はてなキーワード: 聖職者とは
と思いながらしばらく見守ってきたのですが、
というわけで燃料投下。
http://anond.hatelabo.jp/20140217175047
さて、増田投稿記事にはブックマーク時にコメントをつけられるという、まさに“批判だけなら誰でもできる”という事実を体現したかのごとき機能があります。
浅い浅い。
まずね。「リピーターになってはいけない」という表現を「祈願を受けに来てはいけない」と誤読する人の多いこと多いこと。
あのね、リピーターの意味わかります? 一見さんの事じゃないですよ?
祈願を受けに来ることは否定していないが複数回受けに来るのはよくないと言っている。ここでは頻度や回数を問題にしているわけだ。
皆さんもっとよく文章読みましょうねー。
それと、ツリー全体の内容にまで言及するなら、もっとしっかりその全部を読みましょう。
ツリーの中のどのエントリとどのエントリが元増田が書いたものかすぐにわかるはずですよ? 少なくともこのツリーに関しては。
たっぷり字数を費やしているものと、そうでないもの、そして浅薄で安っぽい脊髄反射めいた反論と、重厚な理論にきっちりと裏打ちされた主張。違いは明白ですね。
http://anond.hatelabo.jp/20140217183649
http://anond.hatelabo.jp/20140217185233
http://anond.hatelabo.jp/20140217192523
http://anond.hatelabo.jp/20140218062823
http://anond.hatelabo.jp/20140217200316
http://anond.hatelabo.jp/20140217202300
http://anond.hatelabo.jp/20140218122451
http://anond.hatelabo.jp/20140219135935
http://anond.hatelabo.jp/20140220141948
ツリーの中で私が書いたエントリは以上のみです。
これだけの字数を費やしている元増田のエントリと、それ以外のもの。
きちんと見分けて、その上で言及しましょうねー。
・全くわかっていない。往復4時間かけて数千円の祈祷料を払い長い祈祷を受けるという作業を行うことが人生には必要な時があり、それは時として正面から問題に取り組むことよりも大事なことなんだよ。
A:はいバカー。今書いたような、読解力のない人の典型例ですね。筆者が祈願の必要性については否定しておらず、頻度と回数について否定している事をちゃんと読み解きましょう。巡礼ごっこも程度の問題です。
・生臭坊主のたわ言。御利益信仰が宗教のすべてではない。この無知さで宗教家を名乗ることがおこがましい。
A:はいバカー。坊主が神神言うわけないですねー。お坊さんが神を崇めると思ってる人と、宗教実務者の私。一体どちらが無知なんでしょうね? 宗教に抱いている幻想を捨てて、現実を見ましょうね。
・なんか中学生の宗教、社会批判みたい… 「現実と向き合え!」って叱りつけるか黙って金取るかの二択しかないの?本職がこんなんなら昔話のお坊さんからは随分退化しちゃったんじゃないかな
A:はいバカー。坊主が神神言うわけないですねー。個人の問題は個人で解決するしかないという現実が厳然と存在するからこそ、ご都合主義的展開のドラマや小説が売れるんですねー。神や仏の存在もまたしかり。昔話のお坊さん(笑)もしかり。残念ながらあなたが幻想を抱いている対象は実在しませんよ?
・風俗嬢に説教・・・じゃなくて風俗嬢が常連客に説教してる感じ
A:はいバカー。聖職者様が有難くもして下さっているお説教を何と心得ますか。高尚なものを低俗なものになぞらえて歓心を買うやり方はウケ狙いとしては一般的なやり方ですが、品性下劣ですよ?
・「夫婦が問題にきちんと向き合ってない」と思うなら忠告しろ。宗教が使えるならなおさら正命(正しい仕事のこと)を説けるはずだ。依存の何が悪い、完全に自立した個人なんて存在しないんだぞ
A:はいバカー。まず、そこまでしてやるだけの給料待遇福利厚生の恩恵に預かってはいない、という可能性に留意してから物を言いましょう。そして依存を肯定する人はよく、共存によって成り立っている社会構造を引き合いに出しますが、社会が相互扶助で成り立っているのとマヌケが他者に依存して生きているのとは何の関係もありません。免罪符捨てましょうね。
・そういう人に「説教」するのも坊主の仕事だろ。宗教家はカウンセラーとしての側面も持っている
A:はいバカー。坊主が(以下略)。そういう人に説教するのはもう仕事ではないし、またそこまでの給料待遇福利厚生の恩恵に預かってはいません。カウンセリングが受けたいのなら、精神病患者のレッテルを張られる事を恐れずに、また自分が病人である事を認めるのを恐れずに、ちゃんと心療内科へ行くべきですね。ああこれあなたの事ですよ?
・俺個人は違うなあ。祈る時は問題と向き合う時だな。普段はアニメとかで気を紛らわせられるんだけど、勤行ん時だけは逃げられん。自分の願いを自分で祈願するんだから逃げられる訳がない。祈願を他人任せにするな!
A:はいバカー。自分のお願い事を自分で祈っちゃってるお坊さん来ましたコレ。自分の願いを自分で祈願している人が、他人の祈願依頼を受けて何ができると言うんですかね? 「こういう風に!真剣に祈るんだよ!」って背中で教えているつもりなんですかね? 相手が祈り方を知らないと思っているのなら、傲慢にも程があるどころか参拝者を馬鹿にしきってますよね? あなたは無力で、そして参拝者に対して何もできないんです。その事をまず認めましょうねー。
・現世利益を神に祈るったらクリスチャンでもなく神道か?とも思ったが、神道って「信仰心」をとやかく言わないような。仏を神に言い換えた坊主だとしても、「信心」を語る浄土系は祈祷をしない。中二病患者っぽい。
A:はいバカー。まず匿名の発言だという点を思い出しましょうね。神道が信仰心をとやかく言わないのは言えないからです。なぜ言えないのかは、そこまで個々の宗教の定義を区別している人間ならば少し考えればわかるはずですね? 他人に安易にレッテルを貼る前に、少しは自分で考えましょうね。
・トラバまで読んだけど、この人が本当に聖職者なのかどうか疑問。むしろ普通の人よりそういう資質が欠けてるんじゃないか。
A:はいトップレベルのバカー。トラバまで読んだとか言っちゃってますが、まあ
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これ読んでから出直してきて下さいね。あと言っておきますが、宗教において実務に臨むのが聖職者であって、宗教に幻想を抱くのは聖職者の仕事ではないですからね? 年端もいかない若造や理想に燃えた宗教家みたいな連中は速攻で辞めていって、実務に淡々と向かう職業者が長年支え続けているのがこの世界ですからね。宗教に幻想を抱いている人間ほどヘタレで根性無しで実務に耐えられません。宗教に理想を抱いている人間ほど聖職者としての資質に欠けた行いをします。聖職者であり続けるのが聖職者としての資質の証明であって、聖職者をやめるのが理想家や夢想家である事の証明です。宗教とは現実から出発して理想を目指すものですが、あくまでも理想ではなく、ただの現実に過ぎません。あなたの愚かさを常に自覚し忘れない為にも、今のふたつの名言を紙に書いて壁に貼っておくといいですね。
・信仰が形式化した詐欺に堕することがないよう、職業人としてはつとめてください。ネットでの打ち明けはともかく「現場」では。あなたの職業、あなたの「現場」でしか出来ないことはきっとある筈です。
A:はいバカー。詐欺である事は皆知っていて、その上で騙されているという茶番の前には「現場」も何もあったもんじゃないんですねー。決まりごとだから従う。慣習だからそうする。歴史を重ねる事により一種の様式美にさえ達した詐欺というものは、そうやって無言にして不動の搾取構造を築くものです。私はその腐敗の中においてラクに飯を食わせてもらう為に聖職者になったのであって、決して理想を抱いて聖職者になったわけでもなければ、切々たる思いを匿名で訴えたわけでもないんですねー。文章が長いのはもともとで、もう長い事書いてもいます。ブログのアクセス数を見てから物言ってくださいねー。
そもそも聖職者という用語を定義もせずにお前は聖職者だから奴隷労働しろと言っても相手は聞かんだろうし、
もし聖職というのが責任の大きさって意味なら、責任重大なんだから過重な労働に耐えろってロジックはよろしくないなあ。
なんでも使えちゃうね。
・残業代が出ない
・部活動指導なんかしていたら時間がない(から外部委託しろ、別途手当を出せ)
といった意見がよくあがる。
ネットの特性もあってか、そのような声がよく拡散するようになってきた。
教職、特に小中学校の教職員は、子供たちの未来をまかされた、いわば「聖職者」じゃないのか。
小中学校の先生にどのような教育を受けるかで、生徒の人生に大きな影響を与える。
他に、人の命を救える「医者」や争いを解決する「弁護士」も聖職者といえる職業だろう。
その聖職者の立場にある人が、自分本位の小さいわがまま言ってていいのか。
目の前で救える命があるのに「勤務時間おわったから」と助けない医者は、それでいいのか。
繰り返しの説明になるが、
“己の心と正面から向き合う”というのは何も、自身の精神性や魂の存在に対して定義しようという試みの事ではない。
「現実に際して直面した問題に対し、折れそうになったり投げ出しそうになったりする己の心と戦う」という意味だ。
さすがに説明するまでもないが、現実において自らに降りかかる問題にきちんと対応するという意味である。
心理学の話ではなく精神の方向性の話であり、そして机上の学問ではなく実生活の話だ。
また、余力があるすなわち精神的余裕があるという事であれば、わざわざ信仰を求める必要もない。
辛い時悲しい時に自らを救ってくれた信仰を、困難を乗り越えた後も持ち続けておきたいという気持ちは自然なものだが、
持っていれば繰り返し頼ってしまう。その過去の成功体験が、依存心を生んでしまう。そして信仰は万能ではない。
そしてここは最も大事なところだが、信じるものがどれだけ尽くしても、信仰は万能たり得ない。
重い信仰はやがてスロットマシンのジャックポットのようなものとなり、いずれは「こんなに信じたのにこんなに尽くしたのにこんなに祈ったのに、どうして何もしてくれない」となる。
信仰が深まれば御利益はいずれ釣り合わなくなる。信仰を次第に深めてゆけば究極的には必ず裏切られるという事でもある。
運命を左右すると思われがちな恒常的な存在、それに祈りを捧げ続けるという事は、見返りを求めているという事である。
いい事が起きるように祈る人間ばかりではなくても、悪い事が起きないようにと祈る人間は非常に多い。
神が人の造りしものかどうかはわからないが宗教は人が作ったものであるように、
仮に神が万能だったとしても人の信仰は万能ではない。
信仰は疲れた時に背を預けるべき大樹であり、立ち直ったら背を向けて歩き去るべき道標でもある。
お守りはお守りである。
信仰心のない人にはただの布切れと板切れであり、信仰心のある人には自らを守る護符だろう。
心が弱ってる人にあげれば有難い贈り物であり、加護を必要としない人にあげればいらない貰い物だろう。
ハサミで切るのはお守りなんてもう必要ない人であり、ハサミで切らないのはまだ必要な人だろう。
人それぞれだ。
善行には必ずしも良い結果が伴うものではない。世の中はもっと理不尽だ。
因果などというものは存在しないし、応報なんてものも被害妄想の一種に過ぎない。
強く生きられる人間はそのまま強く在るべきだ。
ただ弱い人間や、少し弱ってしまった人にとっては、宗教の説く優しい嘘がとても暖かい光となる。
その嘘を一時信じて、安らぎの中でやがて強さを取り戻して、そして、いずれはその嘘から目を覚まして、再び現実に立ち向かうべきである。
また弱ったらまた信じればいい。また立ち直ったらまた目を覚ませばいい。
宗教はそうやって利用するべきサービスであり、心のセーフティーネットだ。人は詐欺師にさえ癒される。
いっとき癒される事はあっても、長々と依存するべきものではない。
このツリーの頂点はこちらが書いたものではなく、またエントリは聖職者への質問コーナーでもないため、
できればまだ続きがあるのならばブログの方で聞いてもらいたい。
なぜならば、戒律や教義が明確かつ厳密には存在せず、その代わりに、“広義における社会正義”を標榜する宗教法人群というものも存在するのであって、またそれらは、滅多にお目にかかれない珍しい存在という訳でもない。(定義が広いためにかなり曖昧な表現だが)
そういった団体が何を追求するのかというと、ある種の“健全さ”、“清浄さ”を追求する。
あえて言うが、そこに所属する聖職者達はつねに不健全さというものを決して容認する事なく、そして健全さをこそ理想形・到達形として求める。例を挙げれば、それぞれの家庭における子への教育も厳しい。時代錯誤ささえ覚える程だ。
だから、「自分の足で立たねばならない」「自ら歩き出さねばならない」という、何よりも自然さを追求する姿勢は、ごく個人的かつ私的な信仰であると定義できるものではない。そもそもこちらに信仰心などない。一番最初に書いた事だ。
ときに、弱っている人にとって、宗教という存在は特に優しく見えるものだ。神という存在に縋り救いを求める気持ちもわかる。しかし神に癒され、信仰に癒されて、元気を取り戻した後もなお宗教にべったりと寄り添ったままでいるのは、不自然なことでしかない。
それは、信仰の有無に関わらず理解できる論理的帰結であって、そしてここで今一度前述の夫婦の話に立ち返るならば、数年もの長きに渡り定期的にお参りに来る彼らに対しては、職場の聖職者達全員が「いつか神恩感謝の祈願に来るといいね(※願い事が叶った御礼を申し上げる祈願のこと)」と共通した感想を抱いている。
しかし、その聖職者達はあくまでも、意思決定の結果として提示された「祈願依頼」を忠実に誠実に遂行するのみであり、意思決定に至るまでの相談を受ける事はない。そもそも相談される事もない。
それはなぜかと言えば。宗教が迷える人の道標になる事はあっても、聖職者が迷える人の手を取り導いて都合のいい未来へと連れていく事はできないからだ。
そこに自らの意思が介在しない決定は、ただの他人任せの結末にしか辿り着かない。
だからこそ、一番最後は自分の判断で方角を決めて、自分の足で歩いていって貰う為にこそ、良く考えてから職場へ来てもらい、祈願を受けるか否かを自分の手で決めてもらうのだ。
一見、どうでもいい手順に思えるかも知れないが、これはとても重要な事だ。
一番最初の選択を自らの手で行ったかどうかは、後々尾を引いてのしかかってくる。
弱っている人は迷いやすい。頼りやすい。自らの意志を投げ出しやすい。
祈願依頼者の意志を左右する事は分を超えた行為であるために、カウンセラーの真似事は誰もやらない。
物語の最後に舞台の上からゴンドラに乗って降りてきて、登場人物達の結末を一人で決めてくれる、デウス・エクス・マキナの様な存在が実在したら楽だろう。心が弱ってる時、苦難に直面した時、そんなものを夢想するのもやむを得ない事だ。
だが現実にそんな都合のいい存在はなく、仮に自分の選ぶべき道を他者が全部決めてくれた事があったとしても、それはもはや自分の人生とは言えないのではないだろうか。
自らの事は自らで決める事に意味があり、それが自然である。そういった社会正義全般を尊ぶような信仰を持つ人々が、世の中には大勢いる。
でも本当は、神にすがらず頼らず、彼らはちゃんと自分の足で立って、ちゃんと自分の手で現実と戦わなければならなかったんだ。
なあ増田、自分の足で立ち、自分の手で戦うために「神」が必要なんだよ。
逆に考えると、自分でしゃんとできるためなら神くらいすがったっていいだろう。
その時がくれば神との関わり方も自然と成熟したものになっていくよ。
二時間かけて出かけるのも、ぜんぶ儀式なんだ。自分を言い聞かせ納得させるための。
聖職者になったのも何かの縁だし、神にすがってんじゃねえ!じゃなくて、ここでは依存していいから現実ではがんばれよ、くらいに思ってもらえると嬉しいな。
“現実の問題に対して結局は自力で立ち向かわなければならない”
その事実
事実?本当にそうでしょうか。こんなことを言うのが聖職者とはおかしいとおもいませんか?あなた。
生老病死にイナゴに弾圧、ワニの脳はお前と関係なく性欲を分泌するし、世界はお前と関係なく始まって終わる。
弱者救済を旨とする宗教法人の活動の一側面は存在するが、大事なのはそこではない。
苦しんでいる時、大変な時、助けてくれるが、場合によっては無償に近い状態で助けてもくれるが。
残念ながらそこまでのスペックは備えていない。
少し前まで孤児を引き取る聖職者も珍しくなかった。デイサービス展開したり霊園を区画分譲する宗教法人もある。
ただし、生活の面倒をすべて見て、人生の最期を看取る事までできたとしても、心を現実から逃がしきる事はできないという事だ。
人一人の人生を、全部全部宗教が引き受けて、面倒見てあげられるわけじゃない。
心に無限の救済を与えられるわけではない。
疑う余地のない信仰を与え、それで心を満たし、人生の終末まで幸福を与え続けられるわけじゃない。
人間は生まれてから死ぬまでずっと考え続ける生き物だ。たとえ生まれてから死ぬまで、揺り籠から棺桶まで宗教に世話になったとしても、信仰に一分の隙もなく心まで満たしてはもらえない。
もちろん、幻想として「そんな宗教があってくれたらいいな」「宗教はそうあって欲しいな」という願望があるのはわかる。
皆の心にもあるだろう。
だがそれは甘えでしかなく、いずれ現実として直面し克服すべき弱さだ。
足を骨折した時の松葉杖としては機能するが、足が完治した後になお、自力で歩き出す助けにはならない。
心を折られた時に優しい薬として機能するが、心が完治した後になお、精神的自立を支える補助具ではいられない。
また本人のためにもならない。
幼児が転んで傷の痛みに泣き喚いても、いずれは自分で立って歩き出すように。
誰もが皆、いずれ自分の足で立って歩かなければならない。
ん?いや別に何も否定しとらんぞ?
聖職者は役割を果たせばいいし、どんなモンにも価値を置くのは自由だし。
痛み止め的に宗教を使うのも真っ当な使い方だろうし。
ただ血が出てるのに「痛くなくなったよ!」って痛み止めが効いてるうちに治療しないのは
客観的にみて
http://anond.hatelabo.jp/20140217175047
この通りに感じるのは当たり前じゃねえか?
http://anond.hatelabo.jp/20140217163811
まあ聞いてくれ。信仰心などはじめからなく、純粋に飯を食う為だけに聖職者となった人間からのアドバイスだ。
祈るだけならばイワシの頭に対してだってできるし、
あんたがそこで見た他の連中は、あんたの持ってない信仰心を持ち、あんたの知らない生き方をしてるわけではない。
信仰心が強いのではなく、ただ単に、現状の生活において他の逃げ道がないだけだ。
信仰心は依存心と何も変わらない。依存の対象が人ではなく神となるだけであって、精神的自立には結びつかない。
ただそれでも傍から見れば、“信仰厚い人”という評価がなされ、“神への感謝と敬意を忘れない人”という見方がなされてしまう。
通常の価値観の持ち主なら当然、それのどこがいけない?と思うかも知れない。
数年前か。ある日、職場に一組の夫婦が祈願の依頼に来た。初めて見る顔だった。
夫婦は普段着みたいな格好で、表情は無く、喋る言葉も訥々としていて、なにかに行き詰って祈願に来たのだろうと思った。
祈願内容として口にしたのは、「家内平和、息子の就職祈願」だった。二人が口にするのは決まってその内容だった。
来るペースは月一か、二月に一度くらいだった。ジャージで来て祈願を受けていく事もあった。
外出着っぽい服に身を包んで現れるようになり、表情にもわずかだが笑顔が見られるようになった。
祈願を受けに来る間隔も若干短くなっていたように思う。
だが、祈願内容は全く変わらず、「家内平和、息子の就職祈願」だった。今も変わっていない。
さて、このエピソードを見て、あんたはどう思っただろう。
“祈願に来ることで夫婦には変化が現れ、明らかにいい影響が出ているのだから、よかったじゃないか”
そう思ったかも知れない。
そうだな。実際、夫婦は数年前よりリラックスしてるように見えるし、それを見守るこちら側の視線も暖かくはなる。
だが、違うんだ。なぜなら、祈願に来た結果、この夫婦にとっての問題は何一つ解決していない。
この数年間で夫婦がすべき事は他にあった。
片道二時間くらいかけてやってきて、数千円の祈祷料を払い、長い祈祷を受け、また片道二時間くらいかけて帰ってゆく。
その時間と金を使って、家庭内の問題に、ちゃんと正面から向き合うべきだったんだ。
リピーターになってしまってはいけない。祈願を受けるのが楽しくなってしまってはいけないんだ。手段と目的がすりかわる、それは本末転倒と言う。
だがこちらは生業として聖職者をする身だから、こういう事は口に出来ない。
でも本当は、神にすがらず頼らず、彼らはちゃんと自分の足で立って、ちゃんと自分の手で現実と戦わなければならなかったんだ。
さて、神を作ったのが人間かどうかという問いは誰にも答えられないにしても、宗教を作ったのは人間だと断言できる。
宗教は団体だから、運営上必然的に資金を集める必要がある。経営者や職員に食えるだけの給料を払わなければいけないからな。
だからどうしても定期的な収入、すなわち信者からの恒常的な搾取構造を設ける必要がでてくる。
賽銭箱しかり、祈願しかり、授与品(お守りとかお札)しかりな。
歴史ある宗教とはすなわち、古い歴史の中でいつしか公認されてきた詐欺、と言ってもいいだろう。
神に頼る者の問題をなんら解決しない。
それどころか、救いを求めてすがりつく者から金を巻き上げてゆく。
神へと祈る者が勝手に受け取る精神的安定と引き換えに、対価を要求する。
その中で神を信じ続ける事が、あんたにできるだろうか?
既に、宗教を冷静に客観視して「みんなで祈るのもいいものだ」とか良かったところ探しをしており、そのことを増田に書き込んで整理しようとしているあんたに、入信して神を信じ続ける事が果たしてできるのだろうか?
悪い事は言わない。
手段が目的にすりかわってしまう前に、信仰を持とうとするのだけはやめておけ。
<2/19追記>
驚きのブックマーク500超。
人の日記にぶら下げたエントリとして、ここまでのブクマ数を記録したものは初めて見ました。
皆さんにとって、“腐敗した聖職者”という存在はさながら、とても叩き心地の良いサンドバッグのようですね。
そこで(前々から準備を進めてはいたのですが)、“腐敗した聖職者のブログ”を立ち上げる事にしました。
タイトル、ナントカ生放送を意識した結果、まるで数日前とかに初参加したかのような響きになってしまいましたが、何年間でのできごとです。(・∀・)
幼い頃から郊外に住んでいる自分は、ホームレスなんて全然身近な存在ではなく、
ダンボールで寝てる人、ビニールシートのおうちは、たまに親に連れられ都市部に出てきたときにだけ目にしていました。
親に見ちゃだめと言われて手を引かれるため、すました顔で通り過ぎるようにはしていましたが、心の中では興味津々、見ちゃだめなんて言われたらもうより関心が…
そして小学6年生になった私はある日、駅ビルでオムそばを買ったのですが(唐突)
それが思ったより口に合わなかったため半分くらいを残して駅のゴミ箱に捨てたということがありました。
すると…しばらくして知らないおばさんがゴミ箱を物色し始め、私のオムそばやその他の食べ物のゴミを持ち去ったのでした…
自分のきたない食べ残しを持って行かれた…それはそれは子供ながらにショックな出来事でした。
そんな物を食べないと暮らしていけない人がいるということへの実感も湧きましたが、正直、自分の食べ残しを人に食べられるという生理的な嫌悪感が大きかったです。
その感情を払拭するため、小学生の私が行ったことは、路上で寝ている人に、コンビニおにぎりを配るという妄想でした。小学生らしい意味不明さです。
それはもちろん妄想に留まり、私の第一次ホームレスへの関心期は終了したのですが、時を経て人生のモラトリアムに突入したとき、たまたまボランティア募集のビラに巡り合い、珍しい物見たさもあって
炊き出しに参加してみようと思い立ったのでした。
・NPO法人主催、週1で公園にて実施。(公園使用の許可は得ている。)
・200人前後の人が食べに来る。9割8分が男性で年配者が多い。(小学生の経済力ではコンビニおにぎりを行き渡らせるのは無理だったと改めて感じた。)
・若者は目立つため、列に並びにくいかも知れない。
・配るのはカレーライスと福神漬け。容器は使い捨てではない給食風のお皿。
・調理組と配膳組に分かれている。お昼に調理組が作ったカレーを、夜に配膳組が搬出して公園で盛る。(私はいつも後者。)
・食品に対しての衛生管理は頑張っている。三角巾、マスクに手袋の装備と消毒液が必ず準備されている。
・ホームレスがホームレスに見えない。ぼろぼろでロン毛の異臭を放つホームレスらしきホームレスというのはほんのひと握りで、小奇麗な服装をしているし、ひどい臭いもしない。
・主催者が「憲法第9条を守ろう」って背中に書いてあるジャンパーを着ている。(なんかいるよねそういう人たち。うん、たしかに憲法9条は大事だね。)
・ただのNPO法人の運営かと思ったらキリスト教の関係者がやっていた。キリスト教のNPO法人だった。しかし、聖職者と信仰者がボランティアをしている事実だけで、現場に宗教色は一切なし。
・ボランティアも残ったカレーが食べれる。炊き出しが終わったあとにボランティアのみんなで食べた。(ホームレスと同じ食器だったから本当はいやだtt…)
・立つ鳥跡を濁さず。公園を借り続けるためにも、現場のゴミ拾いには徹底している。
・てんやわんや。場所を借りる時間が定まっているのか、単に現場の人がせっかちなのか、準備から片付けまでがとても慌ただしい。(理由は今も不明。)
・行き当たりばったり。主催者による事前説明やミーティングなどの、本来組織が機能する上で執り行われるべきやりとりがされない。目が合った人同士などでの軽い自己紹介などはあれど、
全体的な挨拶などもないために誰がどういう立場でボランティアに参加しているのか判断できない。その日に何か変更がある場合は、配膳開始直前などの慌ただしい中で伝達され、
初心者は、わからない点どころか行う作業の一から十までを経験者に聞かなければならない。
不便だと思うのですが、何らかの意図があるのでしょうか。(問いかけ)
・並ぶのはホームレスだけじゃない。無料で洗濯や入浴できる施設や理容サービスが存在していて、これが小奇麗なホームレスのたち真相だが、列の中には普通に家のある生活保護や年金受給者も多い。
その結果、受給日前の月末にかけて列が長くなり、配膳数は1.2~1.5倍になる。
なぜ彼らはその取り分で生活できないかは謎である。アルコールやギャンブルに使い果たしてしまうのも一つの理由でしょうが、慎ましく生活していても足りていないのでしょうか。わかりません。
また、高齢者にとっての病院みたいに一つの社交場として実際そんなに困ってないのに遊びに来ている人もいるかと思われます。(笑)
・並ぶ人の中には、身体的、知的、精神的に問題ある人が多い。声をかけてもうまく意思疎通ができない人が多い。
・識字率が100%ではない。掲示物や配布されるお便りなどの全文がひらがな表記だったり全ての漢字にルビが打ってあったりする。
・空気的に身の上話は聞きにくい。彼らが今に至った経緯は貧困問題を理解する上で貴重な情報ですが現場が明るい雰囲気のために深刻な事情に踏み込むのは難しい。
・年配ゆえに少食な人がいる。わざわざ並んでたったそれだけでいいの、、、ってなる。
・ご飯をもらう側の人がボランティアを手伝ってくれる(笑)。多分本人が勝手にやってるんだけど並ぶ人の中にご飯を食べる傍ら車の荷物を運び出したりなど積極的に働かれる方がいます。
食器洗って返すまでが炊き出しで、食べ終わったお皿は公園の水道で汚れを落としてから返却します。カレー配りに専念していると、こういった周りの状況をすぐに知ることができませんでした。
・後始末の方法が汚い。
残飯処理や公園内の清掃時などに、若干ですが素手で汚物に触れなければならないタイミングがあります。触ったあとに手を消毒できるのであれば良いのですが、そのような環境は用意されていません。
いつもその作業を行っている方は気にしないのか効率を求めて割り切っているのかわかりませんが、私は基本違う作業に徹します。
・食品に対しての衛生管理は頑張っている。その2。一度でも外に運び出した食器類は、未使用でも全て洗う。
・年間の予算は約400万円。
・一番近くの路上生活者は並ばない。長く参加している間にだんだん常連さんなどの顔を覚えていくわけですが、なんとその中に、その公園周辺の路上に住まう方々の姿がないことに気づきました。スッテーン。
おうちを訪問してお話を聞くと、彼らは何らかの形で収入を得ており、「炊き出しや福祉のお世話にはならない」という強い自立心が養われているようでした。
中には安定した収入も貯金もあるにもかかわらず路上で生活している方も…。……。なぜ炊き出しを必要としない人ばかりがそこに集結しているのかはわかりませんが、いつも列に並ぶ人々は
みんな遠方からやって来ていたのでした。
・主催者がコミュ障…。主催者は、組織を束ねることができていることが驚きの器の持ち主。おそらくある一つの思想の下に人が集まってことが運ばれている。
・大半のボランティアが郊外出身。やはり同じ界隈に住んでいる都市部の人間は彼らの存在にうんざりしている模様。
・主催者が「脱原発」も掲げている。最初に憲法9条という言葉を見たときにいろいろ気づくべきでした。
・炊き出しに直接関係ないイベント…。主催者からフェミニズム的な会合へ半強制的に参加を求められる。ターゲットにされています。私が社会人ではないため、暇だと思われてるんでしょうか。
・無償の労働に対して直接感謝や労いの言葉は貰えない。例えば幼稚園、病院なんかへのボランティアではそこにいる方々から何かお言葉が頂けたりするが、
この現場ではそれがほとんどないと言える。周りの大人もみんなボランティアの括りで参加しているため、みんなが同じ立場であるからでしょうか。
並ぶ人たちにはそんな気配りはないし(笑)、もしかしたらお金をもらってやっていると思われているかもしれない。
そのためやり甲斐はその場では見つからないかもしれない。震災被災地でのボランティアも一部はそんな感じみたいですね。
「気持ち」というささやかな見返りすら求められない究極のボランティアである。
・カレーをもとめて数…里。食べ物を求めてすごく遠くから来たという方がいらっしゃいました。ずっと歩いていたため、真冬にもかかわらず全く寒さを感じないと言っていた。
・育たない自立心。「ただボタンを押すだけ」のような単純な操作をお願いされることがあり、たとえ押し方やどのボタンを押せばいいかを伝えても学習しようとしない。
彼らの場合、決して能力がないわけではないと思われるが…これが炊き出しには並ばない意識高い(笑)ホームレスとの違いでもあるのかなと思ったりする。
最終的にこの組織への参加によって私が学んだこと、それは、
共〇的思想の本質でしたwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
はい、まず日本での炊き出しというシステムが主に人権第一の共〇主義の思想から成り立っていることがわかりました!
何せ、こういった主義主張の下に生きている人々との出会いは初めてで、彼らもそれを強く表に出すわけではないので気づくのにとても時間がかかりました。
そして、調べてみると私の住んでいる地域では他にも様々な団体が炊き出しを行っているのですが、ほとんどの団体が、キリスト教系およびそっち系のいずれか、または両者でした。
全国的にも、そのようですね。本当に無知でした。炊き出しというものが、そういった思想に基づいているとは…。
気づいたときにはもう、この現場に思い入れを抱いてしまっていたのでそれは割り切ることにしました。
それに、自分の中のいろんな考えを刺激してくれた良いものであったとも思います。それがどんなものであったかは割愛します。
私はこれからも資本主義の残酷な点を見直しつつも、天皇陛下を敬うし、今の日本に期待したいものです。
以上、笑えない冗談でした。
そもそも、炊き出しですが、お腹が空いて死にそうな時に駆け込んだり、無職の間に炊き出しで食いつないその期間に新しい道に歩み始めてもらったりなど
短期的な支援として行っているものとしていますが、もう何十年も来ているという人が多かったりで、なんなのよってなります。ヽ(・∀・)ノ
でも彼ら、精神的、身体的、知的な問題、年の取りすぎなんかにより、社会復帰が絶望的という事情があったりで、生活保護受けていたり、福祉の世話になりたくないプライドがあったり、
単純に外が好きだったり、いろいろな人がいますがいますがそんな人たちみんなひっくるめて、彼らはこの世がこういう世であるために発生した社会不適合者であると考えることもできます。
(※思想的にではなく、社会学的に基づいた考えです( ;∀;))
あと人間にはどんなに努力しても元々素質がなければ困難なことがあると思いますが、彼らの場合、この世を渡り歩くための素質を持たない、もしくは失ったのだと見ることもできます。
そのような目線でいくと、彼らにとって炊き出しは、死ぬまで面倒をみてやろうというターミナルケアとしての機能も果たしていると言えます。
私が炊き出しに参加することに対して、「炊き出しの存在が路上生活者を生んでいるのでは?」と直球を飛ばされることもあります。
たしかに炊き出しの存在は、「働かなきゃごはんが食べれない」という人間の労働へのモチベーションが生まれる流れを遮っているかもしれません。
それに、収入のある人が炊き出しに頼ることで本来食費に充てるべきお金が遊興費に回されるなんていう現状もあるでしょう。
厚労省のホームレスの数は調査は今のところ減少傾向に見られます。http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r98520000027ptf.html(目視調査のため数字は不確実)
そして、現在の炊き出し来場者が200人前後と記しましたが、過去は今の2倍以上が通常であったとのことから、炊き出し来場者も同様に減少しているように伺えます。
やむを得ず路上生活する人々への支援という当初の目的の需要が減る中で、炊き出しというものが、一人歩きしてしまってる面があることは否めないと思います、、、
しかし私個人としては、食事は誰もが必要とすることであり、古代だったらそのへんの植物生物で食いつなげたろうけど現代人はそんなの食べれる免疫持ってない
っていうか今はそんな時代でもないし、ということで、
お腹が空いた時に誰でも無料でご飯が食べれるサービスがあっても良いんじゃないでしょうか
というシンプルな結論に落ち着きたいです。
シリーズ | 小回復 | 中回復 | 大回復 | 完全又は超大回復 |
---|---|---|---|---|
DQ | ホイミ | ベホイミ | - | ベホマ |
FF | ケアル | ケアルラ | ケアルダ | ケアルガ |
BOF | リリフ | アプリフ | トプリフ | - |
女神 | ディア | ディアラマ | - | ディアラハン |
ベネディクションという全回復がFF14にあるが魔法というよりスキルのような逸脱した響きなので不採用。
BOFは響き優先か。
シリーズ | 範囲小回復 | 範囲中回復 | 範囲大回復 |
---|---|---|---|
DQ | - | ベホマラー | ベホマズン |
FF | メディカ | メディカラ | - |
BOF | リフル | リフラル | - |
女神 | メディア | メディラマ | メディアラハン |
基本にしてインパクト抜群のベホマズン。「ズン」の安定感ある響きが安心度高い。
FFはケアルなどが単体回復か複数選択ができるシリーズもあり、一応FF14の魔法を入れておいたがなんかこういう感じの魔法名、世界樹の迷宮にもあったな。
仲間の人数が多めの女神シリーズが一番お世話になるであろう範囲回復。
シリーズ | 小蘇生 | 中蘇生 | 大蘇生 | 最高蘇生 | 犠牲蘇生 | その他蘇生 |
---|---|---|---|---|---|---|
DQ | ザオ | ザオラル | - | ザオリク | メガザル | - |
FF | - | レイズ | - | アレイズ | - | リレイズ |
BOF | リバル | - | - | リバルラ | - | - |
女神 | リカーム | - | - | サマリカーム | リカームドラ | - |
ここで顕著に特徴出ているのがDQ。
基本道具やで気軽にフェニックスの尾やきつけやくが売っておりカジュアルに蘇生できる世界観のRPGが多い中、
世界樹の葉が1枚しかもてなかったりで基本死亡に関するリスクが高いのがDQ。
というかDQは死亡で、FFとBOFは基本的に気絶扱いなのがそもそも事の深刻さがかなり違うのか。
元がメガンテから派生したためにメガザルの響きの場違い感が凄い。ていうか使ったことない。
そしてリレイズは逆にカジュアルに死ぬがゆえの存在か。便利だよね。
また、どんなに高レベルでも蘇生確率は半分だったザオラルさんであるが、DQ10では回復魔力が高いと蘇生確率が高まるので、やっと高位聖職者と駆け出し聖職者の差が出せるようになった。
シリーズ | 毒 | 睡眠 | 麻痺 | 視界不良 | 石化 | 魅了 | 沈黙 | パニック | 呪い | 万能回復 | その他 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
DQ | キアリー | ザメハ | キアリク | マヌーハ | - | - | マホリー | - | - | - | - |
FF | ポイゾナ | エスナ | エスナ | ブライナ | ストナ | - | エスナ | - | トード、ミニマムなど | エスナ | エスナ |
BOF | ヤクリ | ヤクリフ | ヤクリフ | ヤクリフ | - | - | - | - | - | ヤクリフ | ヤクリフ |
女神 | ポズムディ | パァスディ、パトラ、メパトラ | - | パララディ | ストンディ | カルムディ | クロズディ | パァスディ | カースディ | - | メタモディ |
はっきり言って把握しきれない。迷走地帯の状態異常回復。
多分漏れや間違いが数多くあることと思われる。
病気もあったけど多分解除魔法無かったような気がするので入れていない。
状態異常に神経系と精神系の分類があって神経系全部回復、とかなにがどっちか覚えられないよ問題。
最初はポイゾナとかあって高位は全部エスナでおkのFF方式が大正義のように思われる。
あとは麻痺や毒が戦闘後に解除になるかならないかで重要度が違ってくる。
DQ8ではザメハとキアリクが統合され、キアリクで目覚めるという気持ち悪い感覚が味わえた。
DQ10で異様に解除魔法が増えていた。(敵が強いので解除しないと致命的だからだと思われる)
DQは状態異常に関してもハードルが高く、エスナ系がない硬派さに震える。
FFでは状態異常化と状態異常回復を兼任している作品があるミニマムやトードが意外と珍しい存在。
変わった状態変化としては、女神のカード化(動けない、火によく燃える)、
鏡化(動けない、殴られると割れて粉々に)、
「フランス革命は、平民(第三身分)が旧体制を打破した革命である」
のように説明されることがあります。この説明は間違っているわけではありませんが、「平民」という均質な集団が一丸となって何かをしたかのような誤解を与える点で、フランス革命の内容を分かりにくくもしています。
平民(第三身分)は、農民や都市の下層住民を総称した民衆と、民衆よりも裕福な中間層であるブルジョワからなります(職人を雇わずに家族だけで仕事をしている親方や店主ぐらいが下層のブルジョワと民衆との境界層です)。しかしブルジョワと民衆は意識の上でも利害的にもあまり仲がよくありません。
ブルジョワと民衆は協力関係にあるよりもむしろ敵対しており、それぞれ自律的に行動していたととらえる方が、フランス革命の動向が分かりやすくなります。
普通フランス革命の期間は、バスティーユが襲撃される1789年7月からロベスピエールが処刑され恐怖政治が終わる1794年7月までの5年間、またはナポレオンが総裁政府を軍事クーデターで倒す1799年11月までの10年間とされます。
しかしその当時フランスの社会構造がどのようなものでフランス革命が始まるまでどのような進展があったを知っていた方が、フランス革命の推移もわかりやすくなります。
わかりやすくなるのですが、ここではバッサリはぶきます。ブルジョワと民衆がそれぞれ自律的な勢力であるという複合革命論の考え方を前提にして書かれた
などを読んでみてください。
があります。こちらのタイプの説明の方が分かりやすいという人もいるでしょう。
(ヴェルサイユで開かれた全国三部会は、第三身分の強硬姿勢により憲法制定の議会に変身し、バスティーユ襲撃後の国内混乱を利用し封建的特権の廃止に至ります)
1789年5月5日にヴェルサイユ(パリから約25キロ)で始まった全国三部会は、採決形式でもめ審議に入らないまま紛糾します。第三身分が強硬姿勢を崩さず、特権身分の中にも第三身分への同調者が出たこともあり、7月9日に憲法制定国民会議として再出発します。
しかし7月11日に第三身分に融和的な財務長官ネッケルが罷免され、これがパリが伝わるとパリ市民は王の軍事行動が近いと恐れ、自衛のための食料調達武器調達に動き、焼き討ちや略奪が発生します。富裕市民は政府軍隊への対抗と秩序維持のため常設委員会を設置し民兵を組織します。
7月14日にはバスティーユの要塞に武器の引き渡しを求めて民衆が殺到し、バスティーユ内で交渉が続くさなか襲撃が始まり、バスティーユは陥落します。市庁舎まで連行された司令官ドローネーは群集に引き込まれて殺され、市長フレッセルも射殺されます。
新たに組織されたパリ市政当局とブルジョワの民兵(国民衛兵)を国王政府は追認せざるをえず、他のほとんどの都市でもブルジョワが市政の実権を握ることになります。
一方バスティーユ占拠の報を受けた農村では、貴族が浮浪者を雇って報復をおこなうという噂が広がり、その恐怖から各地で領主の館の襲撃が行われ、「大恐怖」と呼ばれるパニック状態になります。
自由主義貴族だけでなくブルジョワの議員の多くも地主であるため民衆の騒乱は早急に鎮める必要がありますが、正規の軍隊に頼ることは王や保守貴族の立場を強めることになるのでできません。そうしたなか8月4日の決議が行われます。
8月4日閉会後の夜に抜き打ち的に再開された議会で、自由派貴族によって領主特権の廃止が提案され、熱狂的興奮のなか課税特権の廃止など諸特権の廃止が次々と宣言されます。大恐怖の圧力を利用して封建的特権の廃止に成功し、農民の騒乱も沈静化していきます。
これで憲法の議論が進むようになり、8月26日には人権宣言が採択されます。
しかし王は特権廃止の法令も人権宣言も批准せず、9月末には治安維持の名目でヴェルサイユに軍隊を集結させます。
10月5日に食糧危機を訴えるパリ民衆がヴェルサイユに行進し国民衛兵がそれに続き、民衆は窮状を訴え国民衛兵は王に圧力を加えます。王は法令と人権宣言を批准、翌日には王一家はパリのテュイルリ宮に移されます。続いて議会もパリに移り、ここから憲法と法令の議論が本格化していきます。一方で亡命する貴族が増えていき、国内の政治分裂も本格化していきます。
(91年半ばまではフランス革命期としては平穏な時期ですが、この時期に国内の対立が進んでいきます。また国王の逃亡未遂が発覚するヴァレンヌ逃亡事件(91年6月)によって王の威信が失墜し戦争を望む声が高まります)
議会がパリに移り、諸特権廃止の内容や具体的な法律が決められていきます。ヴァレンヌ事件が起こるまで比較的平穏とされる時期ですが、国内にさまざまな対立が生じていきます。
1789年後半から91年にかけて、議会外に政治組織が形成されていき対立の構図ができていきます。
また各地で反領主騒乱が発生していますが、そうした騒乱は徐々に革命か反革命かという政治的な枠組みで解釈されていくようになります。
さらに聖職者民事基本法をめぐって宣誓拒否問題が起こります。カトリック聖職者の多くは革命には好意的でしたが、叙任式における宣誓義務に対して大多数が拒否をします。議会からの警告が出されますが、地方によって大きくバラツキがあるもののフランス全体で約半数の司祭が拒否します。教皇ピウス6世が民事基本法を否認したこともあってカトリックは内部分裂する事態になります。宣誓拒否司祭とそのもとにあるカトリック民衆は「反革命」に押しやられ、のちのヴァンデの反乱(ヴァンデ戦争 1793年3月~)の原因の一つになります。
91年6月に国王一家がパリから逃亡し途中で発見されるというヴァレンヌ逃亡事件が起こります。
これを受けて、外国に支援された亡命貴族が攻めてくる、外国の侵略が始まるという考えが広がり、国王救出を目的とした外国人が侵入してくるという予想から国民衛兵による警戒体制もしかれます。
7月には主要な政治組織であるジャコバン・クラブが、王の廃位と共和制を要求する請願書をめぐって分裂し、多数派の穏健グループはフイヤン・クラブとして分離します。
8月にオーストリアとプロイセンが、フランス国王のために武力介入もありえるとするピルニッツ宣言を出したため、亡命貴族の陰謀説にさらに拍車がかかり、外国との戦争を望む声が高まっていきます。
そうしたなか9月3日に立憲君主制にもとづく1791年憲法が制定され、9月30日に憲法制定国民議会は解散します。
(インフレや物価上昇により食料問題が悪化し民衆の不満は増大していきます。国内の多数が開戦を支持するなかオーストリアに宣戦布告し(92年4月)、続いてプロイセンとも戦争状態になりますが、フランス軍の劣勢となります。軍事的危機と国王への不満が積み重なり、パリに集結していた連盟兵やパリ民衆の恐慌的な敵意が王に向けられ、王の廃位が要求され、8月10日テュイルリ宮が武力制圧されます(8月10日事件)。これを受けて議会は王権の停止を宣言し、新たな憲法制定のための国民公会の召集を決議します)
憲法制定議会が解散した翌日91年10月1日に、9月までの選挙で選ばれた議員達による立法議会が開会します。再選が禁止されたため全て新人議員で、貴族がほとんど選挙に立たなかったため議員のほとんどは裕福なブルジョワです。立憲君主制を守りたい穏健派のフイヤン派が議会の最大勢力、共和制を主張するジロンド派(ジャコバンクラブのこの頃の多数派)がそれに続きます。
なお同業組合や団結を禁止したル・シャプリエ法(91年6月)に抵触する恐れがあるため、政党は存在しません。そのため、どの派でもない、審議内容ごとに立場を変える中間派(平原派)が、この時期に限らず常に議員の多数を占めます。そのため派閥の議員数だけでなく、中間派の動向(またその動きに影響を与える議会外の動向)が重要になります。
また議会内の各派の勢力数自体も確定したものではなく常に流動的で、各勢力をどう呼ぶかにかんしても文章によって違うことがあります。
議会の中心的課題は、周辺諸国からの脅威にどう対処するかです。(それと穀物価格の上昇に対する価格統制の要求に対して、革命後の基本原則である自由主義をあくまで守るのか、民衆の要求を受け入れるのかも問題になっていきます)
これに対してジロンド派は、国内の不満をそらして(インフレにより物価が上昇し各地で食料暴動が発生していた)政治のイニシアティブを獲得するために「自由の十字軍」などの言葉で対外戦争をあおります。民衆の多くも「外国と共謀する亡命貴族」への脅威と愛国感情の高揚から戦争を望んでいました。
92年3月、フイヤン派の大臣が王によって解任されジロンド派内閣が成立し、4月にオーストリアに宣戦布告、数週間後にはプロイセンとも戦争に入ります(戦争はナポレオンが二度目の失脚をする1815年まで中断もありつつ続くことになります)。
しかし緒戦から敗戦が続き、「反革命」者へのより強力な措置を求める声や宮廷への不信から共和制を求める声が高まっていきます。またセクション(区)の政治活動を通じて民衆が政治的に組織化されていきます。
そうした流れが最終的に民衆と連盟兵による8月10日のテュイルリ宮の襲撃に行き着くのですが、この事件は偶発的に起こったバスティーユ襲撃とは異なり王の廃位を求めての組織された行動だったにもかかわらず、そこに至る決定的な原因があるわけではないので要約しづらく、フランス革命の大きな転換点の一つのわりに説明しにくい事件です。
ここでは事件の結果だけ述べると、立法議会は蜂起側の勝利がはっきりした後、王権の停止を宣言し、新たな憲法を制定するための国民公会の召集を決議します。これでフランスが共和制に向かうことが確定します。また国王一家はタンプル塔に幽閉されることになります。
(戦争はフランス軍の劣勢から優勢に変わり周辺領土を占領します。93年1月には国民公会の裁判結果により国王が処刑されます。周辺領土の占領や国王の処刑を原因として周辺諸国の多くと戦争に突入し、さらに国内ではヴァンデ地方を中心に大規模な反乱が起こります。議会ではジロンド派と山岳派の対立が深まっていき、国内外の諸問題への対応のまずさからジロンド派が民衆の支持を失い、93年6月ジロンド派は逮捕、議会から追放されます)
8月10日に王権が停止しますがフランス軍が劣勢の状況にあることは変わりません。義勇兵がつどわれ前線への準備がなされる一方、反革命、裏切り者を排除する空気が広がり、家宅捜索がなされ多くの反革命容疑者が逮捕されます。さらにパリへの侵攻の脅威が高まり、義勇兵が出発したあと反革命者がパリ住民を虐殺するという噂も流れ出します。
そうした不穏な情勢のなかヴェルダン要塞陥落のニュースがパリに届きます。これをきっかけとして、囚人の多くが殺されるいわゆる九月虐殺が発生します。
この事件の結果、内の脅威が消えたと民衆が大挙して義勇兵に参加し兵数万を増やすことになります。
一方、この事件は国外からの印象を非常に悪いものにします。宥和政策を取っていた隣国スペインの首相も宥和政策を撤回せざるをえなくなり、またフランス革命開始時には革命に好意的だった知識人たちも国王一家の幽閉と九月虐殺で決定的に革命嫌悪に転じます。
戦況にも変化が生じます。フランス軍はヴァルミーの戦いで勝利し、戦況が優勢に転じていきます。なお多くの本でこの勝利はフランス兵の志気の高さによるものと説明されていますが、志気が影響するような戦いではなく兵と砲台の数の差によるものといった指摘もあります(たとえば『近代ヨーロッパの情熱と苦悩』)。
普通選挙でしたが投票率は悪く、ほぼブルジョワ議員で占められています。フイヤン派は出馬していないので議会におらず、共和制穏健派のジロンド派と共和制急進派の山岳派、それに中間派という構図です。(ジロンド派がジャコバンクラブを脱退していくので、山岳派=ジャコバン派とも呼ばれます)
ジロンド派は経済的・政治的自由主義を維持し議会主導で政治をおこなうという近代的な原則をあくまで重視し、山岳派は革命の推進と防衛のためには民衆の要求も受け入れ民衆運動の利用もありと考える現実路線です。
……とまだまだフランス革命の時期は続いていくわけですが、予想外に長くなったので中途はんぱなところですがここまでとします。
93年1月に国王が処刑され、6月ジロンド派の追放で山岳派の一党独裁(ただし基盤の脆弱な独裁)になり、恐怖政治の時代が翌94年7月まで続き、ここで一区切りとなります。
変ですね、私はあなたの親の話など一度もしていません。
それは申し訳ありません。他のツリーでの話みたいですが、同じ様な口調で同じ様な論調の元だったので同一人物だと思ってました。
ここのツリー自体も複数に別れてて、貴方の書いた、というのも見ましたが、相手が全部自分な訳でもありません。
そこは勘違いしてましたが、
といいながら、こちらがリンクを見せた瞬間に
掲載されています。
となるのはおかしい話でしょう。貴方はご存じなかったのは事実ですよね?
そうでなければ、
このような事は言わないでしょうから。
また、逆に
「異本」の訳にはこう載っている、というアレは聖書のどこに書いてあると思う?
それぞれの書の最後尾なんだ。
実質採用されていないと思って頂戴。
旧約聖書、旧約聖書続編、新約聖書をそれぞれ読んで、明日正教会かカトリック教会、聖公会、ルーテル教会に行って
聖職者たちに聞いて回って来な
残念な人扱いされると思うけどね
それはあまりにかわいそうなんで読んで頂戴。
読むだけで反論はナシ。いい?
も~このエントリ読んでさえも反論してきたらアホの子だと思われるからね。
匿名の場があってよかったね~。
「神はそのひとり子を世にお遣わしになったほどにこの世を愛された」
これがキリスト教の基礎です。どの教会でも常識となった聖句です。
そのようになさった神が罪びとに石を投げるでしょうか。ありえるでしょうか?
この辺りではっきりとそんなことはあり得ないと言いながらこちらを煽っていますが、記述としてあるわけで、
それを貴方は信じないかもしれないかもしれませんが、聖書に載ってる以上、ただただその話を馬鹿にして済む話ではないでしょう。
ましてや載ってないの?と聞いてきたことにがっかりした、なんて話はおかしいでしょ?
勿論、載ってることを知った上で、現在このように解釈されてる、私はこう思う、という貴方の最後の方の説明はそれで良いですが、
その辺り、自分の知識が足りなかったことが原因で人を馬鹿にしたことを謝罪することすら出来ないのですか?と聞いてるだけです。
クリティカルヒットを与えてしまい、逆にそのことを根にもたれるようなって、小学校を出るまでいろいろな場面で困った。
なので、変に反撃に出るってのも考え物だと思う。
反撃して決着がつけばいいけど、逆に負けちゃって余計に立場が弱くなることだってある。
子分になって服従する関係性ができればいいのだが、子分じゃなくて搾取先でしかないのだ。
先生に申し出るのも、賭けだ。
先生の対応如何では、妙なクラス会議になって、逆に悪い立場に追い込まれることもある。
親も何らかの組織の一員なので、その後ろ盾が弱い立場にあるときは、それなりの効果しかない。
先生だってただのサラリーマンだ。聖職者ではない。残念だが、強いものには弱いんだ。
子供対子供の関係性だけでなく、親の所属する組織、宗教、政党、地縁のような目に見えない属性があり、それらの力関係もすべて、子供たち同士の関係性に否応なしに入り込んでくる。子供にはがんばる競争を煽っておきながらも、勝者はあらかじめ決まっているんだ。
ちょっとしたつまらないことで揚げ足をとられて、追い込まれる。
いじめる側は、そのつもりがなくても組織的な行動を証拠なしにするだけでいじめ状態に追い込める。
そんなのに個人で立ち向かうのは困難だし、クラスという枠組みが変化するまでその関係は固定化されてしまう。
クラス編成の運がいいか悪いかの問題でしかない。番号順に並んで前後のヤツは、苗字の五十音の近いヤツだ。阿部君は一番前のほうで、渡辺君は、一番最後だ。「あ」で始まる名前は大変だ。第一声で空気をつかまないといけない。そんな理不尽なことは運の一言で片付けるしかない。
クラス替えまで我慢するとか、卒業するまで我慢するというのが、一番だった。
図書室でも保健室でも逃げ込めばいい。そっちのほうが絶対に楽しいぞ。
とにかく、学校という枠組みを自分の人生のメイン作業からはずして道を見つけよう。
大人になってからのいじめのほうがより巧妙かつ合法的に行われるのだ。
ブラック企業なんて、その最たるものだし、パソナルームなんてお仕置き部屋や望まない配置転換だってある。
結局、ある程度の多数があなたを望まないときは、いったん身を引いて、新天地を求めるしかない。
シビアな判断を要求される場面で迷ったときには、みんなが笑顔で卒業できるか、何年後かの同窓会を楽しく迎えられるかと考えるといい。
会社だったら、円満に退社して、送別会をやってもらえるように行動するしかない。
いじめる側もいじめられる側も常にうまい上がり方を考えて、大人に振舞うしかない。
http://anond.hatelabo.jp/20120629012945
公務員落ちたから準公務員を長いことやってるけど、こういう“公的団体”で働くのってマジで楽だよね。
まぁこっちの場合は宗教界にもぐりこんで飯食ってるんだけどさ。
この時期になると全国的にやってるお祭りがあるんだけどさ。ていうか今日やったんだけどさ。
お祭り自体はそう金もかかりゃしない。材料費準備費人件費通信費その他諸々締めて二百万もかからん。
準備にあたって特別な事なんて何もしない。難しい事も一切しない。はっきり言って普通の人でもできるレベル。
で、まぁ何万人とか手紙を出して、お祭りして欲しい人には金送ってもらうなり振り込むなりしてもらうわけよ。
一件平均四千円で、だいたい三千件帰ってくるワケだ。
バカみたいだろ? ただちっぽけなお祭りの準備して大勢に手紙出したってだけで一千万儲けが出るんだぜ?
ホントふざけてるよな。零細企業でひいひい言いながら残業してたあの頃は一体何だったんだろうって思う。
毎日お山の上で聖職者様であるとふんぞり返って、先生先生と頭を下げられて、定時に帰宅するのが仕事だってんだからな。
で、コネ持ってない奴はうまい仕事にありつけない、みたいな意見をよく見るけど。
あれ違うからな。
養成機関で教育を受けた時、コネまみれの奴らとそうでない奴らの二種類がいたけどな。
コネまみれの奴らはヌルくてうまい仕事に就いて、俺らは比較的待遇の悪い仕事に就く羽目になった。
で、時が流れて、今もこの業界に残って仕事してる奴は半分くらいに減ったけど。
社畜扱いされ続けて現実に絶望したハングリー精神の塊と、コネしか持ってないバカ。
コネで仕事決めたような奴は所詮、自分の力で仕事決めたわけじゃないんだから、得た職に対する執着が希薄なんだ。
奴らは決まって、つまらないところで小さな不満を見つけて、びっくりするほど馬鹿馬鹿しい理由で、すぐに仕事を放り出すんだよ。
行き場があるとかないとか関係ない。
信仰心なんざ欠片も無くてもテメエ自身の安穏な生活が惜しいなら聖職者だって何だって務まる。
ああ、一度言ってみたかった。すっきりした。