はてなキーワード: 根付とは
いい年をして「恋」と「愛」の区別がついてない輩は得てしてこういう錯乱したことを言う。
やや古いネタだが、いわゆる盲目的な「恋」の持続期間は、一般的に3年程度であるという説がある。
これは、恋愛の本能的な目的であるところの妊娠・出産・育児に最低限必要な時間が3年と設定されているためと言われている。育児期間が2年なのは、子が親なしには食物の正しい摂取行動ができない期間、すなわち生物として本当に最低限の保護期間がこれだけだということだろう。
つまり、それを過ぎたら次の出産に取り組んでよい、そしてその際にはパートナーを変えてより遺伝子のスクランブルを起こすべし、ということ。
それは本能のプログラミングであり、人間の精神活動が作り出した社会における倫理とか理想とか善悪とか、そういうものとは無縁なありよう。いいも悪いもない、生命体として種の存続を優先する合理的な手続きである。
とまぁ、そんな説に従うならば、カップルの情熱というものは生まれた子供を途中で放り出さないための安全装置に過ぎず、子供が生命体として独り立ちをする3年が過ぎれば解除されるものと言える。
かつて「3年目の浮気ぐらい大目に見てよ」という歌詞があった。実に興味深い符合である。
しかし現代の多くの人間社会において、カップルの最初の3年は平均的に結婚、つまり正式な番(つがい)にこぎつけるまでの時間になった。うまく事が進んでもせいぜい種付けするかしないかという頃合いである。
そんな段階で安全装置が外れてしまっては、生まれた子供がうまく育たない。子供が生物として安定するまでは、その子イコール新しい自分の遺伝子を守ろうとする親に命がけで保護され、せっせと食べ物を運んでもらわなければならないのだ。
そこで人間は理性を操り、「愛」というものを編み出した。ついでに「結婚」という契約も作った。3年を超えてもパートナーと一緒にいる理由を作り上げ、これをもって安全装置の動作期間延長を図ったのである。
「恋」は種の保存を後押しするエネルギー源だ。出産・育児には少なからぬ困難がつきものなので、これを乗り切るための原動力として大いに燃えてもらわなければならない。
対して「愛」は情熱的である必要はない。本能に根付かない感情だからあれこれ理由付けや美化をして維持する努力が必須だが、うまく運用できれば複雑化した人間社会における生活や感情を安定させる手助けになる便利なものである。
「恋」の主成分である情熱や激情はドーパミンを大量放出する不安定なものであるため、これを「愛」にまで持ち込まなければならないという事はない。
そのかわり、ハゲだのシワだのデカいパンティーだのといった生命体における衰えを示す外的要因などは「恋」においてはマイナスに働く可能性があるが、結婚という人生における一大契約の礎たる「愛」の理屈の前には無力である。
「恋」の期間を過ぎた者は、新たなパートナー、つまり次の「恋」のアテがないのならば、「愛」の運用について前向きに考えるのが社会的かつ精神的に賢明と言えるであろう。
※ 言うまでもないことだが、子供のいない夫婦が存在的に悪であるという趣旨ではない。「恋」「愛」は脳の機能、「出産」は精子と卵子、子宮の機能である。
今日プロジェクトの打ち上げがあったのだが、とあるサプライズ……三ヶ月前に寿退社した先輩との再会に思わず涙ぐんでしまい、ひどくばつが悪い思いをしている。今も顔の火照りが抜けてくれない。アルコールは抜けたのに。彼女はかつてSQLの魔女と呼ばれていた。
今から遡ること一年前、私は辞令を貰い、二年目にして事業部ごと変わるという波乱をようやく乗り切って、業務系のSEの仕事内容、特にWebのアプリレイヤーについてOJT形式で学んでいた。そこで先生にあたる方として付いたのが、ちょうど手待ちだった先輩である。初めてお会いした時の先輩に対し、私は正直ちょっと物足りなく感じていた。
初日に行ったPCのセッティングでは、これやってと先輩から資料を渡されたのだが、外部にネットが繋がらない。先輩に相談して弄ってもらったのだけど繋がらず、今日は社内ネットで我慢して、と言われてから二日後、資料が古かったことが判明。
与えられた課題を終えるごとに、コードを提出するのだが、見たよ〜出来てると思う、頑張ったね〜と言われた後で、そのプロジェクトを下敷きに発展課題に足を進めたら、でっかいバグがあったり。
万事その調子で、今やってる課題放り出して、プロジェクトオイラーの問題でも解いてた方がよっぽど楽しいなぁと若干サボりたいと思い始めた頃、炎上プロジェクトへ先輩と二人テスターとして出向するよう、上司から命じられた。炎上プロジェクトのリーダーから手待ち要員いない?と声がお上に届き、降りて来た結果先輩と自分がいたわけだ。
前の事業部ではずっと同じ客先にいたわけで、頭では分かっていても鼻先三寸で飛ばされることには不安がつきまとった。
「これから行く先はどうなんでしょうね?」
先輩へ問うと、
「基盤にいたんでしょ。メインフレームが扱えるなら大丈夫だよ〜」
豆腐すらぷるぷる震えそうな声が返ってきた。
この時の私は、まだ事業部を転属して間もなかったし、プライドばかり高くて奢ってたように思う。事業部を変える→入社して以来の経験値がまた0に、と失うことに対する不満ばかりで、それが拗れて数少ない基盤系経験アプリ開発者、そんな肩書きばかりを強調する変人に成り果てていた。自己紹介で、どうも、基盤から参りましたと、そこだけは大きい声が、今思い出したけどマジで恥ずかしい。
だから、だろう。このゆるふわな先輩とドナドナされることに密かに感じていた屈辱には、出向いた先で押された駄目テスターという烙印によって罰があたることになった。
その理由は、私がSQLを全く使えなかったことにある。テスターとして行うことになったのは表示画面の統合テストで、UIの検索結果とデータベースに直接SQLを打ち込んで得たレスポンスを目で確認していく作業だった。UIは、境界値さえ気をつけて、仕様通りに実施すれば何とかなる。しかし、SQLで再現が出来ない。この仕様はどうやったらコマンドに落とし込めるんだよ。頭を抱える中で思い出したことがあった。
教育過程でJavaサーブレットを学んだが、その一つにJDBCも勿論習った。そこで私は何をしたか?mysqlに繋げればそれでいいやと、エグゼキュートで実行する際に渡す魔法の文字列……つまりSQLの中身は、すべてコピペで済ませていたのだ。社内教育資料を内部作成するにあたり参考にしたと思われるネットから……構文チェック効かないし、ここは手を抜いてもいいだろう、これが要領の良さというものさ……アホーアホー私のアホー。
三日目の午後二時、進捗を確認しに来たPMにすべてを告白すると、ちょっと来てとPMが連れ出したのがあの先輩の席だった。
「申し訳ないけど今やってるテストは止めて、これから定時いっぱい最低限テストが出来るように彼にSQLを教えてやってくれ。」
良いのですか?と顔をあげるとPMは何を勘違いしたのか、やにわに私の肩を叩くと、
「彼女はSQLの魔女と呼ばれている。半日でお前も即戦力だよ。」
と去っていった。顔を先輩へ戻すと、あのPMさんは嘘つきだから信じないほうがいいよといつものふわふわした声でにっこり。
宜しくお願いします。ノートパソコンを横に私は型通りの挨拶。四時間後、私は傲慢さを、尻の毛まで抜かれることになる。
私はSQLの深さを知った。SQLのQとは何だ?Queryであります、サー!!今も時々夢問答を繰り返す。そう、全ては問い合わせ次第なのだ。今思えば、あの時やったことはT2テストを使ったSQL文の作成と添削、しかもSELECTによる条件抽出のみだったが、そこに全てが詰まっていた。
DISTINCTとORDER BYの共存で詰まってわけがわからなくなったコードは、もっとシンプルにいけるよと副問い合わせに書き換えられて。ネストとワイルドカードを多用してスパゲティになったコードを、先輩はLEFT JOINとWHEREとORで全てをすませた。
なんということでしょう。マニキュアが塗ってある長い爪からは想像もつかない早さで直されていく構文に脳内で途中から匠の曲が流れ始めたのを覚えている。本当に、なんということでしょう。先輩はSQLの魔女だった。
翌日、先輩の教えはしっかり自分に身に付いていた。すらすら書けるSQL、サクサク進むT2テスト。条件設定に悩んで、エクセルに吐き出してからリストとコピペで逐一加工してた時間が馬鹿みたいだった。先輩のところへ、帰りしなに昨日のお礼と作業進捗に激震が走ったことを伝えると別にお礼なんていいよーといつものふわふわした顔で微笑んでくれた。
それから先、配属先が決まるまでの条件付きでテスターとして入っていたはずだったが、T2試験が終わり、T3試験が始まってもなぜか私はそのプロジェクトにいたままだった。DB担当者として。もともと基盤だったわけだし、バッチファイル処理でスクリプトがそこそこ書けたというのもあるけど、SQLが書けたというのはすごく大きい。昼休み、いつのまにか私はプロジェクトオイラーの問題に代わって、名著「SQLパズル」を解くのを日課としていた。
先輩は仲良くなる暇もなく、その後すぐにプロジェクトを移り、メーリングリストで寿退社を知った。炎上したプロジェクトは、なぜか横展開を経て今に至り、私は相変わらずここにいる。だが、あの時SQLの魔女がかけた呪いは今もしっかり私に根付いている。
全国でそりゃ移入種が問題になっている。
国内からの移動でも遺伝子攪乱とか、問題が多い。イノシシとか、樹木もね。
さて、国内で人間が手を焼いている生物、主に雑食性小型ほ乳類でいえば、ヌートリア、ミンクにハクビシン、タヌキ、イタチ、マングース、アライグマ、リスもかな、似たようなのが一杯いる。
これに、在来のイタチや、タヌキや、テンが入り乱れて豊富な生態系を気付いている。かといえばそうではない。
なんせ、縄張りがかぶらないのだ。ミンクは北、マングースは南、その他、ちょっと調べて貰えばわかるが、以外に同じ区域に食性を同じにする複数主の外来種が根付くのは困難だ。
まあ、考えてみれば、当然で、資源は繁殖のために目一杯使われる。よそ者なんかに残したりはしない。土着、外来に係わらず、先住の種族が支配しているエリアを奪い取れなければあとから来たものは定着できない。
・
ここで、思考実験。
小さな島を用意する。
そんな夢の楽園にとりあえず雑食性の小動物群を全種類25組ずつツガイで放したい。
五年後に島で最も繁栄してるのはどれかな~。
ファーストリテイリングの会長のインタビュー記事をよんだ。
時代はグローバル化だ、そうだ。そもそもグローバル化ってなんだろう。辞書的な意味は、国家なんかの垣根をこえて自由に経済しましょう、ということだろう。境界の無視/自由という語感から、慣習からの脱却(年功序列、必ず問屋を通す?みたいな)と同一視されているかもしれない。昔にはやったデータマイニング、ちょっと前にはやったクラウド、そして旬なビッグデータと同じでバズワードじゃね、と個人的には思う。
意味も定義もよく分からないが刺激的で万能薬みたいな効果がありそうな単語を流行らせ、その単語を冠した商品を買わせよう、というやつだ。グローバル化も、そのグローバル化を声高に叫んでいるひとたちが得するわけで、その賛同者や感化されたひとが得するわけじゃない、構造はネズミ講と同じだと思っている。親とそのすぐ下の子ぐらいまでは儲けがあるじゃね、的な。
まあ、それは横道で。
年齢を問わずに実力でひとを評価しよう、と言っていた。うん、慣習からの脱却だね、年功序列の否定。でも、同じ口で、25ぐらいまでに基本的な考えをまとめて、努力を重ねて35ぐらいまでに執行役員に・・・という。これと同じ言葉を知っている。「吾れ十五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず・・・」孔子というひとの言葉だとすれば、15歳で学を志そう、と基本的な考えをまとめ、努力して30で学の分野で責任を取れるようになった、と。たぶん、そんな感じ。とてもファジー。や、すごいね、旧弊だという儒教的な価値観のほうがそのひとの価値をバッサリと切り捨てる年の頃がずいぶん早い、ただ努力にかかる時間は長いよね。
親を敬え、という儒教的な価値観に根付いた年功序列とかを破壊したいひとの口から儒教的な価値観に縛られた言葉がでてくる。それは、そもそもの話として慣習というのは弊害がありながらも価値があるということか、人間ていうのはどんなに聡明でも「信じたいものだけが存在し、信じられないものは存在しない」という枠から完全に脱することはできないのか、どっちだろう。
最後。
よく破壊なくして創造なし、とかいうけど、新しいものを創造したらそれに噛みあわない既存が壊されるだけであって、既存の破壊の理由に創造を付けたら、それはただの破壊だよね、何も生まないし、だれも得しない。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130403-00000133-jij-pol
この記事について一言。
この記事を見て秋元康はクリエイティブ職の人間を理解していないとハッキリわかった。
語弊なく言うとしたら生きるためにはお金を得なきゃいけない。
だけど大金出して「どうせ金が欲しいんだろ?」という相手と、
予算が少ないくらいだけど「一緒にいいものを作ろう」という意気込みを感じる相手。
多分世に言われる面白いものを作るクリエイタの大半は後者につくと確信を持って言える。
製作者を値踏みするような態度で、
ほんとに一緒にいいもの作りましょうってクリエイタがなるか、という話だ。
無報酬なのは価値がつけれないから、そこからクリエイタのチャンスになるとか詭弁を言うだろう。
なぜなら僕も元クリエイタであり今はディレクションとプロデュース側の人間だから。
この業界の人間は本当にそういうクサイものに対して嗅覚が鋭い人間が多い。
彼がプロデュースしてるものの盛り上がりがイマイチなのは何故か?
理由は一つ、採算度外視で無茶して盛り上げようとするクリエイタが彼につかないからだ。
商業が根付いたオペレータでしかないクリエイタはもはや冒険心を失っている。
そんな人間が作ったものに誰が心を動かされるっていうんだろうね。
結論。
彼氏の姪が来た。子守りを任された。戸惑いつつ迎えた。母親である彼氏のお姉さんに何度か聞かされたのであろう、わたしの名前をしっかりと言ってくれたのはよかったが、やはりわたしでは力不足だったようだ。
子どもは残酷、とは良くできた言葉であると思う。残酷という言葉は大人になってから理解するもので、そこに子どもが知覚できる要素は全くといっていいほど無いのだ。
塾講師をやっていたからわかる、子どもの遠慮のタイミング。それを久しぶりに見たように感じた。天真爛漫に振る舞う中にも、ちょっとした偽の笑顔がある。悲しいことに、自分が子どもらしく振る舞うことで、大人は喜ぶんだという解釈が根付いてしまっている子どもたちをわたしはたくさん見てきた。
ありがとうとごめんねを大切にしなさいと教育されるのは幼稚園や小学校までで、小学校高学年~中学生になると、そこに責任やら理由が求められるようになる。ほとんどごめんねの場合だが、本来対人関係の中で大事なのは言葉であって、理由やら責任やらは二の次なのだ。例えば、自分のしたことが悪いとわかっていてもなかなかごめんねが言えない子がいる。わかっているだけでは何も相手に伝わらないということが、今の子どもたちにとって理解し難いことになってしまっている。
Twitterやmixiなどの大型SNSは、日々の気持ちを曝け出す場、あるいは活発な議論を展開する場として成長してきた。そこに今、ごめんねが言えない子どもたちをどんどん増やしていくエネルギー源がある。人間は逃げたがるものだ。苦しいことはなるべく避けたい。そんなとき役に立つのがSNSだ。例えば、さっきしてしまった悪いことを「あ~申し訳ないな」という言葉にしてツイートしたとする。昔だったら口に出さなければ伝わらないことが、今ではこのひとことだけで完結してしまうのだ。もちろんここで言う完結とはマイナスの意味の言葉である。相手が見ていようがいまいが関係ない。呟くことで完結してしまうのだ。
幼稚園や小学校で習ったごめんねやありがとうが使われなくなるコミュニティに、子どもたちは人生のある一時から急に放り投げられるのだ。そこで得てしまった感覚は一生消えない。正解が二転三転する世の中に、子どもたちは疑問を持つことも許されないまま流されていく。
自分は上半身はそんなに毛深い方ではないのだが、下半身だけがわりと毛深い(アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラのように毛が生えている)。
気がつくと毛を触ってるし、部屋を掃除してもすぐ床が毛だらけになるので、陰毛を含めた下半身の毛を全部処理することにした。
まずは除毛クリームを塗りたくり、10分待ってからスポンジでそぎ落とした。
すぐにシャワーと石鹸で下半身を洗い、除毛し切れなかった箇所を髭をそるT字カミソリで剃っていった。除毛クリームは玉袋に塗ると大変危険だと調べていたので、そこはカミソリがメインになった。特に傷はつかなかった。ジレットの3枚刃が良かったのか。
けっこう時間がかかり下半身全体がつるつるになったので、お湯をためていた浴槽につかった。
あ、足の感覚がない!
正確には足の感覚があるにはあるのだが、かなり鈍くなっているように感じた。いつもと全然違うので、「感覚がない」と一瞬思ってしまった。
おそらく、普段は毛が触覚代わりになっているのだろうと思った。もちろん毛に神経は通っていないが、毛が揺れることで毛根付近の皮膚内部の神経が色々と感じていたのだろう。それがなくなると、足というのはかなり感覚器官としてかなり鈍いのだと知った。
風呂から上がり、鏡で体を見ると、陰部には25年ぶりにパイパンの彼がいた。しかし彼は黒ずんでいた。あのときとは違う。違うのに、同じ。懐かしい。懐かしいのに、お前誰。
そして、あらかじめ自作してあった豆乳ローションを冷蔵庫から出し、ひたすら塗りたくった。
この塗りたくりをこれから朝晩、1年ほど続けてみようと思う。毛が細くなってきたら除毛剃毛から抜毛に徐々に切り替えていこう。
ここまで書いて思ったが、今、終風先生の本を読んでいる最中なので、なんとなく口調が影響を受けてしまっている。
おちんちんが本当の自分に戻ったのだから、口調も本当の自分に戻らなくてはならない。
いや、陰毛は確かにいらないものではあるが、しかし同じ自分の一部であることには変わりない、陰毛込みのおちんちんも本当の自分であるはずなんだ。陰毛を疎外してはいけない。しかし髪だって切るし髭だってそる。髪や髭がボーボーに伸びきった状態なら今のように普通に会社勤めは困難になるだろう。周囲が自分を異常な状態だと見なすようになる。
一流私大文系。14卒就活生。地方出身。東京で一人暮らし。1浪。
予備校の授業には顔を出すけれども、前日に短時間で予習するだけで、復習は全くしなかった。
英単語や古文単語といった暗記モノが大の苦手で、最後までまともに覚えられなかった。
大学に行きたいというよりも、一人暮らしをしたいという気持ちが強く、大学受からなかったら専門学校でも行こうと思っていた。
でも大学に行くなら祖母でもわかる有名大と思って、高望みして受験したらなぜか受かった。
何校か受かって、どこへ行こうか選ぶこともできた。
そういう経緯で大学へ進学したけど、入学当初から就活が不安だった。
受験勉強も満足にできない、こんな自分が会社で働くことなんでできるんだろうかと思っていた。
だから、1年生の頃から、就職活動関連の新書や雑誌記事を読み漁った。
新書ではよく、マニュアル本が否定されていたから、そういう類の本は読まなかった。
一時期、新書にハマって就職活動以外も読み、講演会に行くこともあった。
サークルは文科系に3つ属し、その中の1つ(2、30人規模)では代表をやった。
成績は上の下あたりで、留年の心配はなく、少し第二外国語を頑張って資格を取った。
1年生の秋から冬にかけて、専門学校に通い、簿記2級を取った。
2年生の冬にTOEICを、何も勉強せずに受験し、750点以上取れた。
ゼミでは、何人かで論文を書き、そのときはリーダーの役割をやった。
周りを見ると、複数インターンに行っている人もいた。
絶対に通るインターンをいくつか教えてもらったけど、あまり興味が湧かなかった。
なぜならそれは金融系のものだったが、エリート意識が根付いていそうで嫌だったからだ。
大学では、自分の大学にプライドを持っている人が多かったが、自分にはそれが受け入れられなかった。
愛校心は人並みかそれ以上にあるのだが、偏差値が高いからといって、他の大学から見て上にいるなんて思えなかった。
そういう考えのもと、あまり同じ大学の人が受けないような、中小企業やベンチャー企業に入りたいと思うようになった。
12月1日にナビサイトがオープンしてからは、システムエンジニアに絞ってエントリーしていた。
システムエンジニアに絞ったのは、今でもはっきりとした理由は見当たらない。
でも多分、新書の中で、社会人に必要なスキルとして英語と会計とITが挙げられていたことと、
ベンチャー企業の多くはIT系で、ITの知識を持っていると転職しやすいと無意識に感じていたのがあるんじゃないかと思う。
そういうわけで、文系でもシステムエンジニアになれる、中小企業やベンチャー企業を多数エントリーしていた。
週に何度か説明会に参加していた。
でも周りを見ると、一日に複数説明会に参加していて、焦ってしまい興味のない会社の説明を予約してはキャンセルしていた。
年が明けて、大学の定期試験が終わってからは、説明会に加え、OB訪問も行うようになった。
システムエンジニアの人ではなかったが、他の業界を知ることができて良かった。
この頃は、大手企業の子会社でシステム開発を行っている所を中心に見ていた。
そこから掘り下げて、保険系のユーザー系SIerに狙いを定めた。
そんな中、転職サイトで調べていると、こういう会社は親会社から出向した人が上司にいることが多いとわかった。
上昇志向が強い方ではないが、ある程度で出世が止まってしまうことに違和感を覚えた。
この記述を見てから、今まで考えないようにしてきたことが溢れ出してきた。
研修制度や福利厚生、給与のことを考え始め、大企業の方がいいのではないかと思うようになった。
また、何となく決めたシステムエンジニアに絞るのではなく、総合職を目指してもいいのではないかと思った。
ある程度のレベルの大学なのに、最初から大企業を目指さないのはおかしいかもしれないとも思った。
入学当初は働くことができるか不安だったが、就活関連の新書などを読んで、
中小企業やベンチャー企業でなら自分でも働くことができるかもしれないと考えていた。
しかし中小企業と大企業の差を知り、周りの大手志向も助長し、大企業へ舵を切ろうとしたところで、劣等感に苛まれている。
自分なんかが大企業で働くことなんてできるのだろうか、というのが邪魔をして、ここ数日まともに活動できていない。
転職サイトは就活本に載っていたから見るようになったが、正直見なければこんなに悩まなかったと思う。
でもまだ選ぶことのできる段階から現実を知ることも大事だとも感じた。
システムエンジニアというのは、選ばない方がいい職種なんだろうか。
メーカーなどで総合職として働く方が、自分には合っているのだろうか。
最近はそういうことを考えては、先が見えない道のりに不安で一杯だ。
自分は、プライベートより仕事を優先させてもいいと思っている。
しかし精神的に不安定のところがあるから、社員同士が仲の良い雰囲気の所がいい。
もしものときに転職できるように、社外でも通用する能力を身につけたい。
地方や海外への転勤も厭わないが、最終的には地元か三大都市圏に腰を据えたい。
忙しい時期に深夜勤務や休日出勤があるのはいいが、それが恒常化しているのは嫌だ。
この条件を全て満たす所はあるのだろうか…
http://anond.hatelabo.jp/20130126034809
軽減税率は、逆進性改善のために行っているわけでは無い、それを目的にしてはならないと言う事は日本生命のレポートにも出てくる。一部引用
英国やイタリア、カナダを訪問した際に、0%税率や軽減税率の運用、あるいは給付制度を導入した目的を各国の財務省の担当者から聞いた結果は、実に意表を突かれるものであった。英国とイタリア財務省からの回答の趣旨は「0%税率や軽減税率を適用する財の基準は、国民生活にとって最も必要かつ重要な財であるかどうかによる」とのことである。こうした財について国民の負担を軽減するのが、0%税率や軽減税率の役割だという。同じ考え方により、非課税扱いが適用される場合もあるが、それらの措置に逆進性への配慮を重視するとの理由付けは得られなかった。
そして最後こう結ばれる。
要するに、国民に増税を受け入れさせるためのカードとして、軽減税率を運用せよと言っている。国民生活に必要で重要な財というのはつまり、基本的には多くの国民がそう思うと言う事でしか無い。お上がこれが重要な財であるからと言っても、民主主義国家でれば選挙によって否定されることになる。
国民が納得をするように運用を行う事が増税を実現するために大切であると言う事だ。ここで大事なのはある理論では正しいという仮説レベルの合理性等と言うものではなく、ましてや
などと言う世論調査で実に8割を占める人間が受け入れられない結論ではない。増税を納得させるための手段である。
仰るとおり、最後納得させるのは確かに政府の仕事だが、8割以上が受け入れがたい理屈を一つ一つ説いていくと言うほぼ不可能な作業の実行責任を政府に押しつける事は間違いである。それは経済学に対する批判でしばしば登場する
世界規模の恐慌を引き起こすのを経済学者(専門家)たちは防ぐことができないし、その破綻の責任をとらないだけでなく、シャーシャーと「やり方が足りなかったからだ」と居直る始末
と言った批判に繋がる。同種の批判は何度も繰り返されており、今回の政府の責任であると言う事は結果は理論の正しさに影響しないという責任逃れの予防線につながる。(そういうつもりで言ったのではないとしても、経済を論ずる上での習慣としてこういった事が根付いているのは間違いがない)
軽減税率の用い方は、ある理論では合理的であるが、支持を集められない理論を納得させてまで学問的合理性を追求することではない。
あくまでも、軽減税率は増税を受け入れさせるための道具であると考えるべきだ。これが現実路線では無いか?
どうもこれをもって、消費税の逆進性対策には軽減税率は使えないと言うことが証明されていると考えている人がいる。
例えば
逆進性対策は軽減税率の理由に使えないことが浸透してきた模様
これは典型的な勘違いだ。理論で人間が動くわけも無く、現実の政治とはそう言う者であると言うことを分かっていない。非現実的というか、机上論で美しい論だけを追い続け、どうやって実現したら良いか、現状を踏まえてこれからどのように政治が展開するかと言う事を考えない典型的な机上論者である。おそらくこのエントリーを自らの主張に合致する部分しか読んでいないのでこのような事を書いてしまうのだと思うが、それでは実効性のある考えはできない。
まずは、そんなことは日本生命のレポートでも、このエントリーでも言っていないことに注意するべきだ。日本生命のレポートでは、政府上層部の担当者がどう認識し、どのような基準で制度を運用しているかという事を示しているだけに過ぎない。国民がどう認識しているか、どう受け止めているかと言うことが民主主義ではよくも悪くも大切であり、国民が逆進性の対策のために軽減税率・複数税率を導入するべきであり、それを条件に消費税増税を飲むと言う世論であるならば、それは立派な軽減税率導入の理由になり得る。学者はこういう時は「説明すれば浸透していくはずである」という事を言うが、そんなことは少なくとも消費税増税には間に合わない。
このツリー以下で討論が行われており、一通り眺めたが、このような分かりにくい議論を一つずつの国民に対して、長々と説明して回るつもりだろうか。そしてそれらを全国民とまでは言わないが、ある程度政治に関心のある層すべてに行う事が可能であると思っているのか。ごく僅かなある解釈と基準によってのみ生み出される例外を頼りにしている。そしてそれらに対する率直な疑問においても、特殊な理論を使わなければ反論もできないが、その理論を国民に説明して回るつもりなのか。もしも直近の、消費税が10%にしなければならないとしている期間までに可能だと思っているとすれば、それは妄想であると言わざるをえない。経済学のモデルでは人民はある統計理論に従って均質に分布するとしなければ理論構築が難しいが現実はそうではない。
消費税はそもそも、タックスヘイブンなどを利用した国際的節税策、経済学者が従来構築してきた経済モデルというものに存在しなかった存在によって租税回避が行われるようになってしまい、経済学者の理論の行き詰まりから生まれたものである。どうしようも無いから、マネーフローに税金をかけるしか方法が無いとして強化されてきた。しかし経済学の視点から見てもこれは欠点が有り、逆進性という事が生まれてしまう。これは富豪でも1票、貧困者でも1票と言う等しき手段においてコントロールされる民主主義において、不公平感から支持者の取り込みが難しくなると言う問題にも繋がったことでクローズアップされた。
このままでは反対にあって消費税が導入できない、しかし経済学者はそれ以外に有効な手段を提示できないと言う中で、苦肉として生み出されたものである。それが当初軽減税率であった。故に、全てが根本的に消費税を受け入れさせるための理由付けに過ぎない。
では何故給付にすべきだという理論が生まれたのかと言えば、これは経済学の自家中毒のようなものであると考えられる。経済学だけで解決策を見つけられないと言う中から生まれたマネーフロー課税という対策に対する反発に対応するために、軽減税率と言った方策が生み出され世界各国で導入された。しかし経済学者はその本来の目的であった「消費税を受け入れさせるための取引材料」というを踏まえずに、その効果を自ら測定して不可判定をし、その不可判定に伴い新たなる案として給付という手段を生み出した。しかし生み出されてからここまで、これが有効だという事もまだ証明されていない。すると彼らはいくつか資料を出してくるだろうが、軽減税率に対して行ったように批判的な立場からそれらを分析したものはまだ分析出来るほど事例が溜まっていないこともあり存在しないのである。ただし、今の時点では存在している有効だと論ずる資料に対し、給付が有効だという実証がまだ済んでいないことを理由として給付は役に立たないとするつもりは無い。しかし自家中毒のようなものに付き合う時間が無い事は確かであって、それが証明されていないのであれば今は経済学的理論はともかく、政治としてマネーフローへの課税しか今後有望な新規財源が無いと言う現実を踏まえて現実的に動くべきだ。
現実とは軽減税率が一番シンプルに反発を抑えられる手段であると言う事である。少なくとも、システムを構築し作り上げたとしてそれで消費税増税を受け入れさせることができなければ意味が無い。ましてや、実証されていない給付によって軽減できるという理論を実現するための実験場に自ら志願するだけの余裕は無い。経済学者は軽減税率によって逆進性を改善でき、マネーフローに課税することによって安定財源とする事ができるとして、消費税増税を唱えてはみたものの、今となってはそれは間違いであったとして学説を取り替えたように、これがいずれ間違いであった、当時は優勢な学説でありその後経済政治環境が変わったことが無効になった主因でとして学説を帰れば良いだけかもしれないが、現実はそこに常にコストが発生する事になるのだ。
責任逃れの予防線をはったような経済学的に正しいいが実現不可能な理論に付き合う時間も、井の中から見える世界で事実を都合良くつまみ食いした蛙にも付き合う時間はない。
哲学書読めば?って人もいるみたいだけど,哲学書すらキリスト教ベースで書かれててイマイチぴんと来ないんだよね
罰当たりなことはしないとか,蛙にションベン引っかけると雨が降るとか,縁日とか,鏡餅とか,ものを大事にするとか,言葉が力を持つという考え方とか….しかもこんなにたくさん大小様々な神社や寺が未だに建ってるしね.日本の神様なんて小説とかアニメや漫画,ゲームの題材にすら頻繁に使われる(時には主人公だったりもする).毎週ミサに行ったわけでもなく,それどころか特に誰かに教わった記憶も無いのに,積極的に意識しなくても考えや行動に影響してくるのはかなりすごいんじゃないか?神を畏れ敬う一方で身近にも感じているという心が日本の信仰であるとするなら,大抵の人間は立派に信仰心は篤いだろう.そういう心を持っているという共同体には属しているよ.外国人にこんな話しても同じような文化を持つ国でないとわかってもらえる方がまれだろう.
あ,でも腹を割って話せる友達は欲しいなあ…
16日の昼、埼玉県春日部市にいた。たまたま入ったレストランで、隣に座った60代と思われる女性2人の会話が耳に入ってきた。「…もう結果が出ているからね」「そう。だから〔投票に〕行ってないの」。
メディアは投票日に向けて、選挙結果の予測を「世論調査」の名のもとに執拗に行ってきた。投票日に向けて何度も世論調査を行い、「自民単独過半数の勢い」(『東京新聞』12月13日付)、「自公300議席うかがう」(『朝日新聞』14日付)、「自民勢い変わらず」(『読売新聞』同)…という調子だった。映画が始まる前に、その結末を大声で話すようなものである。これでは映画館に行く気力も失せる。
午後8時。開票が始まると同時に、「出口調査」を根拠とした当選確実が次々と打たれ、朝刊一面トップの見出しがほぼ決まってしまった。メディアが予測していた以上の劇的な結果となった。民主党の地滑り的、壊滅的大敗北、自民党の単独過半数、自民+公明(or/and)維新で3分の2(320)を超えることが確実になった。
いま、開票速報を聞きながらこの「直言」を執筆しているが(16日午後9時現在)、何とも不思議な気分になった。まるで開票が終わったかのようである。『東京新聞』12月15日付「こちら特報部」は、「世論調査が醸成する『空気』」を分析している。この不思議な「空気」のなかで投票日を迎え、春日部市の女性たちのような会話が、全国各地で行われていたのではないか。勝負が決まっている試合や、「オチはこうだ」と事前に知らされたサスペンス映画、表紙の帯に結末が書いてあるミステリー小説に食欲がわかないのと同じだろう。今回の世論調査については、「世論調査が予備選的な役割を果たした」という評価もあるという(『東京新聞』同上)。だが、これは楽観的評価に過ぎよう。調査報道が世論誘導的に機能した可能性は否定できない。しっかりした検証が必要である。
投票率は前回よりかなり低くなった。戦後最低の投票率になりそうである。現時点で推測できることは、結末が見えた試合に行く気がしないで棄権した人々だけではなく、多党乱立、節操のない政党間移動、党内のドタバタ、内容空疎な「マニフェスト」や「公約」などを見せられて、選挙そのものに嫌気がさした人々がかなりいたことだろう。そのなかには、あえて選挙に行かない積極的棄権派(ドイツの現代政治用語では「非選挙人」(Nichtwähler)という)も含まれているのではないか。多党乱立とメディアによる「結果はもう出ている」という報道の連鎖のなかで、一票を使う気力を失せさせてしまったところに、別の意味での「一票の軽さ」があるように思われる。「非選挙人」の選択の結果は投票率の低さであり、それは自民党に圧倒的に有利に作用したと言えよう。
なお、それまでの支持政党の不甲斐なさに怒り、極端な主張をもつ他の政党に乗り換えることを、ドイツの政治用語で「抵抗選挙人」(Protestwäahler)という。今回、「日本維新の会」が「抵抗選挙人」の受け皿となったと見ていいだろう。もっと言えば、民主党政権に対する怒りと絶望の最大の受け皿、「抵抗選挙人」は40%を超える棄権者ではないか。自民党はこの「抵抗選挙人」によって大勝を得たとも言えよう。選挙結果がまだ確定していない段階なので、個々の具体的な指摘は控えておこう。
6年前、直言「『失われた5年』と『失われる○年』――安倍総裁、総理へ」を書いたが、彼はわずか1年で内閣を投げ出した。政治生命が終わったかに見えたが、それから5年で、再び「わたくしの内閣」(安倍氏の口癖)が誕生することになる。安倍氏のいう「美しい国へ」の危なさは、当時、次の3つの点にあらわれていた。(1)「5年以内の憲法改正」、(2)集団的自衛権行使の合憲解釈、(3)「教育改革」と教育基本法改正、である。
(1)は、出来の悪い付帯決議をもつ憲法改正国民投票法の制定である。(3)は教育基本法「改正」と「教育再生会議」による執拗な教育介入であった。5年前、「安倍色の教科書検定」に対して沖縄では県民大会まで開かれたほどだった。今回の総選挙公約には、教科書検定の強化が掲げられているので、沖縄の危惧は深い。ちなみに、安倍氏は大学9月入学を6年前にすでに打ち出していた。私は「『大学9月入学』と『ボランティア』のセットは曲者である。軽薄な私大経営者はすぐに飛びつきそうだ」と当時指摘していた。(2)の集団的自衛権行使を可能にする解釈変更については、「合憲解釈」の報告書が出る2カ月前に安倍氏が退陣してしまったので、しばらく後景に退くことになったが、今後一気に勢いを増すだろう。
「送別・安倍内閣」を書き、安倍氏の復活はほとんどないと踏んでいたので、今年9月の安倍総裁誕生は大変驚いた。「総理大臣の職責にしがみつくことはしない」という奇妙な言葉を使いながら内閣を投げ出した人物が、再び内閣総理大臣になる。この国は何とも不思議な国である。
危惧されることは、石原慎太郎「日本維新の会」代表が選挙中(12月10日)、自民党と組んで憲法改正を行うことを宣言したことである。「9条のせいで日本は強い姿勢で北朝鮮に臨むことができなかった。9条が自分たちの同胞を見殺しにした。…あんなモノがなければ(拉致被害者を)返してくれなかったら『戦争するぞ』『攻めていくぞ』という姿勢で同胞を取り戻せていた」と述べた(『東京新聞』2012年12月11日付)。「日本維新の会」が衆議院に進出したことで、自公連立政権が、今後の展開によっては、公明党の代わりに「維新」が入って3分の2を確保し、「壊憲連立政権」となるおそれなしとしない。
歴史は繰り返すのか。2006年の安倍内閣誕生で憲法改正への動きが進んだ。一度目は憲法にとって悲劇だったが、二度目の安倍内閣は、喜劇(茶番劇)どころか、憲法にとっては命取り(惨劇)になるかもしれない。来年7月の参議院選挙が、最後の防波堤として重要性を増してきた。
そもそもこの選挙は、最高裁によって違憲状態とされた公職選挙法に基づいて行われた「違憲状態選挙」であった。選挙終了と同時に選挙無効訴訟が起こされ、最高裁が「選挙無効」判決を出す可能性もある。選挙で圧勝したかに見える自民党は、小選挙区比例代表「偏立」制に助けられ、小選挙区(4~9人という異例の多数立候補)における大量の死票の上の勝利であることを知るべきである。
「一票の軽さ」の問題は、単に議員定数の不均衡の問題にとどまらない、より多面的で深刻な問題となっている。
《付記》
17日午前5時半に新聞各紙やネットを見ながら、書かねばならないことがたくさんでてきた。選挙結果は、自民党294、公明党31で計325の3分の2超え。民主党57、維新の会54、みんなの党18、未来の党9、共産党8、社民党2、国民新党1、新党大地1。開票作業を見ながら書き上げた上記「直言」をアップすることにしたい。最低限注目すべき点を指摘しておくと、まず59.32%(共同通信推計)という前回よりも10ポイントも低い、「戦後最低の投票率」になったことである。これは本文で書いた。それから、自民党の安倍総裁が、憲法96条(憲法改正条項)を3分の2から過半数にすることについて、「維新」と連携していく考えを示したことである。また、「維新」の橋下代表代行が首相指名選挙で安倍総裁を支持すると発言し、「(首相指名で)独自の候補を出すのはばかげている。日本は多数決の原理が根付いていない。多数決の教育をしてこなかった弊害」と述べたという。これに対して「維新」の石原代表は、「政党の体をなさない。(首相指名選挙で)党首を出すことが政党の沽券だ」と反発した。それにしても、橋下氏の一面的な多数決論、民主主義論は末恐ろしい。指導者民主主義論と接合する兆候がすでに随所に見られる。これらの問題は、折にふれて論じていく。
欧米といえば、左胸のところに「救命は要りません、ありがとう」っていう刺青すんの流行った(?)ことあるみたいだね。流行りとかじゃなくて普通にもう根付いてんのかな?
ある程度のトシ行った人が入れるんだって。道端とかで突然ぶっ倒れた時のために。
そういうのが可能なのって何つーの、自己に関する責任とか決定権とかが社会の共通認識としてある程度しっかり固まってるが故だよね。
でもニッポンはそうじゃないじゃん。和をもって貴しとなすの精神だからか、意思決定とかめっちゃ苦手じゃんこの国の人は。
そうでなくても「死ぬ」なんてこと受け入れたり消化したりするの大変なのに、「これから受け入れたり消化したりするぞ!」って決めるのがそもそも踏ん切りつかないみたいな感じになるじゃん。
それを法制度化するのって、外部から押し付けるみたいに義務化するみたいにもってくのって、どうなの?
しかもおためごかしにも本人の幸福のためでなくて医療費のため。
でも「そこから自己決定権を奪ってはアカン」という部分をどうクリアするのかって本当にすごく難しい。
「承諾書類にサインすればいい」くらいまで整えたとしても、土壇場で泣いて嫌がる人って絶対出るし。
カネとか損得だけ見るのは何か違うと思う。
「日本の女ほど男に都合のいい女がいない」という主張は根拠がないね。
何をもって都合がいいとしているのか曖昧だけど、少なくとも都合のいい女=レディではないよね。
「私たちはこんなにも男に都合がいいんだからレディファーストしろ!」って主張は変だ。
都合のいい女ファーストを求めていたとしても男からそれを得られないということは、都合のいい女になりきれていないということだしね。
「外国ではレディであってもレディでなくても性別が女性ならレディファーストされている」ということが言いたいのかな?
つまり外国男はどんな性悪女に対しても女である以上はレディファーストに振る舞うと。
そもそもこの主張自体、事実とはかけ離れていると推測するが、仮に事実だったとしよう。
日本男の間にそのようなレディファーストはまちがいなく根付いていない。なぜか?
そのようなレディファーストをしないことによって批判されても構わないと男が考えているから。
言い換えればレディでない女に批判されても構わないと男が考えているから。
男にとってのレディがいて、彼女らに批判されるのであれば男は当然レディファーストする。
男にとってのレディがいなければ、レディでない女がいくら叫んでもレディファーストはなされない。
女がレディファーストされる方法は、自らがレディになることである。
女性が強くなって力の弱くなった男性は女性のご機嫌をとるためにレディファーストを用いるかもしれない。
でもそれは仮初のレディファーストじゃなかろうか? 結局男は自分の得になるからやっているのだ。
このコピペで言うところの、というよりは一般的なレディファーストって、
女性は男性よりもか弱いからこそ、男性が女性を優先する、守ってあげる、というものであって
自発的にレディファーストしてしまう、あるいはされてしまう、って種類のものじゃない?
定義は人それぞれだと思うから、たとえば最初に書いたレディファーストの意味なら元コピペの理由は違うことになるかもしれないが。
女性のほうから「男共レディファーストしろよ」って主張してしまったら
女性はもう二度と本物のレディファーストを手に入れることはできなくなってしまう。
打算的なサービスとしてのレディファーストなら得られるだろうけどさ。
日本男としては、性悪女にも等しくレディファーストしてくれる(らしい)海外に行けばいいと思う。
これは言い換えると
「なぜ現代日本の男たちの間でレディファーストが習慣とならないのか?」
理由として元コピペでは「男がレディファーストしたいと思えるレベルの女性がいないから」
この時点で元増田の主張は理由になっていない。
「なんでアイツはいつも宿題やらないの?」「アイツが宿題やらないようにしてるからだろ」は意味不明。
「宿題が難しすぎてわけわかんないから」とか「宿題より遊びを優先してるから」となるはずだ。
上の例でもわかるように「なぜ主体が行為を行わないのか?」という疑問に対して
では元コピペの「男がレディファーストしたいと思えるレベルの女性がいないから」
トラバではいわゆる亭主関白的な状況、おっさんが奥さんを従えてる図を引き合いに出して
「レディがいても男はレディファーストしないじゃん」と反論していた。これはどうだろう。
おっさんはレディファーストという考え方に触れる時間が短かったのではないか。
すなわちレディファーストは「レディファースト意識への持続的な接触」と「レディの出現」という条件を満たさないと根付かない。
現代日本では「レディの出現」が満たせずレディファーストは根付かない。
おっさんが奥さんを従えてるのは(奥さんがレディなのだとして)「レディファースト意識への持続的な接触」が欠けてたわけだ。
ゼミで話し合っているのは現代日本の話だと思うから、答えは「レディの出現」がないから、つまりレディが絶滅したから。
なるべく丁寧に書いたつもりだけど、どうでしょ?
「なぜ日本にはレディファーストが根付かないかについてゼミで討論した事がある。
例によって女子学生たちは日本男性批判と想像上の外国人紳士崇拝の言辞を並べていたが、
30分ほどで教授(女性)が静かに、だが力強い声で言い放った。
「レディーが絶滅しつつある日本ではレディーファーストを普及させようがありません」
教授は海外で教鞭を執っていた時期が長いが、茶道華道ともに師範の免許を持つ人。
その教授曰く「与えられる平等や優遇をあさましく求めるのは日本女性特有の醜態」
自らレディとならずして、レディ扱いを求めるのは常軌を逸していますと。
女子学生達はその後、ひとことも喋りませんでした。」
これおかしいよね。
ある行為をするかどうかは行為者の側の問題であって行為の対象の問題ではない筈。
暇を持て余している神々のような方が読んでくださればうれしいです。
http://wired.jp/2012/08/16/disney-vs-miyazaki/
こちらの記事を読んで個人的に感じたことを。
結婚について今更ながら考えるところのある33歳独身の女です。
うちの父にちょっと似てるな、と思い、なんとなく懐かしく思いながら読みました。
本人に育児方針など直接聞いたわけではないんだけれども。
父はとにかく宮崎アニメの大ファンで、わたしが小さいころから、新作が公開されるたびに家族で鑑賞するのが恒例でした。
わたしが初めて風の谷のナウシカの映画を見たのは4歳のときでした。
子どもに聞かせるつもりで話していたのかどうかわかりませんが、父が、クラリスやシータの受動性と対比させつつ、ナウシカの勇猛果敢でありながら豊かな母性に溢れる高潔な精神を繰り返し賛美していたのをよく覚えています。
「ナウシカ=父の理想の女性像=わたしがナウシカみたいになればお父さんは喜ぶに違いない=わたしはナウシカのようにならなければならない」
という式をわたしは自分の中で早い時期から確立させていたように思います。
もともとの性格に加え、夫の転勤について行く専業主婦、という立ち位置が余計に母をそうさせていた面もあるのかもしれません。
「これからの時代は、女性も社会に出て男性と対等に働いていかなければならない。そのためには小さいころから努力しなさい」
「お母さんのように専業主婦になってはいけない、これほどむなしい生活はない」
と母から繰り返し聞かされて育ちました。
ですからわたしは、周囲に比べるとよく勉強していたほうの子どもだったと思います。
ローラ姫を助けたときに抱いた嫌悪感を、今でもわたしはよく覚えています。
「なんて依頼心の強い女なんだろう!こんな女にだけはなりたくない!」
努力が実り、わたしはまずまずの大学を出て、同世代の他の女性に比べるとわりとお金をたくさん稼げて、しかも長く続けやすい仕事に就くことができました。
今の仕事に就くまでにはずいぶんと紆余曲折があり、決して順風満帆ではありませんでしたが、まあとにかく、わたしは母が願っていたとおり、社会的に自立した女性になりました。
このポジションを得てから、わたしの自己肯定感は急激に強く満たされました。
いろいろ考えてみると、そのひとつに
「これで父の期待にも応えられたはずだ」
という達成感があることに気づきました。
この仕事は、女という性の特質、具体的には「母性」を発揮するのに非常に適した仕事でもあったからです。
自分の中で、ナウシカという強く優しい理想の女性への父のあこがれと、母から期待される「女としての自立」という目標とが混ざり合い、そのすべてを叶えることができた自分が、何かすばらしい存在に思えたのだと思います。
念のために書き添えておきたいのですが、多くの若者がそうであるように、親の期待や願望の言いなりではなく、わたしもあくまで、ときに両親に反発もしながら「自分の意志」で道を選び続けてきました。
今から自分の落ち度というか、重大な取りこぼしを書くのですが、それを両親の育て方のせいにしたくて書いているわけではありません。
この文章を書いているのは、幼少期からの親との関係性がどのように「自分の意志」の形成に影響してきたのかを自分なりに分析してみることが、これからの自分の人生にとって、なにかしらの糧になるだろうと思ったからです。
わたしの取りこぼしとは簡潔に言うと「努力が報われるのは、正しい方向に努力したときのみである」ことを失念していたことです。
仕事で成功したいのであれば仕事を頑張ればよい。スキルを上げることはもちろんのこと、上司や部下との円滑な人間関係の構築、根回しのやり方なども含めて、的確な努力を続けていればだいたい結果はついてきます。
当たり前ですが、仕事を頑張ってついてくるのは通常、仕事の成果のみです。
という話は、わりとあるように思えるかもしれませんが、そのふたつは直結はしていないと思います。
仕事を頑張る姿に惹かれて、というのはあくまできっかけでしかありません。
過程には必ず、純粋に「結婚を成功させるための努力」があるはずです。
ここを穿き違えていたことがわたしの失敗でした。
「彼女たちは、男性との関係以外にも、自分というものを持っている。たとえば『千と千尋の神隠し』では、10歳の千尋が両親を助けるために自分の身を危険に晒す。ストーリー構成に含まれるロマンスは、本題から外れており、千尋の生活の中心ではなく、両親を助けるという使命のサイドストーリーにとどまる。こうした特徴は、『ハウルの動く城』など宮崎作品の多くに共通する。
わたしはロマンスに反対しているわけではない。わたしの大のお気に入りである宮崎作品は、『ハウルの動く城』と『耳をすませば』の2作品だ(後者は宮崎氏は脚本を書いたが監督はしていない)。いずれも完全に公式に従った古典的ロマンスだが、この2作品のヒロインであるソフィーと雫はいずれも、異性との関係のほかに、関心事や自分の生活、個性を持っている。」
他ならぬ『風の谷のナウシカ』も、まさにそうです。
多くの宮崎アニメにおいて、ロマンスはサイドストーリーなのです。
わたしは自分の人生において、これをそのままなぞってしまったのです。
その結果、33歳独身、あんまりさびしいから猫でも飼うか、などと考えているマンション暮らしの独身女性がここにひとり、できあがりました。
ナウシカとアスベルは最後まで結ばれません。千尋とハクだって。
ハウルとソフィー、雫と聖司は結ばれますが、後者が前者と違うのは、やはり作中で「恋」「愛」そのものに向かい合った努力をしているところです(耳すまでは、その努力をしているのは主に聖司のほうですが)。
ナウシカや千尋は、恋い慕う相手と結ばれることを努力目標にはしていません。
心が通じ合う喜びを知りこそすれ、そこまでです(ナウシカは原作を読むとその辺の距離感がよりわかりやすいのですが)。
そもそも、風の谷のガンシップとアスベルの赤いガンシップが「おい待てよ~」「つかまえてごらんなさいよ~」なんて楽しく追いかけっこをしているようなナウシカなんて誰も見たくありません。
ナウシカは、みんなの姫様であると同時に誰も同じ境地を理解しえない孤高の存在でいるからこそナウシカなのです。
千尋も「ハクと離れるくらいなら千のままでいい!」なんて言ってしまったらすべてが台無しです。
ともすればストイックなまでの、あの潔さが宮崎アニメのヒロインたちの魅力を何倍にも引き立てているのです。
そしてくどいようですが、わたしは自分の人生において、これをそのままなぞってしまったのです。
そりゃストイックにならざるを得ない人生が待ち受けているに決まっています。
もともと、結婚願望はそれほど強くありませんでした。
でも、したくないわけではありませんでした。
結婚はまさに「サイドストーリー」として、おまけのようについてくるものだと思っていました。
自分の今やるべきこと(=仕事)を頑張っていればそのうち結婚もできる、と、両者を直結させて同一視していたように思います。
ディズニープリンセスも最近ではいろいろで、リンク先にあるように宮崎アニメとはっきり対極をなしているヒロインばかりではないようです。
「伝統的スタイルのディズニー作品は、古くからある「囚われの姫君」モデルに頼っている。『眠れる森の美女』や『白雪姫』、『シンデレラ』といった物語のヒロインは、状況を打開するための行動を、ほとんど何もしない。ヒロインは自分自身のドラマのなかで主体になっていないことも多い。ただ料理や洗濯、掃除をして、美貌で王子を夢中にさせるだけだ。そしてヒロインに夢中になった王子が、ヒロインが受動的に身を委ねている苦境から彼女を救い出す。
ただし、新しいスタイルのディズニー作品では、少なくとも、物語に登場する女性たちも主体になり、しばしばヒロインは王子を救うために行動する。だがプリンセスの行動は、もっぱら王子との関係のために行われるものだ。」
あくまで王子との関係性において力を発揮する、という意味で、ソフィーは極めてディズニープリンセスに近いヒロインだと思います。
そして「ハウルの動く城」のラストは、ソフィーとハウルのキスシーンで締めくくられます。大団円です。
「恋」「愛」に正面から向かい合ってひたむきに(そして的確に)努力し、苦難を乗り越えたからこそ、彼女たちは王子様と結ばれたのです。
彼女たちにとっては、それはサイドストーリーではなく、達成すべき目標そのものだったのです。
ソフィーのモチベーションが「ハウルを助けること」ではなくて「世界平和」だったら、きっとハウルとは結ばれなかったでしょう。
「昔ながらのディズニー・プリンセスも、新しいスタイルのディズニー・プリンセスも、男性を虜にして、ぜひ自分の妻にしたいと男性に思わせるだけの美貌と魅力を備えている。プリンセスが登場するどのディズニー映画でも、ロマンスは「引力の法則」、もっと率直にいえば性的関心に基づいている。
父親であるわたしがさらに不満なのは、ディズニー・プリンセスの性的魅力が、周囲の男性を変えていくほどの強い影響力を持つことだ。『美女と野獣』や『アラジン』、『塔の上のラプンツェル』といった映画について考えてほしい。ディズニーのおとぎの国では、性欲に駆られた結果として、男性が「いい人」になるのだ。
わたしは個人的に、自分の性的な魅力によって彼らを変えられると信じて、感じの悪い男性と性的な関係に陥る多くの女性たちを知っており、娘たちにそのような女性になってほしくない。これはディズニー映画の問題ではなく文化的問題ではあるのだが(われわれが購入しなければディズニーも販売しないはずだ)。 」
しかし実際、意中の男性を虜にするには、十分な性的魅力がなくては話にならないのです。
「感じの悪い男性」と関係を持つのは確かによくありませんが、だからといって性的魅力がないと王子様とのロマンスも生まれません。
性的魅力を磨くことと、「感じの悪い男性」に引っかかることは直結しません。
ディズニーの王子様達は女性にとっても魅力的な男性ばかりで、このような男性と結ばれるには女性にもそれ相応の魅力が必須である、というメッセージはなんら間違っていないと思います。
このように十分な性的魅力を持ったプリンセスたちがまさに王子様との愛のために奮闘する物語、この要素が、わたしには決定的に抜け落ちていたのです。
リンク先にもあるように、古典的なディズニープリンセスのモチーフである「囚われの姫君」は、極めて非力で弱々しく、受動的な存在として描かれます。
この弱々しいお姫様が王子様によって助けられ、めでたしめでたし。
なんて女性にとって都合のよい展開なのでしょう。
なぜ彼女たちは、助けてもらえるのでしょうか?
プリンセスの性的魅力は、王子様を意のままに操る絶大なパワーを秘めているのです。
そのことに気付いたのは、大人になってからでした。
思春期のわたしが彼女に嫌悪感を抱いたのは、美しいお姫様だから、というだけで周囲に何もかもお膳立てしてもらえるのが気に食わなかったからですが、ではなぜ気に食わなかったのか。
本当は、そういう存在にもあこがれていたからなのだと思います。
自分の中の奥深いところには、ナウシカが理想像として根付いてしまっています。
しかし、小学生女子が当たり前に生活していて、いわゆる典型的な「お姫様」的概念に触れないでいることはまず不可能でしょう。
自分の家にはなくとも、たいていの友達の家には少女漫画がありますし、ディズニーのビデオ(当時はビデオ)だって。
思春期、わたしはまさに、ディズニープリンセスになるべきか、ナウシカになるべきか、で葛藤をし続けていました。
今思えば両立も決して不可能ではありませんでした。
わたしはナウシカを選びました。
そのまま中学生になり、高校生活を過ごし、大学生になり、社会に出ました。
そして、ディズニープリンセス達の力がいかに強大なものかを知ったのです。
彼女たちは、同期ばかりでなく上司や先輩の男性に対しても、強大な力を見せつけてくれたのです。
そして彼女たちはいつでも「恋」と「愛」については全力投球でした。
努力は彼女たちをますます美しく魅力的な女性へと成長させ、そうして十分に性的魅力を獲得した彼女たちは、王子様のもとへと嫁いでいきました。
プリンセスにも、いろいろいました。
賢くて仕事がとてもできる人、そこそこ普通に仕事をこなしてる人、どっちかっていうとあんまり仕事ができない人。
でも、彼女たちの結婚に、仕事で頑張っていたかどうか、は関係しませんでした。
あくまで女性として魅力的かどうか、でした。
当たり前すぎる話です。
もちろん、プリンセス達にも悩んでいる人はいるかもしれませんけど。
かつてのわたしの母のように。
わたしも今の人生を後悔しているわけではありませんし、今からでもご縁がないわけではないのかもしれません。
けれども自分にもし女の子が生まれたら「美しく魅力的な女性になってほしい」というメッセージは発し続けたいと思っています。
仕事を「サイドストーリー」にするかどうかは本人次第だけれども、性的魅力を高めておくことの大切さを知ることは、非常に重要だと考えます。
長すぎました。
申し訳ありません。
ようするに、不衛生で治安を脅かす集団が地域に根付いたらイヤだっていうはなしね。
しかも、その集団は歴史を通して、そのようなライフスタイルを崩さず、地域と交わらない、と。
その集団は、「ジプシー」と呼ばれている。実際、構成のほとんどは民族としてのジプシーだから。
そりゃそんなやつら排斥しようとしても、それを誰もレイシズムとは言わないね。わかるよ。
少なくともおれみたいな頭でっかちのはてな民には、そう言えばわかるだろ。
いちおう、短期だけど何度もヨーロッパに旅行しているから、そういう奴らがいるのは知ってるよ。
あの汚らしい奴らが「血縁関係がある民族」って言われると、素直に頷けなかったんだ。
教えてくれてありがとう。