はてなキーワード: 自死とは
初めて匿名を書く。私はフェミニズムの基本理念には賛同するがフェミニストではない、のでフェミニストじゃないやつの文章なんかまず読みたくねーよ!という方々はブラウザバックをお願いします。
そもそも私はツイッターでフェミ界隈を見ているだけの一般人なので、年末年始から騒がしい「MtFが女湯・女性用更衣室・女性用トイレetcに入っても良いか」論争についてイマイチ良く分かってない。
全部を話すことは難しいため、トイレ論争にのみ絞って書こうと思う。温泉は入らなきゃ死ぬってものでもないので、生理的なやつから。
1-1.my idea
私の考えは「今まで通りでいいのでは?誰でも入れるトイレを増やすのは急務だと思うけど」という考えである。今まで通りというのは、それぞれの良心に任せる、というやつ。シス女性(この呼び方が正しいか正しくないかは置いといて、議論しやすいのでこう呼ぶ)、パス度が高いと自分で思うMtFくらいが女性用トイレのメインの利用者になるのではなかろうか。パス度の問題を外野から言われるのは嫌だろうと重々承知だが、MtFの方が「私は女性用トイレに入れるだろう・入っていこう」と決めたとしたらその時点でかなりのパス度なのではないかと思う。パス度が高くないと女性用トイレに入るなという話ではなく、自分がどう見えるか特段に気にしている人が、女性用トイレを使おうと思えるならもうその時点でパス度は高いと思うのである。(私も人からの目線でとても悩んだ時期があるので、多分その辺当事者の方は慎重だと推測する。)
良心に任せたトイレの使い方(分け方?)のメリットとデメリットについて書く。
メリット:良心で成り立っているため、「良心でない、即ち盗撮犯や性犯罪者」を排除する名目になる。
デメリット:明確でない。個人の物差しで測ることになってしまう。「私は女性用トイレに入っても良いのか」とMtFの方が悩む原因となり得る。
性自認による分け方でトイレを分ける;つまり、MtFならばホルモン治療やオペをしなくとも自認が女だと言えば女性用トイレに入ってよいという案がある。果たしてそう明文化して、実際未ホル・未オペの方が入ってくるかは「うーーーーーん?」というところだ。理由は1-1で書いた、人目を気にする方が「許可されたから〜!」とノリノリで入ってくるとは思えないし…入ってきてもらっても全然いいですけどね。
デメリット:「心は女だから〜」と言ってシス男性が入ってくる可能性(詳しくは後で記述する)
セルフIDによる分け方のメリットはあるだろうか。勿論ある、トランスの尊厳だ。何人たりと踏み付けることはできない尊厳。
しかし、メリットを書こうとして、「MtFの方が安心して使える」ー果たしてそうなのか。私はトランスではないので分からないし、トランスの知り合いがいない、確かめる術がない。だが私はこう思う:本当にトランスの方が「安心して」トイレを使えるか?MtFの方なら「男に見えないだろうか」などと思わなくなるのだろうか?分からない、分からないのでメリットには書かなかった。ただ、尊厳は踏みつける意図はない、トランスの方でセルフIDによる分け方のメリットデメリットを教えてくれる方がいたら教えてほしい。
1-3.争い
ツイッターのフェミ垢はちょっと覗くといった程度なので、誰と誰がこの考えで、それに対立してるのが〜とかさっぱりワケワカメなので(ネタが古い)、私の観測内の話。
が大まかな争いだと思う。
まず言っておかねばならないと思うが、②に関しては普通に「そりゃそうよ」という話なのだ。①の論争のどちら側に居ようと、ヘイトはいかんのですよ。「トランス女性は女じゃない」「男体」とか言うのはいかんわけ。それは①のどちら側とか関係ないのよね。ただ、②の論争が収束していかない原因として
・ヘイトとは思えない文脈に対してもヘイトだと言い、話し合いが出来ない
・「セルフIDによりトイレを使えるべきだ」派の人のうち、「セルフIDによる分類はどうかと思う」派はトランス差別から言っているのだと勘違いしている人がいる
①と②を分けて話さないと、議論は収束しない。何でもかんでも「ヘイトだ」と言われれば、口を塞がれていると感じる人も多く出てくるはずだ。
さて本題の①の話。
私が今まで通りの良心によるトイレ利用を推す理由としては、やはり「良心でないもの」の存在が大きい。後述すると言った「自認が女だと言い張るシス男性の存在」である。
これが、シス女だろうとトランス女だろうと関係なく脅威なのは共通認識でいいだろうか?盗撮なんかされたらひとたまりもないだろうよ、これはシスもトランスも関係ないはず。
現実にあり得るのか?という話だが、更衣室やトイレ、温泉やらの盗撮被害というのはもう聞き慣れてしまうほどある。某国で「女性トイレの壁に沢山の穴があった、幼い頃から工事などの跡だろうと思っていた、それは盗撮のためのものだったー男性用トイレに穴はなかった」という話がある。
もしセルフIDによる分け方でトイレに入っていいとなれば、盗撮犯が堂々と女性用トイレに入り込み、ギョッとされても「心が女なので〜」と言えば誰も通報することができず、その男(女装しているのかもしれない)が入っていったのを見た女性は「なんか嫌だからこのトイレ使わないでおこう」が出来るが、数分後その男が個室に隠れるなりカメラを仕掛けるなりした後のトイレに入った女はまんまとその盗撮の餌食になるのでは?????というのを私は危惧している。
盗撮は今もあるし、当たり前に許されない犯罪なのだが、不安なのは「通報ができない」というこの一点なのだ。
勘違いが多いのもこの点のような気がしているので念入りに言う、「トランス女性が怖いんじゃない。ギョッとした時に、犯罪が起きるかもしれない時に、『差別だ』と言われるのを恐れて周りに言えないことが恐怖なんだ」と。
この文章はトイレ問題をメインにすると言ったが、これは温泉にしろ更衣室にしろ同じことだと私は思う。犯罪が起きるかもしれない時に周りに言えないこと が恐怖なのだ、ということが最も伝わって欲しくて、かつ最も伝わっていないことだと思う。
1-4.Trans women are women.
これを和訳すると「トランス女性は女性です」となり、この文章の題にもなる。ふむ。そうなんだけどそうじゃない感がすごい。この文章の違和感を書いていく。
まずこの和訳が暴力的すぎる。その通りなんだけどそうじゃねえよ…と、この文面を見る度に呟いてしまう。うん、トランス女性(即ちMtF)はwomenだよ、でも「女性」は暴力的でしょ、ちゃんと英語に謝って。
検診の尿検査の時、あのスポイトみたいなやつにFかMかチェックをつけるじゃないですか?female or maleって意味。femaleは女性、maleは男性。ではwomenとmenは??womenは女性、menは男性。そう、英語では折角区別される単語が日本語では区別されていないのだ。
female/maleは生物学的なものに、women/menは人間に対して使う、という分け方かな。sexとgenderと言えば分かりやすいかもしれない。genderは社会的性別というやつだ。
つまり、"Trans women are women."という文の本意は「トランス女性に対して『体が男』と言ったり、故意に性別を間違うようなことを言ったり、差別的な行為を許さない」というところではなかろうか。最近のツイッター界で使われる「トランス女性は未ホル・未オペでも女性専用スペースを使える」という文脈はかなり疑問に感じる。それだと"Trans women are females."となってしまうのだ。
あと、「トランス女性に性器を確認させろというのか?!」という話についてだが、誰がそんなこと言ったんだ。タックしてたら分からんだろ、それこそち○こ股に挟んでちっすだわ(暴言)。「トランス女性は女性です」の「女性」という定義があまりにあやふやだからどうするの、femaleなら生物学的な分け方だから性器になるんじゃない?というやつじゃないのか?知らんけど。
1-5.まとめ
トランスの尊厳を守らねばならない、と思う。言い砕くと、ビクビクしながらトイレに入らねばならないような状況はいかんと思うのだ。しかしそれが、セルフIDによるトイレ許可で達成されるのか?本当に?倫理的な教育が必要なんじゃない?セルフIDがあかんという話ではない。達成目標を「自認によるトイレ・温泉・更衣室の利用」に置くのは大切だが、それは先に推し進めることではないはずだ、同時に他のこともせなあかんはず。
あまり長く語るつもりはない。
ええと思う。この国の歴史で強い差別が解消される時、法改正・法制定が大きなターニングポイントとなっているから。雇用や教育機関での不当な差別を許さないと、法律で決めさえすればそれはマイノリティにとっての武器になる。正しく使われていくことを願うばかり。
3.フェミニズム
私がフェミニストではないと最初に言った理由は、ただ単純に日本のフェミニズムに疑問があるからである。そもそも、日本ってフェミニズムを受け入れる段階ですらない気がしてる。男女不平等を甘んじて受けろという意味ではなく、男女差が大きすぎるからフェミニズムは早すぎない?と思うのだ。
海外諸国のように有名人が社会的発言ができないこの国で、リーダー・フラッグシップ的な役割がいないこの状況で。一人一派なんてやってたらそりゃバラバラになるじゃんって。
大体男女差別だけじゃない、この国には差別が残りすぎている。精神疾患差別、障害者差別、外国人差別、職業差別、、、女で精神疾患もちの私は今までしなくていい苦労をたくさんしてきた。マイノリティであるが故の、マイノリティを理解しようとしない社会にいるが故の苦労を、もう他の人にしてほしくない。
トランスの方は遠くの精神科に通っている、大変だ、という文を見つけて悲しい気持ちに浸る。私だって。私だって、未成年のうちから精神科だけで年間10万を超える出費、高速道路で行かねばならない距離の精神科まで2週間に1回通ってるわ、県外まで行ってるわ。精神科に通わないとまともな生活が送れない私は、簡単に保険にも入れない(持病の人でも入れるやつなら入れるけどさ)。
踏まれるのは慣れている、踏まれた時に感情的になるのはすごく分かる、でも何でもかんでもヘイトだと叫ぶのは…
本当か嘘かという野暮な議論はするつもりがない。もし誰も亡くなってなかったのだとしても、亡くなったという文章を書かせるほど精神的に追い詰められたということだから。
その上で、「こちらでは死者が出た、お前らのヘイトのせいだ!」と各方面に言うのは違うということを言いたい。まず、どの陣営に居ようがどの思想だろうが、ヘイトはあかんよという大前提を思い出して欲しい。そしてそのヘイトを、ある主張の全員がしていたわけではないことも。
違う話題の時にヘイトをしたくせにと詰るのも違う、詰りたかったら@をつけるなと言いたい。議論が追いにくいのだ。
4-1.人の死をもって、生きる人の口を塞ぐな
人の死をもって一貫した文脈で人の口を塞ぐのは良い。でも違う、今ツイッターで見るのは「人の死をもって、話し合いを拒絶する」だと思う。
「友人のトランス女性が亡くなった」のブログを理由に怒るフェミニスト達、彼女たちは素晴らしいと思う。実際に私はツイッターでトランス女性へのヘイトを見ていないため(何度も言うがあまりツイッターを見ていない)、どれ程のものだったのか私には分からない。怒れる彼女達はそのヘイトを見ていたのだと思う。
私がその怒れる彼女たちを見て思ったことは一つ;「私が死んだら私の意見は通るの?」
私が死んだら、私がもし「セルフIDで分けるなんて、怖くて生きていけない!」と言って死んだら、どうなるのだろう。
※そんなことは全く思いもしていないが例えである※
冷酷なことを言うが人は死ぬ。10年以上自殺未遂と自傷とODを繰り返してきた私が断言する、人間は死ぬ。いとも簡単に。
ヘイトで亡くなってしまった女性がいるように。口を塞がれて死ぬ女性もいる。
もし私がツイッターランドでそこそこ有名なアカウントで、「ヘイトだ」「お前のせいでトランス女性が死んだ」だなんて言われ続けたら、あと半年前なら、多分死んでたと思う。自死を選ぶ。半年前までの私ならいとも簡単に死んでいた。
死ぬ死ぬ発言は脅迫だからしたくないけど、そちらも同じことをしていないか?少しゆっくりと考えてみてほしい。
4-2.どれがヘイトに値したのか
genderという意味でMtFの方に男だと言ったのならばそれはヘイトだと思う。それはいけないこと。
だが、sexとgenderを分けていない(ように見える)ツイッターランドで、なんかもうその議論まだ続けるの?って呆れてしまっている自分がいるのも確かだ。
折角英語使えるんだから使ってこーよ!male, female,men,womenってさ。sex, genderとかさ。
Trans women are women.だよ。male, femaleという面での議論を差別だというなら、議論が成り立たない。世の中には差別だと感じても議論をしなければ永久に平行線なことがある。
お互いに自分の方が弱者で、相手が強者だと思い込んではいないか。本当にそうなのか。どっちがどれだけ傷付いた、というのは議論になり得ない。ということをここに記しておく。
5.最後に
思っていた100倍量書いた。自分が驚いている。こんなとこまで読む人はまあいねーな。いいんだ自己満だから。
アメリカ国籍の友人とこの間話したことを最後に書く、「日本のフェミニストは感情的すぎだよ、伝わらない」
そうかもしれない。踏まれすぎて、怒ることを抑圧されすぎて、怒り方を知らないのかもしれない。
まともなジャーナリズムが機能しない国で、差別が蔓延り誰に踏まれたのか 何回踏まれたのかわからないこの国で、フェミニズムが否定されるこの国で、私は生きていく。弱者として生きていく。
彼女の人生はとても苦しいもので、辛く悲しい思いをし続けた人だった。
今僕は悲しくて、辛くて、自分を責め続けている。
付き合っている間も、楽しかった思い出より苦しんでいる彼女をどうやって助けてあげられるのか、
自分にできるのは何で、何ができなくて、どうしたら互いにプラスになるように付き合っていけるのかを考え続け、こちらも辛かった時間のほうが多い。
でも、その少ない楽しかった記憶の彼女は、とてもチャーミングで素敵な女性だった。
嬉しそうな笑顔を見たら僕の抱えていること・彼女の抱えている事の全てが消し飛ぶほど嬉しくなった。
可哀想なだけじゃない。本当に可愛らしくユーモラスで魅力的な、綺麗な声の人だった。
居ないと分かっていても信じられず、彼女の部屋へ行ってきた。
何度か寄っていったパン屋は休みだったので、これもいつものコンビニでよく頼まれたパン(それはなかったので似たようなもの)とおにぎりを買った。
いつも灯りの付いていた部屋の窓は暗かった。
何故、何をしに行ったのか分からない。
彼女はそれは滅茶苦茶な性格と生活だったのだが、仕事をしていた彼女を慕う人は多かったようだ。
その「もう一人の彼女」は、常に笑顔で相手のためを思い努力をする、元気で明るく楽しい頑張り屋さんだった。
一風変わったセンスとユーモアの持ち主で、スケジュールは常にぎっしりだった。。
「もう一人の彼女」であり続けるためそれを保ちつづけるために、見ていて痛々しくなるほど仕事に埋没していることもしばしばだった。
もしかしたら様々な理由で失われてしまった本来の自分を取り戻そうとしていたのでは無いだろうか?
自覚していなくても無意識で自分を急き立て足掻いていたのではないだろうか?
当時は苦しい現実を一時でも忘れるために、自分を削りながら「もう一人の彼女」を必死で保ち逃げ込んでいたように思っていた。それが更に自らを痛めつけることを知りながら。
そして僕は何も出来なかった。一時は助けに心の支えになれている気がしていた。
もしかしたら、彼女を変えられるかも、僕も変われるかもしれないという期待した事もあった。
気がしていただけだった。結局彼女は何も変わらず苦しみ続け死を選んだ。
おそらく素顔の彼女を知る人は少ない。
過剰なくらい責任感があり、断じて頭も悪くないし世間の常識が無かったわけでもない。
無茶な生活も頭では分かっていても心と身体が言うことを聞かなかったのだろう。
それを自覚し苦しんでいたのだろう。
自死という選択が何を意味するのか理解していても、そう選択せざるを得ないほど苦しくこれ以上耐えられなくなったのだろう。
今はそう想像している。
僕の知っている彼女は僕の記憶と僕の手元にある記録にしかいないのだから。
これが僕が今彼女にできる唯一の事なので、せめてこれだけは辛くても抱えて生きていくつもりだ。
一緒にいる喜びを感じたときのことも忘れず思い出すよ。
可哀想な人だった、では終わらせたくない。
苦しみながら何とか良くなろうと誠実であろうと懸命に戦いながら生きてきた人だった。
凄いよ。偉かったよ。
嫌いになって別れたのではない。形的には振られた格好だが僕は彼女の持っている「つらさ」に耐えられなくなっていた。
彼女の感情が暴走し詰られたことも少なくない。言いたくても言えないと思っていたことが沢山あったのかもしれない。
彼女に対して嘘は言ったことは一度もない。彼女の事がわかり始めたときに嘘があったら続かないと心底思ったから。
でもそれだけじゃ全然足りなかった。そもそも僕は彼女の気持ちに応える資格が無かったのだろう。
期待させて裏切った、恨むべき人間なのかもしれない。
こちらからのLINEに返事が少なくなり、ある日「忙しくて体調悪いのにうるさい、返信いらない」と送られた。
その後やり取りがしばらく途絶えた後、僕からの「落ち着いたら連絡ください」に応える形で
「たくさん助けてくれてありがとう。貴方と会えて良かったと思ってる。でもやっぱり」と送られてきた。
僕は「僕は貴女の望んだ人間じゃないのだろうね。ごめん。付き合ってくれてありがとう」とお別れを言った。
その時、ほんの少しホッとしたのだ。楽になれると。
お別れを言ってから彼女の書き込みを見るのを止めてしまっていた。
少しして貸したままになっているノートパソコンの事が気になり、使えているかどうかLINEで訊いてみた。
嫌い合って別れたわけでは無いから、事務的なやり取りはできるだろうと思って。
たまに話したりする関係になれるかもしれない、という期待もあった。
程よい距離感、ずるい考えだと思う。
既読にならない。「そうだよな・・」
翌日彼女のアカウントを開くと、自殺するとの書き込みがあった。
どうしたらいいか、今自分が連絡してさらにその感情を昂ぶらせないか、それともすぐに家に行ったほうが良いのか、
オロオロしやっと数少ない共通の知人に連絡をした。話に聞いていただけで会った事のない彼女の友人にも。
その後、自殺した、と分かった。
僕が読んだときにまだ生きていたのか、もう亡くなっていたのかまだ分からない。
最後の文書には僕のことは全く触れられていなかった。新しい恋人との悲しいやり取りやこれまでの自分を振り返るような内容だった。
彼女は起伏の激しい人だったから、僕のことはもう少しも意識していなかったとしても頷ける。彼女が死を選ぶ要因の一部に僕があったなら、そう思っているから今辛くて苦しいのだけど、全くそんな事はなかったらそれはそれで寂しくはある。なんだそれ、自分の身勝手さが嫌になる。
辛かったね。しんどかったね。
何もできなかった僕を恨んでいますか?いや簡単に人のせいにしたり恨んだりするような人ではないよね。ごめんなさい。
もう忘れ去ってどうでも良くなっていましたか?そうだったら、それはそれで寂しいね。
今、彼女がここでないどこかで、
本来そうあるはずだった、
明るくて可愛らしくておっとりとした貴女に戻り、
とても愛くるしいあの笑顔を浮かべながらゆったりとペット達と遊んでいて欲しい。
もう頑張る必要はないのだからのんびりとゆっくり穏やかに休んで欲しい。
先に書いた通り彼女は僕の後に別の人を好きになっていたらしい。
最期の彼女の心の中には僕は全く存在していなかったのかもしれない。
これだってただ自分を慰めるために書いているに過ぎないし、全て見当違いの戯言なのかもしれない
連帯保証人に関しては、専門家に相談するのが一番だと思いますが、
(あと恐らく増田のおばあ様、ご両親、ご親戚が判断されることだと思われますが)
限定承認というのもあるようです。マイナスの相続をしないことができるようですが、条件や手続きが煩雑なようです。期間は3ヶ月です。
https://souzoku-pro.info/columns/51/
限定承認と単純承認(プラス、マイナス全ての相続をすること)相続放棄(プラス、マイナス全ての相続をしないこと)の違いなどが書いてあります。
あと読むのはおつらいとは思いますが、↓は自死に関する必要な手続きなどが書いてあるサイトです。チェックリストになっているので参考にどうぞ。
http://www.izoku-center.or.jp/bereaved/procedure.html
努力したくないなんにもしたくない
親に高いお金払ってもらって塾だって行ってるのに隠れてサボって嘘ついて
大学受験しなきゃいけないのにどうしても行きたくない(めんどくさいから)し、生きてても楽しいことより辛いことのが圧倒的に多い
あと何十年も耐えられない
将来のことを考えなくちゃいけないのに自分の未来は真っ暗で考えるのが怖い
死にたいしか考えられないし常に自死の方法や前準備のことを考えてる。
一丁前に「周りに迷惑かけたくない」とか言って自殺しないクズ。早く死ななきゃいけないのに。
親に「死にたい」と言っても甘えだ逃げだちゃんと現実を見ろと言われる。まあそりゃそうだわな
でも死にたい気持ちは本物だしこの気持ちのまま生きるのは正味キツイ
無責任で不謹慎なことを言うようだが、今すぐ死ねますよどうですかと声をかけられたら喜んでついていきたいと思うしいっそのこと通り魔に一発で仕留められたいとも思う
無気力症候群というものに大いに当てはまる。きっとそんなのは思い込みで甘え怠けなんだろうが
寝たらまた明日が始まる
自分は最低だ
早く死にたいな
相変わらず今日も眠れないので、この時間になるといつも考えるのだけど、
・この先生きていても恐らく不幸なことの方が幸せなことより多い(加齢による肉体容姿の衰え、身近な人の訃報や不幸せなニュースに接する確率は、長く生きている方がより高くなると推測される)
・生きていても事故で死ぬ可能性は常にある→どこかの時点で人生が終わるという点で概括的にくくれば、死にいたる方法には大した意味はない。むしろ選べる時点で自殺を選んでおけば突然のアクシデントなどで自分の意思と無関係に死ぬことはなくなる。
自分の境遇的には40を過ぎて体力も衰え、人生の先が見えるというか、この先に何もいいことはないこともないだろうが、とりたてて人生が変わるような素晴らしい体験はないだろう。ちなみに独身だが、そもそも人が嫌いなので新しい女性と知り合うのも面倒なので、結婚や恋愛は自分にとっては苦痛体験でしかない。
昔はエンタメ(本や映画、ゲーム、スポーツ観戦)で心を動かされたりもしたが、それで人生が変わったかというと、何も変わらなかった。なので、自殺後に世の中をひっくり返すような傑作が出てきても、それは大したものではないとして諦められるファクターと考えている。
デジタルモノの進化は過去から興味があり、OculusGOやVR180については今後の発展も見たい気がする。また、AIが今後どのように社会に影響を与えるのかも見ていたいが、それと今後に起こりうる嫌なことを天秤に掛けた場合、そりゃ嫌なことを回避する方がいいよねと。
そんなわけで、1日経つごとに嫌なことが発生する確率は南海トラフ地震のように上がっているわけで、早めに人生を閉じるのが合理的だと思っている。
それでも気をぬくと今日も銀座三越のセールでスーツを買ってしまったり、食事は体にいい食材などを選んでしまっている。毎日この時間になって一番大事なこと=自殺することを思い出し、今日も行動に踏み切れない自分を責め、今日会った会社の同僚や店員さん全員が自分を嫌っている、嫌な顔をして見ていたと仮定(その仮定を論理的に崩せない場合は自分という存在が主体的に行動することで、同僚や店員さんたちに迷惑をかけている(存在が迷惑)という結論が確定する)し、早く自殺して二度と同じような迷惑を掛けないよう自分を自殺に向けて動機付けている。なぜ自分が嫌われるかは謎なのだが、恐らく口や体の臭いだろうと踏んでいる。なるべく口を手で押さえたり喋るときは息を吸いながら喋っているのだが。
ところで、この辺の思考実験をすると大抵胃や心臓がズキズキ痛くなるので、そのうち大きい病気にならないかなと期待している(その場合はもちろん病院には入らず死を選ぶ)。
まあ自殺するにあたって、両親に見られたくないものなどを処分する必要もあるのだが、どうも面倒くさい。
自閉症スペクトラムの重症例である自閉症は、「今ここにいる自分そのもの」への違和感が限りなく拡大してしまう。
私の読んだ本では、暴れるのでベッドにしばりつけたら、ベッドのスポンジをちぎっては喉につめこんで結果的に自死してしまった。という例がありました。虐待などしていない(むしろ介護者を患者が虐待しそうだった)ことが悲しみつつ書かれた本から明確に読み取れました。
また、IQの高い自閉症スペクトラムと妄想のあらわれやすい病気とも関連が言われているようだ(同じ薬が利いてしまう場合がある)。
だからといって、自閉症スペクトラムにも決定打のような治療法がない。
そして敷居を高くしすぎてしまうと、半陰陽など身的特徴で見てもどっちつかず(その時その時で優勢なホルモンに従わざるを得ない。たとえば小児のときはちんこがあきらかにあったが、あとでおっぱいが大きくなる、生理が不定期にはじまる。またはその逆)の人など、居場所がなくなってしまう。
それは発達障害なり自閉症スペクトラムのケアへの到達もしやすくすることでバランスをとっていくか、
ビッグデータといえるほどのものをあつめてAIで「この人は将来うまくいく」「この人はダメ」って見分けるくらいしか方法がない。
今大きく傾けるのはとくさくではない。
単に追い詰められて死んだ人を赤の他人が死体蹴りするのはやめよう程度の人がほとんどだろうけど
生きるということへの無条件の肯定が弱まっているのかなって感じる。
物質的に死なないでいるだけなら多少簡単になった現代だからこそ
「ただ物理的には生きているだけ」という状態が生々しく露出している。
生きる意味、目的、理由、生き甲斐、生きることが大切というのは実のところ全員が手に入れられる公共財ではないと、暗に認めてしまっているのではないだろうか。
松本人志、愛媛ご当地アイドル自殺に持論 「死んだらかばう風潮が嫌」 - ライブドアニュース
この記事に対して、群がって叩いているブックマーカーが理解できないし不愉快でたまらない。松本の言う「死んだら負け」「自殺したら庇う風潮が嫌」も、どちらも間違っていないどころか、完全に他正しい。
WHOのガイドラインを引き合いに出すまでもなく、自殺する事で世間が自分の境遇に同情してくれて、自殺の一因になったであろう事象を見つけて原因となった誰かを叩いて、社会的に殺そうとしてくれるんだから、これはもう自殺ほう助みたいなもんだろう。死ぬまで見向きもしなかった社会が一斉に自分に反応してくれる未来が予想できるのは、死を選ぶ理由になる。
しかし、死んだ本人も遺族も、それで救われる事はない。もっとも、恨みを晴らせたことで、人によっては遺族はすっきりするかもしれんが、俺ならばすっきりなんてするはずがない。「なんで死ぬ前に、言ってくれなかった。助けてくれと一言言ってくれたら、なんでもしたんだ。」と、SOSを聞けなかった事を後悔するだけだろう、だから「死んだら負け」と伝え続けるのは正しい。死ぬ前に、家族でも友達でも恋人でも、親しい誰かに頼って欲しいと思う。死んだって誰も庇ってはくれないと言う方が、死へ向かう人の背中を押さずに済む。
だいたいからして、「死ぬほどつらいから、そこから逃げるのは個人の権利だ」ってのが、メンヘラブックマーカーの持論だったでしょ?自殺者は自分の命を自分で捨てる自由を行使したにすぎないんでしょ?
「立派に死んだね」
「頑張ったね、勇気を振り絞って楽になっておめでとう。」
これがお前らに許された言葉なんじゃないの?
分かってないのは松本人志。死にたくて自殺しているんじゃないんだぞ。苦しくて苦しくて苦しさが幾重にかさなって目の前が真っ暗になった時、光が指した向こうに自死という結果があるんだぞ。
自分の命を自分で捨てる選択肢を認めるどころか推奨すらしてる奴らが、「死にたくて自殺したんじゃない」と正論しか言ってない松本人志に群がって叩いているのは奇怪だ。自殺する前に誰かに頼る事が出来ない程弱っている事を認めて、生きて戦う様な辛さを味わう位なら死んだっていいじゃないかと言ってた連中が、自分も殺す側に加担してきた自覚もない事が不思議でしょうがない。「死んだら負け」だと声を上げ続けてる松本人志は、その点、誰かを救えるなら救いたいと考えてる側だ。
松本人志が言うように、死ぬ理由が一つではない事も概ねそうだろう。仕事や学校での辛い境遇は主因ではあるけど、そこから逃げて来いよ、という声を届ける事しか我々には出来ない。社会に声を届けられる著名人が、ブックマーカーのお気持ちに寄り添って、事務所が、会社が、学校が殺したと言うだけでは、自殺を後押しするばかりで意味がない。我々社会は、「何があっても死んだら負け」「生きてるだけで丸儲け」と伝え続けるべきで、何かあれば、周りの人間を頼って欲しいとか、家族や友人が当てにならない人の為に信頼できる公的機関か団体を紹介するとか、生きてく選択肢を提示すべきだ。死に逃げてしまった人を助ける事はもうできない。生きている間に助けられなかった社会と、生きようとしなかった自殺者に警鐘を鳴らしている松本人志は正しい。自殺も選択肢なんて言って自殺を応援する連中はクソだし、そこから逃げろ死んだら負け、って言葉をマッチョの言葉だとか言いつつ、事務所を叩きたいだけの自分の気持ちに寄り添わない松本人志を叩いて喜んでいる連中は更にクソだ。
というレスがついたことで元増田は「個人的な成功」を「個人だけの成功、周囲より突出していること」ととらえていることが明らかになったわけだ。認知の歪み。
個人的成功とはフォーブスに乗るような世界的資産家になることか? 周囲に自慢できるトロフィーワイフを得てみせびらかすことか? そうであれば個人的成功と功利主義は両立しないんだろう、お前ん中ではな。
周りの人、いわゆる「みんなの基準」で求める個人的成功は薄っぺらだ。金持ちの早死や自死がどれだけ多いか。彼らは決して「個人的に成功した」とは思っていない。なにもできないがたまたま1つのことが世間に求められるほど上手だったからそのことでお金はいっぱいもらえた。でも、個人としてはいつまでもダメな人間で、家庭では失敗ばかりだった。スキャンダルや裁判所でおちぶれたときも誰も助けてはくれなかったし、今はカネはなくひっそりと暮らしている。そんな話が週刊誌でもどこでもごろごろ読める。
他人基準だとまあよくある若い犯罪者の考え方にいきつく>個人的成功。オレオレ詐欺のような新たな犯罪を考えついてうまくカネが得られたら個人的成功ってわけだ。そんな他人を出し抜くことでしか得られないような「個人的成功」なんて世間の大多数は求めちゃいないんじゃないか。
クッパ姫を任天堂に公認させようとかいう意味不明な話が流れてきて、あー海外発だとコンテンツに評価が付いたらビジネスとして盛り上げなければいけないという話になるからそうなるよね、と思って見てたわけですが。同人は公式の黙認で成り立ってるからやめろって反対が起こるわけですよ。文化的背景から言えばそりゃそうだ、やめろ、と思うわけですが。
「公式の黙認」ってなんだよと。同人は若手が勝手に絵を描いてプロになる下積みとして機能しているわけじゃないですか。お前ら公式はどこから来たの? と。1980年代には宮本茂は死ぬ思いでマリオをゼロから創作したかもしれないし、手塚治虫はディズニーの丸パクリから全く新しい世界を築いたかもしれないし、彼らはPixivに版権絵をうpして絵を覚えたわけではないだろうけど、今の中の人は同人作家ばっかりじゃん。お前ら古巣の同人界に戻ってきてフリーライドしてるじゃん。
同人黙認システムが機能してるのは公式絵師が苦痛に思うからではなくて、既に「内容は把握しているし想定通りだし何も問題ないけど版権処理がめんどくさいから」「原作者以外のステークホルダーが睨んで止めるから」に切り替わってるよね。なんで止まるかって損するかもしれないからっていう反ビジネス的発想のせいだよね。オポチュニティの喪失ですよこれは。川上稔なんか自作のオンリーに申し込むんだぞ何買ってるのか知らないけど。
「販売する予定はないし、版権元にライセンスする気もないし、どこにも痕跡を残す予定もない。だから消せ。配るな。売るな。儲けるな。わたしを干せ」という主張は、不正な著作権の主張だ。著作権ってのは中世欧州において出版社が割れを売り捌く現象が多発したせいでできた権利だ。印刷所が薄い本を勝手に再生産して勝手に薄い書店に卸し著作権者が印税を干されて死ぬような事態が横行したか何かだ。そのために著作権者がまず正当な印税収入を確保するための出版物の独占的な発行権、つまり著作権を得て、金銭的収入を保護されることになった。もちろん現代では無尽蔵に拡大されて著作物の配布まで制御できるようになりそして同人黙認や同人誌のDMCA取り下げといった機構を提供するに至っている。だが、著作権は金銭的収入の保護のための権利だ。原理主義的には金銭的収入や社会的地位を得ない方向への制御は目的外の利用だ。「望まない形で公開されると盛り上がりが薄れる」はOKだが「盛り上がりすぎると困るので控えろ」は著作権概念の精神に反していて必ずしも保護される意志ではないのだ。
同人黙認グレーゾーン機構は、その核心に「このコンテンツをビッグにしたくない」という自死願望を組み込んで動いているために、現実的には機能しているが理論的に破綻しているのだ。このグローバル化の時代にあって(いつの言い回しだ)は早晩崩壊を免れない。それが日本から始まるのかコミケが海外のコンベンションに規模と薄い本の質で負けて海外から輸入されてくるのかは分からないが、いい加減になんとかならんのかこれ。
生きる意味が見出せない。
欲しいものがない。
あるいは欲しいものを得られない。
孤独や疲労、世間の冷たい態度や疎外、そういったものものを越える理由がない。
あそこでの仕事をしていた時も、虚しさが拭いきれなかった。生きることはできても、動いていても、心は死んだように輝かず、生きているのに死んでいるようだった。
とてもとても、虚しかった。
それを克服しようと、したいことをしようとこちらへ来たけれど、その仕事も「違う」と感じ、その仕事をなすためのハードルを越える必要もないと感じ、やめてしまった。
自分の持つものを上手く活かせる場はあるのだろうけど、探す気にならない。
そうまでして生きる意味が僕にはない。
それに、したいことが思い浮かばない。
自信がなくなってしまった。自己の能力、体力に対して、そしてまた、自分を動かす「したいこと」に対しても。
力が湧いてこない。この心と体で出来ることなど、なにもない。それほどまでに、心と体が動かない。
居場所があれば違うのかもしれない。
でも依るべき場所がない。
実家はない。
ママは僕が自死したら死ぬまで苦しむだろう。一人でに自分を責めるだろう。
可哀想だとは思う。
ママはあの苗字として出来る限りのことを僕にしてくれたけど、でもやはり、あの苗字という選択は僕にとって大きく間違ってたみたいだ。僕には、母が消えてしまったような、取られてしまったような、そんな気持ちが常にあり、こんな歳になっても消え切らなかった。
その反動で恋人に熱を入れたけれど、あの人とも一緒になることはできなかった。でも僕も子供が欲しかったし、いい父親になるだろうと思ったから、可能になったとしても一緒にいない選択をとるだろう。
それでもあの人との恋愛は、生きていて良かったと、それまでの孤独や寂しさは、この幸福を感じるためだったのだと思えたほど、素晴らしいものだった。あんな素敵な体験が出来る人は、地位や富や歴史的人物だとしても、そうはいない。そう思える。
でも逆に、失った後に苦しむことにもなる。
あれから数年が経っても、落ち着いた恋愛が未だ出来ず、「出来ない」という経験だけが積み重なった。
全てにおいて失った感覚。
日々や人生で沈むときは、そういった捉えを強く感じる。そんな僕には、何かを得られる気がしない。ただ転がり落ち続けるだけだ。
生きたい理由がなく、不幸を避ける。
僕と関わった方々の今後の日々に、一抹の影を残してしまうことを心苦しく思います。申し訳ありません。
僕の死は、誰にでもある宿命や産まれながらの不幸に対し、僕自身が勝てなかったというだけです。そしてまた、破滅的な傾向と不安定な精神に依ります。たまたまが重なり、ここまでに至ってしまった。そういう人生もあります。人生を選択できるほどの熱量を、誰しもが持てるわけではない。
物心ついて間もない時期に、母から無理心中を迫られたことがある。
死についてよく分かってなかった自分は、「死にたくない」と母に答えた記憶がある。
母はその場で泣き崩れ、何とか死なずに済んだ。
後で詳細を描くかもしれないけれど、自分の生まれた家庭は不完全家庭だった。
とにかく、その日から、死ってなんなんだと考えこむようになった。
幼稚園に上がってしばらくした頃、悩みはピークに達してあまり眠れなくなった。
周りの子供に相談しても不安がらせてしまって、当時の幼稚園の先生からこっぴどく怒られた覚えがある。
書いてて思ったけれど、幼児が眠れなくなるって大ごとだ。
小学校に上がってからの記憶はほとんどない、ただ周りに合わせてテキトーに振舞い続けた。
唯一記憶に残っているのは三年生だった時で、担任が超熱血教師だった。
うちに家庭訪問しに来た時、和室に入った時の言葉は今でも覚えている。
和室にある仏壇を見て、「ああ、創価学会員でしたか、うちは妻が幹部をやっておりまして。ちなみに私は共産党系です。」
当時はあまりピンとこなかったが、しばらく経ってから自分で調べてみた。
親に連れまわされて行っていた会館などの集いも、小学校に上がる前に全力で拒否して行かなくなっていた。
当然親からは殴られた。それでも反抗した。
父はそれほど熱心でもなかった、気が向けば仏壇に手を合わせている程度。
三年生だったころはその熱血教師とも気が合って、それなりに楽しく過ごせた。
でも家庭はぐっちゃぐちゃで、母からよくなじられた。
「お前が(ryから父さんもあまり家庭と向かい合ってくれない。」
父も父で、母に対して気に喰わないことがあると自分を経由して文句を伝えさせようとしてきた。
言わないとそれはそれで面倒なので、父の伝言を母に伝えた。
母は激怒し、私に当たり、そして父にこう伝えろ、と迫る。
そういう板挟みが続いたころ、もうどうしようもなく死にたくなって、自宅で包丁と飛び降りコンボを使って未遂を起こした。
ベランダの上に立って、首を切った瞬間に飛び降りようとしたのだった。
その時、家には誰も居なかったのだが、実行しようとしたタイミングで母が帰ってきていた。
私は母に気が付かず、後ろから羽交い絞めにされた。
母は号泣していた。
この人、昔心中を迫ってきたくせに泣くんだなと思った。
「あなたはこんなことする子じゃないでしょ、何があったの?」
いやいや、目の前でこんなことをしようとしてたのが、アンタの子だよ。
中学に上がってからの記憶もあまりない、気が付いたら中二の年越しで食物アレルギーを起こした。
唯一携帯電話を持っている友人が私の家族に電話しても全く出ず、友人たちは仕方なく私を自宅に運んでくれた。
寒い、寒い、とうわごとを繰り返す私に友人が毛布を掛けて温めてくれる。
両親が帰ってきたのはそれから2~30分後。宗教の集会に行っていたらしい。
そして病院に運び込まれ、友人と両親、私は病院で年越しをした。
「蕎麦アレルギーで年越しとは幸先が悪いね、ハハハ。ところで、その手首の傷は自分でやったの?」
思いがけない質問が飛んできたけれど、意を決して私は頷いた。
あとで知ったけれど、その医師は小児神経科も診ることが出来る人だった。
「…二時間くらい。」
「何とかしたいと思う?」
私は静かにうなずいた。
私につけられた診断名は自律神経失調症とそれで発生した鬱、そして重度の不眠だった。
治療内容は、ルボックスという抗うつ剤と、生活リズムを記録につけるように指示された。
治療は三歩進んで二歩下がるという感じの速度で進んでいき、気が付いたらリストカットをやめていた。
鬱がひどい時でも気合いのような何かで無理くり体を動かし、学校へ通った。
精神的に辛くて行きたくない時は、母が私をぶん殴って無理やり車に乗せ、保健室に突っ込まれた。
そんな凸凹でも何とか成績は維持していたらしく、高校入試は指定校推薦を受けることが出来た。
ちなみにこの時点でまだ鬱の治療は続いている。
「お母さんの信心が届いたおかげよ。」
この人は自分のやっている事しか見えていないんだな、と思った。
不思議なことに落胆はしなかった。
あきらめていたんだと思う。
高校は楽しい記憶で埋め尽くされていたけれど、相変わらず頭の中は生死の概念を掴むことに夢中だった。
高2の春休みが終わる頃に、自転車で日光に行き、華厳の滝に飛び込んで、すべて終わらせようとした。
夜の7時ごろに家を出て、携帯の電源を切って、ひたすら自転車を走らせた。
国道四号線をずっと北上し、もうそろそろ日光につく頃だったと思う。
東の空が明るくなった。
夜明けだ。
夜明けなら、夜はどこに行ったのだろう?
そう思って反対側を見るとまだ夜だった。
月と太陽が同時に見えた。
その時の自然の美しさに心を打たれてしまって、私はその場で泣き崩れた。
けっこうな時間泣いて、家に帰った。
そんなこんなで、そこから数ヶ月経過した高2の夏休みの最後に、小児神経科の主治医の判断により治療がひと段落した。
希死念慮だけは消えてなかった。
主治医の見立てでは、「まあ何とか乗り切れると思うよ、強いし。」とのことだった。
実際強かったと思う、よく耐えきれたと思う。
大学はかなり白熱した環境だったので研究や学業にのめり込んだ。
2年後の卒業を経て、私は教授のツテで食品物流会社に就職した。
仕事は楽しかったけれど、忙しい部署にいたのでしょっぱなから残業まみれになった。
今度の病名は統合失調症。
そこからは闘病しつつも、ちょくちょくバイトを始めて、そして体力的限界で辞めての繰り返しだった。
統失の治療を始めてから最初の5年の間に、母はがんで亡くなった。
悲しかったけれど、多分一般家庭の子供よりは悲しんでいなかったと思う。涙は一応出たけど。
そこから5年後に、当時所属していたコミュニティメンバーの誘いを受けて、ルームシェアみたいな環境に引越しをした。
そして実家に戻ってきたときに、もう一人友達付き合いが続いていた元恋人が自死。
私が実家に引っ越してから、父の治療は順調に事が進み、抗がん剤と放射線治療、本人努力の甲斐があって腫瘍が消えた。
これには驚かされた、父本人が一番驚いているけども。
あとは5年間再発が無ければ安心とのことだった。
そして現在に至る。
今日は暇だったので、思い出しながら勢いでバババっと書いてみた。
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。
お互い、人生を良い旅にしていきましょう。