はてなキーワード: 師範とは
万遍ないな
東北を除いて
夕食後に学校で、天パをバカにしてくる子が居ると打ち明けられた。
こちらは、小4男。
相手の子は、同じクラスでリトルリーグでピッチャーやってるすごい子。あっ勝ち目ない。
「ついに」というのは、自分もそうだった。さらには団体行動出来ない、スポーツダメ、はっきり言わない、なんか暗いといったイジメられる要素を全て生まれながらに兼ね備えて居たので、同じ道辿ったらどうしよかなぁ、どうしたものかとは思ってた。
「ついに」来てしまった。。
とりあえずスポーツだけでもと、3歳から水泳やら空手やらサッカーを一緒にやり始めて、本人がまた行きたいと言ったサッカーはチームでスタメンをやれているようだったので、安心してたが。。
相手の家に火を放ちに行ってやろうか?!と思うも、今の時代は連絡網すらないんですぜ。どうしたものか?
あれこれ考えて対応してみた。どうだろうか?とても不安で不安で寝れなかったので、アウトプットして落ち着こうとしてみる。
【褒めてみる】
・よく言ってくれた。気が付けなくてゴメンな。
・これまで相手に力で解決しようとしなくて、怪我負わせないで、よく耐えたの、すごいね
・とりあえず、俺は悪い事をしていない方の、正義の味方だ。ゆっくりで良いから聞かせて
・天パでブサイクでも、間違いが3つ位重なると、世の中彼女になってくれる変な人も居るから安心しろ
【状況確認】
・それ以外に何か言われる事は?何か言われ始めるキッカケとか覚えてないか?
・相手はどんな子?言ってる子はどんな気持ちで言ってると思う?
・もしかして、自分は誰かを見た目とかでバカにしたり、仲間ハズレにしたり、相手が嫌そうな顔する事をやった事は無いか?
・今どんな気持ち?どうなったら嬉しい?
・もし仮に仲間由紀恵みたいな、サラサラヘアーになったら解決すると思う?
【回答】
仲間由紀恵って誰?(画像検索して見せた。あんまりタイプでは無いらしい。こういうのは受け継がないのかな??不思議)
ではなく、休み時間にキックベース(野球をサッカーでやる?逆か?)で、本気で蹴るとボール無くしちゃうから手を抜いたら負けたと。
多分それ以来、モジャモジャ頭が感染るから〜と仲間に入れてくれなくなった。と。
自分は絶対に他の人に、酷い事言ったりはしてない、ウソだったら、お年玉で買ったばかりのスパイクシューズを燃やされてもいい。と。
弱い者いじめみたいな、反撃が出来ない攻撃は、師範(土曜に行ってる空手道場の先生)が絶対に許さない、やってるやつは本気で蹴ると言ってた。
サッカー(放課後と空手が無い土日にやってる)で、味方がやる気なくて手を抜いて負けたら嫌だ。自分も怒ると思う。と。
モジャモジャなのは、慣れたから困ってないけど、あんなに長い髪は女の子みたいだから嫌。
言い返せない、仲間に入れてくれないがすごい嫌だ。と。
そだね〜。その子は本気で勝ちたかったんじゃないかな?サッカーやってるの知ってるから、味方にしたら勝てると思ってたのに、ガッカリしちゃたんじゃないかな?
ボール無くしちゃうからって言わなかったから、手を抜いてるように見えて、怒ったのかもね?
でも、実際にそう思ってるか解んないから、次言われたら、何でそんな事言うのか、手を抜かないで聞ける?
もしそうだったら、「ごめんなさい、本気でやると遠くに取りに行かなくちゃいけなくて、ズルしちゃった。
それ言われて仲間ハズレにされると、すごく嫌なんだと、次は手を抜かないから、もう言わないで」、とかどう?
でも、自分の気持ちを見せるのって、ちょっと恥ずかしいよね。。
でもでも、そんな事言われてるって言わないと、俺も全然知らなかったし、やっぱちゃんと言葉にして言わないとわかんないと思わない?
もし、それでも言って来たら、最強の言い返す言葉を教えてあげよう
「それがどうした!」
はてさて、、どうなることか。。
もうちょい準備しておけばよかったなぁ。。
2017/06/26
2016年12月20日、日本のテレビ東京系のテレビ番組「開運!なんでも探偵団」で「衝撃的なニュース」が報じられた。番組始まって以来最大の発見として、世界で4個目となる中国宋時代の陶器「曜変天目茶碗」が発見されたというのだ。番組の中で、日本の著名な美術鑑定家の中島誠之助氏は、「12~13世紀の中国南宋時代に福建省の建窯で焼かれた『曜変天目』に間違いない」と述べ、2500万円の価値があるとした。
「曜変天目茶碗」は中国の宋時代に作られ、その窯は建窯と呼ばれた(歴史的には建陽窯とも呼ばれる)。現在の福建省南平市建陽区水吉鎮にある。この茶碗は釉薬が焼成の過程で流れ落ちて厚く溜まり、一部は凝集して滴を作る。この滴の周囲で特殊な窯変反応が起き、七色に輝く光彩を生じる。その輝きはまるで夢幻かあるいは変化する気象のようで、色鮮やかな霞をまとっており、神秘の小宇宙に輝く星空のようだ。この種の茶碗が焼けるのは極めてまれな偶然によるもので、一説には窯変過程でこのような効果が生じるのは数百万個に一個ほどと言われる。現在世界に存在する完全な「曜変天目茶碗」はわずか3個で、東京の静嘉堂文庫、京都の大徳寺龍光院、大阪の藤田美術館が所蔵し、すべて日本の「国宝」に指定されている。中国には現在「曜変天目茶碗」の陶片が1点あるのみだ。
天目茶碗は宋代に制作され、その生産は元時代の初期まで続いたが、以後は二度と作られていない。中国では明や清の時代に曜変の再現が試みられたが成功しなかった。日本では江戸時代から再現が試みられており、美濃や瀬戸で「白天目」などは生産されたものの、「曜変天目茶碗」の再現には至らなかった。1974年、日本の化学者安藤堅は48歳で、それまで定収入が得られていた仕事を辞め、高級住宅も売却して「曜変天目茶碗」を再現するための研究を始めた。彼は貧困の中で困難な研究を続け、ついに1977年に古代の「曜変天目茶碗」に似た最初の作品を焼くことに成功した。安藤に続いて、日本の陶芸家の林恭助、桶谷寧、長江惣吉や中国の人間国宝(国家級非物質文化遺産建窯代表性伝承人)である孫建興らが曜変に似た作品を作っている。
番組の放送後、徳島県教育委員会はこの茶碗を県文化財に指定するための調査を計画した。
しかしここで、日本の陶芸家や専門の研究者から「曜変天目茶碗である」という番組の鑑定に対して疑問が投げかけられた。愛知県で古くからの窯が多い瀬戸市に住む陶芸家の長江惣吉氏は家業の陶工を継ぐ9代目で、父親の曜変天目研究を継承している。彼は父の業績を引き継ぎ、「曜変天目茶碗」の再現に一定の成功を収めた。1996年以来、中国を28回も訪れて建窯の研究を行っている。中国では中国科学院上海珪酸塩研究所と連携して陶磁器の国際研究会にも参加し、中国の陶磁専門家に友人も多い。中国古陶磁の再現についても意見交換を行っている。その長江氏が番組に異議を唱えたのだ。彼はインターネットで、福建省周辺で作られた「曜変天目茶碗」の複製品を購入し、これが番組の認定した「曜変天目」と出所が同じだと考えている。
「この茶碗には顔料(スピネル顔料)が使われています。この顔料はヨーロッパで18世紀に発明されたもので、曜変天目が作られた宋代(12~13世紀)には存在しません。ですから、こういった顔料が宋代の茶碗に使われることはありえません。この顔料の主な成分は、化学的に製造されたコバルト、クロム、セレン、カドミウムです。これらの元素が多く含まれていれば、例の茶碗を分析すれば各々の顔料部分からこれらを検出できるはずです。これらの元素は完全に天然原料から作られた当時の建盞には全く含まれません。仮にこれらの元素が天然原料に不純物として含まれていたとしても、その量は 0.01% 程度にしかなりません」
「曜変の光彩はオパールのように、見る角度が変わると光彩も変化します。非常に美しく、人を魅了するものです」
「いわゆる「曜変」という言葉の意味は、輝きが変化するということです。(長江氏がネットで購入した茶碗を示しながら)しかしこの茶碗は、単に青・緑・赤の顔料が発色しているだけです。この種の茶碗の場合、釉薬の成分(リン酸)の関係で、顔料釉と白濁釉にわずかな光彩が出るのみです。曜変の明るい光彩とは比べ物になりません。私がネットで買った茶碗を番組の茶碗と比べると、赤色の内側部分がよりはっきりしていて白い部分はありませんが、これは顔料で描くときの方法の違いや白濁釉と顔料の濃淡の違いによるもので、実際のところはどちらも同じですよね?」
長江さんは後で筆者に述べた。
「あの茶碗は中国の福建ではどこでも見られる商品です。「曜変天目茶碗」に似ていると言う人もいるかもしれませんが、これは偽物として作られた物ではなくただの商品で、非常に安い値段で売られています。番組の中でテレビ東京はあの茶碗を宋代に作られた「曜変天目茶碗」だと説明しましたが、これは「鹿を指して馬だと言う」ようなものでしかありません。」
中国陶磁史と中国陶磁考古学の分野で世界的な影響を持つ権威である沖縄県立芸術大学教授の森達也氏も、筆者の取材に対してこう述べた。
筆者がその理由を尋ねると、森達也氏は以下のように述べた。
「1. 日本国内には3個の「曜変天目茶碗」があります。私は杭州で出土した「曜変天目茶碗」の破片も手に取って見たことがあります。「曜変天目茶碗」の外側にはテレビ東京の番組の茶碗のようなはっきりした模様はありません。
2. テレビ東京の番組の茶碗に見られる模様は雲のようですが、これは曜変天目の模様とは全く異なります。本物の「曜変天目茶碗」の模様は白くて丸い斑紋で、その周囲には虹のような色鮮やかな光芒が出ています。
3. テレビ東京の番組で鑑定された「曜変天目茶碗」には、茶碗の底に「供御」という二文字があります。確かに建窯の窯跡では「供御」と書かれた陶片が見つかっていますが、割れていない完全な陶磁器でこの二文字が刻まれたものは世界中で一つも見つかっていません。模倣品でこの二文字を刻んだものは数多く存在します。テレビ東京の茶碗は本物の「曜変天目茶碗」とは全く異なるものですが、最近中国で流行している模倣品とは非常によく似ています。」
「テレビ番組としては劇場的な効果さえあればよく、科学的な研究は要らないのです。あの茶碗が日本の3点の国宝と同じであるなどというのはナンセンスな話ですが、陶磁器科学の研究を行っている人々からすればこれは非常に残念なことです。」
この論争は中国にも広がっている。中華陶磁芸術設計大師の資格を持ち、国家級非物質文化遺産建窯代表性伝承人(日本の人間国宝に相当する)でもある建窯陶磁研究所所長の孫建興氏は、「曜変天目茶碗」を再現し建窯を再び曜変の産地とする事業に40年にわたって取り組んでいる。彼はこれまでに黒釉の天目茶碗や黄(赤・青・金・銀)などの兎毫盞、異毫盞、虹彩(金縷、白点)、鷓鴣斑、鐵銹斑、毫変、国宝油滴、金(銀、虹彩)油滴、黄天目、蓼冷汁、灰被、玳瑁、柿紅、虹彩、金(銀)彩文字、木葉、窯変、曜変天目などの一連の作品を作ってきた。彼が長江惣吉氏に送ったメールで、彼は述べている。
「これは曜変の偽物で、現代に焼かれたものです」
筆者も電話で孫氏と長時間話をした。彼は筆者にこのように述べた。
「テレビ東京で放送された茶碗はせいぜい数年前に作られたものです。」
新聞や雑誌で真贋論争が過熱した後、この「曜変天目茶碗」の所有者は茶碗を奈良大学文学部文化財学科教授の魚島純一氏に渡し、分析を依頼した。魚島教授は蛍光X線装置を用いて茶碗表面の色の部分を分析した。
魚島教授は物質に含まれている元素を検出できる蛍光X線分析装置で、茶碗表面の各色にX線を照射して元素の種類と量を測定した。その結果、アルミニウムなど10種類の元素を検出したが、化学顔料に使われる元素については発色に影響しないほどわずかな量しか検出されなかった。
魚島教授は述べている。
「X線分析の結果、表面のどの色の部分かによらず、検出成分はほぼ同じであった。このことから、茶碗に使われている釉薬は1種類であると考えられ、この分析結果からは茶碗が偽物であることは断定できない。」(《德島新聞》,2017年2月28日)
一方、長江氏は筆者に対して次のように述べた。
「魚島教授は、釉薬の発色に影響するだけの量が検出されなかったため、判断ができないと言っている。であれば、魚島氏は最低限どれだけの量が含まれていれば発色に影響するのかを具体的に言った上で、分析の結果その最低量を下回っていたことを示さなければならない。しかし、魚島教授のデータには下限値の数値も書かれていないし、彼が分析で得た数値も書かれていない。よって彼の判断には根拠がない。」
日本の複数のメディアの報道によれば、その後、茶碗の所有者から茶碗についての資料が提供されないため、徳島県は文化財指定のための調査を中止した。
私自身、「開運!なんでも鑑定団」は好きな番組だ。自分も中国の古陶磁を蒐集しており、骨董の鑑定について10年近く独学で学んでいる。浅学ながら陶磁器の本や文章なども執筆してきた。私は中島誠之助さんの陶磁器鑑定、特に日本の陶磁器鑑定については相当の経験をお持ちで深い造詣を有していると思っている。
だが、中島さんと彼の鑑定についてはともかく一般論として、一人の鑑定士の鑑定範囲が日本だけでなく海外をもカバーして、なおかつ正確であることを求められるというのは、鑑定士にとっては間違いなく一種の冒険と言ってよい。陶磁器は全世界に存在し、最古の陶器は数万年以上の歴史を持っている。一人の鑑定家が古今東西全てについて完全に判定できて一度も間違えないなどということが可能だろうか? 一度間違えればその後も間違いの危険は存在するのだ。
「荘子」で述べられているように、「吾が生や涯(かぎり)有り、而(しか)も知や涯無し。涯有るを以て涯無きに随(したが)うは、殆(あやう)きのみ」(我々の人生は有限である。しかし人間の知は無限だ。有言の身で無限のことを追い求めるのは危うい)なのだ。
このことは、最も権威ある陶磁器研究者であっても忘れてしまうことがある。例えば、1959年、国際的に知られた陶磁研究の専門家で日本陶磁研究の第一人者でもあり、当時日本の文部省の技官として文化財専門審査会委員を務めた小山富士夫氏が、「永仁の壺」と呼ばれた陶器を日本の重要文化財に指定するよう強く推薦したことがあった。これを受けて同年6月27日、文部省は「永仁の壺」を鎌倉時代の古瀬戸作品であるとして重要文化財に指定した。
その後、日本の有名な陶芸家であった加藤唐九郎が海外に渡航した際に、唐九郎の息子である加藤嶺男が「いわゆる「永仁の壺」は自分が作った」と述べた。唐九郎の帰国後、彼はメディアが大騒動になっているのを目の当たりにした。1960年9月23日、唐九郎は「永仁の壺」は1937年に自分が作ったものであることを認めた。(真の作者が誰であったのかについては異なる見解がある。)「永仁の壺」が本物である証拠は、古瀬戸の「松留窯」で発見された陶片が「永仁の壺」の胎釉と一致するという点にあったが、実は「松留窯」自体が加藤唐九郎による捏造で、陶片も彼が偽造したものだった。
このようにして、「永仁の壺」を含む重要文化財3点が指定取り消しとなり、小山富士夫は委員会を辞職した。ゆえに、賢明な鑑定家は誰であれ、古物の鑑定には、異議の申し立てが容易に行えるように、議論の余地を残しておかねばならないのだ。
私は中島氏の鑑定が間違っていたと言っているのではない。第一に、私はこの分野の専門家ではない。この件で私が真贋を判断するのは無意味だ。第二に、厳密にいえば、文物の鑑定とは考古学、歴史学、美学、自然科学にわたる総合的な学問である。全面的に、かつ正確に古代の文物の年代を特定・鑑定する厳密な科学的方法は存在しない。言い換えれば、こういった議論で100%の是非を決める結論を得るのは難しい。
筆者は言いたい:このような重大な鑑定では、もっと広く意見を求めるべきだったのではないか?
確かにテレビ番組では、科学研究の場合のように「この品物が疑わしい」と言うのは難しいことだ。しかし、結論を出すのが難しい文物、特に「鑑定団史上最大の発見」といった結論や、「現存4個目の中国宋代の陶器「曜変天目茶碗」」のような鑑定については、中国建窯の専門家と日本の権威ある専門家の意見を求めるべきではないだろうか。筆者はテレビ東京の番組担当者に、この論争についての意見を求めて何度も電話をかけ、メールを送った。しかしこの原稿を執筆している時点では、彼らからの返答はない。「週刊ポスト」の報道によれば、この件についてのテレビ東京の見解は以下の通りだ。「鑑定は番組独自の見解であり、お答えすることはございません」(《週刊ポスト》,2017年6月23日,146頁)
だが、もしもっと広く意見を集めることができたら、例えば中国で初めて建窯の陶磁器の再現に成功した前述の孫建興氏のような専門家の意見を求めてはどうだろうか? 彼の「曜変天目」に関する研究と実験は非常に深いものだ。彼は考古学、鑑定、科学実験の各方面に非常に造詣が深い。こういった人々の意見には重みがあると言えないだろうか。もしテレビ東京がこのような人々にもっと意見を求めるようにすれば、論争は減るのではないか?
もう一つの問題は、文物の鑑定に自然科学が介入するという話だ。実際、今のところ文物を科学的に鑑定する完璧な方法というのは存在しない。多くの人が挙げる放射性炭素年代測定法は、自然界に存在する炭素14という同位元素を使ってもともと生きていた動植物の年齢を決める放射年代測定法だ。動植物が生きている間は生物の新陳代謝によって生体内の炭素14の量は一定に保たれる。生物が死ぬと体内の炭素14は崩壊して減り続ける。だが磁器・陶器・青銅器などは無機物だ。しかも時代の古い文物の場合、炭素14年代測定では年代の上下の誤差が大きい。一方で、1000年から2000年前という比較的新しい歴史的文物の場合、基本的には炭素14鑑定は使えない。
また、熱ルミネッセンス法と呼ばれる鑑定方法もある。陶磁器が焼かれるときに500℃以上に加熱されると、外部から吸収した輻射エネルギーが放出される。その後、焼成から年月が経つと、年月の長さに応じた量の輻射エネルギーを再吸収していく。熱ルミネッセンス法の原理は、古陶磁の内部に蓄えられているこの輻射エネルギーの量を計ることで年代を測定するものだ。誤差範囲は一般的に±20%程度で、相対的には正確な方だ。
しかしこのような報道もある。
「数年前、北京の二つの有名な博物館がそれぞれ六朝時代の陶器を古物市場で20万元で購入したが、後にそれらがすべて贋作であることが判明した。これらの品は河南省の某博物館の下で作られたアンティーク工芸品であったが、なぜこれらが北京の潘家園旧貨市場に流れたのかは分かっていない。ある古物の専門家が古物市場を訪れ、そこで売られている品物を熱ルミネッセンス法で調べると、約1600年前という測定結果が出た。そこで誰もがそこの品物を買った。買われたことが知られると、同じような品物が古物市場にどんどん出現した。そこで国家文物局がすぐに公安部に通報した。公安部の担当者は、「墓が荒らされて大量の遺物が盗まれる事件が発生している」と説明した。警察が現地に到着すると、地元の住民が自宅で贋作を作る作業をしているのを発見したという。彼らは六朝時代の墳墓から盗掘したレンガを削って粉にしていた。この粉を贋作に使えば、熱ルミネッセンス法にかけても墳墓の中で長年溜め込んだ輻射を出すので贋作を判別できなくなる。また彼らは、こうして作った粉で六朝陶器を偽造するための特別な装置も使っていた。このようにして、熱ルミネッセンス法での検査は失敗してしまうのだ。」 (《鑒定家VS造假者》,新華網,2005年03月15日)
魚島教授が蛍光X線分析を用いた点に関して、森達也教授は私に述べた。
筆者は魚島教授にも、蛍光X線検査について質問を行った。彼は言う。
「私はあくまでも顔料部分の元素を調べる目的でこの装置を用いました。私が調査結果を発表した際に、茶碗が偽物であると考える人たちから非難を受けましたが、私は真贋鑑定をしたわけではありません。」
筆者:
―― それはつまり、あなたの検証結果は、この茶碗には18世紀以降の顔料は使われていない、ということですよね。
魚島教授:
「それは新聞がいい加減に書いていることです。私は18世紀以降云々といったことは言っていません。私はただ、現代のものと考えられるような種類の顔料は検出されなかった、と言っているだけです。」
筆者:
―― 言い換えれば、18世紀以降に発明された化学顔料は使われていなかった、ということですよね?
魚島教授:
「これらの顔料が使われているから茶碗は偽物なのだと主張する人々もいますが、私はただ、そのような顔料は検出されなかった、と言っているだけです。私は陶磁器鑑定の専門家ではありません。あの茶碗が偽物だと主張する人々は、化学顔料の元素が茶碗に含まれているはずだ、と言っています。私は単に、その元素があの茶碗に本当にあるかないかだけを調べたのです。どの時代に作られたものか、という調査をしたのではありません。ただ、あなた方が言っているような元素はありませんでした、と言っただけです。」
筆者は質問した。
―― 例えば、もちろんこれは(例の茶碗のことではなく)仮定の話ですが、誰か現代の人間が、今回指摘されたような元素を含む現代の化学顔料ではなく、昔の顔料を使って茶碗を作ったとしたら、あなたの検証方法では今回と同じような結果が出ますか?
魚島教授:
「その可能性はあります。」
しかしながら、中国では古代の陶磁器を偽造または模造する際に化学釉薬を使うことは多くない。中国の多くの地方には陶磁器の偽造工房があり、こうした工房の多くには専門技術を持った人間がいるわけではない。地元の農民が、数千年間にわたって埋まっていた陶土を掘り出し、古代の方法で焼いているのだ。匿名で語ってくれた、中国で著名な建窯の研究家や考古学者、鑑定家たちが筆者に述べたところでは、現在中国には建窯産品のコピー品工房が1600以上存在する。その多くは偽造品を作りたいわけではなく、単にアンティーク風の品や旅行土産を製造するのが目的だ。もちろん中には偽造品の製造を目的とする人々もいるが、偽造品の製造方法はどこにでもあるような手法だ。科学的な鑑定が困難になるように、古い器の底の部分だけを新しい器に接合したり、古い胎土に新しい釉薬を使ったり、古い胎土に古い釉薬を使ったり、その他いろいろな方法を使っている。
このことは、古物鑑定が文化や歴史年代、改竄や継承といった問題と関わっていることを示している。加えて社会的な影響や国際的な影響も大きい。今回の鑑定やテレビ東京の件は別にしても、日本の博物館や歴史研究部門では、中国の文物を鑑定する際に同じような問題に直面しているはずだ。それゆえ、重大な結論に至るような場合には、我々は注意深くなる必要があり、広く意見を求めるべきなのだ。
張石 略歴:
1985年、中国東北師範大学外国語言文学系研究所卒業、修士号を取得。1988年から1992年まで、中国社会科学院日本研究所助手研究員、 Permalink | 記事への反応(0) | 00:35
朝夕がちょっぴり肌寒くなってきたこの季節、FBのフィードに誰かが食べた味噌煮込みうどんの写真がアップされていた。
それで、はっと昔のことを思いだした。
わたしは当時うつ病で、通院するほかはほとんど外出もせず一人で暮らしていたマンションに引きこもっていた。
夜な夜なネットを徘徊していろいろな人ととりとめもない会話をしていて、2ちゃんのスレで十歳下の男の子と知り合った。
彼も引きこもりだった。
お互いずいぶん遠くに住んでいたのだが、メンヘラどうしで話が盛り上がり、彼はわたしの住んでいるところまで新幹線とバスを乗り継いでやってきてくれた。
彼にとっては大冒険だったはずだが、生まれて初めての長距離移動がうまくいったことはずいぶん彼の気持ちを前向きにしたように思えた。
少しでも外に出てみようと思い、住んでいるマンションの通路部分で見晴らしのよい場所を見つけて長いこと外の景色を眺めていた。
そこが、よそのお部屋の玄関ドアの真ん前だったらしい。
そのお部屋の奥さんが、仕事中の旦那さんに携帯で「ドアの外に不審者がいる」とSOSを送り、駆けつけた旦那さんに彼は声をかけられた。
しどろもどろになりながらも、決して怪しい者ではない、同じマンションに住んでいる者で、たまたまここが眺望がよかったので立ち止まって景色を眺めてしまっていた、と説明したところ何とかわかってもらえた。
という話をしてくれた。
慌ててそのおうちに伺ってお詫びをした。
旦那さんは最初に彼を見たときに「何か事情がある子なんだろう」というのはわかったらしく、「よければ詳しく話を聞かせてほしい」とおっしゃった。
疑っているわけではなく純粋に親切心から言われているのがわかったが、どちらにしてもご迷惑をおかけした以上説明はしなければならないだろうと思って、彼の現状やわたしと知り合って一緒に暮らすようになったいきさつなどをかいつまんで話した。
そこからどういう話でそうなったのかは覚えていないのだが、別日に改めて旦那さん、奥さん、彼、わたしの4人で、近くのうどん屋に食事に行った。
「何が食べたい?なんでも食べたいもの食べろよ」
と気さくにすすめてくださる旦那さんの言葉に甘えて、彼が頼んだのは味噌煮込みうどんだった。
おいしいです、本当においしいです、と彼はすごくうれしそうに食べていた。
その旦那さんは、とある武道の師範の資格を持っているそうで、彼を練習に誘ってくれた。
彼も「行ってみたい」と言っていた。
それで何かが変わるかもしれない、と。
でも結局タイミングが合わなくて、練習に参加させていただくことはできなかった。
わたしは半狂乱になっていて当時のことをよく覚えていないのだが、事情を知る知り合いが代わりに行ってくれたようにかすかに記憶している。
旦那さんと奥さんが、すぐにうちに来てくれた。
立派な体格の旦那さんが、小さく小さく体を折りたたみ、言葉を一生懸命に選びながらわたしを気遣ってくれていたのを覚えている。
ティッシュ配りって歩合制?時給制?
知らないけど、新宿とかのティッシュ配りだとその道のプロですか?みたいな人いるよね。
このまえ、東口から出てすぐの交差点のとこに三人いたんだけど、全員自分のスタイルを確立してた。おっさんとおっさんとおばさん。
共通してたことは、なんて言ってるかよく分からないことと、貰われても貰われなくても一定のリズムで渡し続けるところ。
正直ちょっと感動したよ。日本には柔道とか茶道とか、色々と「~道」があるけど、それに加えてもいいんじゃないかと思った。「ティッシュ配り道」。
道場には師範がいて、日々弟子たちにティッシュ配りの精神を教えている。たまに道場破りがきたときは、一番弟子同士の決戦。相手のティッシュをもらった方が負け。負けた流派は看板をおろして、稽古につかうはずだったティッシュで涙をふく。
人間のすごさを感じた。この無駄な洗練。機械にとって代わることができるのか?
で、ティッシュ配りは歩合ですか?時給ですか?
以下貼り付け
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なぜ日本にはレディファーストが根付かないかについてゼミで討論した事がある。
例によって女子学生たちは日本男性批判と想像上の外国人紳士崇拝の言辞を並べていたが、
30分ほどで教授(女性)が静かに、だが力強い声で言い放った。
「レディーが絶滅しつつある日本ではレディーファーストを普及させようがありません」
教授は海外で教鞭を執っていた時期が長いが、茶道華道ともに師範の免許を持つ人。
その教授曰く「与えられる平等や優遇をあさましく求めるのは日本女性特有の醜態」
自らレディとならずして、レディ扱いを求めるのは常軌を逸していますと。
女子学生達はその後、ひとことも喋りませんでした。
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最近はあまり目にしなくなってきたが、意味が本当に今でも分からない。醜態があろうが無かろうが基本的にする(レディだからという意味でなく弱者優先)ものだと教育を受けていたのでなにいってだコイツみたいな。
これ見て日本人男性は溜飲を下げているのだろうか。
なぜなら、パンチは格闘技経験が全くない人間が撃とうとするとむしろ怪我をしてしまう場合が多いが多いから。
拳を鍛えておく必要があるし、打ち方を間違えると簡単に小指を骨折してしまう。
素人同士の喧嘩で拳を使おうとする人間がいるがそれはお互いが余計な怪我をするだけなので絶対におすすめしない。
それに比べて平手やチョップというのは遠心力を体の自然な動きで無理なく使う技で、ヒット面積も大きいから手に対する負担が少ない。
しかもお互いが怪我をしない程度で戦意を喪失するダメージを与えることができるから、素人同士の喧嘩になってしまった時に強くおすすめしたい。
顎から頬にかけて、平手ともチョップともつかないような感じで大きく振りかぶっていけば大抵はその一撃で決着が着く。
平手が頬に入れば大きな音で戦意を奪うことができるし、チョップ(手刀)が顎や首に入れば、経験のないものにとって見れば想像以上の痛みと感じられるはず。
ちなみに相手がプロかどうかを見抜くのには、耳と拳を見るといい。
耳が潰れていれば柔道・レスリングなどの総合格闘の経験者で、拳が減っていれば空手やボクシングなど立技の経験者といえる。
それでも喧嘩に巻き込まれてしまった時は、必勝法だけでいえば相手が手を出す前にする頭突きや肘打ちが有効。
ただ、相手の怪我が大きすぎて喧嘩に勝っても裁判で負けるので、プロ相手以外にはおすすめしない。
ちなみにチョップアンドキック軍隊もあるが、これは普通の軍隊。
追記
これまでのパーティーと比較するなら、ふんぞり返ったおっさんと目が¥マークになった女性達の狩猟場みたいな印象を抱いていたが、双方そこまで気合は入っていなかった。
欠席者は各一名ずつ。待たされる。
コンタクトがやたら痛くて目薬さしてた。
9:限界までおしゃれした吉田沙保里。似てますね!って言ったら銀メダルにされると思って耐えた。話してみると武骨なイメージとは違って話しやすく、好印象をつけた。
10:無職。都会から結婚して来たが離婚してここに残ってるらしい。タリーズのチョコなんたらが好きらしい。三十半ばの年齢に対して幼い印象。あとやたら受け身。話しかけられるの待ち。
11:なんとかキリコの漫画に出てきそうなデザインの顔立ちと髪型。ダルそうな料理人。性転換したらチャラ男になる感じ。フリートークでやむなく話すが、初対面と話すの大変とぶっちゃけてた。
12:シンママ。子供は九歳の男の子。子供はサッカー大好きでお尻以外真っ黒に焼けてるそう。アフリカの子か。お母さん自身も黒め。会社員。
13:シンママ。子供は九歳の男の子。子供はサッカー大好き。あれ? さっきの人と同じじゃね?と思うがどうやら知り合いでもなんでもない様子。化粧と雰囲気的に明らかにお水。
14:パチ屋の事務。胸の開いた服で視線誘導。幼少時育った場所が俺の赴任先と近く、豪雪話やようやく達した文明の光ことコンビニの話をする。フリートークでも話したが会話内容忘れてて御免。
15:邦楽師範免状持ち。まあ若い方。邦楽話で割と話せた。我の強そうな顔だがまあまあの容貌なので好印象つけた。
16:みごとに覚えてない。
17:欠席者の席。俺の隣の奴も欠席だったので、相手のいない者同士16番と斜向かいで気まずい数分間を過ごした。だが16番本当に覚えてない。
1:みごとに覚えてない。
2:やたらきつい顔立ちを黒のブラウスとパールのネックレスでやわらげた茶髪ロング。許可を求められてから名前を控えられた。多分常連。スキンケアに苦労してそう。比較的好印象。
3:太めだが小動物系印象にうまく転化できてる感じの三十代。会話の印象もやわらかい。比較的好印象をつけた。
4:出席者の中で一番美人。上戸彩。の肌を黒ずませ鼻に黒子つけた感じ。まあ十分にかわいい。会話運びも上手。病院の管理栄養士。医者捕まえられるレベル。
5:院内薬局の薬剤師。というかこいつらなんで職場関連で医者捕まえずに、遠方のパーティーなんぞわざわざ来てるのか。人脈作りか何かですか。むしろお仕事の延長ですか。
6:みごとに覚えてない。山奥出身で豪雪話をしたような記憶がうすぼんやりと。
7:出席者の中で二番目に美人。ストレートのロングヘア、ピンクの上着、長身。顔立ちも整ってる。33。名刺出して大手勤めをアピった。
8:年齢欄に記入がないという恐るべき所業に出たババア。こうしたレギュレーション違反クソ女がたまにいて、運営も普通に見過ごすのがXO(伏字)のダメな部分。厳密に職種訊かれたが濁した。
好印象は47915につけたが、向こうからつけられた好印象は11のみ。まさに俺を好きなのはお前だけかよ状態。
フリートークは47を狙うがまず初めに4狙いに動いたのが裏目と出て、結局どちらとも話せず終わった。
最終投票は47923。何で15を外したのかって話だが、単に席の位置の関係上15が見えずにカウントから外れ、そのまま時間に追われて記入したためだろうと思われる。
結果発表。17対17で7組成立だからこの手のパーティーじゃかなり率高い方で驚いた。
俺か? 成立しなかったに決まってるじゃないかね。
パーティー後は痛みのぶり返してきたコンタクト外して、野良の子達に餌あげに行った。
普通に17匹くらい出てきた。
いやまったく、こいつらには1対17くらいでモテモテなんだがな。
以上。
読書会で夏目漱石の「私の個人主義」を紹介するための、原稿です。
<コ:ミ <コ:ミ <コ:ミ
漱石といえば、「吾輩は猫である」や「こころ」が特に有名な小説家です。
「私の個人主義」は講演をまとめた本です。
タイトルの「私の個人主義」というのは、大正3(1914)年11月25日、学習院で行われた講演のタイトルです。
漱石は1916年12月に亡くなったので、亡くなる2年前程前の講演です。
5つの中から、「私の個人主義」について、内容をご紹介します。
学習院で行われた講演ということで、若い学生を対象にしていたようです。
漱石が学生だった頃、卒業する直前までどんな職業につくのか決められなかったそうです。
漱石は「今と違って就職は大変楽でした」と語っているのですが、
彼はどちらにも半分承諾するような事を言いました。
いい加減な事をしたわけです。
呼びつけられて、怒られるのですが、結果高等師範に行く事になりました、
熊本で教師を続ける中、文部省化からイギリスへの留学を勧められます。
彼は断ろうと思いました。
なんの目的も持たずにイギリスに行ってもしょうがいないと思ったわけです。
結局、教頭先生に勧められ反対する理由がないということで、イギリスに行くことになりました。
「そんなあやふやな態度で世の中へ出て、教師になったというより教師にされてしまったのです」と言っています。
彼の心境は非常に苦しいものでした。
「腹の中は常に空虚でした」とか
「この世に生まれた以上何かしなければならん。といって少しも見当がつかない」
そして、今までは他人本位で、そこいらをでたらめに漂っていたから、駄目であったという事に気が付きます。
この喜びを
「ようやく自分の鶴橋をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです、」など
そして、学生に対して、同じような悩みがあるのでは?と強く訴えます。
「貴方がた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申し上げるのです。」などと言うのです。
自己本位が必要なのでは!?という漱石の熱い語りは、もしかしたら彼のイメージと異なるかもしれません。
彼が人に流されて生きてきた。
その腹の煮え切らない不愉快な気持ちと、そこから解放された実感は私にはよく理解でき、感動すらしました。
ここまでが第一部の内容です。
個人主義や自己本位というと、自分勝手にふるまうような事をイメージされるかもしれません。
自分の自我を尊重するのであれば、他人の自我も認めなければならないといいます。
講演を聞いている学習院の学生というのは、今よりも強い意味を持っていました。
気に食わない相手を懲らしめるために人を買収したり、妨害する事が可能なわけです。
彼は所属する団体や立場に基づき判断せず、理に適っているかどうかで判断する事が必要だといいます。
団体を作って、権力やお金のために盲動しない。というものでした。
素晴らしい考えだと思いますが、漱石は淋しい気持ちがある事を吐露します。
理に適っているのかで行動を決める事、そして他を尊重する事から、
漱石の中期~後期の作品は個人主義の目覚めとこの淋しさを書いたと理解しています。
特に、後期の作品にあたる「こころ」は淋しさががよく出ていると思います。
淋しいというしこりが残る形ではありますが、個人主義という考え方を
論理だけでなく、感情をまじえて教えてくれるというのが私の個人主義と漱石の魅力だと思います。
以上
私の祖母「私の母はシングルマザーで生活が辛かった。早くに夫をなくしてしまったから、私と私の母は親戚の家にお世話になって肩身が狭い生活をした。
だから私は手に職をつけて夫に先立たれたり収入がなくても生活に困らない女性になろう」
↓
↓
私の母「私のお母さんは働いてて、お金を稼いでくれてる。おかげで田舎町のジャスコじゃなくて都会のデパートまで連れて行ってもらえて、同級生よりオシャレな服が着れる。
けど、いつもお母さんは夜八時くらいまでお仕事だから、夜ご飯が遅い。たまに私が作らなきゃいけない。
勉強したり、テレビ見たりしたいのに…お母さんとゆっくりお話したいのに、お母さんは仕事関係の人と話してばかりで寂しい。
私は子供ができたら、子供にご飯をきちんと作ってあげる母親になりたい。子供に寂しい思いなんてさせたくない。」
↓
母親、割と高収入な旦那を捕まえ専業主婦になり私を産む。過保護なくらい甲斐甲斐しく世話をするが、金銭面では旦那に頼り切りなので夫婦喧嘩になると立場が弱い。
↓
私「私のお母さんはいつも美味しいご飯に、綺麗なおうち、手作りの通学バックと誰もが羨む優しいお母さん。
けど、お父さんは仕事仕事で週に一度くらいしか顔をあわせないし、
お父さんとお母さんが喧嘩した時「私は、稼いでないから、何も言えないっ」と悔しそうにお母さんが泣いてるのを見るのが辛い。
だから私は結婚したけど絶対仕事はやめない。正社員としてずっと働き続ける。仕事辞めたくないから、子供も産まない。そこまで体力も気力もないし。
病気とかで働けないならまだしも、働けるのに旦那に養われる生活なんて絶対嫌。」
別に母子で憎しみ合ってるわけでもなく、割りと親子仲のよい三世代なのだけど、仕事の生き方に関してはお互いがお互いを反面教師にしているのがなかなか面白い。
まぁこの連鎖も私が子供を産まないってところで途切れるんだけどね。(選択子無し夫婦。私はずっとピル飲んでる。)
アニメ「アイドルマスター シンデレラガールズ」が最終回を迎えてから、約半月が経過した。
作品そのものの感想は視聴者それぞれに思うところがあり、また既に多数の感想記事が上げられていることから割愛するとして。
《溶鉄の尖峰、ヴァラクート》アニメとしての『ビビッドレッド・オペレーション』(http://wasasula.hatenablog.com/entry/2014/06/29/012233)という記事があった。こちらをリスペクトし、今回はシンデレラガールズとはどういうデッキなのか、について迫りたいと思う。
シンデレラガールズの原作にあたるゲームは、いわゆる普通のフォーマットのゲームではない。現在スターライトステージが稼働中とはいえ、アニメ制作段階では、アニメの原作と呼べるものはソーシャルゲームのみであった。
ゲーム内の登場人物は100人を軽く超えている。とてもじゃないが、通常の60枚構築ではゲームの、その中のキャラクターの魅力を表現できない。その上、構築にあたってデッキビルダーは「特定のカードをデッキに入れること」を要求された。
そこで発想の転換が行われた。アニメ「シンデレラガールズ」はスタンダードのデッキではなく、統率者戦、EDHのデッキとして構築する。
EDHとは、伝説のクリーチャー1枚を統率者として指定し、統率者が持つ色の99枚ちょうどのハイランダーデッキを構築する多人数戦用のフォーマットである。
大切になるのが統率者選びだが、入れたいカード、入れなくてはいけないカードが5色に散らばっていた時点で選択肢は狭まっていた。5色の伝説クリーチャー、《大祖始》。
Progenitus / 大祖始 (白)(白)(青)(青)(黒)(黒)(赤)(赤)(緑)(緑)
伝説のクリーチャー — ハイドラ(Hydra) アバター(Avatar)
プロテクション(すべて)
大祖始がいずれかの領域からいずれかの墓地に置かれる場合、代わりに大祖始を公開しそれをオーナーのライブラリーに加えた上で切り直す。
後は、強いカードを片っ端から入れていくだけだった。幸い、資金は潤沢にあり、必要なカードは全て手に入った。
《歓楽の神、ゼナゴス》と《化膿獣》による一撃必殺。
美しく高い性能を誇る、《悪斬の天使》。
《玄武岩のモノリス》《ブライトハースの指輪》による無限マナ、そして《ゴブリンの大砲》。
赤と青、相反する二色により生み出される速攻持ちの無限トークン。
アニメ第一話、デッキを用意してゲームを始める直前の統率者顔合わせ……その時提示した《大祖始》を見て、対戦相手……つまりは我々視聴者は、「とんでもないデッキがくる」と覚悟をした。
アニメ「シンデレラガールズ」とはつまり、以下の様なデッキだった。
統率者:大祖始
悪斬の天使
鏡割りのキキジキ
やっかい児
士気溢れる微集兵
修復の天使
シルヴォクののけ者、メリーラ
台所の嫌がらせ屋
包囲サイ
壊死のウーズ
石鍛冶の神秘家
歓楽の神、ゼナゴス
荒廃鋼の巨像
化膿獣
ボガーダンのヘルカイト
シヴのヘルカイト
ボロスの反攻者
瞬唱の魔道士
山賊の頭、伍堂
聖別されたスフィンクス
精神を刻む者、ジェイス
求道者テゼレット
Mana Crypt
魔力の櫃
ダークスティールの鋳塊
殴打頭蓋
梅澤の十手
寺院の鐘
危険な櫃
頭蓋骨絞め
demonic Tutor
吸血の教示者
忌むべき者のかがり火
ぶどう弾
苦花
ティムールの隆盛
歯と爪
arcane denial
サイクロンの裂け目
至高の評決
神の怒り
塵への帰結
汚損破
スフィンクスの啓示
出産の殻
意外な授かり物
青の太陽の頂点
時を越えた探索
全知
渦まく知識
生体融合外骨格
剣を鍬に
四肢切断
流刑への道
欠片の双子
ファイレクシアの闘技場
Tundra
Underground Sea
Badlands
Scrubland
Volcanic Island
Bayou
Plateau
Tropical Island
神聖なる泉
湿った墓
血の墓所
踏み鳴らされる地
寺院の庭
神無き祭殿
蒸気孔
草むした墓
聖なる鋳造所
繁殖池
http://anond.hatelabo.jp/20141208214051
なぜ日本にはレディファーストが根付かないかについてゼミで討論した事がある。
例によって女子学生たちは日本男性批判と想像上の外国人紳士崇拝の言辞を並べていたが、30分ほどで女性教授が
静かに、だが力強い声で言い放った。
「レディーが絶滅しつつある日本ではレディーファーストを普及させようがありません」
教授は海外で教鞭を執っていた時期が長いが、茶道華道ともに師範の免許を持つ人。
その教授曰く、「優遇をあさましく求めるのは日本女性特有の醜態。
続きです。
こちらに一連の話の元となった安彦良和の「虹色のトロツキー」の格闘シーンの画像があったので、これを元に解説を試みてみます。
http://blogs.yahoo.co.jp/musyaavesta/archive/2013/09/11
なお自分ははてなで安彦良和のあとがきの引用を読んだだけで、作品「虹色のトロツキー」は読んでおらず前後のページとのつながりもわからないので、的はずれなことを言っている可能性が大いにありますご了承ください。題材とするのは、上記リンク先の安彦良和の一枚目、老柔術師範が青年の道場破り?を投げ飛ばす見開きです。
これがいしかわが指摘したシーンそのものかは知りませんが、ぶっちゃけて言うと、すごくギクシャクしていて、動きがないというか重みがないように見えます。
この見開きでは、以下の様な心理的な動きと物理的な動きの両方が示されています。
1:心理表現) 老師範が青年の力量を測るために組手に誘い、組んだ感触で何らかの判断を下した後に投げ飛ばした。
2:物理表現) 老師範が青年を組手に誘い、青年は勢いをつけて組みに行ったが達人技でいなされ、投げ飛ばされた。
左ページ2コマ目の二人が見つめ合っているコマを中心に、この見開きで老師範の心理的な動きを表現しているのですが、これがなんというか工夫のない書き方で、物語の心理的な動きを表現する一方で、物理的な動きの表現の妨げとなっています。
その原因は、大きく分けて2つあります。
まず右ページ最終コマで青年は画面左上から右下に突っ込んでいます。背景に流線を入れてスピードを表現しているにも関わらず、勢いを感じさせることに失敗しています。なぜなら、読者の視線の動きと一致していないからです。特に右ページの左下最後のコマというのは、左ページの頭に戻るための視線の動きが強く働くため、左上に向けた動きを読者に暗黙に想定させます。
もっというと、右ページの他のコマを無視して「このコマは青年が腹に前蹴りを食らって後ろ向きに吹っ飛んでいるところだ」と言われれば、そう見えてもしまうのではないでしょうか?
そして次のコマで、青年が老師範に組み付くのですが、このコマの画がすごく止まってます。もし青年がそれなりの勢いで組み付いたのなら、老師範はこの勢いを受け止めるために力を入れて押し返す(重心が前に出る)か、力を受け流す(重心が横か後ろに下がる)かをするはずですが、老師範はほぼ直立したままで受け止めています。読者はこのコマだけを見て、青年が勢い良くぶつかってきたと理解できるでしょうか?
もっと言うと、青年が勢いをつけたにも関わらず自分より小柄な相手になんの工夫もなく受け止められていて、なんというかこの人、体重ないのかな、という印象すら受けます。
おそらく安彦良和の意図としては、このコマの出来事は一連の運動のほんの一瞬であって、実時間上の次のフレームでは老師範が達人技で勢いをいなして投げ飛ばす、という流れを想定しているものと思います。ですが、一連の運動の流れの中から切り取るべきフレームはこの老師範が直立したままの瞬間ではなく、数フレーム後、投げ飛ばす技の初動の体重移動が入った場面を、デフォルメを入れてでも運動の方向をわかりやすく描くほうが、より伝わりやすいのではないでしょうか。
そして、この組み付いた瞬間から最後の投げ飛ばされるコマまでの時間経過がわからない、ということが二つ目の問題点となります。
組み付いたコマから青年が投げ飛ばされる左ページの最後のコマまでの間に、二人が見つめ合っているコマと、老師範が力をいなすために体を沈めるコマの2コマが入っています。
もし一連の流れが一瞬のうちに起こったことだとしたら、読者がそのスピードを体感する、言い換えると読みのスピードと事象のスピードを一致させるためには、この2コマをすごい勢いで読み飛ばす必要があります。(もし事象として数秒間組んだまま止まって見つめあっているのだとしたら、前述のとおり青年の勢いをどうやって受け止めたかが謎になり、やはり運動の表現としてはおかしいという結論になります。以降、一瞬のうちに投げ飛ばされた説を取ることにします。)
前稿でも書いたとおり、マンガにおいては一枚の平面の中に、空間と時間の両方が並列に表現されています。それぞれのコマや間白がどのくらいの時間経過を表しているかについて、基本的にルールはありません。読者がコマ構成や文脈から自由に読み取ることになります。そのため作家は、どのコマどの間白がどのくらいの時間分節になっているのかを読者に伝えるために様々な工夫をする必要があります。
これには単純な方法があります。短い時間の出来事のコマを小さくすることと、視線の流れの中で並行になるようにコマを並べて、同時に起きた事象として表現する方法です。
この例では、これらのいずれもとらず、なぜか組み付いた瞬間のコマが大きく描かれています。さらに追い打ちをかけるように、二人が見つめ合うコマを重ねています。心理的な表現としては機能しているのですが、多分普通に読むと、この見つめ合うコマで読者は1秒弱くらい止まります。イコール、組み合った瞬間から投げ飛ばされるまでに1秒止まっていた、と読み取られる事になります。読者がそう読んでしまうと、一瞬で投げ飛ばされたという説得力をかなり失うことになります。
まとめると、この2ページの間に、どのくらいの体重の人間がどのくらいのスピードで跳びかかって、組み付いた瞬間の衝撃はどのくらいで、どのくらいの時間組んだ状態でいた、もしくはほとんど組んでいなかったか、どのくらいの勢いで投げられたか。そういった運動的な情報をマンガという手法を使って表現することには、まあ控えめに言ってあまりうまく行っていないな、とこの見開きを見た限りでは感じます。
酒席で、他の人がいわゆる「道場の師範」クラスの人物に「なんだかいつも同じことばかり言われてすみません」と恐縮して謝っている場面に出くわした。
それに対し、師範の人は「いやいや全然気にしなくていいですよ」と返し、その理由を教えてくれた。
「同じことを何度も言わせる」というのは、指導者による、教わる側への不当な非難に他ならない。
だって何か欠点を直すのに、すぐ直ることは決して多くないし、人によっては年単位で時間がかかるかもしれないのに。
そこに来て、教わる方を「同じことを何度も言わせる」と非難するのは、心の中で思うだけでもダメ。
人は好意を持つ相手のアドバイスしか聞けないようにできている。
なので、不当な非難やそれを匂わせる態度あるいは表情によって、教わる方が指導者を嫌ってしまう結果になったら、もうそれでおしまい。
教わる方から嫌われない言動を心がけるのは指導者の基本である。
「まあ、こんなことはこういう席で求められでもしない限り、わざわざ言うことじゃないんですけどね」と飄々と仰っていた。
ちなみに別の習い事でお世話になっている先生も「1人どころか、教えている相手全員に同じことを言うケースも多々あるし、これが授業だったら毎年同じことを言うのが仕事ですから」と言っていた。
教えるというのはこういうことなのか。
だとしたらそれ1つ取っても、どんなジャンルでも、いわゆる教授職は無茶苦茶ストレス溜まりそうな仕事だ・・・と恐れ入ってしまう。
「なぜ日本にはレディファーストが根付かないかについてゼミで討論した事がある。
例によって女子学生たちは日本男性批判と想像上の外国人紳士崇拝の言辞を並べていたが、
30分ほどで教授(女性)が静かに、だが力強い声で言い放った。
「レディーが絶滅しつつある日本ではレディーファーストを普及させようがありません」
教授は海外で教鞭を執っていた時期が長いが、茶道華道ともに師範の免許を持つ人。
その教授曰く「与えられる平等や優遇をあさましく求めるのは日本女性特有の醜態」
自らレディとならずして、レディ扱いを求めるのは常軌を逸していますと。
女子学生達はその後、ひとことも喋りませんでした。」
これおかしいよね。
ある行為をするかどうかは行為者の側の問題であって行為の対象の問題ではない筈。