はてなキーワード: 綴りとは
ここ2日ポケストップ交差点に陣取り、ルアーモジュール刺し、おこう焚き、しあわせタマゴをフル稼働、
フォックスコン労働者の如く単純作業を延々と繰り返し、トレーナーレベル23を迎えた変態です。
このゲームの酸いも甘いも大体理解してきたので一休みがてら書き綴ります。
このゲーム最大の特徴は課金要素があるのに課金の意味を成していない、
課金ゲームの課金とはTIME IS MONEYが基本であり(一部アイドルガチャとか除き)、
課金ユーザーが享受するメリットはゲーム時間の短縮にあります。
ただポケモンGOはそれが難しい。廃課金ユーザーですら時間を短縮できない。
その理由は「ほしのすな」が課金アイテムとして提供されていないことにあります。
ポケモンを捕まえるかタマゴを孵化させるかで手に入ります(ほかジム戦)。
それで育成1回に1000単位で必要となる(初期は数百程度だが)。
これが課金アイテムとして提供されない以上、課金ユーザーもまた無課金ユーザーと同じ土俵で
フォックスコン労働者の如くポケモンをゲットし続けなければならないのです。
課金アイテムで多少なりにポケモン遭遇率を高めることができても、
課金ユーザーが無課金ユーザー同等の時間を使わなきゃいけないなんて課金の意味ねーじゃん。
ここ数日がそうでしたが、労働時間を購入できない以上、労働時間を確保しなければなりません。
課金ではなく労働時間が重要という意味ではIngressであり、
おそらく時間をかけブルーカラー労働を続けていれば結果は出るでしょう。
そうした意味でポケモンGOはソシャゲではない。ただのゲームだ。暇人御用達ゲームだ。
真夏のうだるような日差しの下、ぼくは海沿いにある片田舎の町の片隅に立っていた。
目の前には長年の潮風にさらされ今にも傾きそうな小さな家がある。
「こんにちわー!」
できるだけ明るいトーンを心がけ、一度で誰が来たかを理解できるように玄関に向かって声を張った。
「開いてるよー」
隙間だらけの家の中から女性の声が響き、慌ただしい足音が近づいてきた。
「いらっしゃ、、、あら?ひとりかい?」
誰が聞いても明らかな様子で後半の声のトーンを下げながら、老齢の女性は答えた。
ぼくはそれにめげないように明るい声で答える。
「えぇ。仕事で近くまで来る予定があったものですから。せっかくなので。」
何やら複雑そうな表情を一瞬見せたが、彼女の腕はすでに紙袋に伸びていた。
そう促す姿の奥に視線を送ると、高齢の男性が不機嫌そうにこちらを見ようともせずに座っていた。
恐らくテレビにでも見入っているのだろう。
「そうしたいのは山々なんですが、まだ行かなくてはならないところがありまして。それに、もともと気を使って頂かないようにと連絡もせずに来たわけですから。」
そういうとぼくは妻から預かった封筒を目の前の女性、妻の母親に手渡した。
中には毎年手渡されるはずの妻とこどもたちからの手紙と、家族の写真が数枚入っている。
「なんだか今年は進学のこととか学校の行事だとかで何かと忙しいみたいで、、、」
あえて言葉の最後を濁すと、お義母さんは意味を悟ったのか残念そうにため息を付いた。
「慌ただしくて申し訳ないですが、お義父さんもお体に気をつけて!」
無駄だとわかっていながらわざとらしくトーンを上げて反応を伺ってみるも、やはりお義父さんは相変わらず同じ方向を向いたままだった。
ぼくはそそくさと妻の実家を後にした。
妻とお義父さんとは、ぼくらが結婚をする前からすでに仲が悪かった。
小さな釣り船屋を営む父親は家庭の中でだけ威厳を示そうとして、よく母親や娘に手をあげていたらしい。
稼ぎも安定せず家族が店に出て生活を支えている中、夕食の準備を急ぐ学校の帰り道で、ツアー会社に売り込みに出ているはずの父親が見ず知らずの若い外国人女性と仲睦まじく歩いている姿を目撃してしまったそうだ。
ところが、母親は驚いた様子も見せず、ただ「しょうがない」と一言返してきただけだったそうだ。
腑に落ちないながらそれ以上聞いても仕方がないと思った妻は、その日以降父親とは聞かれたこと以外話をしなくなってしまったらしい。
ただ、それでも毎年里帰りをしていたのは、お義母さんに孫達を見せたいのと、自分から相手につけ入れられる否を見せたくなかったからとのことだった。
せめてそれが家族の楽しい思い出になるように毎年あれこれとイベントを企画してきたが、とうとうそれも叶わなくなってしまった。
それを予算のせいだからと電話一本で済ませたくなかったのは、きっと妻のプライドなのだろう。
「昔みたく、ぼくが一人で行って手紙でも届けてこようか?」
ぼくがそう妻に告げると、妻は仕方なさそうにこういった。
「本当はみんなで一緒がいいんだけどね。パパがそういうなら仕方ないわ。」
社会に出て間もないころのまだ大した稼ぎのなかったぼくは、青春18きっぷで全国を旅をしながら写真を撮るのと釣りをするのが趣味だった。
そうして訪れた先で、ぼくは妻に一目惚れをしたのだ。
ローカル線を乗り継いでいけば日をまたいで次の日の昼前には到着する。そうすれば1綴りたった11,850円の費用で往復が可能だ。
妻は父親に余計な気を使わなくて済むし電話一本で済ませるという不義理な評価を避けることもできる。
ぼくは夏の小旅行を楽しむことができるし、家族から開放された時間を楽しむこともできるというわけだ。
ただ唯一、こどもたちだけは残念がるだろう。
「せっかく行くのだからこれで美味しいものでも楽しんで、ついでにこどもたちにおみやげでも買ってきてね。」
ぼくはこの人を妻に選んで本当によかったと、心から思った。
そんな美しい物語を夢想しつつ、ぼくは「ぼくだけ留守番してるからみんなで気兼ねなく楽しんできなよ。」とつまに告げたのだった。
ただし、これで一人の時間を楽しめるかというとそれは少し考えが甘いかもしれない。
なぜなら、そもそも旅行代金の高いお盆を避けるように組まれたスケジュールだったので、本来費やされるべき有給休暇は残念ながら持ち越されてしまうからだ。
もちろんそれを不幸とも思わないし、当然全てを受け入れるつもりだ。
だから
家に帰って寝ろカス。
「借金背負ってどうしようもなくなったから負け犬として死にます」って文章にしてみろ。
それを1時間でもいいし丸一日何回も読み直せ。
「俺こんな理由で死なないといけないの?」
実際借金で死ぬとか馬鹿でしかないからそもそも死ぬなって話なんだけど。
世界を救うわけでもない、たった一人の女の子を助けるために死ぬわけでもない、
「難病に苦しむ人を救うために研究していたが自分も病気にかかり死んでしまった」
「人類の宇宙進出のために飛び立ったがロケットが爆発して死んだ」
これはいいよ。
もし成功してれば英雄になってただろうし、その志は後世に受け継がれるよ。
夢に人生賭けて叶わなかったとしても夢中で死ねたらそれはそれで満足だろう。
命賭けてまでやりたいことがない方がむしろ不幸だろ。
何が楽しくて生きてるの?
って
あの世が仮にあってそこで閻魔様や事故で死んだ人や病気で死んだ人の前で
無理でしょ・・・
そもそもそんなショックで精神的におかしくなるなら最初からリスクを取るなよ。
被害者面すんな。
つーか自己破産どうした。
終わりじゃなくて行動に対する答えである結末が死なんだよ。
そこまで死まで含めて長い長い目で見た行動なんだよ。
畳の上で死ぬこと、電車に飛び込んで死ぬこと、夢をかなえて死ぬ、夢やぶれて死ぬ。
全部着地点は死だ。
なのにわざわざクソみたいな理由で
電車の走るレールに向けて着地しにいくやつが馬鹿としか思えない。
なんで何十年生きてきて最後に死ぬ理由がレールの上にジャンプなの?
勿体ない。
本当にそう思う。
生きる理由は無い。
追伸:
ブコメついたから調子にのって「PS」とかやるの正直クソダサだから嫌だけど誤解があるのだけは勘弁ならんから言っとくけどよ。
これが理由。
これで泣いて鬱になって電車に飛び込もうと毎日思ってホームセンターで練炭キョドりながら買ってたわ。
それで自分でもおかしくなってるの分かりながらこのままじゃまずいと思って
俺が自分でどうしたらヤバい精神状態から抜け出せるのか歯を食いしばりながら当時考えましたわ。
そりゃ死にもの狂いで考えたわ。
そのときの必死さ考えたらメンヘラの自殺なんてもう一回追撃で殺してやりたいくらい
何の努力も無くクソダサで死にやがって・・・それはもういいか。
とにかく朝昼晩必ず1回は状況報告を親と教授にしたよ、無かったら電話かけまくってくれって。
自分ひとりで考えると碌なことにならないって客観的に思ってるなら考えるのをやめて他人に依存したらいい。
そのために信用できる他人とつながりを常に取り続ける仕組みを考えたらいいだけだったから。
結局留年したし就職うまくいかなかったし夢は破れたけどそんなもんもうどうだっていいわ。
留年したから自殺したみたいなクソダサで死ぬより100倍マシだから、
歯食いしばって枕や布団噛みながらウンウン苦しんで学校行って卒業しましたわ。
これ全部クスリでもなんでもなく自分の意志でやったことだからな。
こんなクソダサな理由で死ねるかよっていうガソリンを俺は用意できたから自殺しなかった。
これは理由はなんでもいいが自分で否定しきれないロジックをくみ上げておけば防止できるってことだ。
甘えてロジックを組み上げもせずに無気力に自殺して被害者ぶるんじゃねえよ。
頭の臭いした枕の味知ってんのかお前は。
知らずに死んでも、被害者ぶるのか。
何様だ。
ここまで書くとドヤ顔(正義感)が「それは気力の無い人には~」とか言い出す馬鹿がいるけど、
俺も気力なかったっつーの。
何もしたくなかったっつーの。
でもそれでも行動起こしたのはこのままじゃヤバいって思わないとヤバいって頭で思ったからだからね?
このままじゃヤバいとすら思えないなら本当に生きる力ないから死んだ方がいいよ。
「ヤバいと思わないとヤバい」なんて脳信号は「女の子のパンチーおーくれ」レベルの信号強度しかねえよ。
その種火を必死に大きくしていくのも最初からガソリンぶちまけてるわけじゃねえよクソが。
女の子のパンチーレベルを何度も何度も継ぎ足してやって復帰したんだわボケが。
人を超人扱いすんなっていうのと自分を過小評価して特別扱いして甘やかすなボケが。
それが甘えだっつってんだよ。
俺とお前の決定的な違いは「思おうとしなかった(甘えたかった→自殺したかった)」か「思おうとした(苦痛を選択した→自殺したくなかった)」かの違いでしかない。
その選択さえ無意識に介入しようとしなかったお前には神の啓示で逃れられない宿命であり運命で、
自分は何一つ悪くなく圧倒的被害者であり弱者であると信じているんだろうな。
でもそれただの勘違いだしそれに気づくチャンスも腐るほどあったから。
こうやって指摘されても顔を背けバリアを貼ってるんだから全部故意の自殺だから。
あ、人工呼吸器付けてるなら謝る。
死が逃げるという発想も、自分で死が逃避にならないというロジックを組み上げられないせいだろ。
テクニックがないなら宗教でも何でもいいから何かに頼って依存しろよ俺みたいに。
結局はお前がお前の意志で変えようとしない限り何一つ変わらないんだよ。
この前提を否定しきれる論理も無いのになあなあで自殺に向かおうとする心の弱さとちゃんと向き合え。
理解しようとする気が無いのに数学も物理も覚えられるわけねえだろ。
言葉も同じだ。
自分自身と向き合い切れてない。
ちゃんと考えろ。
そのちゃんと考えないことがクソダサな死因に繋がってるんだよ。
とか
綴りたいか。
綴りたいのか
ならもう仕方ないな。
他人はお前にどうすることもできない。
お前は無敵だな。
そういう無意識下の行動に影響を与えるほど意識によって強く刻み込む作業ができていれば
どれだけショック受けても自殺しないやつはしないんだし
自殺するやつとの決定的違いはそこだ。
無意識を意識に対しての無意識として自覚・知覚して対立しようとしないから操作改変もできない。
無意識の行動ひとつひとつにも理由がありそれを紐解いて分析することで無意識改変が行える。
無意識の行動っていくらウンコしたくても路上で下脱いで野糞するのかよ?
無意識最強じゃねえよバーカ。
どんだけ甘えたいんだ。
そんな低レベル意識で生きる意味が、とか借金で夢も希望も、とか
どの口で言ってるんだ。
意識低いなら無意識の死にたくないって本能の声にだけ耳を傾けてろよ。
中途半端すぎるわ。
自分が死しか選択しようとしないから死ぬのに他人がどうやって助ければいいの?
屁理屈こねるのは上手いくせに自分が死なないためのロジカルシンキングできないってどんだけ雑魚ナメクジなんだよ。
それだけ頭回ることに自信があるなら自分を騙すか自分が論破できないロジックを組めよ。
それをやらずにセンチメンタルな気分に浸りたいだけだろ。
そんなやつ有史以前から腐るほどいましたから・・・今さら誰も感動せんから。
つまるところ泥臭い渦に飛び込むのが嫌なんだろ?
みんなそれ乗り越えて人格を作り上げて大人になってきたのにそれするのが嫌な子どもなんだろ?
だから同情されないんだよ。
まだ理解する気がないのか。
これも、もういいからそういうの。
俺の言ってるのは全部これだけだから。
お前の抱えてる悩みとか人類発祥してメソポタミア文明できた当たりから
というかその実益のないプライドの高さが自殺へのトリガーになってるってこと自覚したら済む話なんだけどな。
そこらへんに転がってるクソダサな理由で死のうと思ってることを
あの手この手で言い方変えてクソダサな理由で自殺すんなって言っても
案の定「衝動で~」とか「ケースバイケースで俺だけ特別」とか言ってバリア貼ってくるやつ多いな。
まさにその防衛行為が自分の無意識に向き合いメスを入れて手術することを拒み続ける末期患者なんだけどな。
まず自分が病気ってことを自覚してそれと向き合ってどうやって対策を取るのか考えるのはやって当然だし、
そこまで余力がない・・・とか言われてもなら余力のできる環境に緊急回避するだけの分別くらい付けろよ。
大人なんだから誰にも頼らなくても頼まれなくても自分の意志でやれよ。
心の病で運命づけられたものと思って兆候は絶対あるのに何も講じてこない自分の責任だろ。
いやわかるけどな。
いつまでも甘えていたいと思ってるんだろ?俺がそうだったからな。
お前は違う?違うわけねーだろ行動が同じだから分かるわ。
気力使いまくる自分の中に神を作る工程の辛さにやる前から怯えてるんだろ。
メンヘラっぽくやんでれ最悪死ねばいいからとそれをせずに甘えてるんだろ、
完全に当時の俺だわ。
でも俺の理由は俺だけの特別な理由でオンリーワンだと勘違いしてるんだろ、
完全に当時の俺だわ。
もう完全に俺のパターン入ったわ。
無意識にメスを入れることを怖がってるんだろ、
病院いかない爺ちゃんといっしょ!何も変わらないいっしょ!いっしょです!ざんね~ん!
行動がすべてを物語ってる。
口よりも雄弁に。
どれだけ俺は違うって喚いても行動がいっしょ。
考えてることもいっしょ。
何もかも同じ。
バリア貼るだけのプライドはあるのに意識低くてメンテは怠るとか最初から分裂症だとしか思えん。
誤解を恐れず箇条書きにしてやるよ。
1.自分に生きる意味があると思っている目標志向があるが実力が無い、もしくは過去に失敗経験がない
2.達成不可能となり精神的不調に陥り、対処法を知らない ※A
3.目標達成不可能という現実と向き合いたくないためにあえて精神的不調の檻から出ようとしない
4.長期化すると自分がこうなったことには何か意味があり特別だと思い込み努力放棄する理由を構築し始める ※B
5.この段階で他人が助言しても「自分は特別」バリアによって聞き入れられなくなる ※C
6.現実的にセンチな気分に浸るのも限界になり、現実と向き合わなければならない段階に来る ※D
7.死の恐怖から現実に戻るか、戻りたくない場合自殺する ※E
※A 生きる意味が失われた、と思い始めるから不調を来す。メンタルダメージのある失敗経験が無いため大人になっても対処法が分からない。
※C やっと見つけた次の生きる理由を否定されたことによる過剰防衛反応。
※D 貯金が無くなる、仕事を失うなどの命には関わらないが生活と人生が変わり決断が迫られるターニングポイント。
※E このとき真面目な無能であればあるほど悲劇のヒロインになり切れているので自殺する。
1~7が短期長期どっちでも起こっていることで何も変わりない。
何も特別性はない。
もちろん様々な理由があるけれど、手軽に説明できる例として、私は「水曜日」を挙げている。英語で書いてみようか。
WEDNESDAY
さあ、読んでみよう。……うぇどねすでい?
WE「D」N「E」SDAY
括弧の部分は“発音しない”。
なぜ発音しないアルファベットを書くのか、発音する「E」と発音しない「E」の違いとは。法則性があるのか。大半の人が経験したであろう“躓き”だ。ほとんどの人は、この「水曜日」で英語を学ぶことに対して精神的障壁が出来る。
何かを学ぶ際、例えば算数だと方式だとか、いわゆる“パターン”を見出すよな。「1+1=2」を学んだ際、それとは別に「2+2=4」とかを学ぶ必要はない。だって、足し算を覚えればできるんだから。
言語も同じで、読み方や書き方に法則性を見出せば、その単語そのものを知らなくても大抵は読めたりする。その単語の意味を学ぶだけでいい。つまり、アルファベットの書き方と読み方を覚えれば、それを組み合わせた単語も読めるはずだ。と思った矢先に「水曜日」というよく使いそうな単語で「発音しないアルファベットがある」、更に「法則性もない」という“例外”をぶち込んでくる。
この“例外”の厄介なところは、「発音しないアルファベットが存在する」ということだけしか学べないところだ。法則性がなく、本当の意味で“例外”なのだ。なのでその都度、「発音しないアルファベットが存在する単語」の読み書き(そしてその単語のもつ意味も含めて)覚えないといけない。平面な道に一部だけ凹凸があるような、これら“例外”は学ぶ側に負担を与える。
この後も、「BERRY」などで「なぜ『R』が2ついるんだ?」となる。そして「BURY」という綴りが違うのに発音が全く同じ単語が登場し、「なぜ同じ発音なんだ」、「なぜ『BURY』の方は『R』が一個だけなんだ」、「こんなことになるなら、『無発音』という概念いらないだろ」と激昂するのは誰もが通る道だろう。
次点では、「MAN」の複数形が「MEN」、「複数形だけど単数形と同じ綴り」という単語などの登場が共感できるところだろうか。
もう分かっただろう。英語が学ばれにくい理由は単純明快。言語として洗練されていないからだ。つまり覚えにくい。
なにせ英語は様々な国の言語がもとになっており、いわばキメラ生命体。それで洗練されていたとしたら奇跡というほかない。そして、英語は特にそれが顕著なだけで、ほとんどの国の言語はそこまで洗練されていない。
もちろん、日本語だってお世辞にも洗練されているとはいえない。けれど、私たち日本に住んでいる人はそれを日常で使っているから、多少の違和は受け入れられる。更にいえば世界共通語ではないから、別に洗練されていなくてもいい。別の国の人に無理して学んで貰う必要がないのだから。
ちなみに、上記の例は本国の人がしていた話を参考にした。つまり、英語に慣れ親しんでいる人ですら、不満の多い言語ということだ。本国の人ですら不満の出る言語を、他国の人がうまく学べないからといって、個人の問題で片付けてしまうのは間違っていると私は考える。
英語を世界共通語にしなければいいのか、という話ではない。英語は洗練されていない。だから覚えにくい。という前提を共通認識にしようという話だ。それを踏まえたとき、今の「英語の勉強のさせ方」ももう少し最適化されていくのではないだろうか、というのが私の淡い期待だ。
無料で選べたはず。終盤になると負けはしないが勝てない敵が出てくる。
ブレイブリーデフォルトの改訂版やセカンドでは
設定で敵が出てこないようにできる。
セカンドは三段階で真ん中のモードで多分三分の一くらいやったが、
かなり上になるくらい経験値を多めに得られる。
ファイアーエムブレムでもフェニックスモードとかあるし。
俺はコンピューターRPGでは戦闘も重要だと思っていて、
ウィザードリィとかマッピングと戦闘による経験値稼ぎとアイテム集めが
主な楽しみだったことから、
コンピューターRPGではストーリーめいたもののほうが後からついてきたものだと思う。
コンピューターRPGでの経験値稼ぎってのは、
若い頃に計算ドリルとか漢字や外国語の綴りの練習とかを繰り返しやると
いつの間にか身についているって喜びを、
シャーロックホームズの小説の一編に『3人ガリデブ』というものがある。
ガリデブってのは珍しい名字で、そのことをめぐって事件が起こる。
それは実際に読んで楽しんでもらうとして、私はずっと「ガリデブ」が和訳されたときの意訳だと思っていた。
なにか外国語の難しい名字で痩せと肥満とを同時に現すような、ラテン語由来か何かの綴りがあって、これでは日本人に通じないだろうと思い、「ガリデブ」なる語を造った。
小学生のころはそう思っていた。コナンで光彦がこれはラテン語に違いない! とかのたまうシーンがあって、小学生ながらラテン語など綴りの古風なものがあるという認識はあった。
『生き延びるための作文教室(14歳の世渡り術)』 石原千秋:著 2015年
・読書感想文などという何の役にも立たない糞のような課題を課せられる中学生のために、
"学校が生徒に何を求めているか"を解説し、それを意識した上で、せめてその枠の中で個性的に"見える"作文を書く手法を教えよう、というロックな本。
たとえば、先生に「もっと客観的に自分を見なさい」などと説諭されたことはないだろうか。端的に言って、これは罠である。この時先生が期待している、あるいは強いている答えは簡単だ。「私はまちがっていました」だけだ。
『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田 ズーニー:著 2001年
・「その文章、何のために書くか?」
文章を書くときには「その文章が何を目的とするか」ということを見失ってはいけない。と解説する本。
会話と同様に、文章にも読み手と書き手のすれ違いがある。就職活動の自己推薦状の例で考えてみよう。
学生Dは、会社訪問を申し込み、「形式は自由だから、自己推薦状を書いて持ってきてください」と言われた。
Dは考えた。「学生生活を振り返って、自分が唯一やってきたのは音楽だ。自分には、音楽しかとりえがない」。そこで、「音楽への情熱では誰にも負けません」という趣旨の自己アピールを書いた。
このままの文章では、採用担当者は首をひねるだろう。その会社は、音楽にまったく興味がない。音楽への情熱が、入社後、何の役に立つのだろうと。
まったくかみ合っていない。採用担当は、仕事への適正を見たいのだ。その問題関心から外れたところで、どんなに自分をアピールしても意味がない。どうすればいいのだろうか。
文章書くなら読んでおいて損はない鉄板本だが、内容濃すぎて読み込むのに時間がかかる。
文章の綴り方がいくら上手くなったとしても、それに見合うほどに就職試験の評価が上がるわけではないので、
これまでの日本語教育の根幹を流れる方針は、理解力や記憶力ばかり重視し、独創性・想像力・創造力を最も必要とする作文を軽視または無視するというやりかたです。
~
だから今の小学校では、「綴り方」の時間さえも少なくて、そのかわり「読書感想文」などというものがあるんですね。
あれは作文というよりも理解力のテストみたいなもので、あれで作文をやったつもりでいたら噴飯ものというべきでしょう。おかげで読書も嫌いになる。
文章関係の本を読んでいると、「読書感想文は何の役にも立たない。あんなものを子供に書かせるな!」と筆者が憤る内容の記述がよくあるので、学生時代に読書感想文が書けなかったからといって気にする必要はないと思いますよ。
彼とは付き合っていないけれど、セックスしなきゃ良かったなんて1mmも思っていない
あの狭い布団の上で24時間、確かに私たちはたった二人きりだった
外が暗くなろうが明るくなろうが遮光カーテンは何物も通さなかった
彼の伸びかけの髭も綺麗な頬も高い眉骨も香水とボディソープのにおいも、全部全部私の物だと思った
だっていくらそれに触れてもキスしても誰にも咎められなかったんだもん
このまま彼を齧って食べてしまって、その後私も死んじゃおうかなんて考えた
ただ、彼が無条件に優しい言葉をかけ、ふやけた顔で私を見つめ、
彼の隣には私がいなきゃダメなんだと思わされていたのは、隣に寝ていたあの24時間だけだった
その後ご飯を食べに行くと、彼はいつものように、私には一瞬たりとも触れていませんという涼しい顔で、私との距離を保っていた
一回寝ただけで恋人面するのは女の最大の悪癖だとよく聞くので、セックスし終わった後や隣を歩く時、なるべく他人の顔をして過ごした
相手によってはセックスってこんなに気持ち良い物なんだと知れた
それに彼が意外とノーマルで優しいセックスするし早漏気味だってことも分かった
あと、行為中の彼の顔がとんでもなく崩れてて驚いた
なんてポエミーな事を綴りましたが、3年ぶりのセックスでも全然いたくなくて、何より身体の相性バッチリで、今すぐにでももう3回くらいしたいなってことが言いたかっただけでした。
お前はきちっと落ちて来い!私のとこまで落ちて来い!
お前はきちっと落ちて来い!お城の周りをぐるぐる回ってこーい!
大阪芸術大学教授・純丘曜彰氏の発言への疑問を述べた記事に、氏から応答があった。
元の記事
「五輪エンブレム問題についての純丘曜彰氏(大阪芸術大学教授)の発言」
http://anond.hatelabo.jp/20150903062450
純丘氏の応答
http://www.insightnow.jp/article/8644?page=6
もう佐野研二郎氏に関わるような話題は終わらせたほうがよいと考えているので、
議論がふたたび活発になるようなことは望まない。
筆者から疑問を投げかけ、氏がそれに答えてくれたので
パンチ一発ずつ(?)ということでこれ以上の応酬はやめようと思う。
なぜか筆者が「チャレンジャー」ということになっているが……
ただ、わざわざ返答をくれた氏に対してこちらからの感想とちょっとした考えを述べておきたい。
加えて、幻となってしまった佐野氏のエンブレムへの所感を残して旧エンブレムについては最後とし、
次のエンブレムについての思いを記そうと思う。
「ニーチェの綴りが2ちゃんねるでどうこう、ということだが、なんのことやら」(純丘氏)
炎上という非常事態に対してまさにこの「なんのことやら」という意識で臨み、
周辺に挙がっている言葉(火種)をそのまま拾って記事を作るということが、
■色の件
一般の人が読むことも考えて説明を加えたのだろう。
残念だがこちらの疑問に答えたものではなく、新たな論点もない。
この項を借りて…
氏の表象論などを用いたデザインに関する言説は(半分以上フィクションとしてだが)みな
■純丘氏の社会的影響力
非常にあったと考えている。
それは、(失礼だが)純丘氏の所論が正しく、力強かったからではない。
識者の言質さえ取れればいい、このフリップのこのスペースが埋まればいい、
そんなノリでコメントを拾っている。
8月10日、純丘氏のこの一文を読んでびっくりしたのをよく覚えている。
「このデザイナーがpinterest、その他、ネットのかなり奥深いところから
巧妙に素材を拾ってきていることが完全に明らかになってしまった」
Pinterest ついては、この時点では「完全に明らかになった」といえるような
証拠は出ていなかった(強く紐づけられるものがせいぜいニーチェの件で、
結局、最後まで確たる証拠といえるようなものは出てこなかったと考えている)。
しかし、この記事は一気に広まり、その後のムードを作っていったように思う。
純丘氏には、「佐野エンブレムを下ろしたい」というご自身の希望を
初見でロゴだけを見たときはあまりいい印象をもっていなかった。
が、明滅するアニメーションを見て選ばれた理由がわかった気がした。
その後は、騒動の最中ではあったものの見慣れていき、黒がよい主張と映ってきた。
CM でスポンサーロゴの両脇を固めたオリンピックとパラリンピックのエンブレムにはリッチで崇高な印象をもった。
黒のことがよく言われるが、プラス方向に見ればゴージャス、フォーマルな色である。
もちろん、この強い色の使用はチャレンジだった。
桜のリースのようなデザインもすばらしいが、今回の選考委員の半数はチャレンジを選んだ。
オリンピックでこれまでに使われたことのない「黒」も、
選ばれた主な理由だと考えられる「組み替えアイデア」も、チャレンジであったと思う。
選ばれることがすなわちよい結末になるとも限らない、そんな不安がある。
何か思い当たるふしなどなくてもだ。
コンペではよく「勝った」「負けた」という言葉が使われる。
新国立競技場のコンペについて伊東豊雄氏もはっきり「負けました」という言葉を使っていた。
「芸術も、学問も、勝った、負けた、の話じゃない。なにが本当か、
どうすればより美しくなるか。みんなで知恵を絞るにこしたことはない」
この一連の騒動の中で気になったのが、大阪芸術大学教授の純丘曜彰氏である。
反「佐野エンブレム」の急先鋒としてメディアで派手に〝活躍〟した人物だ。
エンブレム問題の経過をつぶさに見てきた者、デザイン周辺の知識をもっている者で
純丘氏の発言に疑問を持った人も少なくないのではないだろうか。
筆者の感じた純丘氏への疑問とは、
そして「独りよがりなデザイン論」「デザインに関する知識不足」である。
http://www.insightnow.jp/article/8591
瞬く間にメディアのあちこちに取り上げられ、反「佐野エンブレム」への動きを活気づけた記事である。
デザインに関して識者といえる人物がここまであからさまにエンブレム下ろしを唱えたのは初めてであり、
純丘氏が五輪エンブレム問題の御用コメンテーターになるきっかけともなっている。
以下は、佐野氏のデザインしたトートバッグに関する部分である。
ニーチェの独文の警句を英文で引用して、名前の綴りがコピー元のままに間違っていたり
(page:2 より)
Pinterest に一枚の画像として存在していたニーチェの一節、
その最後の名前部分に綴り間違いがあり、佐野氏が孫引きしたために同じ箇所で間違えている、
すなわち佐野氏が Pinterest を利用していた証拠である、という論旨だ。
Pinterest に綴り間違いの画像などなく、佐野氏のほうだけがたまたま書き間違えていたのだ。
ここで問題なのは「佐野氏が Pinterest を利用していたかどうか」ではない。
この純丘氏の記事が出たころにはもう2ちゃんねるの当該スレは自らその事実誤認に気づいており、
ニーチェの一件は「佐野氏が Pinterest を利用した証拠」としては除外の方向へ向かっていた。
純丘氏は、佐野エンブレム下ろしに使えるものはなんの検証もなく使っていたのである。
最低でもその誤字があるとされる Pinterest の元画像をその目で確認してから記事を書くべきだろう。
「大阪芸術大学教授」の肩書きで公にされてしまえば、何も知らずに読んだ人は事実と思い込んでしまう。
論文というのは人文科学であろうと事実を積み重ねなければならないものだが
こんなお粗末な方法で文章を書いている人物が学生に論文の指導をしているのはいかがなものだろう。
あんな黒いゴキブリ印は、生理的に無理。とても嫌な感じがする。汚らしい。穢らわしい。なにより不潔だ。あまりに不吉で、自分まで不幸に呪われそうな黒いゴキブリ。金と銀の足が夜中にカサコソと動き出して、きみの手の上に登り、パジャマの中にまで入り込んで来る。きみに、多種多様の救いがたい病原菌をなすりつけ、触覚をピロピロさせる。おまけに、突然に羽を広げて飛び上がり、きみの顔をめがけて襲い掛かる。考えただけでも寒気がする。あまりに気味が悪い。
およびそこに貼られた画像は、読む者をいやな気分にさせる。
まるでいやな気分にさせること自体が目的のひとつにもなってしまっているようだ。
純丘氏の「佐野エンブレムが嫌いだ」「黒が嫌いだ」という気持ちはよく伝わってくる。
だがそれは個人的な感情であり、公にするにしてもせいぜい個人のブログにとどめるべきだ。
大学教授、美術博士という肩書き付きでオピニオン系サイトに開陳するようなものとは思えない。
識者なら事実を元に冷静に分析し、問題を明らかにする役割を担うべきだろう。
騒動の中、感情のほとばしる文章で純丘氏は何を訴えようとしたのか。
これ以降、掲示板でもエンブレムをゴキブリ呼ばわりする人が一気に増えていった。
http://www.insightnow.jp/article/8644
ひたすら駄作である、見るに堪えない、と力説している。
疑惑があるとはいえ、多くの人が関わって世に送り出されたものを
「超弩級の駄作」「ゴキブレム」「梅干」と品なく形容する姿勢にもあきれてしまうが、
デザイン制作とは無関係な経歴(専門は哲学)と関係あるように思う。
むろんそれ自体は問題ではないが、次章の「デザインに関する知識不足」も含め、
己の手にあまるデザインに関する解説を、あたかも〝識者〟として発表するのは
この一文の含まれる段落を「デザイン論」として理解できた人がいたら
「9分割を元にフレキシブルな組み替えが可能」というアイデアを否定するのが目的のようだが
9分割の真ん中に必ず弧の中心が来なければならないデザイン上の理由とは?
さまざまな大きさ・形でさまざまな場所に弧が立ち現れていた、
黒は、ほとんどすべての文化で、死や悪、権力、固着、腐敗、を意味する。同様に、赤は、血のシンボルであり、命や致命傷だ。それに金銀を加えるなど、まさに軍事配色のナチス的悪趣味。
解釈はさまざま可能なのでナチスフラッグとみる者がいてもいい。
エンブレムを仮に芸術のひとつとするなら、芸術はさまざまな解釈に向けて開かれたものだ。
しかし、これは誰もが知っているようにオリンピックのために施された「デザイン」である。
アートのように何ものからも束縛されない自由な意志で構成、配色したものではない。
見る者も「日本」で開かれる「五輪」の「エンブレム」であるという情報とともに接する、
そのような場、コンテクストにおいて機能するようにあつらえたものだ。
佐野エンブレムがスポーツを感じさせないとか、祝祭感が足りないとかいった批評は可能だ。
が、「ナチスフラッグ」である、「ゴキブリ」「致命傷」であるなどというのは
エンブレムの出自、コンテクストを無視した悪意のあるミスリードでしかない。
ゴキブリの画像同様、ナチスの絵まで用意して独りよがりな解釈を
強くイメージとして植え付けていこうとする純丘氏の手法には疑問を禁じえない。
どんな媒体でも、ほぼ同じような発色になるように考えておかないといけないのに、全体が印刷物無視のRGBベースで出来ていて一般フルカラー印刷のYMCKの四色のインクでは出せない「特色」の金銀が入っていたり
この部分を読んで頭の中が「?」でいっぱいにならない人がいるだろうか。
この2行だけでも純丘氏が自分の手にあまること、自分のよく知らないことを
結論ありき、佐野下ろしを目的に書いていることが明らかである。
純丘氏のこの不案内な言説はさまざまな場所で〝プロ〟のそれとして引用されてしまっている。
発表されたエンブレムは RGB ベースでできていて、CMYK ベースではないらしい、
佐野研二郎氏は、デザイナーとしてはひどく低いスキルのまま今のボジションに祭り上げられ、
あたわない五輪エンブレム設計者の大役もしくは影武者の役を任されたようだ……
RGB ベースというのはモニターなど映像における混合方式であり
CMYK ベースというのは紙媒体など印刷で用いられる混合方式である。
RGB と CMYK は、媒体に応じてふさわしいデータを用いる、ただそれだけである。
ポスターやプログラムに印刷するなら CMYK のデータを用意する。
純丘氏の中で佐野氏は、この知識としても初歩の初歩、
デザイン業務上、日々出くわしてはそれに従って作業している単純なことをまるで知らないという設定らしい。
特色というのは印刷インクの一種で、
通常のプロセスカラー(CMYK インク)で表現できない色をカバーするためのものである。
エンブレムに特色の指定がしてあったというのはどこからの情報かわからないが
(筆者は見たことがないので、まずはそのソースが問題である)、
それだけをとれば、企業ロゴなどにおいては珍しいことではない。
RGB/CMYK と同様、特色を用いるかどうかは運用の現場に応じて「自然に」決まるのであって
雑誌のカラーページなら金は4色分解(CMYK)で表現されるだけである。
金や銀を特色にすることも、黒や赤を特色にすることも可能だ。
特色で刷るならばここはこの色(PANTONE 、DICなどの番号)、
そしてディスプレイ用にはこの RGB 値というように、列記されているのがふつうだ。
・特色番号(印刷用)
純丘氏の言葉を再掲する。
以下のような色指定を同一の紙の上に記すデザイナーを想像できるだろうか。
すなわち、これが「ワンセット」になっていて、それ以外の指定(CMYK 値)のない、
純丘氏の作為の産物か、氏がまたネットかどこかで拾ってきてしまったデマではないのか。
このような「物理的に」とすら言っていいほど存在しえない〝キャラ設定〟をすることも
デマを拾ってきて書き写すとこともありえないのだが。
大阪芸術大学教授・純丘曜彰氏の言葉は、目くらましのように効果を発揮してきた。
「佐野五輪エンブレムは超弩級の駄作!」での、ルネッサンスからフラットデザインへ至るくだりなど
エンブレムとはデザイン論において爪の先ほども関係ないが(ゴール地点のフラットデザイン自体なんの関係もない)、
このペダンティックな解説や周辺タームは、氏の肩書きと一緒になって人々の目にもっともらしく映り、
芸術・デザインの「専門家」(日刊ゲンダイ)と目される社会的影響力のある人物が、
この混乱の中で、明らかに事実に反すること、半可通なことを、
己の求める結論「佐野エンブレム下ろし」に向かって品のない言葉と作為的イメージを用いて
流布してきたことには、疑問を通り越してあきれてしまった。
かつて、↑かかるスレッド喪女板にありしなれれど、いつの間にかdat落ちしまひしゆえ、つれづれなるままに増田に綴りたる。
携帯電話、キーボード、リモコンのひまの汚れを、つまようじにてほじくるも楽しけれど、なほ一層楽しきは人の体の汚れなり。
耳の裏側を、湿らせしコットンにて拭ふが毎日のならひなれど、こはにおいが薄ければ楽しみとしてはいまひとつなり。
対して、ピアスの穴をフロスにてほじくらば、白き滓のごときものが出でてくるが、こはげに芳しきものなり。
これよりもいとどかぐわしきが、へその穴なり。
綿棒に、オリブ油、スヰートアルモンド油など、植物油をしみこませしものにて、穴をぐりぐりすと、綿棒にいたくこはき匂いがつく。
こを鼻に近づけて嗅ぐと、めまいがするほどであり。
月経終はりしあとなど、不浄のたまりし頃が、なお良きものなり。
ビラビラの間などに溜まりし、白っぽきモロモロ状の汚れを、綿棒にてすくひとり、にほひを楽しむは、この上なき愉しみなり。
顔をそむけぬるくらい強烈なるにおいなるが、またすなはち嗅ぎぬる、とりこになるめるにほひなり。
もちろん、すかしっ屁をかませしときに、すかさずそれを吸ひ込むなどは、むべなるならひなり。
言わずもがな、かかる愉しみは、己のみの秘密にしておくものなり。
先日、実に三十七年振りとなるアメリカクラシック三冠馬が誕生した。
アメリカクラシック三冠とは、ケンタッキーダービー・プリークネスステークス・ベルモントステークスという三つのレースを全て勝った馬に与えられる称号である。これらの「クラシックレース」は三歳限定なので一生に一回しか挑戦できない。クラシック三冠とはいわば夏の甲子園を三連覇するようなものである。
しかも、この三つのレースはわずか一ヶ月ほどのあいだに開催されるので、かなり苛酷な挑戦となる(たとえば日本のクラシック三冠は四月・五月・十月と間隔を空けて行われる)。前回の三冠馬アファームドから今回の三冠馬までに二十頭の二冠馬が存在したにもかかわらず、ことごとく三冠獲得に失敗してきたことは、その苛酷さを証明していると言えるだろう。
三十七年ぶりにアメリカのクラシック三冠を達成した名馬、その名を「American Pharoah」という。おや、と思った人もいるかもしれない。「Pharoah」とはエジプトの王のことだが、その正しい綴りは「Pharaoh」である。これは馬名を登録するときに、馬主が誤って入力したものがそのまま通ってしまったためらしい。
さて、その馬名のことである。問題となっているのは「American Pharoah」の日本語表記だ。ニュースなどを検索してみれば「アメリカンファラオ」と「アメリカンフェイロー」でほとんど二分されていることが分かるだろう。しかもファラオ派とフェイロー派で「フェイローは間違いだ」「いや正しい発音だ」などと論争になっているのだ。いったいどちらが正しいのだろうか。
ニコニコ大百科にはこう書かれている。
アメリカンファラオとは (アメリカンファラオとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
実はこれ、馬名の登録ミスが原因である。(中略)ザヤッド氏が馬名を電子登録する際に「American Pharoah」と間違って登録し、それがそのまま通過してしまった。「Pharoah」を読んだら「フェイロー」。それで「アメリカンファラオ」と「アメリカンフェイロー」という二通りの読み方が現れてしまったのである。
が、これは完全なる誤りである。
綴り間違いとは関係なく、正しい綴りである「Pharaoh」でも、英語では「フェイロー」と読まれる。「ファラオ」はギリシャ語読み、「フェイロー」は英語読みという違いなのである。
ただし、この「Pharaoh」の発音はかなり特殊であるらしく、日本と同じく「ファラオ」と読むこともあれば、「フェロー」「ファロー」といった読み方も多いようだ。これがまた「フェローが正しくフェイローとは読まない」といった争いの火種になっているのだが…。
ともかく、
1. 日本で広く知られているのはギリシャ語読みの「ファラオ」
2. 英語では「フェロー/ファロー/フェイロー」などと読まれる
という三点だけ押さえてもらえればいい。
痴漢や女性専用車両の問題を語る時、二言目には「冤罪がー」と言う輩がいる。私はこの様な輩をただのミソジニーのアホなんだと思っていたが、もしかするとここにはある種の内実が有るのかもしれないと思ったのでそのことについて綴りたい。断っておくとこれは私の思いつきであり具体性は無い、形而上の上滑りした話であることは初めにお断りしておきたい。フェミニスト及び親フェミニズムな方に問いたい問がある、以下の様なものだ。
『痴漢冤罪による男性への暴力は女性の権利として正当化されるべきであろうか?』
前提として私は男性であり異性愛者である。痴漢は(主として)男性から女性に齎される暴力で、これは擁護の余地のない加害行為であると考えている。また痴漢冤罪の問題は極めて刑事司法上の問題であり、そこで行われている「人質司法」や「自白強要」などは痴漢という犯罪に於いてのみ特異な事柄では無いので、ことさら痴漢という犯罪についてだけ冤罪の問題を声高に叫ぶのはおかしいと思っている。前提終わり。
この問題について常々疑問だったのは、「なぜ女性は痴漢問題に於いて冤罪の事を持ち出す人間を批判しないのだろう?」ということだった。これは私の観測範囲であまり見受けられなかっただけで実際にはそのような議論をものしている方もおられるのだろうとは思うが、兎に角私にはそう思えた。先にも述べた通り痴漢と冤罪は全く別の次元の問題であり、痴漢被害を受けた、受けたと思い込んでいる、受ける可能性に晒される事を甘んじて受け入れねばならぬ満員電車に乗る女性が負うべき責任では無い。であるがしかし、昨今痴漢冤罪は結構メディアを賑わせているトピックであるし、殊に痴漢という罪に於いては証拠など無くとも「弱者」である女性の告発が事実上強いパワーを持っているように見える構造があるのが現実である。この様な現実に対しては女性側から「確かに冤罪の問題は解るがそれは刑事司法の問題で、痴漢の問題とは別に議論すべし」と宣言する事が必要であるように思うのだが、その手の言説は痴漢問題のたびに「冤罪!冤罪!」と喚く輩と比すれば余りにも少ない。
痴漢と冤罪の問題を切り分けないといつまでも男女の溝は埋まらぬよな、と思う私はこの時ふと思いついた。これは恥ずかしい話本当にただの直感なのだけれど、もしかするとある種の女性の側こそが痴漢と痴漢冤罪の接近を温存したいと言う理路もありうるのではなかろうか?言うまでもなく痴漢という犯罪の前にあって女性は被害者である。被害者である女性が被害事実を以って加害者を告発するのは当然の権利である。痴漢という羞恥させる類の犯罪では泣き寝入りも多いであろうから成る可く告発し易い土壌作りも必要である。しかしそれも行き過ぎれば毒となる、痴漢冤罪に於いては刑事司法制度上被害女性を手厚く遇しすぎている面が拭い難くある。そして人は被害者であるが故に加害者になるということをとても容易に行う。戦前のドイツが、日本が、部落解放同盟が、中国韓国の一部の民族的イデオロジストが……etcetc、様々な場所や時代に於ける「弱者」がそうであるように思う。
痴漢の疑いをかけられたものが雪冤を果たすのがどの程度難解なのか、本当のところは解らない。特に昨今はメディアで痴漢冤罪が取り沙汰されることも増えてきているので、完全に否認している人間を捕まえてそこまで強引に長期拘留などということも出来なくなりつつあるのが現実ではなかろうかとも思う。しかし世間一般に流布されているイメージは違う。
「否認などしようものなら長期間の拘留により必ず社会的地位を失陥する」
「疑いをかけられた無実の人間が選ぶ最も賢い行動はその場からの逃走である」
これらは必ずしも真実では無いかもしれない。しかし現代の神話として男女問わず相当な信仰を得ているストーリーではある。この現代の神話に於いて男性は男性であるというだけで例え無辜であっても常に社会的地位を一瞬に失うリスクに晒されており、彼が男性であるが故に弁明も許されず、出来ることはその場からの遁走だけであるというのだ。これは凄まじい「パワー」であると言わざるをえない。(何度も言うがこれが事実かどうかはこの場合関係がない)「被害者」で「弱者」である女性がこの「パワー」を欲していると疑うのは穿ち過ぎだろうか?この「パワー」を以ってして「加害者」である男性に隠微な復讐を企図していると考えるのは私の被害妄想だろうか?
私は今まで痴漢問題に於ける女性の立場を「女性は被害者であり被害を訴えているだけである」と、とても単純に考えていたのだが。これほど痴漢冤罪ということが取りざたされる様になって来て、女性がその裏にある「パワー」について全くイノセントでいられるのだろうかと考えると、流石にそのような見方は無理がありすぎるような気がしてきた。むしろ女性を馬鹿にしているとすら。勿論本当はそのような「パワー」などありはしない、ただたまたま警察の取り締まり方針の転換と中世さながらな刑事司法制度が組み合わさっただけである。だが、「そのようなパワーがあると思いたい」という点に於いてある種の男性とある種の女性の間で利害が一致している、と思うのだがいかがだろうか?この「被害者であるが故に加害者にすらなる」という問題について、フェミニズムは何か解答を持ち合わせているだろうか?それともフェミニズムとはジェンダーという枠組みから解放されることを目指すのではなく、女性が「パワー」を獲得して男性に対して下克上を果たす事を目的とした運動なのだろうか?是非お伺いしたい。
この2つを混同してる人が多すぎる。
というかAppStoreのことをAppleStoreだと思ってる人が多すぎる。
下手したら4割くらいの人が間違ってる気がする。間違われ率半端ない。
みたいな会話をされると、なんとも返答に困る。突っ込みたいけど恥かかせたくないし...でも突っ込みたいし...
日本人だけなんですかねこの間違い率の高さは。綴り的に世界中で間違われてるんじゃなかろうか。
そしてその度に聞いている方がモヤっとするちょっぴり嫌な時間が流れていると思うと、Appleは罪作りだなって思う。
GoogleもGoogleで「AndroidStore」や「GoogleStore」じゃなく「GooglePlay」なのも意味がわからない。なんだよPlayって。店ですらないじゃん。世界に名だたる2社なのになんでこんなことになってるんですかね。