2014-02-17

http://anond.hatelabo.jp/20140217192523

弱者救済を旨とする宗教法人の活動の一側面は存在するが、大事なのはそこではない。

苦しんでいる時、大変な時、助けてくれるが、場合によっては無償に近い状態で助けてもくれるが。

大事なのは、そこを心の逃げ場にしてはいけないという事だ。

残念ながらそこまでのスペックは備えていない。

少し前まで孤児を引き取る聖職者も珍しくなかった。デイサービス展開したり霊園を区画分譲する宗教法人もある。

ただし、生活の面倒をすべて見て、人生最期を看取る事までできたとしても、心を現実から逃がしきる事はできないという事だ。

人一人の人生を、全部全部宗教が引き受けて、面倒見てあげられるわけじゃない。

心に無限の救済を与えられるわけではない。

疑う余地のない信仰を与え、それで心を満たし、人生の終末まで幸福を与え続けられるわけじゃない。

人間は生まれてから死ぬまでずっと考え続ける生き物だ。たとえ生まれてから死ぬまで、揺り籠から棺桶まで宗教に世話になったとしても、信仰に一分の隙もなく心まで満たしてはもらえない。

もちろん、幻想として「そんな宗教があってくれたらいいな」「宗教はそうあって欲しいな」という願望があるのはわかる。

皆の心にもあるだろう。

だがそれは甘えでしかなく、いずれ現実として直面し克服すべき弱さだ。

足を骨折した時の松葉杖としては機能するが、足が完治した後になお、自力で歩き出す助けにはならない。

心を折られた時に優しい薬として機能するが、心が完治した後になお、精神的自立を支える補助具ではいられない。

また本人のためにもならない。

幼児が転んで傷の痛みに泣き喚いても、いずれは自分で立って歩き出すように。

誰もが皆、いずれ自分の足で立って歩かなければならない。

  • また本人のためにもならない。 誰もが皆、いずれ自分の足で立って歩かなければならない。 このへんはお前個人の信仰にすぎない 個人主義教とか自己責任教だな 宗教やってるのに...

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