか?
個人が奉納した絵馬を、なんで地方自治体や神社が責任を持って撤去しなきゃならないの?
そこには一体どんな責任があるの?
どこに責任が発生する根拠があるの?
その責任というのは一体誰を、そして何を守る為の責任なのかな?
>○○が、これからも世界中の人から愛され続ける○○でありつづけますよう、心からエールを送ります。
あれぇ? 韓国人の火病を恐れてチヤホヤしてくれる、お前らにとって都合のいい○○、の間違いじゃないのかな?
嘘つけや。
とはいえ、散々ディスっておいて何だが、日本を訪れる韓国人が全員ろくでもない連中であるとは、仕事を通じて得た経験からも、とても思う事はできない。
あちこちの神社や自治体に仕掛けてまわってる目的を改めて考えてみたんだが、まあちょっと上に書いた通り、韓国人だけチヤホヤさせる為の手口にしか見えない。
それに確かに、神社を訪れる外人の中で言えば、韓国人は態度が悪い。だいたい中国人の次くらいに悪い。
だが韓国人は結構知りたがりな一面もあって、教えて厨というか、とにかく色々な事を積極的に質問してくる。日本語が喋れても喋れなくても、とにかくたくさん質問してくる。知ろうとする。で、丁寧に教えてあげればちゃんと御礼も言う。
突拍子もない事も言ったりやったりする確率は高いし、トラブルの現場にはだいたい居るが、ちゃんと教えてあげればそのように振る舞う。
悪い奴もいる、ろくでもない奴もいる、ごね得を得ようとする奴もいる、そういう事なんだろう。
なので。今回のような一件があったけれども、だからといって私は今後も韓国人を敵視して扱うような事はしないし、また韓国人だけ優遇しようとも思わない。外国人観光客に対しては今まで通り平等に接する。
そうしないとどちらにせよ、相手の思うツボだろうからな。
まあお前ら増田も、自宅の警備やらIT企業の警備ばっかしてねえで、たまには神社の警備もしに来てくれ。
そんで、「韓国人が滅亡しますように」なんて絵馬を奉納しようとしている奴を見つけでもしたら、「あ゛あ゛ん?てめえ何してやがんだコラァ!」とか難癖つけなくてもいいから、そいつのエラの張った顔を写メって、ツイッターか何かで拡散してくれ。
ああ、別にそいつが韓国人じゃなくてもいいぞ。人の不幸を願う絵馬なんざ奉納する奴はいくらでも不幸になってもいいからな。
とにかく頼んだぞ、増田ども。
このすぐ下の奴には直接、ブコメも無断転載もIDコールもやめろと、確かに伝えたはずなんだがな。
なんだ? また通報されたいのか? 今度は執拗な個人攻撃を繰り返している要注意人物、として。
change_k:【北風文芸】 力づくで単調な文芸のこと。イソップ童話『北風と太陽』の北風に由来する。文芸的な見所に乏しく、書き手の興奮ぶりだけが露わになる。
A:【北風小判鮫】 他人の書き込みに便乗して自ブログのアクセスを増やそうとする、力尽くで単調なブックマーカーのこと。イソップ童話『北風と太陽』の北風に由来する。自らエントリが書けない程に創作能力に乏しく、その現実に対する指摘を受け入れられずに興奮ぶりだけが露になる。
「フランス革命は、平民(第三身分)が旧体制を打破した革命である」
のように説明されることがあります。この説明は間違っているわけではありませんが、「平民」という均質な集団が一丸となって何かをしたかのような誤解を与える点で、フランス革命の内容を分かりにくくもしています。
平民(第三身分)は、農民や都市の下層住民を総称した民衆と、民衆よりも裕福な中間層であるブルジョワからなります(職人を雇わずに家族だけで仕事をしている親方や店主ぐらいが下層のブルジョワと民衆との境界層です)。しかしブルジョワと民衆は意識の上でも利害的にもあまり仲がよくありません。
ブルジョワと民衆は協力関係にあるよりもむしろ敵対しており、それぞれ自律的に行動していたととらえる方が、フランス革命の動向が分かりやすくなります。
普通フランス革命の期間は、バスティーユが襲撃される1789年7月からロベスピエールが処刑され恐怖政治が終わる1794年7月までの5年間、またはナポレオンが総裁政府を軍事クーデターで倒す1799年11月までの10年間とされます。
しかしその当時フランスの社会構造がどのようなものでフランス革命が始まるまでどのような進展があったを知っていた方が、フランス革命の推移もわかりやすくなります。
わかりやすくなるのですが、ここではバッサリはぶきます。ブルジョワと民衆がそれぞれ自律的な勢力であるという複合革命論の考え方を前提にして書かれた
などを読んでみてください。
があります。こちらのタイプの説明の方が分かりやすいという人もいるでしょう。
(ヴェルサイユで開かれた全国三部会は、第三身分の強硬姿勢により憲法制定の議会に変身し、バスティーユ襲撃後の国内混乱を利用し封建的特権の廃止に至ります)
1789年5月5日にヴェルサイユ(パリから約25キロ)で始まった全国三部会は、採決形式でもめ審議に入らないまま紛糾します。第三身分が強硬姿勢を崩さず、特権身分の中にも第三身分への同調者が出たこともあり、7月9日に憲法制定国民会議として再出発します。
しかし7月11日に第三身分に融和的な財務長官ネッケルが罷免され、これがパリが伝わるとパリ市民は王の軍事行動が近いと恐れ、自衛のための食料調達武器調達に動き、焼き討ちや略奪が発生します。富裕市民は政府軍隊への対抗と秩序維持のため常設委員会を設置し民兵を組織します。
7月14日にはバスティーユの要塞に武器の引き渡しを求めて民衆が殺到し、バスティーユ内で交渉が続くさなか襲撃が始まり、バスティーユは陥落します。市庁舎まで連行された司令官ドローネーは群集に引き込まれて殺され、市長フレッセルも射殺されます。
新たに組織されたパリ市政当局とブルジョワの民兵(国民衛兵)を国王政府は追認せざるをえず、他のほとんどの都市でもブルジョワが市政の実権を握ることになります。
一方バスティーユ占拠の報を受けた農村では、貴族が浮浪者を雇って報復をおこなうという噂が広がり、その恐怖から各地で領主の館の襲撃が行われ、「大恐怖」と呼ばれるパニック状態になります。
自由主義貴族だけでなくブルジョワの議員の多くも地主であるため民衆の騒乱は早急に鎮める必要がありますが、正規の軍隊に頼ることは王や保守貴族の立場を強めることになるのでできません。そうしたなか8月4日の決議が行われます。
8月4日閉会後の夜に抜き打ち的に再開された議会で、自由派貴族によって領主特権の廃止が提案され、熱狂的興奮のなか課税特権の廃止など諸特権の廃止が次々と宣言されます。大恐怖の圧力を利用して封建的特権の廃止に成功し、農民の騒乱も沈静化していきます。
これで憲法の議論が進むようになり、8月26日には人権宣言が採択されます。
しかし王は特権廃止の法令も人権宣言も批准せず、9月末には治安維持の名目でヴェルサイユに軍隊を集結させます。
10月5日に食糧危機を訴えるパリ民衆がヴェルサイユに行進し国民衛兵がそれに続き、民衆は窮状を訴え国民衛兵は王に圧力を加えます。王は法令と人権宣言を批准、翌日には王一家はパリのテュイルリ宮に移されます。続いて議会もパリに移り、ここから憲法と法令の議論が本格化していきます。一方で亡命する貴族が増えていき、国内の政治分裂も本格化していきます。
(91年半ばまではフランス革命期としては平穏な時期ですが、この時期に国内の対立が進んでいきます。また国王の逃亡未遂が発覚するヴァレンヌ逃亡事件(91年6月)によって王の威信が失墜し戦争を望む声が高まります)
議会がパリに移り、諸特権廃止の内容や具体的な法律が決められていきます。ヴァレンヌ事件が起こるまで比較的平穏とされる時期ですが、国内にさまざまな対立が生じていきます。
1789年後半から91年にかけて、議会外に政治組織が形成されていき対立の構図ができていきます。
また各地で反領主騒乱が発生していますが、そうした騒乱は徐々に革命か反革命かという政治的な枠組みで解釈されていくようになります。
さらに聖職者民事基本法をめぐって宣誓拒否問題が起こります。カトリック聖職者の多くは革命には好意的でしたが、叙任式における宣誓義務に対して大多数が拒否をします。議会からの警告が出されますが、地方によって大きくバラツキがあるもののフランス全体で約半数の司祭が拒否します。教皇ピウス6世が民事基本法を否認したこともあってカトリックは内部分裂する事態になります。宣誓拒否司祭とそのもとにあるカトリック民衆は「反革命」に押しやられ、のちのヴァンデの反乱(ヴァンデ戦争 1793年3月~)の原因の一つになります。
91年6月に国王一家がパリから逃亡し途中で発見されるというヴァレンヌ逃亡事件が起こります。
これを受けて、外国に支援された亡命貴族が攻めてくる、外国の侵略が始まるという考えが広がり、国王救出を目的とした外国人が侵入してくるという予想から国民衛兵による警戒体制もしかれます。
7月には主要な政治組織であるジャコバン・クラブが、王の廃位と共和制を要求する請願書をめぐって分裂し、多数派の穏健グループはフイヤン・クラブとして分離します。
8月にオーストリアとプロイセンが、フランス国王のために武力介入もありえるとするピルニッツ宣言を出したため、亡命貴族の陰謀説にさらに拍車がかかり、外国との戦争を望む声が高まっていきます。
そうしたなか9月3日に立憲君主制にもとづく1791年憲法が制定され、9月30日に憲法制定国民議会は解散します。
(インフレや物価上昇により食料問題が悪化し民衆の不満は増大していきます。国内の多数が開戦を支持するなかオーストリアに宣戦布告し(92年4月)、続いてプロイセンとも戦争状態になりますが、フランス軍の劣勢となります。軍事的危機と国王への不満が積み重なり、パリに集結していた連盟兵やパリ民衆の恐慌的な敵意が王に向けられ、王の廃位が要求され、8月10日テュイルリ宮が武力制圧されます(8月10日事件)。これを受けて議会は王権の停止を宣言し、新たな憲法制定のための国民公会の召集を決議します)
憲法制定議会が解散した翌日91年10月1日に、9月までの選挙で選ばれた議員達による立法議会が開会します。再選が禁止されたため全て新人議員で、貴族がほとんど選挙に立たなかったため議員のほとんどは裕福なブルジョワです。立憲君主制を守りたい穏健派のフイヤン派が議会の最大勢力、共和制を主張するジロンド派(ジャコバンクラブのこの頃の多数派)がそれに続きます。
なお同業組合や団結を禁止したル・シャプリエ法(91年6月)に抵触する恐れがあるため、政党は存在しません。そのため、どの派でもない、審議内容ごとに立場を変える中間派(平原派)が、この時期に限らず常に議員の多数を占めます。そのため派閥の議員数だけでなく、中間派の動向(またその動きに影響を与える議会外の動向)が重要になります。
また議会内の各派の勢力数自体も確定したものではなく常に流動的で、各勢力をどう呼ぶかにかんしても文章によって違うことがあります。
議会の中心的課題は、周辺諸国からの脅威にどう対処するかです。(それと穀物価格の上昇に対する価格統制の要求に対して、革命後の基本原則である自由主義をあくまで守るのか、民衆の要求を受け入れるのかも問題になっていきます)
これに対してジロンド派は、国内の不満をそらして(インフレにより物価が上昇し各地で食料暴動が発生していた)政治のイニシアティブを獲得するために「自由の十字軍」などの言葉で対外戦争をあおります。民衆の多くも「外国と共謀する亡命貴族」への脅威と愛国感情の高揚から戦争を望んでいました。
92年3月、フイヤン派の大臣が王によって解任されジロンド派内閣が成立し、4月にオーストリアに宣戦布告、数週間後にはプロイセンとも戦争に入ります(戦争はナポレオンが二度目の失脚をする1815年まで中断もありつつ続くことになります)。
しかし緒戦から敗戦が続き、「反革命」者へのより強力な措置を求める声や宮廷への不信から共和制を求める声が高まっていきます。またセクション(区)の政治活動を通じて民衆が政治的に組織化されていきます。
そうした流れが最終的に民衆と連盟兵による8月10日のテュイルリ宮の襲撃に行き着くのですが、この事件は偶発的に起こったバスティーユ襲撃とは異なり王の廃位を求めての組織された行動だったにもかかわらず、そこに至る決定的な原因があるわけではないので要約しづらく、フランス革命の大きな転換点の一つのわりに説明しにくい事件です。
ここでは事件の結果だけ述べると、立法議会は蜂起側の勝利がはっきりした後、王権の停止を宣言し、新たな憲法を制定するための国民公会の召集を決議します。これでフランスが共和制に向かうことが確定します。また国王一家はタンプル塔に幽閉されることになります。
(戦争はフランス軍の劣勢から優勢に変わり周辺領土を占領します。93年1月には国民公会の裁判結果により国王が処刑されます。周辺領土の占領や国王の処刑を原因として周辺諸国の多くと戦争に突入し、さらに国内ではヴァンデ地方を中心に大規模な反乱が起こります。議会ではジロンド派と山岳派の対立が深まっていき、国内外の諸問題への対応のまずさからジロンド派が民衆の支持を失い、93年6月ジロンド派は逮捕、議会から追放されます)
8月10日に王権が停止しますがフランス軍が劣勢の状況にあることは変わりません。義勇兵がつどわれ前線への準備がなされる一方、反革命、裏切り者を排除する空気が広がり、家宅捜索がなされ多くの反革命容疑者が逮捕されます。さらにパリへの侵攻の脅威が高まり、義勇兵が出発したあと反革命者がパリ住民を虐殺するという噂も流れ出します。
そうした不穏な情勢のなかヴェルダン要塞陥落のニュースがパリに届きます。これをきっかけとして、囚人の多くが殺されるいわゆる九月虐殺が発生します。
この事件の結果、内の脅威が消えたと民衆が大挙して義勇兵に参加し兵数万を増やすことになります。
一方、この事件は国外からの印象を非常に悪いものにします。宥和政策を取っていた隣国スペインの首相も宥和政策を撤回せざるをえなくなり、またフランス革命開始時には革命に好意的だった知識人たちも国王一家の幽閉と九月虐殺で決定的に革命嫌悪に転じます。
戦況にも変化が生じます。フランス軍はヴァルミーの戦いで勝利し、戦況が優勢に転じていきます。なお多くの本でこの勝利はフランス兵の志気の高さによるものと説明されていますが、志気が影響するような戦いではなく兵と砲台の数の差によるものといった指摘もあります(たとえば『近代ヨーロッパの情熱と苦悩』)。
普通選挙でしたが投票率は悪く、ほぼブルジョワ議員で占められています。フイヤン派は出馬していないので議会におらず、共和制穏健派のジロンド派と共和制急進派の山岳派、それに中間派という構図です。(ジロンド派がジャコバンクラブを脱退していくので、山岳派=ジャコバン派とも呼ばれます)
ジロンド派は経済的・政治的自由主義を維持し議会主導で政治をおこなうという近代的な原則をあくまで重視し、山岳派は革命の推進と防衛のためには民衆の要求も受け入れ民衆運動の利用もありと考える現実路線です。
……とまだまだフランス革命の時期は続いていくわけですが、予想外に長くなったので中途はんぱなところですがここまでとします。
93年1月に国王が処刑され、6月ジロンド派の追放で山岳派の一党独裁(ただし基盤の脆弱な独裁)になり、恐怖政治の時代が翌94年7月まで続き、ここで一区切りとなります。
当たり前だ。
人生ってのは、自分の行動や意思決定によって、面白くしたりつまらなくしたりするもんだ。そんな受身形な生き方で人生がおもしろい訳ないだろう。
楽しいこともたまにはあるけれど
こういう態度のことだよ。だらだら過ぎていく日常の中で、偶発的に何か楽しいイベントが発生するのをただ待っているだけ。
親が餌を運んでくるのを、口をパクパクさせて待ち続けている雛鳥、それがお前だ。
自分の手と脚で餌を探しに行くこともせずに、悟ったような口を聞くな。
自分に出来ることが少なかったとしても、つまらないように見える日常の中から、少しでも面白いこと、楽しいことを見出す努力をしろよ。
世界には、絶望的な環境においても、自らの人生を勝ち取るためにデモなり革命なりを起こした人間が大勢いるぞ。
おそらくインドア派な人間なんだろうなと推測するが、昼間はしっかり日光を浴びろ。
夜は夜更かしせずに規則正しい生活送れ。
食生活も大事だ。糖質鬱という症状もある。炭水化物や糖分の摂り過ぎに気をつけろ。睡眠の質を向上するために、深夜の飲食は避けるように。
そもそも世の中に絶対的な惡なんて、ほとんどないと思う。
絶対的、というのは、どの文化圏でも、どの時代でも、それをしたらダメでしょ、ってことだよ。
俺の価値観では、殺人と窃盗くらいは絶対的な惡のような気もするけど、でもそんなことないよね。
戦争中なら殺人もおっけーだし、昔は仇討もおっけーだったというか賞賛された時代もあるしね。
それくらい、絶対的な惡ってないわけだよ。
それが不倫程度、なぜ悪いと言われなきゃいけないんだ?
自由恋愛というか、オープンな関係っていうものが、ちゃんと認められている国も実際にある。
あと、具体例として有名なのはサルトルとボーヴォワールの夫婦。
あれほどまで頭のいい人たちも、お互い偶発的な恋愛は楽しみましょう、と認め合ったわけだ。
facebook にもちゃんと、open relationship という選択肢があるよね。
そんなことはないはずなんだよ。
一夫多妻を認める国も、不倫と本質的な違いはないわけで、それを批判できるの? とも思う。
ただし、当事者すべての同意があれば、というのが前提になるのかな、と俺は思う。
いくら、世界のどこかでこういうものを認める場も存在する、とは言っても、当事者で傷つく人がいるならもはや人間としての関係性は破綻しているわけで、事後で言葉を重ねることに意味はないと思う。
サルトルとボーヴォワールも、お互い隠さず話せば自由恋愛OK、というのは条件にしていたようだし、結婚するときの契約次第なのかなと思う。
もちろん、当事者すべてというのは不倫相手も含むわけで、不倫相手が独身なら、ちゃんと配偶者がいて同意済みであることを説明する必要があるし、不倫相手が既婚者なら、不倫相手の配偶者にも同意を得る必要があるよ。
で、現在の日本では、貞操を守る義務というのが法律的に課されているので、とりたてて新しい契約を結んでいない夫婦なら、この義務に従うべきじゃないのかなと思う。
しかし、実際にはボーヴォワールもかなり傷ついていたらしいし、結局関係性は良好とは言えなかったらしい。
そう考えると、真の意味で誰も傷つかない自由恋愛って、なかなか成り立ちづらい部分はあるのだろうなと思う。
しかし、当事者たちの事情も知らずに、第三者たちが自分たちの価値観で批判するべきものでもないと思う。
ちなみに俺は浮気はしない(予定)だし、妻にもしてほしくないです。
ネット界は、「自分と似た属性の人」とネット友達になる可能性高い。
「自分たちの観測範囲内」「自分がフォローしている人」の女性のリアクションを観察して、
それを受けて「これが女性の総意だ。女性は皆こう言っている」とツイートする。
・・・何のことはない、自分の属性の女性意見を増幅しただけだったりする。
30代キャリア独身女性が「女性は皆●●と言っている」とツイートしていても、
不妊女性の「女性は皆・・・」の「女性」は、皆不妊女性だったり。
基本は、「お仲間同士のツイート交換」なんだが、
前の記事ではあえて書かないことにしたんだけど、齟齬があるようなので未練がましく補足します。これから書くことはあくまで俺の個人的な体験とそこから考えた意見です。元記事の男性の行いについて倫理的に許されると思ってもいないし、10:0の責任をあの手この手の理論で9:1、あわよくば8:2まで持ち込もうという意図もありません。しかし、元増田のような思考パターンをする人とは付き合えないと判断します。法や倫理的に基づいた判定と、俺がお付き合いする相手としてどう判断するかは、全く別の話です。
「セックスしないならいいよ」っていったんだけどな~
http://anond.hatelabo.jp/20130311155911
ダブルバインドだよなあ
http://anond.hatelabo.jp/20130313195812
個人的な体験からすると、何もせずに帰ったら、後日なんでセックスしないのと泣かれたり怒られたりしたことは3回ぐらいあります。ですから、この考え方が都市伝説のたぐいであるという論調は受け入れられません。ちなみに、その後、順調にお付き合いが続いたケースもあるし、そうでないケースもあります。
女性がこのような反応をした背景に、社会的に男の都合のいいように洗脳されていた、精神的に搾取されていた、俺が怖かったのであえてそういう素振りをした、精神を患っている、という可能性は捨て切れません。俺がそんなことはないと強弁しても、女性からお前が気づいていないだけだと指摘されたら、俺が女性でない以上明確に証明することはできないからです。
「据え膳食わぬは男の恥」プロトコルで通信することを認める人たちを「アリ派」、そうでない人を「ナシ派」と分類しましょう。この時点で不快感が沸き起こる方がいらっしゃると思いますが、キリがなくなるので対応しません。で、男性女性の中にどういう割合で「アリ派」「ナシ派」がいるかは知りませんが、組み合わせとして、アリ男-アリ女、ナシ男-アリ女、アリ男-ナシ女、ナシ男-ナシ女の4種類あるとします。
あらかじめ、ちゃんと「セックスしないなら行ってもいいけど、するなら嫌だ」ってはっきりいったのに
という発言からは、男性側のセックスに対する積極性とそれを拒否する女性という前提が共有されています。また、一泊旅行というひとつのパッケージの中で、セックスだけが明確に拒否されているということは、アリ男への牽制と考えて良いと思います。つまり、潜在的に「アリ男-ナシ女」の組み合わせであることを双方知った上で、今の時点では「ナシ男-ナシ女」でなければならないという契約を結んだと言えます。当然、それが契約である以上、旅行中に男性が発情して「アリ男-ナシ女」という図式になることは許されません。口が酸っぱくなって臭くなるぐらい繰り返しますが、許されません。もう一度言います。許されません。
で、この契約が成立した時点で、カップルにとって社会的に存在する4種類の図式のどれが当てはまるかを検討する必要がなくなります。少なくとも旅行終了までは「据え膳食わぬは男の恥」プロトコルが相手に通用するかどうかを再度確認する必要はありません。
上記のことを念頭に置いた上で「ダブルバインドだよなあ」の内容につながるわけです。「ダブルバインドだよなあ」は旅行に出てから男性が約束を破るのはしょうがないということを言いたいのではなく、なんでこの合意に至ってしまったんだろう、という話なんです。「ナシ男-ナシ女」を保つことを至上命題とするならば、それを阻害する因子を取り除けばいいじゃないですか。30分トイレに閉じこもるって、どう考えても起こしてはならない事態でしょ。日帰り旅行とか別の部屋を予約することは、高潔な魂を保てない選択肢なのでしょうか?いっそのこと、旅行を延期したらいいじゃないですか。偶発的な紛争の危険があるとわかっていて、あえてそちらに駒を進めるのは威嚇行為だと思います。そんなことが信頼の醸成につながるのでしょうか?もちろん元増田は旅行に行く必要性を感じていないのだから、彼氏が率先して折れるべきですね。俺ならそうします。
せっかくおいしいご飯食べて気持ち良くお風呂につかって最高の気分だったのが一気に台無しになってしまった。夜中までいろいろ二人で話して眠くなったからもう寝るねっていったときまでは本当に最高だったのに。
とはいえ、俺の体験上、このようなロマンティシズムは受け入れられません。日帰り旅行は、紛争のリスクも少なく、精神的にも負担が少なく、構造もシンプルな選択肢です。なのに、わざわざリスキーな同室を選んだ挙句、セックスの強要を迫られたにも関わらず、ロマンティシズムの世界から増田で状況を描写する。日帰り旅行に比べてあまりにもややこしすぎませんか?これから先お付き合いしていく時に、いつも細かい契約をしながら付き合うことはできません。日常生活で顔を合わせる時には契約せずに相手のメッセージを適切にピンポンすることが重要ですが、この人の球を打ち返し続けるのはしんどいです。
そういうことを考えていた時に浮かんできたのが、「愛の証明」を繰り返す日々だったのです。個人的な体験を無批判に当てはめていると言えばそのとおりです。しかし、他に適切な例が見当たりません。
お互いの領域をほどよく侵犯するのが恋愛だと思うので、杓子定規に一般論として間違っているという指摘をしてもしょうがないと思います。俺が、私が、が起点でいいんじゃないでしょうか。
元記事が出てから二日間仕事と睡眠以外の時にずっと考えていた結果がこの記事なのですが、それだけの時間考えぬいても、俺の言いたいことが「セックスをしたい」という話としか伝わりませんでした。皆様がおっしゃる通り、俺は論理構成能力が全くないのでしょう。自分を高く見積もっていました。申し訳ありません。俺がセックスの話じゃないんだと本気で考えていても、他の人からはセックスしたい欲望が余すところなく見えるという図式が存在しています。ということは、俺は無自覚に不適切な性的接触をする可能性が高く、考え方がレイプ魔と同じであると考えるのが妥当です。
つまり、これまでのお付き合いの中で無自覚にレイプをしていた可能性が高いと考えられ、それはレイプ予備軍ではなく、俺はすでにレイプ魔であると考えるのが自然だと思います。また、ブクマの指摘に対して明確な答えが出せない以上、これからもレイプをする因子を未だ抱えているわけです。非常に受け入れがたい事実ですが、このことを頭の中に刻みつけ、過ちを起こさないよう自分を警戒していこうと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20130216225538
例えばテルアビブに落下した場合、イスラエルは「冷静に」対応できるか?
今はまだ極度の緊張状態じゃないが、極度の緊張状態が強いられている最中に
隕石落下という「極めて不幸な、極めて天文学的確率のアクシデント」が発生した場合に、
イスラエル軍部が、「イランやヒスボラによる攻撃だ」と誤認して、そのまま衝突が拡大、というケースだって、
ありえなくはない。
あるいは、今後尖閣諸島が更に緊張して、そういうさなかにこの海域に隕石落下した場合
(恐らく津波?みたいのが発生するだろうが)、それを何らかの軍事活動と誤認して、
それで応戦する、というケースも、考えられなくはない。
どうなって終わるんだろう?アメリカは日本と一緒に中国へ敵対するのが前提。
日本はもちろん、中国も本気でやろうと考えてはないと思うけど可能性は完全にゼロではないので、念のため想像してみたわけです。
で、現状停戦を仲介できそうなところが見あたらないんだけど、どっかある?英仏露が協力して…なんてのはイメージできないし。幸い(?)ユーロがウマウマできそうな武器はどっちも使ってないと思うので「もっとやれ」とけしかけられることもないとは思ってるけど。
誰も止めてくれないと、どっちかが「ごめんなさい」と言うまで続いちゃうわけで、そうなると一番損するのは日本だよなぁ。最終的にはアメリカが中国に「ごめんなさい」って言わせるにしても、その途中で中国は持ってるミサイルを全部こっちへ打ち込むだろうし。
って考えると武力衝突はどう転んでも、わずかな益もないわけで偶発事故とかいやマジ勘弁してください、と祈るばかりであります。
さらに最悪なのは「国連」を名乗ってロシアが南下してくるパターン?どさくさに紛れて北京と北海道の両方へやってきそう。
うわー、どう考えたってロクな展開が想像出来ん。やっぱり適当なところで内側から崩れてくれるのが、最大多数にとっての幸福な展開を期待できそう。
崩れるのは好戦論でも体制でもどっちでもいいのよ?
あなたにとっての虐待の定義とはなんだろうか、被害者が加害者の保護下であるという関係を除けばあらゆる虐待は存在するが、今回は主に成人と未成年の間、親と子の間に存在する虐待について論考していこうと思う、なぜなら家庭というのは非常に外部と隔たれた空間であるからだ、教育の場であったり労働環境での虐待と比較するとお互いの利害に関係のない第三者の目に触れる機会は一気に減る、その分陰湿であったり陰険になるなどの諸問題は生ずるが同じ様な虐待が発生した時に他との比較が容易で無いという点において、また未だ家庭内部の隠され閉ざされた空間で行われている虐待についての個々の認識を明らかにしていく事が、この世から虐待による悲痛、声にならない声を浮き彫りにしまた被害者自身がより客観的に自己の被害状況を分析し気持ちの整理をつける事でより良い明日へと繋がる事を祈り進めていきたいと思う。
虐待の種類
虐待にも様々なものがあるが、一つに基本的には相手の事を思っているか?という漠然とした表現にその発生源を求める事ができる。もう一つは、相手の事を思ってしているという認識の行為が結果的に同じ結果を生じさせているという虐待について、また意図的、偶発的を問わず“何か”をしなかったという事が虐待になる事もあるので、それらを比較しながら論拠していきたい。
一、【故意】例
二、【過失】例
例えば、子供が他人の所有物を不当に取得した時などに“叩く”などの痛みを与える事で子供の犯した不当な行為を是正させようというもの、これでは罪を犯してはならない理由が“叩かれる”からだとの理解を子に与えかねない。裏を返せば叩かれてもいいくらい欲しい物であれば不当に他人から奪っても良いという事になってしまう。人間なのだから例え時間をかけてでも、物には“持ち主”という所有の概念があり、他人の所有物を正当な理由なく勝手に奪ったり何かしてはいけないと教えるべきだ。こういうと小さな子供にそのような説明をしてもわからないという人がいるようだが、行為の是非は痛みが伴うかどうかだと理解させてしまう可能性を与える行為こそ余計に子供が所有の概念を理解する事を阻むだろう。
三、【認識ある過失】例
意図偶発問わず放置に至った時に、その放置によって苦痛が子供に生じるかもしれないと認識しながらも「もう我が子の年齢なら大丈夫だろう」と本人を介さない判断で放置した結果、実際は子供が精神的苦痛等を生じていた場合の虐待
※本人の事前の意思を汲んだ上での放置で、実際に子供に苦痛が生じても生じなくても、第三者から客観的には虐待と判断される場合も有る。
四、【未必の故意】例
意図偶発問わず放置に至った時に、その放置によって「子供に苦痛は生じる」と本人を介す介さない問わず判断し放置した結果、実際に子供に精神的苦痛が生じていてもいなくても構わないと思う虐待
他にも虐待時の心模様は分析できるが、虐待による不都合が生じるかどうかという点では、これらの行為が多岐に又、継続的に行われるかどうか、そして被虐待児の個体差に寄ってでしか判断できない事とより効果的な虐待ラインの線引きをする為に虐待の回数、頻度、継続性やその子供の人生に不都合が生じたかどうかは度外視し“その行為が虐待なのかどうか”に的を絞って進めていきたいと思う。
それでは、ここから思いつくままに、もっとイメージを換気しやすい実例を列挙していきたいと思う。
一、お父さんと息子がプロレスごっこをしていて上手く技が決まり泣き叫ぶ子供に対してもなかなか技を解かなかった。
一、食事を親の許容時間内で食べられずゆっくりと遅い食事スピードの子供に対して、精神的な怒りを顕わにし、その怒りを子供に伝えた。
一、兄弟喧嘩をした子供に対して、親の判断で判決を下し、制裁として一度の食事を与えなかった。
一、何時にお客様が来るからそれまでに部屋いっぱいに散らかった玩具を綺麗に片づけておいてねと子供に頼んだのに、その時間になっても部屋を片づけていなかった為、児童の頭部に真上から握りしめた拳の中指第二関節の先を尖らせた部分を振り落としそれなりの痛みを与えた。
一、子供が学校から持ち帰ったテストの結果を見ると20点と書かれてあった、問題内容や平均点などがどのような状況なのかは関知していないが主観的に悪い結果だと思ったので「なにこの点数は?」と冷めた表情で悲しみを子供に伝えた。
一、子供達数人を祖父母に預け遠方に行くことになった際に、お土産を買う事になった、その際個々の子の長男、長女、次男、二女などそれぞれにお土産を買う際に、自分の子に対する好きの程度が“ひいき”としてお土産の質にも反映された。
一、子供が食事に対して好き嫌いを顕わにした時に、栄養学的な事、勿体無い事、また添加物や農薬、化学調味料等による影響を考慮せず、また食べる事や残す事を“怒り”や“恐怖感”と共に子供に迫った。
一、子供に玩具を買い与える等の条件を設けてお手伝いさせたり、肩を叩かせる等した後に、その約束に対しての意識をおざなりにし約束をまだ守っていない。
一、子供に早く寝ないとお化けや怪物、悪魔に襲われるなどと自分の信じていない事実を信じこませ嘘の恐怖感で持って子供を自分の意図した時間帯に寝かせてしまおうとした。
一、家庭内でだれかの所有物が紛失した際に、証拠なく過去の行動等から子供のだれかが盗んだのではないかと疑いそれを子供に伝えた。
一、子供が嫌がったり、将来思いだした時に嫌だと感じる可能性がある行為を何らかの脅迫や脅し、また体格差による優位条件を利用して行った。セックス等
等々、枚挙に暇が無いが、突き詰めていくと、同意や相互の了解、約束の無い事で自分の保護下にある者に対して怒りの感情や、隠避の態度、また虚偽の同意や相互の了解、約束で保護下にある者の言動を操作したり、当初は嘘のつもりはなく結果的に不本意であったとしても謝罪無く保護者の立場を利用して子供の意思、期待を蔑ろにする行為を虐待と定義する事で、確かに、ほとんどは大した事のない軽度の虐待ばかりが散見するとは思うが、その浮き彫りにした小さな声の中から、継続的であったり深刻な状況に陥っている児童を露わにする事で虐待親からの保護活動がより進むのではないだろうか。
次に、虐待をされた側の福祉ではなく、虐待をしてしまった側の福祉を考えてみよう。確かに、認識の無い虐待の方が子供の悲痛は重いだろうが、罪悪感を認識しつつも己の言動を制御できず我が子に対してしてしまうという行為としての虐待の加害者も罪を理解しているという点においては周囲が手を差し伸べるべきではないだろうかと思う。何度も閉ざされた家庭内の出来事である事は強調するが、親自身が現在において健全であると因果関係の立証なくして自分の生育環境を我が子にも模倣するという事は大いにあり、その今現在健全である事はわが身が程度の差こそあれ受けた虐待が今のわが身の為になったと解釈しその虐待行為をまた我が子にしてしまうと言う物だ。
良かれと思いやっている事なのだがこの場合本人の気分もなぜか優れないという事が多いように思う。どうも本当はこんな事はしたくはないが、我が子の将来の為に体罰や強制、十分に説明のできない因果関係の不明な理由によって我が子の言動を統制するのは止むを得ないを自己を正当かするのだが、なぜか当の親自身は心のどこかに陰りを想わせる精神状態に陥ってしまう。
こんな時、もしも閉ざされた家庭でしかも虐待というナイーブな情報について共有でき、また素直な気持ちで自分の行為が虐待なのか虐待でないのか話しあえる場、意見交換できる場があったらどうだろう。
子を持つという事は責任が伴う。
ないものは仕方がない、生殖の自由を制限することもまた違うであろう
親になったからといって、社会は一律に保護者の責任を追及しても良いのだろうか?
そこに、責任という耐えがたい重圧感を与える事が、自らの育児教育能力を自己判断し自信が持てなかったり自己否定の念の押しつけられた時、弱者である子に対し“教える”という行為をしなければならなくなった時に怒りの感情が“怒る”という形で子に向けられてしまうのではないだろうか。
“怒る”について考えてみよう。
子供が何か良くない事をした時に「コラーッ」と怒った場面を創造してみて欲しい。
それは、子供がスーパーで売り物を食べ始めてしまった時かもしれないし、子供が自分で行きたいと言って行き始めた何かの教室を勝手に休んだ時かもしれない。
私や貴方はいったい何に怒っているのだろうか?
子供が確かに一度はしてはいけない事だと理解したのに、私欲のために再三した事が許せないという怒りだったかもしれないし、貴方がせっかく拠出した習いごとの月謝を無駄にされた事かもしれない。他にも様々な解釈はできるが“怒り”がなぜ生じるのかをよくよく考えてもらいたい。
そこに“悲しみ”はないだろうか?
人は悲しくないのに怒る事はあるだろうか?
元の感情として、自分が悲しくなる何かをされた事や身内が誰か他人を悲しませてしまう事が悲しくて、そんな思いはしたくないから“怒る”のではないだろうか?
子供には貴方や私が怒る理由を理解するのは難しい
まだ悲しい気持ちから怒りに転化したという実体験も希薄だろう。
これを読んでくれた貴方には
どうか
どうか素直な感情で我が子と接して欲しい
悲しい時には悲しい気持ちを我が子に伝えよう
あなたがそんな事したら、お父さん悲しいよ お母さん悲しいよ って
私や貴方がが無碍に他人を悲しませたいなんて思わないように
子供の純粋が気持ちとして、他人を悲しませるような事はしたくないという純粋が感情がある事を期待しよう
怒りは「快」「不快」という根本の感情よりも一段階上の複雑な感情だからだ
例え我が子にでも、悲しい思いをさせられたら「悲しい」気持ちを表してみよう。
きっと、わかってくれるはずだ
今からでも遅くない 例え貴方の子供が既に成人していたとしても
本当はどう思っていたのか? あの時は悲しかったんだよ だからあんな事をしてしまったんだと
また貴方の子がさらにまた子に対して同じ事を繰り返し、子が将来、あなたと同じ苦しみをする事を回避する為に
勇気を振り絞って、例え過去の事であっても当時の本音の素直な気持ちを話してみよう
きっと、貴方を許してくれるはずだ 貴方はもっと楽に生きるべき存在なのだから
@awaikumo
まぁ個人的にはどうでもいいんだけど、デビューアルバムがフィンランドとベルギーのiTunesエレクトロチャートで1位になるという快挙を成し遂げてしまって今やここぞとばかりにバラエティ番組にまで引っ張りだこのきゃりーぱみゅぱみゅさんだが、歌い手がPerfumeでもMEGでも鈴木亜美でもあくまで歌を素材として扱う相変わらずブレない中田ヤスタカサウンドであるとか、彼女のキャラクターを十二分に表現した奇怪なPVだとか、子供の頃の黒歴史のイメージビデオであるとか、色々と成功の要因は挙げられると思うのだが、この件に関して思うのは、紛れもなく「日本でおそらく初めてYouTubeから火がついたアーティスト」ということだ。海外だとOK GOとかYouTubeのPVからブレイクするケースはあったけど、YouTubeから無名の国産アーティストが世界的に一気にブレイクしたケースは彼女が初めてといっていいんじゃないだろうか。どういう経緯を経て海外にまでぽんぽんぽんぽん浸食していったのかは定かではないが、有名どころではLimp BizkitのFredがツイートしたあたりで加速したんだろうか。
ここで改めて思うのは、もうレコード会社はいつまでもPVや音楽の違法アップロードを躍起になって消している場合じゃないよな、ということで、公式に YouTubeなりにPVをアップするのはマーケティングとしてもはや必然なんだということを、改めて終わりかけている音楽業界に伝えておきたい。というか、目先の音楽で儲けようと考えずに、とにかく世界規模で多くの人間の目に触れられるチャンスが確実にあるわけで、当たればその先でいくらでも儲ける手段はあるんだぜ、という考えに4~5年前からシフトしていかなければいけなかったんですよ。SMEのアーティストとかもうまったく聞かないんだけど、未だに何やってんの。
あと、関係ないところでもうひとつ思うのは、こういう「ブレイク」の感覚っていうんだろうか。今や小さい規模でなら、芸能事務所やらメジャーレーベルに属さなくとも良くも悪くも似たような感覚は味わえちゃう時代になりまして、そう考えると、これからの芸能界はそれこそ世界レベルで受ける人材が求められるわけで、「ただ目立ちたかっただけ」の中途半端な芸能人やアーティストにとってはこれからますますしんどい時代になるよなぁと思うわけです。
(追記)
一応、成功例が少ないだとか偶発的な事例だとか反応があるので書いておくけど、デビューしたばかりのアーティストでいうと、¡MAYDAY!というアーティストはまだYouTubeができて間もない頃にYouTubeのPVがきっかけでブレイクしたと言えると思う。順序が違うけど、Justin BieberだってYouTubeからデビューして今や億単位の再生回数を誇っているわけで、世界的に見れば別に特別な事例でも何でもない。ただ、はっきりと「YouTubeでブレイクした」と言えるアーティストは少ないだけで、Perfumeなんかもそうだけど、確実にYouTubeがきっかけで海外のファンが増えたアーティストはいくらでもいるだろう。これは別に音楽に限った話じゃなく、今のところ全世界にコンテンツをプロモーションしかけようと思ったら、コストを考えれば、ツールはYouTubeとFacebookぐらいしか考えられないだろう、という話をしているのであって、「youtube以外のプロモーション活動無視かよ」とかいうツッコミはまったく論点が違うので、あしからず。
モノポリーで遊んだことはありますか。ビルやアパート経営を体験する4人くらいで遊ぶボードゲームです。
8つの大通りをすごろくの要領で進み、物件を買ったり、カードを引いてイベントをこなしていきます。
ボードを一周するとベーシックインカム的にお金がもらえます。説明書にはサラリーと書かれていたと思います。
このゲームが始まったばかりのときは、地主さんがいません。プレーヤーの誰かが土地を購入すると地主さんとして収益を上げられるようになります。
誰かが駐車場にとまったり、アパートやホテルをにとまってくれるのを待ちます。
同じ通りの土地を買い占めることができると収益が倍になります。
運良く、土地をまとめて所有するプレーヤーもいれば、点在する物件を所有するプレーヤーも出てきます。地上げ屋風情の交渉力で土地をまとめ始めるプレーヤーは最強です。
すべてのプレーヤーにある程度の収入があり、それなりにお金が動いているときが一番盛り上がります。
たくさんの物件を所有したときに出ると困るカードがあります。建物の修繕カードです。マンションの大規模修繕のように費用が一気に飛んでいきます。手持ちの物件が多いほど痛手になります。
終盤は、残った二人の一騎打ち。それぞれのプレーヤーの性格が露骨に出てきます。
ルールにもよりますが、資金がショートしたプレーヤーから抜けていくと、最後に残ったプレーヤーがすべての通りの物件を独占して勝者となりゲームは終わります。
ゲームなので、もう一回遊ぶときは、これまでの状況をリセットして、最初から始めれば、何の問題もありません。
このサイクルを現実に当てはめたとき、資本主義の問題点があきらかになってきます。
ゲームを始めたときから、地主がいたらどうでしょう。誰かが勝った状態からゲームを始めてみます。プレーヤーは細々と得たベーシックインカムを貯めることもできずに、どんどん絞られていきます。
独占した物件は、既得権ですから、放出されることはありません。盛り上がるゲーム中盤にならずに終わってしまいますね。ボードゲーム好きの友達といえども途中で帰ってしまうかもしれません。
現実の経済では、ゲームが終盤に差し掛からないように、ずっと中盤のプレイを続けられるように政府が法的な規制をかけてバランスを取っています。
バランスをうまく取れず終盤にさしかかると現実の世界では、終盤の状態を終わらせて序盤に戻そうとする力が生まれてきます。内乱や暴動です。江戸時代だと維新に向かう力です。
そこまでいかなくても、自然災害をきっかけにして、ほころびが顕在化するかもしれません。
このゲームは8人くらいまでは遊べたと思いますが、プレーヤーの数を一気に20人に増やしたらどうなるでしょう。
脱落者が10人以上出て、モノポリーの作者が想定しているプレーヤー数に落ち着くまでは、過酷なゲームになります。
20人を8人にするために先に面接をしたり、ゲームに参加するための条件をクリアしないとゲームをできないようにしたらどうでしょう。
よほど恵まれた人しかモノポリーのサイコロをふれなくなってしまいます。
ルール通りにプレイすれば、盤面を一周してもらえるベーシックインカムの量が多くなります。資金の供給が過多になって、バランスが崩れるかもしれません。
この状態のバランスを取るには、盤面の数を5つに増やして、プレーヤーを分散させたほうがいいでしょう。20人の中から一人の勝者を出すよりも、5人の勝者を出したほうがいいと思いませんか?
盤面を置く場所がなくなって、隣のおねえちゃんの部屋に侵略したら、反撃をくらうかもしれません。領土を増やすための戦争はそんなものです。
少ない国土で、競争の場を増やすには、山や川や海峡で国土を区切って、盤面を増やしたほうがいいともいえます。
現在の日本でいうと、高速通信網、高速交通網によって仕切りが取り払われてしまって、盤面が限りなくひとつに統一されつつあります。
世界的な視点で見てもそうなってるのかもしれません。
勝ち残った有利な人が、「建物の修繕カード」を引いて負けそうになったときに、「今のはなしね」といって、ルールの変更をせまってきたらどうなるでしょうか。
「おごれるもの久しからずや」の「盛者必衰の理」にしたがって、序盤に戻すことができれば、循環型の繁栄が続くのではないでしょうか。
最近、転校してきた子をこのゲームに誘って、このゲームを覚えさせたとしましょう。しかし、詳細なルールや攻略法やうまいタイミングみたいなものはわかりません。しばらくの間は、この子が最下位街道まっしぐらで、残りのみんなは楽しいかもしれません。
きっと欧米諸国が植民地での覇権争いをしていたときは、笑いが止まらなかったでしょう。
ゲームを始める前に仲間1人と喫茶店で作戦会議をして、誰がどの通りの物件を取るのかを決めておき、苦渋の判断で売却したかのように演技して、ゲームを進めてみたらどうなるでしょう。
残りのプレーヤーが嫌な思いをすることなく、ゲームの中盤が続くのであれば、案外悪い選択肢ではないのかもしれません。
終盤にいたっても、談合が続くのであれば、他のプレーヤーに疑念が生まれくるかもしれません。
ゲームはゲームなので、資金がショートしてしまった人は、ゲームが終わるまで残った人たちのプレイを見ていればいいのですが、現実ではそうもいきません。
資本主義のルールにしたがって、舞台から退場した人にとってみれば、ルールがきちんと守られているかどうかは、重要です。のび太といえども、資本主義の洗礼を受けたあとでは、ジャイアンが負けそうになったときに盤面をひっくり返すのを見過ごすわけにはいきません。もう一度、ゲームの盤面に戻して、プレーヤーとして活躍できるようにして、偶発的な事象の発生を防がなくてはなりません。
こいつを止めてやりたいのだが俺にはその力がない。それが悔しい。ので晒す。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1654396677&owner_id=12839825&comment_count=20
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1463326&media_id=20
まず、この記事に関して、当事者でもないし当事者から話も聞いていないことを前提に話を進めます
話には4つあります
あとは「ゆとり」について
通報した人
この人が誰かに危害を加えようとしましたか?(記事では写真撮影をしていたと)
おおよそ
「若いもんは」という観念と、日頃のストレスの捌け口として通報したのでしょう
確かに模造刀所持は違法なのかもしれません(確か証明書等が必要だったと記憶、不確)
さらに、成人を祝うというその場において
「法」などという低レベルな封建的なツールが優先されるのでしょうか?
されるのであれば通報したあなた(が二十歳以上と推定する)の時もそうでしたか?
紋付き袴を着ますね。例えば
それであればたしなみとして、かっこよくなるため
目立つために
刀を付けたい
これはバイタリティー溢れる人間にとって至って健全な思考ではないでしょうか?
それで多大な迷惑(中の人、市長等を殴ったわけではない)をかけたわけでもない
きっと彼や彼の周りにとって良い思い出になったに違いありません
言いたいのは
自分らの時には馬鹿騒ぎしても周りが何も言わなかった、でも最近の若いもんはダメだ、と
その思考は余りにも子供じみていないかと小一時間とうてみたいわけです
さらに
馬鹿な国民を映して、馬鹿な国民に見せて、馬鹿な国民をさらに馬鹿にさせる気ですか?
そんなストレスの捌け口がない、もとを辿ればストレス社会にしちまったあんたらこそ罪だろう?
どうですか?恥ずかしい大人は嫌なところを突かれてイライラしていることでしょう
次に「ゆとり」について
我々平成生まれをまとめて「ゆとり」と呼ぶのを辞めていただけませんか?愚の骨頂にしか聞こえません
ゆとり教育とは本来
奴隷のように働かされ
何の満足感も幸福感も味わえず
いつも辛くて苦労した酷い顔して
なのにせっかくの土日も家族から見放され、趣味すらなく金の使い方も知らない
ような人ができないように
決して馬鹿を無理矢理作るものではありません
現に、私を含めてもいいでしょう
私の友人、知り合いには
「ゆとり」には成功例があることも、あなたたち大人は理解して下さい
さらに、「ゆとり」と揶揄するのは自分の作った鏡に映ってるものを「不細工だ」と言っているようなものです、反省して下さい。
いう切実な問題とともに、人生を見つめなおす必要がでてきた。
年も若くない。31になった今後どうやって生きてくんだ。
三連休、寂しさもあいまって鬱々とした気分でいる。
重ねて、心が明るくなるようなビジョンが出てこない。
熱い志しを語っていた。
すげぇよ。すげぇビジョンだ。でも、あんたにしか描けない。
何も積み重ねてこれてない、自分には当然、そんな
ビジョンなんて描けない。
ことができない。
でも、一般ピープルが「事を成す」ことなんてできるのか?
その人のサイズにあった「事を成す」でいいのかもしれないけど、
俺になんかできるのか?
・人を救うような革命は起こせない。
・人の生活を便利にするような革命を起こすことができない。
がんばれば、近所のおばあちゃん達の介護を頑張って
人の役にたつことができるかもしれないけど、
もう一つテンションがあがらない。
幸せな家庭を築いて、まぁ楽しく生きるのが積の山か。。
立派な人が語る、人生の熱さとは無縁の生活だ。。
むなしいぜ、俺の人生。
しょうもない映画を最後まで見てもしょうがない、
前半の20分でやめときゃよかったという糞映画。
・そんな中、いろいろ考えてた時に思いついたことが、
少々、ハイになってきた。
それは、日常の中で「ヒーハー」を求めて生きるということ。
「ヒーハー」とは、ブラックマヨネーズ小杉がテンションあがった
ドット出る。
自分の生活でも、心の中で「ヒーーーハーー」が適切な瞬間がいくつも
あの体験が「ヒーーーハーー」だ。
「ヒーハーー」が起こるには、2パターンある。
自分にとっては快な状況になり「ヒーーハーーー!」
いつ勃発するかわからない。
もう一つは、偶発的ではなく、
自分から発動できる「ヒーーハーーー!」だ。
それは、少し挑戦的な事柄をやり遂げたときに「ヒーハー!」が
発動する。
「自分ができなかったことができると、脳内でドーパミンが放出され、
強化学習が成立する。」ってやつ。
フロー理論でいうところの、自分が能動的な姿勢で、自分の能力を駆使して、
感じるというのにも繋がる。
日常のなかで、この「ヒーハー」を求めて行動するようにする。
「ヒーハー中心の生活」を目指す。
「ヒーハー」が多い人生はきっと実り豊かな人生なんでないかな。
結果としておもろいものになっているのでは?
さて、僕は女の人のコミュニケーションが苦手でコンプレックスでも
あるのだけど、「ヒーハー」の視点から見れば、そこには
埋蔵されまくっていることになる。
TO BE HeaaaaaaHA!!!!!!!!