はてなキーワード: マーケティングとは
ドリア好きなのだけど、気軽に入れるところがあまりない。その上、ドリアだけでお腹いっぱいにならない。
なので、誰でも気軽に入れて、ドリアだけでお腹いっぱいになる感じのお店にしたい。
ベース(マカロニ、ホワイトソース、チーズ、たまねぎ、とか)に対してトッピングを選ぶイメージ。
ベース600円
肉/魚介類200円
野菜類100円
客単価800〜1000円くらいを想定。質と満足感は重視しつつ、あまり安くはしたくない。
ホワイトソースとマカロニは事前に仕込んでおき、オーダー毎にトッピングを盛り付けて、スチームコンロやオーブンで焼き上げて提供。
ある程度事前の仕込みが可能で提供時の手間が少なめな割りに、味もキープできるのではないか、という想定。
従業員は自分1人+パート1名(ワンオペも想定しておく。人が採れない、金がない、などの場合を想定)、日曜日定休。
場所は東京23区内でオフィス街や歓楽街。家賃などを考慮の上、場合によっては、ローカルっぽい場所も検討。
2ヶ月は赤字想定、3ヶ月も最悪仕方ないけど、4ヶ月目には黒字化したい。
1〜2年で店が軌道に乗ったら、営業はパートだけに任せて、自分は何か他のことをしたい
(企画・開発・マーケティングなどに専念する、複数店舗展開する、他ビジネスに手をだす等)
やっていけそうですかね?^^;
グラタン好きなのだけど、気軽に入れるところがあまりない。その上、グラタンだけでお腹いっぱいにならない。
なので、誰でも気軽に入れて、グラタンだけでお腹いっぱいになる感じのお店にしたい。
ベース(マカロニ、ホワイトソース、チーズ、たまねぎ、とか)に対してトッピングを選ぶイメージ。
客単価800〜1000円くらいを想定。質と満足感は重視しつつ、あまり安くはしたくない。
ホワイトソースとマカロニは事前に仕込んでおき、オーダー毎にトッピングを盛り付けて、スチームコンロやオーブンで焼き上げて提供。
ある程度事前の仕込みが可能で提供時の手間が少なめな割りに、味もキープできるのではないか、という想定。
従業員は自分1人+パート1名(ワンオペも想定しておく。人が採れない、金がない、などの場合を想定)、日曜日定休。
場所は東京23区内でオフィス街や歓楽街。家賃などを考慮の上、場合によっては、ローカルっぽい場所も検討。
2ヶ月は赤字想定、3ヶ月も最悪仕方ないけど、4ヶ月目には黒字化したい。
1〜2年で店が軌道に乗ったら、営業はパートだけに任せて、自分は何か他のことをしたい
(企画・開発・マーケティングなどに専念する、複数店舗展開する、他ビジネスに手をだす等)
やっていけそうですかね?^^;
東大とかみたいにレベル高いところに通っているわけではないし、言ってしまうとMERCH以下の偏差値しか無い大学に居るので「お前が馬鹿だからそう思うだけ」と言われたら説得力のある返しができないのだけれど、それでも大学の授業が薄っぺらいと主張したい。
今年で大学生活も3年目に入り、順当に行けば後期には単位の取得が完了するペースなのだが、得たものが一切ないといえるほど大学での授業内容が頭に残っていないのだ。
単位取得はしているけれど成績という観点から見ればC評価が多く、ギリギリ赤点を避けている現状なので授業内容が頭に入ってないんだろうとも考えられる。
けれども単位取得の肝を担っている学期末テストの内容が『授業中に再生した動画で言及した企業のマーケティング戦略は何だったか?』というのはひどすぎるのではないだろうか。
自慢ではないがマーケティングについては当大学内で比較した場合に限るけれど、ある程度の知識を私は持っていると自負しているが、流石に特定の企業が行っていたマーケティング戦略なんて動画を見ていなかった私に解けるわけがない。
せめて、商品の販売個数を計測する戦略とか書いてくれれば何となく当たりをつけることは出来るが一切とっかかりになる情報がないので授業出席者しか解けないのだ。
授業に出席しないものは、いかなる知識を保有していようとも単位は上げませんと言っているようなものである。
そもそもの話私が大学に行かないのは、授業時間90分のうち、教授の雑談が半分以上を超えていてどのタイミングで本旨に触れるかわからないからである。
教授がゼミ生と一緒に福岡に行った時に食べた食事がとても美味しかった話など、至極どうでもいいのでとっとと必要な話をして終わらせてほしいというのはおそらく講堂にいる生徒全員が等しく思っていることだろう。
適当で面白みのない授業を展開する教授ばかりではないのはだが、どちらが多いかと言われれば上記のようなゴミ教授ばかりである。
こうやって教授を批判するかの言葉を連ねると「彼らは有名大学を出ていて高知能、その話を楽しめないキミは低知能」とマウントを取られる。
しかし東大を出ているとか、有名大学の院を出ているとか私からすればどうでもよいことなのだ。授業がつまらないという事実は私の中で変わることはないのだから。
やっていることは市販されている本(自著であることが多い)を朗読しているだけで、自宅で必要な部分は覚えられる。そんな「教授いる?」と感じるような講義内容でどこに「教授は頭いいなぁ」と感じる要素があるのか。私が異端なだけで世の中の人は資格や肩書だけで知能を判断する、判断基準が外部にしかない人ばかりなのだろうか。
つまるところ大学というのは教育ビジネスであり、肩書を得られるのを対価に金を払って、脳死しながら授業を消化し続ける場所なのだ。
私が声を大にして言いたいのは「大多数の人間にとって大学は一切必要ない」ということ。
企業が大卒を要求していて、大卒の給料が高いからしょうがないので大学に行って卒業しようと考えているだけで、そこで何を学べるかはどうでもいいのだ。
しかし私はそこまで割り切ることができず、大学を学ぶ場所と考えてしまったいたからこうして不満が爆発しているのだと思う。
私は運がいいことに文系大学に進学しているが、小さい頃にパソコンを祖父から貰い、そして2つ上のいとこがネット関係に非常に強かったため影響を受けIT関係に強くなった。
そして大学ではこれまた運がいいことにビジネスに精通した人間たちと仲が良くなり、今後の希望を得た。
情報量を多くする気はないのでこれを読んだ奇特な人は「騙された人間」と私を罵るかもしれないが、それはどうでもいいことだろう。
私の周りは大学に通うことを強く勧めたが、結局それは私に合わず、彼らに合わなければ日々鬱屈とした思いを抱えながら、ただ授業を消化する人生を歩んでいた。
アドバイスに従った結果、得られたのは大学と私が合っていなかったという知見だけである。
このことから「アドバイスと称して意見をぶつける人間は、個人を見ていない」というのが判明する。
彼ら助言をする人間は最大公約数的な、大体の人間にとってベストではないがベター程度にはなるはずという意見をぶつけることで自身の人生の正当化をしつつ、悦に入ってるだけなのだ。
確かに最終的に選択をしたのは私であるが、どれだけの人間が周りの人全てが自分と反対の意見を述べている中、自分の考えを押し通すことが出来るのか。
私は大学生になり人に恵まれたおかげで、本当の考えを通せたのであって、高校生の頃であれば貫くことはできないだろう。
結局、大学の授業が薄っぺらいというのはこの「多様性を認めず一般論を勧める人間」が大学への進学を勧めているからなのだ。
だから教育という存在はまるで利権を貪る団体のように怠惰でありながら肥大してしまった。
大学というのはそもそも専門性の高い話を学び、その専門的技術を社会のために使うのを目的とした教育機関だ。
特に能のない私のような人間が大学に行ったところで卒業したという事実を抱えて企業に入り、一切学んだことを使わないで終わるのが関の山である。
学歴社会は確かにフィルターとして有効な部分もあるが、その企業が学歴フィルターをかけているのが世間にバレればまるで現在の検索エンジンがハックされるようにそこに向けて最適化されてしまう。
つまり大学進学するものは優秀で専門性の高い人間だから採用するというのが前提にあって学歴フィルターは機能していたのに、そこがハックされてしまったがためにバツグンな効果を発揮するとはならなくなった。
ハックされていない採用基準は意図した人材を取得できるため優秀であるが、認知されてしまえばそこに注力できる人間を採用する弱い基準となってしまう。意図しない人材を確保することになる。
起業家の話を聞いてみると「東大生のほうが統計的に話がわかる」と語る。
つまり学歴フィルターは大卒で区別するのでなく、東大生などの超難関校とそれ以外で区別するようにしたほうが建設的だ。(給料も含め)
そうすれば無駄に大学に通う人間も減るし、ビジネス大学も少なくなる。大卒枠を争って貧困に悩む人間も減る。
私が問題提起したいのは以下の2点。
・何も考えずに一般論で「大学はいったほうが良いよ」と個人を見ずに語るやつは口を閉じよう
・企業は大卒で学歴をフィルタリングしても効果が薄いので、給料から難関大学(基準はMERCHかそれ以上?ここはわからない)とそれ以外で分けるべき。もしくは意図した人材を採用できてかつハックされていない新しい採用基準を見つける。
こうして大学が少数精鋭になれば教育者も生き残りをかけて力を尽くし、怠惰で肥えた教授も減ることだろう。
私はとにかく薄っぺらくて意味のない授業が大学から消滅してほしいので、教育機関こそ激戦のビジネス社会のように苦しみながら競争して欲しいと思っている。
確かに科学の力というのは重要だとは思うが、現在私の身の回りで生活に欠かせないと思うものを作っているのは企業であり大学で教鞭をとる人ではない。私が知らないだけで企業にその教授も協力しているのかもしれないが、それなら大学ではなく企業で研究させてもらえばいい。
つまり「安定してるー」とアホ面下げて年に数回、偉そうにゴミみたいな本を書きながら教壇に立つ輩は荒波にも稀ながら淀んだ精神を磨き上げるべきだということ。
そもそも大学はいま腐るほどあるわけだけれど、その全てが科学において必要ではないだろう。それならばなおのこと競争化させて精鋭化させなければいけない、なぜ「研究」という話になった途端嫌儲精神が発作的にでてくるのか。
何度も書いている気がするけれど、その大学の競争化をする上で最も邪魔なのは一般論を振りかざして大学に行かせようとする無能な働き者と大卒でフィルタリングする企業だ。
個人を見ないで、自分の人生訓を元にとりあえず精神でアドバイスするやつは総じて糞だし、対してその人を案じているわけではない。
こうした一般論で武装した人間に対して、正論に感じようが自分の感性と考えを元に対抗できるように成長することが、幸福につながるだろうしひいてはこの薄っぺらい大学の授業の減少につながる。
小山小学校という教育方針や環境の優れた新設小学校の学区という謳い文句で
母になるなら流山、父になるなら流山、子育ての街流山じゃねーのかよ。
100m前にある新設小学校ではなく1.5km先の古い小学校かよ
理由は「小学校まで100mだけど大きい幹線道路があるので横断が危険でしょ」と言われたよ
歩車分離もない死角も多い2.0kmの田舎道のどこか安全なんだよ
隣の松戸市の六実であんな事件が起きてるのによくそんなことが言えるな
何故逆に旧小学校区から新設小学校区に組み入れられる地区があるんだよ。
<勝ち組>
<負け組>
http://nagareyamountain.seesaa.net/article/449552695.html
「新しいコミュニティ、新しい小学校いやあ幸せですね。市役所にも学区は再度確認しました」
学区の不利益変更計画あったら購入者に伝えるのは宅建業の必須事項なので販売員が悪くないだろうな。
悪いのは行政だ。
何千万円もマンションに払って、その上俺らは毎年何十万住民税を払って
この市に貢献するなんて許せん。出て行く出て行く
しかしこの市は学区変更を毎年のように繰り返している
でもマーケティングのためか、HPにはそのネガティブ情報をすぐさま削除し、
履歴を決して追わせない。
そんなことだけが今回の要因ではないだろ。
はたまた地域ニュースなのでテレビでは取り上げないが一部のネットニュースで指摘されている。
なのにテレビなどメディアでは流山市は子育てに素晴らしい街と取り上げているのだ。
しかも今や、保育所の待機児童だって県内1位2位を争うこの街。
これのどこが子育ての街??
今日の説明会でも推計や計画の甘さ、へのその反省もなかった流山市学校教育課、教育委員会
「今日みなさんにいただいた意見は聞きます、流山市学区審議会で決定します」
過去の議事録を見ても行政は審議会に1案しか提示せず、ほぼ反論なしで決まる
「中学校もこれじゃあいっぱいになるんじゃないですか?どうなるんですか」
<追記>
<まとめ>
https://matome.naver.jp/odai/2149615551872364201
<Togetter>
https://togetter.com/li/1115293
<BuzzFeedJapan>
今年の3月に調査会社が「受動喫煙防止法案(たたき台)」施行による外食市場への影響の調査結果(http://release.nikkei.co.jp/attach_file/0438417_01.pdf)なるものを出していた。
昔、こういった調査の類に関わったことがあるがポイント目当てにWEBアンケートの会員になっている個人へのアンケートと違って企業や店舗へのアンケートは本当に大変でコストも高くなる傾向にあった。
それを1020店もの膨大な数行うということはどれほどのコストがかかっているのだろうか。昔かじった感覚からすると数百万円から千万円くらいかかっても驚かない規模だ。
この調査会社も営利企業である以上、収益を上げなければいけないわけだが他の調査資料が10万円を超える中、この調査資料は2万円ととてもリーズナブルな価格で出している。他の調査資料よりも安いということは、他のものよりも拡販できる見込みがあるということだろうか?しかし、どう考えてもこの調査資料の詳細を分析して収益をあげられる企業がいるとは考えられない(本来、こういった調査資料を購入する目的は市場規模の把握など企業のマーケティング部が活用するためにある、と認識している)
GWに実家に帰ったときに地元の友達に話したら面白がってくれたのでちょっと書いてみようと思う。
今作っているアプリは、売れていない。
二年前に開発が始まって、リリースして一年半ほどになるが、一円も稼いでいない。
エンタメ系snsのはずなんだが、アクティブユーザーが増えるはずの大型連休で、起動したユーザーがたったの三人だった日があるほど、売れていない。
売れてないが故に常駐しているエンジニアは僕一人だ。外部のエンジニアにスポットでたまにタスクベースでお願いする程度。
ディレクターっぽい人が二人(マーケティング兼任)と、デザイナーが一人いて、
ーーーーーーーーーーーーーーー
ディ「〇〇な機能が欲しいんだけど」(延々ぐらぐらのビジョンを演説する。)
僕「ビジョンはだいたいわかったんですけど、どういう仕様にするつもりですか?」
ディ「ここはこう、Facebookみたいな感じで、Instagramのこういうのも入れたくて、twitterもやってるからこれも組み合わせたい。」(ふわっとした仕様で細かくは決まってない。)
僕「(俺一人でやるってことわかってる???)納期はいつですか?」
ディ「一ヶ月後くらいにリリースしたいんだけど」
ディ「今週には決めるよ。」
僕「わかりました。待ってますね。」
~~~~数日後~~~~
ディ「できた、もう一人のディレクターと話し合ってすごいいいものができたよ、これは本当に売れるよ。大逆転できる。」(毎回言う。最初はなるほど、と思っていたが一年半言い続けられる神経が理解できない。)
ディ「そうなんだよ、ここはこうでここはこうで」(新しいぐらぐらのビジョンの演説)
僕「(まあいいか・・・)こことここは難しそうで時間かかると思うんですけど、納期は一ヶ月後のままですか?」
僕「わかりました、これだけならなんとかやってみます。デザインはもうあるんですよね?」
ディ「まだない、すごく重要な機能で本当に今後を左右するからこだわりたい。」
僕「(こだわり・・・)わかりました。じゃあ一旦機能側から作りますね。」
~~~~数日後~~~~
ディ「デザインできたよ、本当にこだわって作ったからね。デザイナーから受け取って」
デザ「どうぞ」(PDF渡される)
僕「・・・・・」(PDFだとダメって二億回くらい言うてるけど、耳がついてないんだな・・・sketchの存在知ってるはずなんだけどな。)
~~~~数日後~~~~
僕「ここ、スマホだとデバイスによって幅変わるんで、こう直しておきましたよ。割合的にずれてないので、問題ないと思います。他のサービスもだいたいこうやってますんで。」
デザ「え、なんでですか?」
僕「スマホだとデバイスによって幅変わるんで。iphone5とiphone6だと幅違うじゃないですか、解像度も違うじゃないですか。」
デザ「え?なんでですか?」
僕「え?なんでですか?」
~~~~数日後~~~~
デザ「レスポンシブデザインにしたいんですけど。」
僕「いいですよ。」
デザ「こんな感じで」
僕「レスポンシブデザインだと、html変えられないので、こういう全く違うのは難しいと思いますよ。」
デザ「え、なんでですか?やってるところありますよ。」
僕「え、だから、html自体をいじれないので、PCもSPもどちらもデザイン段階から考慮して作らないとダメなんですよ。それに言ってるサービスはレスポンシブじゃないですよ。」
デザ「え、なんでですか?」
僕「え、なんでですか?」
~~~~数日後~~~~
ディ「どう?」
ディ「どれどれ?」
ディ「え?なんでこここうなってないの?これは?ここは?これ何?これこうなってないのなんで?」(本当にくだらないボタンの位置とか、fontの微妙な大きさとか)
僕「え?仕様に書いてます?それに俺それ確認してあなた納得してましたよね?それにPDFだとこれが限界です。」
ディ「うーん、大問題だぞこれは・・・」(一円も売り上げてないサービスで大問題とか起こりえないでしょ?)
~~~~数日後~~~~
ディ「昨日考えたんだけど、やっぱりこの機能、こうなるべきだと思うんだよね。」(根本から覆す意見を振りかざす。)
僕「え、明日リリースですよね?もうそのつもりなんですけど。その修正、リリース後じゃダメなんですか?」
ディ「大丈夫だよ、本当に簡単な修正で終わるだけだから。二時間だよね?このくらい」(簡単な修正なんて、中身知らないお前がどうして言える。)
僕「いや、このレベルだと、作り直しですね。」
ディ「え?なんで?だってここチョロっと直すだけだよ?」
僕「ご存知ないかもしれませんが、あなたが途中で細かく仕様変更されたのに対応した際、説明したはずです。こことここは相関関係があるので、影響的には全部ですよ。」
ディ「なんでそんな実装になってんだよ!!!」(なんでそんな仕様にしたんですか?)
~~~~数日後~~~~
ディ「ここのこの仕様なんだけど、どうなってる?」
僕「そこはこうなってますね、どうしたんですか?」
ディ「そこ、やっぱりユーザーフレンドリーじゃないと思うんだよね、こう変更して」(中身が複雑で聞いた端から忘れるレベル。ユーザーフレンドリーとは。)
~~~~数日後~~~~
ディ「あの、前にユーザーフレンドリーにしようって変更したところだけど。」
ディ「ここの仕様ってこうだったっけ?」
僕「いや、そこはこうで、こことこことここと関係しているのでこうなっていて、コードレベルだとこんな感じですね。別のところにも影響あるのでそこもこう直してあります。」
ディ「え?そんな仕様だったっけ?」(ユーザーフレンドリーとは。シンプルイズベストとは。)
~~~~リリース後~~~~
ディ「お疲れ様ー。」
僕「お疲れ様でした。」
ディ「だいぶ遅れちゃったけど、なんとかリリースできたね。やりたいことの10%くらいしか実現できなかったけど。」(何作ろうと思ってるんだ。国か。)
僕「そうですね^^」
ーーーーーーーーーーーーーーー
もちろん売れているサービスも売れてないサービスも、同じような現場なのだとは思う。
ただレベルが違うだけで。
僕も全く優秀なエンジニアではないから、スキル不足の面も大きいのだと思う。
これがいつまで続くのか、という不安となんでも経験だろ、と突っ込んでしまった後悔しか残っていない。
~~~~~~追記~~~~~~
仕事の合間にみたら思ったより拡散されているので、ちょっと困惑しています。
多少の誇張とごまかしはもちろんあります。特定を避けるためです。
そして、現状に対してキレているわけでもどうにかしたいと思っているわけではないです。
あ、これを書いた昨日は相当キレていましたが。
これらのことはだいたい普通だと捉えています。人間のすることですし。プロジェクトは期間が長いですから、変化が当たり前です。変化の仕方が変なだけで。
エンジニアは発信する文化があるので、結構他のエントリでも読めますが、もっといろんな業界の人の専門職のバージョンを読みたいので、見ている人がいれば、ぜひ投稿してください。
最後に、胃が痛くなった人、古傷が痛んでしまった人、思い出したくないこと思い出させてしまった人、申し訳ありません。
~~~~~~追記2~~~~~~
続編書きました。いくつか反応に返信させていただきました。
映画好きの女子大生を主人公にした、安田剛助先生の『私と彼女のお泊り映画』という漫画があります。僕の大好きな作品です。
この漫画の最新話の一部が2ちゃんねるに抜粋掲載されて、そのスレッドがまとめブログにまとめられたことでちょっとした話題になりました。
映画通の男「邦画はクソ。黒澤映画だけは認める」 女さん「はぁー(クソデカイため息) 論破してやるわ」
【映画】なんだよこの漫画www【注意】 : 2chコピペ保存道場
よくいる「ちょっとオタク入ってるめんどくさい大学生」がここまで見事に再現されるとはwwwww : 無題のドキュメント
この男子大学生が登場する回は実は僕もあまり好きではなくて、というのも、彼のキャラクターが如何にもな“ステレオタイプの自称映画通”すぎるからです。
主人公・小春の最後のセリフ「あなたが好きなのは『映画』じゃなくって『映画が好きな自分』じゃない??」を言わせるためにでっち上げられたキャラクターで、所謂邦画ファンの仮想敵でしかありません。
そういうのを言い負かす啓蒙的な作風はこの漫画に求めるところではありませんでしたし、そもそもこんな事言う自称映画通なんて今どき存在しないだろうと思っていたのですが……
というか、少し引きました。
8名前:名無しさん 2017/04/26(水) 21:36:48.05 ID:M9GbgbRG0
言う女に同意できるわけ無いだろう
別に男が悪いとは思えないのだが
69名前:名無しさん 2017/04/26(水) 21:56:57.52 ID:nt7/WWjT0
265 名前:/名無しさん[1-30].jpg[sage] 投稿日:2017/04/26(水) 22:34:42.86 ID:naDWyRswp
言ってることは間違ってないな
クソみたいな映画を絶賛するアホ女多すぎ
もちろん、邦画に対して肯定的な意見も多くあるのですが、ネット上とはいえこんなアホみたいな大学生に同調する人間が多くいることに驚きました。
そしてここからが本題です。
思えば確かに、ここ最近のネット上での邦画叩きは目に余るものがあるなと感じていました。
個人的に、その流れは三池崇史監督の『テラフォーマーズ』が公開されてから加速していったように感じられます。
漫画原作の映画が増えてきている昨今、『テラフォーマーズ』の出来が芳しくなかったという風説を受けたオタク達が挙って“漫画原作の映画は叩いていいモノ”、そこから派生して“邦画は叩いていいモノ”という風潮を作りあげているのではないでしょうか。
漫画作品が映画化されるという報せが届く度に、2ちゃんねるやTwitterのようなSNS上で、まるで親の敵に出会ったかのごとく、批判の嵐が巻き起こります。続いてビジュアル、予告編が公開されると、その勢いは更に加速していきます。やれ再現度が低いだの、コスプレ大会だの、ダサいだの安っぽいだの。
批判有りきのバイアスを掛けて見れば、正当な評価などできようはずはありません。公開前の作品に対してそこまで否定的なことを書き続けるのは最早ネガティブキャンペーンの一種でしょう。しかもそこから「だから邦画は糞だ」みたいな論調に持っていくのだからもう目も当てられません。
そんな差別主義者、邦画レイシスト達に、僕はモノ申したい。観もしない映画を批判するんじゃないと。邦画は、あなた達の批判オナニーのおかずじゃあ無いんだと。
はじめにことわっておくと、僕自身は別にそれほど邦画が好きというわけでもありません。映画はよく観ますが、圧倒的に洋画のほうが多いです。
こんな記事を書いておいて何を言うのかと思うかもしれませんが、重要なのは映画そのものが好きだということです。日本に住んでいる以上、邦画も映画興行の一角です。邦画の衰退は、日本映画興行全体の衰退につながります。
邦画レイシスト達を批判するのは、邦画を擁護したいというよりは、日本の映画を取り巻く環境に対する悪影響を危惧してのことです。
さて、ネット上で同意の声が聞かれる、「お泊り映画」の大学生の主張ですが、彼が邦画をショボいとする根拠として
の二点をあげています。明らかに、ろくに邦画を見ていない人間らしい的外れな批判ですが、彼はこれが真理だと言っています。
先に言ったように、このキャラクターは小春の最後のセリフを引き出すために設定された馬鹿な仮想敵で、そもそも発言に正当性なんてあるはずはありません。しかし、一部の邦画レイシストは彼同様これが真理だと思っているようです。
わざわざ間違った発言をあえてしているキャラクターの間違いを指摘するのは野暮というものですが、こちらもあえて、彼が如何に的外れは批判をしているのか示しましょう。
まずは、ケータイ小説ばかりのイメージ。といっても、『世界の中心で、愛をさけぶ』がケータイ小説原作でないのは言わずもがな、今日日ケータイ小説なんて名前も聞かなくなった死語同然のワードで、恋空がブームになったのももう随分前です。病気で殺しとけばいいと思っているような邦画といえば、最近だと『バースデーカード』や『四月は君の嘘』、あとは事故死ですが『Orange』あたりもそのイメージでしょうか。なんにせよ、ここ最近ではそれ程多くないように感じられます。
なので、男のイメージを前時代的と断ずることは容易です。ただ、安直なコンセプトという意味では確かに現状邦画の一角を占める存在が有ります。
現在公開中の『PとJK』や『ひるなかの流星』をはじめ、少し遡るだけでも『今日のキラくん』や『オオカミ少女と黒王子』や『溺れるナイフ』や『ヒロイン失格』など、枚挙に暇がありません。加えて、『ハルチカ』や『リライフ』や『君と100回目の恋』など、本来少女漫画が原作ではない映画も、そのイメージに取り込まれています。
しかも、このたぐいの映画はヒロインとその相手役に現在売り出し中の俳優/女優を起用して話題作りをしているので、二点目のアイドル性重視のキャスティングにも引っかかってきます。つまりこの一角は、彼の批判を真向から受けるゾーンということになります。
正直に言うと僕自身、この辺りに対しては公開される度に「またか」という気持ちにもなりますし、違いもよくわかっていません。だって観てないから。
確かに、この一角は邦画の一側面では有りますが、無論これが全体を体現しているわけではありません。マーケティングが大々的だからそのように感じてしまうだけです。
逆に言うと、観ていないからこそそれらの映画がショボいのかどうか判断はできません。
例えば『ひるなかの流星』はレビューサイト「KINENOTE」で67人の平均点73.4点との評価がくだされています。鑑賞人数は少ないですが、キネ旬が運営するサイトなのでそれなりの映画ボンクラ達が集まっているはずなので、この評価はなかなかのものだと思われます。どれも同じように見えても中身が違うのは当然で、玉石混交する中にはちゃんと面白い映画があってもおかしくはないのです。
つまり、コンセプトの安直さがそのまま映画のショボさに繋がるかというとそんなことはないということです。
この程、マイケル・ベイ監督が『トランスフォーマー』シリーズの量産体制に入り、既に14本分もの脚本が仕上がっているという報道がありました。14本って、相当な量ですよ。『トランスフォーマー』は作れば売れるが約束されているからここまで攻撃的な体制が取れるのです。これこそコンセプトの安直さの極みでは無いでしょうか。そして、『トランスフォーマー』シリーズ一本一本がショボい映画ではないことは皆さんご存知のはず。
あとは、マーベルスタジオも自社のコミック原作の映画をどんどん量産していますよね。2020年までの上映計画が既に確立されている。これも当然、作れば売れるが約束されているからです。そして、こちらのクオリティに関しても周知の通り。
少女漫画原作の邦画群もまた作れば売れるが約束されているコンセプトだから量産されているわけですが、それを以って製作が手抜きだと断ずるのは浅はかにも程が有ります。
実際に観てみると、本当にどれも同じような映画に観えるのかもしれません。しかし観てない以上、その一点で批判するには感情に寄りすぎているのではないでしょうか。
それに何より、そういった映画群が対象にしているのは女子中高生です。それが邦画全体であろうはずはありません。安直なコンセプトもアイドル性重視のキャスティングも、それが対象にするのが女子中高生だから効果的なのです。邦画を批判して悦に入ってるような、オタクや中年男性なんて端から対象にしていません。
なのにそれを論ってショボいだの言ってるのは大人げないの一言につきます。
ケータイ小説のような、今で言うなら少女漫画原作のような映画だけが邦画じゃあありません。そんなことを言っている人は、マスメディアの宣伝にしかアンテナを張っていないと自白しているようなものです。映画に対する関心が薄い、芸能ニュースだけをみて映画情報を仕入れている気になっている人間に、邦画全体を批判する権利なんてありません。恥を知ってください。
先程も言ったとおり、僕自身はそれほど邦画を観るわけではありません。昨今よく漫画の実写化失敗例として挙げられる『テラフォーマーズ』も『進撃の巨人』も観ていません。なぜなら興味が無いから。
両作品とも、アニメは観ていました。特に巨人は、現在放送中の第二期も毎週楽しみにしています。大好きな作品です。しかし映画は、特に興味がわきませんでした。
そもそも映画は、テレビ番組や雑誌掲載の漫画とは違い、観るかどうかの判断の多くは観る側に委ねられます。だって、わざわざ映画館に足を運んで、1800円のチケットを買わないと観れないのだから。
ザッピングしていて目にとまることも、とりあえずで録画することも、買っている雑誌をパラ見して視界に入ることもないのです。テレビなんか比じゃないほどに「嫌なら見るな」が成立するコンテンツなんです。
漫画が原作の映画が公開されて、それがひどい出来だったか原作ファンが憤る。これは理解できます。その作品が好きで、その作品の新たな一面が見られるのだと期待に胸を膨らまして劇場に足を運び、目にしたものが原作を踏みにじるような駄作だったなら、それは批判してしかるべきでしょう。また、はじめからバイアスをかけて劇場に臨み、批判箇所をピックアップしながら鑑賞し、帰ってネットにそれを書き連ねる。僕自身はあまり理解できない楽しみ方ですが、それも正当なことでしょう。なぜなら能動的に足を運んでお金を払って鑑賞しているのですから。
しかし、そうでない人間はなんなのか。ビジュアルや予告編が、それどころか実写化の報せが出ただけでクソ認定してメタクソに叩き、果ては邦画の体制までもバッシングする邦画レイシストはなんなのか。原作のファンで、実写化した姿など見たくないというのなら、見なければいい。最初から期待が持てないのなら、無視すればいい。原作が好きだからというペラッペラの免罪符を掲げても、その実やりたいことは何かを批判して快感を得ることでしかないのではないでしょうか。確かに上映期間中はテレビでもCMが流れたり芸能ニュースを席捲することもあるでしょう。でもそんなのは、上映期間中のほんの一ヶ月程度と、それ以前の宣伝期間の、正味二ヶ月程度のものです。それさえすぎれば、余程のものでもない限り、もう目にすることはなくなります。
例えば『銀の匙』や『男子高校生の日常』や『ひぐらしのなく頃に』が実写映画化されたことを覚えている人が果たしてどれくらい居るでしょう。どれもアニメ化もされた大人気作品ばかりですが、映画の方はまず話題に上がりません。その程度のものなのです。
無視していればそのうち過ぎ去っていくのをわざわざ叩くのは、原作愛でもなんでもありません。批判して快感を得たいだけのただのオナニーです。漫画原作映画は、邦画は、邦画レイシストのおかずでは決してありません。
『テラフォーマーズ』も『進撃の巨人』も僕は観ていません。なので両作品に対して言及することは出来ません。便乗している人間はともかく、観た上で批判している人たちの意見は正当なんだろうなと思います。
しかし僕も、漫画実写化の中でも悪名高いあの作品は観ました。そうです、『デビルマン』と『キャシャーン』です。
『デビルマン』は、今でも漫画実写化の際に名前を挙げて「だから実写化は糞だ」という批判につなげる格好の材料となっています。2004年の公開にも関わらず未だに話題性を持続している、ある種伝説的な作品です。
これ一作で邦画批判につなげるのは短絡的に過ぎますが、実際この映画がそびえ立つ糞なのは事実です。僕自身観た作品なので遠慮なく言います。本当に酷いです。苦行かと思えるほどに。評判の悪い映画はあまり積極的に観ようとしない質なので、自分の中ではクソ映画の極北として君臨している作品です。
しかし『デビルマン』は本当に極端な例です。漫画実写化が全てこのレベルなら邦画批判も已む無しと思いますが、このレベルのクソはなかなかひり出せるものではありません。納豆が臭いからという理由で日本料理全体を批判するのはお門違いというものです。というのも、『デビルマン』と同年に公開され、クソ実写化の双璧と並び称される『キャシャーン』が、蓋を開けてみると実はそれほど酷いものでもないからです。
確かに手放しで褒められる作品ではないのですが、少なくとも『デビルマン』に比べると兆倍面白いですし、見応えがあります。PV畑出身の紀里谷和明らしく映像面のこだわりは強く、サイバーパンク的意匠が凝らされたディストピア風美術を日本で展開する舞台は一見の価値が有ります。アニメ原作であることを意識して、アニメーションを取り入れた演出がなされていたのも斬新でした。実写用にブラッシュアップされたキャシャーンのデザインもかっこ良く、今のアメコミ映画の隆盛に先駆けていたとすら思えます。クライマックスで明かされるダークヒーロー然としたキャシャーンの背景も、賛否は別れる気はしますがテーマに重みが出て興味深いです。主演の伊勢谷友介や悪役のブライキング・ボスを演じる唐沢寿明の怪演を始め、キャスト陣も申し分ありません。冗長な展開や説明的且つ啓蒙的すぎるセリフ回しが鼻につくことはあっても、『キャシャーン』は『デビルマン』と並んで語られるような作品では断じてありません。そもそも『キャシャーン』への批判は、設定改変によってキャシャーンのヒーロー像を歪められたことに対するファンの憤りからくるもので、映画そのもののクオリティとは別の由来です。
しかし、漫画実写化の際に『デビルマン』と『キャシャーン』の名前を挙げて批判している人間が居ます。彼らはまず間違いなく『キャシャーン』を観ていません。邦画レイシスト達の共通理解として“『キャシャーン』は叩いていいモノ”があるからの現状なのです。このことからも、邦画レイシストが如何に短絡的で、感覚的に邦画を批判しているかがわかります。彼らは邦画を観ていません。イメージと伝聞でしかものを語れないのです。
近年、僕が観た邦画の中で面白かったと感じた作品をいくつかあげます。(一応、アニメは除きます)
・『ちはやふる 上の句・下の句』
・『アイアムアヒーロー』
・『寄生獣』
・『シンゴジラ』
・『残穢』
・『日本で一番悪い奴ら』
・『SCOOP!』
・『クリーピー』
どれも大々的に宣伝された大作映画ばかりで、映画通が好むミニシアター系とかじゃありません。更に上の三つは漫画原作です。どれも実に面白い邦画でした。これらよりつまらない洋画をいくつも挙げることが出来ます。
映画が好きな人間であれば、意図的に避けようとしない限り邦画を観ることもあると思います。そのどれもが全く琴線に触れない人間など本当に居るのでしょうか。漫画を原作にしていても面白い作品はたくさんあります。邦画全体となれば尚更です。
本当に観ていれば、やたらと批判なんて出来ないはずです。それは、自分の感性も批判することになるのですから。実際、邦画それ自体が肌に合わないという人もなかにはいるのでしょう。しかし、SNSで邦画叩きをしている人間が皆そうなのでしょうか。おそらくそんなことはないでしょう。多くは叩きたいから叩く、邦画は叩いていいモノだから叩く、と思考停止している人間なのではないでしょうか。
自分はモノを見ないで感情的に対象を批判する、欠片の理性も持ち合わせないような人間ですと自白して、恥ずかしくはないのでしょうか。
僕もまたこうして、邦画レイシストなんてアホなネーミングの仮想敵を作って、一方的に批判を飛ばして悦に入っているだけの人間です。さっきも言ったとおり、邦画そのものに対して特別な思い入れはありません。
しかし、こうして文章にして発信することで、仮想敵だと思われた邦画レイシストが食らいついて、話題になってくれることを密かに望んでいます。
映画は好きです。邦画にも好きな作品がいっぱいあります。『銀魂』や『トーキョーグール』や『鋼の錬金術』等、観に行こうと思っている漫画原作の映画もあります。自分の好きなモノを理由もなく批判する人間は当然不愉快です。何よりも僕の映画ライフのために、そんな不快な人間が一人でも考えを改めてくれることを願っています。
「限定正社員」という別名が示しているとおり、「ジョブ型正社員」という制度は、「非」限定正社員つまり従来型の正社員制度をそのまま残すことを前提にしている。
正社員とは、特定企業の完全なメンバーであるという身分のことだ。
正社員である限り、その他の雇用形態の人よりも多くの特権が得られて、企業の外にいる人たちからも「この人は〇〇社の正社員だ」と区別されるので、正社員は身分だ。
正社員でない派遣社員、契約社員、パート、アルバイト、嘱託等は、正社員よりも得られる特権が少なく、正社員よりも身分が低いものとみなされる。
契約社員とたいして代り映えしないようにみえる、「ジョブ型正社員」というもうひとつの身分を、どうしてわざわざ作り出す必要があるのか。
「ジョブ型正社員」は、「転勤しない代わりになんか給料が安い人」の代名詞になっているが、もともと欧米の企業の雇用形態を真似してできたものだ。
乱暴にまとめると、欧米の企業は、ジェネラリスト採用がほとんどなく、マーケティング、セールス、ビジネスデベロップメント、HRといったように、役割あるいは職域に応じて人を採る。
日本でもメンバーシップ型の雇用制度はいろいろ弊害がある、というか、年を取ってスキルがない人が居座って、お金がかかって大変なので、即戦力になる人をサクッと採ろうということになって、「ジョブ型正社員」ということを言いだした。
だが、そういうことを言いだした人々のうちで、少なくない数の人が、ジェネラリストつまり「総合職」というくくりで採用されて、会社の中で偉くなっていった人だった。
そういうわけで、「ジョブ型正社員」という概念をつくりだすにあたって、「正社員=総合職」という身分を廃止しようなどということは、思いもよらなかった。
その結果、「ジョブ型正社員」は、正社員を頂点とする身分制度に「限定正社員」という下位区分をひとつ作り出すだけの「改革」に終わった。
「正社員=総合職」という身分を廃止しないかぎり、「ジョブ型正社員」として採用された人が平等な、一人前の労働者として認知されることはない。
お前は会社の完全な奴隷になるという契約にサインをしないのだから、収入面やほかの待遇で半人前の扱いを受けることに甘んじなさい、というわけだ。
これを「現実」として受け入れない奴は甘えている、いやそうではない、という人々の間で、また罵詈雑言のやりとりがつづくだけで、日本は今日も平和である。
その事は(誰も気にも留めないけど)社内でも公にしている。
で、今日とうとう「統計なんて勉強してる場合じゃないですよ。社内がこんだけヤバいんだから」と言われてしまった。
まぁね、俺も休日に時間を取って学んでる最中に『いま俺はこんな事をしている場合なんだろうか...』と不安になることもあるよ。
マネジメントとかマーケティングとか、俺の直近の業務のために学ぶべき事があることも知ってるし、不器用ながらそっちも学んでるつもりだよ。
ただ『生きてる限り何かを学び続けるのが俺の人生だ!』ってくらいに考えてる俺にとって、少しでも学びたい気持ちがある物事を学ばないってことは出来ないんだよ。
ま、今日の事については「お前使えねぇな」って言われてるってことなんだろうけど、
そんなことよりコレを読んでるみんなが最近新しく学び始めたことって何?
それを知りたい。
マーケティングに利用したい側は困るのでは? 各種公式アカとか。
一般ユーザーとしては、部外者からの注目はいらない趣味つながりでの交流にはマストドン
マイナーだけど良い作品を、信者だけでなくもっと広く布教したい時はツイッター
などと使い分ける人が出てきそうだなと思った
https://www.landerblue.co.jp/blog/?p=32171
こちらの記事についてです。
まあ気に入らないからといって口汚く罵倒するのは論外としても、ご本人も仰るように、男性は賛同意見が多く、女性からは抗議がくる、というのには何かしら理由があるはずなのです。
かく言う私も、永江氏の文章には引っかかるものが少なからずあります。
それはなぜなのか。私なりに考察してみました。
まずひとつ、引っかかるのはここです。
現代社会においては、女性の服装や化粧は、もはや異性を惹きつけるためのものではありません。
雑誌やメディアでは「モテ服」「モテメイク」などと囃し立てるので勘違いされがちですが、私たち女性は、意識的にせよそうでないにせよ、もしその中から選んだとしても、一番自分の感性に合った、自分に一番似合うと思う、もしくはなりたい自分に近いものを選んでいます。
永江氏の、というかこういう「ナチュラルなままが一番」という言説は男女問わずよく聞かれるものなのですが、現代人が工夫を凝らして身支度を整える時、それはすっかり身支度が整った姿こそが、私たちのナチュラルな姿なのです。
「外面より内面を磨くべき」という言説もよく聞かれるものですが、これに反発を感じる女性は、知性があるからこそ、きちんとした身支度を整えることができるのだと信じています。
派手であっても知性がなくてはできない、地味であっても知性のかけらもない、ということは多々あるので、派手、地味、ではなく「知性のある装い」と「知性のない装飾」というふうに区別していただきたい。
その意識の差というか、ナチュラルとは何であるのかという認識の差に、女性は反発を感じるのかもしれません。
もし本当にそうであるなら、女性がどんな格好をしていようとも意に介さず、中身を見るはずなのです。
でもその直後に、マーケティングでは男性はすっぴんに清楚な服装が好みなのだと続けておられる。
そこは格好をつけず潔く、男女問わず人というものは、初見では他人を見た目で大部分を判断しているのだと認めていただきたい。
永江氏の文章からは、男性は賢いので女性の中身しか見ないものだ、愚かな女性ばかりが見た目ばかりを繕うのであるというお考えが滲み出ており、ここもイライラさせられる点であります。
(きっとそんなことは一言も書いていないと仰るかと思いますが、こういう話題を出してくること自体が、もしかして女性のほとんどはそれを知っている上でアイデンティティを守るためにあえてそうしないのかもしれないということは勘案せず、「女性は全員見た目ばかりと取り繕うことに夢中で、客観的にものを見ることができないのだ」と、ひとつ下に見ているのだということです。)
みくりは、就職活動に失敗したために、手っ取り早い就職口として津崎さんとの結婚を選んだわけです。
一度就職活動から逃げたので、逃げるは恥だが役に立った訳です。
それは、「男に寄生しようとか絶対に考えない」と言えるでしょうか?
お給料が出る家政婦と、家事をノーギャラで賄う主婦とでは、どちらの方が遺伝子的に優れていますか?
働き者の専業主婦と、自立して稼ぐ叶姉妹の遺伝子に、どんな違いがあるのでしょう?
以上のことを総括します。
つまり恋愛にマーケティングなどいらないのです、男性の大多数の好みがどうであれ、女性がそれに合わせることはありません。
最初の門戸の広さの話だと仰いましたが、そこは間口を広げる必要はありません。
最初からスッピンなら「騙された感」が少なくて済むと仰るのであれば、本当の自分を偽って、マーケティング通りに振舞って手に入れたパートナーは、それが偽りであることを明かし本当の自分に戻れば、やはり騙された感があるのでは?
その男性版として、手当たり次第に女性にモテたい結果として生まれたのが、恋愛工学だと思います。
あれは、学生時代にモテなかったルサンチマンと性欲をどう晴らすかが目的なので、相手は誰でもいい。
一夜を共にするのがゴールなので、自分をどれほど偽ろうと問題ありません。
そんなものを、一生を添い遂げる相手を探す恋愛の手段として、オススメしないでいただきたく。
男性は、ありのままを受け入れて欲しいという女性の要望に疲れていますか?
それは、女性の本質を見ずに、見た目が清楚な地味な女性こそが好ましいと決めつけてきた男性のみが溜めてこられたツケです。そこはお納めくださいませ。
そこが一番の違和感といったところでしょうか。
なぜ私がそこまでこの件にムキになるのか、そこも考えてみたのですが、私は、「マーケティングではそうである」という一見理知的に見える論法が流布されることにより、まだアイデンティティの確立していない若い女性が、服装やメイクは男性の好みに合わせることこそが理知的な振る舞いであると啓蒙されてしまうことが一番怖いと感じているのかもしれません。
次々と消費されていく商売であれば、とにかく商品を買ってもらうことが利益につながるのですから、マーケティングの結果に従うのはもっともなことです。
けれど、こと恋愛などのプライベートな個人対個人の付き合いでは、これは適応されるべきではありません。
人は、商品ではありません。
どれだけモテたくない人は好きにしたらいいとエクスキューズを入れたところで、モテたい真っ盛りの若い人間にそう啓蒙することは、害悪でしかないのではないでしょうか。
モテたくても、相手の好みに流されてはいけません。自分をしっかりと持ってください。自分とは何なのか、何が似合うのか、何が好きなのか、しっかり考えてください。
何かを偽り、異性を手のひらで転がすといったような、相手に対して失礼なことをしてはいけません。
女性に手のひらで転がされたいという甘えたようなことを言う男性につきあってはいけません。
女性蔑視などということではなく、男女ともに、何に縛られることなく、自分の好きな服装やメイクをして、また自分に似合うと思うものを探し、自分自身が満足する自分を探し求め、同時に、そういうしっかりとした自分自身を持つ相手を、自分の好みを押し付けずに尊重して受け入れる。