はてなキーワード: パチンカスとは
・勝手に全奢りしてくれる
・一回もやらないでおく。その上で離れていかない
・彼の意見を否定しない・間違いがあっても指摘しないで見て見ぬふりをする
・連絡は1日1通しかしないでおく
・めんどくさい女にならない
・結婚する気がなさそうならすぐ別れる
これ、古のインターネットで有名だった「ユキコ道」なんだが(うろ覚えだから自分流になってるが)、全部やるの意外とすげー難しい。
・尽くさない
→尽くすと無意識に見返りを求めてしまい、不満が溜まりメンヘラ化するのを防ぐ役割がある
・めんどくさい女にならない
→めんどくさい女は彼の中で降格させられて雑に扱われる。雑に扱われる女はメンヘラ化するので、結果的に自分のメンヘラ化を防ぐ役割がある
・結婚する気がなさそうならすぐ別れる
→「この女を逃したら二度といい女が来ない!他の男に渡したくない!」と思われたら態度にも出るので、結婚に対して消極的な時点で縁がない。※事情があったり自信がないパターンもある
わたしはこれに完璧に該当して尽くしてくれる男性が数人いたが、全員難あり(パチンカスとか、境界知能とか)だったので「わたしの恋愛市場価値ってこんなもんか…」と感じた。
(言っとくとオープンレターはうさんくせーと思ったから署名してないんでオープンレター勢の責任を擦り付けないでね。「オープンレターで◯◯って言ってたろ!」とか言われても困るからね)
こういう事案に関しては,2つの矛盾する立ち位置があるように思う。
こんなん,別に大学関係者じゃなくたってちょっと考えれば矛盾してるってわかるんだけど,草津の件が起きるまでみんな本気で冤罪の可能性を考えてこなかったんだね……とビビってる。
阿部幸大さんの「クロだった場合でも現時点でのリンチが遡及的に正当化されるわけではない」という発言は,文脈抜きでそこだけ読めばめちゃくちゃ正論なんだけど,そうすると「告発をみんなで支援しよう」みたいな運動は基本的に慎むべきという話になるし,私はそれでいいと思ってたし思ってるんでまあ別にいいんだけど,皆さんはそういう立ち位置でいいんでしたっけ? って言いたくなる人が一定数いるんだよな。
で,まあ,積極的義務と消極的義務とを照らし合わせて考えたときに,「告発を見捨てる」は積極的義務の不履行(他人を助けない)に過ぎないけど,「無実の者をネットリンチする」は消極的義務に背いている(他人を害する)わけだから,まあ個人としては現行犯とか自分も見たことありますとか告発者が教え子なので立場上味方をしてあげないととかそういう場合じゃない限りは見捨てる側に全振りしといたほうがいいんじゃないのと思ってます。他人を助けないことより無実の他人を害する方が悪いでしょJK。
でも皆さんってこれまでそういうご主張でしたっけ? それはそう。さすがにオープンレターに署名とか草津町長をバッシングとかしてきた人たちに関しては,今回の小山(狂)の告発に乗っからないのは首尾一貫性が取れてなさすぎるから「恥を知れ」という感じ(もちろん,「草津の件で反省したので今後はああいう告発に乗っからないようにします」と反省している場合は,草津の件で反省した結果として今回の告発に乗っかっていないということなので,まったく問題ない。無法なネットリンチの過去を反省できてえらい!)。
逆に,草津の件で事実確定前のバッシングに反対してた人たちは,今回の告発も事実が明らかになるまで静観すべきだと思う。これだけバッシングしておいて,実は神山翼さんは無実でした,みたいな話になったらどうすんの? 草津と同じパターンよ。そういうネットリンチは良くないっていうのが草津の教訓じゃなかったの?
(草津は胡散臭い告発だったが,今回の告発には迫真性があって真実っぽそうだから支持,というのは危ういと思うよ。町長をレイプ犯呼ばわりしたメディアは草津の嘘つき町議の主張にリアリティを感じて報道したわけだし,自己判断で真実だろう運転をするのは良くない。インターネッツ教習所で免許取り直そう。沈黙は金だよ)
被告発者のリアル友人が,「あいつはそんなやつじゃない!」って弁護すること自体はいいんじゃないかなーって思うけど,どうだろう。仲の良い友達が悪いことしたって訴えられてたら,「あいつはいいやつなんだ」」って言いたくなるのは人情じゃない? もちろん,告発者を嘘つき呼ばわりしたらそれは積極的な加害になっちゃうけど,「私は彼/彼女の無実を信じる」と発信すること自体は,直接的な加害にはなってないわけだから別にいいのでは。
え? フェミニストの皆様はそういう弁護をセカンドレイプと呼んで非難してきた? ああ,そういう過去の発言があると大変っすよねえ。
そういった過去の発言との齟齬が,多くの人の憤激を買っている面があるというのを,いい加減一部のアカデミアの人は認識すべきだと思うんだよな。一部のアカデミアっていうか,フェミニズム研究者だよ。「女性は悪事を告発する側」っていう前提で色んなものごとへの対応基準を設定していってまわった結果,悪女の存在とか嘘つき女性の出現とかで自縄自縛になって苦しんでるようにしか見えない。
(とある有名人の性犯罪疑惑について「もちろん彼が無実の可能性もあるので,現段階では軽々しいことは言えないが」というエクスキューズをつけただけでセカンドレイプだというご指摘をいただいたこともあるぞ。ちょっとでも冤罪について考えたことがあればこんなアホな発言はできんだろ。どうも女性論客は弁護士とかを除くと冤罪への危機感が薄い傾向にあるように思う。大崎事件とか東住吉事件とか湖東病院事件とか徳島ラジオ商殺し事件とか,女性が人殺しの濡れ衣を着せられた事件だっていくつもあるんだが……)
とにかく,「女性の感情」を判断基準や行動基準にするのをやめろ。公平性とかそういうのをもっと大事にしろ。女だろうが男だろうが当てはまる原理原則を設定しろ。簡単なことなんだから。
これはマジ。「twitterはインテリのパチンコ」って10年以上前から言われてるから。
SNSで身を持ち崩すアカデミシャンはマジでパチンカスと何も変わらん。SNSとの適度な距離は才能が要るやつなので,才能がないやつはSNSやめたほうがいい(SNSの才能がないことは何も悪いことじゃないから恥じなくていい。むしろパチ中になって評判落としたり論文落としたりすることを恐れるべき)。
それだとまるでパチンカスには返済の見込みがあるみたいじゃないですか
もうさ、これまでに散々子どものいない人や独身者を笑い者にしすぎたんじゃないかと思うんだよね。
そのバックラッシュとしての「子持ち様」なんじゃないのかなって。
今「子持ち様」と呼ばれる人と、これまでに独身者や子なしをバカにしてきた人が被ってるとは思わないけど今でも子なしを気遣うふりして揶揄するのいくらでもいるでしょ。
「ま〜子どもいないと分かんないですよね〜あ!子ども持たないのも選択肢の一つだと思いますよ?(笑)(笑)理解ありますからそういうの!(笑)」
「選択肢だと理解してます」を枕詞にしたらあとは嘲笑しても何してもOKみたいなの。
「最近はそういうこと言っちゃだめだしね(笑)」とか言ってさ。
なにかにつけて子どもをネタに利用して会話しないと気がすまない感覚に陥らせてるの原因が何かわからないけど。
産まなかったことにはできないから自分の選択肢は間違ってなかったということにしないといけないんだろうけど、それは同じ状況の人と共有すればよいのにあたり構わず誇示する人は未だに多い。
子なしや独身で親や親族から嘲笑されたり結婚や出産を急かされることを殊更に言って回る人とか、何かにつけて介護大変系の話をする人は少ないけど、すぐに「うちの子は〜」とか言う人は多いしそれを受け入れないといけない空気も重い。
これまで散々独身や子なしを嘲笑する空気作ってきたけどもうネットじゃ怖いものなしでそういうのに抗う人が可視化されてきたし一気にそういう態度とってきた子持ちに対してバックラッシュ起きてるのかなって思った。
弱者男性論とかもそうだけどさ、まずは独身者とか子なしとかは狂う前提、嘲笑されて当然っていうのまじで変えてかないとダメだと思うわ。
パチンカスにそんなことまで考えられる脳ミソが備わってるとは思えないけどな
他業種に転職することのデメリットがでかすぎる年齢になって今更ながらに「あーこの人生を続けるのはしんどいなー」となってきました。
つまる所は社会に対して貢献できていると信じようとした気持ちが折れたんですわ。
別に社会にとって害になってるとまでは思いたくはないんですが……どうなんだろうね必要だと思わせてその実ムダなことに時間と金を使わせているだけの寄生虫なのかも。
これがヤクザやパチンカスや軍隊みたいな分かりやすい「自称『必要悪』(笑)」だったらいっそ全部割り切れたのかも。
でもなんかこう、自分の仕事はそういう枠じゃなくて社会の役に立ってるんだよーと信じようと努力したこの20年ぐらいの時間がね、結果としていざ自己茹で蛙化に失敗した際に受ける火傷の酷さに繋がったわけですよ。
いやー本当ね、結局仕事で一番大事なのって「俺は社会の役に立ってる」もしくは「俺は社会の役に立ってないけどうまい汁は吸えてる」って信じられるかだと思うんですよね。
社会の役にもたってない癖に押し売りをしている人間が当然のように味わうべき辛酸を舐めて暮らしているっていうのは、人生の物語の形としてとてもメンタルによろしくない。
悪なら悪で幸福になりたかったし、不幸であるならせめて善でありたったか。
こんな仕事をあと20年というのはキツい。
創作活動でもしろって言うんだろうけど、今の俺には創作活動が社会の役に立っていると信じることさえ出来ない。
だってさ、別に誰かが上手な絵を描いたからってそれで社会が本当によくなるか?
誰かがアフリカの飢えた子供に手を差し伸べようって思うために、プリキュアみたいなアニメを見て情操教育する必要があるんだとか言った所でさ、そもそも本当にアフリカに貢献してるのは、他人に手を差し伸べるだけの余力を社会に生み出している人達じゃん?
1人の一次産業者と1人の二次産業者がハーバー・ボッシュ法の魔法をつかってたった2人で100人を食わせることによって、誰かの手元に余ったパンが生み出されるわけじゃない?
貧乏を乗り越えて絵を描いて暮らしてるんだぞ俺は凄いんだぞなんて漫画家がエバった所でさ、そもそもお前が食べているパンを生み出すことにお前は貢献しているってどうして思えるんだよって話じゃない?
たとえば100人にパンを配るために頑張る配送業者、パンを実際に売っている小売業、そういった人達でもなんでもない人間が、社会に貢献してるってどうやって信じられるんだよ?
そうしたらさ、それがいろんな形に、それこそどこかの絵描きが絵だけ描いて暮らせるような社会的な余剰へと繋がっていくし、どこかの国で貧しさを理由に武器を取っていた少年兵が開放されて学校に通えるようになるって、そういう風に好きなように都合よく、自分がこの社会に貢献していることで世界が上手く回っていると信じながら生きられたと思うんだよ。
俺が本当に望んでいた形で俺の人生を使うことが出来なかった。
なんで俺はもっと分かりやすく、自分の望む形で自分の力を使っていると信じられる仕事につかなかったんだろう。
愚かな連中を俺が上手く導いてやることで、社会が効率的に回って余剰が産まれるのだ……なんて妄想を信じて学部を選んで、そんなくだらん全能感を捨てられないままに仕事を選んだんだ。
そしてなんでこの年になって今更後悔している……。