・選手は自己の持てる力を最大限に発揮した試合をしたいと常々願っている。
・観客もそのようなレベルの高い試合を観戦したいと願っている。
・そしてそのようなレベルの高い試合は、選手だけで達成できるものではなく、選手と観客との総合作品である。
こういうことではないのかなと。
特に3番目の、レベルの高い試合は、選手だけで作れるものではなく、観客と選手が一体となって初めて出来るものだ
というところが、テニス観戦の歴史の長い海外ではもしかしたら、観戦マナーとして定着しているのに対して、
もちろん、日本でもまったくなじみがないわけではなく、野球でも、鳴り物自粛だとか、スポーツ以外の分野でも、
観劇のマナーとか、いろいろ定着してはいるけれども、はっきりと言語化した形で、あるいは明確に意識化された形で、
試合中のためいきの是非といったひとつひとつの具体化されたものにまで踏み込んで、意識に根付いているわけではないのだろう。
だから伊達発言に違和感を感じる人は、「プロであるにもかかわらず、自身の不出来を客のせいにするとは」といった反応に
なるのではないだろうか。
だがプロとはいえ、メンタルをもった人間であるから、メンタルに左右されるのは事実として否めない部分はあるのではないだろうか。
たとえば、将棋や囲碁の頭脳ゲームで、周囲で騒音を鳴らしても、ゲームの質は本当に維持されるだろうか。
ゴルフのパターで観客の携帯が鳴ったらプレーヤーの集中力はどうだろうか。
こう考えていくと、「プロといえども…」という部分は、絶対にあるはずで、「いやしくもプロならば…」という気持ちも一方でもちろん
わからなくはないのだが、しかしレベルの高い試合をしたい&見たいという願いは、プレーヤーと客の双方の共通の願いなのであるから
そう考えていくと、観戦の歴史の長い国ではすでに共通認識化されているマナーが、日本ではまだはっきりとそこまでは進んでいなくて、
伊達さんじゃないけど、ちょう同意します。