はてなキーワード: 法則とは
結局エロいことにしか利用されない理論だから少年少女むけに空想して自然ないいわけを構成できないやつだね
重みが増えるとか抵抗とかその物質が移動するっていうこと自体が時間の経過でしかはかれないわけで
全部止めると光も止まるので止まった時間は完全に真っ黒
それを適当にエロいことができる状態にまで緩和してるのがいまの空想 時間の停止
時間ってものがそもそもすべての単位の基礎となる基準で それは物質とかの定義じゃない領域だとすると
空間とかと同じものなのでそれを自体を包括的に外部から動かすって考えになるでしょう
停止した時間というものを認識できる位置からまるで箱庭をいじるように位置をかえたりする
その位置からみた時間はものすごく圧縮された時間かもしくは別次元での出来事
というところまではいま他のジャンルでもある空想からつなぎ合わせることができる時間停止だと思うよ
停止した別の流れの時間は他のストーリーとして書き起こす文体があるからわざわざSF理論を成立させる必要もないし
何年も前の記事だけど、ふと思い出して訳してみた。
ノーセックス・イン・ザ・シティ:日本に住む外国人女性の気持ち
Reannon Muth
「女性教師に長くいてもらうのは大変なことなんだ。」東京で英語教師になって初出勤の日、私の上司はこう告げてきた。「大抵の場合、6ヶ月以上はもたない。」私は驚いて、登録教師のリスト(30人―全て男性)から目を上げた。
「いや。日本で、という意味だ…。」彼は肩をすくめた。「東京は独り身にはつらい街なんだ…西洋人の女性にとってはね。分かるよね…。」
彼の後ろの壁にかかっていた写真をちらりと見た。四人の中年の白人男性。みんなひげを生やして禿げかかっていた。同じような歳の取り方で、垂れ下がった髪がメタリカのメンバーに似ていた。そして全員が、モデルのようにほっそりした身体の、厚化粧をした美人の日本人女性に抱きつかれていた。
問題を抱えることになるとは思えないけど、と私は思った。
私が魅力的な美人だったからそう思ったのではない。私は美人からは程遠い。スリムで中背、薄茶色の目とそばかす。良く言えばかわいい、悪く言っても並程度。でも私は競争相手が持っていないものを持っていた。長くて自然なウェーブのかかったブロンドの髪。その上私はバイリンガルで、旅行にも慣れていて、大卒だった。
でも日本に来てから数週間の内に、不可解なほどに、もどかしいほどに、自分自身が透明人間になっていることに気がついた。
スターバックスのかわいいバリスタ達は私に見向きもしなかった。自転車に乗ったビジネスマン達は私を無視して走り去っていった。大学生達はボソボソと謝りながら急いで私から遠ざかって行った。天気のことを話したり、道を聞いたり、何か話すきっかけを持とうとした時はいつもこうだった。彼らは挨拶すらしてくれなかったのだ。本当に。
「積極的にならないと。」と日本人女性の友達はアドバイスをくれた。「日本の男はシャイだから、あなたから行かないとダメよ。」だから私はバーでもバスでも、男性達には誘いかけるように微笑んだ。レストランのメニューや、地下鉄の案内の読み方を聞いたりした。
「何かおすすめの本/ドリンクはありますか?」本屋で隣に立った時や、バーで隣に座った時には、このおなじみの台詞で男性達に尋ねていた。でも魅惑の眼差しや会話のきっかけなんてものは、相手が私を見てくれなければ効果がない。彼らが私と完全に目が合うのは、うろたえた表情を向ける時だけだった。まるで「私が将来産む子供達の父親になって。」と、たった今私がお願いしたかのような表情だった。上司が言っていたことは正しかった。独り身の西洋人女性が日本に住むのはつらい。でもどうしてなんだろう?
アドバイスを求めてインターネットを見てみると、デートできない西洋人女性というのは国外居住者の間ではおなじみのキャラなのだと知って驚いた。国外居住者が集う掲示板での、孤独な独身女性の書き込みの多さを見た限りでも明らかだった。
深刻な問題のように思えたのだけれど、多くの女性が話すのをためらっていた。議論するには難しいテーマであるのも無理はない。その国の50%の人たちを極端に一般化することになるし、より悪く言うと、レイシストか男嫌いの俗物女のように思われてしまうからだ。
国外居住者と日本人との間で同じように広まっている見解なのだが、実のところ日本人男性は西洋人女性に魅力を感じてはいるのだ。付き合うために行動する度胸がないだけで。国外居住者達の間では、アジアにいる西洋人女性はジェニファー・アニストンのようなものだった。強くて、自立していて、積極的で、はっきり物を言う。遠くから見とれるには興味深い存在だが、実際に話しかけてみようとする男性はいない。西洋人女性は違いすぎて、異国すぎて、デートの相手にするのは事実上不可能と思われていた。
Y染色体を持つ国外居住者達にとっては話は別だ。女性の国外居住者達が土曜の夜を一人で、ラーメンのどんぶりに涙をこぼしながら過ごす一方で、男性達はキープしている女性達と我が物顔で飲み歩く。彼らはそうやって過ごしていた。
アジアに行ったことのある人ならば、弱々しくてガリガリに痩せたベトベトの髪の白人少年が、完璧にメイクしてミニスカートをはいたアジア人の女の子と手をつないで歩いているのを見たことがあると思う。こんなことは世界の他の地域では決して起こらない。アジア以外の場所では、バービーはケンと結ばれることになっている。不完全雇用で人付き合いの苦手な、日本刀コレクターの隣人、ケビンとではないのだ。でもアジアでは、デートのルールがあらゆる論理や進化の法則に反している。アジアでは、オタクは王様なのだ。
立場が違っていたらよかったのにと願ったとか、そういうことではない。ほとんどの場合で、私は彼らを喜ばしく思っていた。彼らは自分の国にいた時にはデートの予定を書き込むこともできなかっただろう。でもアジアでは高嶺の花を勝ち取ったのだ。彼らはまさにサクセス・ストーリーそのものだ。魔法の抜け道を使って、有利な条件の元で高根の花とデートしているとはいえ、誰がそのことを非難できるだろうか?西洋人女性にとってのそのような涅槃の地が存在するならば、きっと私もそこへ移住するだろう。
時折、カップルを見て「彼女は本当にあの男と付き合っているのだろうか?」という疑問がかき立てられることはあったが、なぜ日本人女性が西洋人男性を(オタクっぽいのでさえ)魅力的なデートの相手候補と見ていたのかを理解するのは簡単だった。彼らは一つの物事に対して、真っ直ぐで広い心を持っていた。彼らはメガネ越しの西洋の目で、恋愛関係を対等な協力関係として見ていた。それは、昔ながらの了見の狭い日本人男性には、まだできていないことだった。西洋人男性達がガールフレンドを大切に扱って、お互いが二人の関係に満足しているのを見て、それが分かってきた。彼らの思いがけない行動や奇妙な言葉遣いが、翻訳で多少失われて、伝わらなかったとしても何の問題があるだろうか?社交的でない人も、愛し愛されてしかるべきなのだ。
でもうらやましいと感じないようにするのは大変だった。私が毎週末、クラブのダンスフロアに一人で立ち向かっている一方で、バカっぽい外国人男性達が上手にナンパして電話番号を交換し、最初のデートの予定を決めているのを見た時は、特につらかった。彼らは駄菓子屋ではしゃぐ子供達のようだった。日本人女性はグルメ向きのトリュフチョコレート。一方で西洋人女性は、容器の底に溶けてこびりついた三年物のトッツィー・ロール。日本人男性達はたぶん私達に気後れしていた。外国人男性達は私達を気兼ねなく無視するだけだった。
でも私は出会いを求めてアジアに来たわけではないのだ。いつもそう自分自身に言い聞かせていた。ここに来たのは、日本語をマスターして、自分の国とは大きく異なる文化を楽しみたかったからだ。でも生活を日本に移すことが、恋愛生活を故郷に置いてくることを意味するとは予想もしていなかった。東京での生活を存分に楽しんでいたとはいえ、公平な取引だったとは思えなかった。
外国人女性の恋愛には成功話がほとんどないと言っているわけではない。知人の何人かは日本に来た後、夫または婚約者を連れて帰国して行った。でも彼女達は少数派だ。ほとんどの西洋人女性は一人で日本に来て、ずっとそのままだった。
とある金曜の夜、仕事からの帰り道の途中、自分がもう日本に九ヶ月いることに気がついた。この逆境に打ち勝ったことを内心喜んだ。上司が間違っていたと証明したのだ。でも重い足取りで帰宅し、『The Office』の再放送を見ながらセブン・イレブンの寿司の残りを食べるという、いつも通りの夜を過ごしていた時、何のために頑張ってきたんだろうと疑問に思った。魅力がなくて、誰からも求められない、最低で、女性扱いすらされない。ずっとそう感じてきた。短いスカートをはいた時や、ぴったりとしたトップスを着た時でさえ、男性達はちらりと見るだけだった。いやらしい目を向けるような建設作業員でさえ、私に対しては退屈そうで無反応だった。自分が火星人になってしまったように感じた。そしてすごく、すごく寂しかった。外国人女性達を、デートのチャンスがある輝かしい境地へ連れて行ってくれる最後の船に乗らなかったのは、もしかすると間違いだったのかもしれない。
元記事:No Sex in the City: What It's Like to Be Female and Foreign in Japan - Vagabondish
返報性の法則
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%94%E5%A0%B1%E6%80%A7%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86
つまりやられたらやりかえす(いいことも、悪いことも)ということ
表現の自由、そしてコミケ、アニメ、漫画などを守るために戦っていて、オタク層などに人気の参議院議員の著作です。
プロローグは表現規制が強化された近未来の世界を描いたディストピアSFです。
黒地に白文字のこのプロローグは一見しておどろおどろしい感じがして嫌だな、と感じたので初読時は飛ばしました。
本文を読んで山田太郎議員の活動や考え方を理解してからプロローグを読んだ方が、おどろおどろしさに煽られずに冷静に本文を読めますし、作者の考え方、議論の仕方もよく分かるでしょう。
なお、作者は本文中では「コミケ/漫画/アニメに危機が迫っていた」「作者がこう頑張って危機を回避した」というパターンの記述を繰り返していますが、オープニングと本文も類似の関係になっていることは、再読時にオープニングを読んで確認できました。
国会議員全員が法制度全般に詳しい必要はありません。しかし、自分で専門と宣伝している分野については詳しくあって欲しいものですし、本を出すのであれば、専門家の校正を受けて欲しいものです。
特に、本書は「コミケ/漫画/アニメに危機が迫っていた」「作者が頑張って危機を回避した」というパターンを繰り返しますので、法的論点の説明に疑問があると、「危機は本当にあったのか」「作者のおかげで危機を回避できたのは本当か」といった疑念が生じてしまいますから、法律部分の校正はもっと丁寧にやって欲しかったと思います。
日本では、「違法捜査が行われると有罪にできなくなる」というルールはありません。違法に収集された証拠について、その違法が重大であれば、刑事裁判の証拠として使用できなくなる、というルール(違法収集証拠排除法則)がありますが、排除されるのは基本的に、重大な違法があったその証拠に限られます。
本書で取り上げられた事件の例で言えば、仮にフィギュアの押収に重大な違法があったと裁判所が認定しても、フィギュアが証拠に提出できなくなるだけで、肝心の児童ポルノは証拠として提出できますから、有罪認定には何の問題も生じないのです。また、情状に関する証拠の押収はある程度認められますから、フィギュアの押収が違法かも微妙です。裁判所が合法と判断する可能性も十分あります。
作者の「違法捜査と認められれば、容疑者を有罪にできなくなる。今後は警察もこうした軽率な行動は控えるでしょう」という記述は的はずれですし、「警察に対して、相当強いプレッシャーを与えたはずです」というのは、説得力がありません。
著作権侵害の非親告罪化について、「著作権保持者以外が告発しても、それだけで検察が起訴できるように変えようとするもの」(90p)と述べていますが、これは不正確で、誤解を招く記述です。
そもそも、親告罪とは、「告訴がなければ公訴を提起することができない」一部の犯罪のことです。著作権侵害以外には、器物破損罪や強姦罪なども親告罪です。(なお、告訴がないとできないのは公訴の提起であり、告訴がなくても、捜査を行うことはできます。告訴の見込みがない事件で強制捜査を行うことはまず無いでしょうが)
親告罪でなくなれば、他の犯罪(窃盗罪とか、傷害罪とか)と同じように、「告訴がなくても公訴が提起できる」ようになるのであり、「著作権保持者以外の告発」は不要です。
作者は別の箇所で「刺し合い」の問題を提起(93p)していますので、そこに議論をつなげることを意識してあえて「著作権保持者以外の告発」という説明を入れたのかもしれません。しかし、読者の大半は親告罪の正確な意味を知らないでしょうから、最初の説明で「著作権保持者以外の告発」という親告罪であるか否かとは関係のない事項を持ち出すのは不適切です。
作者は非親告罪化と法定賠償金制度が組み合わさると、「二次創作の描き手が、非親告罪化により、著作権者でない人物から告発され、法定損害賠償制度によって、懲罰的な意味合いを含む多額の賠償を命じられるようになる……」と述べます(92p)。
この書き方だと、著作権者でない人物から告発されると法定損害賠償制度によって多額の賠償を命じられるように読めます。
しかし、仮に非親告罪化により、権利者の告訴なしで検察が公訴を提起したとしても、それはあくまで刑事事件であり、罰金を命じられることはあっても、損害賠償が命じられることはありません。権利者が民事事件を自分から提起してはじめて、法定損害賠償制度に基づく賠償が命じられる可能性がでてくるのです。
「非親告罪化により、著作権者でない人物から告発され」と「法定損害賠償制度によって、懲罰的な意味合いを含む多額の賠償を命じられるようになる」のそれぞれで別個の問題を指摘しているのかもしれませんが、この書き方では誤解を招きます。
大臣の言葉にそんな力はありません。作者は比喩として言っているのでしょうが、どのような趣旨の比喩なのか書いていないため、大臣の発言にどのような力があると言おうとしているのか、理解が困難です。
これは作者の独自説です。国際法の視点からみても、国内法の視点からみても勧告には強制力はありませんし、日本政府もそう解釈してます。
実際、日本は各種の人権委員会からたびたび勧告を受けてきていますが、そのほとんどに木で鼻をくくったような回答をして、事実上黙殺してきています。
作者は、国連の特別報告者が「成人のポルノは表現の自由により全て許される」と述べたことに対し、「日本人が一般に考えるわいせつ概念とは異なる」と反発しています。どうやら、作者は刑法によるわいせつ物規制には反対してないようです。
さて、最高裁の判例によれば、わいせつとは「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義に反するもの」を指します。よく誤解されていますが、性器が見えることは最高裁判例上は要件ではありません。
そして、刑法によるわいせつ規制は常に恣意的で、しばしば不合理なものです。例えば、女性アーティストの女性器の3Dスキャンデータという、常識的にはたいして「性欲を興奮又は刺激せしめ」るとも思えないものが摘発される一方、まさに「性欲を興奮又は刺激せしめ」ることに特化して作られたアダルトビデオがコンビニで成人用雑誌の付録として大量に販売されています。
このような恣意的な規制は表現の自由に関する萎縮効果が甚だしいのではないかと私は思うのですが、作者はわいせつ物規制の問題には興味がないようです。作者がこれから作られるかもしれない規定が乱用されることかもしれないことについては敏感なのは、表現の自由が萎縮しやすい権利であることから理解できます。しかし、すでにある規制が恣意的に運用されている問題には興味がなさそうなことには違和感がありました。
参議院議員の中には、表現の自由について見識があったり、作者の問題提起に応えてくれる人が他にもきっといるのではないかと思うのですが、他の議員の話はほとんど出ません。まるで、参議院議員の中で表現の自由を守ろうと頑張っているのは作者だけで、作者が一人きりでときに政府や与党と対決し、ときには協調して表現の自由の危機に対処しているかのようです。
表現の自由を守る議員を選びたい人にとっては、選挙区の投票先を選ぶためにも国会議員の中で表現の自由を守ろうと頑張っている人の情報が欲しいと思うのではないかと思うのですが、この本はその役には立ちません。出版時には作者はどの政党で出馬するかが決まっていなかったようなので、残念ながらそれは難しかったのかもしれません。
成人の児童ポルノ
星海講談社
恋姫†無双、百花繚乱 SAMURAI GIRLS、戦国乙女~桃色パラドックス~、戦国コレクション (それぞれアニメ)の放送を見る前の第一印象は軽薄な萌えやエロにしか頼れないつまらないアニメになりそうというものだった。
蓋を開けてみると、それらが全て良作や名作でいい意味で驚いた。
それらの中でも戦国乙女、戦国コレクションはそれぞれパチンコとソーシャルゲームを原作としていて、キャラクターデザインはともかく、ストーリー的にはまともな原作を持たないに近い作品でありオリジナルストーリーだったので不安が大きかった。
ただ可愛いキャラが出てきそうだからチェックしとこうという程度で見たが、内容も楽しめる作品になった。
一方で恋姫†無双シリーズも、原作はエロゲーでちゃんとストーリーがあるのだが、アニメの設定やストーリー的にはオリジナル要素が強い。
原作には当然いる男性主人公を登場させずにアニメ化してしまったことによって恋愛ネタを排除した女性キャラ中心のお色気とコメディ満載のオリジナルストーリーとなり、ただでさえ三国志の武将を女体化しまくるという一発芸的ネタが売りの作品であるため、普通に考えたらこの原作の弄り方はまずいことになると予感するが、それが意外と上手いことハマって人気を博して3期まで制作されたのだった。
その戦国乙女(2011年4月~)と恋姫†無双(2008年7月~・2009年・2010年)のシリーズ構成を担当したのがそれぞれ待田堂子と雑破業だった。
そしてその2人が共に脚本として参加して21世紀を代表する作品といえるぐらいの名作となったのが戦国コレクション(2012年4月~)であり、なんとなく因縁を感じさせる。
戦国コレクションのストーリーの下敷きには古今東西の名作映画等が使われていて、元ネタを上手いこと料理し落とし込んでいて痛快である。
それでいてキャラクター描写がおざなりなわけではなく、キャラクターの魅力もしっかり引き出されている。
最終的にもシリーズ全体を踏まえてのカタルシスが得られながら、心地良い余韻の残るストーリーで締められていて言うことがない出来。
さらにTV放映時は最終話の後の原作CMのキャラの掛け合いが本編の続きのような感じがあり、合わせて楽しかった。
よくある感涙という形ではなく作品への満足感に満たされる形での感動がそこにはあった。
百花繚乱シリーズ(2010年10月~・2013年)も原作は一応ライトノベルなのだが、出版社の創業記念メディアミックス企画で原作とアニメではストーリー部分の設定は全く異なるらしい。
内容的にはアニメ版恋姫†無双、戦国乙女、戦国コレクションと違って男性主人公を中心としたハーレムラブコメ系作品である。
そうなると例によって雑な萌えアニメになりそうという不安が募るのだが、
結果的には主人公が珍しく好感の持てる有能男主人公だったこともあり、名作に仕上がってしまった。
ついでに、メインヒロイン勢に主役級豪華声優ばかり起用されていることもあって、ただキャラを騒がせてるだけでも華があった。
そうして見て行くと、当初なんとなく地雷臭がしていた安易な武将美少女化系作品だが、逆に名作率が限りなく高いことが分かる。
むしろ、武将美少女化系萌えアニメは期待できる、という法則が出来上がりつつあったのだが、逆に一番しっかりとした原作が付いていて、比較的まともな作品になりそうな雰囲気を最初から漂わせていた織田信奈の野望(2012年7月~)が一番微妙になってしまった。
上記の作品に比べるとアレンジは多少穏やかなのではとは思うが、原作をかなり改変されて原作の魅力を消されてしまったようだ。
シリーズ構成を担当したのが、SHUFFLE!、みなみけ~おかわり~、RAIL WARS!、ISUCAという歴史に残る原作レイプ作品群に構成として関わり続けてきた鈴木雅詞だけに、原作を知らなくても織田信奈は被害者になったのだろうという推測が簡単にできてしまう…。
恋姫†無双シリーズのシリーズ構成で、戦国コレクションにもメイン脚本で関わった雑破業は、基本的に前評判の高い作品にはあまり関わらないながらも原作の魅力を引き出しつつ原作を壊さない程度にオリジナル要素も加えて名作に仕上げる天才という印象だ。
0点にも100点にもなれるが並の脚本家なら40点以下にしかならない作品を高確率で80点以上に仕上げるので魔術師のようだ。
特にギャグ系やお色気ラブコメ系が得意なようで、原作は悪くないのに微妙な出来に終わってしまったラブコメ原作のアニメやエロゲー原作のアニメは、彼を構成に据えてリメイクしたら名作になるのでは…と思ったりする。
バングラデシュで流行しているというペットボトルのクーラー、あれがなんかずっともやもやしてるので、オーダだけでもあってるか概算してみた。
ただ、流体力学なんて20年前に習ったきりだし、今完全に酩酊しながらこれを書いてるのであってるかどうかわからない。誰か検算して。
・前提
なんか元記事を見る限りやっぱりベンチュリとしか思えないのでベンチュリの式で計算。
外の気温30℃で計算。
気圧はとりあえず1気圧。
計算がめんどくさいので空気は非圧縮性・粘性無視(たぶんこれがだめだと思う)
大雑把に添え字1が外、2が部屋の中(というかペットボトルの出口)。
v1:外で吹いてる風速[m/s2]
A2:ペットボトルの細い方の断面積[m^2]
T1:外の気温[K]
v1=3[m/s2](微風)
d1=0.01[m](10cm。こんなくらい?)
d2=0.0025[m](2.5cm。これもこんなくらい?)
p1=101325[Pa](1気圧)
T1=303[K](30℃+273)
じゃあ計算してみよう。
ペットボトルの太い方の断面積
ペットボトルの細い方の断面積
非圧縮性のベンチュリの式(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%AA)より、
いきなりこの時点で怪しいな。
けど続ける。
次に、ベルヌーイの定理(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%81%AE%E5%AE%9A%E7%90%86)より、
v^2/2+p/ρ=一定値
これより、部屋の中と外での圧力と速度の
これを変形して、ペットボトル出口と外の圧力差p2-p1を出す。
p2-p1=(v1^2-v2^2)×ρ/2=1336[Pa]
気圧差13ヘクトパスカルか…。
さらに、ボイル・シャルルの法則(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87)より
セ氏に換算すると
299-273=26[℃]
現段階のBD予約数や予想スレによると2000本以下はほぼ確実でした。
そんなもののためにアニメBDを買う殊勝なアニオタはいないと思う。
辛うじてアニマスでGを匂わせたギャグパートがあったものの、実際にはGでなく響のドブネズミだった為
安堵した信者たちの熱い支えもあって1万を軽く超えて見せた物だけだろう。
このように信者向けの作品であれば多少セミやGなどが出てても売上に反映されたりはしないのだが
露骨にGを本編に登場させた前期の小麦ちゃんRや今期ならテラフォーマーズリベンジや少年メイドはあまり芳しくない。
客層にも拠るんだろうが、少なくとも面白い作品ではあるけど、Gが出てるアニメをわざわざ好んで買う人はいるだろうか
という疑問も残る。
はいふりの様にGでなくドブネズミならまだ挽回のしようがあるんだけど、
結局不快害虫が出てくるようなアニメは正直見る気が起きないものだ。
なんで、本編でそういうのが生々しく描かれたあかつきには、アニメ会社は売上が不発になる事を覚悟しておいた方が良いと思う。
追記:ブクマの人達は勘違いしてるけど、あれらの生々しい死骸や殺傷する描写はあっただろうかというニュアンスで書いてますよ。
セミが鳴いてるだけなら特に問題はないですよ、夏の風物詩ですし。ただ、リアルに描かれてる作品は売れてません。
改カードがでる法則性が見えるまで統計出せる程に掘り続けられる程のプレイ回数もお金もないため、
インターネットに溢れている説と自分の経験から改カードが出る法則性を推測する。
http://wikiwiki.jp/kancolle-a/?%B4%CF%CC%BC%A5%C9%A5%ED%A5%C3%A5%D7%B5%D5%B0%FA%A4%AD%2F%B4%CF%BC%EF
この説が事実だとすると金剛型の改カードを求めてるのに金剛型のでない1面や3-4とかを回るのは無意味という事になる。
2-2で隼鷹改(Lv14)[ダブりなし]
2-4で金剛改(Lv30)[ダブり5枚] 加賀改(Lv25)[ダブりなし]
……という感じ。
隼鷹は空母がなかった頃に相当使ってた序盤の制空の功労者なので、使用回数は影響するのかもしれない。
あと金剛が3枚くらいダブりだしてから、金剛がドロップできるステージに出すと結構金剛が出るようになった。
いまや金剛だけ6枚ある。カードをたくさん重ねて出撃するともしかして、
重ねた艦が出やすくなるとかそういうのがあるのかもしれない。
リア友をツイッター上でぬるヲチしている。フォローフォロワーの関係ではない。
友人は、街中や電車内で見た人・ツイッター上で出会ったマナーがなってない人に関する口汚ない愚痴がとにかく多い。時には私を含めたリア友の愚痴も見かける。
それらは自身を棚に上げたものが多く、大体がブーメランとして友人に返ってくる。
例えば、「テーブルに肘ついて食事する人は許せない!マナーのなってない人は不快!氏ね!」と言っている自分の左手は、食事中皿に添えずにダラリと下がっている……といったような、枝葉は違っても根底はあなたも彼らも五十歩百歩だよね?って感じるもの。
自分をちゃんとした大人だと思っている様子だけど、その身が大量に刺さったブーメランでサボテンのようになっていることに気付いていないらしい。
鍵も掛けずにそんな発言をするものだから、批判の対象が容易にそのツイートを見られちゃうんだよね。しばしばヘイトを集めては落ち込んでいるみたい。
我が強く、自分の考えが社会の常識と考えている節があるが、その反面、自信がなくちょっと非難されただけで気に病みやすい。
恐らく、SNSにあまり向いてないタイプ……と言えば分かりやすいかな?
友人と私は似ている。
私も過去、上記のようなツイートが多かったけれど、友人がツイッターを始めてから、友人のツイートを通して自分の痛々しさを客観的に見ることになり、自己嫌悪でもんどり打って転がる日々が続いてやっと、そんな発言は減っていった。
友人よありがとう、君が汚い言葉で文句をたれればたれる程、君が密かに見下している私の外面はどんどん綺麗になっていくよ。自己嫌悪は加速するけど。
類は友を呼ぶの法則か、私の周りにはこういうタイプが結構いる。きっとみんなのTLにもひとりふたり居るんじゃないかなと思う。
痛々しくて直視するのはしんどいし深く付き合いたくはないけれど、なんとなく動向が気になる人、みんなどうやって付き合ってるの?
「ヒロアカ」とは、現在少年ジャンプで連載中の「僕のヒーローアカデミア」という作品
内容を平たく言えば、タイトルにあるような「X-MEN」や「スパイダーマン」のような、あたかも少年漫画に登場するような超能力(作中では「個性」と表現)の持ち主が人類の大半を占める架空の現代日本が舞台
主人公はその「個性」を全く持たない落ちこぼれの少年で、ふとしたことから人類最強の「個性」を手に入れる
そして「個性」を悪用する悪人(作中では「ヴィラン」と呼ばれる)を警察に代わって退治する「ヒーロー」になるべく「ヒーロー」育成学校へ入学する…という話
この「個性」というのがかなりぶっ飛んでて、物理法則とかガン無視した能力が敵味方問わずポンポン登場する
触れた物を無重力にしてしまうとか瞬間移動とか一瞬で相手を催眠術で操ったりとか念じるだけで自由自在に物質を体からいくらでも生み出せる(しかもある程度シンプルなら機械類もOK)とか
主人公に「個性」を与えた「オールマイト」という名のヒーローの外見(筋肉ムキムキ全身タイツの金髪アメコミヒーロー風の男)などから、アメコミの設定を拝借して日本風にしたものだというのは分かるんだけど、ここで疑問に思ったことが一つ
あの世界って「X-MEN」とか「スパイダーマン」って作品自体存在すんのかな?
ちなみにこの「個性」を持つ人類が増え始めたのが数十年前という設定なので、それ以前なら作品自体は存在はしていたんだろうけど、人類の大半がそういう能力を獲得している世界で、ああいう作品って存続できてるんだろうか
要するに人類のほぼ全員が「かめはめ波」を撃てて空も自在に飛べる(舞空術が使える)世界で「ドラゴンボール」って売れるんだろうか?
あるいは人類のほぼ全員がメラやヒャドやルーラを使える世界で「ドラクエ」って人気あるんだろうか?みたいな感じを想像してもらえればいいかな
あと「バットマン」と「アイアンマン」に関しては元々が「すげー体を鍛えてるだけのただの人間」なんだけど、下手をすれば身体障害者みたいな扱いをされる「無個性者」が世界クラスの大企業のトップになっているという設定にあの世界の人間はリアリティを感じるのだろうか
これからはLBGTの人や女性教祖が中心となって、政治に影響を与えるような政党が出てくるのかな。
時代の曲がり角にいることは、なんとなく分かる。
明治から昭和初期までは、それまでの江戸幕府中心から、薩長が天皇陛下の名前の元で中央集権国家を目指した。
(平民というのか、下流にいる人間が、労働を美徳する流れは、基本的に江戸幕府の時代から変わらないのではないか。)
バブル崩壊までは、トヨタやソニーに代表される企業にしても、製品を作れば売れるような時代だった。
零戦や戦艦大和の開発の頃と、大きな流れとしては変わっていないのではないか。
欧米に追いつけ、追い越せが主流だったと思う。
(学問の世界も、何人かのノーベル賞受賞者やフィールズ賞受賞者の超・超一流人はスゴいと思うけど、基本はドメスティックな感じがする。)
コンピューター、ITの分野では自動車産業(やカメラなどの光学機器)のような活躍は見いだせないのではないか。
日本だけであっても、独自の文化であると言われても、ストーカー問題とか怒るのだから。
ある日曜日。その日は妻が買い物に行っている間、俺が台所の整理をする予定だった。
妻は整理整頓はもちろん、片付けるということが壊滅的にできなかった。だから家の中は放っておくとエントロピー増大の法則に素直に従う。
そんなわけで、俺が家に居る週末は内心かなりイライラしながら秩序を取り戻す作業をするのが定例となっている。(もちろんイライラは妻には見せないが。)
そろそろ妻が帰ってくるかなというところで作業は終わった。
一息つこうとリビングに戻ると、玄関口に飲みかけの水素水のペットボトルが置いてあるのが目に入った。おそらく妻が買い物に持って行こうとして忘れたものだろう。今なにかと話題の水素水。あいつこういうのほんと好きだよな、と思いながら一口飲んでみた。だがその日は夏日を記録する5月の陽気。喉が乾いていた俺は半分以上残っていた分を全て飲み干してしまった。
変化を感じるのにそう時間はかからなかった。腹に感じる熱、体の中で水素が活性酸素と結びついている、俺はそう思った。やがてその感覚は全身に広がり熱を伴う充実感へと変わる。頭は逆に冷涼感にあふれ、余計な思考が消え、周りにある世界とどんどん繋がっていく感じがした。書斎にある本の並び順、先月無くしたネクタイピンの場所、向かいに住む藤原さんがこれからどこへ出かけるのか、それら全てが自動的に頭に入ってくる。これが水素の力?
俺は世界と同化しつつあったが、より多くの情報を得るため玄関を開けた。そこには草原が広がっていた。雲一つない空が無限に続き、近くには川が流れている。
川の向こうに人影が見えた。それは2年前に死んだ父親だった。彼はなにか言っているようだが聞こえない。唇の動きを追うと、「初心を忘れるな」と言っているようだった。これは父が元気な頃の口癖だった。
初心。初心だって?俺はいつだって忘れないようにしてきたつもりだ。仕事も、趣味も、結婚も。しかし、忘れたことも忘れてしまったら?初心だと思っていたものが、記憶の連綿の中でほんの少しずつ形を変えていたとしたら?
俺が目を覚ましたのは近所の救急病院だった。隣で妻が泣いていた。
よかったぁ、死んじゃうんじゃないかと思ったよ、といつも以上の早口で妻は言った。
どうやら俺が飲んだのは、妻が封を開けてからかなりの期間が経っていたものだったようだ。玄関を開けて倒れているのを向かいの藤原さんが発見したらしい。
「ほんとにごめんね、ずっとカバンに入ってて、あとで捨てようと思ったんだけど、買い物に行かなきゃと思って」
ごめん、ごめん、と謝る妻を見ていると笑みがこぼれた。そうだ、俺はこいつのおっちょこちょいなところが可愛いと思ってたじゃないか。危なっかしいがいつも一生懸命なところが好きだったんじゃないか。
俺は完全に忘れていたみたいだ。いや、生活の中で埋もれていたというべきか。
「お金とは天下の回りもので、万物は流転するという森羅万象の法則にぴったり合致する。今度から禅の修行に出るので許して下さい。」
あいつは言い放った。私から借金をしている癖に、新型のiphoneを買ったからだ。
「あ、あと傘も借りました・・・ほんまにすみません。傘も天下の回りものなんですよ。盗み盗まれ、世の中を循環しているのです。」
もう本当にバカらしい。こういう奴とは根本的な価値観が合わないのだ。
もし就職活動のときにやったwebテストのような性格診断をやったら、まったく反対の結果が出るだろう。
「天下とか万物とかさ、良くそんな話が出来るよね。こっちは生活でいっぱいいっぱいなのに。」
最近、年齢のせいなのか本当に些細なことでイライラする。洗濯物を干している時に、服がハンガーに引っかかってうまく干せないだけでもイライラする。
こういうときの助け舟は美味しいものとお酒で一人晩酌をやることだ。私は近所のコンビニで買ったハイボールの缶で一人晩酌を始めた。
あいつとは付き合っているのか付き合っていないのか良く分からない関係だ。
ただ、やることはやっている癖にいつも敬語を使ってくるところにあいつのずるさを感じている。
ふとテレビに目をやると、もう名前も覚えられないようなアイドルがトークでスタジオを湧かせている。
「確かに万物は流転するのかもね。」
突然のことだった。
つまみのさきイカが踊りだしたのだ。それも最近流行ったアイドルグループの曲に合わせてリズムを取っている。
さきイカはだんだん調子を上げ、激しくうねりながら立ち上がろうとしている。
完全にリズムを支配したさきイカは、活き活きと動き続ける。まるで神でも宿ったかのように。
そして私を圧倒した。
翌朝私は目が冷めた。
どうやらそのまま寝てしまったらしい。
空き缶がいくつかと、さきイカの空袋が転がっていた。
さきイカがない。
そう思った瞬間だった。
自分の中で昨日のさきイカが巡っている気がした。
血となり肉となり、私の体内を巡っている。
さきイカのタンパク質は消化吸収され、私の皮膚となり毛髪となり爪となる。
海の恵みを、日本の東京のこのマンションの一室で、今私が享受している。しっかりと。
<完>
つまる→ながす→あふれる
業務中に腹が痛くなって離脱してしまった前日の経験を生かし、始業前にトイレに行っておくという計画は完璧に進捗しているかのように見えた。
「勝った」
と思った。
水を流すまでがうんちです――
子供のころ、親や先生に教わった大事なことはすっかり忘れ去っていた。
もし頭の片隅にでもその教えが残っていれば、1度目の流しで詰まりが発覚したとき、冷静に対処できたかもしれない。
だが勝ちを確信していた俺は相手を侮り、「次で流せる! ほら水の量がふえてるから圧力も増すし!」と考えてしまった。始業時間が迫っているという焦りもあっただろう。
……
判断が早かったおかげで、俺自身は間一髪で難を逃れることができた。トイレの状況は…見たくもない。
だがここは広大な工場のはずれ。周囲には誰もおらず、めったに人は来ない。俺がここにいたことなど誰も知らない。
それに、後でばれたとしても、しょせん日雇いの身である。二度とここに来ることはない。