水鉄砲による抗議はなぜ失敗したのか。
まずここでいう失敗とは五輪開催について政治家が躊躇せざるを得ないうねりを作れなかったことと定義している。
その意味で水鉄砲による抗議は一般人に対する攻撃として捉えられ、聖火ランナーに対する同情を誘い、むしろ五輪開催に向けた警備強化を正当化する理由を作ったように思う。
(水鉄砲を放った人物は人に対する攻撃と捉えられるとは想定していなかったかもしれないが。)
今回の水鉄砲の直接的な被害者は一般人であった。であればより有名な選手や大会関係者であれば良かったのか。
いや、その場合はより問題になっていただろう。自陣に負い目のある状態で主張を続けることは難しい。被害者のいる陣営の主張は同情を誘うことになる。
暴力的な行動に出た時点でその陣営の主張の支持は減るだろう。特に人命を理由に開催の中止を主張するならなおさらだ。
今や五輪開催については国民の過半数以上が中止か延期を望んでいる。実際に、インターネットによる署名活動や医療従事者によるプラカード行進、抗議デモなど、これまでにも五輪開催については数多の抗議活動が行われてきた。
しかしながら現状政府や委員会などが強引に開催に向けて進めており、五輪は中止されることなくほぼ間違いなく開催されるだろうと予想している。
このことはいずれの抗議活動も政府や委員会の意思決定の決定打にはなり得なかったことを示している。
では今の政治体系や社会構造の中でどういった抗議方法であればより効果的であっただろうか。
五輪を中止させる最も効果的な方法は、五輪に対する人々のリスペクトをゼロにすることである。
五輪が五輪たりうる理由は、人々がその大会に勝利した人を尊敬するからである。地元の小学校のかけっこ競争で勝利したからといっても履歴書に載せるのは憚られるだろう。
五輪に参加した。五輪で優勝した。五輪のスポンサーをした。このことに価値があるからこそ開催に意味がある。
五輪は人々が価値を感じることによって価値が生まれているという点で貨幣と似ている。
例えば日本国内で流通する通貨である日本銀行券はお札という紙でできた券である。それ自体には何の価値もない。ただし人がこれを価値あるものだと信じるから価値がある。
このように人々の間で持たれる共通の信頼によって流通する貨幣のことを信用貨幣というが、その価値を支えるのは発行者に対する信頼、価値の安定、そして強制通用力の三つの条件であり、そのいずれかが崩れた場合は価値を失う。
それぞれについて簡単に説明すると、発行者に対する信頼とは、偽物が存在しないと信じられること。
価値の安定については価値が昨日今日で変動せず、おおまかには一定であること。
そして強制通用力は「これには価値がある」と主張できる強力な後ろ盾があることである。
例えば犯罪者が偽札を大量に流通し始めれば貨幣に対する信頼は落ちるだろう。
一日おきに同じ金額で購入可能なものが変わるような貨幣についても人々は受け取りたくないだろう。
また日本においてはその価値が人々の間で共通のものとなるよう日本銀行券を決済の最終手段として認めるという法律が存在し、国家権力によって貨幣に対する信頼を補強している。
さて、貨幣と同じような価値構造を持つ五輪ではそれぞれに対して何が対応するだろうか。
発行者に対する信頼については、類似する大会がないことや参加する選手や関係者の不祥事がないことが対応する。
価値の安定については、ある年の金メダルは全大会の金メダルより価値が少ないと人々が思わないような施策を打つこと。
強制通用力についてはメディアによる宣伝などで「この大会には価値がある」と人々に共通認識を与えることが対応するだろう。
貨幣と同じような構造を持つのであれば、これらのいずれかが崩れた場合に五輪は価値を失う。いわゆるブランド力を失うということになる。
そうなった場合、選手は大会に価値を感じなくなり参加しなくなる。また人々が注目しないのであればスポンサーをする意味もなくなり開催に必要な資金を集めることもできなくなる。
ではそれぞれの条件がどのような状態で崩れるかを考えてみよう。
発行者(運営や選手)に対する信頼を揺るがせることについては五輪関係者や政治家の汚職、選手の身勝手な行動などを喧伝するだけで人々の反感を誘うことができるため、容易に取れる手段かもしれない。
ただしこの方法だけでは中止には至らない。なぜなら人ひとりふたり程度の汚職や犯罪程度では開催が揺るがないほど五輪は大規模であるからだ。
また、五輪の運営側や選手の不祥事が発生したとしても、その問題はあくまで個人の問題であって五輪に参加した人物は変わらずリスペクトするという人が多い場合については、いくら喧伝しても五輪の価値は下がらない。
このためこの方法では五輪に対する信頼はすべての試合が八百長だったと発覚するなどよほどの事件が発生しない限り減りにくく、また減ったとしても中止に至るほどのダメージではない。
一方で五輪の不祥事の多さや意思決定の不明瞭さについては現状多くの人が疑問に思っているところだろうから、そのあたりのクリーンさをアピールした代替の大会が開催されるとなれば五輪のブランド力はそれなりに失われるのではないだろうか。
価値の安定については、東京五輪についてはかなり自爆しているように思える。
4年に一度開催され、多くの競技が行われる世界で最も伝統的な大会というのが五輪の特徴だとすると、開催側としてはその特徴を傷つけることは避けるべきである。
新型コロナウイルスの流行によって2020年の開催が延期されたことによって4年に一度の開催という特徴は陰りを見せてしまったが、こちらについては天災によるものとして納得できる人が多いのではないか。
しかしながらその後の対応として政府や委員会は世論的な反対とは逆に開催に向けて強行してしまった。五輪の理念であるオリンピニズムをかなぐり捨てたその動きに嫌悪感を抱く人が増えたと予想している。
新型コロナウイルスが蔓延して人々が苦しみ、五輪の開催に疑問を抱く人が多くいる中、無邪気に「五輪開催に参加です!」と表立って言える人はなかなかいないだろう。
その意味で五輪は五輪自身のためにも開催に向けて動くべきではなかったと言える。
五輪は名前の通り歴史的な権威などを使って武装し、基本的にテレビや新聞などメディアによる宣伝によってその価値を喧伝してきた。
多くのメディアが五輪の話題にあげ、参加し優勝などをした選手を称えることで人々は五輪に対する価値を認めてきた。
メディアは五輪の大きなスポンサーとなっていることが多く、五輪が話題になればなるほど収益が上がる構造となっている。
想像するに、一度五輪が開催されれば反対していた人々でさえテレビや動画配信を通して五輪を観るだろうから、メディアが世論を五輪中止へ誘うことは考えにくいだろう。
ほかの毀損手段としては、有名なスポーツ選手などが五輪に対する不快感などを表明し、不参加や不支持をすることが挙げられる。
しかしながらスポーツ選手が声を上げることは現在のスポーツ業界では難しいだろうから現実的ではない。
以上のように五輪の特性上、強制通用力については崩すことが難しいだろう。
ここまでを踏まえてまとめると、貨幣との類似性をもとに五輪の中止を扇動を考えるのであれば、
1.五輪関係者の不祥事を喧伝しつつ、クリーンさをアピールした別の大会を開催すること
2.五輪関係者に五輪開催の強硬によるブランド力低下のリスクを理解させること
しかしながら1については五輪に代わる大会が増えるだけであり、今回の五輪を中止したいそもそもの理由に対する解決にはならない。
2については希望は残るが、運営が理性的だったとすると、スポンサーや政策、契約上の問題などによってそのリスクを承知の上で強硬したほうがましな結果と試算した可能性があり、また運営が理性的でないならそもそもリスクについて理解はできないだろう。
ここまで長々と話してきたうえで、私が考える最も効果的かつ全く推奨しない方法について述べる。
とても簡単に言えば、人々が五輪の価値を徹底して否定することが最も効果的だと考えられる。
貨幣と同様、五輪は五輪に価値があるという信頼、あるいは権威性によって成り立っている。ここまで述べてきた3つの条件はあくまでも人々の信頼を補完するものでしかない。
このため、人々が「五輪の価値を認めない」と宣言してしまった場合、五輪の価値はその瞬間消し飛ぶ。
具体的には、五輪に出場する選手、スポンサーとして参加している企業、五輪に関わる政治家などをリストにしたものをWebサイトなどで公開し、開催に賛成の個人や法人としてレッテル貼りをしたうえでSEO対策をし、SNS上などで拡散するといったものだ。
ここで重要なのは、個人や法人に対する直接的な攻撃は行わないことだ。個人や法人に対する直接的な攻撃をしてしまうと、五輪反対派は過激だというレッテルを貼られ、人々は逆に賛成派に対して同情的になるからだ。
あくまでこれらの人たちが「五輪に賛成している」という事実を述べ、関係者に対するワクチンの優先接種など、制度や構造に対する批判のみを宣伝する。これであれば直接的な攻撃とは受け止められにくい。
そういったリストが公開された場合にどういったことが発生するかは想像に難くなく、私であればそのようなリストに名前を連ねたいとは思わない。
これらの行動は中傷の扇動にあたるだろうし、人としての倫理観が怪しいところなので私自身は全くしようとは思わないし、ほかのだれかがやっていても軽蔑するだろう。
しかしながら、五輪開催の条件すらあいまいなまま強行していく開催者側と交渉するには、水鉄砲よりは効果的なのではないかと思う。