はてなキーワード: 陣営とは
「年相応のロールモデルがある」ならば「若者ぶる」という概念の定義が可能で、ひろゆきは自明に「年相応のロールモデルに従っていない」ため「若者ぶって」いる。
上記の定義に従って「若者ぶっていない」という主張を「年相応のロールモデルに従っている」と解釈するのであれば、それは定義から自明に偽。
それは意味のない主張であるから、実際に「若者ぶっていない」と主張をする陣営の言っていることは「年相応のロールモデルに従っていない」とは異なる「若者ぶる」の定義が存在するという主張だと考えるのが自然。
それに対して「年相応のロールモデルがないからだろ」と反論するのは、「若者ぶる」の定義は「年相応のロールモデルに従っていない」である、と主張しているに過ぎず、異なる定義の存在についての反論になっておらず、「若者ぶる」を「年相応のロールモデルに従っていない」と定義したから「若者ぶる」は「年相応のロールモデルに従っていない」という意味である、と言っているだけであり、これはトートロジー。
日替わりでCPUトレーナーが「スピード”E"以上の殿堂入りウマが欲しい」「中距離”B”以上で重賞で勝ったことがあるウマ娘がほしい」といった条件を出してくる。
その指定したウマ娘を「移籍(要するに売却である)」すると通常よりもずっと多くの報酬が得られるというものだ。
モチーフとしては現実の「競り」なのだが、「競り」の場合はこれから伸びるウマを売りに出すのに対して、こちらはある意味で「使用済み」のウマを売りに出す形になる。
見方によっては「因子」を売っていると見ることも出来るのだが……相手の出す条件に「因子」が含まれていないこともありこちらはまさに使い道のない殿堂入りウマを売りに出すことになる。
その上、そのウマは他プレイヤーに渡るでもなく単純に「データ消滅」するだけである。
これから結果を出してくれることを期待する「競り」や「種付」と比べるとあまりにも未来がなく、ドナドナと表現するほかない
ちなみにこのイベントは殿堂入りウマを移籍させまくったばかりのプレイヤーでなければ既存の殿堂入りから要らないのを投げていくだけで完走できる。
ゲーム開始時にやっていたスタートダッシュミッションの無期限版と考えればいい。
40個のミッションを全て達成すれば☆3チケットが貰えるのでかなり美味しい。
内容は普通に育成しても手に入るものや金特取得だけで終わるものもあるが、プレイヤーの壁となるのは各種のGIレース勝利二つ名の収集(トリプルティアラ等)である。
・サポカ5枚トレ
が全て廃止されている点だ。
単なる改善ではあるのだが、綺麗サッパリ消えているのは流石に面白すぎる。
あれらの要素に対してどれほど多くの苦情が来たかが物語られている。
今回のイベントは二つ名がN枚抜き出来ないのが厄介ではあるものの、チャンピオンミーティングでグレードクラスに出ているプレイヤーであれば10周~20周で終わらせることが可能な難易度だ。
運ゲーが絡まないこともあり淡々とプレイしていればアッサリ達成できる条件ながら期間無制限である。
確かに「始めたばかりのプレイヤーのため」という見方もあるのだが、実際のところは「プレイヤーがスタミナを全く使い切らなくなってきた」という事実を運営がデータとして把握していると捉えるべきだろう。
開始時は寝不足のトレーナーが続出したウマ娘も、もはや土日しか育成しないトレーナーが増えてきており、土日にもスタミナを使い切ってないトレーナーも多くいるのが現状と思われる。
そうでないのならば、今まで通りに2週間程度の期間を設けて早くプレイしろと煽ってくるはずだ。
だが今それをやるとプレッシャーによってかえってプレイヤーが離れると運営が理解していることがこの無期限イベントからは伺える。
今までと比べると圧倒的にカロリーが低い。
殿様商売を続け、ウマネストを繰り出してきたウマ娘陣営にも、ようやく反省の色が出てきたのだろうか?
面白すぎるぞ~~
先天的な性差の話はしらないが、現在形成されている文化にそういう傾向があるのは実感できる。
欠点が指摘されることも多々ある。
だが、モラル欠如の注意喚起がされた時にも、非常にまじめに受け取られ、拡散や啓蒙などが行われやすい。(気に食わない対立陣営から発された時はその限りではないが)
「はぁ?何か口うるせえこと言ってるアホがいるな(ハナホジー」みたいな流され方がされづらい。
そのぶん、モラルの皮をかぶった謎ルールへの抵抗力が低かったり、モラル破りに対する義憤が魔女狩りめいたいじめ・リンチに発展しやすいという危険もある。
長所短所両方あるが、女オタクは男オタクに比べて、ルールやモラルというものが大切であり、自分は極力ルールを守りたいし他人も守った方がいいという意識が強い文化である。
この特徴はどこから来るのか。
女オタクのモラル重視は、女性の自己嫌悪と、暴力への恐怖が背景にある。
自己嫌悪は「私は悪い存在なのだ。だからせめて良いことをし、良いことを広め、罪滅ぼしをすることで生きている価値がある存在に近づきたい」という心理に繋がる。
暴力への恐怖は「私は肉体的暴力に負ける。身を守るためには、法、モラル、ルールを広めて秩序が保たれた状態にしておく必要がある。そして私自身も、ルールの庇護を受ける権利を保てるような正しい生き方をする必要がある」という心理に繋がる。
女オタクは精神的にも肉体的にも不安にさらされているので、精神面はモラルという徳を積むことで、肉体面はルールを守りその庇護を受ける権利を持つことで、安心を得ようとしているわけだ。
罪悪感を抱えた人間は毒親になりその娘も自己嫌悪がある毒親になる再生産構造と、男女の身体能力の違いを解決しなければ、男オタクと女オタクのモラル意識のギャップは解消されないだろう。
「女性の自由よりも、女性の安全や保護を重視する運動はフェミニズムではない。むしろパターナリズムだ」という批判がされることがある。
そうかもしれないが、それを自力で安全を確保できる強い人間が言ってもなかなか届かないだろう。
精神的安全をモラル順守で得て、肉体的安全をルール順守で得なければならない人間には、説教ではなくまず十分な安全を確保しないと話が進まないだろう。
水鉄砲による抗議はなぜ失敗したのか。
まずここでいう失敗とは五輪開催について政治家が躊躇せざるを得ないうねりを作れなかったことと定義している。
その意味で水鉄砲による抗議は一般人に対する攻撃として捉えられ、聖火ランナーに対する同情を誘い、むしろ五輪開催に向けた警備強化を正当化する理由を作ったように思う。
(水鉄砲を放った人物は人に対する攻撃と捉えられるとは想定していなかったかもしれないが。)
今回の水鉄砲の直接的な被害者は一般人であった。であればより有名な選手や大会関係者であれば良かったのか。
いや、その場合はより問題になっていただろう。自陣に負い目のある状態で主張を続けることは難しい。被害者のいる陣営の主張は同情を誘うことになる。
暴力的な行動に出た時点でその陣営の主張の支持は減るだろう。特に人命を理由に開催の中止を主張するならなおさらだ。
今や五輪開催については国民の過半数以上が中止か延期を望んでいる。実際に、インターネットによる署名活動や医療従事者によるプラカード行進、抗議デモなど、これまでにも五輪開催については数多の抗議活動が行われてきた。
しかしながら現状政府や委員会などが強引に開催に向けて進めており、五輪は中止されることなくほぼ間違いなく開催されるだろうと予想している。
このことはいずれの抗議活動も政府や委員会の意思決定の決定打にはなり得なかったことを示している。
では今の政治体系や社会構造の中でどういった抗議方法であればより効果的であっただろうか。
五輪を中止させる最も効果的な方法は、五輪に対する人々のリスペクトをゼロにすることである。
五輪が五輪たりうる理由は、人々がその大会に勝利した人を尊敬するからである。地元の小学校のかけっこ競争で勝利したからといっても履歴書に載せるのは憚られるだろう。
五輪に参加した。五輪で優勝した。五輪のスポンサーをした。このことに価値があるからこそ開催に意味がある。
五輪は人々が価値を感じることによって価値が生まれているという点で貨幣と似ている。
例えば日本国内で流通する通貨である日本銀行券はお札という紙でできた券である。それ自体には何の価値もない。ただし人がこれを価値あるものだと信じるから価値がある。
このように人々の間で持たれる共通の信頼によって流通する貨幣のことを信用貨幣というが、その価値を支えるのは発行者に対する信頼、価値の安定、そして強制通用力の三つの条件であり、そのいずれかが崩れた場合は価値を失う。
それぞれについて簡単に説明すると、発行者に対する信頼とは、偽物が存在しないと信じられること。
価値の安定については価値が昨日今日で変動せず、おおまかには一定であること。
そして強制通用力は「これには価値がある」と主張できる強力な後ろ盾があることである。
例えば犯罪者が偽札を大量に流通し始めれば貨幣に対する信頼は落ちるだろう。
一日おきに同じ金額で購入可能なものが変わるような貨幣についても人々は受け取りたくないだろう。
また日本においてはその価値が人々の間で共通のものとなるよう日本銀行券を決済の最終手段として認めるという法律が存在し、国家権力によって貨幣に対する信頼を補強している。
さて、貨幣と同じような価値構造を持つ五輪ではそれぞれに対して何が対応するだろうか。
発行者に対する信頼については、類似する大会がないことや参加する選手や関係者の不祥事がないことが対応する。
価値の安定については、ある年の金メダルは全大会の金メダルより価値が少ないと人々が思わないような施策を打つこと。
強制通用力についてはメディアによる宣伝などで「この大会には価値がある」と人々に共通認識を与えることが対応するだろう。
貨幣と同じような構造を持つのであれば、これらのいずれかが崩れた場合に五輪は価値を失う。いわゆるブランド力を失うということになる。
そうなった場合、選手は大会に価値を感じなくなり参加しなくなる。また人々が注目しないのであればスポンサーをする意味もなくなり開催に必要な資金を集めることもできなくなる。
ではそれぞれの条件がどのような状態で崩れるかを考えてみよう。
発行者(運営や選手)に対する信頼を揺るがせることについては五輪関係者や政治家の汚職、選手の身勝手な行動などを喧伝するだけで人々の反感を誘うことができるため、容易に取れる手段かもしれない。
ただしこの方法だけでは中止には至らない。なぜなら人ひとりふたり程度の汚職や犯罪程度では開催が揺るがないほど五輪は大規模であるからだ。
また、五輪の運営側や選手の不祥事が発生したとしても、その問題はあくまで個人の問題であって五輪に参加した人物は変わらずリスペクトするという人が多い場合については、いくら喧伝しても五輪の価値は下がらない。
このためこの方法では五輪に対する信頼はすべての試合が八百長だったと発覚するなどよほどの事件が発生しない限り減りにくく、また減ったとしても中止に至るほどのダメージではない。
一方で五輪の不祥事の多さや意思決定の不明瞭さについては現状多くの人が疑問に思っているところだろうから、そのあたりのクリーンさをアピールした代替の大会が開催されるとなれば五輪のブランド力はそれなりに失われるのではないだろうか。
価値の安定については、東京五輪についてはかなり自爆しているように思える。
4年に一度開催され、多くの競技が行われる世界で最も伝統的な大会というのが五輪の特徴だとすると、開催側としてはその特徴を傷つけることは避けるべきである。
新型コロナウイルスの流行によって2020年の開催が延期されたことによって4年に一度の開催という特徴は陰りを見せてしまったが、こちらについては天災によるものとして納得できる人が多いのではないか。
しかしながらその後の対応として政府や委員会は世論的な反対とは逆に開催に向けて強行してしまった。五輪の理念であるオリンピニズムをかなぐり捨てたその動きに嫌悪感を抱く人が増えたと予想している。
新型コロナウイルスが蔓延して人々が苦しみ、五輪の開催に疑問を抱く人が多くいる中、無邪気に「五輪開催に参加です!」と表立って言える人はなかなかいないだろう。
その意味で五輪は五輪自身のためにも開催に向けて動くべきではなかったと言える。
五輪は名前の通り歴史的な権威などを使って武装し、基本的にテレビや新聞などメディアによる宣伝によってその価値を喧伝してきた。
多くのメディアが五輪の話題にあげ、参加し優勝などをした選手を称えることで人々は五輪に対する価値を認めてきた。
メディアは五輪の大きなスポンサーとなっていることが多く、五輪が話題になればなるほど収益が上がる構造となっている。
想像するに、一度五輪が開催されれば反対していた人々でさえテレビや動画配信を通して五輪を観るだろうから、メディアが世論を五輪中止へ誘うことは考えにくいだろう。
ほかの毀損手段としては、有名なスポーツ選手などが五輪に対する不快感などを表明し、不参加や不支持をすることが挙げられる。
しかしながらスポーツ選手が声を上げることは現在のスポーツ業界では難しいだろうから現実的ではない。
以上のように五輪の特性上、強制通用力については崩すことが難しいだろう。
ここまでを踏まえてまとめると、貨幣との類似性をもとに五輪の中止を扇動を考えるのであれば、
1.五輪関係者の不祥事を喧伝しつつ、クリーンさをアピールした別の大会を開催すること
2.五輪関係者に五輪開催の強硬によるブランド力低下のリスクを理解させること
しかしながら1については五輪に代わる大会が増えるだけであり、今回の五輪を中止したいそもそもの理由に対する解決にはならない。
2については希望は残るが、運営が理性的だったとすると、スポンサーや政策、契約上の問題などによってそのリスクを承知の上で強硬したほうがましな結果と試算した可能性があり、また運営が理性的でないならそもそもリスクについて理解はできないだろう。
ここまで長々と話してきたうえで、私が考える最も効果的かつ全く推奨しない方法について述べる。
とても簡単に言えば、人々が五輪の価値を徹底して否定することが最も効果的だと考えられる。
貨幣と同様、五輪は五輪に価値があるという信頼、あるいは権威性によって成り立っている。ここまで述べてきた3つの条件はあくまでも人々の信頼を補完するものでしかない。
このため、人々が「五輪の価値を認めない」と宣言してしまった場合、五輪の価値はその瞬間消し飛ぶ。
具体的には、五輪に出場する選手、スポンサーとして参加している企業、五輪に関わる政治家などをリストにしたものをWebサイトなどで公開し、開催に賛成の個人や法人としてレッテル貼りをしたうえでSEO対策をし、SNS上などで拡散するといったものだ。
ここで重要なのは、個人や法人に対する直接的な攻撃は行わないことだ。個人や法人に対する直接的な攻撃をしてしまうと、五輪反対派は過激だというレッテルを貼られ、人々は逆に賛成派に対して同情的になるからだ。
あくまでこれらの人たちが「五輪に賛成している」という事実を述べ、関係者に対するワクチンの優先接種など、制度や構造に対する批判のみを宣伝する。これであれば直接的な攻撃とは受け止められにくい。
そういったリストが公開された場合にどういったことが発生するかは想像に難くなく、私であればそのようなリストに名前を連ねたいとは思わない。
これらの行動は中傷の扇動にあたるだろうし、人としての倫理観が怪しいところなので私自身は全くしようとは思わないし、ほかのだれかがやっていても軽蔑するだろう。
しかしながら、五輪開催の条件すらあいまいなまま強行していく開催者側と交渉するには、水鉄砲よりは効果的なのではないかと思う。
左
RRD
grdgs
kyo_ju
右
zmk99
aa_R_waiwai
augsUK
こいつらのブコメを読む、認めるなんてあり得ない!!!!!!!!
って言ってる人
これらのIDって、結構な頻度でブクマで上位コメントを占めてる常連なんだよ?
そして獲得スターもたくさんある
それってあなた自身に多様性がないことの証明になっていないか、
少し冷静になって振り返ってみてはどうかな?
上記に挙げたIDだけでなく、それを支持したり賛同したりする人は、少なくないんだよ?
少なくとも上記のIDの人たちのコメントを【【【【【両方とも】】】】】ちゃんと認めることができる、
それが最低限の条件じゃないかな
モチベーター、カットマンとしてはともかく、トレーナー、セコンドとしては世界レベルにまったくついて行けてない。
セコンドとしては
鷹村VSホーク戦では自陣営の鷹村の作戦に気付かず(ホークもホークのセコンドも気付いてた)、
一歩VSゲドー戦ではゲドーのマジックにも気付かなかった。
トレーナーとしても相手を研究して対策を立てるという部分に関しては進歩が全くなく、
毎回試合が始まってからビックリする、オープン戦の各球団007みたいなポジションになってしまっている。
あの年齢で一歩や鷹村のミットを持ち続けられるのはすごいけども。
バチバチでは最初の師匠ポジションである空流親方が作品途中で死去、
何か論争があるとネトウヨの文法に絡み取られて正常な議論が進まず、イデオロギーの問題にすり替えられてしまう。
「左のネトウヨ」という言葉もあるように、「ウヨ」であるか「サヨ」であるかはもはや関係ない。
そもそもネトウヨとは何なのかという話になるけど、これの定義は難しい。
古谷経衡は「中韓と朝日新聞が嫌いな人」と定義したことがあったが、これはもう当てはまらない。
彼らの嫌いなものは日進月歩で増え続けており、もはや何が嫌いかで語ることは不可能だ。
宗教で考えるとユダヤ人のようなものかもしれない。ユダヤ人の定義は一応あるが実態はあいまいで、「何となくユダヤっぽい」文化集団の一員であることをもって他者からユダヤ人と認識される。
ネトウヨ自身何か定義してるわけでも、入信の儀式をするわけでもないが、「なんとなくネトウヨっぽい」思想集団のことをネトウヨと他者は呼称する。
丸山眞男が右翼的な傾向を下記の10項目でまとめていて、これがよくできているように思うので、これを狭義のネトウヨの定義としてもいいのかもしれない。
(1)他のあらゆる忠誠に対する国家的忠誠の優先
(5)国民的伝統・文化を外部からの邪悪な影響から守れというアピール
(7)社会的結合の基本的紐帯(ちゅうたい)としての家族と郷土の重視
(10)知識人あるいは自由職業人に対して、彼らが破壊的な思想傾向の普及者になりやすいという理由から、警戒と猜疑の念をいだく傾向。
単にネトウヨを「政治関連で特定の思想をもって話す人物」に固定すると話はこれで終わるのだが、
興味深いのはネトウヨのように発生した別のムーブメントが複数見られる点だ。
覚えている人は少ないかもしれないが、かつて野球で「イボゴキ論争」という物があった。
野球選手の松井秀喜選手とイチロー選手のどちらが優れているかという論争で、この論争での書き込みがネトウヨそのまんまだったのである。
もう一つはゲハ戦争がある。
これも任天堂とソニーのどちらが優れたゲームハードを擁するかという論争で現在も続いているが、これまたネトウヨそのもののやり取りが続いている。
似たような論争は他のジャンルにもあるだろう。
今後も似たような論争は生まれてくるはずだ。
ネトウヨというのは単なるネット上での政治的論争に収まるものではなく、より広範な、ネット社会でのフォーマットになっている。
日本人はネットを使い始めると同時にこのネトウヨフォーマットに汚染されるので、「これはおかしいことだ」と思わなくなっている。
しかしその害毒は明確に社会を毒し、家族を侵し、個人を害している。
ネトウヨフォーマットはある種の依存症を生み出し、そのフォーマットの中でしかものを考えなくなる。
例えば、ある意見を見て「これは右か左か」「敵か味方か」「どの陣営の発言か」を先に気にするようになる。それに沿った思考しかできなくなるという恐ろしい病である。
AI時代に必要とされる人間の判断力を根こそぎ奪う、恐ろしい公害だ。そしてこれは人の死に直結することでもある。
とりあえず、普遍的な公害としての名前を新たに作ってほしいところではある。
ネトウヨという名前に矮小化されてしまうことで、この公害の恐ろしさが過小評価されてしまっている。
中華版アークナイツで靖国神社に参拝した日本人声優のボイスが削除されたからだ。
靖国や台湾の話題に触れて中国で日本のアニメが発禁になったり声優が叩かれることは最近よく聞くことだと言える。
アークナイツの世界ではとある不治の病の感染者(被差別民)とそれを差別する非感染者の大衆が争っている。
プレーヤーである主人公が属する勢力は、暴力でもって差別に抵抗する感染者のグループにも、感染者を差別し排除する大衆(国家)のグループにも属していない。
その世界で生きる全ての人のために、両陣営の感情的な対立を諌める第三の勢力に属している。
物語の中で主人公グループは、相手を尊重する大切さや思想の異なる相手との対話や寛容になることの重要性を語る、所謂"綺麗事"を主張する集団だ。
彼らはその綺麗事をすんなりと受け入れられるとは考えていない。
だが、確固たる信念を持って差別する側と差別される側、両者の不寛容さを非難する主人公らの熱い思いを読むことができることがゲームの一つの売りだ。
しかしながら、今回の騒動でそのゲームを制作したゲーム会社の対応は一体どういうことだろうか?
靖国神社を参拝したことについて、その声優は中国人に対して謝罪をし、和解のアプローチをしている。
しかしその謝罪を受け入れず、飽くまで対立と憎悪を叫ぶ大陸のユーザーの声に対してゲーム会社が行った行動は、
ゲームで色々と理想を語っておいて、現実では対話の拒否と排除の肯定。
今後ゲームの中で主人公らがいくら理想を熱く語ろうと、もうシラケることしかできない。
中国共産党の思想に共感を覚えているのでもなければ中華ゲームはやらない方が良いかもしれない。
アーティストが感じるリスクじゃなくて、アーティストの作品に感動するリスクのことを言ってるんだよね。読解力ないのかな。
例えばあいトリのアーティストが作品で非暴力主義を謳ってたけど裏では暴力肯定していたら、作品に感動した思いを返してくれって言いたいじゃん?
本誌をリアタイで追っていた時から話に違和感を覚え始めた、サッポロビール工場編が本格始動する。
ビール工場編で一番特に何を成し遂げたわけでもやらかしてしまったわけでもないヴァシリが表紙。
2巻のレタラとアシリパツーショット表紙を思い出させる、幻想的な雰囲気を漂わせる良い表紙に思う。
肝心の中身については、当時覚えた違和感と加筆修正部分と最新話までの物語との整合性について感じたことを書く。
ころころ視点が変わるビール工場編にのっとり、自分の感想もしょっちゅう行ったり来たりする。
最新話まで読んでから改めて読むと、ビールの洪水とかのギャグがとても懐かしくあの頃には戻れないのか…と思った。
菊田とアシリパの問答が、菊田が死んだ今読んでまた違った気持ちになった。
アシリパの使命感の強さと、身近な人の死を極力減らしてやりたい菊田の違いがよくわかる。
ここの問答の完全上位互換が、教会での鶴見アシリパソフィアだと思うとやはり菊田は価値観が普通の人すぎる。
武器もなく縛られアチャを悪し様に言われまくり金塊はアイヌの持つものじゃないとルーツを持ち出して屁理屈を言われても折れなかったアシリパの心を、ソフィアの殺害未遂でようやく少し折ることができたと思うと…
土方勢に追い詰められて「どうしヨう」と焦るジャックザリッパーは、以前から本誌と単行本で全くキャラが異なる。
もうあまり覚えていないけれど、ヤンジャン連載のジャックはアシリパと対面するまでは、娼婦に対するコンバンハと鼻歌くらいしか喋っていなくて何を考えてるのかわからず不気味だったのが、
単行本では、子どものような片言日本語の独り言をしょっちゅう言い冷や汗も垂らしまくる。
なんでジャックはここまで本誌と単行本でキャラが違うんだろう。
この巻の宇佐美の屈強さは非常にいいと思う。パオパオ対決は引いたので、こういう暴力のやりあいを待っていた。
急に気づいたけど、だいぶ前の話で杉元と牛山がときめいた「植物を根っこからとろうと失敗したけど成功したら恋人が迎えに来てくれた(うろ覚え)」アイヌの言い伝えの男女のシルエットって、ウイルクとリラッテだったんだね。
ジャックの顎をヒットさせたアシリパのコマは、単行本で読むとなんか味気なかった。
本誌の時はもっと勢いがあり面白かったような気がしたんだけどな。あおり文が無いから勢い不足に感じたのかもしれない。
毒矢で殺そうとする自分に恐怖するアシリパを庇うように登場した杉元。
26巻の加筆でおそらく最初の加筆盛シーン。
「誰から生まれたかよりも 何のために生きるかだろうが」本誌の時から杉元ってこういうことを言うキャラだっけ?と思ったけど、ここからの加筆には驚いた。
杉元のバーサーカーシーンは今までたくさんあった(偽アイヌ村やら樺太逃走やら)けど
即死させる殺し方ではなく嬲り殺しにしてるシーンはなかったんじゃないだろうか。
これ見て冷や汗ひとつかかないアシリパも10代半ばにして強い。
尾形は流氷でアシリパに右目を射られたからこそ生き残ったんだなと思った。
尾形があそこでアシリパに右目射られずにいたら、多分杉元からジャックに対する攻撃と同じくらいのものを喰らって殺されてたよな。
尾形の悪運の強さを感じる。
ジャックは殺人鬼なので殺すなとは全く思わないけど、ここまで嬲り殺しにする必要はあったのだろうか。
単行本作業してるころの連載が動きが無い絵ばかりだったから、作者がここで発散したのだろうかというくらいの熱量だった。
外国人キャラなのに鼻歌以外ずっと日本語だし、作者がジャックザリッパーというキャラに興味が無いのが丸出しでもったいなかった。
作者がロシア語とアイヌ語には興味があるけど、イギリス英語には興味がないのか。
せっかく現実世界のキャラモチーフなんだからただのサンドバッグ扱いでなく、面白くすればよかったのに非常に肩透かしだった。
宇佐美VS尾形のシーンも順序だてて丁寧な描写に加筆修正されていた。
うろ覚えだけど本誌の、衝動的に殴りまくりその勢いで「商売女の子どもの分際で誰が一番安いコマだ!?」から一転「それだけは言いたかった」ウンのテンポが、小気味よくて好きだった。
「取れよ」のコマの宇佐美のチャック前が相手謎の白いものがチロリしてるけど、ここの宇佐美タってるのか…
前日はパオパオで次の日門倉の尻スパンキングで尾形の顔面殴打と、宇佐美の性的守備範囲広すぎる。
宇佐美VS尾形といい、馬で逃げる宇佐美を狙撃する尾形のシームレスなコマといい死に際の鶴見との対話といい、
255話と256話の宇佐美の出来事が、映画のように丁寧に仕立てられていると感じた。
宇佐美の鶴見に対する想いが読者が思っていたより複雑だったことが前の単行本で判明してたので、どうなることかと思っていたけれど
宇佐美はこじらせているので、ここでも「またみんなの前だからって嘘ついちゃって」と思いながら死んだかもしれないが。
言うても鶴見と他の部下たちや右腕自負の月島との関係は、軍隊に入ってからの上司と部下でしかないので、
前からの知り合いかつ自分に対して異常な執着を抱いているのに、死に際になっても敬語を崩さず任務の成果を報告しようとする20歳下の子どもを見て、贔屓してしまうのは情けだと思う。
にしても綺麗なシーンになった時だけまつ毛バシバシになる鶴見と宇佐美が、まさに劇場の舞台俳優たちが『お涙頂戴』な安いシーンを演じてるように見えるのは作者のわざとな魅せ方なのだろうか。
あと改めて読んでなんとなくキロランケの死のシーンと似ていると思った。
そんなに共通点もないんだけどコソコソ話に安堵して死んでいったシーンが被ってそう思った。
キロランケは死の間際に少数民族の暮らしや子どもや在りし日のウイルクとソフィアを回想し、宇佐美は鶴見と見つめあう、
上エ地もだいぶヤンジャンと単行本で性格が変わったので、どうなるんだろうかと思ったけど
上エ地の性格が変わっても周りの反応は何も変わらなかったので、上エ地はあの世界の人間にとっていてもいなくてもいい存在なんだなと思った。
犬の首子どもに見せつけ首絞めシーンの丸々差し替えと煙突での癇癪と、人となりがわかる加筆は嬉しいけれど前後の繋がりが両方とも急だと思う。
しかし、周りの反応は変わらなくても自分の気持ちを言語化できる程度には意思があるようになっていて少し安心した。
ヤンジャンでの死にざまが哀れ過ぎたのでどうやってもアレよりはマシになるだろうけどね。
煙突で言ってることもまあ間違っちゃないしな。正直とか美しいとかはよくわからないけど(今後のほかキャラへの布石なのか)
誰もがっかりした顔を見せてくれないから自分のがっかりした顔みて笑って死ぬという結末は変わらなかったけども、本人が満足ならヨシ。
でも上エ地頭破裂後のコマのナレーションは全く意味が分からない。日本語がおかしいと思う。
この物語で明らかにされた~仕掛けって作中のキャラじゃなくて読者のことを指してるのか?
上エ地のお披露目は杉元にも土方にも鶴見にも誰にとっても情報としては±0だよ、とついさっき話してるのにこのナレーションが差し込まれる意味が全く分からない。
これって結局鶴見と杉元&土方がほぼ同時に暗号解いたから五稜郭の攻防戦が速攻始まるよってことを言ってるだけなの?
にしても3話連続で名有りキャラが一人ずつ死んでるんだな。アニメ化したら下手したら1話で3人死にそうだ。
最新話で土方には「神」「光」「智」などカッコよさげな漢字が入ってるとわかった後で、門倉の刺青見ると漢字が平凡すぎて草。
房太郎はここで抜け駆けしようとしたから死んだんだと思うと悲しいな。
徐々に負傷していくのがゆっくり描かれ始めるのがきつい。
というか今の負傷具合で泣き言一つ言わない房太郎が屈強すぎる。
ジャックと上エ地はキャラメイク微妙だったけど房太郎はいいキャラだったのに残念だな。
会話の成り立たない奴に殺されそうになり、火事の煙を吸いまくり、縛って袋詰め状態で馬車に揺られて、精神的拷問を受け、房太郎と有古の死体(片方生きてる)を目の当たりにして、寝ずに暗号解読する…ってハードスケジュールすぎる。
読者としても非常にカロリーを消費する巻だった。
次巻は教会の鶴見回想・キロランケの手紙が丸々入って終わりかな。
おそらくギャグ的なシーンがほぼなくなる。大阪房太郎がそのままならそこだけか。
真面目な話ばかりになり、急激に話が進みつつ矛盾も多々あるので加筆修正が26巻並みかそれ以上になると思われる。
とても楽しみ。
27巻の表紙は久々に鶴見だろうか。