はてなキーワード: 弊害とは
「あーあー俺の毎日の苦労にもちゃんと意味があったら良いんだけどな―」
でしかないんだよね根っこは。
その物語を信じる気持ちを増やすための手段として祈りとか募金とかのポーズがあるわけで。
「あーあー俺も超偉い人だったりその子分の凄腕だったら街のごろつきをボコボコにしてオギャオギャギギギギなのになー」
「あーあー俺の街にも善良かつ力量のある裁き人が来てクソどもを皆殺しにしないかな―」
の2つの共感しやすい物語が同時に走ってるから多くの人を惹きつけるんだよね。
ただ多くの物語を同時に走らせるのは弊害があって大衆映画なんかは
「あーあー俺にも心から愛する人が居てその人への愛の力なら世界を全部敵に回してもあらゆる困難を打ち破れたらな―」
を全面に押し出してしまった結果、元々宣伝文句として謳っていたはずの物語を蔑ろにしがちなんだよね。
そうなるとそっちの物語に共感するつもりしかなかったお客さんの何割かが置き去りになってあとから文句を言う。
そういう意味じゃ恋愛映画みたいなワンテーマ映画は優れているんだけど
「あーあー俺も愛する人と近いあった永遠の中で末永く幸せに暮らして最高の人生だったと思いながら永遠の眠りにつけたらなー」
を望んできた客に
「あーあー俺も愛する人との悲しい別れを通して自分の人間としての善良さを頬を伝う涙で実感できたらな―」
をぶつけてしまうと期待外れだったとボロクソに叩かれることがあるから宣伝の仕方は注意なんだよね。
このタイプの映画を求めている人はこういうハズレの引き方に敏感で、ネタバレを最初から見て合う合わないをチェックしてたりする。
だからもう宣伝の段階で全部ネタバレしてしまうのが正解なジャンルってのもあるわけ。
すると今度は
「あーあー意外な展開に踊らされるもそこから機転を利かせて大逆転することで困難をねじ伏せたいな―」
みたいな人からは受けないっていう弱点があるんだよね。
「あーあー愛犬と幸せに暮らしてから、最後は寿命の違いで悲しい別れをして、その後は新しい出会いに感謝したいな―」
というコンセプトが絶対的に一貫してる。
もしもこれに共感が出来ないなら最初から見なければ良いと皆知ってる。
だから「評価が☆4.5だから見ましたけど、犬が死ぬだけのお涙頂戴でした ☆1」みたいな事も起きにくく常に評価が高めになりやすい。
出先で食べたとんかつがあまりにも不味くて怒りを通り越して悔しくなりましたわ。
それも誰にも知られないような無名な店ではなく、都内の繁華街に何店舗も姉妹店を持つような店ですわ。
いつもなら絶対に失敗をしたくないのでしっかりと調べてから入るのやが、その日は急な用事をねじ込まれてその場所、その時間でしか食べることができませんでしたわ。
「絶対に失敗したくない」というのは別に「絶対に成功したい」わけではないので、できればそれほど並ばない店でそこそこ満足できればいいと思って探していますわ。
食通を気取るつもりもないしレビューサイトにポエムを書きたいわけではありませんわ。
味に不寛容なつもりもないので、今まではそうやってそれほど失敗知らずで来ましたわ。
その日はとある繁華街にいて、1つ目の用事が予定より早く終わりましたわ。
用事が長引けば昼食は諦めるつもりだったので下調べもろくにしていませんわ。
地図アプリでとんかつを検索すると、2~3番目くらいにそのラーメン店が出てきた。
そういえばそんな店があったなくらいに考えながら他の候補を見ると、軒並みオープンが11時半だった。
そのラーメン店ができた頃は行列が絶えなかったことは記憶していた。
いわゆる二郎インスパイア系で、更に挑発的な店名も相まって自分には合わないだろうという理由で今まで敬遠していたが、気がついたら都内に何箇所も姉妹店をオープンしていて、いつの間にか人気店の一つに仲間入りをしていた。
その程度の認知だった。
好みではないが実績があるのだから失敗はないだろう。
それに、こういうチャンスがきっかけで嫌いという思い込みが解決する場合もある。
そんなことを考えながら、結局は空腹と好奇心に負けて入ってみることにした。
まずは値段の高さに驚く。
店名を冠するラーメンは余裕で1000円を超え、ほとんど飾りのないメニューでも当たり前の顔をして900円を超えていた。
全面液晶のくせに商品のデテールが全くわからないというUIがクソな券売機で、かろうじて1000円を下回る味玉入りを買う。
オープンしたての店内は席に余裕があるが、入店からここまで店員から一言も声をかけられることはなく、仕方なくカウンターの一番奥の席に座る。
アルバイトに毛が生えたくらいの年齢の、見た目の色合いが賑やかな女性が二人だけで厨房に立っていた。
別に見た目で判断するつもりはないが、あまりにも若すぎることがとにかく不安だった。
その後、経験豊富そうな中年男性店員がもう一人いることがわかりほっと安心したのもつかの間、その男性が厨房に立つことはなく、むしろ黙々と調理する女性に対して愚痴とも取れるような私語だか業務連絡だかわからないような話を延々と話しかけていた。
座ってまず気がついたことは、テーブルも床も異様なまでにベトベトだということだった。
背脂を扱うような店ならば仕方ないと思えなくもないが、明らかに掃除が足りてないレベルでのベトつきに思わず手を伸ばしたダスターが全然絞られてなくて、テーブルの表面をいたずらに濡らすだけだった。
不安ゲージが瞬間に振り切れる。
着席後の余裕ができてきたので軽く店内を見回してみると、席から丸見えのバックヤードには無造作にダンボールが積み上げられ、厨房の中もとてもではないが掃除が行き届いているとは思えないほどに汚れていた。
山盛りのもやしが麺もスープも隠している。いわゆる二郎系の特徴だ。
透き通っているものもあれば、一部は白いままだ。
恐る恐る口に入れてみると、やはり生のもやし特有の臭みが一気に口に広がる。
思わず顔をしかめながら、少しでも火が通ってほしいともやしをスープに沈める。
そのついでスープを一口飲んでみると、強めのにんにくやスパイスにおそらく大量のバターでコクをつけたわかりやすくうまい味だった。
まだ出てきたばかりだというのに、冷ます必要もないくらいにスープがぬるい。
念のため下の方から混ぜて飲んでみたが、やはりぬるさは変わらなかった。
本来はもやしをある程度先に食べてその間に麺の硬さがちょうどよくなるように計算されているだろうから、このタイミングで麺を食べるのは躊躇したが、かと言って生臭いもやしをこのまま食べ続けたいとも思えない。
仕方なく下の方から麺をほじくり返してみる。
出てきたのは太めの縮れ麺で、自分の食生活にはほとんど馴染みがないが、これもインスパイア系の特徴なのだろう。
恐る恐る一口食べてみるが、これすらぱさつきを感じるくらいに粉っぽいままだった。
後で伸びるとは言え、これは流石に早すぎる。
生焼けのもやしに生茹での麺がぬるいスープに浸かっている状況を目の前に、どうしようもない絶望感に包まれる。
煮玉子とチャーシューは今日日特別な感じはなく、特別不満も無ければ感動もなかった。
生の玉ねぎの辛さに心が折れそうになりながら腹だけでも膨らまそうと、8割ほど食べた時点で断念。
袋詰にされているとはいえ、トレーに並べられた麺が店の勝手口付近で雨にさらされたまま積み上げられていた。
余裕がなかったとは言え、どうして入店前に気づけなかったのか。
数人の開店待ちに目を奪われて、判断を間違ったことの後悔が怒涛のようにこみ上げてきた。
入ってから知ったことだが、その日は何やらアニメだかゲームだかのタイアップイベントをやっているらしく、特別メニューを注文した人が次々と別席に案内されていった。
開店直後から中年の男性店員はその客を捌くことに専念している様子で、暇を見ては厨房の二人に愚痴を言いに来るといった感じだった。
そのファンたちに聞きたいのだが、こんなひどい店とのタイアップをファンという理由だけで認めて良いものなのか?
作品がタイアップすると決めたら、文句も何も言わずに従うのがファンの鑑という解釈で本当によいのか?
もし自分の大切にしている作品がこんな店とタイアップしたら、不買を貫いて運営に文句をいうか黙ってファンを辞めるだろう。
何が言いたいのかというと、いくらなんでも客も店もラーメンを馬鹿にしすぎているということだ。
別に自分はらーめん好きではないが、自分の好きなジャンルでこんなにもファンを馬鹿にしながら金を集めている奴らがいたら絶対に批判するし死んでも金は落とさない。
それを許容しているのだとしたら、ラーメン文化はクソだと言わざるをえないだろう。
野菜の火の通りにムラがあるのも、麺の湯で時間が足りないのも、スープの温度管理ができていないのも、要するに調理経験が浅すぎることが原因だ。
そしてこれは厨房に立つ二人の問題ではなく、そんな二人を厨房に立つことを許した経営判断に問題がある。
つまり、この味の裏には偶発的なものではない紛うことなき経営判断があるということだ。
でなければ、イベント当日にこんな調理技術の未熟な人間に厨房を任せたりしない。
外で切り盛りしていた経験豊富そうな中年男性は、聞こえてきた会話を聞く限り店長レベルに権限を持っている人間だった。
その人間が鍋を振れないとは思えないし、イベントという料理が露出するタイミングで厨房に入らないと判断したならいずれにしても無能だ。
「それでも別に金になればいい」
店名を出してボロクソに言わないのは、その店を批判したいからではなく、その店を取り囲むラーメン文化そのものに物を申したいからだ。
要するに、こんな店が未だに営業ができているのも、さらには繁華街にいくつもの姉妹店を開店できてしまうのも、こんなラーメンを提供されて文句を言わずに食べる客側に問題がある。
もしこのラーメンがそもそもそういうもので、皆がそれを好きでたまらないと言うならもうこれ以上何も言わない。
何も言わないけど、やっぱりラーメンは外食として底辺だと改めて認定せざるをえない。
どちらにころんでも、こんなクソみたいな味でこんなクソみたいなやり方をしている店にファンが付いて曲がりなりにも繁盛しているという時点で、クソだという以外に申し上げようがない。
今思い出しても豚のエサを超えてなかったし、ついでにいうとうま味調味料の弊害か、その後3日間くらい味覚がおかしかった。
海外の人もよく利用する土地だけに、これが日本の代表的な味だと思われるのは正直迷惑だ。
この増田(anond:20221114191846)、服用による改善の個人差が気になっていたのですごい参考になった。
ストラテラを服用しているみたいだけど、私はコンサータを服用しているので、そのレビューをしてみる。
同じくコンサータを服用している人、もしくは治療薬を服用するか悩んでいる人の参考になれば幸い。
あと自分語り。
30代後半男性。ITエンジニア。20代はディレクター、30代からITエンジニアに鞍替えし、今に至る。
20代中盤でうつ病になり、サインバルタを処方される。その後ADHDやらパーソナリティ障害も発覚し、コンサータ含め色々処方され、現在も治療中、服用している。
ADHDの症状に記憶障害がある。鳥頭ってやつ?私はずいぶん苦しんでいたけど、コンサータを服用してかなり改善された。
プログラムを触る人にとってこの症状は致命的で、考えたことをすぐに忘れるから論理が成り立たなくなって構築していたプログラムがすぐに崩壊する。
コンサータを服用してから、ある程度だけど論理的思考が可能になって、業務効率も上がった。
余談だけど、今でもオブジェクト指向に則った構築はできない。
上とちょっと被るんだけど、記憶障害は会話のキャッチボールにも影響が出る。
今までは相手の会話が頭に入ってこなくてそもそも議論というか会話自体ができなかったけど、相手の会話をインプット、整理できるようになって、ある程度だけど議論できるようになった。
ただ長考することもある。
服用するまでは、2つ以上タスクがあると優先度を無視してあっちらこっちら気移りしながら業務をしていた。
服用後、ある程度は集中して業務をこなせるようになった。
ただ本当にある程度で、2時間くらいしかもたない。(個人差あり?)
これが一番大きいと思う。
服用前はそんなに意識はしていなかったんだけど、服用して「普通」を知ったことで、自分は劣っているんだという認識が強固になって、劣等感が増してしまった。
割り切れればいいんだけどね。なかなか難しい。
先の増田にもあったとおり、趣味が義務になって楽しくなくなったからなのかな。よくわかんない。
現在、36mgを一日二錠服用しているけど、保険適用で一か月分で7千円くらいかかる。
診察費とかも含めると一回の通院で1万オーバーになる。他の薬代も含めると1万5千円くらい。これには参った。
なので自立支援の制度を利用させてもらっている。薬代で困っている人は区の制度を見てみてほしい。
なんであんなに高いんだろうね。
当たり前なんだけどコンサータはADHDの症状を改善させる薬なので、ADHD以外の症状には変化がなかった。
コンサータ服用前後での変化に驚いて、これなら他の症状も治るんじゃない?って期待してしまった自分が悪いんだけど。
ただ、私はパーソナリティ障害も抱えているから変化がなかったのかもしれない。
服用して集中力が向上→私もやればできるんじゃん→自己肯定に繋がるから、人によっては変化はあるかもしれない。
先の増田では勃起力が弱まったってあったけど、幸いにも私にはそういった症状は出ていないみたい。
年齢相応の勃起力ではあると思うし、デイリーで性欲の発散もできる。これも個人差なのかな。
色々弊害はあるけど、服用してよかったと思っている。というか私の生業で生きていくためには服用するしかなかった。
ADHDの症状は概ね改善されて、業務もなんとか普通の人たちに追いつけている、たぶん。
ただ、自分が劣っているという劣等感が強くなってしまって、治るはずのうつ病をずっと引きずっている。
一昨年?にコンサータを服用するには特別なカードが必要になったんだけど、そのカードを持たされると、改めて私は劣っているんだなと考えてしまったっていうのあると思う。
もしコンサータ、ストラテラのようなADHDの治療薬の服用に迷っていたら、先の増田にもあるとおり、まずは担当医に相談するのがいいと思う。
出先で食べたラーメンがあまりにも不味くて怒りを通り越して悔しくなった。
それも誰にも知られないような無名な店ではなく、都内の繁華街に何店舗も姉妹店を持つような店でだ。
いつもなら絶対に失敗をしたくないのでしっかりと調べてから入るのだが、その日は急な用事をねじ込まれてその場所、その時間でしか食べることができなかった。
「絶対に失敗したくない」というのは別に「絶対に成功したい」わけではないので、できればそれほど並ばない店でそこそこ満足できればいいと思って探している。
食通を気取るつもりもないしレビューサイトにポエムを書きたいわけでもない。
味に不寛容なつもりもないので、今まではそうやってそれほど失敗知らずで来た。
その日はとある繁華街にいて、1つ目の用事が予定より早く終わった。
用事が長引けば昼食は諦めるつもりだったので下調べもろくにしていない。
地図アプリでラーメンを検索すると、2~3番目くらいにそのラーメン店が出てきた。
そういえばそんな店があったなくらいに考えながら他の候補を見ると、軒並みオープンが11時半だった。
そのラーメン店ができた頃は行列が絶えなかったことは記憶していた。
いわゆる二郎インスパイア系で、更に挑発的な店名も相まって自分には合わないだろうという理由で今まで敬遠していたが、気がついたら都内に何箇所も姉妹店をオープンしていて、いつの間にか人気店の一つに仲間入りをしていた。
その程度の認知だった。
好みではないが実績があるのだから失敗はないだろう。
それに、こういうチャンスがきっかけで嫌いという思い込みが解決する場合もある。
そんなことを考えながら、結局は空腹と好奇心に負けて入ってみることにした。
まずは値段の高さに驚く。
店名を冠するラーメンは余裕で1000円を超え、ほとんど飾りのないメニューでも当たり前の顔をして900円を超えていた。
全面液晶のくせに商品のデテールが全くわからないというUIがクソな券売機で、かろうじて1000円を下回る味玉入りを買う。
オープンしたての店内は席に余裕があるが、入店からここまで店員から一言も声をかけられることはなく、仕方なくカウンターの一番奥の席に座る。
アルバイトに毛が生えたくらいの年齢の、見た目の色合いが賑やかな女性が二人だけで厨房に立っていた。
別に見た目で判断するつもりはないが、あまりにも若すぎることがとにかく不安だった。
その後、経験豊富そうな中年男性店員がもう一人いることがわかりほっと安心したのもつかの間、その男性が厨房に立つことはなく、むしろ黙々と調理する女性に対して愚痴とも取れるような私語だか業務連絡だかわからないような話を延々と話しかけていた。
座ってまず気がついたことは、テーブルも床も異様なまでにベトベトだということだった。
背脂を扱うような店ならば仕方ないと思えなくもないが、明らかに掃除が足りてないレベルでのベトつきに思わず手を伸ばしたダスターが全然絞られてなくて、テーブルの表面をいたずらに濡らすだけだった。
不安ゲージが瞬間に振り切れる。
着席後の余裕ができてきたので軽く店内を見回してみると、席から丸見えのバックヤードには無造作にダンボールが積み上げられ、厨房の中もとてもではないが掃除が行き届いているとは思えないほどに汚れていた。
山盛りのもやしが麺もスープも隠している。いわゆる二郎系の特徴だ。
透き通っているものもあれば、一部は白いままだ。
恐る恐る口に入れてみると、やはり生のもやし特有の臭みが一気に口に広がる。
思わず顔をしかめながら、少しでも火が通ってほしいともやしをスープに沈める。
そのついでスープを一口飲んでみると、強めのにんにくやスパイスにおそらく大量のバターでコクをつけたわかりやすくうまい味だった。
まだ出てきたばかりだというのに、冷ます必要もないくらいにスープがぬるい。
念のため下の方から混ぜて飲んでみたが、やはりぬるさは変わらなかった。
本来はもやしをある程度先に食べてその間に麺の硬さがちょうどよくなるように計算されているだろうから、このタイミングで麺を食べるのは躊躇したが、かと言って生臭いもやしをこのまま食べ続けたいとも思えない。
仕方なく下の方から麺をほじくり返してみる。
出てきたのは太めの縮れ麺で、自分の食生活にはほとんど馴染みがないが、これもインスパイア系の特徴なのだろう。
恐る恐る一口食べてみるが、これすらぱさつきを感じるくらいに粉っぽいままだった。
後で伸びるとは言え、これは流石に早すぎる。
生焼けのもやしに生茹での麺がぬるいスープに浸かっている状況を目の前に、どうしようもない絶望感に包まれる。
煮玉子とチャーシューは今日日特別な感じはなく、特別不満も無ければ感動もなかった。
生の玉ねぎの辛さに心が折れそうになりながら腹だけでも膨らまそうと、8割ほど食べた時点で断念。
袋詰にされているとはいえ、トレーに並べられた麺が店の勝手口付近で雨にさらされたまま積み上げられていた。
余裕がなかったとは言え、どうして入店前に気づけなかったのか。
数人の開店待ちに目を奪われて、判断を間違ったことの後悔が怒涛のようにこみ上げてきた。
入ってから知ったことだが、その日は何やらアニメだかゲームだかのタイアップイベントをやっているらしく、特別メニューを注文した人が次々と別席に案内されていった。
開店直後から中年の男性店員はその客を捌くことに専念している様子で、暇を見ては厨房の二人に愚痴を言いに来るといった感じだった。
そのファンたちに聞きたいのだが、こんなひどい店とのタイアップをファンという理由だけで認めて良いものなのか?
作品がタイアップすると決めたら、文句も何も言わずに従うのがファンの鑑という解釈で本当によいのか?
もし自分の大切にしている作品がこんな店とタイアップしたら、不買を貫いて運営に文句をいうか黙ってファンを辞めるだろう。
何が言いたいのかというと、いくらなんでも客も店もラーメンを馬鹿にしすぎているということだ。
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それを許容しているのだとしたら、ラーメン文化はクソだと言わざるをえないだろう。
野菜の火の通りにムラがあるのも、麺の湯で時間が足りないのも、スープの温度管理ができていないのも、要するに調理経験が浅すぎることが原因だ。
そしてこれは厨房に立つ二人の問題ではなく、そんな二人を厨房に立つことを許した経営判断に問題がある。
つまり、この味の裏には偶発的なものではない紛うことなき経営判断があるということだ。
でなければ、イベント当日にこんな調理技術の未熟な人間に厨房を任せたりしない。
外で切り盛りしていた経験豊富そうな中年男性は、聞こえてきた会話を聞く限り店長レベルに権限を持っている人間だった。
その人間が鍋を振れないとは思えないし、イベントという料理が露出するタイミングで厨房に入らないと判断したならいずれにしても無能だ。
「それでも別に金になればいい」
店名を出してボロクソに言わないのは、その店を批判したいからではなく、その店を取り囲むラーメン文化そのものに物を申したいからだ。
要するに、こんな店が未だに営業ができているのも、さらには繁華街にいくつもの姉妹店を開店できてしまうのも、こんなラーメンを提供されて文句を言わずに食べる客側に問題がある。
もしこのラーメンがそもそもそういうもので、皆がそれを好きでたまらないと言うならもうこれ以上何も言わない。
何も言わないけど、やっぱりラーメンは外食として底辺だと改めて認定せざるをえない。
どちらにころんでも、こんなクソみたいな味でこんなクソみたいなやり方をしている店にファンが付いて曲がりなりにも繁盛しているという時点で、クソだという以外に申し上げようがない。
今思い出しても豚のエサを超えてなかったし、ついでにいうとうま味調味料の弊害か、その後3日間くらい味覚がおかしかった。
一ヶ月が30日だったり31日だったり28日だったりゴミみたいなカレンダーを全人類が使ってるとか信じられない
28日13ヶ月にすれば364日になる
閏年は最後にΩ日を作ってオメガデイとして4年間に思いをはせればよい
28日にすることで毎月1日は日曜日になるし日付と曜日が紐付くのでカレンダーがいらなくなる
とかどの月でも通用する
円周率が「直径」に対する円周の比率になっているせいでいろんな弊害がある
「半径」に対する比率でいいのだ
つまり2πがπでいいのだ
かの有名なe^iπ = -1 も e^iπ = 1になってもっと美しくなる
まぁ、後は電流の向きかなぁ
https://anond.hatelabo.jp/20221105115632
ぼく勉と五等分、かぐや様とではクオリティに差があるのだから、パラレルストーリーが悪いのではなくぼく勉が悪いのだという説が散見される。
これはぼく勉の話がつまらなかったから盛り下がったのだという趣旨で一理あるように見える。
しかしあえてぼく勉ではなくパラレルストーリー自体が悪いのだと私は主張する。
まずメディアミックスであるがぼく勉より単行本売り上げが低かったゆらぎ荘の幽奈さんですらゲーム化している。
単に人気が低いというだけではゲームより遥かにコストが低いボイスドラマが打ち切られる理由にはならないだろう。
またそもそもジャンプで2年以上連載していた作家に対してお前がうまく出来なかったから悪い、もっとうまくやれたはずだと言うこと自体傲慢極まりないと一蹴しても良いだろう。
そもそもの話として、ぼく勉に話の良さは求められていたのだろうか。
ぼく勉は元々1話完結を繰り返す構成であり、長編と言われるものでも4話程度の連続した話しかない。その中ですら粗が目立った。
そして本編終盤の強引さを鑑みればその後のパラレルストーリーの出来についても推して知るべしであったが、そのような中でも多くのファンはパラレルストーリーを歓迎していた。
同じ作者が描くのだから、話のクオリティが急に上がるわけがないのは誰しもがわかっていたはずだ。
つまりぼく勉は話の良さなど期待されていなかった。強引でもいいから自分の好きなキャラの思いが成就することだけが望まれていたのであり、実際にそれは叶った。
読者の求めていたことを叶えて、それでも盛り下がってしまったのだからこれはぼく勉が悪いわけではないだろう。
まとめると
ぼく勉に話の良さを期待していたファンなどほとんどいなかったのだから、話の出来が悪かったから盛り下がったのだという主張は失当である。
となる。
ぼく勉はキャラの可愛さで人気を獲得し、長編の話作りが下手であることもわかった上でパラレルストーリーが歓迎されていたのだから、ファンが望んでいたのもキャラの可愛さだけのはずだ。話の出来の良し悪しは関係ない。
作者は今まで通りキャラの可愛さを引き出していたのだから、十分にうまくやったと言えるだろう。(理珠ルートはキャラが出なかったのでまあうん)
もっともこれはぼく勉は話を期待されていない漫画だから、話の出来が悪いのが悪いという批判は成り立たないということに過ぎず、話を期待されている漫画であれば話が良ければ受け入れられたのかという課題が残る。
そこでぼく勉が仮にストーリー面も期待されていたものと仮定して、以下にパラレルストーリー自体の問題点を上げていくことにする。
読者が自分の推しキャラが終わった時点で満足して読まなくなることは想像に難くなく、読者が減るのも当然である。
ぼく勉の場合、頭3つほど抜けた人気のあった真冬がヒロインであった最後のルートですら大した盛り上がりを見せず(事実単行本売り上げが他より上回っているわけでもない)、最終回でもトレンド入りすらしなかった。
トレンド入り自体はジャンプの打ち切りになるレベルの漫画(例:レッドフード)でもすることがあるものであり決して高いハードルではない。アニメ化していない作品ですら円満終了なら最終回のトレンド入りは定番となっているので、ジャンプ連載作品ではむしろしないほうが珍しいと言って良いだろう。
読者が減少するということはすなわち作品が連載中であるにも関わらず、話が進むごとにどんどん盛り上がりが減っていくということになり、活気の減った漫画は余計に見向きがされなくなるという悪循環を生んでしまう。これはぼく勉に限った問題ではなく普遍的な課題だろう。
五等分の花嫁やかぐや様では作中の描写がどうだ、ここの描写がああだと言った考察が盛り上がっていたが、ぼく勉はパラレルストーリーが始まった時点でこれまでの描写が語られることがほぼなくなり、考察ブログも更新を停止することが目立った。
これはパラレルストーリーが本編の描写と連続するものでない以上、何がきっかけで彼を好きになったのか、何がきっかけで彼女を好きになったのか。そういったことを本編の描写から考察することが出来ないのだから当然だろう。したところで意味は無い。話を期待されていたのであれば、なおのこと虚しくなるだろう。
個別ルートは本編の描写と繋がっていない。であれば推しキャラを持つファンは本編の描写を語ることが虚しくなるだろう。それが個別ルートまでの間にあった出来事なのかどうかわからないのだから。
全く語らないことはないだろうが、以前までと同じ熱を持って語ることは出来ない。同じキャラを推すファン同士であれば個別ルートの話題で盛り上がれるだろうが、違うキャラを推すファンとはそれで盛り上がることは難しい。無意識にどこかで俺の好きなキャラのルートではその出来事はなかったという冷めた目線が生まれてしまう。
SNS時代の今、語られなくなることは作品にとって致命的である。パラレルストーリーは二次創作需要の先食いですらなく、ファン交流の土壌ごと奪っていることに等しい。
これは恋と嘘のように最初からマルチエンドにすると決めていた作品であれば回避できる問題ではあるが、現実的には難しいだろう。週間少年漫画誌で人気と伏線を両立させることは困難であり、ぼく勉のように途中でなんとなく決まることが大半のはずだ。
最後にたとえパラレルストーリーをやったとしても各キャラのファンを満足させることは難しいという最大の問題がある。
パラレルストーリーに対する各キャラのファンの主な反応はこうだ。
- うるか派 とにかく発表方法やその他の扱いにキレている。※
- 理珠派 ほぼ関城さんがメインで理珠がサブ扱いなので不満の声が目立つ。
- 文乃派 話自体にはそれなりに満足しているがパラレルがなければ本来は文乃が勝っていたはずだという幻想に縋って不満が渦巻いている。
- あすみ派 とりあえずやってくれたことに満足している。
- 真冬派 圧倒的な人気なのになぜか先生と生徒じゃなく先生と先生の恋愛になるという扱いにキレている。
※参考
作者に嫌われているキャラクターを好きになってつらい
https://anond.hatelabo.jp/20200724234926
【追記】作者に嫌われているキャラを好きになったら特典でも冷遇されてつらい
https://anond.hatelabo.jp/20210308181806
【替え歌】作者に嫌われている。
このように手放しに満足しているのはあすみ派だけだ。
なぜ満足しているのかといえば、登場が遅く人気も低いためエンドヒロインになる芽が一切なかったのに、奇跡的にヒロインになる姿を見ることが出来たから満足しているのだ。
この点真冬も同じく設定的にエンドヒロインになる芽が一切なかった。ではなぜこちらはキレているのかと言えば、パラレルストーリーをやること自体が真冬の圧倒的な人気を背景に生まれたものだと信じられているからである。
つまりパラレルストーリーをやるきっかけが真冬の人気によるものなのだから、当然話のクオリティも素晴らしいものであるはずだという期待があったのに、その期待が裏切られたから不満を持たれているのだ。
このように元々芽がなかったキャラのルートをやったにも関わらず、そのルートの出来が良くなければ恨まれてしまう。
芽があったキャラであれば、話が良くても悪くても本来は勝っていたはずなのに二番手以降に追いやられたという逆恨みをされてしまう。
元々なければ諦めがつくが、中途半端に与えられると足りないものが目についてしまう。半端な救済は逆に恨みを買ってしまうという、社会問題でもよく見られる現象と同じことだ。
結局のところ満足ができるのは元々芽のなかった不人気キャラのファンだけであり、人気キャラのファンは余計に不満を持ってしまうのである。
本来ルートがなければないであるもので満足できる。五等分の花嫁を見ればわかりやすい。
一花のあの思い出だけは嘘じゃないんだよの泣き顔で切なくなれるし、二乃のあんたを好きって言ったのよという告白で痺れることができる。三玖の私は私を好きになれたんだという独白に感動できるし、四葉が私の分の仕事をお願いしますという台詞をようやく言えたことも胸を打つ。五月の私は私の意思で母を目指しますという宣言が嫌いな人間はいないだろう。
(各キャラの台詞は筆者の趣味でピックアップしたものであり、あくまで例である)
結ばれようが結ばれなかろうがそれぞれのキャラに素晴らしいシーンは存在していて、通常キャラのファンはいいところを見つけて満足できる。満足出来ないファンもこういうルートがあればよかったと理想を追える。
パラレルがある場合それは出来ない。各キャラのファンが見たいのは結ばれるところであり個別ルートである。
すなわちそれまでの話にいくらいいシーンがあったとしても、個別ルートの出来が良くなければ満足されないのである。
そして一度公式に提示された以上、それは違うこれが正しいと自分の理想を追える気概のあるファンは少ないから、ファン活動のハードルもパラレルの有無で段違いになってしまう。
自分の好きなキャラの思いが成就する場面をやるのであれば、誰だって自分の中の理想の形で成就することを想像する。当たり前だが多くの場合理想通りに行くはずはない。
漫画である以上、あまり長い話数は出来ないのだからなおさらだ。
普通であれば期待外れに終わるのは一度だけ、一人のキャラのファンだけだが、ぼく勉のようにした場合はヒロインの数だけ期待外れに終わることになる。
作者に対する失望が増えるほど作品に対する興味も冷めていく。当たり前のことであってぼく勉に限った話ではない。
失望されなければいいというのは一つの理想ではあるが、それは全教科満点取れば入試に受かると言っているようなものだろう。
仮に話のクオリティが期待されていたとしても、パラレルストーリーを連載する以上
というパラレル自体の問題点があり、仮に万が一クオリティが高かったとしても盛り下がっていたと考えられる。
よってぼく勉が特別うまくやれなかったのではなく、パラレルストーリーという形式がそもそも悪いのだ。
なおパラレルストーリーという形式をぼく勉が選んだ事自体が悪いというのはそのとおりだろう。
ただその場合の批判は、作品ではなくそれを選んだ作者に及ぶべきではないかと考える。
これがまさにパラレルストーリーをやったことの弊害ではないだろうか。
作品の内容を評価される手前、パラレルをやった意義で評価されてしまうのだ。
この話題がぼく勉である意味は何もない。内容について踏み込まれないから作品の理解を深めることは出来ない。
うつ病の周知活動のおかげで「死にたいと言う人間は実際には死なない」という偏見は弱まってきていると思われるが、
「自傷行為をする人間は実際には死なない」という偏見への対策はあまり取られていないように思う。
しかし例えば境界性パーソナリティ障害の患者は一般の集団より自殺率が数十倍高いと言われており、
仮にそれが他者からするとただの迷惑な行為でしかなかったとしても、そうした衝動性は現実の自殺へと繋がっていることがわかっている。
医者もしばしば誤診するし、双極性障害の患者本人も躁状態のときの自分を正常だと認識しており、それを人に話さないので無理もないが、この両者は別の病気である。
治療法も異なり、「前者のつもりが実は後者だった」という場合は弊害が生じる。
また、うつ病の患者が日常的な感情の変化を双極性障害と錯覚することもよくある。
映画などで反社会性パーソナリティ障害をサイコパスと安易に表現するようになって長いが、患者の多くは他のPDやうつを併発しており、発達障害も関係している。
歳を重ねて収まるケースもあればそうでないケースもある。
ツイッターで昔の自分のツイート振り返ってみると今よりは確実にまともな日本語を喋ってる。
この10年ぐらいず~~~っと技術書と漫画しか読んでこなかった弊害が出ているように感じる。
日本語が下手になってるんだ。
なろう小説や新本格の新人に散々心のなかで言ってきた「うわっ……コイツこの日本語力で作家を名乗るのかよ……」が今度は自分に返ってきてる。
別に自分は小説家になるわけじゃないから大丈夫だと思っていたが、それでもやはり悔しい。
日本語は日常的に使うものなので、日常のクオリティそのものがカスになっているような感覚がある。
思考も言語優位なので、言語力の定価はそのまま世界に対する解像度や分析力を下げていくる。
もうおりわだ。
崩壊画は混じった。
現在、数十年振りの円安です。コロナ禍やロシアの侵略戦争によるエネルギー高もあって物価が上昇していますがこれは本当に恐れるべき事なのでしょうか。
私は以下の文を読んで何故円安なのか、それをどう考えればよいか、よく理解出来たので、クローズドなSNSで4月の投稿ですが、書いた人の承諾を得て公開します。
【転載開始】
2001年6月以降の日米のコアCPI(なお日本のコアコアはアメリカのコアに相当)をグラフにしたものです。灰色の細い線はその差です。いずれも日記で紹介している内容で、日頃からデータを取っていればすぐに作れるグラフです。
アメリカはインフレ、日本はデフレとします(今はそうです。)。
両国ともまっとうな金融政策、つまりインフレになれば金融を引き締め、デフレであれば緩和するという政策をとれば、アメリカは金融を引き締めて金利上昇、日本は金融を緩和して金利低下となります。
そうなると、それまで円建ての資産を持っていた投資家は、より高い利回りを求めて米ドル建ての資産を購入するために、円を売ってドルを買うので、ドル高・円安になります。
パンデミックに直面して、アメリカは積極的過ぎる需要拡大政策をとり、日本はあいかわらず庶民の苦境をほったらかにしました。そこでパンデミックからの回復とともに、アメリカは供給<需要となってインフレ率が急上昇し、日本は供給>需要となってデフレとなり、インフレ率の差も急拡大しました。現在その差は過去40年で最大です。
したがって、日米ともにまっとうな金融政策を取っていれば、急ピッチにドル高・円安が進むのは当然のことなのです。
これを阻止して為替レートの安定を図るには、2つの方法があります。
1つめは、資本の自由な移動を禁止することです。ただ、こうなるとわれわれは好き勝手に米株や米国債を買えなくなり、アメリカ人も日本株を買ったり日本に投資できなくなります。中国は、まっとうな金融政策と為替相場の安定のために、資本移動に大幅な制限を設けています。中国人は共産党にコネがある人は別にして、資本を第三国に自由に移動することができないし、外資系企業は中国国内で利益を出しても、あるいは事業がうまくいかずに撤退しようとしても、送金規制などでそれをするのが極めて難しい。だから中国はめざましい経済成長を誇る世界二位の経済大国なのに、世界第二位の金融大国ではないのです。中国株はリーマンショック前の高値の半分程度、15年前と価格は同じです。
2つめは、国内が不景気なのに金融を引き締めて、日米金利差を無くすことです。こうなれば為替レートは固定されますが、不景気はさらに深刻化します。これはアメリカからみても同じことです。FRBがドル高を是正しようとして金融を緩和すれば、インフレはますます酷くなります。ところでEUの共通通貨(ユーロ)は、採用国から独立した金融政策を実施する能力を奪い取っています。だから南欧やギリシャなどの経済の弱い国にとって金融は常にタイトで、為替は高く、ドイツのように経済が強い国にとって金融は常に緩和気味で、為替は弱い。そうして生まれた経済格差は、貧乏な国から豊かな国に移動する自由を保障するから、労働者が自力で何とかしろ、というのがユーロの制度設計です。
このとおり、①国内の景気のためにまっとうな金融政策を取ること(これを「金融政策の独立性」といいます。)、②自由な資本移動と、③為替レートの安定性の3つは同時に達成できないのです。
これは国際金融の「トリレンマ」といって、マクロ経済学のどの教科書にも書いてある基本的な原理です。
“A unifying theme of this chapter is the international “trilemma”—that it is impossible for any nation to maintain simultaneously (1) independent control of domestic monetary policy, (2) fixed exchange rates, and (3) free flows of capital with other nations (“perfect capital mobility”). Thus fixed exchange rates and capital mobility create a new reason why domestic monetary policy may be impotent. For instance, Europe’s common currency (the euro) has stripped member nations of their ability to conduct an independent domestic monetary policy. “
Gordon, Robert J. “Macroeconomics”:12th edition Pearson Education. (2011).
3つを比較すると為替レートの安定性の喪失は一番弊害が少ないのです。例えば通貨が下落すれば、輸入品は高くなりますが、輸出には有利に働くので、変動したから悪いというわけではない。それに輸入品の価格が上がれば財政政策で家計を補助する、通貨高で企業が苦しければ減税するなど、他の政策で問題をカバーすることも可能です。それと比較すると金融政策の独立性を奪われること、資本移動の自由を制限することの弊害ははるかに大きい。
だからアメリカや日本は、独立した金融政策を取りつつ、資本移動の自由を保障し、変動相場制を採用し、為替レートがファンダメンタルズにあわせて動くことを容認しているのです。
そうした経済学の原理を無視すると、必ず手痛いしっぺ返しを食らい、その打撃は社会のもっとも弱い層がもっとも大きく受けるのです。
その典型例が、経済成長のために資本移動の自由を進めながら、事実上のドルペッグ制を維持しようとしたアジア諸国を襲った1997年のアジア通貨危機です。これはドルにあわせたために実力以上に高くなっていたタイの通貨バーツがヘッジファンドに売られたのがきっかけです。"強欲なヘッジファンドが悪い"みたいな寝ぼけたことを言う人がすごく多いのですが、悪いのは、金融政策と、外国からの投資と、為替レートの安定、3つ全部を同時に手に入れようなどという虫のよいことを考えたタイ、インドネシア、韓国です。ヘッジファンドに目をつけられたくなかったら、外国投資と引き換えに為替レートの安定は放棄すべきだったし、いっそのこと資本の自由化なんてしなければよかったのです。
デフレであるにも関わらず金融を引き締めて、超円高を招き、就職氷河期と製造業の空洞化=「失われた20年」を招いた1990年代半ば以後の日本もその亜種です。グラフをみると、民主党政権時代の円高がいかにファンダメンタルズとかけ離れていたかが分ると思います。製造業の壊滅も非正規と貧困の増大も、まったくの人災だったのです。
そして、今、ロシアがルーブルを維持するために、制裁で不景気なのに政策金利を17%にしたり、外資の資金持ち出しを制限しようとするなど、同じ轍を踏もうとしています。
今、円安阻止のために金融緩和を止めよというのがどれだけ愚かな提言か、分っていただけましたかな?
【転載終了】
上の説明を読んでから「ポンド危機」のウィキ説明を読むと、 英国が「ERM」(欧州為替相場メカニズム)に参加するために独自の金融政策をとれなくなった結果どんなことになったか、為替の安定よりも金融政策の独自性を確保することの方が遥に大切であることがよく判ります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%89%E5%8D%B1%E6%A9%9F
10月21日発表の消費者物価指数はコアで30年ぶりの3パーセントでした。しかし変動の大きい食料・エネルギーを除いたコアコアは1.8パーセントです。まあまあ、そこそこの景気といわれるものがコアコア2パーセント(日銀もそれを目指している)とのことなので、為替の安定性のために今金融引き締めをしたらせっかくおぼろに見え始めた不況の出口が消滅しかねません。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC170XT0X11C22A0000000/
【追記】
10月9日、NHK「最近日銀内部で話題のことば 「ノルム」って?【経済コラム】」
これを読むと日銀は何故賃金が上がらないか(どうやれば賃上げできるか)を前々から調べて考えていることがわかります。
デフレ不況の長く続いた日本で今、野党やメディアや我々一般人がすべきことは賃上げ要求であって、円安是正の為の金利引き上げでは間違ってもないと言えます。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221007/k10013851551000.html
漫画・アニメの表現の自由を支持する層も、それをバッシングし健全化を訴える層も実際のハーレム婚を事例を知るとリアクションに困るんだろうなぁという気はする
イスラム教は一夫多妻は女性の権利という解釈によって運用されているわけで、実際のハーレム婚では本当に女性のキャリアが阻害されにくいっていうのが一夫一妻を想定して結婚観を語ってきたツイッターやはてなのフェミニストには言葉が出ないんじゃないかなと
ホストやコンカフェの弊害だの何だのと言っていた層もこの事例は男がまともならむしろ効率的であるという可能性が示唆されてしまって言葉が出ない
大金を稼ぎ、子供を増やし、妻は出世でき、本人たちは現状へ納得し、そして社会からの納税や出産という要請には応えていて他人は本当に何も言えないどころか感情論抜きで冷静に客観視すると称賛を贈らなきゃいけない家庭になってる
たとえば今だと多数決ならとある宗教を「邪教」として禁止さえできそうですよね。でも、多数決でも、「内心で信仰させろ」「儀式は続けさせろ」までは侵せない理由付けが「自由」です。
反多数決主義の難点という議論がアメリカで古くからある。選挙で選ばれていない裁判官がなにゆえ選挙で選ばれた国民代表議会の法律を覆すことができるのか、というやつである。これは、単なる哲学的問題ではない。19世紀末から20世紀前半にかけて、産業資本の著しい発展の弊害が顕在化してきた。それに対して立法的対処を行ったところ、裁判所が「契約の自由」を盾にしてそれを違憲にしたところから来ている。
もう少し具体的に言おう。ニューヨーク州議会が、パン屋の労働時間を規制する法律を作った。一日10時間、週60時間までという規制である。これに反して処罰を受けたあるパン工場経営者は、労働者をどのくらい働かせるかについては、契約の自由があるのだからそのような規制は違憲であると主張した。そして連邦最高裁はその主張を認めたのである。このような判例法理が通用した時代のことを、この著名判例(Lochner v. New York, 198 U.S. 45 (1905))の名前をとってロックナー時代という。
すったもんだの末、ロックナー判決は否定されるに至る。どのように否定されたかというと、これがある意味羮に懲りて膾を吹くというようなやり方なのである。すなわち、裁判所は議会の制定した法律については、原則として合憲の推定を与える。議会制定法については、①目的が正当か、②目的と手段が合理的に関連しているか、しか裁判所は審査しない。換言すれば、手段の必要最小限度性を要求しないということであり、まことに緩い審査基準である。こうなるとまたしても困った事態が発生する。確かに、労働関係の規制については、そのくらいゆるい審査で良いかもしれない。しかし、議会に自らの利益を代表してもらうことができないような少数派の利益を押し潰すような法律を議会が作った場合も、そんな緩い審査基準を適用して良いのだろうか。連邦最高裁は、戦前の判例の中で、キャロリーヌ・プロダクツ判決(脱脂粉乳の規制に関する法律が問題になったのだが、それは措く)の脚注4で、人種的・宗教的あるいはその他の少数者の利益が問題になった場合などは、別の処理をするかもしれませんよ(この事件はそういう人が問題になっていないが)、ということを仄めかしている(United States v. Carolene Products Co., 304 U.S. 144 (1938))。
このような戦前のアメリカの判例を取り入れて始まったのが有名な二重の基準論である。二重の基準論は、精神的自由については厳格な審査を、経済的自由については合理性審査をという図式として受容されているのだが、実際には、一般的には裁判所は合理性の基準という緩い審査しか行わないが、政治過程の中で不利になっている少数者の利益が問題になる場合は、審査基準を厳格化する、というものなのである。一般論としては合理性の審査しかしない、というのがミソなのである。
芦部説はこのような議論を巧妙に換骨奪胎(?)し、精神的自由の制限は、政治過程そのものを傷つけるおそれがあるから、原則として審査基準が厳格化する、という議論を立てた。こういった議論はアメリカにも見られる。ところが、これを逆に考えると、精神的自由の制限であっても、政治過程そのものを傷つけるおそれがない場合には、裁判所は合理性基準で審査するべきだ、ということにならないだろうか(ロバート・ボークというある意味悪名高い裁判官が直球でそういうことを言っている)。これが問題になる典型的な事例が「わいせつ」である。少なくともハード・コア・ポルノ※に関しては、その禁止が政治過程を傷つけるとは言えないだろう(アメリカの場合、猥褻obscenityに該当する言論については、第一修正によって保護されないので、合理性審査すらしなくても良いということになっているのだが、それは措く)。わいせつの規制は、精神的自由の制限ではあるが、厳格審査に服しないというのが、反多数決主義の難点に対して一般に合理性審査を行うという解決法を用意した司法審査論の帰結となる。
ハード・コア・ポルノに対する規制を(も)廃止するべきだと考える者が、表現の自由論や民主主義を素朴に信奉するのも考え物である。一般論として合理性審査をもたらす反多数決主義の難点という論点それ事態を疑ってかかる、つまり、多数決によって事態が進行する議会政、多数決主義それ自体を排撃したり、あるいは、ハード・コア・ポルノの規制に対しても厳格な審査をもたらすような議論を何とかして立てるほかあるまい※。そういうことをしない表現の自由の信奉者は、表現の自由で戦死せざるを得ない。
※長谷部恭男『憲法』などを読むと、刑法175条違憲論が、単なる「表現の自由」によって支えられているわけではないということが分かる。
異性装=LGBTの図式を作り続けた結果、もはや読者は異性装のLGBTネタに嫌気がさし、遂にはそうじゃない漫画に対して「良かったです。LGBTじゃなかったから」とコメントをの残す所まで来たのか。
ポリコレポイントを稼いでおけば作品として高尚になれるよワンチャンバズるよって悪魔の囁きを繰り返した結果、遂には誰も得しないゾーンにたどり着いた。
ポリコレ要素のない異性装作品は自分が単にポリコレ要素アンチに持ち上げられてるのか正当に評価されているのかもわからない。
当然のようにポリコレ要素に染まった漫画も自分が漫画として評価されているのかポリコレ棒として便利だから褒めそやされているのかわからない。
漫画家は辛いだろうな……。
本当に罪な風潮もあったものだな。