はてなキーワード: 自死とは
話題になっていた標題の記事を読みました。いろいろと考えました。
内容そのもののこともそうだけど、訳がやっぱこなれていないのなかなぁと。
たとえば、私だったら、下の本文の原案の訳は、次のように考えます。
”The capital-T Truth is about life before death. It is about making it to thirty, or maybe fifty, without wanting to shoot yourself in the head. It is about simple awareness-awareness of what is so real and essential, so hidden in plain sight all around us, that we have to keep reminding ourselves, over and over: "This is water, this is water."
真実、といっても、普通の真実じゃなくて、カッコづきにしたいくらい別格の『真実』ですね。
その『真実』とは、死を迎える前の「生」、つまり皆さんが生きている日々のことです。
自死、つまり自殺などしたいと思わず、30歳、人によっては50歳くらいまで、何とか生きていくこと。
何が本当にリアルで、大切なのか、私たちの視野に入っていて、そのままの中に溶け込んでいるいることに対して。
そして、私たちが何度も、何度も、自分自身に対して注意を向けなければならないことなのです。
まるで、水のように。
魚にとっての、水のように。と。
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・”Tを大文字にした真実”は、つまり”平たい真実ではない”ってことと解釈。
・make it to 30 or maybe 50を読んだとき「生き延びる」に近いニュアンスに感じたのと、この場合のmaybeは、「場合によっては」のニュアンスかなと。
・アメリカとかだと銃が蔓延しているので、shoot oneself in headはなじみ深いけど、字義通り訳すと日本のスピーチではあんまなさそう。と思って、平たい自殺に。
・It is about~から始まる、重要だけど、やや長いところは、文法的にがちがちに解釈せず、あえて切り分けた。
これは文字として読ませた文章ではない。なので、あるメッセージを連続してつなげてお話しているイメージでとらえたので、
むしろ一つ一つが独立した区切りで実際はスピーチしてそうだな、と考えた結果。
・awareness-awarenessの訳に「意識高い」って言葉を使うのは結構悩んだけど、「意識をもつ」という平たい表現で「意識して意識をもつ」とすると
日本で「意識高い系」なんて言葉が生まれたのが良くないねーなどと考えましたが、そこに翻訳に際して文化的側面が影響を与える興味深い事象などと思ったり。
・hiddenの訳を最初「潜む」って訳しましたが、「見えてるけど実は意識しないと見えないもの」だとしたら「溶け込む」っていう表現ありかな、などと。
・This is water。この訳は、いろいろとできそうですね。私が文面から感じたニュアンスは、訳のとおり。
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別に翻訳家でもないけど、言語表現についてはいろんな局面で考えることがあって。
「これは水です」の中身はとってもしみじみと感じ入ることができたわけですが、
特に人文系において、大学や研究を取り巻く環境が厳しいので、少し愚痴を書かせていただきたくお邪魔します。
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研究生活が実生活、ことに家庭生活に対し極度の不安定性を与えることは、今日に始まったことではない。
例えばかの有名なマックス・ウェーバーによる1919年の講演の中では、「大学に職を奉ずるものの生活はすべて僥倖の支配下にある」と語られており、「精神的に打撃を受けることなくこうした境遇に堪ええたためしは極めて少ない」とまで言われている。
このような状況は、100年の時と洋の東西とを超えた今日の日本においても、同様である。むしろ、人口減少と学問に対する軽蔑——それはおそらく、ウェーバーが講演の中で強調した、学問がなんの「救い」も「啓示」ももたらさないということを、多くの人々が正しく認識したからに他ならないが——に直面している極東の島国の方が、研究生活を取り巻く環境は過酷であるといえるだろう。
博士号を取ったとしても多くの人々には就職先がなく、あっても有期雇用で、しかも低賃金であり、長期的な研究生活の途を描くことは全く不可能である。
日本より恵まれた研究環境を有する国、例えば博士課程から給与が出るアメリカや、高等教育がほぼ無償であるフランスの例を持ち出すことは簡単である。しかし、研究生活はその研究者が根ざしている言語、文化、あるいは人的ネットワークにある程度は依存せざるをえない。また、他国の研究環境は、一部だけを切り出せば外面的には羨望の的になりえるが、実際は、給与と引き換えに研究テーマの選択が制限されたり、あるいは無償で得られる研究環境には限りがあったりするのである。
当然のことながら、研究者における研究成果はそれぞれのおかれた研究生活の諸条件に左右されるのであり、それは資本的な制約を大きく受ける理工学系のみならず、人文系についてもそうなのである。
ハンナ・アーレントのように、生地での生活を根こそぎ奪われ、新天地で大きな研究成果を挙げる例もないわけではない。大学や官職への道を閉ざされてから活躍したカール・マルクス、そもそも学歴のなかったピエール・プルードンなども、偉大な思想家としてのちに崇められる存在である。しかしながら、すべての人が偉大な人、指導者のような人、あるいは預言者になることを目指して研究に励んでいるわけではない。実態はむしろ逆であり、陽が当たらない部屋で日がな一日、誰も読まないような古雑誌の1ページをどう解釈するかについて考え、その謎を解けた時に無常の喜びを感じる、そういう人が研究生活に入るのである。そのような、全くつまらないことこそ重要な研究成果なのであり、むしろ大きな社会的反響を呼び起こす御宣託が科学的な研究成果とは全く呼べないようなものであることは、ウェーバーの指摘するところであり、歴史が度々証明してくれたところでもある。いずれにせよ、研究生活とは社会的名声や富と全く関係がないどころか、資本主義社会ではしばしばそれらは相反するものとなるのである。
尤も研究者も所詮人間であるからして、研究そのものの「客観性」や科学の位置付けとは無関係に、それぞれの求める研究生活上のあり方というのは存在する。名声や富を求めて研究に取り組む人もいるのかもしれない。しかしそれは明らかに悪手だ。羽生名人でも挽回できないぐらいの悪手だと思う。
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さて、反面、家庭生活はまさに「経済」の必要に駆られるところのものであり、十分な収入、定住可能な住居、そして可能な限り多くの家事労働(自動化が進んだとはいえなお労働集約的だ)が投入されて、初めて成り立つものである。
収入がないなどもっての外であり、亡命や収監、失踪や放浪なども、家庭生活とは相容れないものである。
歴史を顧みれば、自死や発狂、子捨て、虐殺に至るまで研究に身を置いた人々の末路は様々であるが、なんとかしてそのような事態は避けたいと誰しもが願うところであろう。
できれば平穏無事に、昭和時代に理想とされたライフスタイル、すなわち夫婦円満で子供と共にマイホームに住み、安定した立場で働き定年後は年金生活という人生を歩みたいところである(これは皮肉である)。
しかし今日の若き研究者は、子供はおろか結婚もままならず、マイホームもマイカーも持たず、年金制度の破綻を前に怯えながら年老いるのである。
もしあなたが結婚したとすれば、それはパートナーの全く寛大な心によるものか、パートナーが無知蒙昧で完全に誤った選択をしたかのいずれかであろう。
さらに子供がいるとすれば、当然あなたは研究生活を放棄するか、あるいはなんらかの安定した不労所得に拠って研究生活と家庭生活の両立を試みねばなるまい。(あるいは、あなたが非常に体制と時代に順応的な研究をなしていたとすれば、すでに十分な収入に恵まれているかもしれない。これこそウェーバーの言った「僥倖」である。そういう人には心から祝福を送ろう。願わくば同じような僥倖が数多の迷える研究者たちにあらんことを。)
多くの研究者たちにとって、結婚と出産は研究生活の首にかけられた縄である。
女性研究者の研究生活は性別的役割分業的発想や家庭生活に対する支援をパートナーから十分に得られないなどの理由によりすぐに縛り首になってしまうが、男性研究者の研究生活も同様に性別的役割分業的発想や金銭的支援をパートナーから十分に得られないことですぐにギロチンにかけられてしまう。
いずれにしろ、他者にとって金にならず有用性のわからない行為としての研究は、家庭生活に直面すると挫折する公算が大きいのである。
だからといって、家庭生活を全く否定してしまうことも困難である。穂積陳重以来日本の身分法学者は、日本国民の位置付けを次の三つの身分のいずれかあるいは複数に属するものと定義した。すなわち、夫婦、親子、親族である。
しかし、親が死に、結婚もせず、親族との紐帯も弱いとなれば、その人は社会的にも法律的にも、全く孤立した存在となってしまう。
その人は十分な社会保障の対象にならないことはもちろん、社会生活上の様々な面で制約や不利益を受けることとなる。
実際上の問題として、社会的要請として家庭生活に入ることを我々は求められており、多くの人はその生活が全く不幸であり耐え難く絶望的なものだと感じていたとしてもなお、家庭生活に甘んじているのである。
当然、研究をしていなければ家庭生活が楽になるとは全く言うことができない。しかし、少なくとも研究生活が家庭生活と激しく対立することであることは自明であることのように思われる。
あるいは「家庭」という理想像の崩壊、高齢者二人世帯や単身世帯、シングルマザーの増加、生涯独身者の増加などによって、家庭生活という名付け自体が空虚なものになっているという批判があるかもしれない。
しかし反面で、なお結婚と出産を経験する人は半数を占めており、「家庭」に代わるほど普遍化された結婚と出産を前提とした私的領域の生活のモデルはいまだに存在しないわけだから、やはり家庭生活という呼称を用い、特に若い研究者たちにとってはそれを重視せざるを得ない現状もあるのだ。
* * *
収入、定住、家事労働を求める家庭生活は、無収入、度々の転職と転居をもたらし、にもかかわらず時間の余裕を求める研究生活とは、完全かつ深刻に対立する。
では、この間の解決はどのようにしてもたらされるのか。非研究者であるパートナーの忍耐によってであろうか。あるいは研究生活の適度な抑制によってであろうか。
前者はこれまでの男性研究者がしばしば採用した方法であり、女性に人権がない時代であればよかったが、21世紀にもなってこの方法を採用しようと思っている人がいるなら、その人は妻を見つけることができないであろう。
後者の方法は、実際には採用し得ないものであり、つまりそれは相撲レスラーが炭水化物の摂取を控えるとか、プログラマーが1日3時間しかモニターを見ないようにするとかいう話であって、研究生活を「適度に抑制する」などということは単に研究生活の否定でしかない。
研究者はその人をして全的に研究に没頭せしめなければ、素晴らしい「霊感」を得られないものである。そうでなければ、特に人文学の研究においては、それは単なるジャーナリズムに陥るであろう。
そして、これもウェーバーと同じく声を大にして言いたいところであるが、そのような素晴らしい「霊感」、今日の言葉であれば「イノベーション」などというものは、研究のみならず仕事や様々な形の労働の中でも、それに没頭し専心していなければつかむことの能わざるものであり、行政府が旗をふって労働時間の長短や職業訓練の有無をいくら弁じ扇動しようとも、生まれてこないものなのである。
家事労働、ワークライフバランス、長時間労働の問題は、まさにこの没頭の可能性にあるのであり、特に家事労働は時間を細切れにしてしまうために人をして何かに没頭させることを妨げること大である。ワークライフバランスも、結局その目的とすることが明らかでないから低賃金かつやることのない中途半端な余暇をもたらすだけである。長時間労働を改善しても、人々が自ら欲するところのものに取り組めるような労働時間の設定でなければ、それが長かろうが短かろうが、人々の不満は変わらない。いくら労働時間が短いとしても過労死は起こりうるし、長く労働していても過労死しない場合があるのは、この理由によるのである。
とにかく、家庭生活の求めるものを根本的に否定しなければ、研究生活は成り立たないのである。
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では、解決方法は何か。家庭生活の問題点は、それが夫婦という二者で成立するように想定されていることである。それゆえ、収入と定住を男性が支え、家事労働を女性が支えるという構図が出来上がった。
しかしこの想定は噴飯ものであり、シングルマザーは全て一人でやらざるを得ず、あるいは逆に親族からの支援で収入の不安が軽減されたり、実家を譲り受ければ定住も可能というように、家庭生活の諸条件の実現は夫婦という関係性の外部で決まっていることが多い。
もし家庭生活に関与してからも研究生活を継続するためには、家庭生活を成立するためのリソースを外部から調達することが最も望ましい。(逆にいえば、外部からのリソースが調達できなければ、ついにここで研究生活のお墓を立てるしかない。自分の研究というアイデンティティよ、さようなら、と。)
ただ、ここには二つの問題がある。一つは、リソースの調達先である。大川周明のように徳川家から調達したり、大杉栄のように政治家からぶんどってくることができれば最高だし、あるいは明治時代のように女中を置いたりできれば最高だが、なかなかそういうわけにはいかない。もう一つは、その調達が個人の能力に帰せられることで、研究の能力とは別にそれに取り組む環境が規定されてしまうということである。
この二つの問題を解決するためには、若い研究者同士で研究生活を支えるための生活ネットワークを構築するしかない。あるところには金がある人もいるだろう、あるところには手が余っている人もいるに違いない。
どうせ研究生活に勤しんでいる人以外に若い研究者に対して同情を寄せてくれる人はいないのである。
アカデメイアやリュケイオンがどうだったかはわからないが、古今東西大学に併設されている寮や大学街(カレッジ)では生活上でも学術上でも研究者のコミュニティが形成されていたはずだ。修道院のようなものである。
いま、若い研究者は官僚主義的な大学制度によって互いに分断され、地方に散住し、有能なものは国外へ出て行ってしまっている。もう最後のタイミングである。
いま我々若い研究者が団結して助け合わなければ、この国の研究はすぐになくなる。もし研究のなくなり方が緩やかであれば、日本語で達成された学術的成果を、多少なりとも国際的に、人類のために遺す時間的猶予が生まれるかもしれない。あるいは、国外から救いの手が差し伸べられるやもしれぬ。「タコツボ」を脱しなければならない。近くで助け合って生活し、なんなら雑誌なども出して(いまであればブログでいいのかもしれないが)、特に人文系では消え掛かっている研究の灯火を、なんとか引き継いでいかねばならぬ。ならぬと思う。
なんで「情けない野郎だな」じゃなくて「情けないオカマ野郎だな」になるのか謎
俺もアレは自死を脅しに使ったり実にみっともないと思ったけど、それはあの増田が情けないのであってオカマかどうかは関係ないと思うんだが
自民党政権下においては弱者排他主義が推し進められ性差に関する公平な国家としては国際的には後進国レベルの水準に陥っている。それにも関わらず、安倍政権は大企業経営者から成る経団連や就職活動に強い興味を示す若者年代からの強い支持を中心に、依然として最大支持政党として盤石な体制を築きつつある。社会的弱者への排他主義(国際男女平等ランキグン114位)・経団連の駒となる労働者からの権利剥奪(働き方改革)・基礎科学の根幹からの弱体化(ネイチャー誌による2017年の批判・及び国立大学縮小改革)などこの政権下において進められた改革という名の行政行動に従って、この国は福祉・人権・科学に於いて再起不能とも言えるダメージを負った。この世で真に正しいはずの自由と平等・権利といった概念は、多数決という名の暴力に取ってすげ替えられた偽りの民主主義によって地に落ちたのである。これらが示すことは、この国家は安定した負のスパイラルの潮流の上に乗り、2度と戻ることのできない底無し沼で沈み続けるということである。未来はすでに失われた。
一方で、洗脳教育においては一定の成果を挙げ、教育水準が格段に低下しているにも関わらず(https://www.asahi.com/articles/ASKC36GYCKC3UTIL01K.html)、軽犯罪を中心とする犯罪率は格段に減少した(https://www.nippon.com/ja/features/h00068/)。人々は自分を取り巻く世相への理解に鈍くなる一方、穏やかになり荒げた行動を示さなくなった。オウム心理教によるサリン事件実行犯への一斉死刑執行などにも妥当であると理解を示した(http://news.livedoor.com/article/detail/15080532/)。オウム心理教への破防法適用以降、組織的な強硬的無差別殺人は起こっていない。
一見して、世の中穏やかな人々が増え平和になりつつあるように見えるが、冒頭で示した通り国家の未来の礎を築くための萌芽は摘み取られつつある。ここにある仮説を立てたい。即ち人々は自分の意識の外で、いつの間にか国家にその精神を支配されてしまったのである。社会的弱者への排他・排除への批判に理解を示し、後退しつつあるはずの国際的な評価を無視して、極めてニッチでかつバブル期までに成長を築き上げた分野における国際的存在感(https://seattley.hatenablog.com/entry/2017/11/04/141432)への強制的共感(いわゆるホルホル)による自己陶酔。大中小企業で強制残業が深い問題になっているも関わらず、労働者の芽を摘む施策への支持。この国家の国民は爽やかな笑顔で自分自身の首を締め付け自死に追いやっているのである。
恐怖の無い平穏な雰囲気を形成した上での国民の支配。まさに映画「マトリックス」の世界。かつて世界で猛威を奮った共産主義国家が、未来の先に思い描いたユートピアのその先、ディストピアが今の日本でないだろうか(https://ja.wikipedia.org/wiki/ディストピア)。いや、支配的状況を平和と自由と錯覚している人々が大多数のこの国はディストピアさえ凌駕した修正ディストピアと言っても過言は無いかもしれない。この先起こりうる具体的なディストピア事象としては、東京五輪への強制(ボランティア)参加であろう。すでに粛清の対象も挙げられている(https://togetter.com/li/1212415)。もうすでに始まってしまって、予言もへったくれもないが...さらにその先、この国には何の救済も無い絶望を突き進むのは間違いない。
北朝鮮とアメリカの武力衝突、中国との東南シナ海での覇権争いなど破滅的武力行為による日本の国家崩壊を期待して自民党に投票された方もいらっしゃるかもしれないがそれらすら期待できなくなりつつある。安定的負のスパイラルに乗りディストピアを突き進む日本。一体全体、いつディストピアに陥ったのだろうか...僕のようなド素人ではなく有識者に論を讓りたい。
これは反応に迷うよなあー。
現状の法律では良かれと思って手伝った人まで幇助罪に問われるし(某評論家のケースとか)、
それに電車や自動車事故、飛び降り、縊死、どんな手段をとっても物凄く辛い目に遭う人が出るからね。
お家で首を吊ると、大島てるに掲載されて大家さんが凄く困ったり、公有地でも捜索隊や警察の手を煩わせる。
自動車の前に飛び込むと、運転手の残りの人生を終わらせるが、電車事故の場合でも、人生のかかった商取引に向かえなくなる会社員、
親の死に目に会えなくなる人、色んな人にとって取り返しのつかない遅延を発生させるからね。
とにかく、他人への迷惑を考えると、自殺だけは思いとどまるべき。
元増田も死ぬ瞬間、どんな手段であっても激痛が走ると思うしね。
以上の前提を考慮した上で言うが、私は「死」自体は自己決定権の一部だし、むしろ個人の意思に沿って選んでいいと思う。
欧米の人権先進諸国とは違い、今の日本は遅れていて、安楽死制度が整っていない。
自殺はダメだが、そうではなく、医療的に痛みを伴わず、公共機関や不動産への支障を及ぼさず、
進路指導、転職面談、カウンセリングの場で安楽死という選択肢が出ることすら自由主義社会の一環だと思う。
「うーん、この成績だと、希望の進路は難しいかな、、、かといって就職斡旋も難しいし、、、君の第一志望が安楽死ということなら、しょうがない、推薦状書くよ」
「あなたの境遇では確かに奥さんの希望とお仕事との間で整合性がとれないし、希望するのであれば確かに安楽死もあり」
人生の絶頂での安楽死、家族の負担や結婚を考慮しての安楽死、難病の苦痛から逃れるための安楽死、色々なありかたがあると思う。
以上のように安楽死制度があればいいのだが、不幸にも本国には存在しない。
子供が欲しいという奥さんの希望も尊重しつつ、元増田がとれる選択肢としては、、、。
時折、講演会のようなイベントを開催して当事者が体験談を話すことがある。
講演会の趣旨からは逸脱するのだが、元増田は一度聞きに行くことを勧める。
そこで元遺児の話を聞き、「これは、、、親が自殺したら、子供は経済的にも世の偏見からしても不憫だな、、、」と感じるなら、子を作らずに死ぬしかない。
でも、ご自身の年収とも相談して、十分な遺産(貯金)や保険金・遺族年金さえあればどうにかなりそうかな?って感じたら、奥さんの希望を叶えてとりあえず子供は作り、そのあと死んでもどうにかなるだろう。
子供にとって「父親が自殺した」というレッテルからも逃れる方法として、いったん離婚するという選択肢がある。
ただし、元増田のことを奥さんが好きだ、という面にも配慮する必要がある。
いったん離婚して、しばらく子供が生まれても嫡出推定が元増田に及ばないだけの時間、奥さんに我慢してもらう。
法律上はとりあえず離婚して、ちょっと時間を置いて、その間に奥さんが妊娠・出産して、
生まれた子供の父親が元増田だと法的に推定されないだけの期間が経過してから、もう一回奥さんと再婚する。
その後に死ぬ。
そうすれば元増田の死は、子供からすれば父親でもない単なる母親のツレの死ということで処理され、不利益はかなり軽減される。
精子提供が得られれば良いが、不妊の医学的認定などが条件として課される場合は厳しい。
別のセックスパートナーを奥さんに見つけてもらうという選択肢もあるが、
もしその男性が子供の父親として法的に認定されたら男性にも迷惑がかかるし、そもそも奥さんは元増田以外の性交相手を探すことに抵抗を感じるかもしれない。
だとすると、いったん離婚して嫡出推定が無効になった期間に、元増田が精子を提供するしかない。
以上のように、
・奥さんは元増田が好き
・奥さんは子供が欲しい
この三条件を同時に満たす選択肢は意外にトリッキーなものが存在する。
元増田の希望は一個しか叶えられないにも関わらず、奥さんの希望は二つも叶えるのだから、奥さんにはなんとか妥協して欲しいところだよな。
・周りは犯罪者だらけ
・インターネットが使えない
その中でも最初に言った周りが全員犯罪者ってのは本当にヤバい。
想像力が足りてない人間は犯罪者と聞いても自分と同じような人種がたくさんいると勘違いしてしまうかも知れんがそんな事はない。
多種多様だ。
知能障害があるという判定を受けていないのが不思議すぎる奴もいれば、生まれついての悪としか言いようがない奴、ひねくれきった奴に、自分の世界に籠もりきってる奴、ヤクザの鉄砲玉、ステレオタイプすぎる性犯罪者、自分が捕まったことにまだ納得してない奴、マジで冤罪なんちゃうかって奴、色々いる。
色々あって社会から弾き出された人間の寄せ集めなのだから、無作為ピックアップではとても実現できないほどのカオスが生まれるのは当然といえば当然。
まともな人間のフリをして社会に合わせていくということが出来ず、そこからはみ出してしまった連中が大部分ということは、そうなるレベルである種の奇人変人ないしは我慢強さや協調性が欠如しているってことなのだから。
逆に「世の中はもっとまともであるべきだと思うんだが」なんて考えてるやつは詰む。
完全に詰む。
何より詰んでいるのは、刑務所はシャバと違っていざとなったら自殺するって自由すら無いってことだ。
敵国がいない。
殺すのは日本。不埒な事を考えた権力者によって第二次大戦をなぞるように、外国を侵略して国民は徴兵されて死ぬ。国にマインドコントロールされた国民は自死を求められる。日本は負け続けて空襲され国土がボロボロになる。
自分たちが間違ったことをしなければ、平和で暮らせると思っている。
自分たちが殺す側に立つと思っていない。
平和教育で見せられるのは事後の廃墟だ。もしくは逃げ惑う市民たちだ。だけど、実際の戦場はニ〇三高地のように平和を愛し、敵兵と心を交わす紳士も鬼になる。
ベトナムやアフガン、イラクで心理的後遺症が残った兵士は多い。
平和教育は自分達を律するだけで、何らかの理由で発生する敵がいない。自分達は無垢で被害者にしかならないと思っている。他人や他の国も同じだと思っている。
多分、それじゃこれからはダメだと思うのだ。ふとしたことで生命線ギリギリに追い込んだり、敵意を持たれたりするのだ。ダイバーシティ的な考えがこれからは必要なんじゃないだろうか。
巷で保育士が結婚する順番や子供を産む順番が決められているっていうけどうちの企業は身内が死ぬ日を選べない。
営業戦略会議の日に忌引きで休んだ社員を上司が「何故休むのだ!」と叱責し「こんな大事な会議の日に死ぬなんて君の身内は随分勝手な死に方をするのだな」と罵倒する。
結婚や子供作るのはやろうと思えば日にちを計画することできるけど自死でもない限り普通に病死は計画できない。
更に上司は「本社の部長は事業戦略会議のある毎月第4営業日や前日には絶対死ぬな!と親戚中にお触れを出している。何て素晴らしい心掛けだ!」とうっとりとした表情で語っている。
まあ自分が罵倒される立場になったら全部録音してやる気満々だったけどうちのばーちゃんは会議も研修にも被らない日に亡くなってくれた。
友人が自死して3年以上が経った。
自死遺族、という単語を知って調べてみたけど、「自死遺族」に対する心のケアは載ってても、「自死した友人を持つ人」へのケアは全然載ってない。
本当に手を尽くしてそれでも助けられなかったパターンが多いのは承知の上で言う。自分のパターンは、間違いなく「家族に追い詰められて自死を選んだ」タイプなのに、どうして世の中は「自死遺族」のフォローばっかり求めるわけ。
友人がめっちゃ頑張って貯めたお金、「妹の大学の入学金に充てさせて」って奪い取って、未来への希望奪ったの親と妹。家庭内暴力をふるっていた兄弟。なのになんで被害者ヅラすんの?ふざけんなよ。
死んだことも隠して、こっちがありとあらゆる手段で連絡してやっと亡くなったってこと言ったよな。急死だって嘘ついて。twitterに遺書残してんのに。
それでこっちが友人母にお線香をあげさせてほしい、伺うのが無理ならお墓の場所だけでも教えてほしいってメールしたら、「私たちのことはそっとしておいてください」ってまた被害者ヅラ。ふざけんなよ。お前たちより、私たち友人のほうがずっと彼女の価値を認めてずっと大切にしてきた自信あるわ。大切な友人を、友人の家族に奪われたんだよ。被害者ヅラしたいのはこっちだよ。あんなクソ家族捨てて、私とルームシェアしようって無理にでも逃がしてあげらればよかったって、ずっと後悔してるわ。
でも世の中は「自死遺族は『なぜ助けてあげられなかったのか』と傷ついているからそっとしてあげよう」の一辺倒。ふざけんなよ。もう何回「ふざけんなよ。」って書いたか覚えてないわ。めっちゃ理不尽だわ。ずっと彼女のお墓にお参りすらできないって苦しみながら生きろっていうのかよ。自死遺族はいいよな、彼女の遺骨の前に手をあわせて「ごめんなさい」って言う機会が設けられてて。私たちはその権利を剥奪されてるんだぜ。こういう時どこに相談したらいいんだよ。
人の情熱を、苦労を、あるいは時間をなんだと思っているのか。自分の価値観で物事を推し量ることは不遜である。暴挙である。これほどの屈辱を味わったことはかつてなかった。しかしもう取り返しがつかない。失われた命は決して戻らない。どうにもならない。このまま自死を選びそうになる。憎い憎い憎い憎い憎い憎いがおれ自身が生きることが嫌になった。大切だった。愛していたのだ。あれをもう見ることができないという事実を思うと臓物を絞られるような気持になる。それを知らずにへらへらしていることが許せない。おれの尊厳が軽々と弄ばれた。心から呪う。今なら命を燃やして敵を殺すことくらいは造作もない気がしてくる。しかしそんなことをしても何にもならない。あれが戻ってくることは永劫にない。ありえない。望みは閉ざされた。命は消え去った。今は眼前に広がる茫漠たる空虚をただただ見つめている。おれは生まれて初めて闇を見ているのだ。
しんどかった。
ネットでそれらしい言葉をぐぐってみると「ただの男の性欲処理なんだから理解すべき」「風俗は浮気じゃない」というアドバイスが多かった。
女性側の気持ちを理解すべき、という男性へのアドバイスはなぜ無いのだろう?と思った。
身体的(本能的)な欲求は承認されるのに、感情的なものは我慢させられるのはなぜだろうと思った。
男性による風俗のレポートはたくさんあるのに、風俗へ行かれてしまった女性側の詳細なレポートはなかなか見つからなかった。
わくわくしているときも、死にたさに溢れている時も、わたしは同じような状況にある人の言葉を探す。
仲間を見つけたからなのか、そこに自分の気持ちの代弁を認めるからなのか、不思議と心が落ち着くのだ。
だから、誰かにとってそうなるかもしれない期待を込めて、私の気持ちを書き記しておく。
「さっきセックスしてきたのかあ」「セックスほやほやかあ」「妙にこざっぱりした顔してたかも」「私に気づくまで、笑顔で歩いてきたよね」「信じられない」彼の顔を見れなかった。
ふとしたときに、彼が風俗の女性と抱き合っている姿がうかんだ。
官能的なものじゃなく、彼の後ろ姿と抱きしめられて彼の体に隠れてほとんどみえない裸の女性の静止画。
それが目に浮かぶたび「私じゃない人と、そんなふうに近づいたりするのかあ。」と思った。
宿泊先に戻り、布団に入って目を閉じた。
静かに涙が出てきた。鼻水も出てきて、枕元にティッシュがなかったので焦った。
このままでは目が腫れて明日に響くと思い、気合いで泣くのをやめて眠った。眠れるものなんだなあ。
友人や同僚で風俗へ行った経験がある人は何人かいたし、浮気や不倫の話を聞いたことがないわけじゃない。
「男は1度くらいは風俗に行くもの。素人と浮気するよりマシ。」みたいな言葉も知っていた。
でも、直後の彼に出くわしたインパクトが強すぎて、もうむりだ、と思った。
「死にたいと思う状況になった」と思った。
社員研修は続く。
一生懸命笑顔で過ごす。「みんなに怪しいと思われてるかも」という気持ちが拭えない。
頭が働かない。妙にぺらぺら喋っていたような気がする。
彼氏を含めた同僚数人で話さないといけない状況でも、彼を見ることができない。
早く1人になりたい。
ふとしたとき、泣きそうになった。自席で寝たふりをして、少し泣いてしまった。
会社をやめたいと思った。でも、こんなことで自分のキャリアを失うなんて間違ってる、仕事も職場の人間関係も頑張らなきゃ、これまで通りの人生を過ごさなきゃと思った。
頑張って楽しく過ごすことに必死だった。当然だけど凡ミスや変なボケをかましまくった。
疲れてるんじゃない?と同僚に心配されて、それがまた辛かった。
リングから降りることが許されずに、パンチを受け続けている。負けようが勝とうが私には本当はどうでもいいのに。
辛かった。情けなかった。みじめだった。
道を歩いている時も、車での移動中も、事故が起きて私だけ死なないかなと思っていた。
研修が終わって解散。彼と暮らす家へ帰る気にもなれず、駅近くのホテルへ向かった。
こんなときに浮気できるような異性の知り合いも、自分にはいない。別にしたくなかったけど。
自分が情けない。意外とプライドが高いのか、誰にも言えなかった。
同僚とわいわい風俗へ行った彼氏と、その辛さをまだ誰にも伝えてないひとりぼっちの自分。
電車に乗っている間、タクシーに乗っている間、ホテルについてチェックインしている間、部屋につくまで、一生懸命泣くのをこらえた。
エレベーターに乗り部屋のある階についた瞬間、涙がぽろぽろぽろぽろ出始めた。
運良く、エレベーターのすぐ近くに部屋はあった。
鍵を開けて部屋に入りドアを閉めて、そこからずっと声をあげて泣いた。
泣き続けておかしくなりそうだったので、泣くのをやめた。
自分の心が壊れるのが怖い。だから、泣きすぎるとやばいと思った。彼氏よりも自分が壊れるのが怖いんだなあと思った。
各部屋にドラム式洗濯機がついてる。だから1泊1万円もした。トリバゴから予約したらもっと安かったのかも...と思った。
洗濯機を回しながら、本当は結局泣き続けた。呼吸がおかしくなるたびに一度自分を落ち着かせた。
2時間半もかかるのか!と思ったけど、そんな時間余裕で泣いていた。
洗濯したくせに、カミソリで腕を切って浴槽につけておこうと思った。電車に飛び込みとか、首吊りとかいろいろ考えたけど、なんとなく浴槽がいいなと思った。少なくとも今の自分から一番近い。
けれど、お母さんの顔が浮かんだ。
お母さんの心が壊れてしまうのだけは嫌だと思った。だからお風呂で、「死んじゃいたい」「死んじゃダメだ」「死んじゃいたい」「死んじゃダメだ」...と声をあげて泣いた。
でも、なんとなく、自分は死なないだろうと思っていた。
これまでも死にたいことは何度もあった、でも自分の周りの人が苦しむのが嫌で、何度も何度も何度も何度も死にたさと戦って、生きることを選んできた。
だからきっと生きるんだろうなとどこかで思った。
洗濯しただけのことはある。
でも、これは人生でベスト3に入るぐらい辛かったなあ。過去の辛さは、その時々ではベスト1なんだけれど。
この時代に生きてて良かったと思ったのは、同じような体験をネットで読めることだった。
自分の考えを巡らせることだけに終始していたら、きっと生きていなかった。
実はクローズドでやっているSNSに、死にたさを示唆する書き込みをしてしまった。すぐ削除したけど、それに気付いた学生時代の友人が連絡をくれた。
彼女も死にたさと戦うことがあると教えてくれて、それにも救われた。
くだらない性欲をくだらないノリでくだらない同僚と吐き出しにいった。
でも自分にはそれだけだと思えなかった。
可愛くて、スタイルがよくて、なんかテクニックとかもすごい、そんな相手と自分が比べられたかと思うと恥ずかしかった。
こんな恥ずかしい顔や体や自分を、愛されてる、受け入れられてる、喜ばれてる、と何の疑問も持たずに彼にさらけ出してきた自分が恥ずかしかった。
私の心と体がいかに大切なものか、長い時間をかけて教えてくれた気がする。
そのせいなのか、ただモテないだけなのか、私は周りが恋愛やセックスをしてる間に、自分の夢に向かって勉強してるようなタイプだった。そんな自分の人生が嫌いじゃなかった。
それが、彼のくだらない一夜の風俗で壊された気がした。
自分の大切なものが、こんなくだらないことで壊されたのが悲しくてみじめで、こんなことになっちゃった自分が情けなくて仕方なかった。だから誰にも言えないと思った。がっかりされると思った。恥ずかしいのもあるけど、周りの人まで残念な気持ちにさせるんじゃないかと思った。
こんな気持ちにさせた彼が許せない。ひどい。でも好きだからこそ悲しいことが、悲しい。
恋愛もセックスも人並み以下の経験しかせずに、しかも結局夢にも破れて、なぜだかストーカー被害にもあったりしていろいろ挫折して、どんぞこにいた自分を、元の明るい自分にしてくれたのは彼だった。
初めて恋人と誕生日やクリスマスやお正月を過ごした。旅行にもいった。なくしたけど指輪ももらった。長い時間を一緒に過ごした。お互い仕事も頑張って成長した。いろんな幸せがあった。
なのに、その彼に結局は壊されてしまった。
彼が友達と行った旅行も飲み会も、ぜんぶ風俗に行ってたかもしれない。そう思うと楽しかった思い出も全部むなしい。彼のことが好きで、いつも幸せだったから、それが全部裏切られたと思った。全部わたしの、独りよがりな幸せだったのかもしれない。
「天使なんかじゃない」っていう少女漫画で、主人公の彼ママ(過去に隠し子不倫をされて離婚している)が「(不倫に気付いた時)積み重ねてきた幸せが全部崩れるようだった」と主人公に吐露して泣くシーンがあるんだけど、それを思い出した。(セリフはうろ覚え)
自分とのセックスは気持ち良くなかったのかも、自分はスタイルも顔もよくないし、その上積極的にできていなかったのかも、胸が小さすぎるのかも、しまりが悪いのかも、風俗でどんな風にしたんだろう、ちゃんとゴムはつけたのだろうか、彼は嬉しかったのだろうか、どんな風に優しくしたんだろう、なにをしゃべったんだろう、終わった後どんな気持ちになったんだろう、いろんなことを考えた。
彼は私が悲しむと思わなかったのかな、背徳感はなかったのかな、きっと気軽な気持ちだったんだろうけど、それにしても浅はかだな。がっかりだな。
私の弱さを気にするほど、彼は私に興味がなかったのかもしれない。
彼にというか、彼に勝手に期待して依存して彼のくだらない行動で傷付いてしまった自分の弱さが情けない。
自分がちゃんと自分だけを信じて自律していれば、こんなに傷付かないはずだった。
自分ってだめだと思った。
もともと他人に期待しすぎちゃいけないと思って生きてきた。
自分の傷つきやすさを自覚しているからこそ、家族や友人も含めて、他人に変に期待(依存)しないように、思春期からずっと気をつけてきた。
それでも、彼氏にはすごく期待してしまっていたことに、今回気付いた。
こんな無意識の期待さえしてはいけなかったんだと分かって悲しかった。
今後、他人に対してもっともっと慎重にいなければならないと思うと、生きる喜びってとても少ないなと思った。
また彼より自分について考えてるなあと思った。いつも私は私のことばっかり考えてる。だからダメなのかもしれない。
それでもやっぱり、自分はどうしたら明るく楽しく生きていけるかなと考えた。
引っ越し、シェアハウス、転職、海外に行く...いろんなことを考えて、調べた。全然眠れなかった。
死にたみに溢れてても、生きていくアイデアにアクセスしようとした自分は成長したと思った。ネットはすごい。思えば過去の自死願望にも、いつもネットが時間薬をくれた気がする。
自分の心が壊れるのが怖いから、もう前ほど彼を信じようとは思えない、それがさみしい。
人間は孤独で、どんなときも心のどこかで人に対してあきらめを抱えたまま生きていくしかないのに、誰と愛し合おうが結婚しようがそれは変わらないのに、うっかり忘れてしまっていた自分が情けない。
情けないけど、やっぱり信じていたかったから辛い。寂しい。残念だ。辛い。
神様が、本当はいなかった、本当はひどい詐欺師だったような気持ち。
浮気されてる女性を知っている。一見幸せな家庭に見えるけど、そんなのダサいって思ってた。今でも思う。でも、彼女は幸せなのかもしれない。
思い出して泣いてしまう自分、自信を無くしてしまった自分、楽しさを失くしてしまった自分、こんなネガティブで暗い自分は、結局彼とうまくやれないと思った。
結局彼を許しても、いつか彼が離れていくと思った。
私みたいな世間知らずじゃなくて、もっと経験豊富で肝っ玉な女の子と付き合ってくれればよかったのにと思った。
信じても信じなくても、もし彼が、もしもう一度同じ過ちをしたら、もう自分は生きられないと思った。そんなことで自死するなんてダサイからやだなあ。
それに、私は私が壊れるのが怖いから、たぶんもう前ほど彼を好きになれない。
もっと言えば、いつも他人を心の底で少し突き放して生きていくことになる。それは軽蔑と言ってもいい。残念だな。
なんにせよまた新しい自分の弱さを知ってしまって、生きることがむずかしい。それでも生きるけど。つらくなってしまった。
どうして生きるのはこんなにつらくてつらくてつらいんだろう。
信じることはあまりに盲目で、目が覚めた時に断罪されるんだと思う。みんな目が覚めたくないから信じたいんだよ。(私別にクリスチャンじゃないけど、ごめんなさい)
男性の風俗についての見解をぐぐると「ただの性欲処理」「トイレと一緒」「壊してもいいおもちゃ」みたいな言葉がたくさん出てきた。
彼も「汚いから本番はしてない。キスもしてしない。」なんて言っていた。ほんとか分からないけど。信じてないけど。
でも、そんな言い方ひどいと思った。
自分がしたくてお金払って行っておいて、生身の人間に対してその言い草はないよ。
私はお店の人や通りすがりの人や、赤の他人にもいつも親切な彼が好きだった。
性的なこととなるととたんに道徳感を失うなんて理解しがたいよ。私と同じ女性を、そんな風に言わないで。言い訳のつもりだったかもしれないけど。
自分のパートナーには、動物とか本能とか言う前に人でいて、素敵な人でいてほしいよ。
私は風俗嬢という言葉を見るたびに、少し傷つく気がする。でもそれは風俗嬢にされてるわけじゃない。あなたに傷つけられんだ。
話し合いを重ねて、結局彼と暮らしている。
改められる人だったから信じることにした。でも、もう私の「信じる」は前の「信じる」とは違う。限りなく「信じたいけど」に近い。
2人でいることの幸せも、言葉尻からうけるニュアンスも、すべてが前と違う。
別れを切り出したのは私なのに、私は自分が裏切ったり彼にふられたりすることに怯えてる。
それがしんどくなったら本当に終わりだなと思う。
嫌いになることも、嫌いになられることも、こわい。こんな気持ちを知りたくなかった。
いつか出産して、わたしのあそこがゆるくなったらまた風俗にいくのかな。
風俗から帰ってきたその手で子供をなでるんだろうか、なんて結婚願望も子作り願望もないのに想像してしまった。
顔が腫れぼったい、鼻が低い、目が細い、口が曲がってる、眉毛すら美しく生えていない。
胸が小さい、くびれがない、下腹がみっともない、足が太い、とにかくいけてない。
少なくとも風俗嬢よりきれいじゃない。だって私は私を売り物にできない。
鏡を見たくなくなった。写真を見るたびに落ち込んだ。
彼が可愛いねといっても、「ほんとは可愛い子が好きなんだ」としか思えなくなった。
ガッキーみたいな子だったのかな、それともギャルみたいな子だったのかな、どんな顔でどんな体型でどんなメイクでどんな風に喋る子だったのだろう。
彼がすでに誰かにさわられたところも、まだ誰もふれていないところも、すべてをさわりたい。私が液体になれたら楽なのに。
彼が本当にしたいことを知りたい、でも、みっともない自分が恥ずかしい。
今出来なくなったらずっと出来なくなる気がする。
でも今したら、私が軽薄みたいな気もする。
いよいよどうしたらいいのか分からなくなって、「セックス やり方」と検索する。
そうこうしてると風俗嬢の解説に行き着いてしまい、また彼が誰かとセックスする姿が頭から離れない。
どんな風にしたんだろうって、聞きたい。でも聞いたらきっと立ち直れない。
あの時から今までずっと、死にたいことととそれでも生きること、彼の風俗のこと、自分の醜さ、知らなかった感情を知る怖さと、それが増えていく人生の意味について考えている。