はてなキーワード: 新宗教とは
欧米と比して宗教色が薄いと言われる現代日本でも、完全に宗教と決別して生きていくことは難しい。
いわゆる「冠婚葬祭」においても、近年では小規模化の傾向が見られるとは言え、有形無形の圧力により望まぬ負担を強いられることが常態化している。
そこで、出来る限りコストのかからない極めて簡素な宗教を新たに用意し、それを宗教的圧力からの逃げ道にすることができないかと考えた。
簡素と言っても、冠婚葬祭を全く執り行わなければ社会的摩擦が生じ、かえってコストが増大しよう。それでは本末転倒である。
なので最低限の儀式は執り行いつつ、それ以上の出費を防ぐために、「私の宗教では盛大な儀式が禁じられている」などと、宗教を言い訳に使えるようにしたい。
メタ目的が「宗教に関連するコストを低減する」ことであるので、「戒律を課す」「現世利益を約束する」といったコストの嵩む方向性は論外である。
そこで「死に対する不安を取り除く」=「死後の安楽」という点に絞る。
死後の安楽を保証するために、まず神を用意する。
神は全知である。
故に神は「人の死後が安楽である」ことを知っておられる。
これを基本にしよう。
「神によって安楽がもたらされる」でないことに注意されたい。
安楽が神によってもたらされるのならば、神に対価を支払う必要性が生じてしまう。
むしろ、
とすべきだ。
信徒は神に期待してはならない。
ただただ「人の死後が安楽であることを知る神が存在する」ことを信じるだけである。
あらためて信心を表明したり、神へ誓いを立てたりすることは、神の全知を疑う行為であるので、できるかぎり慎むべきである。
ことさら神へ祈りを捧げたり、神の名の下に騒ぎ立てたりすることは、神の無能を疑う行為であるので、できるかぎり慎むべきである。
と、このような教義を設定すれば、冠婚葬祭のたぐいを簡略化できるのはないだろうか。
神は新郎新婦の愛を既に知っている。
神は死後の安楽を知っている。
神は死後の安楽を知っている。
埋葬する必要もないが、埋葬した場合でも墓参りはしなくてよい。
といった具合だ。
もちろん冠婚葬祭以外でも様々なシーンで利用できるはずだ。
これを「全知無能神教」と名付けよう。
どうぞ信仰してくれ。
8月初頭に書いてたやつ
去年ポケモンGOが日本で配信された前後に、広島・長崎の平和公園を含むいくつかの観光地からポケストップが削除された
そして当時それに対し「観光地からポケストップ外すのはおかしくね?」みたいなコメントをニコ百かどこかで見かけた記憶がある
(ソースや正確な発言内容はうろ覚えなのでどういう文脈で批判してたのかは忘れたが、なんかポケストップ除外に否定的だったのは覚えている)
他観光地は知らんが少なくとも広島平和公園に関しては英断だったと思うよ、早めのポケストップ削除申請
まず観光客が大量に押し寄せる、次に小中学生も大量にやってくる
その上いくつもの平和団体反原発団体左翼団体右翼団体ネトウヨ団体街宣車新宗教団体がビラ配りや署名クレクレやパフォーマンスをやっているんやで
長崎の方は行ったことないがおそらくあっちも9日近づくと大体同じだろうし
カレンダー見てふと去年の今頃こんなこと考えてたなーと思い出したので書いてみた
天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[1]。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられた。
目次 [非表示]
1.2 四宗兼学
1.3 止観行
1.4 所依
1.5.1.1 総本山
1.5.1.2 門跡寺院
1.5.1.3 大本山
1.5.1.4 別格本山
1.5.1.5 その他の寺院
1.5.2 天台寺門宗
1.5.3 天台真盛宗
1.6 その他天台系宗派
1.7 教育機関
1.7.1 大学
1.7.3 養成機関
4 社会運動
5 脚注・出典
6 関連項目
7 外部リンク
正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。
初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が日本に入った。次いで、伝教大師最澄(767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本に帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである。最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。
この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。
真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。
当初、中国の天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。
しかし日本天台宗の宗祖・最澄(伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に空海(弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。
とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。
なお真言密教(東密)と天台密教(台密)の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである。
四宗兼学[編集]
また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。
止観行[編集]
天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。
所依[編集]
福王寺(熊本県山都町、宮司兼豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である)
その他天台系宗派[編集]
孝道教団
叡山学院
なるほどね。
最初は戦後の名前を引き合いにだしてるのか思ったが、グーグル先生で調べてみるとどうもそれとは違った「大日教」が存在したようだ。
同じbotのつぶやきには「大日教祖杉本と信者某との質疑応答」とあるので、教祖の名前が違うからだ。
あとは戦前の「天津教」皇祖皇太神宮天津教 - Wikipedia
(現 皇祖皇太神宮天津教)が戦後の一時期は「宗教法人大日教」という名称だったのでこれかと思ったが、教祖名も違う。
とにかく、一次ソースが気になる。
んで、色々とネット上の情報だけで調べてみた結果、@hukei_botは「昭和特高弾圧史」からの抜粋であることは間違いなさそうだ。
Googleブックス(書籍検索)で「昭和特高弾圧史, 第 4 巻」を引き出し、書籍内検索で「杉本」と検索すれば同じ内容が引っ掛かる。
現在のGoogleブックスは著作権のある書籍は全文表示ができないから(開始当時は見えちゃった気がする)ブツ切りのような情報しか得られないのが難点。
同じく「特高外事月報」と合わせて見ると、全日教教祖は1942年当時60歳、起訴時東京在住、滋賀県出身の大日行者、杉本金治郎というのが裁判記録らしきものから分かる。
108 ページ
... は神去り給ひてより其の誠が大日如来に包摂せられ其の如来は宇宙に瀰漫せる大
自然の誠にして人類並に一切の物を創造し且永遠に之が霊的及現実支配を為たりと
称し、大日教なる教理を創説し爾後之が宣布に努め来たりたるものなる処、該教理たる
や大 ...
「特高外事月報」
59 ページ
... 知得したりと構し、大日教なる教理を創説し衛後之が宣布に努め来たりたるものなる
慮、該教理たるや大日如来は宇宙に瀬夏せる大 ... 四月頃道了奪が大日如来なることを
CiNiiでも引っ掛かった。
CiNii 論文 - 内務省による宗教弾圧 : 創価学会の場合を事例として
CiNii 論文 - 宗教法人法の改正をめぐる問題点 : 宗教団体に対する管理の要素の導入の有無と是非(松本保三先生退職記念号)
1942年の治安維持法違反・大日教事件として記録されている。
しかしまあ、通常のGoogle検索では引っ掛かららんのだね。
戦前・戦中期日本の言論弾圧 (年表) - Wikipedia
↑これにも出てこなくって、忘れられた宗教みたいだ(前述の竹内文書教のせいもあるだろう)
疲れたのでこれまで。
(追記)
(追記2)
↑当時60歳というのが厳しいだろう。
宗教団体法とか治安維持法について知っていたけど、ちょいちょいググってみて、改めてこのあたり軽く考えてたな、と思ったりした。
追加の情報としては
28 ページ
明石博隆, 松浦総三 て、此の大日もその為に行を積んでゐるのである、その修行も半ば
「大平山大日教」ともいう様子。「大日教」が「大日経」の意味で使われる事が多いからかな。
https://www.google.com/#tbm=bks&q=%E5%A4%A7%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%95%99]
戦争しよう!
第二次世界大戦で大敗した日本は政治と経済と国民を再建させた!
今の日本は改革では変化できないくらい政治・経済と国民性が低下しきっている!
ともすればこのまま衰弱していくばかりの欠食児童だ!
そこでまだ余力のあるうちに戦争を起こそう!
ナショナリズムは最高を記録する!
そして大敗!
そして何も無くなってしまったところから新たなものを作り上げる!
新政府・新国民・新経済・新道徳・新宗教・新・新・新・新・新・・・・・・!!!!!!!!!!!!
既得権益に縛られない自由な社会!自由な日本!新しい!日本人が作れるぞ!
また戦争は悲惨だった、私たちは過去を反省しなければならない!という美しい敗残兵たちを作れるぞ!
今みたいにネットでグダまいてるニートや老害どもをどんどん戦地にお・と・ど・け!して綺麗にしていこう!
兎に角ボロ敗けして腐った大企業や役人どもが機能しなくなるところまで行こう!
真の実力者でなければ再建できない荒廃した世界にしよう!
日本人は負けるたびに強くなる民族なのに、負けれなかったから国力が衰退してきたんだ!
冷水ぶっかけて体を鍛えるアレと一緒だよ!いっしょ!まずは死人を造らないと!
黒船に負けて強くなる!米に負けて強くなる!今度は中国あたりに負けて強くなろうよ!!
みんな!戦争しよう!!
趣味つながりの友人?で、元上級公務員の昭和ヒトケタ生まれの男性がいる。
先日趣味の集まりの後でちょっと飲んでたのだが、昨今の一部の公務員や自民の政治家の極右化はバランス感覚がなさすぎて恐いという話になった。
インターネットでささやかれているような極右のバックグラウンドになってる宗教法人の話なども。
オジサマ曰く、ぼくらのような戦前生まれは、たまに「紘」の字が付く名前の人がいるが、自分たちが学び仕事につく時期は戦後民主主義化であったこともあって、
某「紘一」さんなどは、「八紘一宇」から取られた紘一という自分の名を「いやお恥ずかしい名前で」と自己紹介するようなこともあったらしい。
それを昭和ヒトケタの友人は、「まだ客観性やバランス力が残っていた頃」と言っていた。
それが、なぜいつの間にこんなにガツガツと極右化しているのか。
保守層というのは、身も蓋もないいい方をすれば戦前から既に豊かだった人が大半だろうと思うが、
揺らがない豊かさを背景に、鷹揚に、時代の変化を気にせずにいられたのだろう、と。その前提が崩れつつあるのかも、という話が面白かった。
彼らの多くはもうずっと都会者のような顔をして東京で暮らしては居ても地盤は地方であることが多い。
彼らの現在の金と地位の源泉は地方にある。「地元の名士」「郷土の誇り」「名家の末裔」だったりするからだ。
地方が衰退することで、この源泉が揺らぐ。
例えば、彼らの子供や孫が、自分たちの家業(政治や行政、地元企業等)に興味を持ってくれない、という形で「時代の変化」が突然具現化したりする。
もう一つ、目に見えて彼らの危機感を煽るものは、祭りの寄付金らしい。
地元の神社の祭りの寄付金を集めるのが大変だ、大口の寄付を出してくれていた名士や名家が居なくなる、法人化してつながりが薄れる。
当たり前のように、神社(場所によっては寺)などを求心力の中心として行われてきた地元の祭りが、「町おこしのイベント」のようになる。
この流れには問題が隠れていて、要するに地元の神社の後継者や維持管理の問題があるらしい。
ここで出てくるのが神社本庁である。宗教法人神社本庁については、興味があるならググっていただければ何となく雰囲気がわかるかもしれないが、ちょっと怪しい宗教法人という側面がある。
インチキな壺を何百万で善良な呆け老人に売りつけて、という危うさでは全然ないのだが、例えば天理教は胡散臭いと思う人がいるなら、歴史の長さはその辺の明治新宗教と実質大して変わらない。
まぁそれはともかく、明治時代に神社庁という公の役割を持ったという経緯もあって、地方の後継者難の神社は、宗教法人神社本庁にお願いして後継者を探してもらったりすることもあるらしい。
その土地に根を張って仕事をしている人たちにとっては、「神社がすたれる」というのは、割と心に重くのしかかる事実らしく、
その辺りから、バランスを失って極の方に取り込まれていくのでは、というのが、私と趣味友のオジサマが、酒飲み話で適当に出した結論だった。
別の話っぽい、地方衰退と政治・行政組織の右傾化が繋がったのが、酔っ払いどものたわごととはいえちょっと面白かったので、メモ代わりに増田に。
最近増田でも打線組む投稿が散見されるので、マイナーどころのファミコンクソゲーで組んでみよう。
家庭用ゲーム機の出現から30数年、携帯ゲームの嚆矢となる携帯アプリの出現から10数年。クソゲーを語る文化もまた成熟しつつある。
そうした文化にこの文章が影響を与えられるとは到底思えないが、まぁ見て楽しんでもらえたら嬉しい。
擬似的な3D空間を探索するゲーム。主人公が腰の悪そうな歩き方をし、移動も遅い。上にしかビームを出せないくせに敵が横からもくる。ヒントも意味不明で音楽も気持ち悪いし壁が目に悪い光り方をする。タカラが生んだ先駆的クソゲー。
https://www.youtube.com/watch?v=tL71-Hsh9lo
坂本竜馬を操作して明治維新をおこそう。前半がアドベンチャーモードで薩長同盟を締結し、後半が戊辰戦争シミュレーション。アドベンチャーモードは中岡慎太郎が強すぎて竜馬を使うことはない。シミュレーションモードは新政府軍が弱過ぎて板垣や伊藤が隣の藩の雑兵に殺されるレベル。そして何故か生きて戊辰戦争に身を投ずる坂本。史実とは?
http://nicoviewer.net/sm4286007
糞。ゴーストバスターズのロゴがあるだろ。禁止マークにゴーストが収まっとるあれだ。あれを動かすゲームなんだぜ。これ。
https://www.youtube.com/watch?v=YxJNXahpPHc
ノストラダムスの大予言後の世界を旅するRPG。最終的に天道という実在する新宗教に帰依せよ、という結論に至る怪奇的ストーリー。宗教的、神秘主義的な世界観は独創的ですらあるが戦闘は連打ゲーであり移動は何故か恐竜で行なう。1989年という時代性、今よりももっと精神や信仰や信奉というものが身近だった、すなわち「オウム」以後に忌避されるようになった若者のスピリチュアルなものへの傾倒の時代を象徴するクソゲー。こうした意味で、もう現れない時代性を反映した記念すべきクソゲーなのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=H_rYG_ZM4Oo
ファミコンのパスワードは長い。特に長いものにこの『覇邪の封印』と『ドラゴンクエスト2』とがあるが、その評価には著しい格差がある。主人公に付いてる妖精の性格が悪く、ヒロインを憎悪しておっさんを贔屓する。悪徳商人を殺す王道ファンタジーRPG。
https://www.youtube.com/watch?v=aKe7yIqj4TY
すまんこれは名作だ。ゲームの歴史上、「攻撃して倒すゲーム」が主流のなか「最後まで守りきる」ゲーム。そしてかなり難しい。それゆえクソゲーと揶揄されるが、本当はとってもソリッドなゲーム。女の子はかわいいし、実際難易度も凝りに凝っている。
https://www.youtube.com/watch?v=cBmHNRZBZsY
マップと実際の道路が合っていない。マップ見ないで画面で覚えようにも、道路が変なところどうしで繋がっている。プレイヤーはマップと実際の画面とを総合して、自分の心の中でゲームの空間をイメージせねばならない。
https://www.youtube.com/watch?v=L2ABLQKHHCU
プーチンが領土欲を露骨に発露する2014年現在、再評価も求められるゲーム。なぜか水道管を東京モスクワ間で結ぶ。石油じゃねえのかよ。このゲームゴルビーあまり関係ないのにゴルビーの肖像権をロシア大使館に申請し、許可されている。なぜロシアも許可したのか。失敗すると可愛い女の子が投身自殺する。
https://www.youtube.com/watch?v=AC0IKZet0Ds
パリダカに出るために車を調達するところから始める。途中野生生物を倒したり、内戦中と思しきアフリカ国家を通る。荒唐無稽な出来なのだが、どこか「これがパリダカの雰囲気か」と思わせる説得力があるクソゲー。もちろん現実のものとは全然違うんだけど。音楽がかっこいい。
最近暇なので、ブックオフとかで安く買えそうな所謂古典的名著?的なものを
色々読んでみようかと思った。
なんとなく興味が湧いたやつをピックアップしていった。
適当につらつら書くので、参考にするなりツッコミを入れるなり好きにしてくれ。
あと他にもこれ読んでおけみたいなのがあったら教えて欲しい。
正直ありきたりのラインナップで面白みが無いと言うことは先に言っておく。
一部、古典でも名著でも何でも無いやつが混じっているが、
これはまあ適当にAmazon眺めてたら目に入って気にはなっていたので追加した。
それを買ってみようかなと思う。
全部読み終わるのにどれくらいかかるだろうなー
写経体験とかも載ってるけど、写経ブームなんかも危なっかしいんですよ?
有名寺院の写経教室ならいいけど、巷の写経教室には名を秘して新宗教が勧誘のとっかかりに主宰してるようなのがいくらでもある。
オウム真理教がヨーガ教室というタテマエで勧誘してきたのと同じ。
「最高でーす!」で有名な福永法源の法の華三法行は、今は天華の救済という名前に変わってますが、密かに写経教室開催しまくってるよ。
http://www.xn--g7q487h6fk.com/
よくある勧誘の手段のようだ。統一教会などもやってるらしいね。
阿部兼二 @abeken_maruke
あと街中で「超写経」っていうチラシ配ってるのは「法の華三法行」系の「天華の救済」って団体。チラシには団体名書いてないから要注意。@peroshenko
団体名を隠して勧誘しているのは事実らしい。
Wiki関連を探していたら、天華の救済(新宗教掲示板@マリポーサ)にこんな書き込みがありました。
9. Guest 2010/11/01 (Mon) 23:50:08 [返信]
いわば「天華の救済」って、福永法源さんが主宰してた「法の華三法行」の後継でしょ?
どれもが規模はことごとく小さいようだ。
「地球ありがとう」って雑誌も出してるとか。どうもちぐはぐな感じはする。
11. Guest 2010/11/27 (Sat) 14:28:42 [返信]
法源氏の出所はまだのようです
15. Guest 2011/11/25 (Fri) 13:16:45 [返信]
http://earth39.com
楽天市場で天源聖水という名前の水を売っている会社です(http://www.rakuten.co.jp/yurikan/)。返送先住所は「神奈川県横浜市中区南仲通4-55 国際馬車道ビル2F」(http://www.rakuten.co.jp/yurikan/info.html)となっています。
「国際馬車道ビル2F」でぐぐってみると天華の救済関連のウェブページがヒットします。
天華の救済 〒231-0006 神奈川県横浜市中区南仲通 4-55 国際馬車道ビル 2F
http://yorokobikazoku.com/format/img/pdf/05.pdf
れんげ会」について. 所在地. 〒231-0006 横浜市中区南仲通4-55 国際馬車道ビル2F 天華の救済 天声聖書伝導協会
http://rengekai.info/about.html
所在地 〒231-0006 横浜市中区南仲通4-55 国際馬車道ビル2F
エイズ・自殺撲滅運動事務局から - 天華の救済 公式ホームページ(http://universal-joy.net/aids-suicide/top2.html)
「木村正次郎」での検索結果も追跡しているのですが、まだ不安定ながら、「木村正次郎とは - はてなキーワード」が2位に浮上しそうな雰囲気になってきました。いいことです。
id:I_am_sohoが作成、id:id:sulcusが編集。
id:P-CROWが作成後、id:yutoS、id:I_am_sohoが編集。id:P-CROWの編集には宗教的な偏向はなし。
「天華の救済」は法の華三法行を引き継いだカルト宗教団体です。
超宗・法の華三法行 (ちょうしゅうほうのはなさんぽうぎょう) は、かつて存在した新宗教団体。教祖の福永法源(本名:福永輝義。国司院常照とも称する)以下、幹部が霊感商法にかかる詐欺罪で摘発された事により崩壊したが、一部残党が別の名称で活動を続けている。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1479520829
教祖・福永法源氏(67歳)が詐欺罪で実刑判決を受け服役している法の華三法行は、解散後、残党が「天華の救済」という団体を設立してすでに活動を活発化させている。
かつては近隣に福永法源(詐欺罪で服役中)を教祖とするカルト「法の華三法行」の本部があり、洗脳方法は法の華三法行→統一協会、金が統一協会→法の華三法行、という流れが存在したとされている。2000(平成12)年に福永法源ら逮捕、翌年「法の華三法行」は破産し解散するが、後継として「よろこび家族の和」、更に「天華の救済」と名を変えて続いているが、これが統一協会となお関係を持っているかは不明。
宗教的経験
カルトの「超越的世界観」によって、現実世界においては解決の困難な問題が解決することと述べました。他方、この類の世界観は非現実的であるために、受容が困難なのも事実です。ところが、「神秘体験」、「超越体験」などと呼ばれる幻想的な宗教経験は、その受容を著しく促進します。
オウムにおいても、教義の妥当性の根拠は、その種の宗教的経験でした。つまり、多くの信徒は教義の世界を幻覚的に経験しており、その世界を現実として認識していたのです。地下鉄サリン事件への関与は誠に愚かであり、心から後悔しておりますが、この事件についても、宗教的経験から、私は教義上の「救済」と認識して行いました。
このように、宗教的経験は、「殺人」を肯定する非現実的な教義さえ受容させる原因となります。したがって、宗教的経験を根拠とする思想やこれを起こす技術の使用には注意すべきです。
以下、宗教的経験の検討のために、私の経験を述べさせていただきたく思います。
前述のように、高校三年生のときに、私は、「生きる意味」の問題を意識するようになりました。しかし、その後、私は目を引いた本を読んだり、簡単な瞑想を指導する団体に入会したものの、その問題は棚上げ状態でした。大学で学ぶことが将来の職業に直結するので、学業や学費のためにアルバイトに忙殺されていたのです。
そのようなとき、偶然、私は書店で麻原の著書を見かけたのです。昭和六十三年二月ごろ、大学院一年のときでした。その後、関連書を何冊か読みましたが、彼の説く解脱。悟りが気になりました。
最終的な解脱・悟りは、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の境地であり、本来、私たちはその状態に安住していたにもかかわらず、煩悩にとらわれたために、輪廻して苦界をさまよい続けているとされていました。ここで、絶対自由とは、カルマ(業。転生する原因)から解放され、どの世界に転生するのも、最終解脱の状態に安住するのも自由という意味でした。絶対幸福とは、金、名誉など自分以外の外的存在を必要としない幸福という意味でした。絶対歓喜とは、自己が存在しているだけで歓喜状態にあるという意味でした。
不明な点が多いものの、何らかの絶対的に幸福な境地の存在が事実であれば、その追求は「生きる意味」に値するのではないかと思いました。
また、麻原は修行を完成させて最終解脱の境地にあり、弟子を指導して彼らをも解脱させているとのことでした。麻原や弟子たちの体験談を読むと、解脱への確かな道が存在しているように思えました。彼らの体験には普遍性が感じられたからです。さらに、麻原は自身の体験の妥当性を、ダライ・ラマ十四世をはじめとするチベット仏教やインドの聖者たちと交流して確認したとのことでした。
前述の解脱のような教義の話だけならフィクションを読んでいるようなものでしたが、このような実証的な姿勢は理解できることでした。この点は、私がそれまでに接した斯界のものとは違っていると思いました。
しかし、事はそう簡単に運びませんでした。麻原が主宰するのは、宗教団体「オウム真理教」だったのです。(なお、当時、オウムはほとんど無名の団体でした。)
私は新宗教に対して拒絶反応が起こるのを禁じ得ませんでした。「輸血拒否事件」、「霊感商法」…新宗教に関するマスコミ報道は、決まって言いようのない不快感を催すものでした。とりわけ、「輸血拒否事件」は、高校三年生のときに話を聞いた団体のことだったので、新宗教に対する問題意識が高まりました。
この事件の報道では、事故に遭った子供が「生きたい」と言っていたのにかかわらず、両親が教義に従い、輸血を拒否したとされていました。この団体の聖書の解釈が正しいという保証はないのだから―私にはほかの解釈も可能に思えました―、そのような不確実なことに基づいて命を犠牲にすることが信じられませんでした。ですから、この事件で、私の新宗教に対する不信は決定的なものになっていました。
このようなわけで、私は本を読む以上にオウムに近づけなかったのです。
ところが、本を読み始めた一週間後くらいから、不可解なことが起こりました。修行もしていないのに、本に書かれていた、修行の過程で起こる体験が、私の身体に現れたのです。そして、約一ヶ月後の、昭和六十三年三月八日深夜のことでした。
眠りの静寂を破り、突然、私の内部で爆発音が鳴り響きました。それは、幼いころに山奥で聞いたことのある、発破のような音でした。音は体の内部で生じた感覚があったものの、はるか遠くで鳴ったような、奇妙な立体感がありました。
意識を戻した私は、直ちに事態を理解しました。爆発音と共にクンダリニーが覚醒した―読んでいたオウムの本の記述が脳裏に閃いたからです。クンダリニーとは、ヨガで「生命エネルギー」などとも呼ばれるもので、解脱するためにはこれを覚醒させる、つまり活動する状態にさせることが不可欠とされていました。
続いて、粘性のある温かい液体のようなものが尾底骨から溶け出してきました。本によると、クンダリニーは尾底骨から生じる熱いエネルギーのことでした。そして、それはゆっくりと背骨に沿って体を上昇してきました。腰の位置までくると、体の前面の腹部にパッと広がりました。経験したことのない、この世のものとは思えない感覚でした。
「クンダリニーの動きが正しくないと、くも膜下出血を起こす」、「指導者なしの覚醒は危険だ」―オウムの本の記述は別世界の話でしたが、今や、我が身に起こりつつある現実でした。私はクンダリニーの動きを止めようと試みました。しかし、意志に反して、クンダリニーは上昇を続けました。
クンダリニーは、胸まで上昇すると、胸いっぱいに広がりました。ヨガでいうチャクラ(体内の霊的器官とされる)の位置にくると広がるようでした。クンダリニーが喉の下まで達すると、熱の上昇を感じなくなりました。代わりに、熱くない気体のようなものが上昇しました。これが頭頂まで達すると圧迫感が生じ、頭蓋がククッときしむ音がしました。それでも、私は身体を硬くして耐えるしかなす術がありませんでした。
突然の出来事に、どうなることかと思いましたが、それをピークに一連の現象は収束しました。どうやら、無事に済んだようでした。
オウムの宗教的世界観が、一挙にリアリティを帯びて感じられました。麻原をグル(修行と指導する師)として、解脱・悟りを目指すことが私の「生きる意味」であると確信しました。麻原の著書を読み始めて以来相次いだ体験に、彼に強い「縁」を感じていたからです。クンダリニーが自然に覚醒したのは、前世のグルの著書を読んだために、修行者だった私の前世の記憶が甦ったからだと思いました。
このように、急激に宗教観念を受容して、思考体系が一変する心理現象は、「突然の宗教的回心」と呼ばれています。これと漸進的な宗教観念の受容との違いについて、研究論文には次のように述べられています。
突然の回心は、被験者そのものが全く変えられるように思われる経験として定義した。つまり、その変化は、被験者が生じさせるのではなく、彼にもたらされるように思われた。また、その変化は、被験者の生活様式、道徳的特性を形成する態度におけるものだった。
漸進的な宗教的発達は、上で説明したような回心経験がないという特徴のもので、そして被験者が自身を無信仰と識別したことがないものである。
すべての回心者は、疑いの余地なく、無信仰の状態から信仰深い状態になった。
二つの集団の特色をかなりよく示す、二つの自伝を下に引用する。一人の突然の回心者は、彼の経験を次のように記述した。
この経験は、私が一四歳の秋に起きた。私は畑を耕して働いていた。突然、嵐が近づいたように思われ、そしてあたかも私の周りの全てが止まったようだった―私は神の存在を感じた。馬たちは完全に止まった状態になった。真っ黒な空がとどろいたので、私は祈った。嵐はすぐに通り過ぎたが、この瞬間だった、―私は祈りながら―主が望むならば、クリスチャンになり、主に仕える決心をしたのは。
漸進的な宗教的発達をした集団の一員は、彼の経験を次のように記述した。
私が信仰深いと自覚したときを説明するのは難しい。それに対し、何年か前に私は十ポンドで生まれ、そして現在はそれよりかなり重いという事実を説明するのは、全く簡単だろう。この成長には、出来事の印象がないわけではない。しかし、少なくとも回想では、そのプロセスはあまりに完全に連続したように霞んでいる。だから、私が自身の認識に現れた時点を思い出せる以上に、私は“信心深く”なった時点を分離できない。私はその二つの出来事はほとんど同時に違いないと思う。
このような宗教的回心は、人が葛藤状態にあるときに、幻覚的な超越体験と共に起こることがあり、このとき葛藤が解決するとされています。また、突然の宗教的回心においては、常識から非常に逸脱したビリーフ・システム(思考体系)が受容される場合があるとされています。そして、「カリスマグループの一つの注目せざるを得ない特徴は、入会の特徴がしばしば劇的な回心の経験であることだ」といわれています。
私の場合、「生きる意味」に係わる葛藤のために、回心が起き、オウムの教義体系が受容されました。このように、非現実的な世界観が突然現実として感じられ、それが受容されることがあるので、超越体験に基づく世界観には要注意でしょう。後述のように、それが日常生活との間に摩擦を生じる場合は問題が起こるからです。
オウムの宗教的世界観が現実となった私に、入信以外の選択はありませんでした。また、新宗教うんぬんといっていられる状況ではありませんでした。クンダリニーが覚醒した以上、指導者は不可欠だったからです。私はクンダリニーをコントロールできず、頭蓋がきしんでも、なす術がなかったのです。この状況について、ある共犯者は「広瀬君は、本を読んだだけでクンダリニーが覚醒して、困って教団に相談に行ったと言っていた。ある種の困惑を広瀬君から感じた。」と法廷証言しています。
こうして、オウム真理教の在家信徒としての生活が始まりました。在家信徒は、社会生活しながら、教義の学習、守戒など教義の実践、ヨガの行法、奉仕などの修行をすることが基本でした。
オウムの教義と修行の目的について、あとの話の理解のために必要な部分のみ説明致します。
教義において、修行の究極の目的は前述の最終解脱をすること、つまり、輪廻から解放されることでした。なぜ解脱しなければならなのか―それは、輪廻から解放されない限り苦が生じるからだ、と説かれていました。これは、今は幸福でも、幸福でいられる善業が尽きてしまえば、これまでに為してきた悪業が優住になり、苦しみの世界に転生するということでした。特に、地獄・餓鬼・動物の三つの世界は三悪趣と呼ばれ、信徒の最も恐れる苦界でした。
それに対して、解脱はすべての束縛から解放された崇高な境地でした。解脱に至るには、次のように、私たちが本来の最終解脱の状態から落下していった原因を除去していくことが必要と説かれていました。
私たちは自己が存在するためだけで完全な状態にあったにもかかわらず、他の存在に対する執着が生じたために輪廻転生を始めたとされていました。それ以来、私たちは煩悩(私たちを苦しみの世界に結びつける執着)と悪業を増大させ、それに応じた世界に転生して肉体を持ち、苦しみ続けているとのことでした。たとえば、殺生や嫌悪の念は地獄、盗みや貧りの心は餓鬼、快楽を求めることや真理(精神を高める教え=オウムの教義)を知らないことは動物に、それぞれ転生する原因になるとされていました。
これらの煩悩と行為は過去世のものも含め、情報として私たちの内部に蓄積しているとのことでした。この蓄積された情報が「カルマ(業)」でした。そして、「悪業に応じた世界に転生する」というように、自己のカルマが身の上に返ってくることを「カルマの法則」といい、これも重要な教義でした。
カルマの法則から考えると、解脱、つまり輪廻からの開放に必要なのは、転生の原因となるカルマを消滅(浄化)することになります。ですから、オウムにおいては、カルマの浄化が重視され、修行はそのためのものでした。
[なお、前述の「殺生」は、虫を殺すことも含みます。ですから、そのほかに挙げた行為もそうですが、一般人の日常的な行為はほとんどが悪業となります。したがって、信徒についても、入信前は悪業を為してきたことになり、それらを浄化しない限り苦界に転生することになります。だから信徒たちは必死に修行していました。また、家族など周囲の非信徒たちは苦界への転生が避けられないことになり、それを信徒たちは案じていました。後述しますが、日常生活と相容れないこの教義のために、一般社会は苦界への転生に至らせる世界とみなされました。そのために、信徒は一般社会を離れて出家していきました。さらに、苦界へ転生する現代人を救済する目的で、殺人まで犯すことになりました。]
また、オウムの教義において、麻原は「神」といえる存在でした。それは、最終解脱者であり、様ざまな「神通力」を有するとされていたからです。特に麻原は、人を解脱させたり、高い世界(幸福な世界)に転生させたりする力があると主張していました。私たちに「エネルギー」を移入して最終解脱の状態の情報を与え、代わりに、苦界に転生する原因となる悪業を引き受ける―「カルマを背負う」といっていました―と説いていたのです。カルマを浄化していないと苦界に転生するのですから、カルマを背負ってくれる麻原は、まさに「救済者=神」でした。
麻原の指示が絶対だったのも、そのような「救済」の能力を有するためでした。オウムの世界観においては、苦界への転生の防止が最優先であるところ、麻原の指示の目的は、苦界へ転生する人類の救済とされていたのです。
回心による教義の受容の後、入信後は、私の身の上に個々の教義の体験が現われ、教義の世界観に対するリアリティがますます深まりました。たとえば、入信の一週間後に、麻原の「エネルギー」を込めたとされる石に触れたところ、気体のようなものが私の身体に入ってきました。そして、胸いっぱいに広がり、倒れそうになったのです。そのときは、ハッカを吸ったような感覚がして、私は自身の悪業が浄化されたと思いました。
その後も様ざまな形でこのような体験を重ねたので、私にとって、麻原が「カルマを背負う」能力を有することは現実でした。そのために、麻原は「神」であり、その指示は絶対だったのです。
なお、現在は、この種の経験は暗示の機制による幻覚と理解しています。つまり、以前に接していた「エネルギーを移入してカルマを浄化する」という教義(二十一頁)が暗示になり、「エネルギーを込めた」とされる石に触れたところ、教義どおりの幻覚が現れたものと思います。(このように、回心後は幻覚的経験が極めて起きやすい状態になっていました。)
なぜあの男が―麻原の地位が教団内で絶対だったことに対する疑問の声をよく聞きます。その理由の一つは、私と同様に、信徒にとっては麻原を「神」とする教義の世界観が現実だったことでしょう。ヨガの行法によって、多くの信徒が教義どおりの宗教的経験をしていたのです。
現役の信徒は、今も、麻原の力でカルマが浄化されると感じる経験をしているようです。だから、麻原が法廷でどんなに見るに堪えない振る舞いをしても、彼は「神」であり続けているのです。私もそうでしたが、信徒が帰依しているのは生身の麻原ではなく、宗教的経験によって知覚した麻原です。「現実」よりも「宗教的経験」のほうがリアリティがあるのです。
このような宗教的経験の作用について、文献には次のように述べられています。
アメリカで(そしてしばしば国際的に)現在見られる多くのカルト様のビリーフ・システムを概観することは、臨床医が特定のセクトを正しく評価するにあたり役に立つ。ビリーフ・システムは、一般に部外者を困惑させるもので、多くは超越体験や神秘体験に基づいている。あるものは、なじみのない東洋の伝統から得ている。あるものは、教義を再構築する程度にまで、既存の宗教を粉飾する。
超越体験あるいは神秘体験は、回心のプロセスにおいてしばしば重要だが、このことはジェイムズとフロイトが注目した。葛藤の解決における超越体験は、非精神病者と精神病者の両方に急性の幻覚的エピソードが起こる程だが、この重要性も強調されてきた。これらの経験はまた、カリスマセクトの多くの全員にとって、グループの全員をを続けされる総体である。これらの出来事は、類似した現象を経験したことのある他の人たちとの友好関係を、最高潮に高める強力な感情的経験になる。
宗教的経験のコンテクストにおける精神病様超越現象が生じることを説明できるモデルは、まだ開発されていない。しかし、注目すべきなのは、かなり注意を引く知覚現象を、これらのセクトの全員が普通に報告することである。たとえば、一つのグループの百十九人の全員のうちの三十パーセントが、瞑想中に幻覚様経験を報告した。明らかに、このような現象は、心理学者が正常な精神的プロセスのみならず病的プロセスを理解するのにもかなりの影響があるはずだ。それらはたぶん、精神病といわれる人に幻覚状態を起こすあるコンテクストの性質を、心理学的に理解する助けになるだろう。
(A教団は)夢さえも「お父様(教祖)の夢を見ますよ」などと暗示を与えて教祖の夢を見やすいように誘導したりする。それらのプライミングの結果、信者は身辺でおきる現象がすべて神やサタンといった心霊現象ととらえることになっていると思われる。さらに、こうした経験が西田のいう個人的現実性を高める。つまり体験や推論が教義と整合しているという認知を与え、ビリーフは強化される。
(西田公昭 一九九五年 ビリーフの形成と変化の機制についての研究(4) 社会心理学研究、一一、一八-二九)
(プライミング―特定の情報に接触させることによって、人間の情報処理を一定の方向に誘導すること)
瞑想のより高い段階は多くの経験を含む。これは、伝統的な文献によく載っており、明るい光のヴィジョン、身心の喜びに満ちた陶酔感、静けさ、明晰な知覚、および愛や献身の感情を様ざまに含む。“超意識”、“超越体験”、“神秘体験”、あるいは“クンダリニーの覚醒”と名付けられており、これらの状態は、人を引き込む影響を及ぼす。この影響は、瞑想の伝統によれば、非常に深刻になるものだ。
※「輸血拒否事件」1985年6月に神奈川県川崎市高津区で起こった事件。ダンプカーにひかれた当時小学5年生の男の子が、両親の輸血拒否にあい、約5時間後に死亡。「大ちゃん事件」とも。
生物と無生物のあいだ (講談社現代新書) 福岡 伸一
不機嫌な職場 (講談社現代新書) 河合 太介、高橋 克徳、永田 稔、渡部 幹
臆病者のための株入門 (文春新書) 橘 玲
日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか (PHP新書) 竹田 恒泰
わかったつもり (光文社新書) 西林 克彦
いつまでもデブと思うなよ (新潮新書) 岡田 斗司夫
ツイてる! (角川oneテーマ21) 斎藤 一人
日本を貶めた10人の売国政治家 (幻冬舎新書) 小林 よしのり
脳が冴える15の習慣 (生活人新書) 築山 節
「世界征服」は可能か? (ちくまプリマー新書) 岡田 斗司夫
世にも美しい数学入門 (ちくまプリマー新書) 藤原 正彦、 小川 洋子
TPPが日本を壊す (扶桑社新書) 廣宮 孝信、 青木 文鷹
「なんで信じるのか?」の答えは「周りが信じているから」になると思う。
新興宗教ってその内部でコミュニティができてて、そこの中での価値基準が行動原理になってくる。
集金についても、そのコミュニティによって、だいたいどんなもんか相場があったりすると思う。
例が悪いけどお香典とかと同じかんじ。
このコミュニティが厄介で、
選民思考バリバリで、「正しい教えを知っている私たちが周囲の人を救わないといけない!!!」みたいなノリ。
意味の分からない言葉を熱心に唱えるのも、それに価値があると周りが思っているから。
じゃあなんでそんなコミュニティの中に入るかというと、
身内や地震に不幸があった時に、支えてくれたり助けてくれたりした人の影響というのが大きい。
具体的な奇跡や恩恵がなくても、そういう人の言うことを信用しちゃう。
中には折り込みチラシから〇〇さんの教えに感動して!!!みたいな人もいるかもしれないけど、多数派ではない。
結局のところ、入信についても、活動についても、人間の社会性というか、人と人との繋がりに引っ張られているんだと思います。
追記
Amazon.co.jp: 新編 新宗教と巨大建築 (ちくま学芸文庫): 五十嵐 太郎: 本