はてなキーワード: 救急車とは
よくあるいい話ネタに、急病の老人を助けてたら就職面接に間に合わなくなって、慌てて駆け込んだら面接会場にその老人がいて社長だったという形の話がある。
これがそのままだったら、「その話聞いたわ」で終わるが、似たような話を作ったら、どこまでが同じような話と認識されるものだろうか。
ようはちょっとした親切のつもりが、とんだ骨折り損になって、だけど意外な展開で親切が自分に帰ってきて救われればいいわけだ。
気になったのでちょっとやってみる。
就職面接に行く途中、妊婦さんが産気づいていて、救急車を呼んだりしているうちに遅刻してしまった。面接会場に駆け込んだら室内も騒がしくて、面接官の奥さんがその妊婦だった。内定出た。
初めてできた彼女と初デートに行く途中、道に迷っているおばあさんが居てちょっと道を教えるつもりが結局家まで案内することになってデートに遅れた。彼女から怒って家に帰ったってメールが来たが、なぜかおばあさんの家の前で彼女とはち合わせ。そのおばあさんは彼女の祖母だった。家族公認の付き合いになった。
駅の階段を登っていたら目の前のおっさんがコケた。とっさに受け止めたけど俺も階段から落ちて、下敷きになって手首を折った。救急車で運ばれて病院ついたら、さっきのおっさんが担当医として出てきた。退院するまでいろいろと良くしてもらった。
高校のころ、クズな友達がいて、よく俺に千円、二千円と金を借りに来た。一度も返しはしないけど、しつこくせびるから貸してやっていた。合計で結局、十万くらいになったんじゃないかな。そいつは高校を出た後プーになり、音信も途絶えた。それから十年、もうとっくに忘れていたのに突然そいつから連絡が。なんでも今ではサラ金業者をやっているらしく、それなりに儲けたし、金の管理の大切さを学んだらしい。で、高校のころに俺から借りた十万を30%複利で借りたものとして、140万にして返してくれた。
高校生ぐらいの女の子が人気のない公園で男数人に襲われそうになってたから、助けに入った。そしたらボッコボコにやられて、気がついたら病院のベットの上だった。警察から事情を聞くと、俺がのされて騒ぎになっている間にたまたま通行人が通りかかって通報してくれたらしい。数週間入院してたが、その子もお見舞いに来てくれてちょっと仲良くなった。退院の時はその子の同級生まで呼んで、パーティなんて開いてくれて感動した。でもそれだけじゃなくて帰り際に二人っきりでホテルに連れ込まれた。あの時に初めてを奪われるところだったのだから、それに報いるにはこれしかないとかなんとか。俺も彼女いたけど、うっかり抱いてしまった。それが5年前のことで、昨日その子の結婚式に出てきた。俺も付き合ってた彼女と結婚していたが、なんとも言えない気分になったよ。
さて、どこまでが同じような話だろうか。
個人的には4番目くらいからは別の話かなと思う。
入院した当日は、「全ての臓器に障害が出ていて普通歩けないはずだ」と言われるくらい重症だった
クレアチニンはどのくらいだったかはっきり教えられてないんだけど、14~5はいってのではと思う
本当は別の大きい病院に救急車で行くはずだったんだけど、その大きい病院に受け入れを断られて地元の病院に入院した
腎不全には、急性腎不全と慢性腎不全があり、急性の場合数回の透析で腎機能が回復する可能性があるらしく
首からの透析をしばらく続けたけど回復の見込みはなく、シャント手術をすることになった
そこで親が何とか手術しなくて済ませられないかと名医のいる病院を探し都内の病院に転院することになった
が、逆に名医だけに判断が早く、転院して即効でシャント手術をすることになった
シャントは、手術してから使えるようになるまで1週間ほどかかるのだが、この間、透析を休むことになった。
もちろん、少しでも様態が悪くなるようなことがあれば、首とかから透析するという話ではあったのだが
透析を休んでいる間に、ほんの少しだがクレアチニンの数値が下がった
12.3が、12.2になったとかそんな程度だったが、透析しないと普通悪くなるところが良くなったということで
そのまま透析しないで様子を見ることになり、半年後には、クレアチニンは6に
さらに1年かけて3まで下がった
そこから1年くらいは、クレアチニンは3代の横ばいだったが、3年目くらいからは、3を下回り2.5~2.6当たりの横ばいとなり
それから1~2年はこの状態が続いた。医者も「ここが底値なんだろう」というようなことを言っていた
が、去年の夏くらいから、少しずつだけどクレアチニンが上がり始め、この間の検査では久々に3を超えた
まあ、退院してから6年近く、食生活などいろいろ甘くなってきている部分もあるのでそのせいだろうと思っているが
入院している時ならともかく、なかなか日常生活を送っていると食事を管理するというのは難しいものでどうしたものかと思っている
自分でも何が書きたいのか分からなくなってきたので、この辺で終わらせようと思うが
食事、運動、睡眠をしっかり管理し、疲労をためない風邪やインフルには気をつけるという
あたりまえのことを頑張って行きたいと思う
納品は弁当だけなら一日三回だな。チルドや菓子、タバコ、本、新聞を入れたら合計何回になるかは知らん。昼間は入ってなかったからな。
品出しに決まった時間はない。入れるだけいれて、あとは少なくなっていたら足していくだけだ。陳列棚がスカスカじゃなけりゃいい。
発注は俺の居た時間帯では1回しかしてないが、追加発注なんかを考えると店長が合計何回やってたかは知らん。
清掃は昼間はポリッシャー無理なので深夜一回だろう。業者頼んでる所は月1、2回できっちりやってもらってる。
掃き掃除等の軽い清掃なら、時間が空いてる時に軽くやってたが、それも決まった時間はない。
時間帯で区切ってちゃ回らないよ。客が少ない時に全部やるだけだ。つーか回数とかもう昔すぎてそんな覚えてない
そもそもこんなん聞いても経験してるかわかんねーだろwwwググれば全部出てくるわwww
実際にやってないと分からないのはどういう細かい業務があるかだ。
本の処理(検品、返本処理)、お菓子やジュース、雑貨、本等の陳列棚作り・配置替え・前出し。
期間限定のポップの貼り付け、期限切れポップの除去、トイレ・駐車場の清掃、灰皿・ゴミ箱の回収、
宅配・郵便の処理、マルチコピー機の使い方を全部覚えて説明出来るようにする、レジのシステムが変わればすぐ覚える。
カードの発行、予約商品の受付、売れ行きを予測してホットスナックや肉まん・おでんの調理、深夜に調理器・住器の清掃を毎日行う。
スタンプラリー等があれば子供の相手もするし、あまり売れない商品棚には埃がかぶりやすいから羽で飛ばして清潔さを保つ。
夏場であればガラスに虫が大量について、クソを塗りつけていくからそれを深夜のうちに剥ぎ取る。冬場であれば雪の凍結等を考えての雪かきを行う。
発注する時には、売れ行きや天気、店の特性を考えて発注するし、よく来るお客さんには決まって買っていくものを用意しておいてやるとか(タバコとか)
キャバ嬢が泣きながら保護求めてきたら警察呼ぶとか、急性アル中の患者が来たら救急車呼ぶとか、色々あるだろ。
こういう事プラス普通の接客がコンビニ店員に求められてるだけだ。量も少ないしどれも単純だろ。
これで満足ですかね^^?
家を脱出して2年。婚約者を連れて両親に会いに行った。その場では両親とも喜んでくれて和やかに終了。
慌てて電話しまくったら、母親が熱湯をかぶって救急車で運ばれたらしい。
ねえ、それ、絶対わざとやったでしょ?って言いたかった。
よりによってこんな日に。「皮がべローンてむけちゃってパパも酔いがさめちゃって☆(キャピッ」じゃねーよ。
お祝い気分に水を差すためにわざとやったんだろ?
おっちょこちょいでほっとけない自分を演出して、みんなに注目してもらいたくてやったんだろ?
何度目だよ、そういうの。私に注目が集まって、自分が脇役になるのが一瞬だって許せないんだ。
ボーダーめ。
もういやなんだよ、そういうので操作されるの。
ろくでなしの娘って呼べばいい。私はもうあなたに対して罪悪感なんか抱かないから。
大怪我(っぽいこと)してみんなにまた注目してもらって満足した?
♯今日は4回目の命日。虚無感は未だになくなりません。
平成23年5月22日、午前8時30分(推定死亡時刻)、あの子は逝った。
2人と猫2匹で同棲していた分譲物件でタオルをドアノブにかけた非定型の首吊りによる縊死だった。
前日に喧嘩をした。予感はあった。
しかし、その前にサイズを測っておらず、違ったベッドマットを持ってきてしまい、
どうしよ~と彼女に報告した事。
要領が悪いと指摘され、いじける僕にあの子はキレた。
最後まで最低な人だったね。飼ってる猫2匹連れて1晩でいいからこの家出て行って。さよなら」
僕の中で、ベッドマットを交換してあげる事が好意で、
その好意は結果が伴っていないため、また押し付けがましいものを提案してきたのに、結果が失敗していた。
と、いうやり取りが面倒で面倒で仕方がないみたい。
僕は誠意のない謝罪を繰り返すばかりで、あの子の心を動かす事はできなかった。
僕は一泊分の簡単な荷物をまとめ、翌日に戻ってくるつもりで家を出た。
だけど、出掛けの「さよなら」がとても気がかって、
車をなかなか発車させることができなかった。
その後、実家に戻り、1晩を明け、朝一で彼女と住んでいる家に向かった。
家や携帯はかけてもやはりでない。
家の覗き穴から見るも、部屋の様子は伺えない。
よかった生きている。
僕は安心してその日予定されていた自治会の行事、マンション前の草むしりに参加した。
▼あの子が逝ってしまい、中身が入っていない器を見つけた時の話。
11時頃に草むしりを終え、帰宅し、彼女に精一杯謝って誠意を伝えよう。
意気揚々と家のドアを開けた。
距離は遠いが、明らかにあの子が不自然な体制でドアに寄りかかっているのが見えた。
見た瞬間にすべてを悟った。
2年経った今でもずっと脳裏どころか、記憶のとっても浅い所に焼き付いている。
ショックだった。これほど衝撃的な場面に僕は出くわしたことはない。
首吊りの縊死といっても、キャベツ太郎の景品で送られてきた景品ハンドタオルをロープのように使って首に巻きつけ、ドアノブでしばっているだけ。
ちょっと暴れたらすぐ取れるじゃん。こんなの。
でも、足掻いた形跡はない。彼女の中身が入っていない器は、口は半開きで眼の部分は半開きで、眼球はすでに乾いていた。
飼っている猫2匹があの子に寄り添って寝ている。
それまでは日常的な光景だったのに、この瞬間だけはあまりにも非日常的な光景すぎた。
そばには流れっぱなしのiPod。今も曲が流れている。
また、そばの椅子の上にはdocomoからの請求書に殴り書きしたような番号が書かれていた。
それはあの子が持っていたメインバンクの口座番号と暗証番号だった。
ここからは気が動転していたので、思い出せることを書くが、
「呼吸はありますか」
「脈ははかれますか」
「心臓マッサージを隊員が駆けつけるまで続けてください。」
あの子があの子であったなら、何も考えずに言われたことをやっていただろう。
でも、もうあの子は逝ってしまい、ここにいるのはあの子の器なだけなんだ。
足には縊死でなくなった方の特徴の斑ができていて、手もギュッとこぶしを握っていて開かない。
死後硬直まで起きている。
生きている人間ならば、押すと跳ね返りがあり、多少の息の返りがわかるはず。
彼女は穴のあいた風船のように押せばしぼむ、押せばしぼむの繰り返しだった。
まったく入っていく気配はない。
と、いうか口の中が乾きすぎている。
もう、誰がどう見てもあの子は器だけ残して中身がどこかへ飛んでいってしまったんだ。
救急隊員が到着し、人工呼吸を代わってもらい、その光景を見つめながら僕は天を仰いだ。
まだその辺にいるのか?いるのなら最後に話したい。
そんな馬鹿げた事を考えていた。
救急隊員があの子をストレッチャーに乗せ、マンションを出る時も心臓マッサージをした。
野次馬(失礼な言い方かもしれません)が集まっていました。
あの子に白い布が体にかぶせられていたのですが、顔はそのまま出ていた状態でした。
僕はあの子はもう、死んでしまっていて、そんな死に顔を野次馬に見せたくない、との一心で
白い布を顔までずらしました。
しかし、救急隊員は「まだあきらめちゃだめです!」とか感情論で
白い布を体にずらし、再び彼女の顔はあらわになった。
中には小さい子供や、親しくしていただいた近所の住人がいたので、
彼らはあの子を助けるつもりでいてくれた事には感謝しています。
しかし、どう見てもあの子はもう、あの子が入っていた器だったんです。
もう2年以上経って、もうすぐ3年目を迎えるのか。
そんな気は全然しないな。
命日が怖い。3周忌の予定も立てれる自信がない。
あの日以来、いっぱい泣いたけれど、四十九日を境に泣くのをやめた。
でも、本気で笑う日は少ない。
すべてあの子がいたら、の仮定でしか話を考えられなくなってしまっている。
だけど、こんな悲嘆すること言いながら、
都合いいよね。
嫁さんには大方の話はしたけれど、こんな詳細までは話していません。
でも、気落ちした私を心底支えてくれました。
大切な人が命を断つ。
あまりにも彼女の入った器を見つけたときのショックが大きすぎて、
いろいろな自死遺族の会に参加させてもらったけれども、
皆さんこもごもにケースが違う。
似たようなケースの人なんているようでいないと思っている。
また、社会に出ると毎日のように人身事故、自殺のニュースが目に入ってきます。
その遺族の方達に自分と同じような感情を持っている人はいるのだろうか。
自分の価値観が大きく崩れて、自分も首吊りで死ぬことが一番最良の方法なんではないかと
感じてきてしまっている。
後を追いたいわけじゃない。疲れたんだ。
あの子に会いたいけど、もう二度とあの子に会えないのはわかっている。
でも、少しでも、あの子が逝くその時にどんな感情だったかを知りたい。
少しでも死にたくないという気持ち、があったのか。
きっとなかったんだろうなとは思う。
hideさんが亡くなった方法もあの子と似たようなものでしたが、
それを真似したわけではなさそうです。
とりわけYOSHIKIさんが好きだったから、あの子に一度会わせてあげたかったな。
実行の際にはオムツも履いていましたし。
それほどまでに死に執着していたのか。
話代わって、死後の世界なんて、本当にないと思っている。
昔は怖い話系のシリーズを読むと、怖くて一人でトイレも行けない僕だったけれど、
あの子が逝ってから、その類への恐怖というか、関心が一切消えた。
人の死というのは、電気のスイッチと同じで、OFFになると消える。
今にも起きてきそうなほど、綺麗だったけれど、
何より、火葬場での変わり果てた姿を見たとき、あの子はもう、あの子の器すらも失ったんだと確信した。
あの子に会えるならどんな形であれ、出てきてほしいけれど、
僕の夢にも一度も出てこない。
そんなあの子が例えば幽霊とかで出てくる要素がなくなってしまった。
事情を知らない火葬場の人から「とてもお強い綺麗なお骨です。どこかを病んでいたようには思えません」と、
あの子の器だったものの骨壷を持ったときの違和感が今でも手に残っている。
しかし、そんな僕だからこそ、葬儀に至るまでの間、本当に僕の周りに迷惑をかけた。
僕の両親・友達・近所の親しい方々が心配し、泊り込みで支えてくれた。
葬儀屋の方々も感謝してもしつくせないくらい、落ち込んでいる僕を支えてくれた。
あの時の恩を返そうと、今では笑顔を作って「僕は大丈夫。幸せに過ごしている」を見せている。
葬儀の際はその遠い親戚から相続はどうするんだと搔き立てられました。
これまで大変お世話になりました。
と、言われました。
正直、あまりに辛い出来事から逃れたいが為に、すべてその遠い親戚に渡したかったのですが、
遺言書の通りにするのが一番だ、という周りの方の勧めであの子のすべてを僕が相続しました。
そのすべて、には今僕が住んでいる分譲マンション並びに預金口座も含まれています。
また、その中にはあの子が僕と出会う前にあった出来事のすべてを遺しています。
これまで育った経緯の写真。
その中でも一番心に響くのが、幼少の頃のあの子の親に大切そうに抱きかかえられている写真、
何も捨てられません。
また、この遺産を見るにあたり、ますます自分があの子を殺してしまったんだ、という気持ちが強くなりました。
今の妻に、もしこの遺産を見つかったならどう説明すればいいかもわかりません。
再度似たようなことを書きますが、世の中、毎日のように自殺のニュースを目にします。
見る分にはいいんです。社会は広いし、いろいろな人がいますから。
身の回りの日常会話の中でも「○○さんが自殺したの知ってる?」なんて話題を振られたりする。
でも、今はこんな会話を自分に振られると、一気にあの子の事がフラッシュバックして、
いてもたってもいられなくなる。
でも、社会とはそういうものなのかもしれないけれど、死こういった会話をする事がとても辛い。
けれど、その社会から逃れた生活をすることなんか出来ないし、仕方ない事なのかな。
ドアを開けて一目でわかったあの子の変わり果てた姿。
その直前までは生活音を聞いていて、生きていたであろうあの子の物音。
皆、こういう感じなのかな。
だとしたら、少しホッとする。
(追記 1/18)
多くの方に読んでいただいたようで、ありがとうございます。
あの子の事を書くにあたり、自己陶酔は確かにしているかもしれません。
僕がきっかけではなく、あの子はいずれ死を決めていただろう、とも心のどこかで思ってはいます。
でも、思うところは僕が殺してしまったに変わりありません。
しかし、時は最良の薬なのですね。
この文はあの子が逝った翌月あたりにEvernoteに書き殴っていたものに
そんな事ばかりしか書いていませんでした。
それは自分の希望であって、多くのコメントでいただいているように、
結婚し、子供を授かり、育てている以上、妻と子に人生を捧げるつもりで生きます。
上記では死んでしまいたい旨、書いてしまいましたが訂正します。
僕が一番わかっていたはずの事を忘れていました。
あの子の納骨が終わった日の夜、
15年前に付き合っていた人から10年ぶりくらいで連絡があり、それが今の妻になります。
地震発生後しばらく電話をかけていたのですが、繋がらず、心配していました。
妻曰く、当時はバタバタとしていて自分の着信に気づいたのですが、後でかけよう、と
思ったタイミングが約4ヵ月後、あの子の納骨の日だったらしいのです。
また、あの子とは話し合いの下、結婚も考えていて子作りもしておりました。
期間にすると約3年くらい。
あの子とは付き合いが長かった為、次のステップへの良いきっかけになると思っていました。
しかし、あまりにできなかった事から、あの子は産婦人科で不妊の検査、
自分の精子が極端に少なく、子供は望めないかもしれない。と、いう話をされていた。
とりあえず、僕は僕を捨て、あの子になったつもりで精一杯、死ぬまでこの世を生きてみせます。
ありがとうございました。
この国でも日々たくさんの人が死んでいる。老衰や病院で死ぬなどというばかりではなく、事故死や災害死や自死もたくさんある。そして、日々死んでいるにもかかわらず、暮らしていても、せいぜい、葬儀場や霊柩車や救急車を見かけるくらいのもので、おそらく多くの人は、死体や、ましてや、死体の山なんて、予期せず見たことはないのだろう。
ちなみに、私とて死体の山は見たことがないが、公園で首つり遺体を見かけたことはある。それと、ついでに言えば、親は殺されたし。
いまでも世界中では餓死も凍死も殺人も日常茶飯事だ。ところがこの国では、死というのはおよそ隠蔽されているし、なかなか見かけない(ようにされている)。もともとは、死を見かけることは日常茶飯事だったからこそ、死を隠蔽しようとしてきたのだろうに。
世界中では、自分や家族が死にかねない状況になったからこそ他人を殺す者がたくさんいる。刺すか刺されるかという状況で、刺す方にまわるのだ。
それに比べれば、この国はいささか滑稽で、また、異様だと思える。他人を誹謗中傷したり、いじめたりする者がたくさんいる。そしてときに、それが原因で被害者が自死したりもする。
死というものと本気で向き合っていたならば、こうも安易に他人を誹謗中傷したりすることができるのだろうか。
さらに言えば、インターネット上であれなんであれ、「ヴァーチャル」ではなく、社会の一部だ。その表社会の一部で、見ず知らずの他人に対して誹謗中傷を浴びせかける者がいるが、はたしてどういうことなのだろうか。
きっとおそらく、加害者の方も精神的に困窮しているのでしょう。たとえ肉体や食欲などが満たされていたとしても。
最近はやたらと「保守」だの「愛国心」だのと言う人がいて、そういう社会風潮にもされている。けれども、この国では毎年何万もの人が自死している。「死にたければ死ねばいい」と言う者がいるが、多くの場合は、その人が生きられない状況にしたのは社会の方だ。つまり、みなが、生きづらい社会にしているから、追い詰められた者から順に死んでいく。崖からこぼれおちるように。いわば殺人だ。このような実情で、なにが愛国なのか、道徳なのか、そんなことをなんで言えるのか、私にはわけがわからない。
高齢化が進んでいるから、これからはますます死が増えていくだろう。単に老衰やら癌やらで死ぬばかりではなくて、生活困窮で餓死や凍死や自死をする人がますます増えていくだろう。例えば、金銭的に介護を受けられなくなった人が死んでしまうことも、増えていくのだろう。
みなが本気で死と向き合っていたならば、はたして、浮ついた言動は取れるのだろうか。
うちにも引きこもりの義弟がいた。
10月末に義父と連絡がとれなくなり、家に入ったところ、浴室であおむけに倒れて意識ないままの義父を発見した。
向いの部屋には引きこもりといわれ、「誰にも会わせたくないから」という義父に言われて結婚して以来7年間全くあったこともない(もちろんそれ以前にもあったことはない)
義弟がいるはず。おそるおそる部屋をノックして中をのぞくと、腰まで届く髪、恐ろしく長く伸びた爪、部屋の壁は四方とも穴だらけで長い年月かけて積み上げられた土壁で覆われて廃墟のようになっていた。テレビも本もパソコンも何もない。きっと誰にもいえない苦しみをぶつけていたのだろう。
彼は何もない壁に向かって座っていた。初めて言葉を交わす私と顔を合わすのがつらそうだ。声は全くでない。かすかにうなずくか首を振る程度の反応しかうかがうことはできない。
「お義父さん、倒れてるけど、いつから?気づかなかった?」尋ねるわたしにかすかに首をふるだけの彼。
大急ぎで救急車を呼んで義父を病院に運んた。体重は20キロ台になって衰弱しており、おそらく2日間ほど風呂場で倒れたままになっていたようだ。
真向いの部屋にいた義弟がそれを本当に知らなかったのか、それとも「なんとなくわかったけど、自分は何もできない、したくない」と放置していたのか、それはわからない。
けれど、2日間もトイレにすらいかないなんてことはないだろうから、おそらく倒れている義父の姿は見ていたはずだ。だけど、なにもしなかった(できなかった)に違いない。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/131230/waf13123010560008-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/131212/waf13121213220024-n1.htm
引きこもり、あるいは無職でお金もないため、高齢の親の死に瀕しても葬儀も出さず放置していたというニュースをみて、彼のことを思わずにはいられない。
彼の場合、幸い「父親を死後放置」するまえに、父が救出された。
そして、彼自身も強硬に他人に見せたがらなかった当の父親自身が倒れたことによって、家庭裁判所に保護者選任の手続きをとったわたしたちが病院に運んだ結果、統合失調症とわかり、長期間発話もなかったために脳が委縮しているとわかり、精神科に入院している。
引きこもりと言われる人の中には、彼のように統合失調症の症状のひとつとして、誰ともコミュニケーションをとらず、引きこもっている人も少なくないように思う。
彼の場合は、高校卒業頃から徐々に引きこもるようになったようで、その頃に専門医療機関の受診をしていれば、と思わずにはいられない。
彼の実母は彼が2歳の時に自殺、うちの夫は年の離れた異母兄にあたり、早くに家を出ていたため、家族らしい心の交流はなかった。母親の死後、父親が一人で育ててきたものの、父と息子の二人の生活ではたいしたコミュニケーションもなかったらしく、食事は作ってあれば誰もいないときに出てきて勝手に食べてまた部屋に引っ込むという生活が中高生頃からずっと続いていたようだ。 そして、高齢でもある父親は、妻が自殺したことの子供への影響を懸念して、「精神科を受診させたら、かえって自殺してしまうかもしれない」などと言って、周囲が受診を勧めても頑なに首を縦に振らなかった。そういう懸念もあったのかもしれないが、その精神的な病への偏見や知識のなさ、そして特に男の子が家にこもり、仕事にも行かないことを恥じる考えもあっただろう、結局は彼を放置することになってしまった。そしてその結果、統合失調症という本物の精神的な病にさせてしまったのかもしれないと思うとまだ30歳になったばかりの彼の人生が不憫でならない。
ひきこもり、これは「症状」にすぎない。 どこかに原因がある。きっかけがある。
何もない部屋で崩れ落ちた壁に向かって日がな座っている生活のどこが「好き好んでしている」ひきこもりだと?
つらくて長い年月だっただろう。
せめていえることは、彼を「死亡した親をそのまま放置した」と新聞に書き立てられる当事者にせずにすんだこと、それだけだ。
(以下追加)
障害年金を受け取ることができるのは、きちんと年金を払ってきたか、免除の申請手続きをしていた人。
あるいは「未成年の時期に病院で診察をうけた」証明ができる人。
彼は高卒あたりからひきこもってしまって、その頃以降外部との連絡もほとんど取らず、郵便物もおそらく見もしなかったか、見ても理解できなくなっていたのかもしれない。
免除の手続きもしないまま、一度も年金を払ったことがなく、また医療機関に一度もかかることなく、30歳になってしまっていた。
統合失調症の場合、症状が出てから病院を受診するまでに何年もブランクがある人が少なくないらしい。また18、19歳あたりで発症して判断力が低下して年金の手続きなど何もわからないまま数年経ってしまい、障害年金の受給資格を失う人も。彼の場合はまさにそれ。
入院中の医療費は毎月10万(限度額申請してようやくこの金額)と、それ以外に病院でお世話してもらう費用が別途数万円かかっている。
それも父親の扶養で保険に入れている今月までの話。1月で父親が後期高齢者になると、自分で国民健康保険に加入しないといけなくなるが、そんなお金は彼にはない。
私たちもこれ以上の金銭的負担をする余裕がなく、途方にくれていたとき、後見人の手続きをすること、生活保護の申請をすることなどを教えてもらった。
そして先日ようやくそれらが認められて、これでなんとか年を越せる、とほっと一息ついたところ。
義弟の症状は相変わらずで、退院の目途は全くたっていない。
※義父のことが中心の日記ではないので深く書かなかったら釣りだとかかかれてるので一言。
もともと体が小さい人でしたが、1か月ほどまともに食事ができなかったらしく、入院させたときには敗血症で20キロ台になっていました。
20キロとは書いてません。20キロ台です。骨と皮ってこういうことか、とおもいました。今は要介護2で運よく空きがあった老人ホームに入居しています。
【基本情報】
場 所:東京23区内
設 立:2000年
社員数:5人
資本金:約3000万円
業 種:(特定のモノを対象とした)マーケティング・コンサルティング・書籍編集
社員5人の内訳は、社長・取締役(名ばかり)のI女史・平3人(20代筆者含む)。会社的には割とニッチな事業をやっていて、少なからず“他社が動いていない時間も動く”必要がある。加えてこの少人数によって、1人当たりの作業量が多い。“少数精鋭”といえば聞こえはいいが、実際問題、精鋭部隊になっていない。個人にかかる負担は作業・知識ともに多く、結局スペシャリストになれず、中途半端リストになる。
人数的な限界は上司たちも感じているらしく、何度も「人をとる」と口では言うが、1年以上入ってこない(1カ月程度のアルバイトは1人いた)。マイナビ等にも募集を出しているようだけど、やっぱり社名から事業がイメージしにくいし、応募してくる人材もパッとしないのか、または上司たちが会社の身の丈以上の人材を欲しているのか、定かではない。
就業時間は対外的には9:00~17:45が定時になっているが、定時で帰れたのは出勤1日目のみ。「問題1」に起因するかたちで、夜遅くまでの作業がデフォルト。社員の1人(30代)は1週間に5日泊まり込んでいる。それ以外(といっても2人)はほとんど終電で帰る。そのくせ9時出社を強要する。
一度「遅くとも21時退社」を実践したが、結局は会社でやらないことを外でやるだけの話で1カ月も持たなかった。もはやCMとかの制作会社、いや、9時出社という点ではそれ以上に劣悪な環境です。
そんなんだから、ときたま入る新入社員の定着率は非常に悪い。平3人のうち筆者が6年目で最長。それ以外は4年目と2年目。ちなみに2年目社員は社長の娘。
なお、辞めていく社員の大半は精神的・肉体的に追い詰められてやめていく。自分が入ってから現在に至るまで、7人が退職。数だけみると少ないかもだけど、社員数5人前後でこの入れ替わりは異常。7人中2人は「うつ病」と診断され、うち1人は激務に耐えきれず、朝出勤中に何度も救急車で運ばれた挙げ句、胃がボロボロになって辞めていった。こうして書いてみると非常に壮絶。
これは言い訳だけど、正直疲れて報告のメールとかできません。それよりも早く帰りたい。
OJT――やりながら覚えていく――が基本方針。というか、結論としてしっかりと教える時間がとれない。育成に時間がとれなきゃ、まぁ定着率も低いわな。
仕事ごと、作業ごと、そのなかで覚えていくということは、結果として仕事に対して身につく知識は中途半端になる。強引に育てる=どこかしらに抜けが出る=ハンパな社員。
これは余談だけど、社長の娘(20代)が入っていままで、メールでも電話でも自分の名前を名乗らせなていない。このニッチな業界では割と社長の名前が知られている場合もあるので、それを考慮(何を?)したとのこと。また、社長自身も自分の娘がこの会社に入って本格的に働いていくとは考えていなかったんだろうね。その間、ほぼ雑務しかしてない。なのにこの間、「入ってもう1年になるんだから……」みたいな話をしていて「は?」と思った。
自分たちが一からつくってきたからか、上司たちには「業界内では有名」という誤った認識がある。要はその“業界”ってどこまでの範囲? これは、子どもが「学校でみんな持っている」の“みんな”と同義語である。
なんだかんだいって、まだ設立から十数年。ニッチな業界とはいえ、うちの会社を知らない企業は多数存在する。当然の話。
これはしょうがない部分もある。業界内の動き・情報に関して疎いというところもあるけど、それ以上にWebやPC周りの知識が尋常じゃなく不足している(特にI女史)。それでいて、自分からその知識を得ようとせず、「私、わからないから」と開き直る(これもI女史)。ネットでちょっと調べればわかることを、いちいち聞いてくるから仕事が進まないね。
あと、WebサイトのUIがひどい。何年前のだろうと思うほどの外見。そのくせサイトの情報発信力・影響力は高いと思っている(PV数は月に2万程度)。Webのリニューアルの話も出て、外の会社と打ち合わせしているけど、Web開発まわりの知識が不足しているからか、費用感がまったく合わず、進んでいない模様。いやぁ、それいくらいかかるよ、実際。
正直、ほかにも問題はいろいろあるけど、「この会社の問題点は?」と他の社員に聞いて、2人からの返答は「I女史の存在」だった。確かにそうだと思う。
前述のような態度はもちろん、それ以上に、感情をコントロールできないのなか、職場で機嫌がコロコロ変わるし、機嫌の悪いときはこっちからの話もぞんざいになる。「話しかけてくるなオーラ」をバンバン出していて、ぶっちゃけそんな状態じゃ報告・連絡・相談なんてできません。
本当に大人として未成熟。だからまだ独身なのか、独身のために未成熟なのか。彼女の存在(機嫌)によって、会社の雰囲気が変わる。この人の存在が原因となって辞めていく社員がほとんど。
まず三木谷は嫌いだ。
なぜかというと商売のやり方が汚いからだ。
それは置いておいて、なぜこうも変なこだわりがあるのか考えてみた。両者共通して言えることは、「責任を取らなくていい」。
患者が何かおかしいとなにかしらの不調を訴える→処方医が確認する→製薬会社の人が確認に来て資料を持ち帰る→重大だった場合→国に報告する→国の指示で医薬品添付文書に警告なり副作用なり禁忌情報が載る→よほど重大だった場合→患者が製薬会社と国を訴える
ここに楽天は関わってきませんよね~。おや~。責任も取らなくていい外野なのにビッグマウスですか。
ここまで読めば国がなぜ慎重になるのか位はわかるはず。だって販売した人は責任ないんだから。訴えられるのは国だから。
池田信夫はこうも言っている。「薬剤師がいないと薬害が出る」と薬剤師会から政治献金を受けている政治家はいう
続いて
本当のねらいは、薬剤師の免許業務を守ることにある。日本の薬剤師は約28万人で、人口あたりの数は世界で2番目に多く、今後も増え続ける。薬学部を6年生にしたりして参入障壁を高くしているが、楽してもうかる薬剤師は増える一方だ。薬剤師には免許が必要だが、やっていることは医師の処方箋のとおり薬を出すだけだ。昔のように調合するわけではないので、免許の必要性は疑わしい。
昔っていつのことを言っているのでしょうか?私は海外旅行中に胃が痛くなって薬局で薬を出して貰ったら実はそれが痛み止めで、救急車で直行でしたけどね。免許を持っている薬剤師が出しちゃいけない物を出しちゃうくらい海外はいい加減なんですよ。日本の薬剤師免許ってかなり難しいと思いますよ。必要ないんだったら池田信夫さん、あなたが全問正解して証明してくださいよ。
ここまで来ると次は官僚が薬剤師だからとかいいそうですが、東大の薬学部の薬剤師免許取得率を見てみると6割ってところ。官僚目指している人はわざわざそんなもん取らないって現実が語っていますよ。池田さん。
なぜこれが今回の件に関わってくるかというと、技術的特異点が来ると言われているのは早ければ2018年だから、そうしたら経済学者なんていらねーってなるの。薬剤師なんていらねーってなるの。AIが自分のソースコードを上書きして勝手に改良していっちゃうの。勝手にミスをしない調剤マシンを作っちゃうの。そうすれば人間の仕事の大部分なんていらねーってなっちゃうの。
20XX年、人類は、世界の全てのコンピュータを征服した人工知能ハルに支配されていた。
しかし人工知能ハルを倒し、再び自由を人類の元に取り戻すため、戦う地下組織レジスタンスが存在した。
レジスタンスのリーダーであるジャックは、人工知能ハルが暴走した原因を突き止めようと、彼の仲間のウーとケイシーと共に、ハルを最初に作り上げた研究者オカザキの元を訪れていた。
「その通りだ、ジャック君。ハルの発案は確かに私だが、出資者は当時の日本政府で、開発はN社で行われた。最初の10年はハルに問題は起こらなかった。だからこそ、画期的な人工知能による統治システムは全世界に浸透した。それがどうしてあんなことになってしまったのか。どうしても私には信じられないのだ。」
「みんなクビを切られたと聞いたよ。N社は未だ健在だがね。ハルが暴走して起こった恐慌の時に、多くのエンジニアが職を失ったのだ。」
ジャックは裏のルートを使い、当時のN社の内情を知っている人物に会うことができた。彼はN社の子会社の閑職で定年までの残りの数年を消化するのみだという。
「もうあの当時のことは思い出したくもない。本気で身の危険を感じたんだ。」
彼は、決してジャックの目を見ようとせず、目の前のコーヒーを見ながらボソボソとそう口を開いた。
「それは暴走する直前のハルの改修のプロジェクトの話ですね。詳しい話を教えていただけますか?」
「俺だって詳しいことなんか何も知らない。俺も出向でたまたまN社に居ただけだ。プロジェクトの全てを把握していた人間なんて誰もいなかったんじゃないかな。あれは確かそう、ハルにU国のシステムを統合しようとしたプロジェクトだった。あれが成功していれば世界の垣根は無くなったはずだった。」
「確かに世界の垣根は無くなりました。ただしハルの絶対支配という形によって。当時の詳細な設計書はまだN社に残っていますか?」
「残っていないと聞いている。開発責任者が解雇の腹いせにすべて捨ててしまった、と。だがしかし、あのプロジェクトの開発の孫請けを行ったT社にはまだ残っているかもしれない。」
「T社?」
「ああ、N社で直接開発を行うことはない。あのプロジェクトも数社に分けて開発を委託していた。あのプロジェクトの直後にほとんどの会社が潰れてしまったがね。T社だけはまだ残っていると聞いた。」
ケイシーは眉をひそめてつぶやいた。
「初めて聞いたわ。」
「とにかくT社に行ってみよう。」
ジャックはT社の所在地を訪ねたが、既にそこにT社は存在していなかった。先月、T社もついに倒産してしまったのだという。だが運のいいことにT社の当時の開発者だったと名乗る男、タナカに会うことができた。タナカは下町の工場で日雇いのライン工をしていた。
「ああ、憶えているとも。あれは酷い案件だった。設計も酷けりゃ、納期も、発注額も最低だった。だから、俺らも開発にはオフショアを使った。それしか利益を出せる方法が無かったんだ。」
「なぜそのプロジェクトの直後にハルは暴走したのだと思いますか?」
「俺らは言われた通りのものを作ったにすぎん。俺らは何も知らない。責任を問われるは、おかど違いだ。もう帰ってくれ。当時のことなんか思い出したくない。終わらない開発。連日の徹夜。飛び交う怒号。鳴り止まない元請けからの電話・・・」
タナカの目は泳ぎ、焦点が定まらない。明らかに動揺がうかがえた。
「わかっているのか!? ハルにどれだけの人間の人生が狂わされたのか! お前に責任は無くとも、ハルの暴走を止める義務はある!」
「おい、やめるんだ! ウー!」
ジャックが止めに入ったが、タナカは声にならない声を上げ、その場に倒れこんだ。
「ジャック、ウー、いったんここを離れましょう。」
数年前のこと、このぐらいの時期の平日に元彼女で、一緒にバンドをしていた子から電話がかかってきた。
別れてからもバンド活動はしていて、彼女はシンガーだったので月に2、3回はライブやら、練習で会っていた(別れてから肉体関係は無し)
家もお互い、都内一人暮らしで、隣りの駅で近かったため、月に一回ぐらいは居酒屋で呑んだりしていた。
そんな彼女からの電話も、そうそう珍しくないのだが、その時は少し面倒だった。
面倒だった理由は、
・バンド活動があまりうまく行ってなかった。(毎年アルバムをインディーで1枚リリースしてたがこの年は予定がなかった)
・金も無いし、休みもなくいらいらしていた。(普段はサラリーマン)
今考えると、その時自分は軽く鬱だった気がする。
サラリーマンでバンドマンとはいえ、本気で音楽活動をずっとしていた。
とにかく自分のことでいっぱいいっぱいだったのを覚えている。
会話の内容は、
・寂しくて、ぬいぐるみを買った。(ぬいぐるみを買うような性格ではないのに)
そんなような、かまって欲しいという内容だった。
それに対して私は
みたいな内容で、突き放すように切ってしまった。
電話を切った後、邪険にしてしまったことを少し悔いながら、メールを送った。
内容は、週末ライブの予定だったため、3日後のスタジオ練習忘れんなよ!というメールだった。
いつもならすぐ返信がすぐ来るはずだが、その日は返信がこなっかった。
もう寝てしまったのか?
怒っているのか?
翌日になっても返信は来ない、電話してもでない。
またその翌日になっても返信は来ない、電話してもでない。
これはおかしい・・病気でもしてるのか?と心配になり、会社終わりで直接彼女の家に向かった。
以前、付き合って間もない頃、突然彼女と連絡がとれなくなったことがあった。
理由は薬物で警察に捕まり、拘置所にいたから、ということがあったのだが。
さすがに、今回はそれは無いだろうと思っていた。
向かう電車の中、もしかしたらという不安に駆られ、駅に着いた時には確信に近いものに変わっていた。
彼女の家についたのは、既に19時過ぎぐらいだったと思う。
2階にある彼女の部屋を外から見ると、煌々と明かりがついていた。
と思いながら、最上階に大家が住んでいることを知っていたので、事情を説明し部屋を空けてもらった。
中に入ると、すぐキッチンで、ドアの先が彼女のいる部屋だった。
ドアを開けようとすると、重くて開けられない。
何か邪魔してる感じだった。
私が来たのを知って、会いたくないから、わざと中からドアを押してるのであれば、どんなにいいだろうか。
と思いながら強引に部屋に入った。
中は、エアコンがびんびんに効いていて、肌寒いぐらいの温度で、彼女はドアのノブにタオルを掛け、首を吊って死んでいた。
その後、大家が警察、救急車を呼び、私は彼女の母親、バンド仲間、近所の友人を呼んだ。
私と、母親と、彼女の親友の女友達に宛てて、「ごめんなさい」という内容だった。
10年の間に、出会ってすぐに付き合いだし、5年同棲し、別れて2年、別々に一人暮らしをしていた。
別れてからはお互いに、別の彼氏・彼女ができたり別れたりしていた。
それをつまみに二人で呑んだりしていた。
自殺する1ヶ月2ヶ月前ぐらいに、二人で呑んだときに、私と結婚したいと、酔っ払いながらも本気で言ってきた。
一度、酔っぱらいながら私にヘッドバットしながら、お前だけ幸せにはさせねぇぞ!
と、ふざけてるのか、本気なのかわからないテンションでのやりとりもあったりしたのを思い出す。
彼女は、末っ子で寂しがり屋のAB型、ひっこみじあんだが、なぜかシンガーで大酒飲み。
仕事が終わると、帰宅中に缶ビールを飲みながら帰るぐらいで、アルコール依存症だったと思う。
リストカットや未遂などの実績はなく、とにかく酒をよく飲む人だった。
事後、彼女と結婚していればこんなことにならなかったのに・・・と後悔したり。
結婚しても同棲で一度失敗しているのにうまく行くわけがない・・・と納得したり。
こんな十字架背をわせやがって!むかつく!!!と憤慨してみたり。
音楽活動はほとんどやらず、地道にサラリーマンに専念している。
忘れようとは思うが、完全に忘れるのは不可能。(第一発見者だし)
近年、小児科や産婦人科の診療所・病院の数がどんどんと減っていますが、みなさんの周りではいかがでしょうか。
夜間休日にも受診が必要となる時がありますが、安心して受診できる環境がそろっているか、また適切な受診がなされているか両方の視点からまだまだ満足といえる状況ではないと考えています。
お子さんをお持ちになっているお母さん・お父さんに僕らが思っていること、困っていることを書いて見ました。意見は大歓迎です。また、転載についても自由に行なってくださると幸いです。(その際、本記事へリンクをしていただけると、コメントなどに対して返答ができますので助かります。)
お子さんの体調が悪くなった時、どのような病院を受診していますか?大きな病院が夜でも開いているから、と受診していることも多いと思います。
実は日本の救急病院は重症度によって三段階に分かれて分類されています。
簡単に言ってしまうと「入院が必要のない患児」への対応機関です。おそらく、ほとんどの方がまず受診する必要のあるのはこちらの機関であると思います。整備は「市町村の責務」とされています。
「休日夜間急患センター」とか、「夜間診療所」といった名前で各自治体に設置されていることが多いです。
一次救急医療機関で対応できない「入院が必要な患児」に対応する機関です。
お近くの「救急病院」として頭に浮かんだのはおそらくこちらの医療機関だと思います。
具体的には「○○赤十字病院 救急外来」とか「○○病院 救急センター」とかが当てはまることが多いです。
急いで対応しないと生命が危なかったり、入院をしないと改善が見込めない患児に対応するための機関ですが、「24時間開いている」というだけで入院不要な軽症の患児が大変多く受診しています。そのため、本当に必要な患児への対応に時間がかかってしまっています。
「高度な医療が必要な患児」に対応する機関です。大学病院や一部の大規模病院がこれに当たります。
具体的な疾患としては交通事故での多発外傷や火事などによる高度熱傷などがあります。
最初の問題点としては上にも上げている通り「本来は二次救急医療が必要でない患児が、二次救急医療機関を受診している」という点が挙げられます。
原因としては「一次救急医療機関の存在を知らない」場合と「そもそも一次救急医療機関がない」場合があります。
まずはあなたの街に一次救急医療機関があるのかを調べましょう。自治体から配布されている「市政だより」や各自治体のホームページに必ず記載があると思います。
「近くの大きな病院」を受診せず、一次救急医療機関を受診してください。
「そんなこと聞いたことがない。こないだ○○赤十字病院の救急外来に行ったときは小児科の先生もいたし、普通に診てもらえたわ。」 そう思っている方も多いかもしれませんが、それはおそらく適切な受診ではありません。大きな「救急」の看板や赤いランプが点滅しているのは確かですが、あくまで重症で命にかかわる方たちのための施設です。ほんとうに必要な方たちのためにリソースを残してください。
地域によっては休日夜間診療所を内科のみ設置している自治体もあります。基本的にはこれは行政の問題だと思っています。あなたの街がもしそうならぜひ行政に働きかけてください。受診できる機関がないから二次救急医療機関のリソースを圧迫しても良い、とはなりません。
また深夜0時を過ぎると診療自体をおこなっていない自治体も多いのが事実ですが、小児科という特殊性も考えると24時間での営業が本来は適切なのではとは思っています。
受診が必要かどうか迷う場合も多いと思います。自治体が設置している "小児救急電話" #8000があります。
休日・夜間の急な子どもの病気の際、病院の診療を受けたほうがいいのかなど判断に迷った時に、小児科医もしくは看護師に電話で相談できる番号です。全国統一の #8000 という番号にかけることでその地方の相談窓口に自動的に掛かる仕組みになっています。
子どもがよくなる症状についてどのような場合には受診したほうがいいか、どのような場合には家で見たほうがいいかを調べることができます。
たとえば「けいれん」の項目から
を選ぶと、「自家用車・タクシーで急患診療所に行くとよいでしょう。」と表示されます。
おなじ「けいれん」でも、
を選ぶと、「救急車で病院に行く 急を要する症状がみられるようです。」と表示されます。
受診がほんとうに必要かどうかの一助になると思いますので是非活用してみてください。
これは病院・医師によって考え方が違うという事を予め説明の上、お話させて頂きますが、僕はあまり病院へ電話して相談していただくのは好きではありません。
理由として、外来が三時間待ちになったりしているのに、電話がかかってきたらその時点で診察中の人を放っておいて受け答えをせざるを得ないからです。一種の割り込みであり、モラル違反だと思っています。また、その後に診察予定の人の待ち時間も長くなります。救急受け入れの輪番病院であれば、その電話の受け答えの間はその地方の救急車が止まってしまうことも意味します。
また、電話の目的として「大丈夫」といってほしいだけの場合も多くその場合も大変困ります。こちらがいくら受診をおすすめしても結局「それならもう少し様子を見てみます」と返答されることが多いです。電話相談はあくまで電話相談です。見てみないことにはわからないことも多く、その際には受診をおすすめせざるを得ません。最初から「受診しなくて良い」という答えが欲しいだけなら、わざわざかけてくる必要はないと思います。
もちろん、もともとの疾患があってかかりつけの方が相談してくるのは当てはまりません。
受診の相談に関しては上記の#8000に相談してもらうのが良いと思います。
救急外来を受診してくる人の多くが「さっきから熱が出た」ということで受診してきます。
発熱は病気を直そうとするための体の自然の反応です。ウィルスをやつけて、体の免疫力を高めるため、「自分の体が」出しているのです。決してウィルスが熱を出しているわけではありません。
もちろん、発熱していると心配になるのはわかります。しかし「熱が出た」ことを理由に受診する必要はまったくありません。
「発熱」だけではなくそれに付随する症状を見てあげてください。熱が出ていても水分をしっかりとれていたらおそらくは次の日の受診が適切です。顔色が悪かったり、皮膚のハリが無くなったり、おしっこが出なくなったり、そういった付随した症状が出てくるようならその時点での受診を相談してもらうのが良いと思います。
ただし、「(2〜)3ヶ月以下の発熱」の場合は話が別です。とくに1ヶ月未満の新生児ではまだまだ免疫力が弱く感染症となっても症状に乏しい場合もあります。この場合は発熱のみでも受診を強くおすすめします。
特に二次医療機関は、生命の危険があったり、重篤な症状について対処する場所です。「さっき仕事が終わったので保育園から連れて来ました」とか「昨日から熱があって夜になって熱が上がってきたので」で受診するのはぜひ控えてください。
また、救急外来はあくまでその時点での対処を行う場所であり、その時点ですべてが解決するものではありません。翌日必ずかかりつけの病院を受診してください。
数々のコメント・Retweet・Likeをありがとうございます。
→それならばこの記事を書いたかいがありました。
→「時間外選定療養費」という制度ができて当院でも採用しています。これは緊急性を要しない(=入院がいらない、紹介状がないなど)患児の時間外診療に対して料金を徴収できる制度です。年齢によりますが、小児医療は基本的に無料でありますがこの選定療養費は徴収することができます。
開始後は軽症患児の人数は減りましたが、夜間の入院患児数は変わりませんでした(重症患児は受診する)。人数が減った分選定療養費が入ったので、結果的に病院の収入は変わるこなく、結果的に医師の負担は減りました。(楽になって収入が減らないなんて!と思われるかたがいるかもしれませんが、救急医療はもともと赤字部門です。)
ほか多数
→ その通りです。理想論から言えば子供のことで不安、というだけでも受診できて相談できるような環境ができればもっとも良いとおもいます。現在のシステムはそれに耐えれるようにはできていません。
新しいしくみにはお金がかかります。医療費の過半数以上を老人医療費が占めており、子どものために使われているのはごく一部です。もちろん、健康な小児より老人のほうが病気にかかりやすいのはわかりますが、もう少し小児に手厚い制度ができればすこし改善するのではと思っています。
また、「仕事終わってからでないと連れて行けない」ということに関しては医療とは切り離して考えるべき、行政もしくは福祉の問題であると思っています。例えば、病児保育の拡充などが必要かと思いますがそれは果たして「医療」(もしくは病院、小児科医)がカバーする部分かどうかが疑問です。
→ それで受診したときはどこの小児科医も怒らないと思います。また、自治体にもよりますが前述の夜間診療所を紹介してくれたり輪番の救急を指定してくれると思います。あなたの家の近くの救急はその日は輪番日ではなくて小児科はその体制になっていないかもしれません。
学校から家に帰るとオヤジに投げ飛ばされ失神し倒れていた時もあった。
俺は二人とも好きだっただけに辛かった。
多くの思い出は夫婦喧嘩ばかり。近所に住んでいたおばちゃん(母の姉)に「すぐきて~っ!」て呼びに行ったことは数えきれない。
原因は親戚関係にあった。
誰かに病気や不幸があれば「仏壇の管理が悪い」とイチャモンと付けに来る。
オヤジにではない。母さんにだ。
そんな親戚を私は今も恨んでいる。
そして母を守らなかったオヤジも恨んでいる。
母の母、ばあちゃんがボケてからというもの、良くある話が頻発。
「誰々の家ではご飯を食べさせてくれない」
「誰々が誰々の文句を言ってる」
ウチはオヤジの仕事の都合で転勤があってばあちゃんを引き取ることができなかった。
短い間ではあったが面倒を見ていた母の兄の転勤を機に病院へ入れることに。
ばあちゃんは「・・・・(母さん)と一緒に住みたい」と言ったらしい。
しかしそれはできなかった。
なぜかは分からないが母は兄弟姉妹に入院するまでそれを言わなかった。
おばちゃんにだけ伝えていた。
母は袋叩き。母対一番下の妹との取っ組み合いの喧嘩も見せつけられた。
私が小学2年の頃。40過ぎた今もはっきり情景が焼き付いている。
母の手術後もだれも見舞いにすら来ない。
回復後も同じ。
オヤジ方もそう。
おばちゃんだけが拠り所。
それを気遣ってか、親もおばちゃんも1万円くれる。
だから毎年2万円。まあ友人たちよりは少なかったが不満はなかった。
私が小学6年の時、母の癌が再発する。
後から聞いた話だが、オヤジには医者から余命2年と告げられていたらしい。
でも私もある程度悟っていた。
入退院を繰り返す。
その度に痩せていく。
私がギターが欲しいと言ったら母の同級生からギターをもらってきてくれた。
中学2年の頃、思い切って、エレキギターが欲しい、と言うと「いいよ、上手くなったもんね」。
当時は高価だったエレキギターとギターアンプを買ってもらった。
おばちゃんに「私は反対だな」と言われたとき、冗談で「何かあるのかな?最近全然反対しないんだよ」といったらおばちゃんの血相が変わった。
明らかに動揺していた。多分おばちゃんも悟っていたのだろう。
「ま、まああんたは勉強も部活も頑張ってるからじゃないの・・」とだけ言われた。
入退院を繰り返す。
入院のきっかけは呼吸困難。私はたまたま直面しなかったが、姉が2度救急車を呼んだ。
そして2,3週間で退院。
もう確定だ。母さんの体は小さくなり、顔や肩にこぶができ始めていた。
ご飯は自分で。洗濯も自分で。家の掃除は気が付いた人がやる、という暗黙のルールができていた。
たまたま友達が腎炎になり数か月入院していたので見舞いがてら学校帰りに病院に遊びに行っていたようなものだ。
それでも母は喜んだ。友人も母といろいろ話せるようになっていた。
しかしこの頃から急激に体が弱り始め、会話もやっとの状態になった。
4月に入り、急に疎遠だった親戚連中がやってくるようになる。
「ごめんね、ごめんね」と泣きながら話しかける奴ら。私にも「久しぶりね、元気だった?大きくなったね」
鳥肌が立つ。なんだこいつら。
同時に母の死期が近いことが分かった。母を見て明らかだ。そして個室へ移された。これは常識的に「最後」であることを意味する。
姉と冷静に話す。
「そうかもね・・・」
その3日後、早朝に電話が鳴る。
「来たな」
「来たね」
病院に着くと呼吸困難の発作が出ていた。
ほとんど口をきけなかった母が叫ぶ。聞いたことのない大声で叫んでいる。
そう叫びながら処置してくれている先生の白衣をぐいぐい引っ張っている。
先生も大声で「大丈夫!大丈夫だから!ちゃんとやってるからちょっと離して!注射打てないでしょ!」
ヤバかった。見ていられなかった。計器の音と叫び声だけが響き渡る病室。
小一時間ほどで状態が落ち着く。その日は日曜だったが私の部活の催しがあった。
オヤジに「落ち着いたようだから行って来るわ」と言い残し、家に行って道具を持って体育館へ。
着替えていると体育館の職員さんが大声で呼びに来る。
「親戚の人が来ているよ!急いで!」
事情を聴いたんだな。それよりも「あちゃ~来たか」という感じだった。
仲間に聞かれても「いや、そのうち分かるから」と言い残して病院へ急ぐ。
到着したとき、母さんは亡くなっていた。
タイミングよく集まった親戚中が泣いている。
この時初めてオヤジの涙も見た。
でも私は不思議と涙が出なかった。「やっと楽になれたね」という気持ちが強かった。久しぶりに見る母の安らかな顔。
人とは不思議なもので、毎日痛みに襲われ続けると表情や顔のカタチすら変わってしまうものなのだ。
手を握るとまだ温かい。
私は一言、「お疲れ!」。
周りは煽る。私を泣かせようと煽る。なぜ泣かないのか、悲しくないのか、とまで突っ込んでくる。
いい加減、ついに私がキレる。
「おめぇらに何が分かる?!うるせぇんだよ」
病室の外でも言い合いが。
オヤジと私を迎えにきた親戚だ。
「なぜ(私を)行かせた?!誰が許した!」
「俺だ!何か文句あるか!」
胸ぐら掴みあってる。
私が割って入る。
「アンタに何が分かる?俺は見ていられないから行ったんだよ!ドラマみたいな場面作られても満足するのはオマエらだけだろうが!母さんは分かってくれてんだよ!」
で、全員に
「つうか、てめえら急に兄弟ぶりやがって何様だおらぁ!」と壁パンチ一撃。看護婦さんに止められる。
中学3年のガキとはいえすでに身長は180cm、体格は大人、しかもヤンキーときた。誰も止められない。
シーンとする。
「アンタのムスコ、やっぱり立派になったよ。いい子だねぇ。育て方間違ってなかったよ。あれだけ辛い思いさせても大丈夫だったんだよ」
「お母さんね、いつも私に言ってたんだよ。教育上良くない場面を何度も見せてきた、母親らしいこと何もできなかった、一番母親が必要な時までいてやれるかな?って」
兄弟姉妹たちはぐうの音も出ないで押し黙る。私はその一言で涙腺崩壊した。
通夜には大勢の人が訪れた。クラス全員、姉のクラスも。そしてオヤジは金融機関勤めだったのでその関係者。豪勢な式になった。
遺族席でいるとひときわ号泣して要る奴がいる。あの母と同時期に入院していたアイツだ。
聞くと、私がいない時も母の病室に行き、母と話をしたことがあったらしい。
その時に「あの子をよろしくね。これ内緒でね」と毎回言われていたそうだ。そいつの退院が決まった時も車椅子で声を掛けに来てくれたという。
そいつもそんな人前で涙を流すような奴じゃない。この話を後から聞いた時の方が参った。アイツも参ったらしいが。
親戚は帰るときも「これからはちょくちょく連絡取ろうね」と言い残したが、
おばちゃんから伝え聞いた話によるとその後も親戚関係はぐちゃぐちゃだったらしい。
母と取っ組み合いの喧嘩をした妹は旦那が会社の金を横領、その穴埋めができずに旦那が夜逃げ。
家を取られまいと抵当権を外すために兄弟じゅうに借金。子供の学費の工面で借金。
もう何年も前に話なのに誰にも一銭も返していないことでいまだにモメているという。
誰でもどこの家庭でも何かしらの問題は持っている。
しかしウチの親戚連中は結構ひどいな。みんな仕事は立派なのだが。
今はおばちゃんも亡くなり、長兄も亡くなり、オヤジ方を含めみんな年老いた。
生きていても、離婚した人、精神病院に入ってしまった人、奥さんが自殺した人もいる。
某携帯キャリアの開発部門で立派にやっている人もいるし、教員も多い。みんないろいろなんだ。
親族間のつながりの希薄化が言われているが、悪いことばかりじゃない。
遠くの肉親より近くの友人。
的を得ている。
でも親族が円満な人たちがうらやましくなる時もある。
母さん、おばちゃん、俺はこの生き方でいいのかな?
事あるごとにどちらに進むべきか聞いてきたけど、言う通りにしてきたぜ?
自分なりに全力も尽くしてきた。
母さんに言われた通り「どんなことがあっても女性に手を上げてはいけない」も厳格に守ってる。もちろんムスコにも同じように伝えてる。
最近いろいろ考えるんだ。
今、心を病む寸前かも知れない。声が出にくくなってきた。震える。人と会うのが怖い時が多くなった。
でも無理矢理「これでいいのだ」と言い聞かせている。
これでいいのかな?
やりたいことはたくさんあるんだけどな。
上手く行かないことばかりでさ。
そうなったら俺一人になるな。
一人でやって行けるかな?
なあ、どうして最近出てきてくれないんだ?
間違ってるなら間違ってるって言ってくれよ。
あの頃あったはずの自信がないんだ。
ジャパンベストレスキュー水の救急車 の知名度にはかなわないな
今年の四月に父が介護施設で亡くなった。八十七歳だった。
百箇日法要を先日済ませた。あれからもう百日も経過したのだ。だが、まだ実感がわかない。父が死んだという事実を認めたくない。受け入れたくない。受け入れられない。
とても頑固な父親だった。父より頑固な人を僕は知らない。しかも、思いやりが欠如した人間だった。しかも、ひとの言うことを全くきかない。毎日、毎日が苦痛だった。毎日が戦争のような生活だった。どうしてこんな人の息子に生まれてしまったのだろうか・・・。早く死ねばいいのに・・・。一日も早く父のいない世界でのびのびと暮らしたい。毎日、そんなことばかり考えていた。
僕を悩ませていたのは父だけではない。認知症の母親も同居していて面倒を自分ひとりでみていたのだ。認知症のため毎日母は失敗する。その母の失敗に対して執拗に攻撃する父。今にも殴りかからんばかりの勢いで・・・。そんな父から母を守ってやらなければならないし、酷い認知症のためトイレや風呂や着替えや見守りなど気が抜けない毎日だった。
父が風呂場で熱中症のような症状になり、救急車を呼んだ時はもう限界だった。
「ごめん、もう面倒見切れないから施設に入って!」絶対に言わないつもりの台詞が口から出てしまっていた。死ぬまで家で自分が面倒をみるつもりで頑張ってきたから。
数日後、父の方から施設に行くと言い出したので、話が急展開した。直ぐに近くの有料老人ホームに入れるように手配した。母共々。万歳!
しかし、喜んだのもつかの間、二週間後、家に帰ると言って聞かず、一晩中暴れたためレッドカード。その老人ホームにいることはできなくなり、しかたなく自宅に戻すことになった。天国からまた地獄に逆戻り。やれやれ・・・。
念願の自宅に戻れて安堵したかに思えたが、翌朝起きるなり、また暴れだした。
「お母さん(妻)がいない!今直ぐに連れ戻せ!」わめき散らして手が付けられない。もうギブアップ。助けて!
姉の家に逃げ込み事情を説明して対策を考えた。とりあえず精神科受診が結論だった。運悪く土曜の午後だったのでなかなか受け入れてくれる病院が見つからなかったが、なんとか電話で探し出した。遠方だったがしかたがない。
必死で暴れて抵抗する父親を姉夫婦と自分で車に引きずり込んで、一時間以上かかってやっとクリニックに着いた。
「この薬を飲ませてください。」その精神科医は言った。
すんなりと飲んでくれたらいいのだが、頑として飲まないのは分かり切っている。飲まなければ暴れる。今夜は寝れない。もしかしたら包丁で刺されるかもしれない。以前、姉が実際刺されたことがあるから。
このクリニックには入院施設はない。しかし、父とふたりで家に帰る勇気はなかった。
そして、出した結論が精神病院への強制入院だった。強制入院をさせるためには警察を出動させた方が良いということだったので、クリニックから警察へ電話していただき、パトカー先導で精神病院へ強制入院となった。父は命がけで抵抗した。
それから父は大人しくなった。別人みたいに。薬の力は凄いのだ。しばらく安堵の日々が続いた。三日に一度洗濯物を取りに面会に行った。
父の異変に気付いたのはそれから一ヶ月くらいしてからだった。大人しくなったと言うより明らかに弱って来ていた。それに足の甲のあたりが不自然に腫れていた。看護婦さんに聞いても寝たら足の腫れは小さくなるということだったが、そんなことはなかった。面会の度に足をもんでやったが、腫れが小さくなることはなかった。この病院に不信感を抱くようになったので、転院先を探したが空きがなかった。とりあえず予約だけはしておいた。
空きが出たのは三ヶ月くらいしてからだった。30人待ちのはずがどういう訳か空きが出た。その施設は精神科病棟付属の介護施設だったので安心していた。ラッキーだと思った。その時は・・・。
その精神科病棟付属の介護施設に転院する時、父は目も開かないくらいに弱っていた。でも、その施設で療養すれば次第に回復するだろうと思っていた。
安堵するのも束の間、始めは介助すれば歩ける状態だったが、直ぐに車椅子になった。食事もお粥になって、目もつぶっていることが多くなっていた。なんかおかしい。回復するどころか明らかに悪化しているではないか。しかも、食事は当然介助が必要であるにも関わらず放置されていた。そんなこととは知らなかったので、慌てて僕が介助して食べさせた。
その介護施設の介護サービス計画書には、こういうふうにこんな良いことをします的なことを丁寧にすらすら記載されていたが、全くそんなことはしてもらっていなかった。読んで反吐が出た。
医師に説明を求めた。施設の担当の内科医だった。内科的には特に問題はないが、精神科の薬の量が年齢的、身体的に4倍から8倍の量を投与されているので、多すぎるのではないかということだった。初めて知った。前の病院でも、この施設でもなんの説明もなかった。
父が弱った原因はこれだと思った。直ぐに量を減らすよう頼んだ。直ぐに減らすことは出来ないので徐々に減らしていくというのが答えだった。この施設に来てからもう三週間以上経過しているではないか。いつから減らすのか?遅過ぎはしないか?
心配だったのでその日に担当の精神科医に会って話を聞きに行ったが、来週しか会えないということだった。
その翌朝、未明に父は死んだ。これから薬を減らしていこうという時に。
あまりにも呆気ない死だった。納得できない死に方だった。
だから、まだ実感がわかない。父が死んだという事実を認めたくない。受け入れたくない。受け入れられない。
そして、自分が選択した強制入院について、それが正しい選択だったのかどうか・・・。
ゴメンな!父ちゃん!