はてなキーワード: 開店休業とは
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おしんの物語の根底を流れているのが、「恩」であり「仁義」であるということをこれまでの感想でも書いてきた。おしんイコール辛抱する精神というイメージが広く流布するなか、金儲けに走った息子の根性を叩き直すために、田倉家を滅ぼしてでもライバル会社に利する行動に出た、という物語のハイライトは、意外にもあまり注目されていない。私も正直なところ、全話を通してみるまで知らなかった。
おしんは一代記ものとしては、タイムスケールがとても長い。おしんは1901年、昭和天皇と同年に生まれた設定である。
そしておしんが生きた少女の時代から後期高齢者の83歳になった1984年まで、それぞれの時代があまりにも違い過ぎるので、1983年の田倉家のシーンから明治の回想シーンに時代を一気に2世代くらい遡るときのタイムトリップ感が半端ない。
1983年、おしんが息子・仁を裏切って、並木商店への説得どころか、積極的に大手スーパーへの並木の土地の売却を進めてくれとお願いした背景には、並木商店の隠居の大旦那・並木浩太に対する並々ならぬ恩があるからである。
それは、どのような恩だったのか。おしんは息子たちには何も過去を語ってこなかったので、仁には知る由もなかった。そもそも並木浩太とは何者なのか。
おしんも誤解されるのが嫌でそれまで息子には一度も語ってこなかった。しかし、前年の1982年、17号店進出を知ったおしんが息子の行動を阻止しようとしたとき、仁は、それが母の初恋の人への配慮であることを悟る。そして、仁はいう。商売ってそういうものじゃない、「母さん、みっともないよ。」と。今風にいえばいい歳してエモいことを言い出してんじゃねえよと思われたのであろう。案の上、誤解されてしまったおしんであったが、なすすべなく工事は進み、ついに開店当日を迎える。おしんはこれまでの人生の回顧の旅に出るのである。
おしんと浩太のいきさつをかいつまんでかくのも、がっつり書くのもいずれもけっこうしんどい。しかし、今回のテーマの「股旅物」がわかるように、ややガッツリ目に書いておこう。股旅とは、大正時代に生み出された物語の類型のひとつで、一宿一飯の義理・人情に従って流浪する物語であり、多くは渡世人・やくざなどが主人公である。股旅物の元祖・長谷川伸は、その後の日本の小説や戯曲、そして映画やテレビドラマに至るまで多大な影響を与えた人物である。「飢餓海峡」で知られる水上勉は、長谷川伸の「夜もすがら検校」を読んで作家を志したことはよく知られている。「夜もすがら検校」を発表したのは1924年である。明治が遠く過ぎさり、大衆が大正デモクラシーの自由への過大な期待から人々が少しずつ醒め始め、もう一度生き方を見直そうしていた時代である。
2000年代になると、日本の映画やドラマの潮流は変わり、義理人情といったテーマは陳腐なものとして忘れ去られてゆく。20世紀末までのドラマでいえば、「北の国から」が長谷川伸的な一宿一飯の義理・人情の世界観でつくられた恐らく最後のドラマだろう。吹雪の中を助けに来る馬、泥付きの一万円札などに表現される世界は、まさに長谷川伸の系譜なのである。
おしんは回想シーンだけをみると、浪花節にあふれた、まごうことなき股旅物である。しかし、おしんの物語の面白いところは、浪花節が陳腐化し、古臭いものになってしまった現代(1980年代)と交差している点である。
並木浩太とおしんの最初の出会いは、おしん16歳、山形酒田の米問屋・加賀屋へ奉公へ来てから7年が経った頃だ。おしんは、加賀屋の跡取りの長女・八代加代と姉妹同然に育ちながらも、大奥様・八代くにからは、肉親の孫娘・加代よりも商売のイロハから茶道・裁縫など良家の子女としての教養を徹底的に教え込まれていた。このときくにの指導によって身に着けたものの考え方や教養が、のちのおしんの人生で役に立つのである。加代はというと、将来は良家から婿をもらって加賀屋をどうせ継がさせられる自分のつまらない運命にうんざりしていた。絵画が好きだった加代は、東京で別の”自由”な人生があるのではと夢をみる少女だった。そんな折、農民運動の活動家・浩太と出会った。酒田に訪問した際、官憲の目を逃れるためにおしんとお加代に助けを求めたのが最初の出会いである。おしんとお加代は同時に、浩太に恋心をもってしまう。大正デモクラシーの時代だった。インテリかぶれした加代は平塚雷鳥の本を手元におき、人形の家を著したイプセンなどに憧れを抱いていた。当時、大衆のなかで勃興していた人権運動を先進的だと中身もわからず憧れていたのである。農民運動、カッコいい!加代は浩太の活動にロマンを感じて恋に落ちてしまった。一方、おしんは、土地を持たない小作農民の自立を助けたい、という浩太の純粋な思いに心を打たれていた。おしんも小作の娘であった。小林綾子が主演した「おしん少女編」では、おしんの母・ふじが冬の川に下半身を沈めて妊娠中絶を図ったり、小作農民の悲哀がこれでもかというくらい暗く描かれていた。そしておしんは冬の川に入った母の姿をみて、6歳で材木問屋へ奉公へ行く決心をしたのである。いかだに乗って、母ちゃんと叫ぶ、有名なシーンのアレである。
ともあれ、加代とおしんは同時に同じ男性に恋をした。そしておおらかで情熱的な性格の加代は恋心を隠すことができず、おしんに打ち明けていた。そしてやがて加賀屋の跡取り娘でありながら、何もかも捨てて浩太へ会いに東京へ家出してしまう。しかし、おしんは、奉公先の跡取り娘であるお加代様の恋を大切に思い、自分の思いはそっと封印した。一方の浩太は、東京に出てきた加代の猛烈な求愛を受け止めつつ(東京で加代と同棲までした)、本心は最初からおしんが好きだったのである。
おしんは加代の家出の理由を加賀屋に伝えることが忍びなく、おしんは加賀屋から暇をもらって帰郷する。帰郷したおしんを待っていたのは、おしんを女郎部屋へ売り飛ばそうとする父・作造と口利きの男であった。さらに実家で目にしたのは、奉公先の製紙工場の過重労働で健康を害し、肺結核で放り出され、今や死を目前にした姉・はるの姿であった。いまわの際に、はるは女衒に騙されそうになっているおしんを救うべく、自分の夢が髪結いになることだったことをおしんに告げ、東京の知人の髪結い師匠・長谷川たかの住所を訪ねるように、伝えて息絶えた。
一方、加代は、浩太の心がおしんにしか向いていないことを悟り、浩太のいない東京を去り、加賀屋を継いで見合い結婚する。
こうして、はる姉ちゃんが叶えなかった夢を託されたおしんは東京へ出た。女郎部屋を売り飛ばそうとした父のいる故郷に心を残すものはなかった。髪結いの師匠・たかは、江戸時代から続く髪結いの昔気質な職業観を持った女性だった。一人前になるための6~7年の下積みの苦労は当然であり、弟子には甘えを許さなかった。
しかし、大正という時代は、江戸から明治まで続いてきた日本髪の伝統の衰退期であった。大正浪漫とか大正モダンと言われる時代が到来しており、洋髪が東京で流行し始めていた。おしんが修業している3年間の間に大きく時代が変わりつつあったのである。
大衆は身分から解放され、より自由な髪型を求めるようになっていた。髪型をみれば、人妻なのかそうでないのか、はたまた、その人の職業や身分がわかる、という時代は終わりつつあった。弟子入りなんてせず洋髪の専門学校をでて、理髪を仕事にする時代がきていた。おしんには洋髪のセンスがあった。たかはおしんに独立をすすめる。たかはいう。「昔は厳しかったんですよ。6年も7年も修業してやっと一人前になったら、それからまた、お礼奉公をして。10年近くもただ働きをして覚えたもんなんですよ。そんなことは今は通んなくなっちまったけど。やっぱりご時世ってもんですかね」。これは紆余曲折を経ておしんがたかの元から独立し、その後、客先で出会った男性・田倉竜三と結婚の挨拶にたかを訪れたときの言葉である。その時、5人いたたかの弟子はついにたった一人だけになっていた。
田倉商店を竜三の妻として支えるようになったおしんであったが、商売は順風ではなかった。おしん夫婦を陰で支えていたのはたかであった。田倉の経営が傾くと、おしんはたかを訪れ、髪結いをして夫を支えた。たかもまた、洋髪の時代におしんの才覚を必要としていた。客商売は人の縁、ひととのつながりを大切にすることだと心に刻んだのはこの頃である。
一方、田倉商店は開店休業状態に陥るほど経営が悪化していたが、おしんが髪結いで稼いでいたので竜三はプライドを傷つけられ、すっかりおしんが稼ぎ出した金で遊び歩くようになってしまった。師匠たかに相談すると別れちまえという。「ダメな男はどこまでいったってダメなんだよ」とすっぱり切り捨てるが、おしんは亭主をダメにしたのは自分だとと気が付いた。夫の更生のために妻の自分は黙って夫についていく姿勢を示すことを決意し、長谷川洋髪をやめることをたかに申し出る。稼ぎ頭のおしんに辞められるのはたかにとってもつらいが、受け入れる。やがて蓄えもつき、明日食べるコメもないどん底におちて初めて竜三は再起を決意する。しばらくは順調に田倉商店の再生が進んで、おしんの洋裁の才能も手伝って、田倉は子供服店を開店することになった。しかし、その直後、関東大震災がおしん夫婦の夢を完膚なきまでに打ち砕いてしまうのである。工場を火災で焼かれ、絶望した竜三は「佐賀でゆっくり休みたか。おしん佐賀はいいとこばい。。。」といって佐賀への帰郷の心を固める。竜三は大地主の三男坊なのである。こうしておしんにとって地獄の佐賀編がスタートすることになった。
さて、佐賀に三男の嫁として入ったおしんを待ち構えていたのは、姑による徹底的な虐待だった。数か月もすると、おしんは佐賀地獄からの脱出を心ひそかに誓い、東京の師匠たかのもとに、東京に戻りたいと手紙を書くのである。たかの元にいけば助かる、自分の腕一本で生きていると信じた。必死の決意で脱出し、やっと髪結いを再開しようとするも、さらなる不幸がおしんを絶望に突き落とす。佐賀で夫に振るわれた暴力が原因で、右手の神経に麻痺が残ってしまっていた。髪結いを諦めざるを得なくなった。
こうしておしんの流転の人生が始まる。屋台出店から始まり、故郷の山形、酒田と流れ流れ、ついに浩太の紹介で三重の伊勢の魚の行商に落ち着き先を見出すのである。佐賀に残った夫といつかは一緒になれると信じて手紙を書き続けるのである。
【キーワード:浩太の恩】
浩太の実家は貴族院議員の父を持つ、太い実家だと先に書いた。しかし、浩太にとって本当のやすらぎのふるさとは、おばの伊勢の実家、網元のひさの家であった。浩太は、流浪の人生を送るおしんを見かねて、伊勢で網元をやっているおばのところに下宿し、行商を勧めるのである。これまで米問屋での奉公に始まり、ラシャ問屋、子供服洋裁、洋髪・日本髪、農家の嫁地獄、酒田の飯屋をやってきたおしん。めし加賀屋は加代とおしんが切り盛りし、おしんにとって加代の元気な姿をみた最後の思い出となった。その職業遍歴に今度は魚売りが加わることになった。
伊勢に来て、笑顔を取り戻したおしん。竜三もおしんと魚屋をやる決意をしてくれ、おしんの人生は好転し始めていた。
一方、加代の人生は、暗転した。加賀屋本体が夫の先物取引の失敗で負債を抱え倒産した挙句、夫は自殺してしまう。八代家の両親は過労で衰弱、入院費を工面するために加代は借金のかたに売春宿に沈められてしまう。両親は相次いで亡くなり、生まれたばかりの希望を抱えた加代をみて、おしんは救出を誓うが、借金の額に手が出せなかった。加代は翌日酒を煽って死んでしまった。希望は田倉で引き取ることにし、加賀屋の再興を果たしたい思いから、養子にはせず、八代の苗字も変えなかった。
一方、浩太は長く続けてきた農民運動に行き詰っていた。治安維持法により、弾圧が厳しくなり、ついに6年間も投獄され、苛烈な拷問の末、転向を迫られた。敗北者となった浩太は、心身の傷をいやすために伊勢のおばのところに帰るのである。すっかり引きこもってしまい、おしんとも口を聞こうとしなかった。やがて、浩太は実家の縁談に応じて、並木家へ婿入りすることになって静かな人生を送るのである。やがて少しずつおしんとも再び心を開くようになるまで十数年を要した。
田倉家では、雄、次男の仁、そして希望がすくすくと育っていった。雄は戦争で亡くなるが、戦後も仁と希望は兄弟のように母おしんの魚屋を支えていた。大人になった仁が商才を発揮する一方で、希望は商売に向いていない自分を見つめ直し、自己実現のために陶芸の道を歩みだす。
屈折10年、陶芸の師匠の元で修業した希望がようやく独り立ちできる時期が来た。そのときに、希望のための釜・新居の支援をしたのは浩太である。お加代さんとの縁を思い出してのことである。浩太は、折に触れて田倉家のおしんを見守るように生きていた。おしんがセルフサービスの店に挑戦するときも、銀行からの借り入れにあたって、浩太は並木の自宅を抵当にいれてくれたこともあった。
さて、長いことおしんの半生を振り返ってきたが、一旦冒頭の仁のセリフ(1983年の場面)に戻りたい。
仁が17号店の出店を並木商店の近くに計画していることを知っておしんが反対したときのことである。初恋のひとに迷惑がかかる?「母さん、みっともないよ。」というのが仁の反応であった。しかし、もし仁が母おしんの半生をもう少し知っていればそんな言い方はなかっただろう。おしんは人の恩に深く支えられて生きてきたのである。田倉スーパーの出発点となったセルフサービスの店にしても浩太の支援があってこそであった。
ドラマの構成として興味深いのは、おしんの半生を、徹底的に(一年間のドラマの大半部分を費やして)一宿一飯の義理人情で「世話物」的に(つまり当時の生活感覚として)描いておきながら、おしんが戦後~現代にいたる高度経済成長でおしん自身が義理人情を忘れてしまったことに気が付く、というメタで重層的な構成である。おしんにしても、商売は食うか食われるかだ、という厳しい姿勢で戦後を突っ走り、16号店までたのくらスーパーを事業拡大させてきた戦犯なのである。それが今になって17号店は昔に世話になった人に迷惑がかかるから反対、はない。突然反対し始めた母を見た1983年の仁の目からは、義理人情なんて古臭いものだという感覚であり、母の物語は「世話物」ではなく完全に「時代物」なのである。大切なものを置き忘れてしまった気がしたおしんは問題の17号店開店当日、失踪する。この世話物と時代物が交差する、ところもドラマおしんの魅力である。
業界の有名人に会ったって話を営業さんから聞いて、すごいっすね!!と盛り上がった事もあった。
でもこの業界って思ってたより体質が古い企業も残ってるんだねぇ。ビックリした。
「新しい、若い業界だ!!」という自惚れが強すぎて、逆に勉強しようとしないのかもしれない。
一番やべーのがほとんどTwitterをやってなかったの。震災の後作ったアカウントだけ残ってて開店休業状態。
私はビックリして、え!オタクでTwitterはマストっすよと社内勉強会みたいなのを企画して頑張ったりもしたよ。
でも「スパムみたいなアカウントしかフォローしてこないよ」と文句言われたり。
「今は、時代はインスタグラムだよ」「いやティックトックだよ」と芸能人や犬の動画ばかり見てる。
でそっちに広告を打つ。効果なし。「やっぱりSNSはダメだね」となる。いやTwitterでやれよ。
誰が実名でいいねなんかすると思ってんだよ!?お前ら陽キャならわかれよ。
もうこりゃダメだなと思って、うるさく言うのはやめた。お前がやれよと言われそうだがそんな義理はない。
その間に、Twitterではいろんなことがあったよね。ついにTwitterの鳥もいなくなった。
連日報道されてるからか、ついに焦り出したらしくて「あ、あのさ…。スレッズ?とかいうのやった方がいいのかな」と来やがった。
あのさ。
もう1Pマンガ載せてバズったり、
そんな時代はさ、もう終わったんだよ。
大事1は自由のきくアルバイト。大事2は対人の自営業(コロナでわりとヒマだったときに知り合った)。
しゃべるAは若いニート、しゃべるBはしり合ったときはたしか酒場のアルバイトだった。
自分はいわゆる主婦(もともとリモート前から自宅で座業の自由業だったが介護・看護の呼び声が多くて開店休業)。
知り合い方だけど
現ジャンルにハメてくれたBは昔すぎて忘れたがBにきいたら前の別ジャンル(も二人でカブってた)で、
アニメ映画の監督とスタッフ陣がトークショーしにきてくれたとき隣か後ろの席だったんだって。そうか~。
ハマりかたのスタンスがとても似ている(金の使い方とか)。よくいきたいイベントがカブる。推しキャラは違うのに。
運営さんに「こうしてくれると混雑防止、事故防止、転売防止になるのに!」って意見が大体カブる。
じゃあ二人で今度アンケートで書いて送ろうかね~などという話をしている感じはもはや萌話というほどではなく仕事仲間みたいな感じ。
丁寧に気を使って運営に感想手紙を送るやり方までよくわかってるジャンルの大先輩。気さく。
1,2とは現ジャンルのツイッターでみつけてゆるくフォローしてたんだけど
ある日突然、2が、「東京の新宿いってものすごい体験したから話したい!」って(公式イベントもない時期にだよ)
ツイッタースペースたててたのでとびこんでみたらたまたま1がきてて私ふくめて3人しかいなかった。
それが3人しかいないのがもったいないほどにくっそおもしろいはなしだった。
印象的すぎていまだに全員がその話を覚えてる。絶対人生が変わってる!という話。
その後1と2と私で2-3回はイベントにまちあわせたが交通費と移動距離と移動時間がすごくてまた笑った
Aは増田のリアル家族(そちらもオタク)の紹介。リアル家族がラインでよんでるといってAが通話をぬけることも多々ある。
特段、嫌だとはおもわない。
前述したとおり恋人がくると即通話抜ける。でも一番深夜におきている。たぶん恋人(働いてる)と結婚しても深夜通話して怒られが発生するとおもう
メンヘラ(不眠で深夜に孤独にしている人が多い)に付き合うのに慣れてる増田は、
本気で恋人とうまくやりたいんだったら増田としゃべってないでしっかり睡眠とって通話で労働づかれをケアしてあげたほうがいいのにと不吉な予感もしている
夜はおとなしく寝てる方がいい気もするよ
あったかい布団買ったけど寝心地最高だよ
昨年の桐生ココ3D化~湊あくあソロライブ~戌神ころね登録者数100万達成の、せいぜい半年間だったと後世語られそうな雰囲気になりつつある今日このごろ。
というのも、当時から何度も言われていたとおり、急成長に対し会社の規模が見合っていないという問題を未だに解決できず、このままだと自滅する未来しか見えないから。
結果、以下の不安要素により辛うじて満身創痍な状態に留まっているだけであり、正直夜しか寝られない。
このまま徒花の象徴みたいな形で記憶に残るとしたら、なんとも忍びない話である。
出たよ話のすり替え。
夜8時迄の営業自粛という事だけど、経営がうまくいってないのは政府のせいだからカネをくれっていう論調を見るとうんざりするな。
昨年2月からChina virusで皆が割と外食を控えてる結果、客足低下で損益分岐点を下回る飲食店が撤退を余儀なくしている。それだけの経営努力してないだけの事で、こういう時期でもしっかり儲かっているところもある。
持続化給付金、休業協力金、家賃補助、などいっぱい貰ってるでしょう。
こういう時、開店休業でぼちぼちやってる店はわりといい思いしてるよ。
[追記]
関東では1日6万円の協力金が貰えるのか。6万円の利益を得ようとすれば倍くらいは売上がないといけないよね。
本当に「発覚」で使い方はあっている。
子どものころ、親からあらゆる虐待を受けてきた。殴られて首の骨がずれたことや包丁を向けられたこともあるし、おぞましい体験もある。テストの点数を見せて平均点以下だったらぶん殴られる生活だった。交友関係の自由はなく、男子から電話がきただけで2時間正座で説教だった。
父と母、双方のクワイエット不倫の結果、母は最終的に焼身自殺を選び、父や周りからは「親が自殺した人間の娘など貰い手もない」「鬼畜生の娘だ」「お父様に一生孝行して尽くして、結婚するとしたらお父様が連れてきた人でないといけないよ」とかさんざん言われた。
そんななかで出会った現在の夫は、私にとってまさに「白馬の王子様」だった。
修羅の国みたいな環境に包まれていたが、私は恐ろしくまじめで、男性と付き合ったこともなかった。18と22で出会って、23と27で結婚。育ちよく人柄よく文武両道で努力家で大学院卒業の夫と私では、とても釣り合いがとれていなかったと思う。
でも、菩薩様と仏様みたいな義両親は、過去をつまびらかにした私に対して、「よく生きていてくれたね」と言ってくれて、それからの15年、本当に掛け値なしに、私はとても幸せだった。
そしてその15年のなかで、私は自分の会社を立ち上げ、そこそこにした。夫と義両親が、私に対して「正しい自己肯定感」を与えてくれたから可能だったのだと思う。
私は妊娠が怖かった。
私の家庭はいつも怒鳴り声と暴力と理不尽さに包まれていたし、お前なんか生まなければよかった死んでくれこんな子は私の子じゃないという言葉は私にとってありふれたもので、だから子供=邪魔物という認識しかなかった。ない。
だから結婚するときも、「私は一生涯子どもを作らないと思う、それでもいいか」と聞いた。
夫は「それでもいい、ただ考え方が変わったらいいね」と言っていた。私もそう思った。考え方が変わって、多くの人みたいに「子どもを欲しい」と思えたのならば、それはきっと幸せなことだっただろうから。
それから15年、本当に夫は私によく添ってくれた。ご両親からは「ま~子ども生むなら早い方が楽だけど(これは本当にそうだろうから、嫌でもなんでもない)、いなければいないでそれは貴方たちの選択だからね」と言われていたし、せっつかれたのは本当にたった1度だけだ。そのときも、私の伝え方が悪くて誤解が生じたがゆえのこと。
私は38歳になり、心境が少しずつ変わっていった。「絶対に欲しくない」は「欲しくない」に変わり、「欲しくはないけど、いてもいいかもしれない」に変わった。
なので、夫と話し合って、妊活だけ始めた。いなければいなくていい、いたらいたで楽しいかもしれないと。
妊活の最中で、自分の気持ちが、「欲しくはないけど、いてもいいかもしれない」から「欲しい」に変わるかもという期待もあった。
年齢制限と、よく私のことを知る周りからの「いなくても君たちは幸せだろうけど、少しでも『いてもいいかも』と思う気持ちがあるのなら、妊活してみたらいいんじゃない? やらない後悔よりもやってからの後悔の方がマシだと思う」という後押しもあって。
積極的な不妊治療はしなかったけれど、双方の同時検査で「私は問題なし、夫は加齢によるもので合格ラインよりも10パーセント下程度」となった。あとはタイミング療法だけでとりあえずいきましょう、と。
まさかその2か月後に、子どもができるなんて思いもしなかった。
私の夫は、菩薩様と仏様の間の子どもだけあって、非常に人間ができている。私の体調不良にも、精神の不安定さにも、彼はどこまでも寄り添ってくれるだろう。
今だって、家事の7割を担ってくれているのは夫だし、ハウスキーパーを提案してくれたのも夫である。
育児も絶対にやってくれるし、育児休暇も取得するし、フットワークもすさまじく軽いし、20年付き合ってきて一度も彼の誠実さを疑ったこともない。
ダブルインカムだけあって、まぁ世帯年収がだいたい1500万円くらいで生活に不安はない。快適な家があり、心優しい義両親(そのうえ義母は医師なので医療的知識もある)もいる。実親はひどいもんだけど。
基本的には仕事の調整は自分でつけられるし、病院に行くために仕事を休む……という経験をしたこともなかった。
この年齢で、妊活2か月で、しかもほぼ自然妊娠に近い形で妊娠できるのは、奇跡ともいえるんだろう。
私は実はソムリエである。そしてソムリエになるくらいだからわかって頂けると思うのだけど、酒好きである。妊娠発覚前日も、「まぁ妊娠したら飲めなくなるしな!」と思いながら、仕事でワインを1本分程度飲んでしまった。
そして私は、生魚も好きだし、チーズも好きだし、チョコレートも好きだし、コーヒーも好きだし、つまり妊婦にとって「悪い」と言われるものが全部すきだ。
こういうことを言うと、ぶったたかれるであろうことはわかっている。いろいろ調べてみても、「出来ない悩み」や「うっかり飲んでしまったこと」に悩む人は多くても、私のようなクソみたいな悩みを抱えている人は多分いない。
私が一人だけで立ち上げた会社は、私自身がメインのソムリエであるため、私がいなくなれば掛け値なしに間違いなくつぶれる。というか、開店休業状態になる。
肥溜めみたいなところから這い上がってきた私が、私自身の力で立ち上げた、私が大好きな会社は、おそらくここでついえることになる。
私が好きだったお酒も、私が好きだった釣れたての刺身も、私の研修でもあった年に3回の渡航も(もっともこれはコロナがあるからどっちにしろ無理だけど)、私の大好きだった夜更かしも。
夫は非常に優しいけれど、子どもを切望していた夫の生活には少なくとも大きな変化はない。
だけど私は、仕事ができなくなるし、好きなものも食べられなくなるし、体調不良も抱えて生きていくことになるし、そのうち店にも出られなくなるだろう。
私は家の近くに会社を建てたため、保育園や幼稚園に預けたとしても、熱が出れば迎えに行くのは私だ。夫はたしかに協力的だけど、夫の会社から家までは2時間かかるので物理的に絶対に無理。
私は我儘だし、子どもだし、身勝手だ。完全な覚悟ができて妊活を始めたわけではなかったし、生理がくれば安堵もしていた。今だって、どこかで「間違いであったらいい」と思っている。
私がまだ20代の前半くらいならば迷いも当然のものと受け入れられようが、アラフォーになって、しかも妊活をしてでさえこのありさまだ。だれも同じ悩みなんかない。あるはずがない。もしあったのならだれか本当に教えてほしい。
酒のみで、自身のキャリアを構築していて、でも妊娠をすれば物理的にその仕事を続けていくのは不可能で、という人に教えてほしい。
その悩みはどうやって克服したのかと。私の悩みは「私」自身の考え方に終始してしまっているけど、みんなすぐに「良いお母さんになろう」って思えるの? 楽しかったこととか全部封じても?
もしも子どもに障害があったら? 子どもが自殺してしまったら? 子どもが犯罪者になったら? 子どもが殺されてしまったら? そんなこと、だれも考えないの? 私は周りで、横に書いたこと全部が起きたのだけど。
「ずっとだれかがいる生活」「自分の楽しいことをキャリアを諦めて生んだ、それでも反抗期がやってくる子ども」を、だれも怖いとは思わないものなの?
自分だけが努力してできることではないことが、生活のなかに入ってくることが、ただ怖い。もともと変化に極端に弱いから。こんな風に、自分のことしか考えない私は、多分母親になる資格などない。
分かっている。覚悟がなかったのならば、選択をしなければよかっただけ。過去のことは、考え方のベースにはなっているけれど言い訳にはならない。アラフォーなんだし。
すべての結果は、すべて私自身の選択だけによるものだ。だからこれは、たぶん、匿名でしか言えないような、「妊娠が発覚した」ときの話。
・ネットでホテルや交通の予約ができるようになりマージンを抜く仕事が儲からなくなってきている。
・JTBは冬のボーナスカットがすでに表明、3月の時点で非正規のスタッフは大幅カット。
・日本旅行は夏冬の賞与がでなかった・でないと決定したらしい。Jもここの社員も某給付金の事務所へ出向して働かされる人多数。
・1月までホテルの稼働率が100%を超えるところもあったのにに、今は東京大阪で10%ぐらい。
・関西圏ではそれでも4000人/月ぐらいのインバウンドはある。
・リネンの会社やベッドメイキングのスタッフが全然たりず、ホテルを開業するもシーツの手配ができなかったのが12月まで。
・そこで設備投資や人を増員したリネン会社が傾いている(外国人労働者も多く、解雇の憂き目にあっている)。
・大手広告代理店など五輪関係の特需を当て込んでいたがすっかり冷え込んでいる。
・大手制作会社も現実に人が集まるイベント、SPがなくなり、Webに特化してマーケできるところだけが生き残りを図っている。
・観光通訳、商業通訳、イベント・会議通訳は事実上の廃業状態。
・オンライン通訳が出てきたので、ここらのスキルがある人間だけが生き残れるかもしれない。
・小屋は全滅。音照などスタッフは個人事業主のフリーランスがおおく食えない状態。
・舞台以外の利用用途を模索するも、他にあてもないといった状況。
・ホテルも宴会で持っていたのに、宴会のキャンセルが相次ぎ、どうにもならない状況。
・この辺はよく把握できておらず。
9:00 になったら家で会社のPCを立ち上げるんだけど、実質開店休業状態のまま 17:00 まで。
おれは目黒の下のほうに住んでいるので、自宅から走る時はだいたい多摩サイなんだけど、17:00 からだと堤防のサイクリングロードはちょっと怖い。
まずは環七にでて、内回りを平和島方面に向かう。大井町線の下をくぐり、中原街道を横切ってすすむと下り坂。
リコーのあたりも人が少ない。国道一号線も横切って進み、第一京浜を左折する。
第一京浜を都心方面に向かう。分かってたことだけど第一京浜は路面が汚い。
ハンドルバーに手を置いているだけだと跳ね回るのでちゃんとハンドルを持って走る。
点々と現れる京急の駅を右に見ながら進む。北品川を超えたあたりで右に大きくカーブ。
札ノ辻で左に東京タワーが見える。曲がっちゃえばよかったなと思いつつ直進して、左折するポイントを探す。
三田で左折。日比谷通りに入る。NEC があるけど閑散としてる。
日比谷通りってずっと行くとどこに出るんだっけ。と思いつつ走る。芝公園のそばを通る。
名前がわからないけど面取りしたような高層ビルが左に見えて、きれいなビルだなと思う。
そのうち日比谷公園が現れる。ずっと昔日比谷公園のトイレに入ったらそれらしい男性がたくさんいたのは良い思い出だ。
と思っていると左が皇居になる。皇居の周りは歩いている人がパラパラいた。
しばらく進むと永代通りにあたる。曲がっちゃえばよかった。と思いつつ次の信号を左折。
目の前がお堀の T 字路を右折して内堀通りに入る。車が少ないのですんなり右折レーンから曲がれた。
お堀を見ながら進む。どこかで靖国通りに入らないと。
まっすぐ行けば靖国通りなのに、なぜか右折しないと靖国通りにアクセスできないと思い込んでいて、竹橋を過ぎたところで右折する。
すぐに靖国通りにあたるので、左折。上り坂。武道館を左に見る。当たり前だけどなにもやってないので人は少ない。
ずっとまえここを通った時は凄い数の人がいて、帰って調べたらパフュームだった。
坂を上り切ったあたりで右に靖国神社。市ヶ谷駅の前を右折。川を渡る。
ここの橋の上はいつもと変わらず混んでたので川べりの桜は見られなかった。
靖国通りと外堀通りがわかれるところに分離帯ができてて靖国通りに進みやすくなってた。まあ車が少ないからだけど。
防衛庁を右にみながら進む。毎朝あの階段を登るのは大変そうだけどエレベーターとかあるのか。
いまの職場が新宿なので、いつもの会社帰りと同じく 20 号から環七で帰ろうかと思ったけど、それもつまらないので明治通りで渋谷に向かうことにする。
普段なら絶対避けるルートだけど、これだけ車も人も少ないならアリでしょ。
伊勢丹の前を左折して 20 号に入り、すぐに明治通りにあたるので左折。
思った通り快適に走れる。新宿から原宿あたりは路肩が狭いうえ、結構なスピードで車が流れてるので怖いんだけど、今日はラクラク。
表参道もいつもよりずっと人が少ない。原宿から渋谷にかけては緩く下る。薄暗くて人が少ない。
休みの日は歩道からあふれた人が車道を歩いてたりするのに。まあ平日の夜だからってのが大きいけど。
さらに渋谷駅あたりでは正面にデカいサイネージができてて、入り乱れる空中歩道と相まって 80 年代に想像した近未来っぽい。
246 が渋谷駅の東口側から西口側に抜けるところは、昔と変わらず薄汚くてほっこりする。
246 を池尻方面に向かう。上り坂。この辺りはいつもどおり路駐トラックがうっとおしい。登り切ったあたりで旧山手通りにあたる。
旧山手通りのところで信号に捕まったので、そのまま旧山手通りに入る。
走り出して思い出したのは、この辺りは路駐が多いせいで(そいつらがハンドルをこじるので)路面がガタガタだったって事。
今更思い出しても遅い。三宿から学大に抜けるルートのほうがよかった。。
代官山の交差点を直進すると駒沢通りあたるので、右折。長い下り。
左カーブの見通しが悪いうえにオートバックスの前に必ず路駐がいるのでちょっと怖い。
でも今日は後ろから車が来ないので思いっきり 2 車線の真ん中あたりを走る。
そのまま駒沢通りでおうちに帰る。祐天寺から学芸大学あたりはいつもと変わらない感じだった。
まあ、駅前まで行ってないけど。
家を出てからだいたいちょうど 2 時間ぐらい。シャワーを浴びてからチェーンに油をさそうと思っていたことを思い出す。
シャワー浴びる前にさせばよかったのに。もー。
でも開店休業状態のアカウントがずいぶん増えたな、このまま徐々に消滅していくのか
https://twitter.com/seennno サラミス宮中
https://twitter.com/abeshinzohauyo1 安倍総理の理想は虐殺
https://twitter.com/bcxhbh マゼラン黒木水下PERTⅢ
https://twitter.com/q9g6e 2018年もこんな人
https://twitter.com/hhhuy11 マゼラン黒木水下4
小6男子母。
上の子達から振り返ると、10年以上続いた小学生母としての夏休みが、ついに終わる。
18年続いた100shiki.comの更新終了が記憶に新しい、平成最後の夏休み・最終日。
ストレスetc、色々溜まってくる時期なのが可視化されてる感あり。
我ながらある意味安定しているな、と(苦笑
テーマはバラバラだけど、愚痴っぽくて大爆発しているのも当然あったし、
過去の大きなトラウマを書いてみたら意外に反響があってビックリ、というのも。
子どもネタで相談してみて、めちゃくちゃいい知見が集まって、これこそ書いて良かった!と思うのもあった。
長期休みは、気分の落ち込みがかなりあって、弱い自分にイラッとする。
今年は特にヒドかった。
どう考えても、フルタイム勤務のお母さんたちと比較すると、労働環境はマシ。
なんだけど、
いっそのこと「子どもと一緒に仕事休みます!」と宣言した方が潔いぐらいなんだけど、レギュラー仕事もあり、そうもいかず。
明日から、上の子達向けのお弁当作りが本格再開するから早朝起床も復活するけど、末っ子の小学校が再開すると思うと、ものっすごく嬉しい。
育児でスローペースにならざる得なかった20代後半から30代も終わって、40代に突入した今、自分の仕事スピードがあまりに落ちている事に愕然とさせられる事も増えてきたけど、細く長く続けてきた事が、40代後半や、50代以降で思い描いている方向できちんと形になることを願うばかり。
ドゥンという突き上げで目が覚めて飛び起きる。ドコドコ上下に波打ち揺れてて呆然、寝起きで悪夢みたい。これはあかんやろな、死ぬかもという考えが一瞬のうちによぎるが体は動かず。遅れて携帯の緊急速報が鳴る。とっさの時って何もできないね。
窓開けると小学生が驚きながらも普通に登校してる、大丈夫か?部屋の中と見える周囲に被害なし。
NHKつける、市内は被害なさそう。津波ないと知って、取り敢えず外に出られる格好とお手製非常袋出してまたしばらく寝る。会社から安否確認メールが来てたが寝無視していてしばらく安否不明者になっていた。ごめん。
温水で顔洗う、ガスと水道は大丈夫やな、出勤。マンションのエレベーター止まっていた。利用してる地下鉄は遅延しつつも動いていた。混み具合意外と普通。睡眠がパフォーマンスと機嫌に直結するんで…と自主的早め出勤の立派な心がけの同僚を見て心で言い訳。
営業系も仕事行けず皆テレビにかじりついてる。上町断層帯ていうのを教えてもらう、知らなんだ、真上に住んでるやん!
昼過ぎにはだんだん状況明らかになってくる、テレビ見過ぎて3.11思い出してだんだんメンタルが削られるのを感じたのでそこからはあまり見ないようにする。あの時は東京支社の社食で津波にのまれる軽トラをリアルタイムで見ていた。あっああーって、あの時の無力感とヘリからのカメラがその瞬間映さないように回転したのも忘れられない。
親兄弟と大阪以外の友人が心配メールをくれている。ありがとう。
高槻の人が車で出勤してきてて家は置いといて取り敢えず出たと言ってて偉すぎるが、こんな時出社せえでもええんやぞ?
飯に出たらホワイティの店子が全部閉まってる。仕事は開店休業、もう帰れとのお触れで帰る。街に人が溢れている。タクシーもいっぱい。うちに泊めてあげられたらええんやけど。
スーパー寄ったら水がない、大小ペットボトル、無糖の炭酸水もない。トマトジュースと冷凍チャーハン買って帰る。冷凍チャーハン初めて食べたけどうまい。フライパンに残った脂すごい。はてブホッテントリ思い出す、いや頭にあったから買ったんかも。
気持ち落ち着かないまま寝る。いつも非・当事者だったと思う、阪神も東日本も今回のも。単に運の問題でお前はラッキーなだけ、また一方でそれはある一人の人間のたどった場所、いくつかは自分の意志で住んだ場所、と天災の運命とのマッチングだったと思う。これも非・当事者のたわ言かん。南海トラフ来そうとか言いつつも誰も非・当事者の気分じゃなかったか?起こらないと動かない、というのが、起こって分かるほどに動いていなかったのだった。悼みを忘れてはいけないと思う、まずそれから。おやすみ