はてなキーワード: 内定とは
これすごいね
https://bigcomics.jp/episodes/f08d91172856a
何か起きそうで、何も起きない感じ
・鬱なのに外出てる
・ユキ鬱ってるのに、彼氏ができて輝いてるテル
・字ぃ汚いね
・あたしリョナラーだもん
こんなとこ?
あと絵柄も不穏な感じになってる
普通ならツッコミとか否定とか不穏が入るところなんだけど、入らないことですかしになってるんだよね
「ふーん」で終わらせたり、えへへで終わらせてる
あらすじだけ見ると大したことは起きてないのに、なんか勝手に不穏を感じて杞憂して何も起きなくむしろハピエンなことで、清涼感や読了感だけ残るっていうやつ
けもフレで見た
これ計算してやってるならすごいと思う
そんでそれを読み取って大賞にしてるのもすごい
このテクさ
平坦な物語でも読者の心を揺らすことでエンタメとして成立させられるから面白いんだよね
物語って例えば「人が死ぬ」みたいな劇薬がないと成立しづらいけど
このテクを使うことで、「いい友達ができてハッピー^^」みたいな話でもちゃんと成立するんだよね
ほんとに新人?
私の半生を占める水泳と、それがその後の人生に及ぼした影響について整理するために書いた記録である。
なお、当時は強いストレス下に置かれていたため、詳細を思い出せなくてぼんやりしている部分もある。
私は現在休職状態にあり、ADHDの診断を受けたところである。
精神科に通いつつ、投薬とカウンセリングの治療をおこなっている。
そしてカウンセリングを受けつつある今、自分がいまこうなっていることの底にはあまりに苦しかった水泳の記憶があり、それを直視することは避けては通れない道ではないかと思ったからだ。
(先生に直接「直視しろ」と言われたわけではない。ただ、「あなたの言葉はあなたの感情をひとことも説明しませんでしたね」、と言われ、その原因を自分で考えていたら、勝手にそこに行き着いたという話である)
正直に言えばそこに目を向けるのはめちゃくちゃ嫌で、前回のカウンセリングを受けてから2週間くらいメソメソメソメソメスティーソ泣いていたのだが、友達と遊んで少し息抜きをしたらちょっとした気づきと癒やしがあり、なんとか気力を振り絞れそうなので書いてみた。
早いうちに才能を見出され、小学校1年か2年くらいでヘッドハンティングのような形で選手育成クラスに移った。
当時、肉体にすごく負荷を掛ける練習方法が流行っていた時代だったから、シンプルに肉体的につらかった。スパルタが主流で、体罰は当たり前だった。
楽をしようものならコーチにも怒鳴られ叩かれ全員の前で吊し上げられた。そこまでは周りのみんなと条件は変わらないのだが、私の場合は母親もほとんど毎日練習を見にきていて(それほどに熱心な親は他にはいなかった)、仮にコーチに怒られなくても、母親の目から見て私のパフォーマンスが悪ければ、そのことを帰りの車の中で詰められる日々だった。
行き帰りは車で母親に送迎してもらっていたが、車の助手席に乗り込むと母親の「今日の練習について」の裁判が始まるので、毎日まるで犯罪を犯して法廷に立たされるみたいだった。キツい負荷の練習をこなしてやっと家に帰れるのに、すこしも安らいだ気分になれなかった。
でも、私は無理にでもやらせればやらせただけ、負荷をかければかけただけ、結果が出せてしまうタイプの人間だった。
父親も叔母もスポーツで学生時代に成功した経験があって、家系としても肉体的に優秀だったのだと思う。
それが母親の成功体験になってしまい、尻を叩けば叩いただけ結果が出るという思い込みを強化したふしがおそらくあるんじゃないかと思う。
長期休みに入るたび、朝夕2回の練習では足りないと別のプールに連れて行かれ泳がされた。この習慣は我が家では「こそ練」と呼ばれていた。
ただでさえキツい練習をしてるので嫌だったが、嫌がれば母親から「速くなりたくないの?」と頷くまで詰められる。
こうやって追い込めば追い込むほど結果が出たので、母はどんどんエスカレートしていった。
極め付けはようやく出来始めた友人関係を破壊されたことだった。
中学に上がると、小学生の選手育成クラスから中学生クラスに上がって、ここがジュニアの女子の選手としては一番上のクラスだった。その上に、高校生の男子のさらにその上澄みだけが入る、一番練習がハードなクラスがあった。
いま振り返ってみると、私はかなり発達障害的な特性のはっきり出た子どもであり、周りと関わるのがかなり下手だった。だから、キツい練習を何年も毎日一緒にこなしてきたというのにチームメイトと連帯感を育めなくて、ずっと浮いていた。浮いているのに才能だけあったから、周りからすると目障りな子どもだっただろうと思う。選手育成クラスというだけあってそこそこ実力主義ではあるので、幸運にもいじめられこそしなかったが(あるいは特性上あまり他人に興味がなく嫌がらせに鈍感だっただけかもしれない)、やっぱり浮いていた。私は人生を通してずっと普通になりたい、と漠然と願ってきたが、その願いはこういう環境のなかで醸成されてきたように思う。
(ちなみに、当時どのくらい浮いていたかというと、なんか男子たちが私に話しかけるのを何かの罰ゲームの一種として扱っているな、と気づいたことがある程度には浮いていた)
けれど、ここで話の合う友達ができたことで、この一瞬だけ練習に行くのが楽しかった時期があった。
私はもともと才能があったので、中学生のクラスを受け持っていたコーチにも期待されていたし、たくさん話を聞いてもらえて、私自身もコーチのことを頼れる大人だと思っていたし、期待に応えたいと思っていた。信頼関係を築ける大人との出会いがここであった。だから、このクラスでちゃんと私の記録は伸びていた。
だけど母はその伸びでは満足できなかった。
母にはいわゆる白雪姫の母コンプレックスみたいなものがあって、私が楽しそうにしていると不安になる性質だった。不安を感じやすく、その解消のために誰をどれだけ振り回しても良いと考える傾向があった。
私が楽しんで練習に行き始めた時、母は不満だった。私が苦しんでいないから、きっと負荷が足りないのだと考え、「娘の才能が無駄に消費されている!」と強く不安を感じたのだろうと思う。これでは速くなれない、と母は考えた。
そして、「上のクラスに上がりたいと言いなさい」と母は私に強要した。
私はかなり嫌がった。もともとジュニアの女子が入れる中で一番上のクラスではあったし、せっかく話の合う友達ができたのに、その子たちと話せなくなってしまうことも嫌だった。先生の期待を裏切ってしまうことにもなる。すごく抵抗があったことは覚えている。
母は私に、「あんな肥溜めみたいなクラスにいたら、あなたはダメになってしまう」と言った。
嫌だった。泣いて抵抗した気がする。あまり覚えていない。でも、最終的には「上がりたい」と言わされた。コーチはショックを受けていたと思う。でも最終的には上のクラスのコーチに頼んでくれて、私の(母の)要求は通った。
中学1年の女子が高校生の男子のクラスに入れられて泳ぐことになった。毎日階段をまともに降りられないくらいの筋肉痛になった。まわりはひと回り年の違う高校生の男子しかいないので、友達と話せる機会は減った。肉体の負荷は上がるのに、心の支えは何もなくなり、ただ苦しかったしつらかった。
私が苦しんだので、母の不安は解消された。
実際に大幅に記録が伸びた。一緒に泳いでいた高校生の男子より私は上のタイムを叩き出し、彼らにもよく頑張ったと認められた。中2のころにはジュニアオリンピックで決勝に残り、関東中学で優勝し、全国でも10本の指には入った。国体にも県代表で選出された。県で私より速い選手はいなくて、私がベストを出せばその度に大会新記録、県の新記録だった。母はこのことについて、自分が尻を叩かなければ結果が出せなかったはずなので、自分の手柄だと考えた。
注意して欲しいのは、これらの成果を私自身もまた喜んでいたことである。才能や能力があると見做されることは、特性持ちの人間にとっては他人から受けるマイナスの感情を弾く盾にもなる。母の手柄は、私を絞り上げ、苦しめて作り上げられたものであるが、同時に私を守るものでもあった。
「あなたは結果で他人を黙らせなさい」というのが、母の持論だった。母は私のために、心を鬼にして私を苦しめていたはずである。叩けば結果が出ることがわかっていたのだから。
この頃から、試合や合宿で遠征先に行くと、夜中にこっそり抜け出して、当て所もなく歩き回るようになった。特に裏道や暗い道を選んで歩いた。いま考えると、間接的な自傷だったと思う。酷い目に遭いたかった。私という価値が一気になくなってしまうくらい、誰かに酷い目に遭わされたかった。母が守る『私』という価値と、それに伴う苦しみが分かちがたく結びついていたために、母の目の届かないところで地味な自傷行為に走っていたのだと思う。
体に傷を残すようなことはできなかった。そんなことをした日に母を襲う衝撃と、その衝撃の余波を受ける自分のことを考えたら、とてもではないが無理だった。
しかし、こういう無理は続かないものである。ほどなくして精神的に破綻して、泳げなくなった。中3の秋ごろだったように思う。喘息を悪化させ、負荷のキツい練習から逃げ、最後は何か喚き散らして家に帰り、そこからしばらく練習に行けなくなったように思う。詳細は覚えていない。
だけど、そこで辞めるには水泳は私の人生で大き過ぎた。人生の大半を占める一大事業に等しかった。だからそこから高校2年の夏まで、通うスクールを変えて足掻き、ブランクを取り戻し、記録は少し伸びたし、インターハイにも出た。
ただ、大学受験に切り替えるならこの辺りがタイムリミットだった。結局、わたしはここで引退して受験に切り替えた。水泳のために自分の学力よりかなり下の高校に行ったので、辞めてからは予備校漬けになった。
受験勉強は圧倒的に楽だった。体の負荷も消えたし、学業は自分の特性から見ても結果の出しやすい分野だった。あまりにも結果が出やすくて、母も不安にはならなかった。躓きや苦しみも多少はあったが、水泳で受けたそれとは比べ物にならなかった。この時期、私と家族はかなり明るく過ごした。
大学には簡単に合格した。願書を出した大学ほぼ全てに受かった。
とにかく家を出たかったので、その名目が立つ大学を選び進学した。
ひとり暮らしをはじめて、やっと手に入れた自由を楽しんだ。でも1年目、ぜんぜん他人との関わり方がわからず、友達が作れなかった。小中高と水泳にかまけていて、相変わらず発達特性的な部分で学校でも浮いていたし、そもそも自分の偏差値より随分下の学校に行った(水泳にはリレーメンバーの都合がある)ため、頭の程度が均されている環境でほかの人間と接して友達になる機会がまったくなかったのだ。県大会で何度も優勝し、実家に腐るほどトロフィーがあっても、友達の作り方がわからなかった。この時点で、私の能力は社交性に比して随分歪だったと言えると思う。
ひたすら学校と家を行き来して、家ではゲームばかりやっていた。
1年の後半の方になってようやく所謂オタクサークルに入って、対人能力に似たような問題を抱えた人たちに出会い、それでやっと少し友達ができた。ここから就職活動が始まるまでは、楽しく過ごせていたと思う。彼氏もできた。
とはいえ、あまり成績は良くなかった。勉強したいと思って進学したはずなのに勉強に向かう気力が湧かなかった。どころか、水泳を辞めたことが傷になっていて、「どうせ最後には全部台無しにする、水泳だってあれほどつらい思いをして人生を捧げてきたのにそうやってダメにした」と囁く声が頭から離れなくて、あまり集中できなかった。
学業もそんな感じだったので、いざ3年になってもぜんぜん就職活動を進められなかった。というか授業もギリギリのラインだった。
振り返ると、つらい思いをして思春期を生き延びた先に、ようやく手に入れたご褒美としての『自由』がたった4年で終わることに全然納得が行っていなかったんだという気がする。他の人たちは将来を考える精神の準備ができていたのに、私には何もできていなかった。こんな人生の先に、また何十年も続く苦痛が待っていると思って、絶望感があった。
このあたりのことはぼんやりしているが、就職活動が出来なさすぎて就職留年した。ちょうどリーマンショックや東日本大震災の影響があった時期で、特に女子の就活は周りを見渡しても厳しかった。なので就職留年という言い訳は通った。
でも、留年したのに就活が全然ちゃんとできていなくて、とうとう親が乗り込んできた。希望する企業の傾向は決まっていたので、母親がマイナビリクナビでエントリーする企業を選んでくれて、エントリーシートや履歴書に書く志望動機などの文章としてこちらで考えたら、それを母が手書きで代筆してくれたりして、こんな大学生はおそらく他にいないなと思うほど過剰にサポートしてもらった結果、なんとか書類選考が通るようになり、面接を受けたりと就職活動らしいものを進めることができた。
面接が苦手すぎて苦戦はしたが、なんとか内定をもらった。たた、周りがちゃんとこなせていることも自分にはろくすっぽできないとわかって情けなかった。
このあたりもぼんやりしている。夏くらいに内定が決まって、そこからたしか全然ゼミに行かなかった。いや、たぶん特性的に並行してふたつのことができないので、就活中はゼミにも授業にも行けていなかった気がする。内定が決まった後、バイトはしろと言われてしていて、必要な授業の出席とバイトくらいはしていたが、ゼミに出てないので卒論が当たり前に書けなかった。英米文学専攻なので卒論は英語で書く必要があった。ぼんやり決めたテーマがあるくらいしかなくて、そのまま冬になった。ちょっと書こうとしたけれど当たり前に書けなくて、でもそれを就活を熱心にサポートしてくれた親には言えなくて、卒論提出の日に失踪した。1〜2週間家に戻らず、銀行口座の金が尽きたら死のうかなくらいの気持ちでいた。漠然と死のうと思っていたし、その時が来たのかと思っていた。
結局親に口座の金を引き上げられて、無様にも死ねずに戻った。怒られ、殴られ、彼氏にも心配をかけまくり、色々あったとは思うのだが、この辺りの記憶はぼんやりしている。
ひとり暮らしの家を引き払い、実家にカンヅメになって母親の監視のもと卒論を書いた。足りない単位のための授業とバイト以外の外出はさせないくらいの感じだったと思う。
ひとり暮らしの家を引き払った時、この時も家がゴミ屋敷になっていたので、ゲーム依存で病気だと親に疑われたが、ゲームは単なる逃避行動で、やれない環境であればあっさり辞められた。振り返ってみれば、何らかの支援の網に引っ掛かっておくタイミングがここだったような気がする。ただ、スポーツで結果を出し、世間的には良い大学に行ったような人間が、ゲーム依存なんかで病院に罹るのは外聞が悪い、という意識がなんとなく家族全員にあったのか、結局ここでは必要だったであろう支援とつながることはできなかった。
この環境でなんとか卒論を書いて卒業した。就職は結局バイト先に拾ってもらうかたちになった。
働き始めるととにかく眠かった。ひたすら眠かったことを覚えている。仕事でも会議でも寝てしまい、怒られて、怒られたあとは体が一時的に闘争反応というか覚醒状態になるので、それで過集中を起こし仕事を進めてなんとか巻き返す、みたいな感じだったと思う。昼に寝てしまうので夜は眠れなかった。その悪循環で昼にまた意識を失った。
本当は病院に行くべきだったと思うが、家に帰るとその気力もなかった。家の電球が切れて、ほとんど暗闇だったのにも関わらずその家を引っ越すまで電球を変えられなかった。1年以上真っ暗闇で生活した。歯が折れて激痛でも病院に行けなかった。ぎっくり腰でも行かなかった。ゴミ屋敷はここでも生産された。
この時期私は相当な困難を抱えていた気がするけれど、同時にどこか安心しているような部分があった。自分の価値がこうやって毀損されていくことに対する「ざまーみろ」という気持ちがあった。ちょうどこの頃、母親と完全に連絡を遮断して、実家と絶縁状態になった。直接のきっかけはなんだったか覚えていない。ただ、自分の価値がボロボロと溢れ落ち、人生がダメになっていくことについて、母親への不健全な復讐の欲求が満たされるように感じていたのは覚えている。
この状態を5年くらい続けて、3つくらいの現場を経験した。就職先は人売りのSESだった。
これは自分にとって大きな転換点だった。寝ているところを他人に見られないのでストレスが大幅に減り、なんとか自分が起きていられる時間帯に仕事を進め、眠りたい時は寝ていることができた。とても褒められた就業態度とは言えないが、それほど能力的なハードルが高い客先でなかった幸運もあって、なんとか巻き返しが効いた。この時期が一番平穏だったように思う。この現場が自分にとって一番長く続いたし、終わり方も案件ごと終了ということで円満だった。
リモートワークが終わり片道40分くらいの通勤の生活が数年ぶりにスタートする。10年近く戻っていなかった本社に知った顔はほとんどなく、コミュニケーションが得意そうな子たちの若い顔が並ぶ。すでにこの時点でうまくやっていけるか不安ではあった。
自社開発の案件にアサインされるも、やはり眠気の問題が復活し、怒られる。仕事も客先常駐とは違い、粒度の粗い仕事を上手いことやっておいてというような感じで振られるため、勝手が全然わからず、先の見通しが立たない。作業をうまくこなせず、進捗が出せない。学歴とスポーツの成績だけ見れば能力はあるはずだと思われているので、サボっていると見做される。寝てるよね?なんでコミットが全然出ないの?
年次だけは無駄に高いので直属の上司もおらず、まともな相談先もなく、周りの子たちは若くてこんなことを相談できる相手ではなく、結果誰にもうまく頼れずにひたすら信頼を失い続け、頼みの綱だった週1回のリモートワークも許可を取り消される。
社長から「新卒みたいなことを注意させないでくれる?」と言われる。怒られて、闘争反応になった勢いで、なんとかメンタルクリニックの予約を取った。
これらの問題は通院治療を開始したところでたちどころに解消するようなものでもないので、年末年始の休みを挟んだ後、ボツボツと休みが増え、雪崩れ込むように職場に行けなくなって休職開始。
心理検査(WAIS-Ⅳ)の結果、言語理解とワーキングメモリ・処理速度の間で有意差50を超えた。言語理解・知覚推理凸、ワーキングメモリ・処理速度凹のタイプだった。
この結果と、現在社会生活が送れていない実態をもって、5月ごろにADHDと診断された。
概観してみると、今の私を状態を説明する要点は、下記のようなものであると考えられる。
特性を持って生まれた子どもが、いわゆる体育会系の世界に入れられ、なまじ才能があったがために、支援が Permalink | 記事への反応(21) | 22:15
今年28歳、大したことない地方国立工学部学卒。新卒で奇跡的に某電力に内定を貰い、喜び勇んで入社した。配属は原子力部門。原発で働いている。
俺のところの原発はまだ再稼働していないのでもっぱらデスクワーク。資料を作ったり直したりがメインの仕事。
残業は長めだが、後述するように給料は高いし、人間関係にも恵まれている。給料が高いので皆ある程度心にゆとりがあるのが大きいだろう。
で、毎日何をやっているかというと、今のところはお国向けの許認可対応用社内資料を作っている。
勤務時間のだいたい半分くらいは誤字脱字・てにをは・レイアウト修正。あとの時間は会議とか雑務。
出張はほとんどないが、研修で外に出ることはある。出張すると飯代の名目で小遣いがもらえるので嬉しい。
お国に提出するものだと考えると体裁が重要になるので、目を皿のようにしてチェックしているが、難易度は正直高くない。
それで年収は残業代込み600万超。28歳の時点でこれだぜ?仕事の負荷、労働強度で考えるとかなりの高収入じゃなかろうか。
勤務地は一言でいうと僻地。独身寮があるのでそこに住んでいる。
寮から職場までは(当然といえば当然だが)バスの通勤ルートが完備され、皆それが前提なのでアフターファイブ的なことも気にしなくて良い。
飲酒運転の厳しいこの時代に、車を使わないと飲み屋ですら行くのが難しい。笑
唯一ギリ徒歩圏内にスーパーとコンビニが一軒ずつあるが、それだけ。
けど俺にはアマプラがある。これのおかげで文化的な生活を送れていると言っても過言ではない。サンキューベゾス
食事は朝晩は寮が食堂を開いてくれており、自炊する必要もなくかつ安い。
昼は原発の食堂。コンビニよりは栄養バランスも考えられて、コスパもいいし、毎日数種類から選べ、その選択肢自体も適宜アップデートされる。
毎食のメニューを考えなくてもバリエーションのある食事を摂れるというのは、自炊経験がある奴ならその有難さが理解できるだろう。
30が見えている今婚活という単語も意識する世代だが、社内には出会いが無い。
だが車も生活の前提なので中古も新車も入手性がよく、行動半径が広い。車を飛ばして県庁所在地に行けば女も捕まる。
家賃が安いので、可処分所得は同世代の似たキャリアの東京住みよりもなんなら高く、駐車場は大抵無料なので車の維持も容易だ。
行った先では酒を飲む関係で一泊することになるが、カプセルホテルかネカフェみたいな施設もちゃんとあるので、安く済ませたければそこで寝ればいい。
そうやって結婚していった人はよく見るし、地元では最強クラスの名刺なので婚活を始めれば容易なのもわかっている。結婚相手で苦労する人はほとんど聞いたことが無い。
電力はガチゴチの年功序列だから、飛び級みたいな出世は期待できないが、その分何歳になったら給料なんぼかというのは全部分かり人生計画が立てやすい。
遅くとも42歳までには管理職に上がり、年収1000万。ペイペイ管理職以上に上がれるやつは相当少ないが、最低ラインでそれだというのがデカい。
今の生活が至上至福かと言われると、まぁ多少の不満がないといえば嘘になるが、とはいえ富みすぎず乏しすぎず、中の上をキープできており非常に安定している。
まさに「トンカツをいつでも食えるくらい」の人間になったという実感がある。幸せと言ってもいいだろう。
安定しすぎて引退老人みたいな精神性になってしまうのが逆に怖いかな。そこはネットも駆使してインプット・アウトプットを怠らないことでカバーしたい。
土日祝休みに有休も十分なので、それを活かして資格にも挑戦しようと思ってるし、彼女も欲しい。やることは尽きない。
常に過去を捨ててきたのでそれぞれのステージの厚みが数年分しかない。
なんかめっちゃ怒られたので辞めた。
問題行動が多すぎて「内申点終わって人生終了するから中学受験しろ」と言われ中学受験。
目立ちたがりだったのが良くなかったのだと考え、学校ではひたすら影を薄めていたらボッチに。
あまりにネットで頭がおかしくなってたことに気づきネットと距離を置く。
ゲーセンで人間関係を構築すると変なのばっかと付き合うことになるから帰宅部は駄目だ、ということで漫研(読み専の方)へ。
時間ばかりあって金が無い大学生の集まりなので当然のように違法読書サイト情報を共有しまくることに。
「個人利用で読むだけならセーフ!共有したらアウト!URLだけ教えるから自分で探せ!」を旗印に同人誌や稀少本も含めて色々読む。
奇行・陰謀論・アンチ・ゲーセン・違法読書と就活のネタになるものが一個もない。
とりあえず業界研究やりまくって「ガクチカ?就活ですよ。学生時代のことなんて社会に出たら忘れて頑張ります」でなんとか内定を勝ち取る(?)
内定を勝ち取ったというより、まともな奴なら避けるような会社に応募した中ではまだまともな部類だったというだけらしい。
同僚もなかなかに奇行な過去を持っていたが、それを平気で口にするからビビった。
そういうのリアルで言わないほうがいいっすよと思いながら「いやー自分はゲーセンに入り浸ってたぐらいでしたねー。灰皿投げてるとか都市伝説っすよー(自分も投げたことあるなんて言うわけねーだろ😅)」と話を合わせる。
でもやっぱホモカルチャーな部活動でチン毛を焼いてたぜみたいなアホな過去を口にする人達もいたので転職活動。
社会人になってからは奇行がなくなったみたいに言ってたけど、実際にはどの会社でもキレ散らかして喧嘩してたりする。
だから定期的に自分のことを誰も知らないコミュニティを求めて逃げ続けている。
人に話せる過去がない。
各ライフステージ毎における最も印象的な出来事と言える奇行の数々は一切語らない。
幼稚園では本を読んで過ごしてました
昔居た会社はなんとなく伸ばしたい方向のスキルが伸ばせなかったので転職しました
俺の主成分を一切取り除いた俺の知らない割と普通の人生へと過去がすり替わっていく。
誰なんだろうコイツは。
たまに出会う「子供の頃からサッカー大好き!社会人になってからはフットサルしてました!好きなチームは昔から地元のあのチームです!」みたいな人生にめっちゃ一貫性ある人に出会うと人生の厚みというか、通された一本筋の長さにビビるんだよな。
俺の人生にもそういうの欲しかったんだけどさ、「幼稚園時代からセクハラ三昧だったぜ!」とか「中学時代に出会った陰謀論が私の人生を変えました!世界に「真実」を届けたいです!」とかじゃあヤバすぎるやろ?
人生で出会ったアイデンティティが捨てるしかない過去だった人間はどうしたらいいんやろうなあ。
俺以外の誰も知らない奇妙な生き物のジプシーライフという形で芯が通っているといえばそうなんだが背骨としては縦横無尽に蛇行しすぎててなあ。
今年28歳、大したことない地方国立工学部学卒。新卒で奇跡的に某電力に内定を貰い、人生大逆転だと喜び勇んで入社したらまさかの原子力部門に配属(電気系だったのでもちろん原子力なんて希望してなかった)、原発で働くことになった。
俺のところの原発はまだ再稼働しておらず、配属してからはもっぱらお国向けの許認可対応用社内資料を作り続け、そのまま現在に至るという感じ。
再稼働の目処も立たないし仕事は単調で何の面白味もない。そのわりに残業はダラダラ長いというろくでもない環境だが、幸い人間関係に恵まれて今まで続いた。
毎日毎日、勤務時間の4,5割は誤字脱字てにおはレイアウト崩れ等々を目を皿にしてチェックするという、どこぞのコンサルが聞いたら卒倒するようなことをやっているが、28歳の時点で年収は残業代込み600万超。仕事の難易度から考えると正直許されないレベルの高収入だと思う。
だが、勤務地が信じられないレベルで僻地。独身寮から職場まではバス通勤のためアフターファイブ的なことも全く無い。そもそも開いてるんだかなんだか分からん飲み屋以外、ちゃんとした店には車を使わないと行くこともできない。
唯一ギリ徒歩圏内にスーパーとコンビニが一軒ずつあるが、それだけ。
食事だって朝晩は寮の食堂、昼は原発の食堂、以上。他に選択肢など無い。
当然出会いも全然無い。地元出身の人は親の繋がりで結婚してる人も多いが、俺含め余所者は女の子と遊びたかったら車で県庁所在地まで出るしかない。当然飲むので、女が捕まらなければカプセルホテルかネカフェで寝て安く済ませることになる。
俺もコロナまではそうやって車を出して街まで遊びにいっていたが、コロナですっかりモチベーションが無くなってしまった。
コロナはすでに明けたが昔みたいに街に出て女の子と遊ぼうという気が全然起きない。面倒くさ過ぎる。
このまま定年まで、動くんだか分からない原発相手に生産性の無い仕事を続けて、無駄に高い給料を貰い続けるんだと思う。
電力はガチゴチの年功序列だから、何歳になったら給料なんぼかというのは全部分かる。遅くとも42歳までには管理職に上がり、年収1000万。ペイペイ管理職以上に上がれるやつは相当少ないから、俺も1000万で頭打ちだろう。
今の生活に強い不満があるわけじゃない。まさに「トンカツをいつでも食えるくらい」の人間になったという実感がある。
でも、自分の将来がほぼ見えてしまった現状、30歳を待たずしてすでに引退老人のような気持ちになっている。
積み立てNISAもやってるけど、大病して退職なんてことにならない限り老後2000万円問題も自分には関係無さそう。
まあ、中の上くらいではあるのかな。
(追記)
てにをは、でした。
現状
残業ほぼ無し、年休106日。
実家から車通勤(駐車場を借りている)毎月4万〜5万は貯金。ボーナスは5〜6割貯金。
実家に4万、その他毎月引き落としされる金額は1.5万は程度。残りで食費、医療費、被服費、交通費、交遊費を賄っている。
今後
3交代制で一番早い勤務の場合始発で通勤する必要あり。突発的な出勤や残業あり。年休120日以上。
北摂あたりの賃貸で家賃共益費込で5.5万。駐車場1万。水道光熱費1万。貯金、通信費、実家への仕送り含めて5万。と考えると純粋な生活費は5万前後。
食費、医療費、生活雑費など含めて暮らしていけるのか?と不安。
・車を手放せば余裕がありそうだけれど、帰省や今後(地元への転属願いを出し続ける予定)を考えたら、保持し続けたほうがよさそう。最悪今の駐車場を解約せずに置いたままにする予定。
・あと貯金は口座からダイレクト引き落としをしている(こうでもしないと貯まらないので)
・勤務の都合上、始発で出勤が間に合わなければ自転車通勤範囲で探すつもり。(ここらへんまだ確認中)
・いままでは、決まった金額と家事への労働力を提供すれば実家の機能を使いたい放題。な部分もあり、そこが甘えていたところもある。両親は今回の転職にいい顔をしておらず、今後明らかに生活水準が下がることを反対している。
・私もこんなものだろう、とざっと計算してみたが、今のような生活スタイルはまず無理。節約と無駄な出費を徹底的に省くしかない。賃貸契約や引っ越し準備、家具家電の購入などなど、今から憂鬱になっているので、できれば前向きな言葉やアドバイスをいただきたい。
・仕事自体は今までの経歴を活かせる業務かつ、(口コミなどは業務内容の割に給料が低い、評価基準がない、など散々だが)福利厚生も現職とほぼ変わらないので、仕事への意欲はある。
自分で言うのもなんだけど、これまでの人生特に大した努力もせずにある程度の成功を積んできた人生だと思う。(偏差値50の学力の人から見たら頑張ってるんだろうけど、偏差値65の学力の人から見たらとても楽に生きてるように見える程度)
小学生時代のことはあんまり覚えてないけど、それなりに賢い子供だったような気がする。
中学生時代は初めてちゃんとしたテストというものを経験して、自分がそれなりに勉強ができることに気づいた。授業だけですべてを完結させて、家では全く勉強しない。そんな感じでも基本的には最上位と呼んでも差し支えない順位を取ることが出来ていたように思う。そのまま特に何かにつまづくこともなく、当然のように地域で一番偏差値が高い高校に進学した。
高校に入ってからは、さすがに最上位を取ることはできなくなったけど、特に気にすることもなくこれまで通りの生活を行っていた。やりたいことをやり、やりたくないことはやらない。当時の自分は勉強をするよりもゲームをする方が楽しかったので、ずっとゲームをしていた。そんな生活でも上位10~30%くらいの成績は取れてたから、自分はそこそこ賢い人間なんだろうなと思っていた。
大学受験はなんとなく国立の薬学部を受けて、普通に受かった。センターリサーチは微妙だったけど二次で受かる気がしてた。
大学に入ってからは適当に薬剤師になって、適当に生きていくんだろうなと思ってた。でも薬学部の実習を経験してやっぱり薬剤師は向いていないなーと思い、製薬企業への就活を目指すことにした。やりたくなかったけどTOEICも800点くらいとってみたりした。ESも自分なりに書いてみた。いろいろ調べて面接で話したい事もまとめてみたりした。
そして就活本番。タイトルからわかる通り、製薬企業は一個も受からなかったんだよね。もちろん無駄に志が高くて難易度が高そうなところしか受けてないというのはあるのだが。内心、一つくらいは受かるんだろうなと思ってた。これまでの人生どおりなんとなくやってればなんとかなるんだろうなって。
一応薬局からの内定はもらえているから、たぶん薬剤師として特に何の変哲もない平凡な人生を歩んでいくんだろうなと思う。でも心のどこかで私立薬学部の人たちと、国立のそれなりに偏差値が高い薬学部を出ている自分が同じ職場で同じような業務をするこということに疑問を感じてしまう自分もいるんだよね。
薬剤師としてのスキルに大学の偏差値はあんまり関係ないとは思うのだけれど、それはそれとしてやっぱりどこかにモヤモヤは残るよね。
とか言っている辺り、本当はまだ心のどこかで自分は特別な存在と思ってしまっているんだよね。目の前にあるのは、行きたい企業にも行けず、薬学部を卒業した人間の大半が歩む普通の人生を歩むことになる自分、なんだけども。
今後は頑張って、自分が普通で平凡でどこにでもいるちょっと子供の頃に勉強が得意だっただけの人間、であることを受け入れていかなきゃいけないんだよな。頑張ろう。
最近、客先常駐から社内SEに転職することが決まった。忘れないうちにこの転職に関する備忘録を残しておきたい。
この理由に至った現職の内容を話そう。
なってしまった、とネガティブに書いているが全否定するつもりはない。新卒で入った会社は客先常駐であることだけが悪かった。COBOLも別に悪い言語とか思っているわけじゃあない。
ただし『客先常駐とCOBOL』という組み合わせは、将来の展望を描けなかった。これから新卒の人にはあまりお勧めできない。
なぜか。
まず、『客先常駐』。
これは全くもって良くない。責任が少ない仕事で十分で、人間関係を適度にリセットしたい人には向いていると思う。もしくは、よっぽどのニッチかつ高スキル保持者くらいだろうか。
問題点を述べていこう。
問題点そのいち。
常駐先ガチャが待っている。どんな地獄の案件が待っているか行かないと分からない。しかも、客先と戦わない営業マンの方が給料が高いなんてやっていられない。最近はSier側が強気に出られるパターンも小耳に挟むが、まだ稀な印象である。
問題点そのに。
上流工程に携われるかは運である。そもそも要件定義とか予算とかを他所から来た人間に任せることは難しい。底辺下請けにはもってのほかである。よって、下流工程のみの経験でスキルは身につかないまま、30代に突入する可能性すらある。
問題点そのさん。
契約形態によるが1ヶ月の勤務時間が決まっている。1ヶ月最低〇〇時間以上勤務となっている。これがネックとなり連休を取ることが非常に難しい。さらに、GWや年末年始休暇があると残業必須になる月が発生する。勤務時間縛りプレイ未経験者は大したことではないと思うかもしれないが、ワークライフバランスにおいてストレスになる。
次に、『COBOL』。
先ほども書いたが悪い言語だとは思っていない。
ただし、大型新規開発は今後ないと思えと言いたい。必然的にCOBOLを書き書きしていた時代のおじさま方には、技術の点で一生勝つことはない。彼らがくたばるまでは。
それと、たまに聞く「コボラーはこれからずっと需要があるし、新規参入者も減っているから将来安定だよ」なんて話。この嘘、ほんと?
確かにCOBOLは自分が死んだ後も生き残るだろうが、それほど大きなパイが残るだろうか。元請けか自社の社員にしか仕事が残らないのではないか。あったとしても金がどの程度分配されるというのだ。
個人的には、将来の選択肢を増やすためにCOBOL以外"も"経験した方がいいのではないかと思った。加えて、COBOLしか経験がないと求人が少なく30代以降の転職のハードルが高いため、その前に一度足抜けした方が安牌だと判断した。まあ、逃げ切れる世代には関係ございませんけれども。
悪魔合体させるといけない。
まず、COBOLはほぼ金融業界でのみ生き残っておりコボラーの生息範囲は限られることとなる。結果的に、客先常駐していると別の常駐先で出会った人かその関係者とかち合う可能性が非常に高くなる。個人情報や噂が一気に広まってしまうわけであり、一回でも社会からすってんころりんしたら戻りにくい。
なにより、両者ともに揃うと別業界や別ポジションに転職しにくくなる。客先常駐コボラーから客先常駐コボラーに転職する人が結構いるのが現実。コボラーになりたいなら最初からIT土方ピラミッドの頂点コボラーにならなければならない。
という様々な思いがあって、
客先常駐の働き方はこの先これ以上は無理だなとなり、COBOLだけではない肩書きを持ちたいと思って転職を決意したわけである。
現職の忙しさで心も身体もすり減っており、スケジュール管理や企業とのやり取りなんてとても無理だったからである。
さて、ステマなし・エージェント会社名無記載の個人的なエージェントの印象を述べていく。
まず、当初は大手のエージェントに登録していたが、こいつは全く使えなかった。自社開発か社内SEを希望しても、客先常駐とずっと求人出している営業職と介護職の求人票を寄越してくる。
最終的には、客先常駐コボラーは美味しくないため全くフォローされなくなり、ついにはエージェントの気配が消えた。
経歴に自信がある人か自主的に転職活動を進められる人以外は、大手向きではない。
次に中規模のエージェントに登録した。疲れて自主的に動けない自分向きであった。
エージェントの対応としては、大手より転職希望者が少ないためか連絡が頻繁かつ口調が砕けたものであり、転職活動の並走者感を演出することを意識されていたように感じた。
そのため、マメに連絡欲しくない人には向いていないと思う。
なお、結果的にこちらで内定まで到達したが、登録してから内定まで平均より1ヶ月ほど長かったようである。これも客先常駐コボラーの呪いか。
面接対策については、2つ目の中規模エージェントで書類添削及び面接対策の申し出があって実施していただいた。それに従えばおよそ間違いないと思うが、参考として面接経験を書き残す。
面接での質問は、これまでの仕事のことを深掘りされることが多かった。
一問一答で準備しておけるようなものではないため、成功したこと・失敗したこと・仕事中に心がけていることなどを整理しておくことが必須である。新卒からコボラーの人間に技術は期待されないから、アピールできるところが仕事の進め方や考え方だけだからだ。
また、気になるITの話題や自己研鑽の質問への回答をそれぞれ2〜3くらい用意しておくとベスト。
志望理由は、表向きの転職理由と求人票の職務内容を結びつけて言えばいい。ここを起点に他の話に発展していくことも多く、嘘の理由であっても結びつきをブレさせない意識を持つといいだろう。
企業研究はインターネットで調べて、事業内容と今後数年の計画を口で語れれば十分かと思われる。新卒と違って会社説明会なんてものはなかったが、面接担当者が面接中にどのような会社か親切に語ってくれるから、そこから志望動機にも繋げていくことができた。
そして、自分と同じく経歴がクソだと思う転職希望者たちには次のことを言いたい。
たとえ転職先で希望のキャリアや待遇が手に入れられなくても足がかりになるような経験が得られるか、でエントリーしていくといいと思う。
もしかしたら、転職した後に「失敗した」「隣の芝生が青いだけだった」なんてことになっているかもしれないが、そのときはまた転職活動を頑張る所存。
採用と教育のコストを考えろよというご意見には、退職されないように経営しろと回答させていただく。
ここまで来て一点大きな訂正をさせて欲しい。
コボラーを名乗っているが、実際はCOBOLよりJCLに触る時間の方が多かった。なんなら、JCLで一番動かしたものは読めないアセンブラのツールだったかもしれない。汎用機バンザイ。
新しい案件に配属されそうになってるが、若干賃金に不満がある。三年目webエンジニア年収450万。関東在住。
下期評価の結果、ボーナスには色がついたがそもそもグレードを上げてほしかった感はある。
で、転職活動っぽいことをすでに始めているんだけど、もし内定が出た場合はどう切り出すのがいいんだろうか?
現職はフルリモートだけど、そこも若干気に食わない。正直全然効率が悪い。
は〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜でかい犬買いたいな〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
当時自分が置かれていた状況とあまりにも似ていて、読んでて胸が痛くなった。
元増田を読んでたら居ても立っても居られなくなったので自分の経験を書こうと思う。
自分は10年ほど前、某国立理系単科大学のとある実験系研究室に所属する院生だった。自分もその分野の研究に興味があって研究室に入ったのだけど、指導教員が問題のある人だった。元増田の教員と同じように学生に対して「こんなんじゃ社会に出たとしてもやっていけない」と発言したり、お盆にも実家に帰省させず実験をするように学生に強要したりと、まさにアカハラ教員だった。でも多分元増田の指導教員の方がもっと酷い。当然自分含め学生たちは毎日深夜まで研究室で過ごしていたし、休日も大学に通うのが当たり前だった。
そんな状況の中過ごしていた自分は無事大学院入学半年ほどでメンタルを崩し、次第に自殺の二文字が頭にチラつくようになった。今となっては何であんなことで深く落ち込み悩んでいたのだろうと思うけど、社会に出て働いたことの無い人間が、自分より社会経験のありそうな人から「お前は社会に出ても使えない」と言われ続けられれば、そうなってしまうのも仕方ないよなと感じる。かくして自分のメンタルは順調に蝕まれ、結局朝、布団から起き上がれない状態までいってしまった。
そんな自分を救ってくれたのは旧Twitterだった。学生の頃の自分はツイ廃で、メンタルがやられていたのもあってぼーっとタイムラインを眺めることが多かった。インターネットにはいろいろな人がいて、自分と同じように過酷な研究室で過ごす人の愚痴だったり、そういう研究室で過ごしていた人の体験談などが書き込まれていた。特に自分の目を引いたのが大学院を中退して就職したという経験の書き込みで、そこに書かれていた「社会では案外なんとかやっていける」といった文章で自分の道が開けた。というかあの頃の自分は藁にも縋る思いで、あの地獄のような環境から抜け出せるのならばなんでも良かった。
大学院を辞めて就活しようと決心した次の日、両親にそのことを相談した。いきなり辞めるのではリスクが大きすぎるということになり、1年間大学院を休学することにした。学生課に休学届を提出し、指導教員に今日から研究室に行かないという旨のメールを出した日のことは今でも忘れられない。平日の真っ昼間に大学の外をふらついているという現実が信じられなくて、自分は自由になったんだという実感がなかなか得られなかった。それから1週間くらいは家でゲームをしたり、都内を観光したり、目一杯遊んで気分をリフレッシュした後、就活モードに切り替えた。
大学院を休学する前から就活のターゲットは決まっていた。公務員である。公務員の就活は新卒であるかどうかが関係なく、年齢の条件と公務員試験をクリアすれば採用される。自分みたいな人生のレールを脱線しかけていた人間にもリカバリが可能である。そして自分は試験に受かるために半年間ひたすら勉強した。1日何時間も勉強するのは大変だったけど、研究室に閉じ込められて夜遅くまで過ごしていた時と比べれば屁でもなかった。そして最終的には某地方自治体の試験に合格し、内定をいただき、大学院には休学期間終了後に退学届を出した。今も同じ職場で働いているけど、メンタルよわよわでどんくさい自覚がある自分でも仕事は続けられてる。
長々と自分語りをしてしまったけど、伝えたいことは、あなたの人生はこんなところで終わらせるべきではないということ。
あなたはまだ本格的に社会に出て仕事をした経験がないから、指導教員の言うことだけが正しいと思っているのかもしれないけど、結局その人もn=1にすぎない。
普通の組織は、あなたやあなたの指導教員が考えているほど厳しくない。
むしろ大学教員の方が人生のほとんどをアカデミックの世界で過ごしている訳で、そっちの方が「社会を知らない」のではと思う。
人生、辛いことがあったら落ち着くまで休んでもいいし、なんなら逃げ出しても構わないと思う。
自分は大学院中退からの就職(公務員)を選んだけど公務員の仕事内容は相当ブラック。それでもブラック研究室よりはマシだし、同僚や上司に恵まれれば(自分は運よく良い人たちに巡り合うことができた)やりがいを持って仕事をできる。多分これは民間企業に就職したとしても同じだと思う。
ただし中退もいいことばかりでは無い。大学院を中退したという事実は、周りは気にしないと言ってくれるけど、自分は就職後も長い期間負い目に感じていた。ある決断を下す前には慎重に考える必要があると思う。
大学生の頃。コミュ障インキャキモオタの私は、就活というシステムで自分が勝てる気が全くしなかった。
適当に就活を終わらせ、決まったところはどブラックの営業。それでもなんとかやるしかないと思い、耐えて三年。心が壊れて退職。死のうと思ったが、どうせなら人生の最後に一発逆転でも狙うかぁと、唯一そこそこ得意だった勉強でなんとかするため公務員予備校に入った。
貯金を切り崩しひたすら勉強すること一年、勉強は好きだったので、筆記は全勝。
面接なんて無理。そう思っていたが、予備校とは親切なもので、面接練習をたくさん組んでくれていたので、
いやいやながら練習に通った。
だんだんとコツがわかってくると、なぜか楽しくなってきた。そうかぁ、何も本当の自分を曝け出す必要はないんだな。なりたい自分を、演じればいいんだ。
そう思うと、心が軽くなった。
ある時は頼れるリーダーを、ある時は縁の下の力持ちを。こうありたい自分をさも自分がした経験のように作って話して演じた。憧れの友達や会社の先輩の話をさも自分のことのように話して話して話しまくった。
こういうネタが好きなのね。
成程、このたぐいの嘘は簡単に人を騙せるんだ。
バカだなぁ、こいつら!こんな話作り話なのに。
限界まで作り話したらどこまで騙されてくれるだろう!
ここはこういう設定でいこう
こっちはこうだ
ここはこうしよう
なんなら全部嘘で固めてやろう
やった!次の選考に進んだってことは、嘘がバレなかったんだな!次は、もっと立場が上の人間を騙すことができるぞ!
面接を繰り返すたび、私は
人を騙す高揚感に心が躍り、全身が震えた。
なんでこんな面白いゲームを現役時代にやらなかったんだろうと心底後悔した。
もっと人を騙してみたい
もっと作り話をしてみたい