はてなキーワード: 鬱屈とは
https://anond.hatelabo.jp/20181112183902
元記事はそもそもが違法駐輪を取り締まられた側の文句なので実際8割方耳を貸さなくていいのだけれど、同じく百万遍に自転車を止めていた身としては(ちなみに百万遍に自転車を止めると言ってる以上元記事のひとは9割方京大生ですね)「言いたいことはわかるな」という気持ちにはなった。
この感覚を説明するとしたら、「一般道でスピード違反をした車すべてを問答無用で罰金」に近いと思う。一般道路の上限速度は一応40km/h(追記:厳密には60km/hだった。雑な知識のペーパードライバーですまない…)になっているのだが、現実問題として一般道でそれを厳密に守ってない車はざらにいる。まわりがガンガン飛ばしてるなかでひとりだけ速度を守ってるとむしろ危ない、みたいな環境は想像に難くなく、それらを容赦なく取り締まってたら感情的に反発するだろうなぁ、という話だ。
今回の例で言えば、百万遍は総数2万人とも言われる京都大学のお膝元であり(左京区に2万人いるのではない)、そのエリアには学生向けの飲食店が密集している。ランチどきになるとガガッとランチを食べにくる京大生の自転車でごったがえすのだ。あのエリアは自転車用道路が歩道と一体化していて道幅が広く、交差点部分は簡単な広場になっている上、飲食店以外にも利用するのにちょうどよさそうなドラッグストアも存在する。立地的に違法駐輪のインセンティブが大変高い。しかしそれらの店の目の前には一切の駐輪場が用意されていないというのが現実だ。
もちろんすぐそばには京大のだだっ広いキャンパス=駐輪場が存在しているので、そこに自転車とめろよ、というのは正論だ。しかしたとえば1時間程度のランチタイムというのは徒歩5分の移動時間も惜しいわけで、近くに停められるのがわかっているのにキャンパスの駐輪場を利用するのはめんどくさい。もちろんめんどくさがる方が悪い。そこに有料駐輪場を作って解決しようという発想は正攻法だが理不尽だ。なぜならそのすぐ横には京大キャンパスという広大な無料駐輪場が用意されていて、そこすら惜しむ人間たちには有料であること自体がギルティなのである。ついでに言えば有料駐輪場があったところで駐輪場があふれることは想像に難くなく、ここで起きると思われるのは「有料駐輪場からあぶれたひとが問答無用で取り締まられる」という地獄絵図だ。
悪いのはモラルハザードであり問答無用で取り締まって規律をただすのは正しい。俺がここで言いたいのは、擁護するのでも非難するのでもなく、「違法駐輪を撤去することはなにひとつ解決策になっていない」ということである。問題は京都市における自転車人口が完全にパンクしていることそのもので、そのための方策はキャパに見あったかたちでの駐輪スペース整備であると思われるのだが、当然ながらそんな余裕は物理的にも財政的にも京都市にはない。その結果やることが「違法駐輪の取り締まり」となった場合、構図としては「キャパオーバーの自転車を撤去して予算もゲット」という表層的には市民に不利益を与える行動を選んでいるようには見えて、その対象となるのは帰結として百万遍ユーザーである京大生=学生がメインになる。ある一面を切り取った場合に、本来解決すべき不利益を社会人ですらない学生に皺寄せとして与えている、というのは屁理屈だが一面において正しく、その辺の感情的鬱屈がああいった文章を書かせてしまったのかなぁ、と思った次第である。
https://webnovel.jp/n/1541741088988
「世界は踊り、取り残されて」
大学四年生の女の子が単位を落とし、すべてがいやになって海を見に行く。自分を包み込んではくれない海に中指を立てて、そして自分に中指を立てるシーンでこの作品は終わる。自分が許せないから、日常の風景が許せなくなる、そんな話だ。恐らく、実際に単位を落とした作者が、自己投影しながら書いた作品なのだろう。
「世界は踊り、取り残されて」には、浅野いにおや花沢健吾の青年漫画、あるいはハードカバーの一般小説によくみられる、都会の鬱屈した日常が感じられる。僕はこういった雰囲気が好きだ。
ではなぜ、人々は陰鬱な物語を愛するのか。暗い物語の担う役割とはなにか。一つ目は「啓蒙」だ。
厨二病まっさかりの中高生は、血なまぐさいファンタジーや社会の闇など、アンダーグラウンドなものに惹かれていく。
なぜ少年少女が一様に残酷な物語を求めるのか。僕は、いずれ来たる残酷な現実に備え、苦しみを知るための本能的な衝動だと思う。
ほとんどの子供は親の庇護の中では無敵だ。苦しみや痛みや面倒事は親が振り払ってくれる。
しかし、大人になるとそうはいかない。痛みを知らないまま大人になってしまい、社会に出て初めて、人間関係や生活の不条理さ、世界の残酷さを覚えてもまともに戦えないのだ。だから、苦しみと戦えるだけの体力や精神力のある若いうちに、陰鬱な物語を求める。
物語を必要としない人間は、現実世界で理不尽さを経験することで成長していく。
残酷さや苦しみは確かに人を傷つけるが、人間の魂はそういったものを克服しなければ成長できない。
暗い物語は、僕達が傷つかない程度に、傷の痛みを教えてくれる。
明るさだけが人の救いになるわけではない。小説家になろうなどでは、鬱屈した生活を送る主人公が異世界に転移し、自分をいじめていたクラスメイトに復讐するという作品がある。こういった作品は「今の自分から抜け出したい」「惨めさを払拭したい、強くなりたい」という読者の、魂の叫びを癒してくれる。
また、僕の友人は、暗い物語を読むことで、「ダメなままでも生きてていいんだ」と肯定感を得られると話していた。その時、彼女らは陰惨さに救われている。
また、僕はイラストが趣味で、その繋がりからインターネットで小説の書き手と交流させてもらうことがある。そこでわかるのは、陰鬱な物語の書き手は、陰険と言うよりはむしろ、人間の営みの醜い部分を分析し、受け入れていけるだけの強さがあることだ。そんな作者から与えられる陰惨さは、苦しみを抱えた読者にとって、ある意味で慈愛だろう。
慈愛は「小説を読む読者」ではなく「小説を書く作者」に向かうこともある。防衛機制でいうところの「昇華」だ。
この場合は、作者の苦悩が物語にリアルに反映される。誰もが知る有名どころだと、太宰治の「人間失格」がこれにあたる。
「世界は踊り、取り残されて」では、単位を落として内定を逃し、堕落した生活を送る主人公は、海に向かって中指を立て、そして今度は自分に向かって中指を立てる。
これは象徴的なシーンだ。
「癒し」として生み出された作品において、作中の苦しみや悲しみは主人公ではなく、作者に課せられる。中指は海――作品の対象ではなく、自分――作者自身に向けられているのだ。
もちろん、この二つにあてはまらない暗い物語もある。だが、根本に人間の醜さへの受容のない陰惨さは、読者の野次馬根性を煽って購買意欲を掻き立てたい・閲覧数を稼ぎたいだけだ。それはエンターテインメントであっても物語ではない。
陰鬱な物語において、中指は誰に向くのか。その中指は同時に、救いの手となるべきである。
「世界は踊り、取り残されて」:https://webnovel.jp/n/1541741088988
男が教師役、女が聞き役というのは男が上で女が下という形だからダメって話があるけど、
じゃあ美人の女博士とか、かわいくて成績優秀な理系ガールや図書館ガールがさえない男に教える構図ならフェミ的ポリコレ的に喜ばしいかっつうと多分それも違うんだろうな。
男が教師役の場合は「男の支配欲を満たすために女が使われてる」と言えるし、
女が教師役の場合は「女に奉仕してほしいし可愛がってほしい男のマザコン欲望を満たすために女が使われてる(時には目上を腕力や性的魅力で逆転魅了する展開にもなる)」と言える。
どっちをやっても、シスヘテロ男性消費者の欲望を満たすために女性が出ているのは軒並みよろしくないって批判に繋げることができる。
それは男性消費者はフィクション女性に対しても女性出演者に対しても簡単に好感を持てちゃうから、概ねどうやっても男にとって都合よく快楽をもたらす描写になっちゃうわけで、そのぶん「男の都合のよさや快楽のダシにするな」という批判も簡単にできちゃうからなんだな。
ではなんで男はそんな簡単に女を好きになれるか。それはたぶん男は女に恐怖を持ちづらいから。
男は腕力や体格や生殖機能などの面で女性平均より強みがあるから、常にどっかしら余裕がある。なので女が生徒役でも教師役でも女王様役でも奴隷役でも「ハハハかわいいやつめ」って思うことができる。美人や美少女なら尚更。
これは人類とイエネコの関係に似ていて、猫に目をひっかかれて深刻な猫恐怖の人がいるようにいじめや犯罪をされて女性恐怖の人もいるけど、多くの人類は猫に対し余裕があるので何やっても可愛いと感じるし、多くの男も女が何やっても可愛いと感じる。
男にとって女は小動物だ、猫ちゃんだなんて言うことは倫理的には決して許されないが、しかし身体能力の差はどうしてもそれに近い関係を作ってしまう。喧嘩の強い不良にとってはヒョロヒョロナード男は小動物だし、ヒョロヒョロ君は不良に怯えてしまう。
きっと教育とか道徳とか以前の、自分より強いものには怯え、弱いものの前ではリラックスするという動物の習性から自然と発生してしまうものだ。
自然と発生するなんて言われても批判者からすれば全く許せないわけで、日々傷つき怒りを溜め込んでいる。
なので娯楽においても、女が下の立場で描かれている時はもちろん、美人博士とかも男が喜んでいることを認識して「こんなんイメクラ的にやらされてるだけで実際は欲望の面倒をみさせられてるじゃん」と言いたくなる。
さすがに、ヤンキー女とかに男がボコボコにされる内容を、一切のお色気や萌えもなく「我々の界隈ではご褒美です」とか面白がれる隙もなく物語的痛快さもなく描けば男性読者は「可愛いやつめ」とか言えずに不快になる人が多いだろうけど、そこまで極端にやらなきゃ男を喜ばせることは避けられないというわけだ。
男を喜ばせることの何が悪いのか? 娯楽なのに人類の半分を楽しませたらダメなのか? それは、現実社会で男性への鬱屈や恐怖を抱えてる人にとっては腹立たしいのだ。
「現実で男を喜ばせるために女が使われるのにうんざりしているから、娯楽でも女の存在が男を喜ばせることに繋がってると腹が立つ。だがそこから逃れようとしても、男ってのは容易に女や女キャラのことを好いてしまうから、よっぽどのことをしないと喜びやがる、半ば無敵モードかあいつらは?」ってのが今の世世の中だ。
まあそういうわけで、力において大体の男が大体の女より自然と強くなるって状態さえ変えれば、女の慢性的不満や恐怖は薄れるし二次的に社会的不利も薄れるので、娯楽において女の存在が男を喜ばせても怒りがわかなくなるし、美人や美少女ばかりがメディアに出てても、それが女教師でも相槌役でもあまり気にならないし、ポルノとか性的消費を目にしても傷つきづらくなるんじゃないかな。
『若おかみは小学生!』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨です。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。またこの作品は書籍版漫画版アニメ版あるけれど、それらは横に置いといて映画の話します。
これは120点っすな。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」なので、「見れて大満足! もうちょいお布施したい」でした。
演出とは裏腹に内容的にはかなりヘビー(というのを見越して爽やかで明るい演出を用いていた)なので、児童文学原作でお子様向け痛快娯楽活劇とは言い切れないんですが、個人的にはクオリティさえ伴えば子供を思いテーマや悲しい作品でぶん殴ってもええやないか、いてもうたれ、子供ってのは子供なりに受け取るんだ派なので、クオリティでぶん殴ればいいと思います。ふるぼっこだドン。
この映画に関してはTwitterで児童労働がどうのこうのという話もちらりと耳にした程度で事前情報収集もなく見に行ったんですが、そういう物語じゃなかったですよ。
じゃあ、どういう物語だったかといいますと、大きく2つの柱が絡み合うストーリーでした。それは大きなテーマで言えば「喪失を乗り越える」と「自分自身と居場所を見つける」という話。
初っ端から重いですが、主人公である女子小学生・関織子(通称おっこ)は、本作冒頭の交通事故において両親を失います。もうこの時点で軽い話になりようがないわけですよ。にも関わらず事故被害のシーンはグロカットされ、葬儀とそれに続くドタバタのシーンも描写はされず、おっこは新生活の場であるところの、祖母の営む温泉旅館「春の屋旅館」へと向かいます。トランクひとつ持って別に落ち込むわけでもなく、ちょっと大変なだなあくらいの顔色で一人旅をして、到着し、新しい部屋(いままでのマンションとは違う昭和的な和室)を与えられ、転校して新しいクラスメイトに挨拶をして、ひょんなことから家業である温泉旅館を手伝うことになります。
『若おかみは小学生!』って言うタイトルだから当たり前ですが、こうして女子小学生おっこの若女将修行生活が始まるわけです。
「春の屋旅館」がある「花の湯温泉」は歴史のある温泉街で、古都然としたまちなみに浴衣姿の観光客が歩く割合賑やかで、カラフルな町です。この辺音楽や美術の演出とあいまって、しみじみと明るく暖かく描かれていて雰囲気良いですね。美術のレベルは高かったです。
でも、この明るく爽やかなあたりが(とうぜんそれは演出意図に沿ったものなんですが)、ある意味ホラーでもあるわけです。
小学生の児童にとって、両親を失うというのは、最愛の家族を失うということであるのみならず、加護者も生活基盤も導き手も失うということです。もう、それは世界の崩壊とかいうレベルでの悲哀なわけですよ。
にも関わらずおっこはそこまでの苦しさを見せない。両親を思い出してちょっとうつむくことはあっても、笑うし、日常生活を送るし、新しい出会いにも前向きでいる。それはよく考えればとてもとても異常なことなわけです。
異常なおっこの新生活は、やはり物語後半に向けて徐々に破綻してゆきます。「両親がまだ生存していて自分と一緒に暮らしている」という幻想を何度もみてしまうおっこは、あるシーンにおいて事故の原因となった(もちろん別のですが)大型トラックを見て、事故のフラッシュバックから過呼吸になってしまう。おっこは、両親の喪失という悲しみを乗り越えたわけではなくて、ただ単に今まで封印をして日常生活を演じていたに過ぎなかったわけです。
あらすじなんかにおいて本作は「主人公おっこの成長を描く」なんてサラリと書かれているわけですけれど、それは不誠実な欺瞞であって、おそらくおっこの身になってみれば、それは成長じゃなくて引きちぎられてバラバラにされてしまった自己の修復というサバイバルなわけです。失った何かから目を背けて、決定的な破綻をしないようにごまかしながら疾走するというのが、この物語の前半部分でした。
そういう意味で、おっこが若女将をやるというのは、児童労働とかそういうレイヤーの話ではないのです。両親を失って加護者も生活基盤も支えも失ってしまったおっこにとって「いまできるなにか」に必死に飛びついて自分を騙そうとしていたとも見ることができます。祖母である旅館の経営者(現女将)の後継者問題という、旅館側の都合があったにせよ、おっこが旅館の雑務に飛び込んで笑顔で充実していく背景にはそれがあるはずです。
事実おっこの若女将は雑誌に取り上げられて評判を呼ぶという広告的な価値はあったものの、従業員としてみたとき、お客さんに感情移入しすぎて夜闇の中に駆け出すなど(一般的な社会人の価値観からすれば)行き過ぎな面もありました。
でもそれも仕方がないと思うのです。両親という生活基盤を失ったおっこは、同時に目指すべき将来の自分像も失っています。「将来こういう自分になったらいいな」です。その空隙を、目の前に提出された安易な「若女将」で埋めてしまったわけですから、その意味では、おっこの若女将は労働としての若女将ではなく「若女将ごっこ」でもあって、つまりはある種の自分の居場所探しなわけです。
たとえおっこ自身がそれを言語化できるレベルで気づいてなかったとしても、まだ収入もなく住む場所も自分では決められない小学性にとって、他にできることなんて事実上ないじゃないですか。それはせめて居場所を獲得するという生存努力です。
おそらく祖母はそのおっこの悲痛に気がついていて、周囲が無責任に「若女将誕生!」とはしゃぐなかで、決して自分からは手伝え、継げとはいいませんでしたし、おっこの労働を危惧してた素振りも見えました。経営者として「子供に接客なんてさせられない!」と拒絶することもできたでしょうけれど、おっこから若女将をとりあげて、じゃあ不安定な彼女の精神に何をしてあげられるかと言えば何もない。だから黙認しかないわけです。
だいたい「自分自身と居場所を見つけるという話」なんてものは現代社会において、大学を卒業して就職して一年二年経った青年が、俺はどうやらこういう方面には我慢が効くがこういう方面は苦手だぞ、どうやらおれはこういう仕事とこういう人間関係の中でなら生きていけそうだ――みたいなのをやっとこさやるものなわけで。そんなものを、小学生が引きちぎられるような喪失を乗り越えるのと二正面作戦でやるのは無茶というものです。
そういう意味では、周囲の大人たちはもうちょいどうにかフォローしてやれなかったのかよ、とも感じるんですが、でも逆にそれこそ大人視点の傲慢な物言いであって、大人だろうが子供だろうがどんな人間でも自分自身の心の中の悲しみや未来とは、自分一人で向き合うしかないというのも一面の真実です。
おっこは画面上の軽やかさやおっちょこちょいさに隠されがちですが、実は誇り高い女の子です。特に自分が設定した自己目標に対しては愚直なまでに誠実です。だからこそ、宿泊客のために対立している真月に頭を下げて教えを請うこともします。その実直さが両親を失うという危地の中で彼女が孤立してしまった原因だし、それが巡って彼女の味方を増やす原因でもあったのは素敵だったと思います。
おっこは「喪失を乗り越えること」から逃避して、目の前のロールである若女将に飛びつき、そこで必死に働くことによって苦しかった過去をある意味塗りつぶそうとしたわけですが、その逃避が「自分自身と居場所を見つける」ことにつながってゆきます。
幾つかの出会いがあって、目指すべき未来のヒント、ロールモデルと出会います。たくさん登場人物がいるのですが特筆すべきなのは三人でしょう。
まずは旅館の女将である祖母。登場シーンは少ないのですが、彼女の個人人格と職業倫理が融合してしまったあの佇まいは、今は亡き母経由もふくめておっこの誠実さの根っこのように思います。職業倫理がついには人格化しちゃうって、昭和的な善人のあり方としてすごく共感できるんですけど、今の時代では流行らないのかもしれないと思ってちょっとホロリとしました。
二番目には、おっこの同級生、秋野真月(大旅館の跡取り娘、通称ピンフリ)でしょう。この娘は小学生女子なのですが、広い視野で旅館業と湯の花温泉京の未来を見つめていて、顧客に対して誠実であろうという、幼いながらある種の達人系キャラです(傲慢な物言いをする残念キャラでもあるのですが)。この娘と同年代として出会うことができた、ライバルとして対立したり和解したりできた、というのはおっこを取り巻く幸運の中でも格別のものでした。彼女との交友は、悲痛から逃げ出して飛びついた「若女将ごっこ」に、その内実の精神性を加えて「本当の若女将」へ進化させてくれたと思います。
(余談&劇中では語られませんが、温泉郷に住まう子供の中でも誰よりも本気で町の未来について抱え込んでしまってる真月の孤独にとって、その孤独の闇に現れて、自分の高さまで登ってくれると約束してくれたおっこの存在は、想像すると涙がこぼれるものが有ります。真月からみてもおっこは救いであったと思うし、そうだと良いなあ)
三番目は宿泊客である占い師・グローリー水領です。長い黒髪をたなびかせたこの宿泊客は、都心部に事務所を構える凄腕の女占い師なのですが、私生活での失意から「春の屋旅館」で飲んだくれ生活をしています。
抑制的な演出で描写される彼女の鬱屈をおっこはどうにかして励まそうと、浴衣を着たことのないという彼女の着付けを手伝います。浴衣初経験のそんな彼女の艶姿におっこが感嘆した感想が「格好いい!」でした。
ものすごくさり気ないシーンだったのですが、それはおっこが喪失していた「自立した憧れるべき大人の女性像」を見出した場面だったんじゃないでしょうか?
私生活で辛いことがあっても他者に当たらず、それどころか宿泊先の幼い従業員おっこに気を使っておどけてまで見せる。グローリー水領はおっこ視点では「素敵な大人のお姉さん」です。その素敵な年上のお姉さんに、「可愛い」でも「素敵」でも「綺麗」でもなく「格好いい!」と小さく叫んだおっこに、少し泣けました。お洒落で(←女子小学視点では重要です)、颯爽としてて、自立をしてて、視線を合わせて話してくれる。そんなお姉さんはおっこにとってどれほど輝いて見えたことでしょう。暗闇の中で我武者羅に迷走していた、それでも笑顔だけは守っていたおっこにとって、それは小さな灯火で「未来の自分」「目指すべき形」です。
祖母の言う「誰も拒まない花の湯」、同級生真月のいう「客を癒やすレストスペース」、女占い師が自分の仕事を「他人を励ます仕事」だと評したこと。それらは全て本作テーマに重なるパラフレーズです。そしてそういう人々の輪の中に、自分も入っていける。癒やしたり癒やされたりしながら前へ進んでいくコミュニティの一員になる。「若女将」という「自分自身と居場所を見つける話」は、おっこにとっては生存努力であり逃避だったわけですが、それを誠実に、ごっこから実体にしていくのならば、結局逃げていた「両親の喪失という苦しみを越えていく」につながっていくのだ、という脚本はすごく良かったです。
ここまで触れてませんでしたけれど、おっこには霊感があるという設定で「春の屋旅館」にきてから騒々しい幽霊の少年やおませな幽霊の少女と出会い、励まされています。両親が今でも生存していて日常は壊れていないという幻想に悩まされていた頃おっこを支えていたこの幽霊たちですが、物語終盤でおっこから見えなくなってしまうという形で別れが示唆されます。
でもそれは、おっこが人間社会のなかで居場所を確立した――七つまでは神のうちといういわばまだ神様たちの一員であり神楽の主役でもあったおっこたちが、社会の中で着地して、痛みも悲しみも乗り越えていく季節がやってきたのだというエピソードです(おそらく魔女の宅急便の黒猫ジジが喋れなくなる、も同様の構造ですよね)。
見終わってから気づいたのですが、この作品の幽霊や鬼たちは、幼いおっこが空想したイマジナリーフレンズだとしても物語が成立するように設計されています。
おっこは自分の中の勇気やかしこさと一緒に自分の悲しみと戦った。「春の屋旅館」はその舞台であり、若女将はおっこが戦うための姿だった。
すべてのフィクションはファンタジーなので現実視点を持ち込みすぎるのは野暮というものなわけですが、今後おっこは中学に入学卒業して、大学はともかく高校くらいは出るはずで、一人前になるまで十年近い時間があります。(このお話のおっこは絶対旅館業一筋だと思うのとは別に一般化するのならば)そのなかで、旅館業から離れるかもしれない。現実に寄せて考えるならその可能性は高い。
でもそんなことはおっこの戦いとそこで得たものとは関係がないわけです。おっこは若女将というコスチュームや身分を手に入れたわけではなく、戦いの中で手に入れた人間関係と自分自身がある。将来どこでなにをしようと、おっこの手に入れたものが曇ることは二度とない。それがこの映画の中心であって、それは児童労働とかそういうのではなく、もっとパーソナルで尊いものだったと思います。
まだこの話題やってんのかよ…と祝日の朝から鬱屈した気分で見て仰天した。いやこれは本当にヤバい、これはダメ絶対、WWIに発展したサラエボ事件だよこれは。
「どうぜオタクは他人様のキャラを使ってエロパロ同人誌描いてシコってんだろwww」レベルの理解をしていると全く理解できないだろうが、オタクは一次創作物と二次創作物は明確に分けて考える生き物だ。たとえ稚拙でも自らキズナアイを描いて「フェミニストのキズナアイです」と言わせたなら、まだ多少の救いはあった(*1)。オフィシャルのモデルと動画をそのまま流用する雑さは二次創作とは呼ばれず、界隈でパクリと呼ばれ叩かれる一番最悪な手法だ。この程度でオタクがザワついてるwwwと草を生やしているようだが、それは思想信条に関する内容では無く、偶像を風俗嬢呼ばわりした上にパクリという手法で穢した暴虐に対してだ。
(*1)仮に二次創作であっても元々のキャラクタ性と異なる言動はオタクに嫌われるし「そんなセリフ言うわけ無いだろ!!」と叩かれる事例は存在する。例:「飛影はそんなこと言わない」
vtuberは既存のキャラクタ商売とは全く異なる立ち位置と個性を有している点も全く理解されていないことがよくわかる(この点はvtuberに興味のないオタクも居るのでオタク関係なく理解されていないことは理解する)。むしろ理解した上で煽ったのならオタクが尤も嫌うことを二重三重にやってのけたわけで大層な覚悟をお持ちだと思うが、このままフェミとオタクは全面戦争で焼け野原になるまで互いを燃やし尽くすことになるがそれで本当に良いと思っているのだろうか。
「キズナアイなんてただの箱」と言ってる時点でvtuberが何故ウケたのか何も理解していないのは改めてよく分かるし知らないなら下手なコメントはしない方がいいと思う。「初音ミクはただの楽器か」みたいな話に近いといえばいいのか、いやこれもまたちょっと違うか。もちろん数年と経たず消えるものか伸びていくかは誰にも分からないが、敢えて無知と恥をさらさなくても。
溢れるコラって一体どれを指しているか知らないが所謂クソコラなら別カテゴリだし、批判でも皮肉でもなくただ自分の思想信条を言う腹話術に使えば叩かれるんじゃないの?あれが叩かれてない!というのは観測範囲の違いであり、多くの人がスルーした取るに足らない話と言うだけでしょう。
普通の人は一定のスルー力を持っているのですよ。本屋で気に入らない表紙を見ただけで騒いだりはしないのです。
静止画像に煽り文字(字幕)を付ける程度なら行儀としてどうかというのはさておき、まだライン上ぐらいのセーフではないか。静止画に文字を付けたところで誰もキズナアイがそんなことを言うと思ったりはしないわけだ(だからといってこれを二次創作とは言わないし正しいとは言わない)。
要やキズナアイの"フォーマット"を利用して、キズナアイの"人格"を歪め、剰え「キズナアイなんていうのは台詞を喋る人間が違えばこんなことを言わせられるんだぞクソオタク」と主張するのは他人が大切にしているものに泥を塗ったくり踏みつける最高の煽りだってこと。
院試もなんとか乗り越え、研究も一息つき、爆睡してたら走馬灯のような夢を見た。
今頭がぼーっとしているが、眠くない。顔をあげるとPCが転がっている。
そんな状況で適当に頭の中を出力してみる。
実家では姉が癇癪持ち、母は他人に無関心なくせに過干渉。父親はネガティブな性格で、認知症気味で、鬱で自殺。首吊り死体も見た。
大学に行くと言ったら両親が猛反対、勉強できない姉が大学行くことに対して嫉妬(勉強してこなかったお前が悪い)、
受験3ヶ月前に父親が自殺、同時に自分のメンタルが崩壊し、毎日のように頭痛が止まらなくなり、生きてることへの現実味が何もなくなり、
実家を抜け出したいと思いながら不登校になり、家に引きこもる。
頭がいっぱいになりながら試験を受け、奇跡的(?)に国立理系大学に受かる。
一人暮らしを始めるが、高校までの嫌な記憶でいろんな記憶で頭が一杯になり、同じく死んだような顔で過ごす。
時間はあるが鬱屈でしかない、サークルに通ったが、まあ、変な言動をして、
幼児的万能感丸出しメンヘラ男に執着され、更にメンタルを悪くする。
大学の勉強はやればできるが、やったらできただけだとしか思えなくて、あんな家庭に生まれなければという18年間への後悔、
これからも死んだように引きずりながら生きていくしか無いと思った。
どうせ死ぬのになぜこんなことをしているんだと絶望感を引きずりながら死んだように布団にくるまる。
人間関係を一切断ち切り、映画や小説やマンガ、歴史、心の病気の本、とにかくなんでも読み漁った。
エネルギッシュなもの、鬱になるもの、哲学的思考を揺さぶられるもの、
自然科学や、それが工学に応用されていること、哲学的な思考は誰でもすること、世の中そんなにきれいにはできていないこと、大体の人は自分のことで精一杯で、他人に興味がないこと。
幼児的万能感は誰でも持っているもので、年齡と言うよりは、いろんな物事の経験量によるもの。
絶対に他人自体を観測できないことは、改めて考えると、普遍的で非自明なものと思う。(いや自明だろ)
自分がこんな環境で育ったことなんて他人は知る由もないし、自分もまた他人の家庭環境なんて知りえない。
結局観測できることなんて限られていて、どれが地雷かなんてわからない。
血がつながっていたとしても自分以外は他人でしかなく、それがよくわからないものである。
そんな自分以外の他人がいる中で生きてきたし、今もこれからも生きていくしか無い。
結局自分は何も知らない、ただ視界の狭い、家の人間となんとなく入った運動部のような人間しか見ず、
視野が粗野で、卑屈で、思い込みが激しい、ただ一人の、長い歴史のなかの一般人であって、結局はその事実しか存在しない。
ということが、ようやくわかった。
いまは漫画や小説が好きな新しい友人ができ、学業も以前より面白く感じてきて、研究も(考えるのは)楽しくて、
ようやく正常に戻った、いや人生の中で一番頭のゴミが少ないような気がする。
こう書いてみると人の過去なんて文章にしかならないし、そんなもんだなーと思える。
ボーッとした頭でも今読み返すと、こいつ将来に対する漠然とした不安にめちゃくちゃ苛まれているなーと思う。(今は昔よりまし)
ここで書いていることは、後悔というよりは反省にはなっている(といいな)。
なんだかなーこれからどーしよっかなー、やっとモラトリアムの始まりか??
やっぱ眠いしねるわ。悔いはない、と思う。
売春合法化ってのは、男のためじゃなくて「それで働いている女性の権利を保護するためにやる」という名目で欧州でやるやつ。
どっちかというと、ポリコレ棒持った人たちが進めるんだ。
社会に売春婦が存在するメリットってのは、俺みたいなバカな男に性経験と賢者タイムを与えることで、治安を向上させるためにある。が、合法化された売春は、いろんな意味でキレイになっちゃって、バカには入りづらくなっちゃって、鬱屈は溜まるし、そういう奴ら向けの非合法な売春も別に消えないのじゃないか。
あと、そういうことをよくやる欧州でも北寄りの国は、お国柄として女性の積極性がめっちゃあるんだよね。昔から女も狩りしなきゃ死ぬ風土だったので。
いまさ、炎上してるラノベあるじゃん。文章がひどすぎるとかキンキンとか言われてるやつ。
Web版の一話見たらほんとに上手くなくて、言いたいことは分かるけどネタがゲーム的で凡庸でやりつくされてて、なんでデビューできたんだって皆が言うの理解できた。
で、それ見て、自分の過去思い出して胸くそ悪くなってきたから吐き出したくなった。
ろくでもないただの自分語り。誰も得しないはなし。
10年以上前、中一からいじめられて登校拒否でずっと引きこもってた。家族も先生も自分を学校に行かないクズとして扱ってた。
家にいたくなくてネカフェ通いしてたら親がパソコン買ってくれた。家にいないと迷惑だから。
それからゲームとパソコンばっかやって、定期的に来る先生たちに罵倒されてもまだやって、たまに学校の休憩室に何もせず通うだけの生活だった。
絵を描くのが好きだったから、そのうちサイト作って絵や文章を載せてた。趣味のことやってれば現実から逃げられるような気がしてた。
ある日、ブログに詩の大賞みたいな宣伝が載ってた。暇つぶしに応募した。
賞には入らなかったけど、小説書いて出版しませんかって誘いが来た。
引きこもってばっかの馬鹿だったから、安易に喜んで引き受けた。
親連れて対面したら、出版について詳しく掘り下げられた。
自分の送った詩の内容から編集者が考えたストーリーを小説にして、百万円払って出版する。絶版にはしないし、売れたら売れただけ増刷の金が入るって。
いま考えたら、ただの詐欺だ。
同人本でもそんな金額はかからない。宣伝料とか何とか言って、ようは金を支払わせたいだけ。
中二で引きこもりでゲームしかしてないガキが考える話なんて、ツギハギのつまんないもんにしかならない。
そもそも「編集者が考えたストーリーを作家に書かせる」のになぜ作家側に金を払わせているのか。
絶版云々も都合と耳障りがいいだけで、売れるはずのない本が増刷されるわけがない。
すぐ考えたら分かることだった。
でも、十年以上前だ。
ガラケーが浸透してきたくらいの時期でサイト全盛期、TwitterもFacebookもない。
何も知らないガキは詐欺かどうかの検索なんてしなかった。ただ、大人の編集者が言っているのが正しいと思って小説を書いた。
ツギハギのつまんない話を。
自分が考えたキャラであっても、どこかちぐはぐで好きになれない話を、言われるまま書いた。
途中、野生の勘かなんかで違和感を覚えて、やっぱこれ書きたくないって家族に言ったら怒られた。
最年少作家とか意味のない触れ込みを真に受けて、大金を支払ってでも出版という道を選ばせたがった。
書き上げて、送るしかなかった。
鬱屈した気持ちのまま、あとがきで「この話は担当に考えてもらった」という旨を書いたらそこは削除された。
このつまらない話は、自分が考えたことにしなければならないようだった。
表紙と挿絵は綺麗だったけど、刷り上がった献本を見る頃には、その話をされると具合が悪くなるようになっていた。
嫌な予感がする。間違えた気がする。
出版されたあと久しぶりに学校行ったら、親が献本を先生に見せた。
「お姫さま願望でもあるの?」
読んでないうちから言われて、自分がどう返したかは覚えてない。頑張って書き上げたものが揶揄されるくらい無価値だと言われたみたいで、直感が正しかったんだと思った。
詐欺にだまされた自分がどうしようもなく嫌になって、家族も編集者も味方じゃないんだと人間不信になって、傷つけて醜くなりたくなって。
手首を切って、病んだ。
編集者は2冊目を催促する電話しかかけてこなくなって、着信拒否してるうちに出版社自体が倒産した。でもすぐ名を変え復活して、まだ自費出版を斡旋してる。
百万は結局返ってこなかった。本も一冊だけ手元にある。家族が捨てさせてくれなかった。
中学卒業後、通信制高校と専門学校に行ってなんとか社会の中にいる。
でも、一次小説は書く気が起きない。
自己投影したキャラが出てきただけでイライラして、殺したくて、憎たらしくてたまらない。
投影してないキャラはツギハギのパチモンでしかない。幸せになんてなれるもんかって、絶望的な話しか書けない。
精神科に行ったけど治らなかった。
書かなくても生きていくことができるなら充分だろうと完治宣言された。
なろう系が羨ましい。
自分のことを好きになって、理想のキャラになりきって、それを誰かに認めてもらえる環境が羨ましい。
たくさん出版されているあの本たちは、たぶん身を切る自費出版ではない。作家として、自分が考えた話が本になってる。
SNSで疑問を投げかけたらすぐ回答を得て、すこし頭を使えば詐欺なんて引っかからない今のネット世界が羨ましい。
中二のあのとき、なろうがあったら。
調子に乗って書いた話がドン滑りして、つまんないですとか書かれて、なんだこいつってキレて作者自らが書き込んで炎上してダメになれた。
それだけで終われた。
今が、羨ましい。
今は、少なくとも誰かが見ている。
ひとりきりで思い込んで追い詰められて全部嫌いになって、自分の過去を思い返すたび死にたくなることはない。
21歳〜22歳あたりが一番乱れてた。出会い系で会った人と身体の関係を持って。生理が遅れたときに妊娠していたらどうしようと不安になってそれから遊ぶのやめたけど。
遊んでたというかずっと母子家庭で欲しかった父性を身体使って得るような行為だったと思う。だから相手は30代〜40代位の人がちょうど良かった。男からしたらただセックスしたいだけで、当時自暴自棄になっていたりしたので雑に扱われるのが楽だった。
正直結婚する前に自分の中の鬱屈とした気持ちはなんとかした方が良い。そういう気持ちは無いよというのが一番望ましいけど。自分の様に妊娠したんじゃないかと不安になったりしないで済むならそれが一番いい。でも結婚したら男(女)遊びなんてしないほうがいいんだから、そういう欲求は早めに解消してしまったほうが不幸を巻き取らずにいられるのでしょうね。
もし何かきっかけがあって、そんな鬱屈とした状況じゃなくなったとしたら。
という意味の「変わる」な。
虐げられてる側が一切何も変わっちゃいけない法はないだろ。
その変わり方を、強者側が一方的に指導しようとするから問題なんだよ。
「無敵の人」に代わるのも変化なんだ。
いくら手を差し伸べる側が変わっても、無敵の人が自然消滅するなんて無茶だよ。
人はエスパーじゃない。
「無敵の人」は、周囲からの「無視」等の「薄い悪意」の集合なんだよ。
良いようになってない人から殺されるけど、それでいいのか?
って聞きたいんだよ。
そんなの健全な世の中じゃないだろ。みんなで不幸でいればいいなんてだめだ。
「無敵の人」を置き去りにしちゃいけないんだよ。
「みんなで不幸にならない」ために生贄を作ってるから、逆襲されるんだよ。
学生の頃によく通ったバーがなくなったという報せを聞いたのは、出張で東京から大阪に向かう新幹線の中だった。
新幹線。大学進学を機に東京の西の方へ引っ越したぼくの出身は新潟県で、当時のぼくにとって、新幹線といえば、東京都と新潟県をつなぐ上越新幹線のことだった。新潟。海沿いの街ならばともかく、山に近い町では、一年のうちの半分以上が雪と雲に閉ざされる土地だ。
冬に東京から上越新幹線に乗ると、日本海側が「裏日本」と呼ばれるのが納得できる。携帯電話の電波の入らない、長いトンネルを抜けると、そこはたしかに雪国だ。トンネルに入る前の、抜けるような青空からしてみたらまるで異世界のような、モノクロに塗りつぶされた街が見える。たまにしか来ない旅行者にとってはそれは心踊る風景かもしれないが、「裏日本」の住人にとっては、長く続く冬のあいだ、ほとんど太陽を見ることができないという気の沈む現実をそのまま描き出したような光景だ。
新潟県に住んでいるころの生活は、そんな冬の憂鬱な景色と似たり寄ったりだった。中学校のクラスメートの多くは、ぼくに猿山の猿を思い起こさせたし、教師たちだって、そのうちのほとんどが想像を絶して想像力のない無神経か、生徒へ媚びては「人気の教師」というくだらない肩書きに執着する俗物のどちらかだった。
ぼくにしたって、そんなくだらない学校生活から颯爽と抜け出せたわけではない。自分も、くだらない生徒のうちの一人であることには違いなかった。そんな鬱屈をぶつけるかのごとく、音楽を聴いて、小説を読んだ。音楽や小説は、ぼくの肥大した自意識をなぐさめながら、同時に、その自意識をさらに肥大させた。
ひとことで言えば、ぼくは、音楽や小説に自分の存在そのものさえを仮託する、盆暗だった。そうして、ぼくは中学高校をやり過ごしていった。
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車内販売のワゴンを押しながらお土産やコーヒーを売る販売員の声で、ぼくはふと我に帰った。いつのまにか新幹線は名古屋駅をすでに過ぎていたらしい。車内販売員からぼくはコーヒーを買った。熱いコーヒーを飲みながら、ぼくは高校を卒業した年の3月のことを思い出していた。
大学進学に伴って、上越新幹線を使って上京した。まだ雪の深く残る街から、荷物を抱えて新幹線に乗り込み、トンネルを抜けたときの空の青さにせいせいしたのをよく覚えている。これからは、猿山の猿や無神経や俗物に付き合わなくていいんだ、そんな気持ちを、青い空は祝福してくれたように思えた。
そうして手に入れた大学生活にも慣れ、過剰な期待もなくなり、肥大した自意識ともうまく距離をおけるようになった頃のぼくに、ほんとうのお酒のおいしさを教えてくれたのが、件のバーだった。学生街にありながら、その店はいつでも静かだった。生まれて初めて、本や音楽の話が心からできる友人とも、そのバーで知り合った。マスターは、少し背伸びをした学生に、いろいろなお酒を教えてくれた。酔うためではないお酒を、リラックスしながら飲む日々は、ぼくにあの新幹線で見た青空のような解放感を与えてくれた。
◆
そのバーがなくなったことをメールで教えてくれたのは、当時の友人のうちのひとりだった。大学を出た後、ぼくとはまったく違う業界に進んだ彼と会うのは、3年に一度程度の頻度でしかなかったけど、会うたびにぼくらは、リラックスできる店で静かに酒を飲んだ。そんな彼の名前と一緒に携帯電話の通知に表示された、「あの店なくなったの知ってる?」という文字列に、それほどショックを受けていない自分に少し驚きながら、ぼくはヘッドレストに頭をあずけて目を閉じた。
ぼくたちが店に通っていたときから、もう8年が経つ。東京で就職し、大阪に頻繁に出張に行くようになったぼくにとって、新幹線といえばもう、あの長いトンネルを伴う上越新幹線ではなくて、東海道新幹線のことになった。ぼくはもう一度携帯電話の通知欄を眺めてから、また目を閉じて、新幹線の規則的なゴトンゴトンという音に耳をすませた。