ある日曜日。その日は妻が買い物に行っている間、俺が台所の整理をする予定だった。
妻は整理整頓はもちろん、片付けるということが壊滅的にできなかった。だから家の中は放っておくとエントロピー増大の法則に素直に従う。
そんなわけで、俺が家に居る週末は内心かなりイライラしながら秩序を取り戻す作業をするのが定例となっている。(もちろんイライラは妻には見せないが。)
そろそろ妻が帰ってくるかなというところで作業は終わった。
一息つこうとリビングに戻ると、玄関口に飲みかけの水素水のペットボトルが置いてあるのが目に入った。おそらく妻が買い物に持って行こうとして忘れたものだろう。今なにかと話題の水素水。あいつこういうのほんと好きだよな、と思いながら一口飲んでみた。だがその日は夏日を記録する5月の陽気。喉が乾いていた俺は半分以上残っていた分を全て飲み干してしまった。
変化を感じるのにそう時間はかからなかった。腹に感じる熱、体の中で水素が活性酸素と結びついている、俺はそう思った。やがてその感覚は全身に広がり熱を伴う充実感へと変わる。頭は逆に冷涼感にあふれ、余計な思考が消え、周りにある世界とどんどん繋がっていく感じがした。書斎にある本の並び順、先月無くしたネクタイピンの場所、向かいに住む藤原さんがこれからどこへ出かけるのか、それら全てが自動的に頭に入ってくる。これが水素の力?
俺は世界と同化しつつあったが、より多くの情報を得るため玄関を開けた。そこには草原が広がっていた。雲一つない空が無限に続き、近くには川が流れている。
川の向こうに人影が見えた。それは2年前に死んだ父親だった。彼はなにか言っているようだが聞こえない。唇の動きを追うと、「初心を忘れるな」と言っているようだった。これは父が元気な頃の口癖だった。
初心。初心だって?俺はいつだって忘れないようにしてきたつもりだ。仕事も、趣味も、結婚も。しかし、忘れたことも忘れてしまったら?初心だと思っていたものが、記憶の連綿の中でほんの少しずつ形を変えていたとしたら?
俺が目を覚ましたのは近所の救急病院だった。隣で妻が泣いていた。
よかったぁ、死んじゃうんじゃないかと思ったよ、といつも以上の早口で妻は言った。
どうやら俺が飲んだのは、妻が封を開けてからかなりの期間が経っていたものだったようだ。玄関を開けて倒れているのを向かいの藤原さんが発見したらしい。
「ほんとにごめんね、ずっとカバンに入ってて、あとで捨てようと思ったんだけど、買い物に行かなきゃと思って」
ごめん、ごめん、と謝る妻を見ていると笑みがこぼれた。そうだ、俺はこいつのおっちょこちょいなところが可愛いと思ってたじゃないか。危なっかしいがいつも一生懸命なところが好きだったんじゃないか。
俺は完全に忘れていたみたいだ。いや、生活の中で埋もれていたというべきか。