なぜならば、戒律や教義が明確かつ厳密には存在せず、その代わりに、“広義における社会正義”を標榜する宗教法人群というものも存在するのであって、またそれらは、滅多にお目にかかれない珍しい存在という訳でもない。(定義が広いためにかなり曖昧な表現だが)
そういった団体が何を追求するのかというと、ある種の“健全さ”、“清浄さ”を追求する。
あえて言うが、そこに所属する聖職者達はつねに不健全さというものを決して容認する事なく、そして健全さをこそ理想形・到達形として求める。例を挙げれば、それぞれの家庭における子への教育も厳しい。時代錯誤ささえ覚える程だ。
だから、「自分の足で立たねばならない」「自ら歩き出さねばならない」という、何よりも自然さを追求する姿勢は、ごく個人的かつ私的な信仰であると定義できるものではない。そもそもこちらに信仰心などない。一番最初に書いた事だ。
ときに、弱っている人にとって、宗教という存在は特に優しく見えるものだ。神という存在に縋り救いを求める気持ちもわかる。しかし神に癒され、信仰に癒されて、元気を取り戻した後もなお宗教にべったりと寄り添ったままでいるのは、不自然なことでしかない。
それは、信仰の有無に関わらず理解できる論理的帰結であって、そしてここで今一度前述の夫婦の話に立ち返るならば、数年もの長きに渡り定期的にお参りに来る彼らに対しては、職場の聖職者達全員が「いつか神恩感謝の祈願に来るといいね(※願い事が叶った御礼を申し上げる祈願のこと)」と共通した感想を抱いている。
しかし、その聖職者達はあくまでも、意思決定の結果として提示された「祈願依頼」を忠実に誠実に遂行するのみであり、意思決定に至るまでの相談を受ける事はない。そもそも相談される事もない。
それはなぜかと言えば。宗教が迷える人の道標になる事はあっても、聖職者が迷える人の手を取り導いて都合のいい未来へと連れていく事はできないからだ。
そこに自らの意思が介在しない決定は、ただの他人任せの結末にしか辿り着かない。
だからこそ、一番最後は自分の判断で方角を決めて、自分の足で歩いていって貰う為にこそ、良く考えてから職場へ来てもらい、祈願を受けるか否かを自分の手で決めてもらうのだ。
一見、どうでもいい手順に思えるかも知れないが、これはとても重要な事だ。
一番最初の選択を自らの手で行ったかどうかは、後々尾を引いてのしかかってくる。
弱っている人は迷いやすい。頼りやすい。自らの意志を投げ出しやすい。
祈願依頼者の意志を左右する事は分を超えた行為であるために、カウンセラーの真似事は誰もやらない。
物語の最後に舞台の上からゴンドラに乗って降りてきて、登場人物達の結末を一人で決めてくれる、デウス・エクス・マキナの様な存在が実在したら楽だろう。心が弱ってる時、苦難に直面した時、そんなものを夢想するのもやむを得ない事だ。
だが現実にそんな都合のいい存在はなく、仮に自分の選ぶべき道を他者が全部決めてくれた事があったとしても、それはもはや自分の人生とは言えないのではないだろうか。
自らの事は自らで決める事に意味があり、それが自然である。そういった社会正義全般を尊ぶような信仰を持つ人々が、世の中には大勢いる。