はてなキーワード: 鬱屈とは
昨年ブームとなり、
そのサビで踊られるダンスのフリのことだ。
何人の日本人がそれに気付いているだろうか…。
おそらく何割の方はそれに気付いており、
このブームをバズらせる事に荷担してもいたのだろう。
そうは思っているのだが、
どのくらいの人数にそれが共有されているのだろうか。
そう不安にも思っている。
イイネ!と形容するくらいだから、もちろん良い意味で受け止められているのだろう。表面上は。
当然「Good!」を意味するジェスチャーから来ているのだろう。
しかし、
その曲に合わせシェイクする腕の振りに違和感を感じないだろうか?
その腕の角度と位置が高すぎるのだ(元ネタとされるshootダンスと比べても)。
そしてまた、その仕草は身体を画面に対し横を向いて行われるのだ。それはなに故だろう。
その立てた親指が描く軌跡が、親指がどこを通過しているか。
その意味を少し考えたら、その違和感の答えが分かるのだはないだろうか。
親指を下に突き下ろす仕草は、相手に否定の意志を示す行為であり、
その親指を首の前で通過させる仕草は、死ね!殺すぞ!という意味である。
そしてこの手の動きとセットとなっているのが、足で何かを踏みつけるような仕草でもある。
C'mon, baby アメリカ
これはちょうどイイネダンスが踊られている時に歌われてる歌詞である。
この、密かに重ね合わされている意味を、どれだけの人が自覚的に使っているのだろう‥。
無論、これはそう解釈できる…という話であって、振付師の意図を決めつけているものではない。
ただ、そんな解釈もしうるダンスを、あなたの家族や子供にこのまま踊らせていても良いとお思いでしょうか?
今なお気になって仕方がない。
いかがだろうか…。
ついでに蛇足ながら…、
それは単なる外部評価としてあるのだけではなく、
曲そのものの中に、相反するままに、貫かれているような気もする。
まず、今上げたC'mon baby にあるように、戦後ずっと常に日本を指導し先導し父親のようなポジションにあったアメリカを、あたかも目下の対象であるかのように呼びつける構図を描いている。
これは、昨今多少批判的に言及されるようにもなってきた「日本スゲー」勢を満足させる構図でもある。
アメリカを挑発し、見下し、かかってこい!と挑発しているのである。
気持ちの上では。
その潜在的な意味を、意識的にか、無意識的にか、人それぞれの割合で汲み取られていたことによって、この歌は、この時代に、必然的な条件を揃えて一大ブームとなっていたのだろう。
気持ちの上だけでは。
そう。潜在的な願望としては持っていても、直接面と向かって宣戦布告はできない。その度胸は無い。
横を向いてその意味を隠し、最初にイイネのサムズアップを強調することで言い逃れをまず先に用意しているのだ。
ダサイけれど、完全に服従している訳ではないという秘めたる信条がカッコイイのだ。
それは、夢を見せて成長の原動力を与えたくれた…という意味ではあろうが、
叶うはずのない夢を追って身を持ち崩すよう動機付けられたとも取れる。
サクセスの味方を organizer
成功の道筋を付け導いてくれたというように解釈すべきではあろうが、
儲けに繋がる見込みのない者には一切目もくれられないとも取れなくもない。
C'mon, baby アメリカ
英文の部分の意味は逆さに解釈するのだとすれば、この言葉はこうなる。「こっちに来ないでくれ」と。「アメリカよ、もう日本に関わってくれるな」と。
どっちかの夜は昼間
我々が、日本が、現状「夜」であることは、今、これまでが、アメリカが「昼間」であった事と必然的な関係となっているのだ。
…と、
しかし、こうも歌われている。
競合してくジパングで
より強くアメリカナイズされた沖縄は、日本本土に対して先行する存在だ!と、そこで育った若者としての自意識はあったりするのだろう。
しかし、そんな沖縄は基地問題にもあるように、日本本土から負担を一方的に押し付けられて続けている存在でもある。
どっちかの夜は昼間…その沖縄の「夜」を産み出している「昼間」とは、単純にアメリカとしてよいのであろうか、それともその標的は実は日本本土を指しているのであろうか。
それらをひっくるめて歌われている。
C'mon, baby アメリカ
これをただ無邪気に歌い踊っていてよいのだろか?
その親指を地面に向けて突き立てているその矛先は、どちらを向いているのだろうか…。
結果、俺のいるAチームは負けた。
勝敗は内野の残り人数で決まったんだけど、Aチームは俺1人で、Bチームは2人だった。
「うーん、惜しかったね」
俺たちは、それに気のない返事をする。
「……そうだね」
そう、僅差だった。
不平不満を垂れ流して味方チームの士気を下げつつ、パスで敵に易々とボールを渡し、避けるそぶりすらせずやられたブリー君をだ。
もちろん、俺たちのプレイに何の落ち度もなかったわけじゃない。
最も悪目立ちしたのがブリー君というだけだ。
でも、ブリー君が文句をブツブツ言わなければ、パスくらい最低限できれば、避けるのをもう少し頑張ってくれれば……。
そのどれか一つだけでも多少できれば、マシだったなら勝てたゲームだ。
極端な話、ブリー君がAチームではなくBチームにいれば……いや、ブリー君がいなければ勝てたに違いない。
僅差で負けたという結果は、そんな鬱屈とした思いを大きくさせた。
だけど、そんな俺たちのことなんてブリー君は知ったこっちゃない。
「やっぱり戦術不足が敗因だと思う。もう少し対策を練るべきじゃないかな」
「外野も、もっとパスを回して相手を動かして、体勢が調わなくなったら足元を狙えばいいんだよ」
まあ実際のところ、ブリー君の言っていること自体は的外れってわけじゃない。
言ってる本人がまるで出来ていない点を除けば、一理ある指摘だ。
だけど「ブリー君が足を引っ張ったから」という指摘の方が、何理もあるのは変わらない。
そのことを言わないよう気を遣う俺たちと、その可能性を1ミリも考えないブリー君。
俺たちはそう言いながらブリー君に背を向け、小走りでその場を後にした。
ブリー君が後ろからまだ何か言っていたが、自分たちの会話でそれをかき消す。
それは、良いやり方ではなかったけれど、それが俺たちの精一杯だった。
あの時、ブリー君の顔を見たり、声を聞いたりする余裕が俺たちにはなかったんだ。
本心からくる心ない言動が、いつ表に出てくるか分からなかったんだから。
「私、女だけど、ああいうのと上手くやっていける気がしないわ」
俺たちにだけ聞こえる声量で、誰かがそう呟く。
仲間のタオナケだ。
「自分の言っていることが周りにどう思われるか、まるで考えていないんだもの。すごく無神経で、そのことに無自覚で、自分のことを客観的に見ようともしない」
タオナケの言うことには同感だ。
「タオナケ。そういうことは出来る限り声に出さない方がいい。ロクなことにならない」
「私、オカルトは好きだけど、言霊だとか本気で信じちゃいないわよ」
「そういう話じゃあない。言いたいことを言うのに慣れてしまったら、いずれ歯止めが利かなくなっていくと思うんだよ。そうなったら俺たちはブリー君と同じだ」
俺たちはクラスメートとして、否が応にもブリー君と接していかなければならない。
毎回、苛立ちを言葉にしていたら身が持たないんだ。
「無理して仲良くする必要もないけど、だからといってトラブルも望まないだろう?」
「私、その理屈は分かるけど、何だか不服だわ。こっちが一方的に我慢を強いられてるみたいじゃないの。ねえ、ミミセン?」
タオナケが仲間のミミセンに話を振るが、反応は鈍い。
「おい、ミミセン」
俺はミミセンを軽く小突いた。
「……あ、ごめんタオナケ。聴こえてなかった」
雑音を嫌うミミセンは、その名が示す通り耳栓をよくしている。
それでも普段は近くの会話くらいは聞こえるんだけど、その時は耳当てまでつけて音を防御していた。
しかも、その耳当てを手で押さえつけた状態で、小さい呻き声まであげているのだから聴こえるわけがない。
「私、戸惑ってるんだけど、ミミセンどうしちゃったの?」
「どうもブリー君の声が、だいぶ耳に“くる”みたいなんだ。声質とか、喋る時の抑揚とか、色んなものが相性悪いみたいで……」
ミミセンの反応は極端なパターンだけど、この時点でクラスの皆が精神をすり減らしていたのは事実だ。
2019-01-22
■風嬢で一生が終わると思っていた
自分をMだと思おうとしていたが、どうにも違うらしい。多分私は馬鹿なだけだ。だからあらゆることを受け入れられるし、何をされても笑っていられるんだと思う。
中学生の頃男子にボロカスにいじめられていて、毎日「ブス」「キモイ」「しね」のどれかを聞くような日々を過ごしていた。それと同時進行で私はネット上で男に自分の性的な面をアピールして欲情されることに酔っていた。バランスを取っていたんだと思う。リアルではボロカスに言われてゴミ扱いされているけれど、ネットではちゃんと女として市場価値があるんだぞ、と逃げ場を作らないと自分が滅茶苦茶に壊れてしまうような気がしていた。
高校生になってもそれは続いた。
周りの女子は一気に垢ぬけていくけれど、私は馬鹿なのでなんでみんながそんな風に一気に女らしくなっていけるのかわからなかった。要するに私は容姿に恵まれないのみならず芋っぽいダサい女だった。そうなってくると今度は見た目の面でも顕著に美醜やセンスが際立ってくる。女子にすら「デブゴリラ」と言われる始末だった。
私はそんな風に現実が過酷化していくのと同じようにネットにのめり込んでいった。高校に上がりケータイを手に入れた私は遂に出会い掲示板(年齢や個人情報を登録する必要のない、実質出会い系サイト。多分当時はギリギリ合法)で自分を性的にチヤホヤしてくれるおじさんと性的なことをするためだけに会った。とはいってもおじさんが、私は処女だからと無駄に気を利かせてくれたから、挿入は無かった。それにしたって、私にしてみれば自分に対してリビドーを感じ我慢できず放出するだらしない男の姿はひどくセンセーショナルで、蠱惑的に映った。
それから色々な男とやりとりをしては性的なアレコレをした。それだけが私の自己承認欲求を繋ぎとめていた。
その中で私は奉仕型のMだとよく言われた。そうかもしれない、そう言われるならそうなんだろう程度に考えていた。
高校卒業後すぐ、出会い系サイトで知り合ったおじさんを迎え入れて、その人の精液と一緒にティッシュに丸めて処女を捨てた。
お金は貰っていなかった。今思うと本当に頭の回らない馬鹿だったと思う。どうせヤるなら売れるものは売っておけばいいのに。
私にとって私という女はゴミカス程度の価値しかなく、私の体は見た目の悪い玩具でしかなかった。
同時進行で卒業まで続いていたいじめが辛すぎて、大学進学をやめておくことにした。きっと私は大学でもうまくやっていけないとどこかで思っていた。結局股を開いてしか男とコミュニケーションが取れない私は「みんな」の言うように気持ち悪い存在なんだと、リアルとネットが実は地続きなんだと、そんなことに気付き始めたころ、私は既に疲弊し絶望に包まれていた。
適当な専門学校に進んだ私は一人暮らしの生活費を稼ぐために風俗店に入店した。
本番禁止店であったが、結局のところ誰ひとりとしてそれを守る人間などいなかった。それは嬢も客も一緒だ。
毎日が肉欲にまみれ、甘ったるい接客で何人もの男を相手し、日々脳みそがとろける感覚がした。私は遂に落ちるところまで落ちていくんだ、落ちていけたらきっと楽だとすら思った。そうしていくことが、いじめから始まった私の女としてのコンプレックスが報われるたった一つの道だとすら思った。私は男がリビドーを捨てていくためのゴミ箱に甘んじることでこの物語を終わらせよう。潮時と思える時が来たら死んでしまえばいい。
結局実習で馬鹿さが露呈してまたいじめに遭い、私の意識は急激に社会に引き戻されて、学校も続かなくなって実家に帰ることになった。
いじめから始まった色々な鬱屈は、いじめによって急激に収束し、結局田舎の芋くさい女に帰って来た。
自分が性的なコンテンツとして消費されていたのがウソみたいに、私は今淡々とパートタイマーとして働いている。
不思議なことに、潮時をとうに過ぎている気もするのに、私はまだ生きている。多分、これからも生きていく。
今思うと、若気の至りじゃ済まされないよなって、若くたって自分の頭で考えればもっとマシな道を選べたはずであると思う。当時は「コレしかない」と思っていたことでも、案外別の選択肢なんかごまんとあったりするんだと最近になって気付いた。
結局のところ私は変態性欲者でもMでもなく、ただの馬鹿だったんだと思う。
後悔は先に立っていてはくれない。多分、先に立っていたとしても無知な私はその啓示を無視するんだろう。私なんてそんなもんだ。
こんな体験談はごまんとあると思うけど、だからこそ似たような体験した人がコレを読んだとしたら「自分だけじゃなかったんだ」とか思ってもらえたらいいと思う。
やる気ないフリーターとかニートとか無職のおっさんとかで、しかも暇を楽しむ度量もなくただただ鬱屈としているようなどうしようもない男が最終的に救われる漫画またはアニメ(アニメ映画含む)で、しかも救われる理由が「美少女が俺の人生に現れたから」「美少女が承認してくれたから」「美少女を助けようとか美少女にいいとこ見せようとかしてちょっと頑張ったら意外と事態が好転したから」とかじゃない話を探してるんだが、なんかある?
登場人物に美少女がいても、主人公が一方的に憧れているだけで現実では何も進展しなかったり、ちょっと優しくされて舞い上がったけど実際は陰口言われてて絶望したりする展開ならあり。逆にどんなに美少女が表面上ツンツンしててもいざという時に駆けつけてくれたり、最終的にSEXできるならダメ。
自分でも調べてみたんだが、ただ美少女が出てこなくて面白いアニメならピンポンとか色々あるが、どうしようもない男が主人公あるいはそれなりにメインの話で美少女なしに救われる話がなかなか見つからないんだ。アニメの「僕だけがいない街」はいい線いってるかなと思ったけど、いまいち存在感が薄いとはいえやっぱりあのピザ屋のJKはどう見ても顔がいいほうだし、最後あっちルート完全に絶つならまだしも結局最終世界線?でも出会えちゃってるから俺が探してるのとはやっぱりちょっと違う。
あと男の場合よりももっと少ないと思うからこれは聞くだけ無駄かもしれんが、ブス女(ブス扱いされてるだけで眼鏡取ったらかわいいとかは論外)とか年増が主役で、突然イケメンと一つ屋根の下の生活が始まったり、死んだ祖母が勝手に決めていた許婚(しかも弁護士、医者など謎に高スペック)が偶然ドンピシャ好みのイケメンだったりしないでも救われる話があればそれも教えてくれ。ブスとか年増に加えて貧乏とか病気持ちとかあればなおいいです。
ちなみに漫画家とか脚本家とかクリエイターと呼ばれる人種が美少女(もしくは高スペックイケメン)という飛び道具なしでどこまで彼らを明るい結末に持っていけるのかが個人的に知りたいだけなんで、ポリコレがどうとかはどうでもいいです。それと漫画とアニメに限定したのは純文学とかだとこういう話は珍しくない程度には沢山あるイメージで、なんで漫画やアニメだと少ないのか(あるいは俺が知らないだけでほんとはいっぱいあるのか)も知りたいから。
もちろんそれも見たかったが、その世界線が今よりもよかったとは一概には思わない。
視聴者に媚びていく姿勢はハルヒの反骨精神に反するもので、ただでさえブームが終わりかけている作品に一層の陳腐化や、現在一部で行われているような「売れただけで実のところ目新しくもないありふれた作品」という過小評価を招く危険もあっただろう。
一期ほど売れてないから二期失敗とか決めつける人がいるが、絶対数から言えば決してそんなことはない。エンドレスエイトはうんざりしながら見たし、「溜息」もいわゆる鬱展開的なやつなんだがハルヒ一期から深夜アニメに入った自分はここでそういうアニメの楽しみ方を知れたと思っている(そもそも一期からしてそんな明るく楽しい感じの話ではない、コメディ調だがタイトルからして「憂鬱」だし、ハルヒの根源にはモラトリアムの鬱屈がある)。
違法動画が流行った一期であったが、二期に関してはYouTubeで一週間無料の公式チャンネル配信がなされ、アニメのネット配信の先駆けになったという点も再評価されて欲しい。
BS258 Dlife (月) 21:00 (金) 24:00で放送してるドラマなんですけど。
映画「シャーロック・ホームズ」のクリエイターが贈る、良質なミステリードラマ!というのがおススメ文句らしいです。
私はシャーロック・ホームズの方観てないんでよくわかりませんけど。
主人公のDr.モーガンは不老不死になって200年くらい生きています、外見は30代くらい。
DlifeのHPでは親友と紹介されてるエイブは、孤児だったのですがモーガンに引き取ってもらって現在も生活を共にしています。
エイブは60代くらい?
見た目は逆転してるけど、まあ二人の関係は親子ですね。
この!!見た目逆転親子の関係が!!いいんですよ!!
血のつながりはないけど、その辺に関する鬱屈みたいなのはあんまない感じですね、アメリカドラマだから?
この親子がお互いを心配したり、昔のことをほじくりかえしてまだ怒ってるから!!ってなったり、
ジェネレーションギャップとか趣味の違いですれ違ったりしながらも歩み寄ったりするのが、もうすごくいいの!!
子供の立場でありながら、自分の方が先に死んでしまうであろうことを考えてモーガンのことを心配するエイブとか。
歴史に残る野球の試合を、モーガンの仕事のせいで見られなかったことを未だに根に持って話しながら思い出して怒りだしてしまうエイブ。
ピアノが弾けるモーガンが、幼いエイブにクラシックを指南しようとするも、ジャズに傾倒してしまったエイブ。
親子の間には音楽のへだたりができるが、関わった事件をきっかけにして、長い時を経てジャズに興味をもったモーガンはエイブに指南を頼む。
おっさん&おっさんがさ~~、二人でぎゅうぎゅうになってピアノの前に並んでんのとか、心温まらずにはいられないでしょ~~~?
ほぼ毎話、親子エピソードはさんできますので、このドラマのテーマといっても過言ではないです。
シーズン2とかに続いていかないらしいので、さくっと観終わりますよ!
不老不死モノとか親子愛モノがお好きな人にぜひ観て頂きたい!!
そんなこみいった筋はないので途中参加でも楽しめる!
M-1での上沼恵美子の審査に対してインスタのライブ配信で文句を言ったのが炎上している。
オバハンとか女性を差別するようなことを言っているのが槍玉に上げられている。
確かにこういった内容はわざわざ配信すべきではないし、仮にしたとしても発言の内容は充分に気をつけるべきだけど、上沼恵美子の自虐ネタは嫌いとかいいつつミキは突き抜けてるからいいという発言は批判されるべきだと思う。
現に批判されていたけど、今回の一件ですっかりその発言は忘れられている。
まあ芸人2人の人間性もあるし、酔った勢いで配信した軽率さもあるが、私はとろサーモン久保田の鬱屈とした気持ちは分かるので、Twitterで久保田の謝罪に対してボロクソにリプライを飛ばしまくる一般人に少しどん引きしてる。
単純にニュースを見てキレてる人も多いだろう。
色々残念な出来事。。。
何はともあれあーいう内容で配信をした2人は軽率以外の何者では無い。
https://anond.hatelabo.jp/20181201155849
https://anond.hatelabo.jp/20181130212224
少しだけ書き足させて下さい。
私はあの人たちが育ってきた、生まれた環境がすごく羨ましいと書きましたが、結局はそれに尽きるのだと思います。
例えば今現在の私が急に覚醒して皆さんに言われたように努力をして、奇跡的に一流の大学に入って卒業できて、今の派遣先のような大企業に入社できて、あのキラキラ人たちの中に入っていけたとして、この鬱屈した感情が綺麗さっぱりなくなってしまうのかというと、とてもそうは信じられないのです。
どうしたって私がおよそ下流な環境で育ってきた過去は変わらないし、両親も時々連絡をとる地元の友達も学歴はもとより芸術にも音楽にも理解なんかとても示さないことはわかりきってます。
そもそも親と仲が良いのは恥ずかしいなんていう思春期の感情を引きずったままのような私が、ナチュラルに両親と仲が良さそうなあの人たちを羨んでるのも変な話です。
だけど、あの人たちが羨ましい。あの人たちのような環境に生まれたかったなと考えている一方で、眉毛太くて正直ダサいなだとか、話し方オタクっぽくてキモイなだとか、メイクとかネイルとかもっと気を使ったらとか、逃れられないヤンキー的な価値観から内心見下しにかかっている自分がいることもどうしようもなく自覚していて嫌になる。
中学生用の英語のドリルを早速買ってきたと書きましたが、こんなもので身につけられるのは所詮知識だけでしかなくて、本当に私に欠けているのは外国の文化に対する興味を持ったりするような教養に属することなのだと今になって気がついて、自分の無教養さに改めて嫌気がさしてきます。
もう寝ます。
「着ぐるみって何?」
■〜3歳
って言う。この年であれば「そういうのがあるんだよ」見たい雰囲気出して納得させればなんとかなる
■5歳〜7歳
ドナルドやグーフィーも休憩したいことがある。そのときに着ぐるみっていう
ミッキーやスティッチは悪のキャラ2よく勝っているので恨みを買われることが多い。
メリット:夢を半分守れる。
着ぐるみの存在は明らかにしつつも本物はいるという説明によりそれなりの納得感を持たせられる。
将来、勘のいい子供が真実にたどり着いてもすでに着ぐるみの存在は知っているので傷は浅くて済む◎
■筆者の経歴
『ボヘミアン・ラプソディ』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向けですぞ。
すごいぞなんと140点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。なんでサントラ買いたいくらいには良かったです。
ただその一方で実はこの映画の感想を書くつもりは当初なくて、というのも自分がクイーンをリアルタイムで応援してたファンではないからなんですよね。もちろん日本人で普通に暮らしていればCMやら飲食店の店内楽曲でクイーンの曲は耳にしてるし聞けば、あああれね! くらいのことは言えるんだけど。
でもどうせファンの人がたくさんレビューを書くと思ってたんで自分が書く必要はねえでしょうと、思ってました。
んだけど、実際見てみてその周辺の感想とか聞くと、もやもやした気持ちが募ってきたわけです
やはり133分という限られた尺の中では出来事を省略する必要もあったり、感情動線の設計上エピソードの順序入れ替えなどは行われているわけです。そういう意味でこれはノンフィクションではなくて、エンドロールにも書かれているようにフィクションです。
本国広報やプロデューサーもそうフィクションだと発言しているんだけれど、コアなファンであればあるほど史実との違いが目につき、ニコニコ笑いながら(多分なんの悪気もなく)貶すという光景がなきにしもあらず。実在の人物フレディ・マーキュリーの伝記的な映画でもある以上仕方ないのだけれど、正解/不正解という視点がついてきてしまう。
オタクがオタクであるゆえ仕方がない心性で「かー。しょうがないな、この部分もうちょっとこういう描きを入れてほしかったな。かー」「よくやってるけど30点!(地獄のミサワの顔で想像してください)」的な、本当は大好きなクイーンの映画がすごく良い出来で嬉しいのだけれど一言言わずにはおれないような。そういう反応多いのです。
気持ちはすごくわかるのだが、ソロで鑑賞にいったこの映画の後ろに行ったカップル男性が「あいつクイーンのことになると早口になるよな」とかで、なんか、すごくいたたまれなかったりもする。キミのその愛情は彼女さんには全く通じてないし、むしろ映画の感動いまどんどん減らしてるよみたいな。
だからこのレビューでは物語(フィクション)としてこの映画をおすすめします。
若い人もクイーン知らない人もちょっとしか知らない人も寄っといで。これはとても良い映画だったよ。知識なんていらないよ。単体で物語としてよかった。だから観るといいよ。そういうレビューです。
映画はフレディがクイーンの前身バンドであるスマイルのメンバーに声をかけるあたりから始まります。デビュー前のフレディは当然まだ若く、瞳だけがギラギラした挙動不審の青少年で、当たり前の話だけど何も持ってないわけです。
何も持ってないというのは、金も実績も名声も持ってないし、家庭ではなんだか居心地が悪いし、将来の確固たる保証もないということで、その何も持っていないという閉塞感が初っ端から強烈に描写されます。
それがすごく良かった。
それは、この映画がロック界のスーパースターで伝説の偉人フレディー・マーキュリーを崇める映画ではなくて、何にも持ってないチンピラのフレディから始める映画だっていう鮮烈な意思表示なわけですよ。
野心を持った若者っていうモチーフは映画でも小説でもよく出てくるモチーフなのだけれど、若者は野心を持つってわけではなくて、それは全く逆で、財産らしきものは他に何も持ってないから野心ぐらい持たないと惨めでやってられないってことですよね。
作中で描かれるフレディがまさにそれで、デビュー後彼はすぐさまオレ様キャラを発揮し始めるのだけれど、最初のデビュー前のシーンでは内気で繊細な少年なわけですよ。オレ様ってのは虚勢だとすぐわかる。スカウトの前でも音楽プロデューサーの前でもでかいことを言うけれど、それは「いまは何者でもないチンピラだ」ってことを当の本人たちが痛いほどわかってるからにすぎない。
確かに伝説のバンドクイーンはメンバー全員が稀有な才能を持っていて音楽に愛されていたのかもしれないけれど、でもそれは人間的な弱さを持っていなかったことは意味しないし、何も持ってないし、何も確かなことがない。将来何になれるかわからないし、不安だけど、弱みを見せるわけにも行かない。それって、青少年の普遍的な鬱屈だとおもう。そういう意味で、スクリーンの中のフレディは、たしかに観客席と地続きだと感じました。
だから無駄に見栄を張り無駄に喧嘩を売ってオレ様は天才なので何をやっても大成功なんだぞー! と嘘でも吠えなきゃならない。それは文字通りの意味で虚勢なのだけど、フレディはその意地を張り通して段々とスターへの階段を登っていくわけです。
生存戦略としての見栄と意地で、それがある程度以上に通用し成功する。
だからこそフレディは問題を解決する手法として去勢と音楽しか持たないわけです。下手に成功しちゃったから。そして、バンド内で揉め事が起きても、スポンサーと揉め事が起きてもこのふたつで解決していくしかない。他のノウハウはびっくりするほど何もない。
でもその問題解決手法もアーティストとして成功するために最適化されているために、フレディ個人の内面の寂しさや煩悶を癒やす役には全く立たない。
溝ができつつある恋人であるメアリーとの間をなんとかつなぎとめようとするフレディのやり方は、小学性みたいに真っ直ぐすぎて、純真ではあるのだけれど多分恋愛検定で言うと偏差値43くらいでとてもつらい(っていうかお前隣り合った家の寝室の窓から明かりのオンオフで相手を確認するとか昭和の少女漫画クラスやぞ)。
バンドメンバーとの関係も傲慢&ワンマンが過ぎてギクシャクしていくが、こちら解決は傲慢&虚勢に仲間に対する甘えをトリプルでどん!! しているわけでお前よくこんなんで空中分解しないな?(とおもってたら分解した)という感じで、これまた辛い。こっちは偏差値41くらい。素直でない分2低い。つらい。
自分の性自認がヘテロなのかゲイなのかで悩むフレディは、その鬱屈がたたって恋人メアリーとは距離を置くことになってしまうし、それをきっかけとして私生活が荒廃していくわけです。周辺に金をばらまき、ドラッグ&乱交パーティーに溺れていくけれど、それで内面の寂しさは癒せない。
そもそも音楽&虚勢という生存戦略はアーティストとしてのし上がることに特化しているので、私生活を豊かにするには役に立たないわけです。それどころかスターダムにのし上がればのし上がるほど、マスコミの下世話な視線に晒され、心無い詮索で私生活が崩壊していく。仕事(音楽)に逃げ込もうとするその弱い心が、事態を決定的に悪化させてしまう。
バンドは危機だし、フレディは仲間からも「キミって時々本当にクズ野郎になるよね」といわれてしまう。スクリーンを見ながら「せやな」と言わざるをえないわけですよ。
フレディは、フレディの才能に殺されつつあるわけです。
この映画でふたり大好きな登場人物が居て、そのひとりはバンドの精神的なリーダー?であったブライアン・メイ(演グウィリム・リー)。この人の演技が、めちゃくちゃ良かった。特にセリフにならない表情の動きみたいなもので、映画の深みを何層も掘り下げてくれました。
喧嘩をした直後に浮かべる「仕方ないなあ」というような許容の表情や、ラストのライブシーン中の「言葉にしなくてもわかってるよ」とでもいいたげなさりげない承認の表情など、どんだけバンドが砕け散りそうでも、メンバーと音楽に対する愛を、演技だけで表現してのけた。ぶっちゃけすごい。
朴訥な、言葉は悪いけれど垢抜けない田舎者風のキャラ構築だけど、静かな思いやりと知性が感じられるっていう難しい役だったのにね。
もうひとりはジム“マイアミ”ハーバー。このひとは、当初クイーンというバンドにプロデューサーから紹介された弁護士として登場します。契約面でクイーンを支えるためのスタッフのひとりでした。
出会ったその最初のシーンで(ヤング傲慢な)フレディから「ジムという名前はつまらないんでマイアミに変えろ」くらいのことは言われて笑いのもととなり、つまりはコメディキャラの位置づけです。
でも物語中盤、フレディは誤解と癇癪からマネージャーであるジョン・リードを一方的にクビにしてしまうわけです。そしてフレディは、後任のマネージャーを「次のマネージャーはきみだ」のひとことで、その場に居たジム“マイアミ”ハーバーに押し付けちゃうわけっすよ。
そんなの嫌でしょ。自分なら引き受けたくないです。だってクイーンの連中は音楽やってるとき以外は飲んだくれてるか喧嘩してるか女といちゃついてるかで、偉そうだし、わがままだし、人の話聞かないし、どう控えめに評価しても糞ガキ(主にフレディ)だもの。
でも、ジム“マイアミ”ハーバーはスタジオで演奏しているクイーンを見て、引き受けてしまう。「わかった、やるよ!」といってしまう。それがすごく胸に詰まるシーンでした。
だってさ、たしかにクイーンは(主にフレディ)は人の迷惑を考えないクソ野郎だけど、音楽の才能は本物で、それ以上に音楽と観客に対して真摯なのは見ててわかるんだよね。そこだけは本気で一切手抜きしないで、いいものを作ろうとしてるのがわかるのだ。
ジム“マイアミ”ハーバーは弁護士としてのキャリアもあるし、こんなワガママ集団のお守りなんかしなくても十分生活できるはずでしょ。一方、クイーンのマネージャーを引き受けるっていうのは彼らのツアーにもついていくだろうし、各方面からの問い合わせやスケジュール管理もしなきゃいけないわけでしょう。それは控えめに言って、人生を捧げるってのとほぼイコールですよ。このわがまま集団を守って、彼らの盾になり続けるという意味だ。
立派な大の男の人生を進路変更させてしまう、クイーンの音楽のちからってのは、別段彼らの業績を知らないスクリーンのこちらの素人にも、やっぱり分かるんですよ。そこで迂闊にもホロリと泣けてしまった。
(あとで調べて、彼ジム“マイアミ”ハーバー本人は最後までマネージャーを続けて、この映画の制作にも関わったことを知って二度泣けました)
フレディは前述の通り、性自認の問題やら持ち前の癇癪から疑心暗鬼になって、「家族」とまで思っていたバンドメンバーを遠ざけて孤独になり、その孤独がつらくてより酒におぼれて生活がぼろぼろになっていく。
でもそういう最悪の時期を、元恋人のメアリーの助言で断ち切ってバンドメンバーのもとに戻るわけです。
そこから映画はクライマックスへ、復帰のための厳しいレッスンから1985年のライブエイドに向かっていく。自分がHIVに罹患していて余命がいくばくもないこと。でもそれでも「同情はゴメンだ。俺の望みは残りの人生を音楽に捧げることなんだ」とフレディは仲間に言うわけです。
それに対する仲間のアンサーが「お前は伝説だ」と。
でもフレディは「俺たち全員だ」と応えてライブへとつながってゆきます。幾つもの和解があって、ライブ当日、フレディは素晴らしいパフォーマンスを見せる――というのがクライマックスの展開なわけです。そこで立て続けに流れる名曲の数々ですが、やはりひときわクローズアップされているのが"We Are The Champions"という楽曲です。
おそらく誰もが耳にしたことがあるこの曲が名曲だってのはもちろんあるんですが、やはり、この物語の中では、すごく重いです。そして良かったです。
この曲は確か公開当時「傲慢な歌詞だ」という批判を受けたはずなんだけど、実際映画館で、物語の中で聞くと、ちっともそういう曲には聞こえないんですよ。歌詞そのものは「俺たちはチャンピオン(勝利者)だ。今まで色々やってきた結果勝利者になった。敗北者に用はない。俺たちはこれからも挑むんだ」というもので、なるほどそう要約してみれば、傲慢にも聞こえます。とくに大セールスを記録した世界的アーティストのそれともなれば、そういうやっかみを受けるかもしれない。
でも、そういうふうには聞こえなかった。
むしろ、今まで自分たちがやってきた努力や行動のすべてを自分たちは自分たち自身に胸を張っているけれど、それを周囲には理解してもらえてない、“未だ自分たちは最終的な何かを何も受け取っていない”若者である自分が、自分自身に対して「俺たちは勝利者だ」と励ましているような、自分と友達を鼓舞するような、そんな曲に聞こえるのです。
たしかに名声も金も手に入れたけれど、でもだからといってそれがゴールだなんて思わない。今現在の環境は決着ではない、だから敗北者に用はない。もっともっとおれたちは目指す何かに向かって、求めていた何かに向かって手をのばすんだ。そんな歌詞に聞こえてしかたがないわけです。
人間は人生の何処かのシーンで、自分を励まさずにいられない心境になるってどうしようもなくあると思うんですよ。
苦境にあっても、自分は間違っていない。今まで歩いてきた道は愚かだったわけではない。それを証明するために現在という試練を超えて、未来で何かを手にしたい。
そんな気持ちは世界的アーティストであろうともそこらに兄ちゃんやおっさんであっても、抱くことはある。むしろそこらのおっさんやおばさんだからこそ、自分を応援する必要がある。多くの観衆のそういう内面の祈りのような感情を、本人に変わって歌い上げるからこそ大スターになれるんじゃないかと思うわけです。
だから"We Are The Champions"という曲におけるWeは、フレディでありクイーンのメンバーであり、ライブエイドの観客であり、そしてこの映画を見ている人間でもあるわけです。
それがとても良かった。この映画を自分に関する物語として見れることが、とても良かった。
これらのことは別段クイーンの情報を知らずとも、楽曲に対する知識がなくてもこの映画を見るだけで十分についていけます。
この映画は、伝説的バンドのクイーンというのが居てその偉業にひれ伏すためのものではなく、かと言って歴史的な事実に対して○×クイズをするための出題でもなく、音楽に深い愛を捧げた内気な少年がプライドと虚勢を頼りに世界と戦った――そして最後には家族の元へと戻り偉大な勝利を得た。
そういうビルドゥングスロマンの映画であって、あるいは中途半端に知識のあるファンよりも、何も知らない世代や人々にこそ深く刺さるものだったと思います。
構図としては「キャパオーバーの自転車を撤去して予算もゲット」という表層的には市民に不利益を与える行動を選んでいるようには見えて、
予算ゲットどころか、おそらく撤去・保管費用で持ち出しにしかなってない。
ある一面を切り取った場合に、本来解決すべき不利益を社会人ですらない学生に皺寄せとして与えている、というのは屁理屈だが一面において正しく、その辺の感情的鬱屈がああいった文章を書かせてしまったのかなぁ、と思った次第である。
学生は税金こそ払ってはいないが社会の成員ではある。いやな言い方だが、むしろ「社会に金を掛けさせて勉強している身」ですらある。まだ学生なのだから社会に迷惑をかけても仕方がないというのは、すでに屁理屈にすらなっていない。理屈以下。
何故か卑屈っぽく被害者意識が強いあたりがいかにも京大生らしいと思う反面、簡単な論理構築すらできないあたりのレベルを超えたバカさに一周回って本当に京大生か?という疑いも。