はてなキーワード: 敗戦とは
ブコメ見てると「ネタニヤフ首相は戦争が終われば逮捕される。だから戦争をやめられない」、との意見がスターを集めている。
それはネタニヤフだけではなく、イスラエル国民も強く願っている。
イスラエルの敵国で、イスラエルを滅ぼせる戦力を持っているのはイランくらいだから(具体的にはイランの核兵器)
彼らは、イランを潰さなければ平和はない、と考えている(それは客観的に見てもたぶん正しい)
戦争してぶっ潰したい。
ただそこには問題もある。
イランと戦争を始めると、イランの手下であるヒズボラやハマス等々の近隣勢力も攻撃を仕掛けてくる。
そうなると四方八方から攻撃され、さすがのイスラエルも敗戦の可能性が高い。
そこにハマスが絶好のチャンスをくれた。
ちょっかいを出してくれたヒズボラを国境から後退させ、ミサイル基地も叩いた。
もちろん、それより内陸からミサイルは飛んでくるが、ある程度迎撃できるのが分かった。
つまり、本命であるイランと戦争できる形がようやく整ったのだ。
イスラエルはこれを逃す気はなく、アメリカやイギリスや国連が何と言おうと突き進んでいるのである。
彼らにとっては、悲願だった平和が目の前にあるのだから当然だ。
それは建国以来、いや数千年も前から待ち望んだ願いであり、過去の祖先や未来の子孫への約束でもあり、使命でもある。
その使命感は非常に強く、日本人には到底理解できないほどの強いアイデンティティとなっている。
だから断言できる。
かなりの高確率で。
「(慰安婦問題について)それでも納得を得るまで謝罪し続けるしかない」
「(令和という元号について)違和感がある。『令』の字の意味について国民が納得してもらえるよう説明する努力をしなければならない」
「日韓関係は問題解決の見込みの立たない状態に陥った。わが国が敗戦後、戦争責任と正面から向き合ってこなかったことが多くの問題の根底」
「隣国(韓国)と仲良くできない国が多くの国と仲良くできるとは思わない」
「みんながイエスマンになっちゃったら、それは自由民主党ではない」
「(図書館で後の妻と出会った際)こんなきれいな女性が世の中にいたのか」
「奥さんといろんなバトルをやって勝てることは万に一つもない」
日本人って東南アジア系の人々をほんのり見下してるじゃん。今でもさ。
それってまあ植民地だったからだよ。今の大人でもさ、じーちゃんばーちゃん世代はそういうデカい日本で暮らしてたわけだから、ナチュラルな差別意識残ってたわけでしょ。
日本に来る東南アジア系の人がいくら頑張ってても、いくら頭良くても、いくら金持ってても、心の奥底で「でもこいつら植民地だったところの国出身だからな」っていうのがある。
技能実習生とかそんな感じじゃない?
「二等国民にしてはよくやってるじゃないか。我々一等国民も見習わなきゃな。二等国民に負けてはいられないぜ。二等国民より弱い一等国民どうした?www」というふうな表現がしっくり来る感情があるのではないか。
日本人がアメリカ人に抱いてる感情もそれと同じ感じだよ。あと一応これってアメリカ人限定で、イギリス人だとちょっと和らぐしカナダ人やオーストラリア人ならだいぶ和らぐでしょ。
フランス人とかイタリア人なら、あぁん?フランスかよとかイタリアかよみたいな。
でもアメリカ人だとなんというかちょっと「ひえっ」ってならん?まあ、ならんなら別にいいけど。
一方で中国人は日本人に日清戦争と日中戦争で連敗してボコボコにされて満州とられたから、なんかいちおう中国は戦勝国でGDP抜かされてるけど日本とは対等みたいなとこあるでしょ。
「中国?強いよね」みたいな。
団塊世代って言い換えれば敗戦第一世代で、その団塊ジュニア世代が氷河期世代(いうならば敗戦第二世代)でしょ。まあそりゃ力出ないわな。
表参道って、神社の前の参道という意味なわけなんだけど、そこに西洋が溢れているっていうのがもうなんか象徴だよね。
昔ワシントンハイツっていうのがあったんだけど、それって明治神宮の隣に作ってたわけよ。
戦後あのへんは米兵とかが闊歩してたわけね。そんでその周辺が最先端!イケてる!すごい!ってなってた。
その間、「怖いから九州で貿易とかはやってね」って避けて江戸がいいとこ取りだけしようとしてたから、九州勢ブチギレ。
地図見ればわかるけど、九州らへんの海をすいーーっと外国船が通ってたんだよ。自分たちの国で嫌だって言ってんのに外国船が堂々と通ってるのウザいじゃん。
しかも江戸から離れてるから外国船やりたい放題やってるわけ。「まあいうて土人でしょ。江戸には多少気使うけどね」みたいな。
脅威度がレベチだったし江戸幕府頼りないからいろいろあって薩英戦争(鹿児島)とか馬関戦争(山口)になったりしてた。
江戸も弱いから、海外から九州ウザいからなんとかしろって言われても「知らんし」って言ってたわけ。
海外もそれで「なんやこいつら」って感じ。「はーーーー。めんど。しゃーなし九州ボコるか。江戸の部下ってことは弱いやん?雑魚狩るかー!雑魚!」っていうノリなわけ。
そして実際戦争してみたら「えっ?強くね?」ってなったから西洋も「実際に戦ってくるコイツらがJapanのボスだな」って判断して江戸幕府をないがしろにした。
まあいろいろあって、それで明治政府ができたわけだな。長州閥とかいろいろあるけど、全部江戸が日和ってたせいだよ。田中久重とかも佐賀だぞ。
そんで西洋に追いつけ追い越せの気持ちで一挙に頑張ってたわけよ。
外国人にへーこらしてソーリーソーリー言ってるわりに、同じ日本人に向かっては偉そうな口叩くのって、幕末の江戸幕府的だよね。
江戸にもいたけどよ、そういうやつ。
別に日本人に文句言うのはいいけど、日本人カスって言うからには海外にもカスって同時に言ってないと話が合わない。
日本人カスって言いながらアメリカ人や中国人にはペコペコしてるとか江戸だぞ。こいつら自己保身のために魂も何もかも売り渡して、アメリカや中国の二等国民になろうとしてるだけだからな。
概念として、全体的に江戸幕府的だよね。明治も別に何もかも優れた黄金時代じゃなかったけど、少なくとも勢いはあったよね。
お前らも早く武士になった方がいいぞ。お前も勢いを作ってくれ。
https://anond.hatelabo.jp/20240906234755から続く
この出来事は、1983年から1984年にかけての現代編に関連している。。おしん83歳の頃、たのくらスーパーの拡大事業は、大手スーパーの進出によって経営難に陥り、倒産寸前まで追い込まれていた。過去におしんが初恋した相手、並木浩太の息子が経営する並木商店が、大手スーパーの土地買収における重要な場所にあり、その売却次第でたのくらは助かる状況であった。私は以前、おしんが浩太を説得し、並木がその情に応じて救済が成功したと思い込んでいたが、実際にはそうではなかった。
なぜそのように思い込んでいたのか。もしかすると、失踪から戻ったおしんに、並木を説得してくれと仁が土下座して頼み込んだシーンがあったからかもしれない。
「おしん」は全297話もあるドラマだが、その第1話は、たのくらスーパーの新店舗開店祝いにおしんが出席せず、家出する場面から始まる。おしんの失踪理由が明らかになるのは、終盤の第290話。ドラマの伏線回収が時代を経て行われることが多く、おしんの家出の理由も最終週で回収される最大級の伏線のひとつであった。この巧みな構成は、橋田壽賀子や演出家のすごさを感じさせるもので、まさに名作と呼ぶにふさわしいものである。
特に佐賀編では、あまりの過酷さに倍速で視聴したこともあったが、終盤に近づくにつれ、ポーズしてでもじっくりと次の展開を予想しながら見入っていた。
第1話から第3話にかけては、おしんが並木商店の大旦那に恩義を感じていたため、新規スーパーの出店に反対していたことが示唆されていた。そのため、多くの視聴者はおしんが息子の恩知らずな商売拡大に恥じて家出したと理解していたはずである。ぢかし終盤になってその真の理由が明かされるという展開が待っていたのは正直、超絶長い伏線回収である。
実際には、おしんは失踪直前に浩太を訪れ、仁の事業拡大による不義理を詫びていた。その際、聞かされたのが大手スーパーの進出についての話である。並木商店の大手への売却は、並木商店の生き残り策であり、たのくらへの防衛策でもあった。おしんはすべてを理解したうえで、浩太に対して大手スーパーへの土地売却を進めるように頼んでいたのである。
その後、おしんが戻ってきた際も、並木はまだ売却を逡巡していた。仁はおしんに土下座して、まだ間に合う、並木を説得してくれと頼んだが、おしんは改めて浩太に売却を進めるよう頼むのである。おしん厳しすぎるだろ。
おしんは大手の進出によってたのくらの事業が立ち行かなくなることはわかっていたが、ひととしての恩義を忘れ、家族を顧みず金儲けに走ってきた田倉家の再生のために、そして恩人の浩太の一家のためにも並木の土地の大手売却への契約を進めてくれと願い出る。相変わらずおしんさんは厳しいお人だと微笑む浩太は、ついに売却を決意する。
仁は、母のおしんが交渉に失敗したと思い込み、失望して母を責める。妻の道子も、夫に失望し、ついには離婚を宣言する始末。家族の崩壊が進む中で、おしんはその様子を静かに見守ってゆく。
おしんは仁に、離婚を再考するよう促し、仁はようやく家族の大切さを思い出す。この姿は、かつて佐賀で竜三を立ち直らせるために試みたおしんの姿と重なる。仁と竜三は、いずれも実家の甘えを捨てきれずにいた共通点があった。おしんは仁の田倉商店を倒産させてでもその甘さを排除しようとしていたのである。
事業整理のため自宅売却を進め、引っ越しの準備のさなか、家族は徐々に絆を取り戻してゆく姿は橋田壽賀子の夢の世界なのかもしれない(正直、ここはちょっとうーんと思うところはあるが)。しかしこれが橋田ドラマ流の大団円なのだろう。
前述したように、田倉商店は浩太によって救済される。というより人の縁によって救われる。それはまさにおしんが商売において大切にしてきた価値観なのである。しかしそれは、全297話、一年近く放送してきたおしんのドラマの終盤最終話、終了わずか10分前の出来事である。すごい。
橋田壽賀子がこの物語を書き始めた理由は、バブル経済前夜にあった80年代の人々が、お金儲けに走り、大切なものを見失っているのではないか、という思いからであった。物語のラストにはそのメッセージが強く反映されている。
竜三と息子の仁は、おしんから見て「甘い」性格であり、竜三は何かと佐賀の実家に頼るところがあった。しかし、竜三が「俺についてこい、命を懸けて大きな仕事をするんだ」と前に進もうとする時の屈託のない笑顔を、おしんはたまらなく愛していたのだろう。
竜三が敗戦時に自決した際、おしんはその死を「立派だ」と称した。今回全篇通してみる前は、残された家族を顧みない自殺は自分勝手で情けないものだと思っていたものの、物語全体を通じて竜三の死に対するおしんの思いが腑に落ちる瞬間があった。
私は後悔しているんじゃないよ。私は私なりに信じて戦争にも協力してきた。軍のおかげで初めて仕事らしい仕事もさせてもらった。男として存分のことしてきたんだ。むしろ精一杯生きられたことをありがたいと感謝しているよ。ただ、ひとは私の生き方を間違っていたというだろう。私は軍と手を結んで仕事をしてきた。隣組の組長として戦争への協力も押し付けてきた。私の勧めで志願兵として少年航空隊に入った少年もいる。その中にはもう帰ってこない少年もいた。国債だって随分買わせてしまった。それも今となっては反故だ。私が無視する事だってできたんだ。だが私はそれをしなかった。もちろん私には私の信念があってやった事だ。それを悔いる気持ちは全くない。しかし戦争に協力して罪もない人たちを不幸に陥れてしまった責任は消えやしないんだ!
これが自殺直前の竜三のつぶやきである。竜三の言葉のなかに隣組という言葉が出てくる。
明治から終戦にかけての日本は、天皇を頂点とした「家制度」を仮構し、その枠組みの中で国民国家が成り立っていた。この「家」の概念は、戦時中には配給制や隣組といった組織を通じて等しく苦労するフィクションを生み出し、社会の不平等を覆い隠していた。田倉家もその影響を受け、軍部からの委託で工場を経営していたが、周囲からは「軍と結びついて甘い汁を吸っている」と陰口を叩かれていた。仁がある日突然、少年航空隊に志願した背景には、そうした噂への嫌悪感があったのかもしれない。
その後、仁は終戦の日も戻っては来なかった。田倉家では仁は戦死したものと想像していたのである。
日本が「ひとつの家」として観念された時代において、家族を守ることと国を守ることは同義であった。竜三にとって、隣組の子供たちの死や戦争の責任を負うことは、家制度の枠組みの中で重要な役割であっただろう。彼が自決した理由も、家制度に基づく責任感から来ていたのである。おしんが竜三の死を「立派だ」と称したのは、竜三が自らの信念に従い、天皇を頂点とした「家」への責任を全うしたと理解したからかもしれない。
語弊を承知でいえば、竜三の自決は、個人としての責任を取る行為であり、家制度における「切腹」にも通じる感覚だったと言える。
おしんが育った山形の貧困農家では、口減らしが普通だったし、姉のはるが死んでも母が死んでもまともに葬式もできない窮状だった。女性を犠牲にして平気な顔してきた作造も長男の庄司があまりにもひどかったことを思い出すと、隣組の責任を感じて自殺するなんて、むしろ立派なことに思えてくる。
しかし、どうだろうか。
竜三のこれまでの数々の挫折経験のように、ふるさとの太い実家に戻るというような、逃げ道はなかったのだろうか。しかし思えば伊勢にきて魚屋になった頃からの20年間、竜三は佐賀の実家へ依存する思いがほとんど消え去っていたように思う。竜三の佐賀依存が消えていったことはおしんにとってはうれしいことでもあった。
禎の疎開のときですら、佐賀疎開という選択肢は排除された。疎開先で虐待され逃げ帰ってきた禎をみたときには、さすがに佐賀という選択肢はあってもよかったと思うが。竜三はそれもしかなった。
太い実家をあてにしない、それはおしんが望んでいた竜三の自立の証でもあったはず。竜三は魚屋からの次のステップとして伊勢で軍の納入業者になることに挑戦した。そしてようやく家族を養う自信が付き始めた頃のこと、おしんは竜三が佐賀の実家を頼らず、雄、仁、禎、希望、初子の5人の子供のために大きな仕事に夢を託していると思うとたまらなくいとおしくなった、とナレーションが述懐している。
しかし、竜三が太い実家という表象の代替として知らず知らずのうちに依存していたのは、天皇を頂点とする日本国という「巨大な家」だったのである。
おしん自身は、国家という家のフィクションを完全には信じてはいなかったが、なんとなく空気には流されていた。しかし竜三は深く信じていた。信じていた以上、潔くその家の責任を取ったということだ、おしんはそう理解したのだろう。そうであれば、軽々しく天皇制などというフィクションを捨て戦前の考え方などなかったかのように、これからは自由な社会だ、などとふるまうことはズルいことだと思ったかもしれない。しかし、国が家族であるという考え方を捨てさえできれば、なんだったら太い実家に戻ってもいいのだ。しかし竜三はそれを逃げ場にはしなかった。だから立派だといったのではないだろうか。
敗戦直後の225話では、父と兄を失った仁の感慨として、潔く死を選ぶか女々しく図太くたくましく生き残るかの二者択一として人生観が総括されてゆく。その後の長い戦後の物語では、昭和58年、物語の終盤に至るまで、たびたび竜三と雄の仏壇に手を合わせるシーンが出てくる。これも地味だけど見逃せない。おしんが田倉竜三への思いを忘れずにいるという、竜三への愛と敬意がここに見て取れる。かつて伊勢の海岸で、逃げようとする竜三をタックルをしてでも捕まえたおしんの心情がオーバーラップしてくる。
ちなみに、この竜三の自決は、80年代90年代、翻訳、放送された海外ではどう受け止められたのだろうか。それはとても気になっている。
おしんのドラマは橋田寿賀子の反戦思想が色濃く反映しているといえるが、そのなかに侵略や植民地支配の反省という視点は希薄である。それは竜三の自決動機のなかでも軍部に寄り添い、同胞を死に追いやった責任は感じても、侵略に手を貸した自画像はみえてこない。しかし、植民地支配への反省についてはそれ自体は動機にはなっていないものの、それにつながりうるイエ観念を読み取れるように感じた。隣組を他人ごととしてとらえていたのであれば、竜三の自決はなかったはずである。そうであれば拡大されたイエ観念により実効支配された地域に考えが及んでもおかしくはない。実際にはそこまで思いは至らずに死んでしまうのだが。
同じ昭和時代の作品である五木寛之の「青春の門」では、筑豊炭田で差別的な扱いを受ける朝鮮人労働者が大きなテーマとして描かれている。石炭鉱業会社の経営者が、朝鮮人労働者たちから待遇改善を求められた際、「他の山は知らんが、生きるも死ぬも一緒に炭を掘ってきた家族同然だ。私が親でお前たちは子供だ」と言い返すシーンがある。
この台詞は、日本を親、植民地を子と見立てる当時の日本人の感覚を象徴している。家族になることで遠慮がなくなり、苦労を強いても平気になるという現象は、まさに家族観の持つ影の部分を示している。(ちなみに映画「青春の門」筑豊編1980年で経営者と交渉した朝鮮人労働者リーダー役を演じた渡瀬恒彦は、おしんでは浩太役を演じている。)
この真理を見事に表現しているのが、初子の存在である。八紘一宇における植民地と田倉家における養子初子は入れ子構造なのである。初子の境遇は、創氏改名を強いられ皇民化の果てに敗戦を迎えた朝鮮民族の運命と二重写しに見える。植民地をいかにわが子供のように見立てようともいざ状況が変わればあっさりと切り捨てられてしまう。
初子の抱えていた不安というのはまさにそういうものだった。おしんの長男・雄の戦死を契機に山形へ帰郷するよう初子に伝えたおしんの行動は田倉家以外に居場所のなかった初子にとって残酷なものであったといえよう。自殺を思いとどまり、米軍相手の娼婦となった初子は誰にも消息を知らせないまま、3年もの間、田倉家に送金を続けていた。おしんの言動は初子を養女とみていたとはいえない一方、初子は養女としての行動をとっていたのがいじらしく泣ける場面である。
6月頃から見始めたおしん。ついに最終回に到達した。全297話を一気見して感慨深い。おしんは明治に生まれ、大正昭和と激動の時代をたくましく生き抜いた女の一代記である。
これまでも2019年頃に再放送された際に断片的にはみていたのだが、フルバージョンで通してみたのは今回が初。全篇を通してみて、いろいろと誤解していたことも多いことに気が付いた。
全く違った。もちろん困難に負けないといった不屈の精神みたいなテーマもあるし、海外ではむしろそこが受けたのだろう。しかし、おしんの本質はそこだけではないというのが全話みた感想である。
いや、もちろん少女時代の奉公先での過酷な試練は、おしんのイメージともなっているし、全編通して苦労が絶えなかったのは確かである。それに耐えようとする根性もみせた。しかし、おしんは最初の奉公先である材木問屋からは逃亡しているし、佐賀の豪農の嫁となってからは、姑の嫁いびりに耐えきれずに幼い一人息子を奪うようにして家出している。7歳のおしんが座木問屋で受けた仕打ちにしても、24歳のおしんが佐賀の田倉家で受けたイジメにしても、視聴者から見るに堪えないとのクレームがあったほどのもので、おしんが耐えきれないのも無理はないものである。特に壮絶だったのは、妊娠したおしんに対する佐賀の姑の仕打ち。まかり間違えば自分が命を落としかねない危険な死産を経験したおしんはついに、佐賀の家を離れ東京行きを決意する。朝ドラとしては、佐賀時代は1ヵ月以上もあり、視聴者にとってもきつかっただろう。なにせ毎日いびられ、佐賀時代におしんが笑顔を見せることはなかったのだから。朝から気持ちを明るくさせるという朝ドラの使命を真っ向から放棄した凄まじく理不尽な展開だった。
後年、佐賀の姑・清を演じた高森和子は、こんなことを言っている。
佐賀編で、田中裕子さん演じるおしんをいびる田倉家の姑・清を演じた高森和子さんも「私はさほど厳しいと思っていなかった。きついといえばきついけど清から見たらおしんのことを我慢できない部分も当然あっただろうし。だから憎まれ役のつもりはなかった」という。ところが、まず舞台地の佐賀からどっと清に対する反発の声が上がった。「役者冥利に尽きるとも言えるけど、そんなに怒られると思わなかったので、最初は少し落ち込みましたね(笑)」。とはいえ、高森さんもおしん役の田中裕子さんの熱のこもった演技に、いびる立場でありながら「あまりにかわいそうで」思わず涙したこともあったようだ。(NHKアーカイブより)
さほど厳しいと思っていなかったという回想は、放送から40年後に、おしんを視聴した私にとってはむしろ衝撃である。なるほど、あの姑・清の行動にリアリティがあるのはそのためか。清の役柄を完璧に理解してこその発言である。プロとしかいいようがない。おしんの娘が死産した際、ほぼ同時に出産した娘・篤子には乳が出なかった。困った清はおしんの乳をもらえないかと頼む。清は授乳するおしんの姿に慈母観音をみる思いだと感動し、死産した娘に愛と名付けていたことを知った清は、自分の孫に愛という名前をもらうことにした。もとはと言えば、おしんの死産は田倉家での嫁としての過酷な日々により体力が奪われていた結果である。自分の孫に愛と名付ける姑の無神経さもさることながら、こんなところにいたら殺されてしまうという思いがおしんの東京行きを決意させた。その際、一粒種の息子・雄を清の手から盗み取って、自立しようと家出するおしんを手助けしてくれたのは、田倉家長男の嫁・恒子。恐らく当時の日本全国の農家の嫁たち(視聴者)は恒子の行動に大きな共感をもっただろう。誰しもおしんのように行動はできない。つらくても長男の嫁として根を張って生きてゆくしかない。真の意味で辛抱する女は恒子である。
これは半分は正しいが、半分間違っている。確かにおしんは、9歳から16歳にかけての酒田の米問屋・加賀屋で奉公した際、大奥様から見込まれ、お茶や料理、裁縫などありとあらゆる花嫁修業のみならず帳簿の分析の仕方など商いのイロハを徹底的に仕込まれた。これは加賀屋を継ぐことになる孫娘加代が商売に何ら関心がなく、将来とても加賀屋を任せられない不安から、加代をバックアップしてくれる存在としておしんに期待していたからである。
しかし、全編通してみると、おしんの才覚はむしろ夫の事業や息子の事業をサポートするために発揮されていることがわかる。10代の頃に加賀屋奉公時代に培った経験は、のちに田倉商会の旦那と結婚し、田倉商店を支えようとするときに力を発揮する。帳簿をみて夫の田倉竜三の経営能力の弱さを見抜いたおしんは、そのを不安を源じいと相談する場面がある。源じいは佐賀の本家から三男・竜三のお目付け役として東京で同居していた使用人である。夢ばかり膨らみがちな竜三の経営には源じいもハラハラしており、おしんの商才を見抜いていた源じいは、おしんが竜三坊ちゃんを支えてくれるものと安心していた。しかし竜三は甘く世間知らずだった。田倉商店は詐欺にあい、あっけなく倒産してしまう。
田倉の再起をかけておしんは自ら稼ぐことを考えた。おしんは手先も器用だった。17で上京した当時、日本髪に弟子入りした経験から、出前の洋髪を始めるとたちまち客がついた。一方、竜三は堕落した。会社員の月給の何倍も稼ぐようになったおしんをしり目に、竜三はカフェを飲み歩く日々。完全に髪結いの亭主化してしまう。日本髪のお師匠さんに相談すると離婚してしまえと助言を受けるが、ここでおしんのとった行動がすごい。夫を再起させるために、自ら稼ぐことをやめてしまうのである。おしんが働くのをやめ、ついに貯金がつき、明日の米を買うお金も無くなった。お金が尽きたとお師匠さんに報告した際にいったタカの言葉「ダメは男はどこまでいってもダメなんだよ」は自分の胸に突き刺さっていたい。どん底を理解した竜三はプライドを捨て勤め人として働きだす。それからのおしんは、再び商売を始める竜三に対して、どんなに商売にセンスがなくても温かい目で見守ることにした。先行きに不安でも、それを表には出さずヨイショを欠かさなかった。夫と一緒ならどんな苦労でもすると明るく振舞う。黙って俺についてくればいいんだと竜三に言わせることで、おしんは夫の背中を押していた。やがて子供服の需要に目をつけ、竜三は工場建設に乗り出すも、関東大震災で多額の投資をした工場は瓦解、田倉商店の夢も泡と消えた。失意の竜三は佐賀に帰ろうと言い出す。そもそも三男坊である竜三は実家の資金で東京で事業を始め、失敗し、夢破れて、太い実家をあてにして舞い戻ってしまうような根性なしだった。前述のおしんの佐賀地獄はここから始まる。
それから数年、佐賀地獄から幼い息子を連れて脱出したおしんは、東京、山形と転々とし、最終的に伊勢に落ち着き、魚屋として地道に商売をする日々が続いた。いずれ夫と家族ともに暮らせる日を夢見て。最初の3年は一人で魚屋を切り盛りしていたおしんっだったが、夫の竜三からは手紙を出せどなしのつぶて。そんな折、有明海干拓の夢破れた竜三が、満州で一旗揚げると別れの挨拶にひょっこり伊勢に現れた。渾身のタックルで、逃げようとする竜三をつかまえるおしんの演技は、天才女優・田中裕子のすごさがわかるシーンである。竜三は自分には甲斐性がないことを承知していた。おしんが行商した金で店を開くのに亭主面して乗り込めるかと、あくまで干拓に拘っていたのである。しかしおしんには会いたい。干拓の夢破れた自分を恥じて、おしんに顔を向けられない。おしんに見つかった途端に逃げ出してしまう竜三。そんな旦那にしがみついて、プライドを捨てて魚屋から一緒にやり直そうと説得するおしんの行動には、ある意味、全篇通して変わらないおしんの本質がある。田中裕子の猛烈なタックルをみるだけでも「おしん」を見る価値がある。マイベストシーンといってもいい。
やがて伊勢に根付いて20年が経ち、この伊勢の小さな魚屋を軍部お抱え業者としての水産加工工場にまで事業拡大させたのは竜三の手腕である。
竜三と長男・雄を戦争で失い、おしんはもう一度魚屋として再出発する。魚屋を手伝い始めたおしんの息子たちはやがて魚屋をアメリカ式のレジを導入したセルフサービスの店に転換しようと奮闘する。それがのちのたのくらスーパーの出発点となった。今日ではどんな店でも当たり前のレジによる精算が当時は画期的な仕組みだったというのも興味深い。それまでは品物の中央に座りザルをぶら下げて、商品の受け渡しと代金の受け取りをするのが一般的だったのである。
魚屋として地域に根差し、身の丈に合った商売をしたかったおしんは当初は反対していたくらいであり、事業の原動力となったのは次男の仁である。おしんは夢ふくらむ仁の行動に不安を覚えつつも、その後の事業拡大を支えていたのは間違いなくおしんであった。しかし、情熱をもって会社をリードしていたのはおしんというより次男の仁であったというのは間違いない。
こうしてみてくると、おしんは実業家として全く野望を持っておらず、本心は堅実に地域に根付いた商売をしたかっただけである。
極貧の小作の娘から、女一代でスーパー16店舗をかまえる地域の実業家になった、というのは筋としては間違ってはいない。しかし、大正、戦前、戦後とその時代時代でおしんがしてきたことは、成功しようと夢見みて危険なかけにでる夫や息子の行動を冷静に分析し、正しく軌道修正しようとすることであった。事業拡大をしようと竜三や仁がいうとき、おしんはいつも反対してきた。これまで大切にしてくださったお客様など義理人情を捨ててまで商売をしようという考えはおしんには全くない、ある意味とても保守的な人間であり、実業家によくある野心家では全くなかった。野心家は夫の竜三であり、その血を引いた次男の仁のほうだった。
もちろん、おしんにはおしんの商売に対する信念があった。それは人のつながりを大切にすることであり、恩を大切にすることである。おしんは昔から自分を育ててくれたり支援してくれた人たちへの恩を忘れず、いつでも義理と人情に生きようとする人なのである。
大正時代に縫製工場を拡大したときも、従業員をこき使おうとする竜三に、社員の健康、福利厚生の大切さを説いていたおしん。ここにはかつて製糸工場で結核になったおしんの姉・はるが使い捨て同然に実家に戻され亡くなった経験がにじみ出ている。伊勢で魚屋の店舗を構えることになったときもおしんはお世話になったお客様を忘れず、なかなか行商をやめようとはしなかった。
またおしんをめぐる当時の関係人物にはそれぞれやはり、一宿一飯の恩義という観念がつよく働いていた。それを象徴するのが、息子・雄の戦友である川村である。雄は南方戦線で亡くなってしまうが川村は戦友に報いるために自分が取得した駅前の土地を田倉家に譲渡するという行動に出る。そしてなんといってもおしんの人生最大の恩人は16歳のときの初恋の相手・浩太である。浩太にとってもおしんは恩人であり、かつ激動の時代を共にしてきた戦友のような存在だった。
おしんの物語は、事業家としての成功の一代記というより、ひとの縁と恩を大切にする人生観がより胸に迫ってくる物語である。いってしまえば浪花節である。いやそもそも成功などせず、ほぼ失敗して物語は終盤に向かう。その失敗についても、その救済についてもいろいろと誤解していたことがわかった。
よく聞く言葉ですが、なぜ限られているのでしょうか。
国債を発行すれば予算は増やせます。ですので予算は限られているのではなく、意図的に絞っているというべきでしょう。
「景気低迷時には財政を拡大して需要を増やす」というのは中高の社会科で学んだことと思います。逆に言うと、需要が増えて景気が回復するまで国債発行を増やしてでも財政は拡大すべきなのです。それをせずに国債発行を抑えて財政の抑制政策をしているのが現状です。
現状でも放漫財政だという方もいるかもしれません。確かに一部業界では予算が投入されて景気がいいのかもしれませんが、それは単なる優遇であり放漫財政とは違います。また、毎年国債発行額が増えているからと言って放漫財政と主張するなら、諸外国ほとんどの国が放漫財政と非難されるべきではないでしょうか。
国債発行額が増えることで財政破綻をするというのは全くの間違いです。
ジンバブエ、ギリシャ、アルゼンチン、ロシアなど債務放棄した国は多数ありますが、全て債務国です。日本のような債権国が債務放棄して財政破綻した事例はありません。もしあるなら教えてほしいものです。
国債発行についても、日本国債は自国通貨建ての国債なので債務放棄する必要すらありません。その分の通貨を発行すれば済む話ですから。
自国通貨建て国債でも債務放棄した事例はないわけではありません。
それは第二次世界大戦後の日本やドイツなどの敗戦国です。敗戦直後は戦時債などを放棄せざるをえませんでした。
国債が増えて財政破綻すると主張する人たちは、現状が平時ではなく戦時で異常なほど債務拡大していると考えているのでしょうか。
いくらでも国債を発行すればいいと言っているのではありません。ただ、景気が回復するまで、経済成長率がある程度安定して維持できるようになるまでは拡大を続けるべきです。
日本国債が債務放棄しなくて済むのに、なぜ財政破綻が起きるのでしょうか。
財政破綻論者の主張はたいてい、日本国債がデフォルトして返済不能になるので財政破綻する、といったものです。上記のように日本国債は返済可能なのでデフォルトせず、財政破綻は起きません。ハイパーインフレを主張する方もいますが、インフレが過度になった時点で金融引き締めや財政を緊縮化すれば済む話です。アクセルを踏むのを止めて、ブレーキを利かせればインフレは抑制できます。むしろ無駄にブレーキを利かせすぎているのが現在の状況です。
財政破綻論に関しては、私は未だ、納得のできる答えに出会ったことはありません。
なお、現状日本で起きつつあるコストプッシュインフレもしくはスタグフレーションに対しては、財政を拡大して国民に資金を供給するのが一番ではないでしょうか。そのためにも国債発行は必要です。
首位町田は湘南に敗戦。鹿島も磐田に逆転負けを喫した。広島がC大阪に勝利し、神戸が横浜FMに逆転勝ちしたことで町田から4位神戸までの勝ち点差は6と混沌となった。
残留争いは鳥栖対大分の九州ダービーは終盤に鳥栖が追いつき、ドロー決着。鳥栖は木谷体制の初陣を飾れず、7試合勝ちなし。中京はホームで浦和相手に2度追いついて引き分けに持ち込んだ。千葉は新潟に敗れ、痛恨の連敗。最下位の札幌は福岡と引き分けで3試合未勝利。6試合負け無しと好調だった京都はオレオレFCに敗れ、7試合ぶりの敗戦。
これは日本をアメリカ合衆国に併合してもらい、日本州として自治権を獲得する政策だ。
併合の方法は売却である。自分で自分の売却を行う。売却というと売国奴のようだが、セルフプロデュース・セルフプロモーション・セルフブランディングとでも言えばよいだろう。
公用語は英語となる。日本語は各自で学べるが、基本は選択制だ。ルーツを学ぶなどで補助教材として使う。文化をすべて捨てるわけではない。
現実的には、今のアメリカ合衆国は日本を併合したがらない。日本の人口が多いからだ。老人も多い。経済的なうまみがなく、人口比で危険なことになるためアメリカは避けたい。
だが日本からすると旨味がある。大いに。中国から攻め入られるのが今後アメリカにとっては直接的な国防問題になる。
空想的かと思われるかもしれない。だが現実的な流れを見てほしい。日本語に入り込んでいる英語たちを見ればいい。漢学などほとんど忘れられている。誰が漢学を学ぶのか。
比較的富裕と呼ばれる層は子に英語を学習させ、必死に欧米諸国などに脱出させようとしている。
だがもし日本がアメリカならどうか。何も脱出することはない。そのままいればいいのだ。海外流出した頭脳も返ってくることだろう。英語が巷に溢れているのだから。
日本が守らなければならないことは文化である。わびさびやらもののあはれである。われわれは逆にアメリカにこれを輸出・浸透させることで生きやすくする。
実際こういった神仏・マインドフルネスは海外では大ウケしている。世俗化した風習など一度ぶち壊して脱構築してはどうか。
アメリカが併合したがらないことは明らかだが、大真面目に併合を目指して経済政策も外交政策もガラッと変えていけばよい。すべてをアメリカにさらけ出し、すべてをアメリカに握らせる。
建前上でも従属しようとしてきている子分と戦争することはできないものだ。戦後からバブル前まではこの面従腹背があからさまで敵意が剥き出しだったが、今後は堂々と従属していけばよろしい。
「だったら併合だ」「併合させてくれませんか」という攻めの従属。
なんでも受け入れてやろう。大義名分さえあればなんでも受け入れる。だがアメリカはその「大義名分」「正義」こそを重要視する国だ。屈辱にまみれながらも服従し「だがそれでも併合だ」と血眼になるのだ。
どうせ宇宙進出すれば地球連合にならなければやっていけなくなるのだ。その一歩を切り開き臣従を申し出る。
この政策は他国をも魅了する。独立すらいらんと、全員臣従してきてはたまらない。戦争もできない。今の時代の流れだ。これに抗おうとしているのがアメリカ共和党だろう。
日本語が大事だと人は言う。だが次世代で生み出される英語を翻訳するのは誰か。われわれが持っている日本語には限りがある。
まだ命が大きく残っているうちにあえて手放すのだ。追い詰められてから手放してはもうどうにもならない。本当に文化も失われるだろう。
まだ選択肢がある。だから攻める。完全に文化を保存し、戦略的に滅びようとするのだ。今までそんな国はなかった。
言っていることはめちゃくちゃかもしれないが、これにはロマンがある。アメリカ人でもあるが日本人でもある。問題はひたすら軽んじられることだろう。
だが周囲諸国からバカにされ虚仮にされ罵倒され屈辱を味わわなければ日本人は目を覚まさない。
それに実際、今やっていることは1億総アメリカ人政策を薄めたものだ。どっちつかず。保留。保留の人生としての日本。
またの名を拘留。とどめ置かれている。
アメリカ併合を目指すことをバカ真面目に議論してもいい時期なのではないか。三度目の敗戦が来る前に。
長いものには巻かれろ。
ところが調べれば調べるほど、考えれば考えるほど差別肯定派になった
「理由」を記した文章なんてまったく出てこない、びっくりするよ
パーソナライズド俺環だが、トップはアグネス・チャンのページが出てくる
文章の中で「なぜ」は書かれていない
フワっとした抽象論
他のどのページも「理由」を明瞭に解説した言説にはたどり着かない。
「他人を尊重できないなら出ていけ」米空軍士官学校校長のジェイ・シルベリア中将のスピーチは有名だが
これもお涙頂戴の感動スピーチなんだが、冷静に聞くと
好意的に解釈するなら「多様性が強さの源泉」とダメな理由を語っているように受け取れるが。
バシバシ差別やってた時代の方が経済も科学も文化も猛烈に進歩してたやん
結局ね、誰も差別がダメな理由を論理的に構築できてねぇのよ、だって嘘だもん
考えてみりゃ、差別イクナイと言い出してから世の中がおかしくなり始めた
こんなもんいくらでもある
それが現実だ
一人の生徒を犠牲にすれば他の数十人の幸福度は上がる、学習効果も上がる
ストレス抱えたやんちゃ君がはけ口が無く学級崩壊してクラス全員がバカ
どっちがいい?
しらんがな
理由になってない
差別する俺はちっとも可愛そうではない、はい論破で終わってしまう
純日本人と喧嘩になったら「黙れ敗戦劣等国民の分際で戦勝国の血を引く俺様に逆らうとは生意気だ、もう一度メッタメタのボッコボコにされたいか?ああぁん?」
言うたれと教育している
また“Xポーズ”…性別騒動の台湾ボクサーに敗れた相手が侮辱行為 繰り返される問題抗議に愕然「勝利が台無しに」【パリ五輪】
https://news.yahoo.co.jp/articles/123a4fa3673e860de0e0d4d1481816ae9d7d98af
試合後に抗議のXポーズをとったエシュラ・ユルドゥズカフラマンを、記事はフルマークでの敗戦の腹いせか。と批判している。
https://x.com/rosarinn/status/1821418550772568399?t=62lUoYE88YiH3HADVIcziQ&s=19
その試合でXY染色体持ちの選手は、エシュラ選手の首がロープにかかった状態で、頭を後ろから殴りつけていた。
ラビットパンチは不幸な事故も多数起こしているとても危険で悪質な反則のはずだが、審判は何故か止めず反則も取らずXY染色体持ちの選手はフルカウントで勝利した。
その試合も見ていたはずの記者が、そのエグい相手選手への殺意すら感じられたXY選手の勝利は褒め称え、抗議をした選手を貶める記事を書くのはエグい。
今の日本の少子高齢化って結局は、「出産適齢期の世代に経済力がなく(適切な所得再分配がなされていないため)、かつ育児に関する行政サポートがそれほど充実していない(租税負担率が高い割には)ので、出産適齢期世代が出産に踏み切れない、という所得再分配政策薄めの先進国・中進国あるあるになっている。
このどちらかがうまくいけば、出生率は上がっている。特に日本では「子供を産むべき/育てるべき」という同調圧力が極めて強いので比較的上げやすい。
同調圧力の弱い欧州諸国、行政サポートは悪くないのに育児、というか教育コストが跳ね上がっている韓国台湾、中国沿岸部大都市では少子化は深刻化しているが、
日本では
☆出産適齢期の世代に経済力がない:野党自民党の猛反対で半減された民主党の「子ども手当」だが、日本の出生率はかなり底上げされた。
☆育児に関する行政サポートが比較的充実している:国レベルではないが、兵庫県明石市など子育て施策を最優先した自治体は出生率が上がっている。
など、この2つのどちらかをちゃんとやれば出生率はちゃんと上がっている。
今の少子高齢化は、太平洋戦争敗戦のようなプチハプニングとはレベルの違う国家の危機なのだから、戦後の農地改革程度のプチ改革ではなく、抜本的な改革が必要なのである。
出産適齢期の世代:既に子供を産めた世代への支援は若干手厚くなりつつある(国会議員が、年間500万円ぐらいは報酬をもらってもいいんじゃないかという程度)が、子育て世代予備軍である20代、30代前半世代への所得再分配が足りない。
一番いいのは、「子どもも同額のベーシックインカム」だと個人的には考える。官僚・受注企業の中抜きとは無関係な給付施策だけには狂おしいまでに財源を求める向きもあるが、大企業向け法人税、金融資産税の実効税率がタックスヘイブン並みの日本で「財源」を気にする必要はそれほどない。徴税の捕捉性を上げればいいだけ。
これで一人12万円のBIを支給するとしよう。全国民でおよそ144兆円。特会含めた国家予算の1/2程度。14兆円の使途不明金を出した東日本大震災対策国債より安い。
東大卒(海外MBA卒)DINKsより中卒無職子供10人の家庭の方がリッチな生活をできる、となれば、嫌でも子供が増えるのではないか。
今の日本の少子高齢化って結局は、「出産適齢期の世代に経済力がなく(適切な所得再分配がなされていないため)、かつ育児に関する行政サポートがそれほど充実していない(租税負担率が高い割には)ので、出産適齢期世代が出産に踏み切れない、という所得再分配政策薄めの先進国・中進国あるあるになっている。
このどちらかがうまくいけば、出生率は上がっている。特に日本では「子供を産むべき/育てるべき」という同調圧力が極めて強いので比較的上げやすい。
同調圧力の弱い欧州諸国、行政サポートは悪くないのに育児、というか教育コストが跳ね上がっている韓国台湾、中国沿岸部大都市では少子化は深刻化しているが、
日本では
☆出産適齢期の世代に経済力がない:野党自民党の猛反対で半減された民主党の「子ども手当」だが、日本の出生率はかなり底上げされた。
☆育児に関する行政サポートが比較的充実している:国レベルではないが、兵庫県明石市など子育て施策を最優先した自治体は出生率が上がっている。
など、この2つのどちらかをちゃんとやれば出生率はちゃんと上がっている。
今の少子高齢化は、太平洋戦争敗戦のようなプチハプニングとはレベルの違う国家の危機なのだから、戦後の農地改革程度のプチ改革ではなく、抜本的な改革が必要なのである。
出産適齢期の世代:既に子供を産めた世代への支援は若干手厚くなりつつある(国会議員が、年間500万円ぐらいは報酬をもらってもいいんじゃないかという程度)が、子育て世代予備軍である20代、30代前半世代への所得再分配が足りない。
一番いいのは、「子どもも同額のベーシックインカム」だと個人的には考える。官僚・受注企業の中抜きとは無関係な給付施策だけには狂おしいまでに財源を求める向きもあるが、大企業向け法人税、金融資産税の実効税率がタックスヘイブン並みの日本で「財源」を気にする必要はそれほどない。徴税の捕捉性を上げればいいだけ。
これで一人12万円のBIを支給するとしよう。全国民でおよそ144兆円。特会含めた国家予算の1/2程度。14兆円の使途不明金を出した東日本大震災対策国債より安い。
東大卒(海外MBA卒)DINKsより中卒無職子供10人の家庭の方がリッチな生活をできる、となれば、嫌でも子供が増えるのではないか。