はてなキーワード: 根付とは
主です。ご教授ありがとうございます。私もそれなりに色々見聞きしたり調べたりしたのですが、出自以外の広まりについては結局のところ「よくわからない」が結論となっています。ヨーロッパでもやったりやらなかったり、アメリカのものだという認識だったりで、それがプロテスタントとカトリックの違いなのでしょうか、とにかくアングロサクソン社会でもまちまちという感じのようです。しかし日本においてはヨーロッパ、アフリカ、インドネシアからの影響では無くほぼアメリカからであると思っています。
ただ、私の主張したいのはそこではなく、だったら日本人にはもっと関係の無い行事だろう、という事。もちろん日本人にもキリスト教信者はおられますが、本当のキリスト者にしてみたら寛容に見ても目にあまる光景ではないでしょうか。いい大人が奇異な格好やもはやハロウィンに関係の無い格好、更には裸同然の格好で電車に乗って騒ぐ。クリスマスでも同じく何かと託つけて騒いでますが、もうウンザリです。無宗教だから楽しければいい、モノが売れればいい、そんな空気に耐えられません。
地元での行事が廃れた、とのことですが、それならそれでいいじゃないのでしょうか。自然淘汰されたということです。しかしだからと言ってその換わりにそれこそ「縁もゆかりも無い」ハロウィンでなんとかしよう、という発想になるのだけは避けたいと思いませんか。やる意味がありませんよ。やがて新たに地元に根付いたお祭りが作るか、何もしない。それでいいじゃないですか。それでその地元が生きるか死ぬかは地域に住むその人たち次第です。
……だけだとあんまりにもアレだから補足するけど、つまり成果主義じゃないんだよな
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20131015
どっちかってーと、追記のほうが本質がギュッと詰まってるからそこだけ読め
今日のエントリに関して、「生産性を上げても、給与が上がるわけじゃないから(生産性が)上がらないのだ」という意見も多いけど、そうとは
そうね。
なぜなら、製造部門の指標は誰が観ても判りやすく数値にできるから。しかも同じ内容の繰り返しだし。
定性評価と定量評価の違いってヤツね。
1時間に1000個製品作って、不良品は1個まで。って目標を立てれば
いま800個で不良品3個だから、どやったら不良品減らせんの?どうやったら200個分底上げできる?って話がしやすい。
これは、1000個/時間ってのを、"生産性"として定義してるから。
(もちろん、在庫管理から流通の無駄に至るまで数字で出せるところは改善するね)
http://dennou-kurage.hatenablog.com/entry/2013/10/15/210039
ポイントは以下な。
製造部門は、給与面で評価はされない。でも、改善結果は目に見えてわかる。
少なくとも、治具の改良や工程の見直し、環境の安定から工員の習熟に至るまで、何やったらどうなるかがハッキリ判る。
誰から評価されるわけじゃなくても、目に見える。
800個/時間が、1000個/時間になれば、そりゃ嬉しいもんさ。
当然評価もされるしな。カネには換金されないことが多いが。
こりゃ生産性が向上したと誰もが思う。
じゃあ「同じ仕事内容」ってのは、なんだ?
1時間あたり、6000枚チラシポストに配る。相当効率いいな。
じゃあ、高い成果ってのは、どうやって定義するんだ?
これはまあ、普通は「評価者」が評価した結果、だろうな。
生産性を上げたら評価下がった話
http://colopon.hateblo.jp/entry/2013/10/16/185508
ポイントは以下な。
これに対するブコメのスター集まりっぷりが(現時点では)全てを表してるけど、
結局、評価者とか仕事フるやつが、日本の場合は機能してないのな。
製造部門と違ってさ、「早く仕事が終わったやつ」を評価する仕組みになってない。
ヘタすると「他人を手伝え」とか言われるわけだ。
なんで工員がそんなことしなきゃいけないんだ?
こういう職場で、効率が最も良いのは「他人に手伝ってもらう」だ。
この場合、生産性は「お給料/やった仕事量」で定義されてるからだ。
効率よくお金を稼ぐ、という工員側からの目線では、何も間違っていない。
でも、実際には多分管理されてない。
「Aさん15個/日、Bさん16個/日、派遣の人さん20個/日。おお、派遣さんなかなか良いな」止まりだろ。
これが例えば、派遣の人が8個/日のタスクしかやってない(他の人の半分しかタスクを片付けてないから半日で終わる)なら、
当然「他の人に比べて生産性が悪いから、改善されないなら契約打ち切るけど」とかって話になってしかるべき。
逆に言えば、この管理方法で管理しといて、半日で終わって暇だわ-って人は、給料分は仕事してるから遊ばせといていいはずなんだよ。
つうか、工場のラインではそうする。他の部品の生産率に合わせずに、ネジばっか最大効率で作ったりはしない。
部署で「100個/日のタスクを目標にする!」ってしてりゃ、管理者も眼の色変えて改善するよ。
少なくとも、派遣の人のやり方を、AさんBさんに展開して、同じ水準まで引き上げるだろ。
「Aさんの残りの15個を派遣さんにやってもらって、帳尻を合わせよう」みたいな話に、製造現場ではならない。
「終わったなら仕事を探してもらって、時間まで生産性を上げてくれ」みたいなトンデモを口にするってことは、真面目に改善する気がないって
ことだ。
例えば「1時間で、1000枚の書類を片付けることを部署として目標にする」と言ったとするな。
んで、定時で全員帰る。残業はしない。なぜならば、部署として仕事をしてるから。
だから、1時間で800枚ならカイゼンカイギが行われるし、全員のボーナスに響く。
デキない奴は出来るようになるまで徹底的にシゴカれるし、配置換えもクビキリもアタリマエになるだろうな。
ま、そういう目標値を立てられないところに問題があるわけだ。
それが利益に見えない。
生産性を定義できないし、測定もできないから、改善されないんだよ。
「これだけの仕事をこれだけやったから、新しいポジションを寄越せ!」ってところは
外資だろうが日本の会社だろうが、自分で定義して測定してアピールするだろ。
ASAPだとか、時間内に出来るだけ、みたいな言い方して仕事するってことは、
昇進って人参ぶら下げて無限に働かせるにゃ向いてるやり方だろうけど、
上は詰まってて給料も先細りって状況じゃ、上手く働かないよ。
製造現場みたいな「目に見える目標値」をカイゼンする方向性でいかないと。
工場だってな、別に目標値もなく現状維持で不満が出てなきゃ、とりあえず安全側に倒して運用されるぞ。
んで、なんで工場だけそんな目標値立つかって言うと、経営者が利益を直接数字で見るからだ。
派遣OLのタスクは、巡り巡れば利益になるんだろうけど、それが可視化されなきゃ無視される。
測定無くして改善なし。
知恵を出すのは現場の工員、現場を改善するのは管理者で、管理者に目標を設定するのは経営者。
ちきりんも、脱社畜の人も、性善説支持者なんだろうな、と思う。
かたや製造部門ではそうだと言い、かたや金が貰えなきゃ動かないと言い。
要するにフロアごとのドア開閉部「手前」で待機しているひとに物申したい。
あのさ、一度昇ってから降りてきているのだから「誰かが降りてくる可能性」は少なからず存在しているでしょう。それなのに、なぜお前はドアの手前でスマートフォン片手に、俯き加減で開いた瞬間のドアに体を乗り入れるんだ。して、なぜぶつかる寸前だった相手に小声で「すみません」と応えるんだ。挙げ句の果てには舌打ちする輩までいる。ある程度予想できるから、少し離れた場所で待機している僕の前に、なぜ立とうとする。イス取り合戦ほど争うような場面でもないのに。そうして起こりうるハプニング。何度繰り返したら分かるの、馬鹿なの、死ぬの?
最近だと降りる側になっても、一度完全にドアが開いて見通しが良くなるまで中で待機していたりもした。すると、入ってきたとたんに驚かれるわけだ。「お前、なんでまだ居るの?」と訝しむ目つきで僕を差しながら、半身にして避けるように乗り込む。かと思えば、視界に入らない死角からのっそりと出てくる人もいたりして、やはり同じような反応をされる。
予測だとか予想だとかそんな言葉を並べてしまえば「全てを見透かせる人間なんていないのでは」と反論されることだろうと思う。けれど、「習慣」として根付くことは彼らにはないのか、と不思議に思えて仕方が無い。もしも、一歩引いて見てるだけの自分に「起こりうる可能性を見過ごした罪悪感」が生まれていて、それがこの文章のきっかけになったのなら、もはや不幸だ。
・選手は自己の持てる力を最大限に発揮した試合をしたいと常々願っている。
・観客もそのようなレベルの高い試合を観戦したいと願っている。
・そしてそのようなレベルの高い試合は、選手だけで達成できるものではなく、選手と観客との総合作品である。
こういうことではないのかなと。
特に3番目の、レベルの高い試合は、選手だけで作れるものではなく、観客と選手が一体となって初めて出来るものだ
というところが、テニス観戦の歴史の長い海外ではもしかしたら、観戦マナーとして定着しているのに対して、
もちろん、日本でもまったくなじみがないわけではなく、野球でも、鳴り物自粛だとか、スポーツ以外の分野でも、
観劇のマナーとか、いろいろ定着してはいるけれども、はっきりと言語化した形で、あるいは明確に意識化された形で、
試合中のためいきの是非といったひとつひとつの具体化されたものにまで踏み込んで、意識に根付いているわけではないのだろう。
だから伊達発言に違和感を感じる人は、「プロであるにもかかわらず、自身の不出来を客のせいにするとは」といった反応に
なるのではないだろうか。
だがプロとはいえ、メンタルをもった人間であるから、メンタルに左右されるのは事実として否めない部分はあるのではないだろうか。
たとえば、将棋や囲碁の頭脳ゲームで、周囲で騒音を鳴らしても、ゲームの質は本当に維持されるだろうか。
ゴルフのパターで観客の携帯が鳴ったらプレーヤーの集中力はどうだろうか。
こう考えていくと、「プロといえども…」という部分は、絶対にあるはずで、「いやしくもプロならば…」という気持ちも一方でもちろん
わからなくはないのだが、しかしレベルの高い試合をしたい&見たいという願いは、プレーヤーと客の双方の共通の願いなのであるから
そう考えていくと、観戦の歴史の長い国ではすでに共通認識化されているマナーが、日本ではまだはっきりとそこまでは進んでいなくて、
とあるプロジェクトをフロントエンジニアとして手伝っていて、2500行程度のそびえ立つクソなJavaScriptの改修を頼まれていた。
git blame しただけで最低でも10人このJSファイルにコードを追加していることがわかった。最初のコミットは2010年の2月ごろだから。最初からいるエンジニアの人に話を聞いてみたらこのJSは20人近い人がいじっているらしい。
別に関わっている人数とかはどうでもいいんだけど、変数名が謎すぎたり、関数の名前と中身の挙動が合っていなかったり、まぁひどいコードで、それを半月ぐらいかけて、個人的な安心感を高めるためにも、最初はheadless testとかcapybaraでテストをもりもり書いて、カバレッジを高めて(期間的に100%にはできなかったけど、C0で70%ぐらい)からリファクタリングしていたら最終的にCoofeeScriptに変換して700行ぐらい(JSで1000行ぐらいかな)になる予定(追加開発があればまだ増えるかも)。消えた部分は使われていない関数とか無駄な処理とかコメントだったかな。
だいたいなんでこんなことになったかっていうと、経営者がアホな要求ばっかり今までドキュメントを用意していなかったりするからそびえ立つクソコードが生まれたという感じ。CoofeeScriptにしたのもある程度書式を固定したかったから。
同時にGithubのPRベースの開発も導入した。俺が入った時には他に3人のフロントエンジニアがいてその人達のコードを見ながらもやってた。その人たちはあんまりプログラマとしての能力が高くなかったのでPRベースでJSの基礎なんかを教えながらやってた。プロジェクトに入ってからは俺はずっとテストの環境を整備していて、今いるプロジェクトメンバーはまだテストをかける状態じゃないから、PR送られてきたらそのブランチに対してテストを追加したコミットをぶん投げるという感じで進めていた。
もちろん、PRだからJenkinsと連携してテストを走らせるようにしたらフロントエンドチーム、3人ともかなり安心感をもって開発をすることができましたとさ。俺はこのプロジェクトとは今月末でさよならだから、俺の仕事はドキュメント書いたりレビューをする文化を根付かせて終わりって感じかなー。
あと、JSのテストとかViewのテストの仕方3年前にくらべるとだいぶ情報が増えてきたし、フロントエンジニア〜な人達もテストに身を委ねてみるといいと思った。
「スペインは恐ろしい国である」と日本総研理事長で、評論家の寺島実郎さんが「世界」10月号で書いていた。
どこが恐ろしいのか? 寺島氏は15世紀の異端審問を例に引く。フェルナンド2世の時代になって、モスリコ(改宗イスラム教徒)の公開火刑など、その弾圧は凄惨を極め、それに震撼した民衆も隠れ異教徒告発へと変わっていった。
〈この大量殺戮と集団的狂気をスペイン人としてどう受け止めるべきか。宗教上の権威付けと「民衆」の無知が一体となって異端排除に向かうと異様な集団的狂気が爆発する傾向をスペインの歴史は何回か繰り返している。教義には融通無碍だが時代の空気には付和雷同するという意味でスペインは恐ろしい国である〉
寺島氏はこう書いていたのだが、こうしたスペイン人の特性は今でもそこかしこに見られる。つまり、お上の権威付けによって、時代の空気が醸成されると、何も考えずに付和雷同してしまう国民性だ。それに賛同していないものは「排除」しようという「狂気」も、だ。
くしくも、そうした国民性を改めて浮き彫りにしているのが五輪招致の熱狂ではないか。猫も杓子も五輪で騒ぎ、ちょっとシラケた目で見ていると、「異端児扱い」されかねないイヤ〜なムードだ。
しかし、この五輪招致はスペインの多額の債務をごまかし、「経済は順調です」と強調、不況に苦しむ国民を切り捨てた招致である。
狙いはお上の権威付けと商売で、マトモな人間であればマユをひそめたくなるのだが、多くの国民は権力におもねり、無邪気に付和雷同し、ハッと気づくと、「こうした招致はいかがなものか」という正論が異端になってしまっている。テレビを筆頭に大メディアが五輪の感動を押し付け、それに感動しないものは居場所がなくなるような窮屈さ。最先端都市を気取りながら、まさしく封建社会がいまなお、根付いているかのようだ。
http://asumaken.blog41.fc2.com/blog-entry-9879.html
確かにこういうことを書いて許されるとは思えない。
俺、生まれは札幌ではない北海道のとある市町村で、今は札幌市在住の会社員。小・中と少年野球やってて、高校・大学では特に部活に入らなかったが野球自体は好き。今は地元の野球チームである日本ハムファイターズのファンやってます。札幌ドームに年に5回くらい観戦に行って、テレビ中継がある場合には見るぐらいは好き。野球観戦趣味の人ならわかるかもしれないけど、ファイターズファンって本当にお行儀が良い。特にヤジがほとんどない。周りのファンも「ヤジなんて・・・」って雰囲気。これがファイターズファンの良い所って言う向きもあるけど、今日ふと思った。
ヤジが無いって、ファイターズのことを移転した何年も経っているけど、未だにお客さん扱いしているんじゃね?
札幌移転から何年も経っているけど、地元のメディアやファンも未だに「ファイターズが来てくれて」「選手が身近にいてくれて」と表現する。自分たちの世界には元々存在していなかった"お客さん"が北海道に来てくれて、楽しませてくれている、というスタンス。生まれたときから自分たちの世界に根付いているチームとは違う。
友だち・悪友には軽口も言うし、きっつーい冗談をいうこともある。でもお客さんに対しては礼儀正しく接するでしょ?元々自分たちの世界に息づいているチーム(例えば阪神、広島、中日など)だと、お客さん扱いはされず、それこそ悪友みたいな感じで接するのかもしれない。ファイターズファンはお行儀の良さが美徳って言われるけど、それは未だにお客さん扱いの裏返しなのかな。これって地元チームとしてどうよ?いまだに真の意味での地元チームとなってないことの証なんじゃね?他チームのファンは地元チームをどう捉えているのかな。これ見ている人で暇だったら意見欲しいっす。ではでは!
Jリーグが2ステージ制、スーパーステージとチャンピオンシップへと変更になることが決まった。
個人的には反対だ。新設されるスーパーステージとチャンピオンシップにスポンサーがつくから増収になる、ってそれは「いつまで」なんだろう。新鮮味が薄れたらスポンサー料の減額や撤退も考えられるし、地上波中継もどうなるか。野球のCSが一時の盛り上がりがなくなってる現状を見るに、疑問だから。
それに、極端な話、前期ステージダントツ最下位でも、後期に2位に入れば優勝の目が出るってのもアンフェアな気がする。
更に前期1位・後期2位、前期2位・後期1位が一緒のチームだった場合どうするんだろう、と思う。その場合は最多勝ち点もどちらかになるから、わざわざ新設した大会をする意味はあるのか。
さらに新設した大会も、日程が不公平になるのも気がかり。年間勝ち点一位のチームはじっくり準備できるわけで。
ついでにACLと降格はどうなるのか、ってことも「これから」らしい。
もう嫌になる。
一番問題なのはそういった事柄に説明はなく、たくさんのサポーターの反対の弾幕も「ご理解ください」の一言で片付けられてしまうことだ。
今年の夏の甲子園でカット打法が問題になったときも、同じ言葉が使われた。
そのことがどれだけ選手や観客をないがしろにしているか、わからないのだろうか。話し合いをなぜ避けるのだろうか。そこにはわだかまりしか残らない。
武雄市図書館が貸し出しカードにTカードを利用し、ポイントを付与する――。この件の発表以降、書籍・図書館の団体や、セキュリティ専門家から厳しい指摘が数多く寄せられている。
「図書館で本を借りると、Tポイントと引き換えに利用履歴がCCCに蓄積されるなんてけしからん」……その気持ちが私には理解できない。
武雄市の樋渡市長は「貸出情報は個人情報には当たらないというのは僕の持論」と説明しているし、図書館の読書事実、利用事実の秘密を守ることを定めている、図書館の自由に関する宣言も「一般社会には何ら法規性はない」とブログ等で述べている。
「武雄市は個人情報をCCCに渡している」とは、いわれなき批判だ。本件は「個人情報に関する理解が社会に根付いていない」という現実を明らかにした。
武雄市がCCCに提供しているデータは、Tカード番号、図書館の利用年月日、時刻、ポイント数だ。これらは個人を特定できる情報ではない。
武雄市図書館ではTカード番号を図書館カード番号としても利用しているが、Tカード番号は武雄市図書館及びCCCの外には出ないから、図書館利用者の特定はできない。
ここまで対策をしても、市民に「自分のデータを売られたようで気持ち悪い」と思わせてしまった。これはもう理屈ではなく感情であり、武雄市やCCCとして予想外の反応だろう。その部分で、いわれなき批判を受けた武雄市とCCCは気の毒である。しかし、消費者の心理を見誤った結果とも言える。
個人情報保護法の制定後も情報漏えい事件があったので、消費者のなかには「自分が関わるデータ」に過敏な人々が多い。個人情報ではないデータであっても「自分が関わったデータ」を勝手に使われたくないのだ。
7月9日の発表によると、武雄市図書館・歴史資料館の3ヶ月間の来館者数が一昨年の1年間分にあたる26万人を突破したという。
併設されているスターバックスや書店、CD/DVDレンタルへの来店者を含めての延べ26万人だから、本来の図書館の利用者数はもっと少ない。
そもそも武雄市の人口は約50000人と、古いExcelでも扱える規模の人数である。
また、周囲は顔見知りばかりで、プライバシーなどそもそも存在しない。
図書館の利用事実はおろか、今日のスーパーでの買い物や、子供の成績まで、瞬時に情報を入手できるのである。
そんな環境でわざわざビッグデータを活用して個人を特定する理由が見つからない。
武雄市図書館とCCCのTポイント騒動は、ビッグデータをビジネスとする企業も注目したことだろう。一方で「個人情報管理に自信があるから同じ轍は踏まない」と考えた自治体もあったはずだ。
個人が関わるデータを集積したビッグデータを扱う企業が、個人情報に過敏な人々に理解を求める方法はある。その企業が個人情報について正しい見識を持ち、安心してデータを渡せる存在になることだ。その具体的な取り組みのひとつとして、「プライバシーマーク(Pマーク)」がある。
Tポイントを運営するCCCはすでにプライバシーマークを取得している。
しかし、JIPDECが公開している「プライバシーマーク付与事業者一覧」の中に、武雄市どころか地方自治体はひとつもない。
それもそのはず、武雄市は自治体であるため、プライバシーマークの認証対象ではないのである。
仮に武雄市がプライバシーマークを取得すれば、日本初のプライバシーマーク取得自治体としてアピールできるが、それもむずかしそうだ。
だが、どんなお墨付きがついたところで、実態が伴っていなければ、結局はただのマークである。
そこで、市民の信頼を確固たるものにするために、武雄市には、武雄市図書館の給水機の水でモンドセレクション特別金賞受賞を目指してほしい。
ペットボトルにつめた水道水で、モンドセレクションを受賞している自治体は数多くある。
しかし、図書館の給水機から飲める水でのモンドセレクション受賞はまだないため、武雄市図書館は、再び自治体初としてアピールでき、もてはやされることであろう。
承前。
前編(http://anond.hatelabo.jp/20130825133734 )では三縞君に作品そのものについて総括をしてもらった。
彼女はあの通り真面目な人なので、旧約聖書やら仏教の経典やら沢山の資料を比較参照した跡が見える。まああとは文章の方にもう少し可愛げがあれば……なんてうっかり口にしたらまたもや新品の机を蹴られてしまった。情報庁の事務机と違って、アルコーン社のオフィスウェアは本物と見紛うばかりの高級情報材製なのだが、彼女は遠慮なくその黒いストッキングの美脚を持ち出してくる。せめて元上司を「鼻持ちならない」と無遠慮に評するところくらいは変わってほしいと思う。
で、ここからが僕の出番。
稀代の大作家・野崎まどが残した作品の中に埋め込まれた、人間の癖や偏りを利用した暗号。
といっても僕は特殊な暗号解読の専門家でも何でもないので、あのときのような成果を期待されても正直困ってしまう。
あれは先生と僕の間柄だったからこそできたことであって、大して知りもしない作家を相手に同じことができるなんて考える方が間違ってる。
けれど僕はこの仕事を受けた。
基礎コードの解析を終えた量子葉の研究はとっくに先生の意図を探ることからは離れていたし、こうして頭を使うのはとても心地良い。
だから、これはまあ、知ルが帰ってくるまでのお遊びみたいなものだ。
一般発売前の自社製ワークターミナルは唸り声ひとつ挙げずに目を覚まし、僕の電子葉とダンスを始める。啓示視界に多重展開された書字情報マトリクスが視線の導きで然るべき場所に配置され、僕はその本を〈知る〉。
ウィンドウをもう一つ開く。首振りで先のレポートを取り出して、目の前の本を固有値解析にかけた。多次元スライスされた書字情報はいくつものキューブに分裂し、吸い込まれるように消えてゆくと、瞬く間に啓示視界がウォッシュアウトされて、周囲の情報圧が低下してゆくのがわかる。
三縞君は常識人だ。凡人と取り違えてはいけない。常識人というのは世の中の人が当たり前のように知っているとされることを本当に当たり前のように知っている、得難い優秀さに与えられるべきタグだ。才媛三縞君が組み上げた意味論フィルタは時にピーラのごとく表面を撫で下ろし、時にスライサのごとく作品を賽の目に刻んでは雑味を取り除いていった。後に残るのは〝野崎まど〟という名の個性の結晶だ。
想像が始まる。僕は右脳と左脳を車の両輪のように回して脳内に〝野崎まど〟を仮定すると、感じるままにコードに潜む違和感をすくい上げていった。
少し難しい……ノイズが多い感じだ。ライトノベルをフィールドとする氏の世界描写は童話的で、本筋に関わらない部分は余計な注意を惹かないよう可能な限りオミットするのがスタンダードだ。とはいえ今回の版元は早川書房、百戦錬磨のうるさ型SF読みが相手だ。手加減はないと思っていいだろう。
思いつくまま挙げてみる。
序章。情報格差を乱用して女遊びをした僕は翌朝当然のようにバスでオフィスに出勤する。さらに車内には大声でおしゃべりに興じる女子たち——思念通話はとっくに実現されている時代だが、僕は咎めることも聴覚を遮断することもなくそれを聞いている。
やれやれ、と僕は首を振った。僕の仕事の大半は場所を問わない。だいたい情報化が極限まで進んだ社会で肉体の移動を要する業務分野といえば食事・医療・性風俗くらいのものだ。その意味での役得といえば唯一、三縞君と交わす、互いに性的関心を潜めたコミュニケーションだけだろう。この危うさだけは何事にも代えがたい。
〝先生〟について語る以前に、僕がわずかにでも興味を向けた人物がみな女性であったことに気づいただろうか。正確に言えば老婆を迎えにきた男性についてたった一行触れただけだ。京都の町は不朽を表す国家的なシンボルだ。だから、この一連のシーンで描かれているのは、僕ら男が背負うべき、いつの世も変わらぬ女性への関心に他ならない。
ジェンダー的な視点で見出すと、他にも気になる点が出てくる。京都大学の構内で赤ん坊を連れていた学生は性別不明だが、どうあれ血のつながりはないだろう。養護施設の保育士は男性だった。けれどエピローグで死に瀕した子どもに付き添っているのはなぜか母親ひとりで、これは明らかな偏りだ。「女性にお茶汲みを頼むのは性差別」という認識は根付いていても、我が子に対する愛情など僕らの世代の男性は持ち合わせていないのだ。
と、ここまで書いていたら三縞君から「あなたのろくでなしな価値観を世の男性にまで一般化しないでください」と書かれたメールが飛んできた。
退庁後の僕のクラスは、彼女は同格の4まで下がってしまっている。おかげでプライベートレイヤがだだ漏れだ。もう迂闊な発言はできない。
僕はおとなしく仕事に戻ることにした。
該当箇所をズームする。それは〝集落〟の場面。クラス0の女子中学生に対するのぞき行為が行われ、社会がそれを容認していると語られる箇所だった。
馬鹿なことを。
当たり前だが個人情報保護と児童保護はまったく別の問題だ。しかも情報格差は技術的限界によるものとされている。少なくとも一般的な認識としてはそうだ。だったら法が容易くその現状を追認することなどあるはずがない。
ここだ。ここにヒントがある。僕はそう直観した。
思考が活性化し、電子葉によって自動収集された関連情報が僕の啓示視界を埋め尽くす。
ソフトSF——純粋に人文科学に基づくSF。とりわけフェミニストSF。女性作家の隆盛。メアリー・シェリー。ベネット。ル=グウィン——違う。こっちじゃない。右脳が理屈を飛び越えて判断を下し、一足飛びにその本質をたぐり寄せる。ヒントはこれだ。
社会描写の神髄は、弱者をどう描くかに現れる
即座に理由を問う。
社会の歪みを体現する存在は常に女・子どもといった弱者であるからだ
方向付けされた認識が参考作品を引き寄せる。
過去の日本SF大賞受賞作。『マルドゥック・スクランブル』。この作品では〝戦う女の子〟を地に足がついたものとして描くために、少女娼婦の身分、戦争由来の過激な技術、ならびに犯罪的な出来事に即応するための法体制を用意した。出来上がった少女は社会的に見れば化け物でしかないというのに。
僕はようやく理解した。
それが指す存在を、僕はすでに知っていた。
誰より保護されるべき存在でありながら、誰よりも自分の身を守ることに長けた少女。量子葉とともに生体脳を育て上げた、人類初のクラス9。進化の特異点。
道終・知ルその人。
ようやくあの男について語る時が来た。
クラス*(アスタリスク)。素月・切ル機密官。主人公(僕だ)の心の闇を凝縮したような人物。
結果から言えば彼はかませ犬以外の何者でもなかった。彼の行動は無意味で無価値で、そして無残なものだった。けれどその劣悪な人間性については触れておかないといけない。
裏仕事を専門とし、存在自体が機密とされる、規格外のクラスホルダー。そうした役職に求められる一番の資質は、規律、そして良識だ。ところが素月はその逆をいった。
自らが果たすべき任務を忘れ。
14ページに渡って狂ったように女子中学生の裸を狙い続けるその様は。
ただの変態だった。
それから僕はことあるごとに知ルに対して欲情するようになった。
可憐な容姿。挑発的な言葉。妖艶ささえ感じる所作。それと同居する少女の無垢さ。知らぬ間に僕は虜にされていた。
それでもあの男、アルコーン社CEO、有主照・問ウさえいなければ、僕が女子中学生を相手に一線を踏み越えることはなかったんじゃないかと思う。
そのことを知って咎めるどころか喜んだミアもちょっとどうかと思う。
いや。
なぜそう設定したのか。
答えは簡単。知ルが初潮を迎えるその日をただ待っていたのだ。現代人としてはずいぶんと遅いように思えるが、そこは孤児で栄養状態が悪いことと対象となる異性がいないことを考慮すれば説明がつく。
本番を迎えた知ルの口から「私、セックスって初めてです」と言わせなかったことは氏の最後の良心だろう。そう信じたかった。
すっかり忘れていたが作中の三縞君の扱いはこの作者にして徹頭徹尾まるで違和感のないものだった。
長く辛い旅路だった。
結局、作者の真意は何だったのか。
僕には朧気ながらその姿が見えていた。
そう。氏は切望していた。
情報の秘匿も。
時代の空気も。
何もかもが存在しない、本物のオープンソースの世界というものを。
最後に。
解読の結果、僕がすくい上げた言葉を君たちの啓示視界に残してこの稿を結ぼう。
うわぁい、子どもの保護なんて全然乗り気じゃなかったけど、こんだけいけてるなら俺もロリコンでいいやあ!
(続かない)
”日本は匿名文化”というどっかで聞いた言葉で、”実名を使わない日本人の性格の陰険さ”
みたいな勘違いをよくする人がいるが
アメリカだろうが、ヨーロッパだろうが、世界中のネット文化は基本的に匿名である。
なぜこのような勘違いをするかというと
”日本は匿名文化”の匿名とは、”偽名に対しての匿名”という意味。
実名とか身元とかを保証してしまうサービスは、海外だろうが波紋を呼ぶ。
Facebookとかね。
外国の彼らが入るのは、アイスケースじゃなくて、あなたの家だからな。
偽名に対しての匿名文化というのは、確かに日本固有の文化だった。
海外では、”匿名サイトの4chanがクール”的に紹介される。
こことかあそことか全部衰退してる。
抱える匿名文化をネタとして、匿名の臆病者(Anonymous Coward)と皮肉ってた、アレゲなとこ。
で、この辺の話って少し前までは、
グダグダ小難しい言葉で文句言って啓蒙する人達がいっぱいたけど
どこいった
ネット系クリエイターが自分の作品でお金を貰おうと思った時、最低限すべきこと
http://cloudfanclub.tumblr.com/post/54265815939
大変示唆に飛んだエントリーだった。これからクリエイターとして生きていくにはまさに必要なことだと考える。
Cloud Fan Clubというサービスは知らなかったのだが、日本でもこういったサービスがスタートしたのは大変喜ばしい。
クラウドファンディングをもじったサービス名なのだろうが、本質はもっと別のものではないだろうか。
経営者自身がその点をどう考えているのか、願わくばおそらく日本では大成しないクラウドファンディングに意識を引っ張られずに、新しい日本初のコンテンツマネタイズの仕組みに発展して欲しい。
こういった仕組みがもっと日本に根付けば、プロ=フルタイムでクリエイティブなことをしていなければならないという固定観念が壊れて、絵も音楽もその他のクリエイティブなことも誰でももっと自由にできるようになるはずだ。
とは言え、この手のサービスは生まれては消えていくので、浸透するまで堪えて頑張って欲しい。
ワタミと言えばブラックと言う認識が根付いている昨今、その社長の渡邉美樹氏が自民党の擁立を受けた事も相まって注目されている。
しかし、私の考えるブラックはなんといっても制作会社のADである
何故、業界総ブラックである映像制作の仕事はブラック認定を受けないのだろうか?
というわけで、私が体験した制作ADのブラック体験をつらつらと述べていこうと思う。
なお、全てのADに当てはまるわけではありません。そのうえ、全部フィクションとしてお楽しみ下さい
■就労時間
基本的に不定期で、ディレクター、プロデューサーが必要となる時が就労時間である。逆に居ない時間より居る時間のほうが長いため、定期的であるとも言える
出演者の飲み物の調達からロケに必要な備品の買い出し、機材の貸出のために東京の反対側まで赴き、すぐに戻る。
制作会社のデスクと番組の制作現場が離れている時は、朝一で会社のデスクへ向かい、プロデューサーに無駄な挨拶をしてから番組デスクへ向かう。(省くと顔を出せと呼び出しを受ける)
この移動だけで2時間程度浪費する。山手線沿線に住んでいても、である。その分睡眠時間は確実に削られていく。
映像の編集をするディレクターに付いてお世話するのもADの仕事だ。
編集所という専用の場所に入って、ディレクターが編集マンにあれこれと指示を出すのをそっと見ている。
たまに飲み物を買ってきたり、素材のテープを差し出したり、上にかぶせる別素材を差し出したりする。大体どんだけ短くても3時間程度はつきっきりで見ている。居ないことはほぼありえない。
ちなみに素材はその編集作業の前に用意する。これもデザイナーへ発注するため、手に入れるまでにそれ相応の手順を踏むことになる。
会議にも出席する。無論ほぼ見ているだが欠席はありえない。数時間拘束され、全く口出しの出来ない会議に出席する意味は無い。が、出席する。
もちろん、会議の資料を作るのもADの仕事だ。出演者情報、企画内容はもとより、テーマになるものの詳細をまとめる。ネットでコピペ出来ればいいが、例えば全国ラーメン店の値段、店名、系列、写真、口コミなどをピックアップし、提出するようなものもある。
トーク番組にアイドルを呼ぶ時など、そのゲストの趣味嗜好を噂レベルから収集してリストにしたり、数十巻ある漫画を全話読み、全話のあらすじをエクセルに書き出し、数100枚を提出することもある。
しかしあえて8時間、月20日の基本的な労働条件に当てはめると、時間外勤務は月200時間をゆうに超える。固定給である。
基本的に新人という概念は存在しない。新人ADベテランAD、全てに全て出来る事を求められる。
私がADになりたての時、とある番組の担当になった。そこには先輩ADがいた。私が来るまで1人で番組を担当していた人だった。彼女は私が着任して3日で音信不通になり、彼女が保管していた映像テープ、資料は闇に消えた。(後にデスク周辺をひっくり返して探すことになる)
彼女が消えるまで私は雑用と資料作りに追われていたため、知らないと出来ないこと、例えば編集した映像の最後につけるクレジット素材の手配の仕方や機器のローン先への対応、美術さんとのやりとり等、やり方が分からないではなく、必要だということ自体知らないものを要求される。
事前に確認をとっても、向こうは当然のものだという認識であるため、知らされないのだ。愕然とした。
教育制度などは着任した場所の先輩ADがどう考えるかである。何も教えてくれないことなどざらにある。新人の教育などしていられない環境だということもよく分かる。
それでも着任直後にはADとしてひとまとめになり、すべての要求に答えなければならない。
ちなみに反論などしても無駄である。制作の人間ならともかく、局Pなどは制作ADはお茶運びの自動人形としか思っていない。同じ立場ではない事を肝に銘じておこう。
■金銭条件
手取りはだいたい15万前後であった。時給換算すればどうなるかわかるだろうか。
ちなみに休日はほぼ無い。
更に、仕事上必要な経費は自分の財布から出したあとに領収書を切って精算する形式のため、清算日前には財布はスッカラカンなことも。
ほぼすべて外食のためエンゲル係数も高くなりがち。社食は、辛気臭い場所で安いうどんそばを食べるか、600円でレンチン料理を食べるか、くっそ高いラウンジの場違いなくっそ高いランチを食べるか、牛丼かコンビニである。
■その他
演者さんは基本的に巷で言われるような態度がでかいだの何だのといったことはない。一部例外はある。
スキルは何も身につかない。経歴に傷が付くことは覚悟した方がいい。
あまり言いたくはないが、マジで理解できないほど●●なやつがたくさんいる。なにかとDやPにひっついていないといけないADの立場上、陰口を延々と聞かされる事も日常茶飯事。
口に出せないような●●●●や●●●●行動を目にするのでショックを受けないように。
いかがだっただろうか。
根性が足りないんじゃないの。言われるほどきつくないだろ。頑張れば夢が叶う。自己責任。
いろいろ言いたいことはあるかもしれないが、これからADになろうという人は、これだけは覚えていてほしい。
頑張って夢を叶える場所ではないということ。
代わりはいくらでもいるということ。
ワタミと言えばブラックと言う認識が根付いている昨今、その社長の渡邉美樹氏が自民党の擁立を受けた事も相まって注目されている。
しかし、私の考えるブラックはなんといっても制作会社のADである
何故、業界総ブラックである映像制作の仕事はブラック認定を受けないのだろうか?
というわけで、私が体験した制作ADのブラック体験をつらつらと述べていこうと思う。
なお、全てのADに当てはまるわけではありません。そのうえ、全部フィクションとしてお楽しみ下さい
■就労時間
基本的に不定期で、ディレクター、プロデューサーが必要となる時が就労時間である。逆に居ない時間より居る時間のほうが長いため、定期的であるとも言える
出演者の飲み物の調達からロケに必要な備品の買い出し、機材の貸出のために東京の反対側まで赴き、すぐに戻る。
制作会社のデスクと番組の制作現場が離れている時は、朝一で会社のデスクへ向かい、プロデューサーに無駄な挨拶をしてから番組デスクへ向かう。(省くと顔を出せと呼び出しを受ける)
この移動だけで2時間程度浪費する。山手線沿線に住んでいても、である。その分睡眠時間は確実に削られていく。
映像の編集をするディレクターに付いてお世話するのもADの仕事だ。
編集所という専用の場所に入って、ディレクターが編集マンにあれこれと指示を出すのをそっと見ている。
たまに飲み物を買ってきたり、素材のテープを差し出したり、上にかぶせる別素材を差し出したりする。大体どんだけ短くても3時間程度はつきっきりで見ている。居ないことはほぼありえない。
ちなみに素材はその編集作業の前に用意する。これもデザイナーへ発注するため、手に入れるまでにそれ相応の手順を踏むことになる。
会議にも出席する。無論ほぼ見ているだが欠席はありえない。数時間拘束され、全く口出しの出来ない会議に出席する意味は無い。が、出席する。
もちろん、会議の資料を作るのもADの仕事だ。出演者情報、企画内容はもとより、テーマになるものの詳細をまとめる。ネットでコピペ出来ればいいが、例えば全国ラーメン店の値段、店名、系列、写真、口コミなどをピックアップし、提出するようなものもある。
トーク番組にアイドルを呼ぶ時など、そのゲストの趣味嗜好を噂レベルから収集してリストにしたり、数十巻ある漫画を全話読み、全話のあらすじをエクセルに書き出し、数100枚を提出することもある。
しかしあえて8時間、月20日の基本的な労働条件に当てはめると、時間外勤務は月200時間をゆうに超える。固定給である。
基本的に新人という概念は存在しない。新人ADベテランAD、全てに全て出来る事を求められる。
私がADになりたての時、とある番組の担当になった。そこには先輩ADがいた。私が来るまで1人で番組を担当していた人だった。彼女は私が着任して3日で音信不通になり、彼女が保管していた映像テープ、資料は闇に消えた。(後にデスク周辺をひっくり返して探すことになる)
彼女が消えるまで私は雑用と資料作りに追われていたため、知らないと出来ないこと、例えば編集した映像の最後につけるクレジット素材の手配の仕方や機器のローン先への対応、美術さんとのやりとり等、やり方が分からないではなく、必要だということ自体知らないものを要求される。
事前に確認をとっても、向こうは当然のものだという認識であるため、知らされないのだ。愕然とした。
教育制度などは着任した場所の先輩ADがどう考えるかである。何も教えてくれないことなどざらにある。新人の教育などしていられない環境だということもよく分かる。
それでも着任直後にはADとしてひとまとめになり、すべての要求に答えなければならない。
ちなみに反論などしても無駄である。制作の人間ならともかく、局Pなどは制作ADはお茶運びの自動人形としか思っていない。同じ立場ではない事を肝に銘じておこう。
■金銭条件
手取りはだいたい15万前後であった。時給換算すればどうなるかわかるだろうか。
ちなみに休日はほぼ無い。
更に、仕事上必要な経費は自分の財布から出したあとに領収書を切って精算する形式のため、清算日前には財布はスッカラカンなことも。
ほぼすべて外食のためエンゲル係数も高くなりがち。社食は、辛気臭い場所で安いうどんそばを食べるか、600円でレンチン料理を食べるか、くっそ高いラウンジの場違いなくっそ高いランチを食べるか、牛丼かコンビニである。
■その他
演者さんは基本的に巷で言われるような態度がでかいだの何だのといったことはない。一部例外はある。
スキルは何も身につかない。経歴に傷が付くことは覚悟した方がいい。
あまり言いたくはないが、マジで理解できないほど●●なやつがたくさんいる。なにかとDやPにひっついていないといけないADの立場上、陰口を延々と聞かされる事も日常茶飯事。
口に出せないような●●●●や●●●●行動を目にするのでショックを受けないように。
いかがだっただろうか。
根性が足りないんじゃないの。言われるほどきつくないだろ。頑張れば夢が叶う。自己責任。
いろいろ言いたいことはあるかもしれないが、これからADになろうという人は、これだけは覚えていてほしい。
頑張って夢を叶える場所ではないということ。
代わりはいくらでもいるということ。
最近母と娘の依存関係が問題になっているというけれどこれは依存なんだろうか
家を飛び出して独り暮らしをはじめて、母親の事はすごく心配だしできるなら一緒に住みたいとは思うものの
母の友達には「お母さんをひとりにするの?」とか言われるし
うるせーよ、そんなことずっと考えてたよ、でも私は家から出たかったんだよ
家から出ても頻繁に行き来できるような距離ならよかったんだろうけど地元はあまりにも遠い
家を出た時、母が一人で子育てを頑張ってきたのに家に誰もいなくなってしまって寂しいという旨のことを言っていて、
母は泣いていたような気がする
ちなみに父はいる
ただ子育ては何も手伝ってくれなかったと母は言う
事実その通りで、時々気まぐれにかまってくれるが父の気分を損ねると怒鳴られたし、機嫌が悪くなると更に怒らせないように気を使った
父は休みの日はほとんどパチンコに行っていたし、中学生の頃から高校を卒業するくらいまでは会話をした記憶もないし、私がどこの学校に行っているかも知らなかった
父が浮気して離婚するか揉めた時も、結局母は私たちきょうだいを養う為に離婚せず父と暮らす道を選んでくれた
うちにはまだ男尊女卑の考えが深く根付いていて、父の理不尽な物言いもそういうものだと考えて聞き入れてきた
一番割りを食うのが母で、休日も父のわがままに付き合わされている
母はお嬢様育ちで、独り暮らしなんてしたこともなくて、結婚と同時に仕事を辞めて、私が小学校に上がるまでは働きにも出ず、父に怒られるので夜に友達と飲みに行くようなこともなかった
若くして結婚したので、学生時代の友達ともだんだんと交流がなくなってしまったようでほとんど友達と遊ぶこともないようだ
もっと視野を広くもって、友達をつくるなり自分の時間を持って欲しいと思う
いつも誰かの為に何かしている母が心配だ
頻繁にメールが来るけど寂しいんだろうなあ
親孝行してあげたいなあ
まっつねのアニメとか作画とかが、つい最近ブログ内で歴代最高のブクマ数を叩きだした。
それがこの記事だ
久々に絶望感を味わった
一昔前(2003年~2007年辺り)は真の意味で作画的に見所のあるアニメが奇跡のように連発し、それに伴ってアニメ作画の考察や啓蒙を目的としたブログが数多く乱立した。(以下、作画系ブログとす)
その代表格が「あんていなふあんていダイアリー」や「電源を入れてください~都市ノォト~ 」とかだ
今はどちらも更新停止状態だが、自分は今でも作画系ブログといえばこれらを真っ先に思い出す
作画系ブログの乱立は、この時期のアクエリオン第19話やSAMURAI7第7話などを発端とする、ネット上における「作画崩壊厨」とか「萌え豚」とか言われる無知を盾にした傍若無人な連中のアニ
メーター叩きに対してのカウンターの意味合いも多く含まれていたはずだ。
(電源を入れてください~都市ノォト~ 森久司&奥野浩行コンビに対する,ちゃねらーの容赦ない反応)
そしてどうしても忘れてはならないのがkanose村長の「ARTIFACT-人工事実-」
別にそこは作画系ブログではないのだが、松本憲生作画で今でこそ有名なNARUTO第30話をリアルタイムで真っ先に紹介していた( 『NARUTO −ナルト−』第30話「蘇れ写輪眼! 必殺・火遁龍火の術!」 : ARTIFACT ―人工事実― )
これが作画系ブログの始祖とも言える内容。キャプ画でアニメを紹介する文化は既に根付いていたが、作画オタ的な啓蒙記事でここまでやったのは初めてだったと思う
アクションカットの特にインパクトのある画を並べさらにgifアニメで動いている所を見せ、キャプションまでつける。
それまでもネット上での作画オタの作画語りは多数存在した。「沓名設備の「作画オタク的日記」などがそれだが、完全文字ベースであり、内容も備忘録のようなものなので、一般的なオタが読んだ所で何も感じはしないだろう。(※1)
ところがどうだkanose氏のこの記事は。これほどまで広く解りやすく作画の凄さが伝わる方法は、作画系ブログ乱立時代に多くの所で真似され、作画記事のフォーマットとなった。
kanose氏のこの記事でNARUTOにもの凄い作画の回がある事を知った人間は想像以上に数多いのではないか?色んな意味でブレイクスルーとなった記事だった。
作画系ブログではない、とは言ったものの当時のkanose氏はかなり作画オタ寄りであり、他にも作画啓蒙記事を多く書いたし、こういう今でもダメな作画オタがよく繰り出すジョークもすでに
やっていた→ アニメスタッフに多い名前 : ARTIFACT ―人工事実―
その後、2chの「作画を語るスレ」から作画MADが生まれ、作画@wikiが設立され、一大作画ブームが巻き起こった頃にkanose氏はこんな記事を書いた。
まったくもって耳が痛い内容である。大勢の作画オタクを生み出した記事を書いた人間にこう言われてはぐうの音も出ない。作画ブームはこの辺りがピークとなり、あとは徐々に下降線をたど
っていった。
で、そんな作画ブームの収束期に始まったのが「まっつねのアニメとか作画とか」だ。
作画系ブログとしてはかなり後手だしあんていなふあんていダイアリーや水池屋無呂具堂とか流星、夜を切り裂いて ~FLY HIGH~とかに比べたら考察もデータベースとしても劣る内容だ。だ
が別にまっつね氏が作画ニワカとは思わないしひと通りの知識は備わってる人だとはわかってる。何よりほとんどの作画系ブログが更新停止状態にある中で今日まで継続してコンスタントに記
事を書き続けている貴重な存在として一定のリスペクトは持っていた。そして徐々に閲覧者が増えてきたのか、平均でも20~30ブクマはつくようになっていった。
だがそれに比例して、何となくだが(特に今年入ってから)妙にある方向性に恣意的に書き立てるようになっていった印象がある。身も蓋もない言い方をすると"バカを釣る"ような記事をよく
書くようになってきた。アニメについて良く知ってもいないような連中のか細い知識欲を刺激して注目を浴びるような、karimikarimiとかがよく使う手をまっつね氏も使うようになって来た。
そしてつい先月、まっつね氏のブログ史上最高のブクマ数を叩きだした記事が前述のこれだ。
あのさぁ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(怒)
はっきりとした絶望を感じたよね、まさかこんなくだらない記事が「まっつねのアニメとか作画とか」の最高ブクマ数なんてさ
ちょっと前にも大匙屋さんがこの記事を書いて(あずまんが大王 第04話のプール表現。と、その先 - 大匙屋)、ブクマ数500以上の超大台
を叩きだして、まだまだ作画系記事はイケるぞと思い込んでいた。この記事は岸田隆宏という実に捻くれた作オタ好みのリトルメジャー的人選を題材にして、(※2)ここまでの注目度を浴びた
のだから、人々(ニワカ)に作画の素晴らしさや尊さを伝える記事は全然廃れちゃなんかいないと実感した。のだけど、今にして思えば大きな勘違いで、この記事に注目してる奴等は岸田隆宏
に注目したわけじゃなくて寒天プール云々のエセ薀蓄のほうに食いついたわけで、これも"バカを釣る"要素が含まれてだったのかと。個人的意見を言わせてもらうとアニメバブルによる疲労と
寒天プールの台頭は特に関連性は特に無いと思うし、アニメーターの作画技術に絡める話題でも無い気がする。作画云々で言ったらし寒天よりも水しぶきの塊が空中で雑に消滅する方がよっぽ
ど気になるし、しかしそれを言ったら今も昔も凄いのは凄いしショボいのはショボいという事でいいと思うが、そんな事よりも岸田隆宏という途方も無い能力を持った"アニメーター"を知らし
めてくれた事の方に感謝の念を覚えたので寒天云々の是非についてはどうでもいいやとすら思ったのです。でもやっぱこの記事に注目してた連中は寒天がどーたらの部分を見てたのだろうし、
画像スライダーの物珍しさしか見てない奴も多かっただろう。500ユーザーのうち何割が岸田隆宏の名前を覚えてくれたのやら、半数以上はもう忘れちゃってる頃じゃねーかな。
結論としては、
作画系ブログはとっくに終わってました。作画オタクの時代も来ません。いくらアニメーターや作画を啓蒙したって無駄です。そこにいるのはバカしかいません。
(※1)
「沓名設備」は現在アニメーターである沓名健一(作画@wiki - 沓名健一)のHP。ここのBBSはネット上の作画マニアの溜まり場の元祖であり、そこにはNARUTO以前から松本憲生の熱心な追っかけみたいな人がいた。
その人物、HN:中古マニア氏が2002年までの松本憲生の仕事を網羅したリストを作り、その上に注釈や見所などのコメントを付けた資料的価値のもの凄い投稿をしていた。作画@wikiが生まれる約5年前だ。
あまりに凄いのでログから該当箇所をjpgにして置いておく。これは見てほしい。アニメ様こと小黒祐一郎も驚嘆のレスしているのもポイントだ。
http://dl1.getuploader.com/g/butagoya/13/noriomania.jpg
(※2)
まどかマギカとかでもう有名だろーがという声も聞こえてきそうだが、あんなん岸田隆宏の魅力を語る上では100分の1以下も伝わらないような作品だ。総作監の谷口淳一郎のほうがまどマギを
代表作と呼ぶに相応しい。
アニメではあくまで風景としての役割を担うに留めてるから聖地巡礼が成立する。
でも失敗しているところはあからさまに商売根性丸出しで宣伝するから駄目。
日本人は文化の押し付けを最も嫌う風潮があるから、これは全く逆効果。
背景の一つだとか、主人公の所属する団体に着目せず、恋愛物であればそれを主題としている方が聖地巡礼の価値が上がる。
逆に、某鴨川アニメのように作品内容と殆ど無関係なのに全話“〇〇と鴨川”のようなコンセプトで宣伝されると押し付けがましくて
誰も行きたがらない。
つまり町おこしというのは文化を根付かせる事に等しいけど、文化を何も知らない人に押し付けるものではないということ。
やりすぎは逆効果。
もっと女性がさ、働きながら育てるっていう環境整えられたと思うんだよね。
35歳ラインで胡座かいてるのは女性みたいに言うけど、実際国だと思うのね。
35歳ラインでも日本って3歳まで親で子育てとか女性手帳配布とか意味わかんないこと言ってるしさ、
もう10年くらい早めないと無理なんじゃない?って思うね
そしたらさ、男も女も
人生の歩み方も幅が広がってたんだろうなあ。
俺は神話や、キリスト教絡みの宗教史は好きだし、オカルトも好きだし、ファンタジーも好きだ。
宗教なんぞクソ食らえだと思うし、特に日本人の宗教観は組織化されていない土着宗教レベルの神様とやらが根付いていて反吐が出る。
結局のところ宗教なんて精神的に弱い人間が強く生きるための支柱にすぎない。
だが、最近の新興宗教(ワタミや戸塚も含む)は今までの宗教と資本主義が合わさっていて吐き気がする。
あれは人の弱みに漬け込んで金儲けをするだけで弱者を救済していない。死ねばいいのに。
でだ、俺はあらゆる宗教に糞食らえと思っているわけなんだけれど、俺にもしも何らかのまともな信仰があってそれを精神的支柱としていたなら
でもそれでも俺は宗教なんて糞食らえだと思う。宗教なんかに自分の支柱を明け渡してたまるか。
児童ポルノ法にもの申す。政治家が見落としている部分。アニメ、漫画、女の子 男の子
RTで回ってきて称賛する声の多さにちょっとビビったのだけれど、上記記事の反論はわりと危険な方向を向いていると思ったので、その理由を書いておく。
西洋におけるチャイルドポルノへの批判は、実在の被害者がいるというだけでなく、そもそもチャイルドポルノ自体が「子供」という属性に対する差別と考える人が多い。
すなわち、「チャイルドポルノ=子供という属性へのヘイトスピーチ」と考えている人が多数いるわけで、そのためアメリカではチャイルドポルノは「保護されない表現」と定義されるし、マッキノンさんあたりに言わせるとそもそも「表現」ではなく「差別行為」そのものであるということになる。
まぁ、どっちにしろ「表現の自由による保護対象ではない」というところは一致しているわけなんだけれども、その「チャイルドポルノは差別である」という視点から上記記事を読むとどうなるかというと、
それは、子供達が自分に性的価値があるのを勉強できない。
学校で「君たちはエッチな目で見られているのだよ」とは言えないでしょう?
というのは、差別される側(子供)に対して「自分たちは差別される側なんだと認識させる必要がある」と言っているも同然と受け取られるし、これこそもまさに規制派がチャイルドポルノの危険性として訴えている「社会がチャイルドポルノを許容することで、差別が固定化される」という主張の証明として扱われかねない。
ここにおける最大の認識の溝は、チャイルドポルノの規制を考えている人たちは、「世の中に、子供という属性を性的な視点で消費する人間がいるのは仕方がないこと」とは決して考えていないし、ましてや「そいう人間がいる以上、そういった人間に対して性差別的なコンテンツを販売するビジネスが存在するのも仕方がないし、社会がそれを許容するのも仕方がない」という主張を許しはしないということで、そしてそれは先進国において主流に属する認識でもある。
ロリコンおよびペドフィリアは性的指向ではなく治療すべき病だという考えだしね。
それに対して日本が「世の中にロリコンが存在するのは仕方がないし、ロリコン相手のビジネスが存在するのもしょうがないから、むしろ子供たちに『エロい目でみる人がいるから気を付けて』と教えるべき」と主張し、ましてやその教育に「ヴァーチャルなチャイルドポルノが一役買っている」というのは、正直悪手以外の何物でもない思う。
追記
すっかり規制派の人間と思われてしまいましたが、「規制を主張する人が何を問題と考えていて、何が危険だと考えているのかをふまえて反論しないと、反論そのものが相手の主張を補強することになってやぶ蛇になりかねないので危ないのではないか」というのが言いたかったことです。
ブクマで「この説は初めて聞いたなぁ」とありましたが、C・マッキノン含めチャイルドポルノや女性を傷つけ従属させる系のポルノグラフィなどを人権および差別問題、差別を増幅し固定化するヘイトスピーチとして問題だと考える規制派グループは多く、以前「レイプレイ」に対して抗議キャンペーンを行ったEquality Nowも同様の主張をおこなっています。二次元含め全てを規制しなければならないと主張する規制派はポルノに含まれる「差別」を根拠としているので「表現の自由」を理由にヴァーチャルなチャイルドポルノの存在を許容してもらうというのは難しいと思います。
個人的には、単純所持規制に関しては冤罪の問題を、ヴァーチャルなチャイルドポルノに関しては「あくまでファンタジーであり、現実の子供の立場を危うくしたり"性的な対象として消費される事を甘受するのが当たり前"というような差別意識を社会に根付かせるような影響力はない」という方向で規制派になんとか理解してもらうしかないんじゃないかと考えてます。まぁ、だから上記の記事の規制に対する反論は逆に危険じゃないかと思ってしまったわけですが。