はてなキーワード: 諦観とは
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
http://anond.hatelabo.jp/20140722143610
比較的早く解決できるようになったということに
どれほどの価値があるのだろう、
意味があるのだろうとか、
どれだけ速く解けようと
結局、問題を出す側には到底叶わぬのだなあと
エピソードを想起したりとか、
それらの分野が得意な人間は、そのために
価値とはそもそも何だろうかとか、
数学のできる者の脳内の情報処理はどのようになっているのかとか、
生とは何か、死とは何かとか、
コンブが海の中でダシが出ないのなんでだろうとか、
数って際限なくいくらでも数えられるなあ、いつになったら終わるのかなあとか、
私が小学生の頃には、
授業もろくに聞かず上記のようなことばかり考えておりました。
成績は悪くなかったですが、
こんなものいくらよくっても
結局あいつらには勝てないんだというような
諦観もありました。
今から思うと
こんなことを考えているというのが
周囲にバレなくてよかったです。
きっとイジメられていたでしょう。
http://anond.hatelabo.jp/20140511001043
すでに指摘されてるけど、長文であげてるところはすべて問題点ではなく、艦これがそういうゲーム・運営だというだけ。
どんなに準備・レベリングしても運ゲーの確率・試行回数をちょっと下げるくらいでしかない。
「貯めた資源を使って回数ですりつぶすんだよ」という擁護が絶対に沸くのはそのせい。
だから結局のところ、艦これに不平不満をもらす人間の根源的な原因は、ゲーム・運営が悪いのではなく、自分が合わないというだけにすぎない。
結局運ゲーになるっていうところと、マクロ対応やその他不誠実なところがプレイヤーに甘く評価されがちな運営が気に入らないならやめればいい。
もしくは単なるキャラゲーだと割りきって、キャラを把握したらやめるくらいの楽しみ方にとどめておくのがいい。
俺は春E5でそういう諦観をやっと実感として持てたから、GW以降演習をちょくちょくやるくらいしかプレイしてないよ。
デイリーを南西以外全部こなすことすらやめたよ。
春イベ前は、デイリーどころかイベントに向けた空母、ドラム缶要員、航空巡洋艦要員のレベリングと思って5-4をひたすら回すくらいやりまくってたけど。
目が覚めた感じ。
個人的な不満点は全部あんたの言うところと同じだよ。
対人要素ないっつっても、必然的にソーシャルで話題を目にする機会も多いから、どうしても自分と比べてしまってネガティブになっちゃうのは避けられないし。
でもそこらへんの少数の既存ユーザが不満感じてるところを修正しなくても、口開けてるだけで新規がいくらでも入ってくるんだからそっち重視するのも運営方針としては当たり前だし。
あと、ネガティブな意見がことさらに叩かれるのもげんなりする。
好きなものを否定されたらどんなに予防線張られてたってむかつくのは当然なのはわかるけど、どれだけ気を遣った表現にしても短絡的に叩かれる。
嫌ならやめろっていう思考停止厨がよく沸くけど、艦これについてはマジでこれ。煽りでもなんでもなく。
やめるか、コミット度合いをかなり減らして別のことしたほうがいい。
艦これは最後まで変わらないよ。運ゲー、キャラゲー、お祈りゲー、無心で回数こなしゲーのままだ。
ゲーム自体、運営、信者というそれぞれの要素において合う合わないが顕著に現れるから、どれかが自分に合わないと感じたら早い段階でやめたほうがいいというのが最初で最後の真理。
流行ってるからというだけでやるには、艦これはゲームとしてはあまりにも苦行すぎる。
だからといって豚になるのはまだ早い。
朝潮はいつもそばに控えている。直立不動だけど疲れを必死に押し隠そうとしている。疲れて水分補給したくなったときにprprprprprprする。朝潮だけに塩の味がする。冬に指先が冷たくなったらニーハイの中に手をつっこめばいい。汗で蒸れてるくらいで驚く。あと乳首つんつんしてモールス信号ごっこね。ただ、まだしこりを残した固い胸に対して無理に触るのはよくないことは留意すべき。
文月はいつも足をばたつかせながら俺のひざの上にいる。つまらなさそうしてるのを我慢してるように見えるときもあるから、退屈ならどっか別の場所で遊んでてもいいよと言うんだけど、俺の膝の上から離れようとしないから困ったものだよ。ふざけて脇腹をくすぐるときに間違っておむねのあたりをわきわきしてしまっても、ちょっと戸惑った「?」顔でこっちを見上げて「なんですかなんですか?えへへ^^」と笑ってくれる文月ちゃん。ずっと年をとらず性に目覚めることはないから、後々思春期の娘に対する父親のような事例が発生する危惧もない。
睦月が中破して大泣きして帰ってきたから急いでお風呂に入れて新しい服きせてあげてよくがんばったねとほめてなでなでしてあげる。そうするとまだ少し涙目だけど笑顔に変わるんだよ。
長良と一緒にトレーニングしてるつもりで毎日筋トレしてる。上腕二頭筋がすっげーがっちりして大胸筋も盛り上がってるくらい。腹筋も見える。なかやまきんに君ネタができるくらい(不知火の前でやるとすっげー冷めた目で見られるけどそれもまたよし)。腕に駆逐艦たちが喜んでキャーキャー言いながら鈴なりにぶら下がってる。ほら響もそんなすみっこでそわそわしてないでいっしょにぶらさがれよ。俺は気にしないから。
球磨を抱きまくらにして寝てる。抱きまくらじゃないクマー!というけど気にしない。
冬になれば体温高めの天津風とチェンジだ。やはり小さい子は体温高いんだよね。なんでだろうね。天津風の場合はそれと合わせて照れ屋さんなのもあるけど。なんだかんだ言いながら拒否らずにむしろ逆にぎゅっと抱き返してくれる。布団の中での天津風のけなげな可愛さを知っているのは俺だけだろう。早すぎる胸の鼓動が伝わってくる。暗闇の中で吐息も感じる。いい風ね。
夏は潜水艦たちと泳ぐといい。俺も一緒にクルージング行くぜ。スク水も買ってある。去年は市民プールだったが今年は海に行く予定だ。
金剛型の脇の下から手を入れたい。榛名は戸惑って困ったように照れて顔を赤くする。金剛は意外とさらっと流される。でも内心心臓ばっくばくなのを夜戦時にそっと告白されて俺の鼻息がますます荒くなる。
綾波とお茶したい。ほっぺつんつんぷにぷに。ほっぺたよくのびるね。だらだらしながらゆったりセックス突入したい。
鈴谷がからかってくるのに対してマジで押し倒して、挑発的な言動が実は奥手で臆病なところの裏返しに過ぎなかったことを発見したい。
熊野をエステしながらいたずらして顔真っ赤にして全身震えながらも強がり言ってるのをニヤニヤしながら見てたい。そんでもって何ニヤニヤしてるんですの!とどつかれたい。
艦これなんて難しく考えなくてもこういう楽しみ方だけでいいんだよ。
スーパーロボット大戦OEで、なんと漫画版の名台詞がボイス付きで流れるというサプライズがありました。
「少しづつ動きを覚えさせて…」「ここまで鍛え上げたんだ…」
「あんたが気まぐれで遊ぶ玩具とはなあ…」「違うんだぁ!!」
この野明の台詞は、
押井版野明の「レイバーが好きなだけの自分に甘えていたくない」(だから、レイバーのテストパイロットを辞めて、正義のために戦う)
レイバーが好きで、レイバーのために働く自分へのプライドを感じさせる名シーンだと思います。
このように、ゆうきまさみと押井守は同じ題材、同じキャラクターを扱いながらも、まったく違った切り方を見せていると思います。
その際たるものが「警察官」という職に対する価値観だと思います。
「まともでない役人には2種類の人間しかいないんだ。悪党か正義の味方だ」
このように述べています。
このまともでない役人とは、自分たちのことでもあり、劇場2の敵のことでもあります。
また、劇場1、劇場2共に、特車二課は上の了承をえず、独断専行で悪に対して殴り込みを行っています。
という点を踏まえたうえで、ゆうきまさみ版の後藤隊長はどう語っているのでしょう。
「警察ってのはカゼ薬みたいなもんでな、症状が出てから使われるのがほとんどだ。」
「熱が出れば解熱剤を、せきにはせき止めを投与するように、
「おれたちも症状に合わせて投入される。
与えられた仕事をたんたんとこなしているうちになんとか社会が状態を取り戻す。
それが警察のあるべき姿なのさ。
わかるか泉? おれたちの仕事は本質的にはいつも手おくれなんだ。
こいつは覚悟がいるぞ。」
(中略)
手遅れにならないよう、先回りをする押井版に対して、
ゆうき版は本質的に手遅れであることを自覚し、それを受け止めたうえで、風邪薬には風邪薬のプライドがあると、自分の仕事に強い意識をもっています。
ゆうきまさみは「仕事をする一社会人としての警察官」を描いており、
押井守は「一社会人を超越した正義の味方としての警察官」を描いているといえるでしょう。
この、一社会人としての警察官という題材は、後の鉄腕バーディーにも引き継がれていく、ゆうきまさみの大きなテーマとなっていきます。
追記
>aukusoe 押井守の超越感がどこから来ているのか、ゆうきまさみの市民感がどこから来ているのか、とりみきさん漫画でわかりやすく解説してください。
スタジオぬえの話とかゆうきまさみが通ってたカフェの話とか、アオイホノオでやって欲しい題材ですね。
>otiharuk otiharuk んー押井は別に「先回りカコイイ」というニュアンスで使ってないような
格好いいというか、事実として先回りしてるわけじゃないですか。
ゆうき版は児童売買の可能性がある子供がいても、自分たちで独断専行はしなかった。
これが、押井とゆうきの後藤隊長の描き方の決定的な違いではないでしょうか?
ゆうき版の後藤隊長なら、劇2や劇1のとき独断専行したでしょうか? しないでしょ、
「みんなで幸せになろうよ」なんだから、劇2のあんなことさせるわけがない。
>横手美智子の職業選択の自由で、野明は警察官を選んでるんだよね。
>なのに、押井世界では実写版や番狂わせで野明は警察官を辞めている。
>その辺をぼかして書くあたり、押井のずるい所だよなあ。
うーん、それは大げさじゃない、TV世界と旧OVA〜劇1〜劇2〜番狂わせ〜実写の流れは違うわけだし。
>いづぶちの雪のロンドの遊馬や、横手の太田の戸惑いの午後の太田を題材にそれぞれを語って欲しいな。
ラーゼフォンしかり、出渕が主役に据えるキャラはどこか詩的な感じで、
押井版の理屈っぽい遊馬や、ゆうき版のすねた子供みたいな遊馬とも違う、一番大人な遊馬だと思う。
太田に関しては難しいな、カヌカとクマガミが関わってきてややこしい。
押井版劇2小説にたしかクマガミさんが登場してたから、あの時空にもいることはいるんだろうけど、
劇2の事件には参加してない辺り、なんかややこしそう。
>横手小説の後藤隊長は、風邪薬であることすらも諦めている女々しい印象なんだよなあ。
うわー今手元に小説版ないなあ、アニメイトに買いにいって確かめてみます。
>なるほど納得。押井版よりも、ゆうき版の方が好きな理由が判った。
ゆうきまさみは、どうにもならない社会の枠組みで悩む姿が多く描かれています。
じゃじゃ馬の主人公は馬を育てることで、自分一人で出来ることの限界を知りクライマックスを迎えます。
そりゃそうなんですよね、調教師でも騎手でもない、牧場の従業員が馬に出来ることなんて高が知れている。
そういう、己の限界がゆうきまさみではたびたび描かれる重要なテーマだと思っています。
>miruna 読んでない スパロボオタは劣等種
漫画版の名台詞がボイス付きできけるのはスパロボだけなので例に出しました。
>triggerhappysundaymorning ゆうきまさみは画風からも諦観滲み出してる気がします尿.
>kanose 押井の犯罪を先行してつぶすというのは正義の味方というよりも公安の発想なのでは。それにしてもブクマコメントへの反応はや!
でもだからといって、それを部下に半ば強制した劇2はやっぱり、正義の味方だと思います。
>frivolousman ゆうき→状況に対する「しんがり」として、労働者、サラリーマンとしての警察官。押井→組織を超越しちゃうスーパー警察官…FBI、CIA、公安の類。
そうですね、僕も同じ理解です。
http://gesusu.hateblo.jp/entry/2014/03/10/024102
日本の腐女子の中には「私たちは異常だから隠れるべき」という理屈で自重する人たちも多いようですが、「思いやり」という名目で女子だけが自重していないか。
あなたがたが全てを振り切って、ご自分の「萌え」を大切にされるのも結構ですが、それが社会から許され好意的に受け入れられるときが来たらいいのに、なんていう期待は持たないでほしいです。自由に好き勝手に萌えるというスタンスを保ちながら異性にも受け入れられたいなんていう理不尽な期待を持たないで欲しいし、萌えの対象となるアイドルから好感を持たれたいだなんていう理不尽な期待も持たないで欲しいです。そもそも、その期待が相当に理不尽であることをちゃんと理解して欲しいです。
別にアイドルオタクだけを叩きたい訳じゃありません。むしろこうした無理解はリア充の間にもナチュラルに蔓延しています。「仲人欲」みたいなものです。安定した関係の恋人や配偶者が居るリア充は、恋愛面でヒマになってしまい、刺激に飢えています。だからといって浮気をすると、恋人や配偶者との安定した関係を壊すことになってしまいます。その結果、恋愛していない知人を探し、世話を焼いてくっつけようとするのです。この種のリア充は恋愛相談を受けるのが大好きです。「恋愛上級者な頼れるオレ・アタシ」を実感するのが大好きです。そして片思いしている側から相談を受けることで、片思い側に共感したり入れ込んだりし過ぎて、片思われている側の感情を完全に無視するようになってしまいます。「オレ・アタシの手助けによって結ばれて幸せになった二人」というハッピーエンドなストーリーが頭の中で描かれているため、片思われている側が「嫌です」とでも言いだそうものなら、片思われている側は即座に悪者です。
萌えや妄想は脳内の好き勝手なものであり、対象の意志を完全に無視したものです。前段落で書いたリア充の話は私の実話です。ある男性が私のことを好きであると既婚リア充男性に相談したため、既婚リア充男性の仲人欲が炸裂し、私の意志を完全に無視してくっつけようと策を巡らせて来ました。高いコミュ力があるため周囲を巻き込むのも上手く、周囲から「お似合い」「応援してるよ」と言われて逃げ場の無い状態になりました。コミュ力とは空気を作る能力だと思っています。彼は、ノーと言えない空気を作るのが本当に上手かったです。私の意志は無視されました。まさに恐怖でした。私はその趣味のコミュニティから逃亡しました。
日本では実在の人物をネタに同人活動をする際は所謂「生モノ」として本人はおろか同じ嗜好の人ですらなかなか探せないくらい他人の目に触れさせないためのあらゆる手が尽くされますが、中国のユンジェ信者たちは、ジェジュンがいない東方神起のコンサートでユンジェの垂れ幕を掲げたりしてやりたい放題でした。
全面的に肯定はできませんが、私はこの自分の欲望に素直なアジアの女子たちのパワーが大好きです。日本の女子よりも自由に見えるからです。
この本人の意志を無視したやりたい放題な振る舞い、私が実害を被った「他人の感情を思うままにコントロールしたい欲求」を思い出してゾッとします。日本の腐女子が生モノ萌えを自重する感覚は人として正常です。相手を意志ある人間だと認識していたら、本人の目に触れないよう自重します。二次元の場合は対象が存在しませんが、せめて原作者には配慮すべきでしょう。「萌え」は対象の意志を踏みにじっているのです。踏みにじられてニコニコしていられるのは「ファンって所詮そういうモンだよね」「妄想をぶつけられるのが商売みたいなもんだからね」「それで食っていけてるからね」という諦観があるからで、対象の精神がかなり大人だから受け入れられているのです。リップサービスに過ぎません。自分の意志を無視されて、寄ってたかって妄想を一方的にぶつけられるのが「心からの幸せ」だなんて人は、自由意志や自己肯定感が完全欠落した病人だと思います。心療内科に行った方がいいのではないでしょうか。
アイドルに萌えることを否定しているわけではありません。恋愛相談に乗ることを否定しているわけではありません。しかし、対象の意志を無視して好き勝手な行動を取ることを「自由」と正当化し、許されることを期待するのは異常で理不尽な要求だと思います。少なくとも私には到底受け入れがたいですし、そうした人格が歓迎される時代など永久に来ないと思います。
きっかけは昨年の12月、気がついたらシャンプー時に抜け毛がすごい。
体中に抜けた毛がはりついてシャワーで流しても足りない、髪を洗った両手にはぶわっと髪の毛がくっついてきてとにかく尋常ではない量。
もともと髪の毛がものすごく豊富でしっかりとした髪質だったので、
抜ける量も人よりは多く、気にしていなかったのだけど、
あまりに気になって、母に頭皮を見てもらった瞬間、「ひゃっ!」と母が声をあげた。
面積にして500円玉3つ分くらい、すっかり頭皮が抜け落ちた清々しいくらい透明で白いそれが
そこに在った。
たしかに触ってみると、ふにっとした頭皮しかない。ない。毛が無い。
禿げてる、わたし円形脱毛症になってる。。。
その日から、私はハゲの恐ろしさと抜け毛の恐怖に苛まれている。
他の部分、むしろ頭全体の毛が毎日ものすごい量、無慈悲に抜けていく。
気がついたら、髪の毛の量が半分以下に減っている。
あれだけ量が多くてうざかった襟足部分はスカスカしていて、こころもとない。
前髪も薄くなったので、薄い部分を隠すようにいつも後ろから髪の毛を持ってきている。
いつもいつもとにかく抜けていく事を気にして、髪の毛を失うことにおびえて過ごしている。
亜鉛を飲んだり、イソフラボンを飲んだり、シャンプーを変えたりして
努力をしてきたけれど、この抜け落ちる髪の毛に私の努力は無力すぎる。
抜け毛ってほんと回復不可能なダメージを与えられるものなんだと
しみじみ感じた。男性も女性も関係なく、これはほんときついね。
どんどん自分に自信と余裕がなくなってく。
原因がわかればいいんだけど、加齢と言われたら仕方ないのか・・・。
経験したことのないような体の不調にさいなまれるようになるってのが
年をとることなのかな、ってさいきんしみじみ感じる。
なんだか抜け毛以外にも、生理痛激しいとか、膀胱炎にすぐなるとか、頭痛とか
地味に不調が続いてる。
年齢的な不調と合わせて、トントンみたいな感じ。
アラサーって揺らぐのかな、揺らいじゃうのかな。
確かなものなんて、なにもない。手のひらからこぼれ落ちていく髪の毛のように。
みなさん、がんばりましょうね。
永遠の0の作者なあ……。いっそのこと、思想的には対極の位置にありながら築き上げた業績では足の爪にも及ばない宮﨑駿に対して反旗を翻したのち、著作よろしく華麗に玉砕などして存在感が永遠に0になったら超面白いと思いましたが、映画大ヒットの報を拝見するかぎりそれも難しい様相で、なんとも盛り上がりません。
http://biz-journal.jp/2013/09/post_2979.html
この記事によれば「風立ちぬ」をべた褒めしたところパヤオからこれ以上ないカウンターでフルボッコ、という状況です。それについてのリアクションは寡聞にして知らない。そもそもパヤオに対する反骨の相もあるのかないのか……あるいはガン無視でしょうか。このテの人材がこうもボロクソ言われたら自尊心が刺激されないわけが無いのだが……。
さて、俗にいう“特攻”、自国民の消耗にもとづいた戦法を肯定的にとらえようとしている時点でコイツの視座が現実から乖離して形而上的ステージへと突入しつつあるのは明快であります。特攻を美化し、賛美したものを書物にしたため、売り物にしてお金を儲けている。劇中でも「史実を知らない現代の若者」に蔑視のまなざしを向ける配慮も忘れないと聞きます。映画は大ヒットだそうですから、さぞおいしいものを毎日たくさん食べているのでしょう。戦没者300万人をおかずに供して日本人の感動を誘い、その涙とともにこぼれ落ちたお金の力を使って召し上がる食事の味とは、果たしていかばかりのものか……。“第二次大戦中における日本戦没者のおよそ5割は餓死”という話とあわせて考えると大層感慨深いものがあります。
そのような彼の勢いはツイッターでもとどまるところを知らず、やたらと威勢のよい佞言を垂れ流してリツイートを稼いではえびす顔、というわけですからいよいよもって香ばしい。俺は当初、これほどの大ヒットを叩きだした小説家なのだから、賛否両論あるにせよ洞察に満ちた示唆をツイッターでも与えてくれるのだろうとおもっていたが、彼のツイートからプンプン漂ってくるのはネトウヨフレーバーの小物感でした。なに、これ。ただのクソウヨじゃないか……。彼の著作はゼロ戦モノなのに、申し合わせたように嫌韓嫌中というのも見逃せません。
これが、この人物こそが、本邦で話題沸騰中の小説家その人である。
この煉獄めいた事実には絶望と諦観を禁じ得ません。水嶋ヒロの話題で盛り上がるほうが5億倍マシだ……。
――敗戦濃厚な状況下にあって、それでも敵に立ち向かわねばならないという時に“お国のために命を捨てる”ということが美しいのか、あるいは愚かしいのか、そんなものは平和と飽食のなかに生まれ育った俺が一言に断じることは出来ません。が、国家という視点で眺めてみると、替えの効かない人間を100%使い捨てる「特攻」という手段が戦略的にはあきらかな悪手であり、絶対に死ぬという前提のもとで14,000名もの人的資源を消費してなお局面を打開することかなわず敗戦に至った、その現実を忘れてはなりません。
ところで、戦地に赴く兵員も守られるべき国民の一部です。まともな軍隊は無意味な命の消耗を決して行いません。生還が期待できない作戦に従事させるなどありえないと聞きます。なればこそ、最低限の技術すら充分に仕込まず、戦略的確信もロクにないまま、垂れ流すように人間を消費していった大日本帝國という組織が、もはやマトモに判断する頭を持っていなかったのは想像に難くない。というかそんなもん作戦でもなんでもなくて、呪術か狂信の域です。氾濫した川に人柱を捧げるとか、そういう次元の愚行。20世紀の話ですよ? そんなクソ『作戦』に殉じて死んでいった人間を「護国の英霊」だなんだと奉じてただただ祀り上げたり、「日本を護ってくれてありがとう」などと謝意を述べたりするのは、まず現実に即していないという意味において死者の耳に届くものではありません。
特攻では日本を守ることが叶いませんでした。われわれは、国を挙げた狂乱の最も哀れな犠牲者である彼らについて、ただただ哀悼の意を捧げるしかありません。まったくの非論理性に基づいて死んでいくことを強いられた彼らについて、国に身をささげて護ってくれた偉人だと位置づけるのは、どう取り繕ったところで美化だし、また身勝手にも程があります。
もし靖国神社におもむいたなら、特攻で死んでいった霊前に際して感じるべきは、決して感謝の意のたぐいであってはならない。ましてや参拝者自身のナショナリズム(笑)のズリネタとするなどもってのほかです。お前自身の事なんざどうだっていいわ。われわれは彼らに対して『あなたがたのような無意味な犠牲を今後二度と生み出すことのないよう、いついかなる時においても冷静な判断力を保持し続けるべく不断の努力をする』と誓わねばなりません。彼らの無意味な死に意味を与えたいのなら、彼らの教訓から悪い部分を点検・評価をし、処置・改善を施し、よりよいみちすじを計画し、そして実行する。そうやって戦後の我々がつねに賢く在ることで、彼らに報いねばなりません。それができなかったからこそ戦前の日本はあれほどの愚を犯したのだから。
――とは申せ、この国においては困難に取り組む姿勢や努力そのものが崇高であって結果は二の次三の次、という精神論が未だに根強いので、自爆攻撃が二度と繰り返すべきではない馬鹿げた愚行だと確信するにいたるのは少々先の話だとは思うのだけれども。とりあえず日本人が特攻隊員を美しく思っているうちは、いまなお旺盛なサービス残業はきっと無くならないでしょう、残念ながら。ていうかよくポツダム宣言なんて受諾できたもんだな日本……。
そんなウワサの永遠の0さんですが、述べたようにツイッターの閉じた輪っかの中で自らの考えを発信しては、同好の士(と書いてネトウヨと読む)のさんざ輻輳しきった肯定のレスポンスを受け取ってほっこりしているようであります。RTとfavの数字だけみたらまぁよくも次々と数百RTを連発するなあという感じですが、実際のところ汚泥が汚泥と混じりあって発酵していく毒の沼地のような醜悪さです。日夜この国のトラフィックを増大させてプロバイダの業務を1%くらい煩雑にしておりますが、その様子はナメクジ同士の交歓にも似た淫靡さで、読んでて正直恥ずかしい。とあるツイートなどでは『有事の際には9条論者を最前線に立たせ、彼らの物言いで戦争を止められるかどうか眺めればいい』などと超ドヤ顔で言いだす香ばしさ。うーん、これは上手いことを言ったつもりなのかな? たいへん粘着味あふれる皮肉センスで小生は惚れ惚れいたします。膨れ上がった自尊心が伺えます。かようなトラフィック上のクソですら、山ほどの(とはいえ3ケタ程度の)RTをされてしまう魔のフィードバックに取り囲まれた裸の王様こと氏は、お勤め時代ならいざしらず、今はもう自分の見たいものだけを見て生きているに相違ありますまい。実に幸せそうです。人間かくあるべきというお手本のような状況です。われわれ日本国民は、かの映画を見ることでこんなおもしろ人材を養っているのだという現実にそろそろ向き合う覚悟が必要でしょう。くわばらくわばら。
――以上は多少のオブラートに包んだ物言いでしたが、ただいまの気持ちに偽りなく申し上げるならば、先の大戦からこのようなスイーツ受けする感動話(笑)しか導きだせないこのようなボケナスは、有事の際においてまず靖国ならびに千鳥ヶ淵で1億回陳謝ののち速やかに最前線に赴き、一億火の玉の嚆矢と成り果てて欲しいと思った。氏の著書に感銘を受けたフォロアーが80人くらい同行するかもしれませんし。
映画の方ですが、あんな見え見えの地雷をだれが踏むかって感じなので5億円くれたら見たいです。ツイッターで感想をつぶやいた人々がおおむねスイーツ(笑)層とジャニオタ的人材である点には少しホッとしています。単純に「泣ける感動モノ」という文脈で受け止めているようです。とりあえず、根底をうごめくクソウヨ史観に運悪く感染してしまったインフェクテッドがそう多く見受けられないのは不幸中の幸いでしょう。人々はいまだ中庸なり。多分。
http://anond.hatelabo.jp/20130825162009
元増田です。
前回はいろんな人のいろんな意見をトラバやはてブのコメントで貰ってとても参考になりました。
すぐに続きを書ければよかったのですが、やはりある程度、結果が出てからまとめようと思い、だいぶ時間が経ってしまいました。
結論から言うとフラれました。
今週、動物園(向こうが動物好きだと聞いていたので)に誘ったメールを送ったのですが、その返信が
「彼氏ができたので、二人でどこかに行くというのはできない。」
というような内容でした
メールを見た当初は意外と悲しみは湧いてこず、どちらかと言えば諦観に近い感情を持ちました。
あるいは生来、感情が表に出てこないタイプであるからかも知れません。
いずれにせよ、その日は仕事を通常通りこなし、いつもと変わらず過ごすことができました。
しかし、やはり心のどこかに悲しみが燻っていたのか、昨日は同期と飲んだあと、部屋に帰っても飲み続け、
気づけば朝になっていました。そこから眠ったのですが、10時には盛大な二日酔いと共に目覚め、
連休初日はグロッキー状態でほぼ終了。先ほどようやく体調が戻ってきて、この増田を書くに至っています。
今でも彼女の顔がふと浮かんだり、断られたメールの一節が思い出されて、ひどく憂鬱な気分になります。
そして、あの時はこんな言葉を返すべきだったのだろうか、とかいろいろなifを考えてしまいます。
まぁ、きっと時間が解決してくれるだろうと楽観視していますが。
あるいは何か別のこと(仕事の関係で弁理士資格に興味があるのでその勉強など)に打ち込んでみるのもいいかなと思います。
しかし、今回初めて人を好きなるということを体験して世界が広がったというか、得られたものも多くありました。
例えば、恋愛小説とか映画を見て感情移入ができるようになったこと。
今までは自分とは全く関係のない世界の話として捉えていましたが(そもそもこのジャンルにあまり興味がなかった)、
今回をきっかけに本や映画で出てくる色恋沙汰を実感として味わうことができる様になりました。
今までは洋服といえば、ユニクロかライトオンで買うことが多かったです。
ですが、さすがにもうちょっとおしゃれに気を使おうと思い、近所のアウトレットに足を運んで、BEAMSやSHIPSやらに入ってみました。
一着一万円のシャツなんてものがこの世に存在するんだと初めて知りました。
あとは、食事のおいしいお店やきれいな景色の見えるレストランなんかも調べるようになりました。
人生が広がったという意味では今回の失恋も無駄ではなかった言えるかもしれません。
「人を恋するというのも、なかなか大変なものなんだと改めて痛感しないわけにはいかない。」
村上春樹氏はまた今年も取れませんでしたが、それで彼の作品の価値が変わるわけではないですから。
アドバイスや叱咤激励下さった皆様、本当にありがとうございました。
あと一か月で29歳の誕生日を迎える。
アラサーといわれる年齢になったけど、相変わらず女性とは縁のない生活がつづいてる。
二十歳くらいの頃には、このまま女性と縁のないまま童貞として死んでいくことに強い焦りを感じたけど、
今となってはそんなに気にならない。
このまま異性のカラダを知ることなく死んでいくんだろうな、という乾いた砂のような諦観がある。
一度くらい異性と仲睦まじくすごしてみたかったが、今となっては叶わない夢だ。
街行く女子高生たちを見ると、むらむらすることもなく、ただ漠然とした悲しさに襲われる。
性風俗を扱う店に行ってみようとも思ったけど、結局よした。
性欲は自分で解消できるし、わざわざそのために見知らぬ女性をお金で買うのは、
なんだか抵抗があった。
性産業を否定するわけじゃなく、ただ単に知らない相手に触られるのがイヤだった。
気持ちが通じ合ってないのにカラダを重ねるのはむなしい。
金銭づくの一夜の関係を結んだところで、このすさんだ気持ちが癒されるとは思えない。
このgdgdの現状を変えるには恋人をつくるしかないのだけど、
いない歴=年齢の自分が、この先うまく異性と付き合えるかどうか心もとない。
まずは女性と知り合うのが肝心だが、その時点でハードルが高い。
そのハードルを越える気力があればまた違うんだろうけど、
積極的に動くモチベーションが湧かない。どうでもいい。やる気でない。
たぶん、夢見る乙女と一緒なんだ。
「白馬に乗った王子さまが迎えに来ないかなあ」と夢想するだけで、
自分の場合も、結局その程度の「恋人がいればいいのにな」くらいの淡白な欲求しかない。
変える方法が分らない。
どうしたら異性に対するモチベーションがあがるんだろ。
大前提として貧乳で乳首がでかかったってのでゲンナリしたのがあるのは置いておいて。
(余談。筋トレしてる自分のほうが胸があるかもってくらいのバストサイズ。俺の胸を見た相手が冗談っぽく「私より胸あるんじゃない?w」と言ったので「かもねw」って返したら不機嫌になった。理不尽だ。どうやら正解はその直後にフォローした「さすがにそれはないよ^^;」だったらしい。めんどくさすぎる)
閑話休題。
自分のおっぱいとかおなかとかおしりと基本的には同じなんだよね。
理屈じゃわかっちゃいたけど、おっぱいっておいしい、甘いみたいなイメージがあったからさ・・・
どんだけファンタジーだよって今なら突っ込めるけど、イメージというか願望があったのかもしれない。
AVとかで男優がおっぱいをなんであんまり触らないのかなもっと触れよ俺なら触りたいよと思ってたけど、こういうことだったんだね。
男からすればおっぱいを触ることは自分への直接的な性的快感につながることはないんだ。
おっぱいを触ったりなめたりする行為に興奮するという意味もあるのかもしれないけれど、自分はいまいち理解できなかった。
もちろんそこにおっぱいがあれば視線がいってしまうし、触ってみたいとも思うけど、なんだろう、以前のように、あぁあれは至高の性的快感を自分にもたらしてくれるんだという幻想がなくなって、ある種の諦観を持っておっぱいについて考えるようになってしまった。
ただ、ポジティブといっていいかはわからないが、こんにゃくをオナホール代わりに使うという古典的なネタには一応の正当性があったことがわかったのはよかった。
正直、こんにゃくとか全然感触違うだろwwwwと思ってたから、実際に触ってみて確かにこれはこんにゃくだと思えたのは驚きだった。
こんにゃく切ってそこに突っ込んでも肝心の中身がないって、こんにゃくだけだと不完全じゃん。
いや俺入れたことないから入れたら中もこんにゃくなのかもしれんが。すまん、知ったかぶりした。
僕も今度はあなたの言わんとしていることがいまいちピンと来ない。具体的な事例を挙げながら書いてくれると助かる。とはいえ、こちら側の主張をもう少し書いておく。
歴史家のヘイドン・ホワイトによれば、歴史というのは何らかの教訓なしには語り得ない。ただ起きたことを時系列的に書き起こしたところで、それは歴史にはならない。歴史を語った時点で、どうしても何らかの教訓が引き出されてしまう。その意味では、たしかに歴史修正主義の人たちも、歴史から何らかの教訓を引き出そうとしているのだろう。しかし、問題は、そこで引き出される教訓の質が低いことにある。そうした態度から出てくるのは、それこそ「仕方がなかった」という諦観か、「騙された」という恨みつらみ、あるいはプロパガンダ合戦に負けないようにしようという水準のものでしかない。
たとえば、某田母神さんが好きなコミンテルン陰謀史観。これは保守層にはそれなりに浸透していて、要するに「日本が泥沼の戦争に突入したのはコミンテルンの陰謀のせいだ」という話。もちろん、陰謀自体はつねに存在しうるわけだが、それによって日本が一方的に戦争に引きずり込まれたというのは、責任主体としての日本政府の責任を免ずるような効果を持つ。「戦争は日本のせいではない→したがって、戦前の日本の国家のあり方を反省するどころか、というかそれを取り戻すべき」みたいな思考の流れになる。そうなると、戦前日本においてまともな政策論争を不可能にしてしまうような言説構造がいかに生まれたのか、「空気」に支配されがちな世論と外交とをいかに関係づけるべきか、といった問いを考える契機も失われてしまう。
虐殺や人権抑圧に関しても同様。歴史認識問題に深入りすることは避けるが、僕はやはり南京虐殺にせよ従軍慰安婦にせよ日本側に大きな問題があったと考える。虐殺の規模や狭義の強制があったかどうかといった問題は措くとしても、「虐殺は存在しなかった」「慰安婦は売春婦に過ぎなかった」という主張からは、国際的なプロパガンダ合戦に今度は負けないようにしよう、ぐらいの発想しか出てこない。言い方を変えれば、修正主義的な思考では、当時の日本の社会や軍隊そのものについて考えるというよりも、「歴史の語り方」の部分に思考が集中してしまう。その挙句の果てが、NY州の議員に稚拙なコピーメールを大量に送りつけてかえって怒りをかってしまうという状況なんだろう。事実を事実として認めてようやく、それでは中国戦線において軍規が乱れてしまった原因は何か、兵員の管理に問題は無かったか、戦場での兵士の性をいかに考えるべきか、という問いが生まれてくる。
もちろん、歴史を考えるうえで、日本を一方的な悪役にする必要は必ずしもない。日本側の主張にも正当な部分はあったとは思う。しかし、結果としてアジアへの侵略をずるずると拡大し、無謀な戦争に突入してしまったということは大前提として踏まえておくべきだろう。
あと、「改憲したい人=反省してない人」なんて言っていない。一番最初の書き込みに「いまの改憲派の少なからぬ人たちが歴史修正主義的な価値観を持っているように見える」とは書いたが、全員そうだとは言ってないでしょ?改憲派であっても、歴史をきちんと学んでいる人はいる。ただ、そういう人たちの声があまり聞こえてこず、改憲論と歴史修正主義とがセットであるかのように同一の論者によって語られる場合が多いのが怖いということ。
以上。
誰かに不幸を押し付けたとしても自分が幸せでありたいし、他人がそうでも何とも思わない。
いつまでも経済成長の幻を引きずった高級車(笑)ブランド品(笑)ステータス(笑)
↑はいわろー
ソーシャルゲーム()に課金、ゲーセンで無駄使い、パチンカス…
↑はいわろー
何を無駄遣いとするかは人それぞれですが、とりあえず嫌いなものを挙げてみましたよっと。
豊かになるということを勘違いして変な方向に突き進んだって感じですね。
全然豊かじゃないですよ、この国の人間性は最低ランクだと思います。
最近訳の分からない、マナー(笑)ルール(笑)ってDQNが多すぎだと思いませんか。
ルールを守らない人間を手厚く保護することを懐が深いと言うのは、何か違う。
あー、話が逸れました。
豊かになった先進国の金の使い道、生き方はこんな下らないもので良いのでしょうか?
経済的に余裕があるのなら、他を助けることに使うのが良い事でもなんでもなく当たり前だと思えないものか。
別に身を削って助けなくっても良いんです、ただ、しょーもない価値の低いものに金を出すのは、その金で助けられるものを踏みにじってまで得たいものですか?
金を使うのも時間を使うのも、行動すべてが何かと引換なんですぜ…そういう少しの想像力もない人が多すぎると思いませんか。
でも、そういう人はこれからも増え続けるだろうな。
それに疑問を持つ人はどんどん少なくなっているから。
必死で活動している人はいるし、これからも少ないながら存在するだろうけど、世界は多数派が形を決めるもの。
都合の悪い、面倒なことを考えたくないと望む人は増え続け、こんな面倒な問いはますます減っていくでしょう。
人間なんてこんなものという諦観を抱きつつ、でも生きていくしかないですね。
言いたいことも言えないこんな世の中でー
あー、魂のルフラン聴きたい。
手掛かりはガチで何にもない。ごめんなさい。
何となく最近の国内ミステリあるいはSFではないかなーと思う感じがあるんだけど(文体が訳文調ではなかったような気がするから)そもそもフレーズを具体的に一字一句覚えているわけでないので何とも言えない。
「『悪』は感染症で俺はそれを治療する正義の医者ってワケ☆てへぺろ」みたいなナメた設定のラノベみたいなエンタメだったような気もするし、海外の純文学作品の中で主人公があくまで比喩みたいなつもりで諦観の中で呟いてたような気もする。普段全く読まないので少なくともガチラノベではありえないんですが。
我ながら何という無茶振り。すいません。でも本当に覚えていないのごめんなさい。
「はるかぜちゃんの記事は分からん」と言ったら「キチガイ」「韓国人」と言われた - Togetter
はるかぜちゃん「ぼくに否定的な意見を書いた人を、ぼくを守るという名目でいじめるのはやめて下さい(ω)」 - Togetter
はるかぜちゃん( @harukazechan )の「晒しリプ」という「集団リンチ」・「言論封殺」に批判集中! - Togetter
はるかぜちゃんの言っていることは正しい。あまりにも正しすぎる。炎上処理も一品だし、本人は荒っぽい発言をせずフォロワーを諌めもする。
冷静に問題に対処するし、3歳からブログを書いているというのだから、まぁ手慣れたものなのだろう。
強くて頭が良くて自制心のある良い子。しかも子役タレントなだけあってかわいくもある。素晴らしいもんだ。私なんかとても真似できない。
彼女が彼女に対して批判的な意見をRTすれば、その大きな影響力で信者が殺到し、良くて非難殺到、悪ければ罵倒の嵐で袋叩きだ。
この結果は何度も繰り返してきたことだし、彼女が知らないはずはない。でも、彼女はそれを続ける。確かに引用元を明らかにしながらRTすることや、批判的な意見を紹介することは基本的に正しいし、それは彼女の言う通りである。
問題の発端となった朝日新聞での記事もそうである。彼女の言っていることはあまりに正しい。私は彼女の言葉に反論するすべがない。
さて、ここで正しくない大人の代表としてコラムニストの小田嶋隆をあげたい。
AGFをたった一年で退社し、しかもその理由は会社勤めに合わないという話。さらに辞めるときも親に甘やかされて帰ってきたという次第。
その後もよくわからない仕事を半端にやりながらの若旦那。ライターになってみてそこそこ売れたと思ったらアル中になり生活と仕事が破たん。
twitterでも、妙に攻撃的な発言や小馬鹿にした発言や皮肉を振りまく。
見栄えだって小太りのオッサンだ。美しくもかわいくもかっこよくもないというか、むしろ不細工だ。
でも、私は、そんな小田嶋隆が大好きだ。正しくなくてカッコよくない大人の小田嶋隆が大好きだ。
はるかぜちゃんの正しさは、あまりに正しいがゆえに救いようがない。だから、はるかぜちゃんの正義になじめない、反対する人間はその中で生きていけない。
だから、はるかぜちゃんの正義に反する人間に、はるかぜちゃんのフォロワーはいくらでも残酷になれる。なぜなら、正義に反するからだ。
小田嶋隆には正義がない。あるのは皮肉や諦観や小言だ。だから私は小田嶋隆が気に食わないことを言えば実名で批判もできるし、何も恐れることはない。
でも、はるかぜちゃんを批判するなら、増田か2chを私は選ぶ。なぜならば、彼女の正義が恐ろしいからだ。
私も小田嶋隆と同じ、正しくなくてカッコよくない大人だ。でも正しくなくてカッコよくない大人は良くわかっている。
その正義が危ないこと。
世の中は正しくないし、正しいことが必ず通るわけでもないこと。
でも、世の中は悪意と嘘ばかりで出来ているわけではないこと。
主にネットで発表されるものであり、基本的には普通の小説の体をしているのだが、特徴として「主人公の名称が変換できる」というものがある。
正確に言えばできないものもあるのだが、まあそこは置いておく。
そしてもう一つの特徴として、圧倒的に二次創作物が多く、ほとんとの場合はキャラクター(もしくは芸能人)と主人公の恋愛が描かれているということも挙げられる。
分かりやすく言えば、「オリジナルキャラクターと既存のキャラクターとの恋愛」、著しくは「自分とキャラクターとの恋愛」を楽しむ小説形態というわけだ。
タイトルは若干誤解を与えそうな表現をしてしまった。私は夢小説の中でも後者、「自分とキャラクターとの恋愛」が受け入れられないだけである。
私がこの問題にあたったのは、自分が今一番楽しんでいるジャンルで夢小説文化が盛んで、同ジャンルを好んでいるTwitterのフォロワーが夢小説、または夢的な話題を持ち出すことがわりかし多く、それを見るたびに微妙な心地になる自身がいることを感じていたからである。
自己投影をあまりしなくてもよい、オリジナル性の強い主人公と作品のキャラの恋愛模様を見るのは結構楽しい。主人公はたいてい、作中にはいないようなタイプのキャラなので、それを作品世界に放り込むことにより、相手のキャラやその世界を普段とは別な側面で見ることができるからだ。
ところが主人公≒読者自身だと私の場合そうはいかない。これについて少しばかり理由を考察してみた。
まず私の好きなキャラクターの傾向にも問題があると思われる。
これについては完全に個人的な嗜好で申し訳ないが、私は所謂精神を病んだキャラが好きだ。
要するに、作中で既に好意を向けている相手がいるキャラクターが好きなわけである。
カプ厨的思想かもしれないが、好きな相手とだけ付き合っていてほしいのだ。
つまり、キャラに対する感情が「萌え」というより「ブヒ」に近いのだ。
これは一般人には理解し難い思想かもしれないが、「萌え」は純粋に「かわいい」「かっこいい」「ときめく」「どきどきする」など、疑似恋愛的な要素が強い。世間一般にも「かわいい」というような意味で広まっているような語だ。「ときめく」からか、対人間相手ではない「工場萌え」という単語もあるくらいだ。
「萌え」が恋愛に近いのに対し、「ブヒ」は対象のキャラクターが壮絶に自身の持っている魅力を示したとき(「あざとい」「狙った」行動をしたとき)視聴者、読者は完全に製作者に「狙われて」いるのを自覚しつつもその魅力に圧倒され、愛情を抑えきれなくなったときに「ブヒる」のだ。
即ち、「ブヒ」にはいい意味でも悪い意味でもキャラクターに不自然さ、あざとさが生じる。(それが魅力でもあるのだが)
向こう側から「狙ってきて」くると、自然こちらからキャラクターへ向ける愛情もやましいものになってくる。
性欲を伴ってきてしまうのだ。
夢小説を楽しんでいる人々(夢見乙女というらしい)はおそらく、対象に「萌え」ているのだろう。
私は対象に「ブヒ」っているため、自分そのものがキャラクターと恋愛関係に及ぶのに抵抗があるのだ。
なんせ、キャラクターを恋人ではなく、オナペットとして見ているのに近いのだから、恋愛対象として見れるわけもないのだ。
最後は単純に、自身が作品世界に行けたとしても、キャラクターと恋愛関係が築けるような人物にはなれないという諦観からだ。
自身に魅力がないことを自分でわかっていると、妄想でもそういうことを考えることができないのだ。
夢見乙女達はきっと、純粋にキャラクターのことを愛し、自分もキャラクターに愛されたいと思っているのだろう。
散々否定的なことを述べてしまったが、彼女ら(彼ら)を見ているぶんにはほのぼのするので、これからも夢を見続けてくれればと思う。
つらいなんて言葉を使ってしまうと一層失礼にあたるのだろうけれど、便宜上つらいと表しておくことにする
もうね、本当に優しくて思いやりがあって素敵な人達ばかりなんだ
母も父も姉も兄も、それから関わりのある沢山の人達が、私みたいな人間に、示唆的な言葉をそっと手渡してくれる
あるいは、行動の大切さを示してくれたり、意思の持ちようを説いてくれたり
私が社会的で健全な生活な生活に復帰できるよう、色々と考えて、策を用い、諭して、励まして、激励してくれる
善意が眩しくて、彼らの生き様が素敵すぎて、くらくらしてしまうほどなんだよね
だからさ、そんな人達に対する私の挙動ないし思想や反応がさ、申し訳ない気がしてならない
応えられないことがつらいわけでも、優しさが重たすぎるわけでもなくて、ただただ私はそんな器じゃないのだと
正しい礼節も、一般的な常識も持ち合わせていない、そもそもにおいて私など何事において考えることを放棄した阿呆でしかないのだと
それ故、あなた方の善意に触れた後にそれが善意であると理解した途端、潰れそうになるのだと
理解して欲しいわけではないのだけれど、そっとしておいてほしいなどと我侭もいえないのだけれど
しんと寂しいなるくらいに、そう多分、つらくなってしまう
よくわからないのだけれど、とにかく自己嫌悪に陥ってしまうのだと、吐き出したいわけで
向けられるに値しない善意を浴びることも、その善意に応えようと思わないことも、応えられないことも、
そう考えてしまうことも何もかもが八方塞がりで、すり鉢状の自己嫌悪の底から這い上がることもできず、
蟻地獄のようにぽろぽろと底へと沈んでいくしかないような、そうあることを悲劇的に見做している私への軽蔑と、
そうあること以外に何事も為そうとしない私への諦観と、まま色々と立て込んでいまして、
先程から身体が左側に傾き捩れたまま元に戻そうという気も起きず、ひたすらに懺悔とも、ナルシズムとも、
自傷ともつかない吐露を延々と吐き出しているわけなのでございます
あぁ、頭がいたい
そして何よりもきもちがわるい