はてなキーワード: 生業とは
大事なのは分布の下位の生徒であっても将来の生業にむけての準備をすること
大学行った方が収入が高くて楽な仕事につけるのかもしれないが、工場やエッセンシャルワークだって大事な役回りだ
(そうした職種の人が満足な収入を得られているかどうかは議論が複雑になるので、ここでは触れない)
読み書きそろばんと言われるが、識字と四則演算ができれば最低限の社会人としては十分であるのだ
低学力層には、受験のための数学、理科ではなく、現業職に就いた場合に必要な実践的な実習を施すべきではないのか?
地頭が優秀にもかかわらず出自によって低学力層に編入されてしまった生徒は見る人が見れば一目瞭然だし、そういう人を救い上げるのこそ教育の使命なんだから個別対応でいい
以前TVアニメが放送されていたのが2019年の4月から9月の事らしいので、丁度1年以上遅れて好きになった訳だ。
放送当時も一応見ていたけれど、「ああ、空の境界やFateのufotableが好きそうな作風だな」と思ったくらいでその頃はそこまで興味が無かった。
鼓の屋敷から伊之助登場あたりで顕著になったと思うけど、話の進みがそこまで早くないのだ。
OPでは初めから鬼殺隊の主要メンバーが登場しているのに、1クールが終わってようやく伊之助が仲間になるかならないか…くらいのペースに、やきもきさせられた。
2クール目の終盤など、鬼殺隊本部に連行された炭治郎と禰豆子が傷を癒し新たな任務に向かうまでの話に4話以上使うのだから堪らない。
古き良きジャンプアニメといえばそうだけど、例えばufotableが以前製作したTVアニメ版のFate/ZeroやFate/stay nightなら2クールもあれば話は終わっている。
アニメ鬼滅の刃の続編が劇場で公開される事は放送が終わってすぐに公表されていたと思うけど、この「続きは劇場で!」というやり方も正直嫌ではあった。
ジャンプ作品の長編アニメーション映画は本編と時系列上は関係ない番外編をやるもの、という意識が僕にはあったからだ。例外は殆ど無いと思う。
その結果はご存知の通り、現在公開中の「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」は日本映画史の記録に残る歴代興行収入2位という凄まじい成果を叩き出した。間違っていたのは僕の方だった。
鬼滅の刃はアニメの放送終了後、女性ファンを中心に人気が爆発し流行した事が話題になった。
去年の終わりかそれとも今年の初めの方だったか、30~40代の女性に高い人気を得た作品としてTVでも取り上げられる事が多くなった。
2019年の年末に紅白でLiSAが主題歌の「紅蓮華」を熱唱した事でアニメや漫画には興味の無かった人達にも曲は有名になったんじゃないだろうか。
この作品が、ニュースで取り上げられた時のように女性層だけでなく、老若男女関係なく幅広い層に支持されるようになったのはいつからだろうか?
特にアニメをプッシュしている訳でも無いスーパーマーケットやドラッグストアー・コンビニエンスストアに、鬼滅の刃とコラボした各社の商品が並ぶようになった。
「ああ、この作品は本当に人気があるんだなぁ」と自分の身で実感出来た時、僕は鬼滅の刃の事が好きになっていた。
土曜プレミアムで放送された総集編の「兄妹の絆」と「那田蜘蛛山編」を見たのが決定的だったかもしれない。約1年振りに見る鬼滅の刃だった。
本放送時は話の進みがゆったりしていた事に不満があったけど、総集編で一気に見るとそこが解消されて良い部分しか残らないのだ。
放送終了後に人気が爆発したというのも、動画配信サイトで全25話を一気に見れる事と関係があったのだろうか?とにかく、まとめて見ると鬼滅の刃の面白さがとても理解しやすかった。
僕は鬼滅の刃のキャラクターの中でも主人公・竈門炭治郎とヒロイン・竈門禰豆子の二人が特に好きだ。
人食い鬼に家を襲撃され一人の妹を除いて母親と他の兄弟を皆殺しにされた長男と、鬼に襲われた際に自らも人食い鬼へと変えられてしまった長女。この二人が鬼滅の刃という作品の主役である。
炭治郎はこのたった一人の妹を守るために戦う。これまで争いとは無縁だっただろう少年が、鬼になった妹を守るために鬼狩りを生業としている凄腕の剣士に一本の斧で立ち向かった。
禰豆子は人食い鬼に変えられても、兄を食らいたくないと涙を流した。鬼になったばかりで重度の飢餓状態でありながら兄を食らう事より兄を鬼狩りの剣士から守るために戦う事を選んだ。
鬼狩りの剣士は、この二人は今まで見てきた鬼とその被害者とは何かが違うと感じ、この兄妹に行く道を示した。鬼になった人間を元に戻す方法を探すため、炭治郎と禰豆子は二人で孤独な旅に出る。
鬼滅の刃1話の大まかな流れはこんな感じだろうか。人を食らう怪物となった妹をそれでも守ろうとする兄と、人を食らう怪物になってもそれでも兄を守ろうとする妹。実に心に響く関係性だと思う。
この兄妹が仲睦まじく一緒に居る所を見るだけで、何だか嬉しくなってくる。現在発売されている鬼滅の刃のコラボ商品も大体この二人がセットになっているので、そこも嬉しい。
原作者の吾峠呼世晴先生やufotableのアニメーターさんが描き下ろしたこの二人の公式絵も、非常に華があると感じる。兄妹として二人一組として生み出されたキャラなので、並ぶと絵になるのも自然なのかもしれない。
タイトルには「カップリングが好きだ」と書いたが、僕は本当に炭治郎と禰豆子にカップルになってほしいとまでは思わない。元増田が言及しているように、直接的な描写が無いが禰豆子は公式には善逸と結ばれたと言われている。
もっとも、直接的な描写が無いので、善逸は禰豆子に振られてその子孫同士がくっついたのではないか?と言っている人も居る。禰豆子は鬼殺隊の風柱・不死川実弥と結ばれたのではないか?と考察している人も居る。
僕としては、禰豆子が鬼と知りながらも人間の女の子と変わらぬように接し続けた善逸の好意が禰豆子に通じてこの二人が結ばれたなら喜ばしい事だ、と思う。
一人で鬼になった妹を背負って戦い続けてきた炭治郎の優しさと頑張りに真っ先に気付いて、炭治郎の大切な物が鬼だと知りながらも命懸けで守った善逸だから、炭治郎からの評価が初期から極めて高いのも納得行く。
それはともかく僕は炭治郎と禰豆子がカップルのようになっている二次創作も好きである。前言と矛盾するようではあるけど、要はこの二人が仲睦まじければそれが良いと思っている。
禰豆子が作品のヒロインでありながら妹であるのは、主人公である兄・炭治郎と絶対恋仲にならない関係だから、という考察を聞いた事がある。
確かに禰豆子には少年漫画のファンによく居る熱狂的なヒロインアンチはどちらかといえば少なく、むしろマスコット的なキャラクターとして女性ファンからも高い人気がある。
そんな炭治郎と禰豆子がカップルになるなど原作無視も良い所ではないか!と思わなくもない。別にカップルでなくてもこの二人が兄弟として家族として仲睦まじいだけでも僕としてはある程度満足出来る。
ところで、鬼滅の刃の二次創作において最も勢いがあるキャラクターのカップリングは、鬼殺隊の水柱・冨岡義勇と蟲柱・胡蝶しのぶの二人組だと僕は感じている。BL界隈の事については詳しくないので失礼する。
しのぶさんが原作に初登場した時からこの二人は一緒に行動していた。意見の対立から二人で刃を交えたり、体を絡ませるような事もあった。アニメではしのぶさんが冨岡さんに「月が綺麗ですね」と語りかける場面もあった。
口下手であり人付き合いの上手くない冨岡さんを、何かと世話焼きなしのぶさんが構ってあげている…という関係性であり、しのぶさんはよく冨岡さんを指で突いたり二人きりになると彼を下の名前で呼ぶなど意外な一面もあった。
こうやって見ると、なるほど、確かにこの二人は親密な間柄で実は恋人同士なのではないか?と思う人が少なからず居る事も分からなくはない。冨岡さんがしのぶさん以外の同僚と壁があるのも理由の一つだと思う。
美男美女であるこの二人は、並んで立つととにかく絵になる。鬼滅の刃が何かの商品がコラボした時もいつも二人で一セットという扱いである。容姿を見ると確かにお似合いだと思う。
しかしこの水柱・冨岡義勇と蟲柱・胡蝶しのぶのカップリング、所謂「ぎゆしの」は公式設定という訳ではない。初登場時二人一緒に行動していた事以外、それ以降この二人が本編で絡む事は殆ど無かったのだ。
鬼滅の刃の作者、吾峠呼世晴先生はキャラクター同士の好意や恋愛関係を描くのは好きな漫画家さんだと思う。その吾峠先生がこの二人の恋愛関係を描かなかったという事は…原作でこの二人は脈が無かったのでないだろうか。
勿論公式であろうとなかろうと、二次創作を楽しむのはファンの自由である。今日も鬼滅の刃のファンはぎゆしののイラストや漫画を描き小説を書く事だろう。それだけ「ぎゆしの」に心を惹かれたファンは多い。
炭治郎と禰豆子のカップリング、所謂「炭ねず」も非公式である。こちらは鬼滅の刃の二次創作のカップリングとしてはマイナーではあるけど、見たところ熱心に愛好するファンはぽつぽつ居るように感じられる。
こちらは原作ではお互いが違う相手と結ばれたので公式になる可能性は100%無い。まあ兄妹でくっつくのはインモラルだし仕方ない事だと思う。二人とも誰とも結婚せず山奥で静かに暮らす、という展開なら無くもないだろうけど。
そういう僕からすると、禰豆子が善逸と一緒になり炭治郎から離れていくという公式の展開は少し寂しくはある。勿論禰豆子と善逸が幸せならそれに越した事は無いと思う。
炭治郎は鬼になった禰豆子を人間に戻すために、禰豆子が人間としての幸せを掴めるようにと命を懸けて戦い抜いた。その禰豆子が一人の人間としてこれから逞しく生きていくなら、炭治郎は誰よりも喜ぶだろう。
「鬼滅の刃」は炭治郎と禰豆子の兄妹の話から始まり、炭治郎と禰豆子の兄妹の話として終わった。誰にも引き裂けない強い絆を持つ二人が、「結婚」というゴールを機に自然と離れていく事に、少し物悲しさを感じた。
https://uit-inside.linecorp.com/episode/68
まだピンとこない。確かになんかスゲーってなるんだけど、SSR+jQueryとかいう狩猟採集民みたいな仕事を生業にしている自分としては、そもそもJSをゴリゴリ使うこと自体が悪だと思っていて。
隠蔽が必要になるほどDOMの動的な書き換えに気をつける必要があるのって、HTMLとかWebページに求めること自体が間違ってるんじゃないのかなと言った思想は持ってる
なので、安心してJSを書けるってのはごもっともだし気持ちもわかるけど、安心してJSを書くじゃない!JSを書くならな、親を斬りつける決死の覚悟で、DOMを切り刻みCSSで広域を汚染させる覚悟決めて、ページをぶっ壊すつもりでやれ!といった気分になる。
わかってる。そういう精神負荷バカげてるしそんなの無くてもJSを書ける方がいいっていいたいんだろう。まぁ世の中の流れとしてはそのとおりだし、反論はできない。脳みそ停止してコード書いても、安全に動くのが絶対正義だよ。
ワクワクする技術だけど、じゃあ具体的に何に使えるの?っていうのが本当に重要で、お話の中でも具体例が上手く出ていないのとか、どんな既存の問題を解決するのかわからず、わざわざ使うためのインセンティブ薄いという印象になってしまった。
https://anond.hatelabo.jp/20201109184717
という文章を書いて400件近くブクマがついたので、それを読んで(読ませてもらって)思ったこと、考えたことについて、以下のとおり書いておく。
もはや、ほぼ愛知県知事リコール署名とは関係のない話になるので、あくまで俺個人の整理のための記述になる。
…
高須院長とその界隈を高みから見物しているつもりで、本当はこの騒動に食い気味にのめり込んじゃって、一番おかしいのはお前だろ、というブコメがいくつかあって、これは実際にその可能性がある。
俺は文中で自身の正気をちゃんと相対化できているつもりだったし、最後も、(俺にとってはもっとも合理的な理解である)愛知県知事リコールにおいては高須院長もその取り巻きも半笑いであって、仮に全てがおちゃらけに過ぎないのなら、頭から湯気立てて正気を失ってるのは俺だけだな、と書いたつもりだった。だから、お前も頭おかしいぞ、と言われれば、「だから自分でそう言ってんじゃん」という気はする。
ただ、「俺はてめえの頭がおかしくなってる自覚があるからつまり狂ってねえ!」というのは当然、矛盾している。
俺は自分のどうかしている具合について認識が甘すぎるんだろう。以前、何かの増田についたブコメで「この増田は自身の頭がおかしいことを自認しているが、おそらく増田自身が思ってるのとは違うかたちでおかしいんだと思う」というのがあって言い得て妙だな、と思った経験があるが、なんていうか、それに近いのかもしれない。
…
・お前は醜怪だ、という話
上の、俺の頭がどうかしているというブコメと似て非なるというか、印象的だったものがあった。
最初に反論しておくと、俺は誰かが真面目だったり熱心であることを理由に、おちょくられるのを無条件に免れるべきではないと思っている。
別に俺も、真面目かつ誠実に世のことを思っている人間に対して辻斬りのように悪意を浴びせるほど邪悪じゃない(とは思っている)。ただ、今回の高須院長の、86万筆という当初の目的に明らかに届かないにも関わらず、いかにも肉薄しているという空気を醸成しようとしたこと、結果として集まった43万筆の中身にも疑義がついているのにその検証を言下に否定したこと、署名活動中にリコール反対派を犯罪者呼ばわりしながら届けた工作活動の進捗を説明しないこと、ははっきり言って不誠実だし、リコールという制度を悪質にショー化する行為であって、それはおちょくられても仕方ねえよな、とは思っている。
で、ここからが少し複雑な話になる。
俺は、相手の悪口を書いたり、内容に虚偽を含めたりしない限り、不誠実で悪質な言動について相手を直接、ネット上でやり込めようとすることは許されると思っている(この考え方は本当に俺の異常性を吐露しているのかもしれない。「不誠実」で「悪質」を、ちゃんと主観を除外して判断できるつもりの上、攻撃のトリガーまで引くんだから)。今回の俺のリプライは、表面上は高須院長の味方にしか見えないものなので、(あくまで俺の中の)基準を満たしている。
一方で、俺は自分がほぼ悪意で行動していることを自覚している。義憤ではなく、私的かつ単純に「気に入らない」という感情にドライブをかけられていて、まともな人間はこんなことをそんなにしない。
つまり、高須院長の言動は真っ当な市民感覚によって非難されるべきだと思うけど、俺が従っているのはそういう倫理観ではまったくないし、取っているアクションもネジクレている。
お前は醜怪だ、という指摘はその点でこたえるものがあった。
…
・俺がtwitterで捨て垢を使ってリプライを送った / 先の増田はtwitterで当該のリプライを目にしたまったく別の第三者によって書かれた、という話
皮肉ではなく、おもしれえな、と思った。
この人たちには、本垢で有名人をおちょくったり、そのことを武勇伝めかして増田で書くことは想像を絶しているらしい。どちらが真っ当な感覚かはわからないが、この人たちの方がまともな気もする。
異常でわけのわからない行為を合理的に説明しようとすると、かえって、実態と異なる推論がはじき出されてしまうということで、これは頭を働かせている側がいけないのではなく、そもそも現実に起きていることがのっけからおかしいので、そうならざるを得ない。
おもしれえな、というのは、まるで、先の増田で高須院長たちの行動を理解しようとした俺自身のようだったからだ。つまり、「まったく事実に反した異様なツイートに大量の支持が集まるって、俺の理解できる世界を完全に超えている。もしかして、院長もその支持者も、全然本気でやってなくてふざけてやってんじゃねえのか?」。こんな俺の考えも、見当違いの方向にぶっ飛んだ推測なのかもしれないな、とあらためて思った。
…
・今回のリコール運動の中にもいろんな思惑があるよ / 個人の中にもマジの部分と半笑いの部分や時期があるよ、という話
言ってることはわかるんだけど、俺としては以下の1~4のどれかで断言してくれた意見の方が面白かった。
お前が面白いとかどうとか知らねえよ、という感じだと思うが、そう感じた理由はあとで書く。
…
・1~4の話
2. 院長はマジだが取り巻きは半笑い、という70過ぎのジイサンを見世物にした構図
ブコメを見ると、1, 4にそれなりに割れて、2、3がちょいちょい、というように見受けられる。
俺はこれが本当に面白くて、おそらくはこれまでの印象や知識によって、あの運動が各人で全然違う見え方をしていることがわかった(もちろん先の増田にブコメをつけた人々の意見なので、世間全体ではまた違うんだろう)。
俺が1ではなく2~4を選ぶのは、あるブクマカが仰っていたハンロンのかみそり(愚かさで説明できることを悪意で解釈してはいけない)が、この場合機能するのかな? という疑念があるからで、俺にとっては悪意や冷笑のために時間と労力を割いて敵方を嘲弄することはちゃんと合理的な行為だからだ。
こうして考えると、人間は自分をモデルにしてしか他者の行動を推論できないことがよくわかる。実際は1の可能性も十分あるだろうと思う。
あと、4の中にも高須院長と取り巻きが共犯ってパターンと、院長と取り巻きの意志共有はされていなくて、結果として4が形成されてるだけってパターンがある、と指摘している方もいて、なるほど、と思った。
いずれにしても、1~4のいずれかが今回の運動のメイン層であり、グラデーションはあっても、あるいは個人内でスタンスのうつろいはあっても、コアになる部分があると思う。
俺が「色んなやつがいるよ」的な解釈にあまり乗れないのは、「巨大な運動の内部に様々な思惑があるって、そりゃそうだろうな」っていう一般論でしかないのであんまり面白くないからだが、(ここから少し大仰な話になるので、狂人に訳知り顔されるのが不快な方はすみません)、もう一つ理由がある。
ブコメを読んで色んな見方があることがわかって、その中には「◯◯に決まってるじゃん」と断言するものもあって、正直言ってこれは便利だな、と俺は思った。
これってつまり、一つの現象をめぐる解釈について、どれだけいい加減な放言を言い散らしても、誰かしらは味方してくれるし、耳を貸すということじゃんな?
もしどこかの世界線で、俺が今と同じくらい世に倦んでいて、今と比べ物にならないくらいもっと金持ちで頭が良かったら、「××について、正解は1~4のうちどれでしょう?」の中で、自分にとって一番得で、自分の憎悪で人がたくさん泡を吹いて苦しんで、みんなができるだけ不幸になる答えについて、それを信じてくれる人たちに頑張って吹き込むのにな、と割とマジで思った。
そういう悪意に対抗するには、どれもが正解に見えるうちのもっとも核心に近いものを常に求めるぐらいが関の山でほかにどうしようもなく、「色んなやつがいるよ」は答えとして絶対間違えようがない一方で、悪意の味方になり得て助かるかもな、と思うので、あんまり好きな回答じゃないな、と思った。
言い換えると、これ! という正解を常に抱えながら、科学的な証拠があれば別の正解に賛同できる柔軟性が市民には必要だ、ということになり、皆さんにはこれができるだろうか。ちなみに俺自身は絶対にできないと思う。
…
・オウムの話
「ふざけきってるようであいつらはマジだぞ」という1を選んだ人の中に、オウムとの相似を見た人もいて、そういう見方もあるのか、と思った。なんとなく村上春樹の『アンダーグラウンド1・2』を思い出した。
ウヨの考えてることなんてわかるわけねーだろ、というブコメもあって、俺もまあ先の増田で高須院長の取り巻きのことを途方もないアホか、(俺と同じ)悪意の塊かの二択の後者寄りでとらえてるので、いさめる気も権利もないんだけど、仮にあいつらがマジなら、誰かが高須院長の取り巻きたちの話をマジメに聞いてやったほうがいいのだろうか、とも思った。これは、『ボウリング・フォー・コロンバイン』でマリリン・マンソンが学校銃撃事件の主犯だった少年たちに向けた言葉から思いついたんだけど(「黙ってあいつらの言いたいことを聞いてやる。誰もそれをしなかった」)。だけども、俺には無理だ。理解できないやつとも、俺と同じくらい醜いやつとも話す気力も知性もない。善良で体力のある人に頑張って欲しい。
なお、理解の及ばない排他的な方向に加熱している、という意味でのカルトや『ボウリング・フォー・コロンバイン』の例えであって、暴力予備軍とみなしているわけではないことは言い添えておく。
…
・ポコチンの皮の話
バカバカしいことだが、俺は先の増田を書くにあたって、高須クリニックで包茎手術をやっていることを確認していた。
https://www.takasu.co.jp/danseiki/
俺がお詫びしなければならないのは、他人の生業を揶揄するような文章を書いてしまったことだ。これは本当に俺の想像力が欠如していた。高須氏にも美容整形に携わる方々にもお詫びいたします。申し訳ありませんでした。
・想定外の喋り方で配信をされれば運営としては指摘せざるを得ないだろう。
→こんな考えで指摘してるんだったら運営はマジで馬鹿だと思うわ。配信したら雰囲気変わる、設定が違うとか、今回に限らずザラにあるだろ。
訛った事が想定外って、なんで訛っちゃいけないんだよ。関西が訛バリバリなのは良いくせになんで九州はダメなんだよ。アホくせぇ。そんなの夢月を特別視してるだけじゃねぇか。
・「パクリ」や「いじめ」という強い言葉がより夢月ロアを悪者にしてしまったのではないだろうか。
→公開された部分だけで言うと確かにいじめとは言い難いが、そこは当事者達の体感だが、イメージが悪い分、外野にギャーギャー言われてもしゃーない。これは時間に任せるほかない。
・Twitterなどをみていると夢月ロアが圧力をかけたと言われているが実際は運営ではないのか?
→夢月が運営にどう言ったのかはわからんし運営がどう金魚に伝えたかはわからんが、金魚が夢月に持つ印象が悪くなるような内容だったのは、ディスコ―ドの金魚が距離をとる様な姿勢から分る。だから運営のせいで無能。
・金魚坂めいろの望むような「九州弁ということは明らかにせず」、「模倣した訛りではない」と公式が声明を出してしまえば夢月ロアの「魔界訛り」は普通の人間にも使えてしまうのか、と、世界観が少し壊れてしまう気がする。
→金魚が九州で夢月が魔界ですと言えばそれで終わりなのよ。だって本人たちが言わなくても、視聴者側がもうおおよそ把握してるんだから。VがやってるRPなんてその程度よ?運営が模倣じゃ無いって言ってたらそれは両者を隔てる要素たり得るのよ。後は本人たちが貫くかどうかだろ。郡道みたいにRP否定したりとかしない限り設定なんて活きるんだよ。
・彼女の問題なのか?すべてをエンタメとして昇華しないといけないのか?
→彼女の問題。個人間でどうとでもなるRPのすり合わせを直接やる、と言う選択もできたはず。それをしなかったのは夢月が傲慢だったから。だから彼女の問題。
彼らはエンタメで生きてる人間なんだから、出来る限りエンタメに昇華すべき。それは彼らの生業でもあるから。むしろ、ネタが一つできて美味しいんだからユーチューバーとしてはやるべきだっただろ。
感性がほぼ死んでから、さすがにまずいと思ってアウトプットをしようとした。Qiita(技術記事)はコードの動作確認とか面倒。SoundCloudに下手な三文パンク上げるのは忍びない。TikTok...流石に性に合わない。
残った糞の垂れ流し先が増田だった。ツイッター風に愚痴ってみたり、時事ネタ書いてみたり、意外だったのは自分が普通に文章を書こうとすると詩的にするきらいがある。自分はプログラミングを生業にしている。そこで書くのは「意味のはっきりした命令」だ。対して詩は、幼少時の自分曰く「何言ってるか分からないし海も山も死なないから間違ってる」変なものだ。頑固なつもりだったが三日もすれば嗜好の変わる男だったのかもしれない。しかし、芯はかわっていないので、詩的にしても心をひくような文章は書けなかった。自分としても気持ち悪いのでそういうの書くのはやめようと思う。
さて次はどこで糞をするか、とりあえず増田を物色すると、波のようにスパムが押し寄せてくる。素人の政治論争や、やたら玄人じみたアニメ評論などは遠くに追いやられ、スパムの真っ只中に取り残される。きっとこれは目的もなく新着をダラダラ眺めず、自分の見たいものを自分の力で探せという思し召しなんだろう、と納得しかけたが、俺はスパマーの思し召しを有難がるのか?いや、でも俺が公然わいせつすれすれの恥ずかしいポエムを投稿できたのは、スパムが流してくれるという安心感があったからなのかも知れない。
魚から人間に近い哺乳類までの多くの動物で、子育てはメスによってなされる。
分業し、効率化することで利が生まれるシステムである社会。その最小単位である家族では、人類の歴史上、女が子育てを担ってきた。
女性という性が子育てに適正があったことは、世界各所に散らばる人種、種族のほとんどで女性が子育ての役割を担っていることからも、証明されるだろう。
そもそも体の構造からそうなっている。女には子供を育てる器官(おっぱいと呼ぶ)が付いてるし、さらには女性ホルモンの一種とも言われるオキシトシンは子育てや授乳などによって活発に分泌される。
生物学的にも、文化的にも決定的に子育ては女の仕事だったのだ。今までは。
そう。今まではそうだったのだが、しかし、考えてみるとそれらはすべて、雄性が子育てをできない理由にはならない。
例えば、魚から人間に近い哺乳類まで、子育てがオスによってなされる種がいくつもある。生物の根幹にかかわる領域の違いではないわけだ。
また、世界各所に散らばる人種、種族のほとんどで、人類の歴史上、男性が子育てに参加しなかった社会はおそらくほどんとないだろうし、量の多寡は違えど男性でも子供とのスキンシップでオキシトシンが分泌されることがわかっている。
さすがに男性におっぱいはないが、(いやあるが、白い液は違うところから出る)、そもそも生物学的にというなら、高度化された現代社会において、現代人が生業としている仕事の多くは、生物学的に最適化された形ではない。原始的生活をしているならばまだしも、男性性が、機械を操縦するために?部品を組み立てるために?商談をするために?最適化された生物学的な差異を持たらす構造なわけではない。子育てという点においては、おっぱいの代わりに哺乳瓶が開発されている。
育児も基本的には同じことである。同じ枠組み、誤解を恐れずに入えば、商談や部品の組み立てと違いがない「仕事」の1つだ。生まれる利益に違いはあれど、適切なタイミングでオムツを替えるのは、適切なタイミングで株を売買するのと同じことである。すでに、現代社会では、育児をするにあたり、生物学的な差異はそれほど重要ではなくなっているのだ。
しかし、ではなぜ、現代社会においてはいまだに子育ては女性の仕事なのだろうか。それは育児という仕事の領域の位置によるものだとして説明してみたい。
育児は、生の根幹部分に非常に密接した仕事であるところがミソだ。生活つまり、日常生活との密接度が非常に高い領域なのだ。
日常生活との密接度が高いとはどういうことか。例えば、生活と非常に近いシゴトについては、社会における分業が成立しにくい部分でもある。
毎日の洗濯やゴミ出し、風呂掃除など、たとえ10分で数千円を稼ぐ収入ベースの人でも、自分の手でやっていることが多いのではないだろうか。これらの仕事は、細切れで、高頻度で、物理的な集約が難しいため、分業ができたとしても家族単位の分業に非常に近い形になるのが実情だ。それらの仕事は市場価値が明らかになりづらく、金銭的な評価が難しいことが多い。
育児もそれらと同様であるからこそ、現代においてまで家族という最小単位の社会の分業に留まっているし、その結果、今でも生物学的な優勢によって女性の仕事となっているのが実情だ。
そのミクロ単位での当然の選択こそが、社会全体を構成するマクロな社会の総体としては、家族単位での分業を前提とした社会構成を強制的に成立させているのだ。
それは、結果、男性は子育てのために仕事を抜けずらく、女性は出世しずらい世の中となっている。
分業の深化は社会の高度化とも言えるとすれば、実は社会がまだ未成熟であるだけなのだ。
しかし、もちろん、社会の高度化は現代においても着実に進んでいる。例えば保育園だ。マクロな社会のシステムの中で、保育園というのは非常にその機能を発揮をしている。しかし、それだけでは足りない。
例えば保育園でも、病気をしたら迎えに行くのはおそらく母親なのではないか。そもそも送迎は母親で、働き方も、時短勤務=家族単位の母親を前提とした、母親としての働き方なのではないか。それでは何も構造は変わっていない。あくまで、ミクロな分業の単位=家族の中での役割を破壊するほどの変更が必要なのだ。その変更は技術的イノベーションの波及によって起こされるのか、社会的な革命によって起きるのかはわからない。しかし、そうすることによって、ようやく男性が育児を完全に当たり前に行う社会が到来するのだ。
さて、、、ここで1つ疑問がわく。本当にその変化をする必要があるのだろうか。生物学的な適正を差し置いてまで、必要に迫られる変更なのだろうか。
その必要はある、そして必ずそうなる、と私は考えている。
そもそも、人類の進歩とは何だろうか。今までの歴史で、人類は進歩しているのだろうか。もし仮に今までの歴史が進歩だとするならば、人々は幸福を目指して、人間一人一人の欲望が、より多く実現される方向に進んできていて、これからも進んでいくものと考えられるだろう。それらは分業を深化させ、生業を多様化させ、経済を拡大させ、技術を進歩させた。
今後もヒトは個として欲望をより成就させようとし、社会はより多くのヒトの経済への参加者を貪欲に求めていくだろう。ヒトは当然女性を含む。女性も個としての欲望を成就させようとし、社会は女性の経済への参加を貪欲に求めていくことになるのだ。そのエネルギーが必ずや家族単位での役割を破壊し、新しい社会を開くことになる。
もちろん、人類の進化の過程において、子育てへのモチベーションが女性により強く刻まれているということは十分あり得るだろう。それはそれで社会に反映されていくだろう。
駅前で徳三郎が五平餅を売る姿は、戦前の果名村の風景そのものであった。もともとは村の者ではなかった彼が屋台を営む姿は年月とともに周囲へ溶け込み、その存在に疑問を抱く者はもはやなかった。
木造駅舎の改札を出ると、小さな広場の向こうに商人宿がある。その軒先に徳三郎は質素な屋台を据え、七輪に火を起こし、金網に五平餅を載せて客を待つ。
森深い谷間に取り残されたような果名の駅にあえて降り立つ人々は当時それほど多くはなかった。早朝から町で用を足して帰ってきた村人を除けば、大きな荷物を担いで山間の村々を歩いてきた行商人や、近隣の温泉場から渓谷へ遊びに来る湯治客くらいであった。
そのような駅の前で生業を営む必要が何処にあったか、餅を買いに訪れる村人が冗談めかして尋ねたことは一度や二度ではなかった。その度に徳三郎は含羞めいた笑みを穏やかに浮かべるばかりであったという。
柔和で笑みを絶やさなかった徳三郎には村内で客がついたものらしく、屋台は続いた。だが五平餅だけで生計を立てることは難しかったのか、同じ屋台で支那そばも売り始めている。当時はまだ新しい食べ物であった支那そばを作ることのできた徳三郎は、都会育ちであっただろう。村に唯一残されている屋台の写真には「羅宇麺」と書かれた立札が見える。徳三郎の作る支那そばは温泉客のあいだでも評判を呼んだものらしく、当時の温泉街の冊子には「果名ノ羅宇麺」として紹介されている。
だが屋台の繁盛は徳三郎の逮捕により終焉を迎える。ある晴れた日、駅から出てきた男女二人連れの姿を認めた徳三郎は、広場で女に襲いかかった。馬乗りになって首筋に千枚通しを突き刺そうとしたところで村人に取り押さえられている。警察の調べに対し徳三郎は「許せなかった」とだけ語り黙秘を貫いたとされる。徳三郎が村にやってくる前の恋愛事件に起因する私的怨恨説が村内でまことしやかに取り沙汰されたが、真相は不明なまま村は戦時体制へ突入していった。
戦後まもなく、徳三郎の駅前屋台は一時的に復活している。神社の軒下で寝泊まりしている人物が徳三郎であることに気づいた自作農家の幣原元彌氏が徳三郎の身柄を引き取り、再び屋台を持たせた。徳三郎の人となりを知っており、彼が作る支那そばの味を懐かしんだ幣原氏が「おめが羅宇麺をまた食わせてくれや」と懇請し、元の場所へ屋台を設置する資金援助を申し出たものであった。
近隣の温泉地は進駐軍の保養地として接収され、果名村にも米兵のジープが度々姿を現すようになった。米兵から手に入れたコカ・コーラを支那そばのスープに隠し味として入れる手法を徳三郎が考案したのはこの頃であるとされる。彼が生み出した味は、再起を助けた幣原氏への感謝を込めて「おめが羅宇麺」と名付けられ、中部地方を中心に戦後の日本に広まった。
他のゲーム実況者は、単独お笑いライブかただの素人みたいな感じで、滑ってもまあまあ別にって和やかな苦笑で済むけど、企業VTuberは通常配信が常にM-1みたいな感じあるわな。
その放送自体は一人でやってても、近い時期にやってる他のVTuberとレースしてる感ね。
駆け出しゲーム実況者は趣味や副業でやってる人がほとんどで、滑ってもファンがつかなくてもどうってことないけど、VTuberはあとのないガチっぽさあるからな。(副業でも、最近人気が落ちてきたタレントや声優が顔出し実況はじめて視聴者数50とかだと気を揉むが)
それに、ファンや視聴者を増やせばお仕事がきてタレントとして成功するルートがあるってのが現実味を帯びてるからこそ、逆に滑って視聴者を減らすことも現実的失敗として重くなってる。
あと企業VTuberって業界が、競争圧力が発生する程度には広く、色んな人や生き方がいるから比べても意味がないと開き直れない程度に狭い、ってのもあるだろうな。
お笑いだったら芸人と芸人志望がクソ多いから、M-1とか、オンエアバトルとか、一つの共演番組(しかもガチめ)に出た時くらいしかウケる滑るに気を揉んだりしない。
あと普通のゲーム実況業界もたぶん規模デカくて比べる気がなくなるくらい人多いんだろ、声優のしか見たことないから知らないけど。
企業Vtuberは、業界自体が面白いコンテンツとして社会に認められるかどうかの勝負所なうえに、メディアやオタク会社から各事務所・配信者に振ってくれるお仕事の数はまだ少ないので席取りゲームが熾烈である。配信者個人も実生活の生業情報を出す人が少なく、Vとしてコケたら路頭に迷うんじゃないかって心配したくなる。業界規模も、誰のどの配信がウケてどの配信が微妙だったか比較対象が丁度把握しやすいくらいだし、コケて消えた前例も成功して勢いに乗ってる前例も一覧しやすい。これらが絡みあって、見てる側も数字を気にしやすくなるって感じじゃないの。
これが理解できてない人がいるらしいんですよね。
そういったことに深く関わってそうな文化について研究してる人や、それを生業とする人の中にさえ。
どうすればいいんでしょうか?
学校で教えるべきなんですかね。
太宰論法は駄目だよって5時間ぐらいでカリキュラムに組み込む?
自分がやって欲しいと言ってるも同然なのに、それを相手が自発的にやろうとしたことによるすり替えは無責任だよ、って。
それ言ってた教師の側が平然とそのテクニックを振り回してたし、それで失敗した人に対して「俺がやれって言ったわけじゃないしー。俺はやっても良くねと単に思いつきを喋っただけ」って逃げてたこともあって、なるほど実物提示教育、ってなりましたが。
簡単じゃないんですよね。
今の私だってまさにその「俺はやっても良くと単に思いつきを喋っただけだしー」のポジションからものを申している訳で。
でも私はこれについて、私がそれをやるべきであると提案した時点で、やれと指示を出すほどではないにしろ現状を変えろという意見を口にした事実からは逃げる気はないですね。
現状、この問題を社会が抱えてるのは事実ですからね。変えるべきだと思います。
その手法として、教育に組み込むというものが既に行われていて、そして十分な効果は上げているがそれで掬いきれない部分に問題があり、別の手法を取るべきというのならそれに同意します。
そして、それに同意したからといって、この状況に対して問題提議をし、実際に動きが起きて然るべきと口にしたことをなかった事にはしません。
あーなんでいちいちここまでいわなあかんねん。こんなん不文律なのに、それをいいことに水面下から破ってくる奴がいるのがヤバすぎんだよなー。
教えるべきは不文律をこっそり破るなの方なのかー?
半年近く前に就活自体は終わってるが、少し就活について考える機会が発生したので、これから就活する人に届けばなと思い書いています。
ユーミンに対するコメントをみてシンプルにひどい思ったし、敵側にはなんでもアリかよと憤りもした。
だが白井氏の以前のツイッター発言と今回のフェイスブック発言を並べて貼ったツイートを見つけ、「ああ、もっと深刻な、むしろ低レベルな事態なんだな」と思ったので書いておく。
以前のツイッター発言とは要するに、「芸能人や熟知しない人でも政治的表明をしていいじゃないか」「人権に含まれる」「それを避難する人は軽蔑されて然るべき」という内容だ。探すと出てくると思う(以前の検察のときのハッシュタグの時期のツイートだろう)
この直近数ヶ月のツイートは、今回のユーミンに対する発言と、あまりに真っ向から矛盾する。
ユーミンは歌手だ。発言自体は政治的発言といえるかも議論ある程度な踏み込んでいないものだ。しかし、「その者、死すべし。」といって憚らない白井氏が、人権を尊重しいないこと・軽蔑されて然るべきことはもはや言を俟たない。
ただ、どうにも気持ち悪いのが、同一人格の中にこれが成立するということだ。どうにも不可なの解だ。言語表現を生業としているにも関わらず、この矛盾となぜ共存できるのか。
ここまでいくと、単にブーメランというよりも、もう少し根深く低レイヤーで、もう少し低次元なことだなと気付かされる。
もっとプリミティブに、言辞を弄して場を制圧すること(=マウンティング)にこそ向き合っているのだ。
だから彼は理念の人ではない。赤旗への寄稿していた過去もあるようでどちらかといえば左派の人なんだろうが、そんなのは些細なことだ。
第一義的には彼は詭弁家なのだ。つまりソクラテスに嘲り笑われたソフィストでしかないのだ。
コンテクストを自らに定めることすらままならず、場当たり的な優越の快楽にひたあるのみであれば、その者の語りは特段敬聴に値しない。
彼はさほど特別ではない。ソクラテス先生がウンザリするくらいにはギリシアに居たし、歴史は繰り返すので世界中に沢山のソフィストがいる。
同人誌(二次創作)書いてる人に聞きたい、(ここで聞いたとて意味は無いかもしれないが)
『あなたは何故その妄想を[ 本]にしたの?そして何の為に複数刷った?』
共感してくれる同士を探すため??そして、そっか、同士居たんだねよかったよかった。
自分には、1人もいなかった。本を出したけど、エアイベントに合わせてタグ付けて、投稿しても、1冊も売れなかった。
支援RTしてくれた相互フォロワーさんには、本当に感謝してる。(TL上に居てなお、支援すらしてくれなかった相互も居たから……)
それでも、エアイベント中、1冊も売れない……。誰も買わない……。
皆が金を出す程のものが作れなかった。]
時間と労力と、精神と健康寿命を割いてこのザマとは、まさに、自分今まで何していた?と、ヒュッと冷めて己に問いかけるくらいには、創作に対しての情熱の炎がなくなった。
イツメン、という形で会っていても、それ以前にTLを見てても、自分だけ感性が違うのか、という事実は、より孤独感を加速させた。
仲良くしてるメンツも、誰も自分の本を買ったと言ってくれる人はいなかった。自分を二次創作に巻き込んだAさんだけは買ってくれたが、厳密には社交辞令に近いものだと思っている。
もしAさんが心から買ってくれてたら大変申し訳ないが、今の自分は、そう思わざるを得ない精神状況だ。
もう少し絵が上手ければ、表現力が底辺でも、何とかなったのかもしれないが、どっちもダメだったみたいだ。
普段からも、感想なんてもらえるのは本当に稀、それ以前にいいねも、鍵をかける前ですら、RTも伸びなかった。その程度の人間。
昔反応くれてた人はお世辞だったんだろうな。
今も関係が途切れてない人でも、何も反応くれなくなった。自分だけが、一方的に感想送るだけ。
辛い。
以前Twitterで、『感想貰えないから執筆休止する』という方がいたけど、その方はさ、ファンボックスみたいな月額支援してる人いただろ?
『感想』は貰えてなかったけど、『支援』という、別の目に見える形で応援してくれてた人が確かに居たわけで、
もちろん、生業としている分、状況も立ち位置も、同人の自分とは違うのは、わかってはいるけれど、
それでも、『貴方の作品いいね』という意味で課金支援してくれてる人が確かに居るのに、
どうして??
と思った。
そんな様を見ていたら、いち底辺書き手の心が折れるのも、仕方がないだろう?
支援RTしてくれた相互フォローさんやFF外の方々には本当に感謝しております。
『自分は欲しくないかな』と思っても、他の誰かの目に止まる機会を作ってくれた。本当にありがとう…!!
その分、TL上に居ながらも支援すらしてくれなかった相互に黒い感情が……コホン
確かにその相互の共通繋がりとトラブルをしかけたが、向こうから先にフォロー外してるんだから嫌なら自分をミュブロしてるだろ?その人の目に止まらないようにって理由でRTしないのどうなのさ…?(そろそろ止めような)
こんな感情抱えるなら、初めからSNSなど、創作などやらなければ、よかった。だから、辞めようと思う。これ以上、害悪感情を振りまくる前に……。
書く人を応援するだけの立場ほうが心穏やかだったから……ならば、Twitter辞めなくてもいいのでは?とは思ったが、作者同士の馴れ合い見てると、心の中の鬼が暴れ出す。それは、自分も苦しいから……これは多分、創作してなかったら無かった感情だと思う。
昔でも、いいなぁ、とは思っていただろうけどね。立ち位置(世界)が違っていた昔なら、『神の戯れ尊い……』でよかったが、今はそうはいかない。