はてなキーワード: 水木しげるとは
書名 | 著者 |
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SEALDs 民主主義ってこれだ! | SEALDs |
時代の正体 | 神奈川新聞「時代の正体」取材班 |
右傾化する日本政治 | 中野晃一 |
社会を変えるには | 小熊英二 |
デモいこ! | TwitNoNukes |
私達は"99%"だ | 「オキュパイ!ガゼット」編集部 |
革命のつくり方 | 港千尋 |
デモ!オキュパイ!未来のための直接行動 | 三一書房編集部 |
希望の政治学 | 布施哲 |
日本人は民主主義を捨てたがっているのか? | 想田和弘 |
立憲主義について | 佐藤幸治 |
ぼくらの瀕死のデモクラシー | 枝川公一 |
政治はなぜ嫌われるのか | コリン・ヘイ |
日本国憲法新装版 | 学術文庫編集部 |
法とは何か | 長谷部恭男 |
憲法とは何か | 長谷部恭男 |
読むための日本国憲法 | 東京新聞政治部 |
タカ派改憲論者はなぜ自説を変えたのか | 小林節 |
憲法は、政府に対する命令である。 | C.ダグラス・ラミス |
国家の暴走 | 古賀茂明 |
検証・法治国家崩壊 | 吉田敏浩、新原昭治、末浪靖司 |
ソフトパワー | ジョセフ・S・ナイ |
リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください | 井上達夫 |
キング牧師 | 辻内鏡人、中條献 |
I Have A Dream! | マーティン・ルーサー・キング・ジュニア |
隷属への道 | F.A.ハイエク |
世界を動かした21の演説 | クリス・アボット |
戦争プロパガンダ10の法則 | アンヌ・モレリ |
精読アレント「全体主義の起源」 | 牧野雅彦 |
ヒトラー演説 | 高田博行 |
劇画ヒットラー 復刻版 | 水木しげる |
悪あがきのすすめ | 辛淑玉 |
独裁者のためのハンドブック | ブルース・ブエノ・デ・メスキータ、アラスター・スミス |
輿論と世論 | 佐藤卓己 |
永遠平和のために 啓蒙とは何か 他3篇 | カント |
アメリカのデモクラシー(1上下・2上下) | トクヴィル |
国家(上下) | プラトン |
自由論 | ミル |
一九八四年[新訳版] | ジョージ・オーウェル |
動物農場 | ジョージ・オーウェル |
イェルサレムのアイヒマン | ハンナ・アーレント |
人間の条件 | ハンナ・アレント |
ソース:
http://pbs.twimg.com/media/CSmpHEIUwAAOfO2.jpg
http://www.junkudo.co.jp/mj/store/event_detail.php?fair_id=10696
http://anond.hatelabo.jp/20150410101845
エウリアンにはついて行くな
秋葉原などの繁華街で絵葉書を無料で配っているお姉さんたちがいる。
しかし、ついうっかりお姉さんから絵葉書をもらってはいけない。
言葉巧みに画廊へと連行されて、気が付くと大して価値もない絵(というか版画)を、何十万ものローンを組まされて買う羽目になる(絵画商法)。
エウリアンにも新社会人にも全く興味はないんだけど、版画への冒涜は許さん。
君が代に過剰反応する左翼のように、どんな文脈だろうと、どんな事情があろうと、版画をdisられるとプッツんしてしまう。
エウリアンの売る版画というものがどんなものか知らないけれど、これだけは言える。
生でみなければ、版画の魅力はわからない。
否、
触ってみなければ魅力はわからない!
断言するけど、江戸時代の浮世絵から最近の現代作品に至るまでの伝統木版画、これを見たことがある日本人はほとんどいない。
そんなものは、世界の車窓からのDVDをみて海外旅行に言ったと言ってるようなもの。
和紙の質感!どんなに拡大しても粒子が見えてこない無断階のグラデーション!摺りによって出来た凹凸!
まず、床や机において窓から差し込む斜めからの光のもとでみて堪能。
テレビ番組の映像や、窓から差し込む車のヘッドライトが絵の面を瞬間的に照らした瞬間も美しい。
入ってくる光の方向、光の種類によって、表情が変わる。
そして、やっぱり手に持って鑑賞だ。
パンツが見えそうで見えないグラビアを、下から覗いてみえないはずのパンツを見ようとする、アレを浮世絵でやるとすごい。
ちょっとだけ見える。見えないはずのところが本当に見えてくる。
目の錯覚でしかありえないんだけど、紙のたわみと、光の加減で、ときどき本当にみえてくる。
うわぁぁんってなる。
ぶっちゃけ、浮世絵美術館、あんな一般展示なんかやめてしまえ!!
額やショーケース越しでしか見れないなら、触れないんなら、カラーコピーで十分だろ!
額装やショーケースに入れる職員の目しか楽しませられないなんて、時間も無駄!文化財の無駄!
触らせないんなら燃やしてしまえ!
よさが微塵も伝わらないのに飾ってみせる価値が有るのか?
1億円と書かれた小切手を飾って見てるようなもんだろ。
医学とか物理学とかは、100年前と今では大きく違うけど、絵は、たいした進歩してないだろ?
ぶっちゃけ、1万5000年前のラスコーの壁画と、そのへんの美大生の絵のどっちが上手いかって言ったら、芸術とかよくわからん俺にはどっちが上かわからん。
でもね、印刷という技術を手に入れた、触れることが出来る!その素晴らしさ!
俺ね、江戸時代の浮世絵の価値は認めるよ、でもさ、浮世絵のいいところって、ライブ感なわけ。
絵師が描く、描いた絵は板に貼り付けられて、その上から刀を入れられて紙ごと彫られてゴミとなってしまう。
絵師の絵を活かすも殺すも彫師次第。
それから、色の指定があって、色の数だけまた彫りがあって、そんで摺師が摺って、試しに作ったものに対して、あーでもないこーでもないっていうディスカッションがチーム内でされたわけ。
色の調節をして、時に柄を変えて、セッションによって出来上がる。
売りだしたあとの、町の人々の評判さえも取り込んで、みんなが主役のライブだったわけ。
俺、音楽はよくわかんないけど、たとえしょぼいバンドの小さなライブハウスでのライブでも、有名フィルの録音にも負けない感動があるでしょう?
一番有名どころだと、北斎あたりだと思うけどね、もうね、ヤバいの。
元々が天才でしかも努力もしまくったらこうなるってやつ。努力ってのが普通の努力ってんじゃないの。
だいたいにおいて、他派の画法を学んで破門されたあたりからだけど、もう何でもあり。
大和絵も漢画も銅版画も油絵も、手段を選ばず学んでるようで、見りゃ誰でもわかるんだけど、もうホントヤバい。
すべて独学で。本読んで覚えたってより、ひたすら描いて描いて描きまくって吸収したという感じで。
貧乏の理由が、お金を封筒でもらったまま中身の確認もせず、支払いの時には「その封筒からもってけ」くらいに無頓着だったからという馬鹿。
掃除をすれば、「ここにあった蜘蛛の巣どこ行った?(描きたかったのに)」くらいの馬鹿。
誰よりも自信家で、本が売れたのは俺の挿絵が良かったからだ!と言って作者と喧嘩する傲慢な一方で、猫がうまく描けないっていう理由で80歳で悔し泣きをする馬鹿。
30回画号を変えるってのがもうよくわからん。たとえば漫画家が30回名前を変えてデビューするとかないだろ。売れっ子が新人に戻るってことだろ。馬鹿かと。いや馬鹿だよ。
そんな絵中心のわけのわからない生活を、88歳で死ぬまで続けちゃうってのがもうね。
例えば、水木しげるが週刊少年ジャンプで週刊連載をしてて、CG(北斎はコンパスや定規やらも使いこなしてるようで、幾何学や製図も知ってる様子。当然おそらく独学)を使いこなし、ありとあらゆるジャンルを書き分け(春画から、行ったことのない中国の古典小説の挿絵まで)、30回新人デビューとかしてたら、人間じゃないだろと。
で、そんな北斎の線ときたら線の始まりから終わりまで、この線以外じゃダメっていうカンペキ。筆の入り、筆の終わり、太さ細さ、もうすごい。線が凄いってわかるってことは、彫師が凄い。フリーハンドじゃアリエナイような精密で、コンパスや定規ではありえないような強弱があり、油絵なら何度でも塗れるだろうし鉛筆なら何度も消せるし、CGなら何度でも書き直せるけど、最小限の輪郭線で森羅万象を切り取ってる。
写真を目指してたんじゃないだろうか。
写真というものがなかったので、目指してたというのは変な話だけど、露光時間調節やピントズレに近い表現があって、写真を目指し、写真を超えたなにか他のステージに足を踏み入れようとしてた、ように思う。写真なんかなかった時代に。
で、それがわかるっていうのは、彫師がすげぇ。
摺師がすげぇ。
俺がこの数ヶ月で買い集めた70枚ほどのほとんどは復刻だけどさ、復刻もまたライブなんだよ。
摺る工程を見せてもらったわけ。
濃い絵の具を数種類用意するだけで、都度混ぜて薄めて版木に塗り、摺る。
なんということだと思わないか?同じものをたくさん作るなら、同じ濃度に調節したプレミックスを作っておくべきだろう?
絵師と彫師と摺師だけじゃないの。
版木を作る職人、紙を漉く職人、紙にドーサを塗る職人、絵の具を作る職人、バレンを作る職人、数えきれない職人たちのライブが木版画。
だから響いてくる!
で、ライブが存続するためには、絶えず誰かが買わないとダメなわけ。
材木から板を作る職人は消えちまったそうだよ。ただ板を平らにするだけじゃダメらしい。
バレンを作る職人も消えかけらしい。
だからさ、エウリアンが木版画を扱ってるかどうかはしらんけど、なりふり構わず売るということは少し理解できる。
俺だって、1ファンとして、こんな見苦しく匿名掲示板で見苦しく宣伝してるけどさ、どうせ中の人だろ、ステマうぜえって思われてるんだろうけど。
日本中の浮世絵美術館が燃えることより、職人がいなくなることのほうが損失はずっとずっとずっとデカいんだよ!
復刻浮世絵なんて一万円そこそこで買えるんだよ!
数万円となった山桜の版木を何枚も使うわけだし、キャリア何十年の職人が一月かけて彫るだけで、いくらの人件費だ?
キャリア何十年の摺りの職人が、今では手に入らない材料で自作した絵の具で、人間国宝が作った紙に摺る。
一枚200枚やそこらは売れないと滅びるだろ。
お願いだから買ってやってくれよ。
俺がビルゲイツだったら、もっと買ってやれるんだけど、安月給なサラリーマンじゃこれが限界なんだよ。
財布に入ってる1万円札、あれに1万円の価値があるのか?あんな小さな銅版画にわくわくするか?
せっかくだから文句を言いたい。
千円札の富士山わからんでもない。写真を銅版画にするなら許せる。
5千円札、2千円札、屏風絵を銅版画にするとか、絵巻物を銅版画にするとか馬鹿なの?オマージュにしたって、もうちょっと工夫しろよ。
100万円札を和紙で作れ!木版画で作れ!一枚一枚違う味があって味があるだろ!
偽造されてしまう?
偽造けっこう!本物と見紛うような彫りと摺りの技術が世界中に溢れれば、日本銀行の信用がどうなろうと、人類の幸福の絶対量は増加する!
木版画紙幣の発行は無理でも、一つの可能性として、造幣局で木版技術に関わる職人を世話してやってはくれないだろうか。
造幣局に一人くらい、材木から板を作る職人がいたり、絵の具を調合する職人がいたっていいだろう?
多少脱線しましたが、そういうわけで、ちょっとだけエウリアンを擁護してみました。
終わり。
考えてみればライブって凄いよな、芸術家って、基本的に俺が俺がじゃないか。
当然だけど、絵も彫りも摺りも極めることなんか出来ない。
それが、分業制、買う客の声も含めて、一人一人が主人公、思いがけない方向に転ぶ面白さ。
今でも、現代作家が版画にするために専門業者に頼んだりはするけれど、基本は作家の意思が優先で、作家の作品という域を出ない。
やはり、売れないことには、ちまたに溢れないことには、あれがいいこれがいいと話題の中心が木版画にならないことには、木版画に未来はない。
音楽としてどうかはわからないけど、AKBの会いにいけるアイドルという路線は、一つ評価したい。
あれが、理想の姿。
巷に日々木版画が溢れ、あれがいいこれがいいと、皆が好きに意見を言う。
町の人々の意見を取り入れ、流行の先端を走り、絵師や彫師摺師が腕を振るう。
たまらんじゃあないか。
クリスマスとは無関係に平日を過ごされている皆さん、お疲れ様です。
さて、ハイスコアガールから恋愛要素を完全に引いた形で青春を過ごし、
過去の殺伐とした記憶が上書きされるくらい身悶えするような甘ったるさを
完全に枯れたジジイの目で暖かく見守っていたファンも多かろうと思います。
「ああ、これ売れ残ったらオレが買わされるんだろうな……」と寒空の下、
声を張り上げるコンビニの売り子よりは幸せだと思う貴方に送る怪文書です。
末端価格は同じなのに、街の小さな本屋と、都市部の大型書店とで、卸値が違います。
カネとモノの流れは取次が超高効率で仕切ってますが、営業は出版と本屋でほそぼそと行います。
そして、膨大な作業量の割に、日本の商習慣が結晶したようなビジネス機構で動いています。
つまり、口約束が多く、事なかれ主義で、担当者の約束は会社のソレと一致しなかったりします。
(このあたり「真吼えろペン」が誇張や脚色も入って適度に生臭くてオススメです)
が、産業になるにつれて官僚的でビジネスライクになっていきます。
ローカライズや世界展開が早かったこともあり、まあ、普通になったと言って良いでしょう。
法律を守り契約書を作り、それなりにガチでやりあうこともある世界です。
任天堂の法務は世界一との評判も名高い、それなりに蓄積のある業界です。
引用を理解するには、ミッキーマウスを漫画に登場させるにはどうすべきか?を想像するのが早いでしょう。
例えば、夏目房之介さんは法律上認められた引用を漫画に対して行い批評をすることで有名ですが、
これが有名なのは、慣習的に絵の引用は相手の許諾をもらってから、という業界の風習に切り込んだからです。
また、逆に他からネタを持ってくることは「コピーしない」範囲内において普通に行われています。
水木しげるのようにうまく取り込むこともあれば、久米田康治のようにパロディーにすることもあります。
しかし、アイデアのパクリやトレースなどに対しては、自粛も含めて相当に敏感です。
ここでのポイントは、法律とは全く無関係の慣習で業界が動いていることです。
ジャニーズは異様に著作権管理にうるさいことで有名ですが、それはそれで正しい訳です。
また、過去のドラマシリーズの出演者に連絡がとれず、ソフト化出来ない、なんてのも良く聞きます。
一方で、アニメに関しても、「これぐらいなら良いだろう」という甘えが見える分野もあるにはあるわけです。
有名なところでは「ワクドナルド」でしょう。デニーズやロイヤルホストにそっくりな店舗も良く見ます。
(象徴的な「あの花」のインタビューを張っておきます。http://toyokeizai.net/articles/-/18789?page=2)
また、古くは企業戦士YAMAZAKI、最近でもへうげもの等に、実在の芸能人がそっくりな形で登場することがあります。
今のところ、闇のイージスにリュック・ベッソンがクレームを入れたとの報は入ってきておりません。
ただまあ、ムダヅモ無き改革もハリウッドで映画化されたら、意外に国際問題になるかもしれません。
さて、ゲーセンでカツアゲされた記憶のある人なら覚えはあるだろうSNKの筐体。
ハイスコアガールでもわりと重要なエピソードに絡んで登場します。
どっちがビッグサンダー・マウンテンに多く乗れるか勝負だ!みたいな使い方をしていれば、
第一生命やオリエンタルランドからクレームぐらいは付くかもしれません。
が、劇中に登場するのはSNKの対戦格闘ゲームで、残念ながらSNKは倒産しました。
そして、版権管理業務を行うプレイモアがSNK破産時に知財を取得し、SNKプレイモアに商号変更しました。
「NEO GEO X」でドライにライセンス契約を解除した件で記憶している人も多いでしょう。
つまり、牧歌的な時代を引き継いで緩い企業も多い中、ワリとガチな企業なわけです。
さて、今回ハイスコアガールに関して、刑事になったことに驚いたゲーム関係諸氏も多かろうと思います。
なぜなら、普通に考えてSNKプレイモアって企業は、取り扱い注意系の企業だと認識しているからです。
パチスロメーカーのアルゼとやりあった裁判は相当に有名で、1件は4億で和解しているものの、
現在もガチガチにやりあっている、いわば「あそこ怖いよね」という企業なわけです。
本事案、田中圭一が本宮ひろ志にぶちギレ金剛されたのとは違い、ビジネスライクな話です。
つまり、あまり言いたくは無いのですが、ルーズな出版業界が一般的な法律の世界に疎かったという話になります。
「は?普通にまず侵害をやめて頂いて、被害額の算出、それから著作権使用料の支払いと慰謝料ですよね?」
というのが、世間一般の日の当たる企業にお勤めの皆様の感覚なわけです。
菓子折り持って七重の膝を八重に折り、許諾頂ければお金の話は儲かってからで、みたいな感覚と違う世界ですね。
時系列で見てみましょう。
至る現在。と言う状況ですね。
9番の、連載停止差し止め回収からはちょっと厳しんでは、というのは、だいぶ感覚が毒されてます。
版権で食ってる会社の版権を勝手に使ってるので、まずは不快感を示されるわけですね。
ここはまだ法律的・金銭的にどうのではなく、商習慣として信義的にありえんでしょう、から始まってるわけです。
あと「聞いてくれるな、聞くのならば不許可」という会社も居ます。
商業誌でまんまジバニャンをバリバリ出してどこにも話し通してないとか、ちょっと想像つかないでしょう?
12番の部分ですが、この辺は「600円で累計100万部なら、ウチが半分で3億ですかね」の可能性も微レ存な状況です。
まあ、いずれにせよ「役員は把握していた」としないと、普通書類送検時に起訴相当と意見はつかないので。
18番のスクウェア・エニックス側が民事で「著作権を侵害していないことの確認」を大阪地裁に提訴したのは、
恐らく金額でケリをつけたいから、なんですよね。
チョット不可解に見えるかもしれませんが、この辺はロジカルなんです。
万が一、著作権侵害無しとされれば丸儲け。
よしんば著作権侵害有りとされても、どの部分が侵害していて、全体の何割、という具体例の把握になるわけです。
SNKプレイモアは、「著作権侵害なんかねーよ」と言われているので反論しないといけないわけです。
つまり、「このコマとこのコマとこの部分、全体で3割だね」みたいな形でスクウェア・エニックス側は敗訴するわけです。
すると、販売価格600円のうち、出版社利益が3割で、そのうち3割がSNKプレイモアの版権物のおかげになって、108円です、
100万部なんで、5千4百万円で手を売って下さい、みたいな形になるわけです。(+通常の著作権使用料。この辺は慣習が考慮される)
ここまでいけば、どのコマかは明確なので、修正&再販売&アニメ化にはいけるわけです。
そうガンガンとドル箱作品は生まれないので、これでも損益分岐点を割らないと踏んでの行動でしょう。
たらればいってもしかたがないんですが、本事案に発展するまでに、いくつも止められるタイミングがありました。
ご協力願えませんかと声をかけていって、OKでたところだけでやる。
「もやしもん」がビール会社との協賛してましたね。あれは金銭発生してないと思います。
(例えば脱衣麻雀を描くならスーパーリアル麻雀は外せないハズだが、作中には出てこない。セタ解散してるけど)
PCエンジンを描いた6-CREDITは、ほぼ改変せずに書き写しなので、これは民事にはならない(と判断する弁護士が多い)ハズ。
引用の要件を満たしていなくても実質的にカネが取れる民事訴訟は避けることが出来るというグレーで行けた。
あそこで、対外的な理由はなんとでもつけてよくて、「連載休止」「回収」「アニメ化は未定」にするだけでずいぶん違った。
日本の司法は実は「十分な反省」「真摯な態度」など、「情」を重視するので、誠意ある態度と見なせる行動を起こすだけで違ったはずです。
法人の著作権侵害は意外に重くて、刑事罰は最高3億です。ただし、刑事罰は故意の侵害時のみなので、
法廷戦略として「著作権侵害の認識はなかった。誰かが許可を取ってると思っていた」は徹底するよう弁護士から言われてるハズ。
おそらく刑事で「過失によるもので故意ではない」として刑事罰は無し。
平行して民事で侵害部分が特定されて、損害賠償と慰謝料で和解。
ハッピーケースで、著作権使用料を払って漫画は再開、再販売。アニメ化。
ベターケースで、SNK関連を削ってスト2を主軸に据えてアニメ化。漫画はリブート。
いずれにせよ、5,6回で結審、控訴せずに1年未満で決着、と言ったところではないでしょうか。
民事でケリをつけるべきなのに、刑事から入るの良くない、みたいな声明が出てますが、
版権持ちからとりあえず連載止めろと言われている時に、ド直球で「真サム」と「KOF95」を題材にして、
日高とハルオとの対戦を描けば、そりゃ刑事告訴もされるだろうよ、相当悪質だろうよ、とは思います。
(ただSNKプレイモアも嫌な裁判慣れをしているので、引っ張れるだけ引っ張るつもりかも知れませんが)
裁判では不利に働くであろう捜査期間中の連載を40-creditまで強行したのは、
社内の法務部門でも「許諾されない場合の再販売は難しいだろう」と判断されていたからでしょう。
逆に言えば、その態度(2014 vol.07まで連載継続)が家宅捜索にまで発展してしまったわけです。
単行本組は残念ですが、連載組はギリギリ、一応の区切りまでは観ることが出来ています。
生涯の伴侶というなら3がいいと思うけど。
しかし、2もいろいろ考えることができる。
水木しげるの作品に、「影女」というのがあってな。
姿かたちは見えないし、言葉を交わすこともできないのだけど、確かにそこにいる、という女の話でな。
山田みたいなやつが、京都の古びた下宿に住むんだけど、そこには、何かわからないけど、確かに「いる」んだそうな。
ある晩、同宿の男が、それに触れたので、それを捕まえて縛り上げるんだ。
確かに触れるし、心臓のような音も聞こえる。
何かが「いた」わけだ。
その日以降、同宿の男たちはおそれてしまい、すぐに引っ越して誰もいなくなるのだが、山田はそれの石膏型をとってみる。
すると、それの姿かたちは無色透明で全く見えないのだけど、型から絶世の美女だとわかった。
調べてみると「影女」というらしい。
山田はかわいそうになり、縄をほどいてやる。
すると、山田に感謝しているのか、家事等の世話をしてくれるようになってな。
姿も見えないし、言葉も交わせないけど、食事も用意されているし、洗濯もしてくれるようになった。
影女あげまんだったようだ。
そして栄転、本社勤務を命じられて引っ越すんだけど、引っ越し先にも影女はついてきたようで、
変わらず身の回りの世話しくれている、という。
こういう話なんだけどさ。
姿かたちは見えないし、言葉をかわすことも体を交えることもできないのだけど、確かに山田と影女は
心が通じ合っていたんだよな。
こういうのを考えると、生活をともにして、お互いを大切に思える実体がある、というのは、それだけで
愛するに値するものだと思うし、言葉が交わせないからといってコミュニケーションをとれない、と
いうものでもないような気がする。
元増田は、2番の選択肢を性と家事という、わりと性差別的な女性性の役割だけを抽出した意図で設定した
のだと思うけど、ひとつ決定的に他の2つと差があるのは、「意思をもって行動できる」という点だと思う。
それはやっぱり、大きい点だと思う。
家事は性差別的な役割かもしれないけど、逆に女性から表現できる大きな愛情でもあると思うんだよな。
だから、なんだ。
2番の体の動きが、ルンバのように意思を持たない機械的なものならもちろん話になりません。
しかし、言葉は発せなくても、犬よりもっと意思を感じるようなものであれば、2番もかなり愛せると思う。
声だけ、というのも、その人格を愛しく思えるし大事だと思える。
生涯のパートナーという意味で、一生支えになってくれるのは3番なのかもしれない。
2番、案外悪くないんじゃないかなあ。
用語法が間違ってたのは謝る。欲求と読み替えてもらって結構。
BC時代からずっと「殺すな!」言い続けてだいたい十万年、いまだに「殺したかったから殺した」が微々たる確率ながら世界中でずっと起こり続けるのは、ヒトという機構の何処かに普遍的にある、っちうことじゃねえのかと思うわけですよ。で、その殺人者と我々が同属同種である以上、我々にも程度の差はあれその要素がある、と考えるのが合理的ではないかと。
有名っすね。
上の話の続きで行くと、とは言え我々にも「『生への欲求』の共感」という拮抗システムやら、
宗教に代表される社会的な教育やら、いろいろ対抗してきて、それなりにというかかなりそちらも機能しているわけで、
戦争のルールはしょせん非常時ルールなので、日常ルールの方が勝つ人間がいても不思議じゃないんじゃないですかね。
水木しげるとか。
あと逆に言うと、戦争ごときのタガのはずれで「普段は温厚な人だったのに……」がブッ殺しまくった、という逸話も枚挙にいとまがないわけで。
豚みたいな外見の僕が、結婚できて自分はなぜ彼女も出来ないのだろうか。
年上の後輩はどうもその当たりが納得いかないらしい。
お互いに敬語で話し合う関係の後輩と、普段は滅多に話さないが、仕事の関係で往復三時間ほどの車の中、恋愛の話をした。
彼の外見は、水木しげるが描く出っ歯のサラリーマンみたいな、カッパみたいな、お世辞にもイケメンの部類には入らない感じ。
「どこで女性と知り合うんですか?」
おもむろに彼は聞いてきた。
僕は素直に返答。どこにでも女性はいる。コンビニのレジ打ちやってる子だろうが道を歩いている子だろうが、話しかければ知り合いになれる。と返す。
後輩は納得いかないらしく、現実的じゃないとのこと。今思えば、僕の「誰か紹介しますよ」という返答を期待していたのか。
ちなみに、どんな女性がタイプかと聞くと「心がふれあえる人」だって。
こりゃ駄目だ。
逆にタイプを聞かれたので、おっぱいの大きい子だと答えると、若干軽蔑気味。
彼からすると、恋愛とは心の触れ合える相手との、心の触れあいであって、肉体的快楽ばかりを追い求めることは自分には出来ないんだと。
恋愛がナニモノであるのかについては置いておきましょう。女性と付き合いたいんですよね。もっと端的に言えばセックスがしたいんじゃないんですか。
「結果として肉体関係があるのはいいけど、目的はあくまで『心の触れあい』だから……」
ここに齟齬を見つける。僕は恋愛がしたいわけではなく、セックスがしたいのだ。彼はそうではないと言い張る。
・土下座したらやらしてくれる女の子には例えブスでも土下座をしてやらせて貰う。
・人生で一人でも多くの女性とセックス出来れば、その分得であると考えている。
etc……
文字に起こすと品性下劣な性欲の権化みたいだが、事実なのでしょうがない。僕は性欲を隠すことは食欲を隠すくらいに無為な事だと考えているのだ。
結婚してからは誘われなくなったが、呼ばれれば行ったし、呼んで欲しいと日頃から言って回っていた。そう答える。
御高説は最もですが、そうではないのです。と、もったいぶって僕も口を開いてみる。
人生が、思うままにならないのは仕方がない事で、好きになった人とセックスを出来ると僕は思っておらず、セックスを出来る人を好きになる方が効率的なのだと思います。少なくとも僕は。
「でも、体だけの関係なんて……僕はそれならセックスなんてしなくてもいい」
僕には必要だから、探す。欲求が行動の原動力になるんです。欲求がないのなら、必要な気がしているだけの錯覚ですね。
「いや、恋人は欲しいです」
だから、行動を起こす原動力が弱いんですよ。
そう言うときはじっくり待っていれば、『心の触れ合える』素敵な人が現れて求婚して来るかも知れませんよ。多分、来ないでしょうけど。
お互いに考え方が違って、統合する必要もない以上、議論なんて言葉遊びなのだ。彼は納得いかない顔をしながらも、口にすべき言葉が浮かんでこないようでむっすりと黙った。
だが、まあ何かの縁なので、ついでにもう少し掘ってみる。
『心が触れ合える』云々については、とても漠然としていて、実際の行動には向かないので、スローガン当たりにとどめた方がいいですよ。
その手前に具体的な行動目標を建てましょう。
この話題は彼も大いに興味を引いたようで食いついてきた。
例えばセックス……だとアレなんで、女性と手をつないで歩く。これでどうですか。心が触れ合ってる感も出てバッチリだし。
なるほど、と彼は頷く。「でもどうやればいいんですか?」
そう、それです。仕事や、地域活動やその他のイベントで女性と知り合ったら食事に誘いましょう。
「仲良くなったら?」
いや、知り合ったらです。一緒に食事すると相手の心情や性格も掴めるし、自分もアピールできる。その上で『心が遠い』と思えばそこで終わってしまえばいいんです。
「はあ、でも知り合った女性をいきなり食事に誘っても難しいのでは?」
そうですね。でも、それで相手にしてくれない人はだいたい仲良くなっても付き合えないですから判別が早くていいです。
押して駄目ならきっぱり諦めろ、て感じですね。
「はあ、なるほど」
食事に誘えて、相手と『心が触れ合えそう』と思えばプッシュすればいいんです。僕の場合はやれそうならプッシュしますがね。
「ううん……なるほど」
彼は少しだけ納得したようだ。
ああ、合コンは嫌なのにそれは有りなんだな~。
横だが。
オタクの意味を限定せずにこの条件は卑怯だと思うが(○○の要素がオタク向けだ! と何にでも拒否権があるから)、例えば「プラネテス」あたりはどうだろうか。
個人的には「宇宙兄弟」も元がモーニングだけに子供向けとは言い難いと思っているのだが、放送時間的には子供向け想定なのかなぁ。
あとは雰囲気変わるけど、「ちはやふる」や「坂道のアポロン」もなかなか良いと思うけどね、両方学園物だし原作コミックスだけど。
個人的には「夏目友人帳」あたりも「大人向け妖怪譚(水木しげる的な系譜の後継者)」として推したい。
雰囲気はオタっぽいけど「TIGER&BUNNY」あたりも「バットマン」とかがokならokじゃなかろうか。
(追記)
上にあげたのは過半がコミック原作。コミック原作が悪いとは言わないが、まぁ、確かにアニメの力というわけじゃないかもしれない。
[DEL]アニメオリジナル限定[/DEL](できてなかったorz) 非コミック原作限定でもうすこし考えてみた。
押井だとオタ向けだよなーとか考えていたが、「スカイ・クロラ」を忘れていた(原作小説)。駄作の要素と佳作の要素をあわせもつ評価が難しい作品だが、子供向けではないな。ミリオタ臭がきついかもだが。
押井だとパトレイバー劇場版2というのもあるんだが、これは正直オタっぽい(近未来SFもの)。パトだとWXIIIってのが刑事モノで佳作で好みなのだが、売れなかったみたいだなぁ、どうだろうなぁ。
「新世界より」 これは「スカイ・クロラ」と同様、原作は小説だな。
まぁ、オタ臭ゼロは難しいし、目を覆いたくなるような「大きなお友達向け作品」も多いかもしれないが、20年前は漫画だってそう言われたさ。
豚みたいな外見の僕が、結婚できて自分はなぜ彼女も出来ないのだろうか。
年上の後輩はどうもその当たりが納得いかないらしい。
お互いに敬語で話し合う関係の後輩と、普段は滅多に話さないが、仕事の関係で往復三時間ほどの車の中、恋愛の話をした。
彼の外見は、水木しげるが描く出っ歯のサラリーマンみたいな、カッパみたいな、お世辞にもイケメンの部類には入らない感じ。
「どこで女性と知り合うんですか?」
おもむろに彼は聞いてきた。
僕は素直に返答。どこにでも女性はいる。コンビニのレジ打ちやってる子だろうが道を歩いている子だろうが、話しかければ知り合いになれる。と返す。
後輩は納得いかないらしく、現実的じゃないとのこと。今思えば、僕の「誰か紹介しますよ」という返答を期待していたのか。
ちなみに、どんな女性がタイプかと聞くと「心がふれあえる人」だって。
こりゃ駄目だ。
逆にタイプを聞かれたので、おっぱいの大きい子だと答えると、若干軽蔑気味。
彼からすると、恋愛とは心の触れ合える相手との、心の触れあいであって、肉体的快楽ばかりを追い求めることは自分には出来ないんだと。
恋愛がナニモノであるのかについては置いておきましょう。女性と付き合いたいんですよね。もっと端的に言えばセックスがしたいんじゃないんですか。
「結果として肉体関係があるのはいいけど、目的はあくまで『心の触れあい』だから……」
ここに齟齬を見つける。僕は恋愛がしたいわけではなく、セックスがしたいのだ。彼はそうではないと言い張る。
・土下座したらやらしてくれる女の子には例えブスでも土下座をしてやらせて貰う。
・人生で一人でも多くの女性とセックス出来れば、その分得であると考えている。
etc……
文字に起こすと品性下劣な性欲の権化みたいだが、事実なのでしょうがない。僕は性欲を隠すことは食欲を隠すくらいに無為な事だと考えているのだ。
結婚してからは誘われなくなったが、呼ばれれば行ったし、呼んで欲しいと日頃から言って回っていた。そう答える。
御高説は最もですが、そうではないのです。と、もったいぶって僕も口を開いてみる。
人生が、思うままにならないのは仕方がない事で、好きになった人とセックスを出来ると僕は思っておらず、セックスを出来る人を好きになる方が効率的なのだと思います。少なくとも僕は。
「でも、体だけの関係なんて……僕はそれならセックスなんてしなくてもいい」
僕には必要だから、探す。欲求が行動の原動力になるんです。欲求がないのなら、必要な気がしているだけの錯覚ですね。
「いや、恋人は欲しいです」
だから、行動を起こす原動力が弱いんですよ。
そう言うときはじっくり待っていれば、『心の触れ合える』素敵な人が現れて求婚して来るかも知れませんよ。多分、来ないでしょうけど。
お互いに考え方が違って、統合する必要もない以上、議論なんて言葉遊びなのだ。彼は納得いかない顔をしながらも、口にすべき言葉が浮かんでこないようでむっすりと黙った。
だが、まあ何かの縁なので、ついでにもう少し掘ってみる。
『心が触れ合える』云々については、とても漠然としていて、実際の行動には向かないので、スローガン当たりにとどめた方がいいですよ。
その手前に具体的な行動目標を建てましょう。
この話題は彼も大いに興味を引いたようで食いついてきた。
例えばセックス……だとアレなんで、女性と手をつないで歩く。これでどうですか。心が触れ合ってる感も出てバッチリだし。
なるほど、と彼は頷く。「でもどうやればいいんですか?」
そう、それです。仕事や、地域活動やその他のイベントで女性と知り合ったら食事に誘いましょう。
「仲良くなったら?」
いや、知り合ったらです。一緒に食事すると相手の心情や性格も掴めるし、自分もアピールできる。その上で『心が遠い』と思えばそこで終わってしまえばいいんです。
「はあ、でも知り合った女性をいきなり食事に誘っても難しいのでは?」
そうですね。でも、それで相手にしてくれない人はだいたい仲良くなっても付き合えないですから判別が早くていいです。
押して駄目ならきっぱり諦めろ、て感じですね。
「はあ、なるほど」
食事に誘えて、相手と『心が触れ合えそう』と思えばプッシュすればいいんです。僕の場合はやれそうならプッシュしますがね。
「ううん……なるほど」
彼は少しだけ納得したようだ。
ああ、合コンは嫌なのにそれは有りなんだな~。
五大天才漫画家「手塚治虫」「尾田栄一郎」「鳥山明」あと二人は?
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4323316.html
1.質が高い作品を複数、残している。
を条件とした場合、
手塚が入るのは当然として、赤塚は作品自体のクオリティはともかくとして革新性が弱い。
尾田は商業的にはひょっとしたら鳥山よりも成功した漫画家かも知れないが、やはり革新性に劣る。尾田はたとえるなら少年漫画界のマーガレット・ミッチェルみたいなもの。作品の訴求力と当人のクリエイターとしての革新性とは別。
鳥山は天才に当てはまると思う。ギミックを詰め込んだデフォルメされながらもリアリティを持つ画風自体が衝撃的であったのと、アメコミの影響を受けて租借したうえで、日本の漫画の原稿に和風化して落とし込むという表現技法上の革新もあった。「Dr.スランプ」は大友克洋の「AKIRA」よりも早い。言うまでもなくメガヒットを複数出している。大友をして大友的な革新性の代表として天才扱いするならば、大友的な革新性は鳥山の中に抱合することが出来、時系列的にもそれが妥当だと思う。
水木しげるは天才と言うよりはアルチザン。緻密に粘着的に徹底するという程度が他者を凌駕しているのであって、漫画史全体で見れば、それほど重きを置かれるわけではない。これは水木を軽視しているのではない。作品への評価で言えば、私はむしろ水木を手塚を凌駕して評価している。ただ、漫画史的な視点での評価はおのずと作品評価とは異なると言うことだ。田山花袋や横光利一が作品単体では大した作品は残していないにも関わらず、文学史的な革新性において評価されるように、ここで言う天才とは、作品自体の質はもとより、その数、社会的影響力、そして革新性を備えている必要があるということだ。
そういう意味では石ノ森章太郎は、天才何人か分の重要、かつ致命的な影響を漫画史に残している。フォーマットの創始者という点においても、集団ヒーローの群像劇、そのキャラクターの性格づけはもとより、マーチャンダイジングの手法においてもパイオニアと呼ぶべきである。更に重要なのは、いわゆる「オタク的」な要素の萌芽がすべて石ノ森作品の中に顕著にみられることであって、少年サンデー的な、中産階級的な趣味的なマンガすべてが石ノ森マンガに端を発しているという点である。意外と重要なのは、「日本経済入門」のような、それまで非マンガ的な要素とされていたものについてもマンガに取り込んだことで、手塚や水木の中に見られるマンガというイデオロギーを脱して、徹底的に表現手段として分解してみせるという、作家性とは別の次元の理数系的な分析をマンガに持ち込んだのも石ノ森である。
漫画表現の飛躍的な革新を成したという点では24年組(竹宮恵子、萩尾望都、大島弓子、山岸涼子)を挙げなければならないが、その集大成的な立場としては萩尾を挙げるべきだろう。手塚が基本フォーマットを作ったと言われる戦後マンガの基本は、映画表現をいかにして紙の上に再現するかと言う視点から成り立っていた。萩尾らによってマンガは初めて独立した表現手段になったと言ってよい。マンガは文字と絵が同じ一つのコマの中にあり、吹き出しのセリフ、吹き出し抜きの内面のセリフ、そして絵とそれぞれ矛盾した内容を同時に表現できる唯一の表現手段である。たとえばぶっきらぼうな少年が少女に向かって毒づきながら、なおかつ画面上では頬を染めるなどをして、明らかに少女への好意を示しているような表現は文学では難しい。描写ではなく説明になってしまう。更に実はそれも演技だとして、内面は実はこうすれば少女は自分に対してぶっきらぼうな少年に対する好意を増すであろうとの計算があるとすれば、その内心を同時に表現するのはこれは映画等でも不可能なのである。こうしたマンガ独自の表現方法の確立は萩尾望都を代表とするのであり、その表現手段の派生が致命的過ぎてもはやエピゴーネンとも意識されないほどの重大な影響を及ぼしていることを踏まえれば、彼女の存在は、二十年、三十年のスパンではなく、百年、二百年のスパンで見るならば、手塚をもはるかに凌駕する重大かつ致命的な転換点となったのであった。
と5人のうち4人までが選ばれたが、ここは議論の余地がないところである。つまり個々のこのみや評価の違いはあっても、漫画史の視点から言えば、偏見なく選べばこの4人は欠かせないということである。残りの一人は評価と好みの違いになるだろう。私は、
藤子・F・不二雄を挙げる。
[補足]
まあ、みなさんいろいろご意見はおありでしょうが、そもそも5人に絞るのが無理っちゃあ無理とちゃぶ台をひっくり返してみる。
「てめー、あれ読んでねえだろ」「俺はビートルズの武道館ライヴ見に行ったんだぜ」「江夏の21球も実際に見てない奴が投球論を語るな」的な反応はプロレス論の醍醐味で正しいレスポンス。
レスが挙げているような御大たち、高橋留美子、大友克洋、白土三平、水木しげる、赤塚不二夫、永井豪、いしいひさいち、つげ義春、大島弓子、大和和紀、三原順、梶原一騎、吉田秋生あたりは誰が入ってもおかしくない。個人的にはいくえみ綾とかも入れたい気もするが、個人的過ぎるので止めた。
あと、尾田先生が入っているのはつりですか、みたいなことを言う人には、何といっていいものやら。
[補足の補足]
ekken さんがブコメで尾田は外せよみたいなこと言ってたんですが、私もそれはリンクを張っている元記事について言っているんだろうなって思いました。そうじゃなくてもっと直接に私に向かって「尾田先生が入っているのはつりですか」と言っている人がいたんで(消されたみたいですわ。こわっ)、書いたことで批判されるならともかくさすがに言ってもないことで揶揄されるのはやだなあと思って補足しました。ekkenさん、ご迷惑おかけしてごめんなさいね。この点をブコメで指摘してくださった方も、言ってもいないことで私が批判されるみたいな流れになるのをくぎをさしてくださったんだと思います。ありがとうね。
で、利用者は無人本屋のドアを電子マネーで開錠し、利用者は蔵書を探索する。
(普段は電気も通っていないが、開錠した段階で電気が点いてICタグなども作動)
思い通りの本を見つけたら、セルフ決済を行って、無人本屋を出る。
というか、デポジット制にしておいて、
「入店時に10,000円を差引いて、
1,000円の本を持ち出した場合は、差額9,000円を電子マネーに入金する、
何も買わない(=何も持ち出さない)場合は、10,000円を返金する」
或いは、会員制、ないし入場料制にしてもいい。
「1日中鉄道本を読みふけって、結果買わなかったら、入場料の500円だけ取られる、
買い物したなら本の代金も取られる」という感じ。
以前なら、
「多摩ニュータウンの片隅にあるような本屋に行こうにも、そもそも道に迷う」
というのがあったが、幸いなことにナビシステムが発達してきたから、
その点の懸念も払拭される。
以上は「本」で例示したが、ほかにも「コレクターグッズ」とか「フィギュア」とか
「同人誌」とか「前衛芸術品」とかでも、このような無人店舗が成り立つかもしれない。
要は、電子マネーを使った入退店管理、ICタグを使った決済を応用すれば、
無人店舗が開ける、ということ。
そして、
「お目当て品を買いに行くのなら、交通費も厭わない」というマニア心理があれば、
神保町のような店舗集積がなくても、マニアの方が無人店舗に行くんじゃないか、という仮説。
この案のキッカケは、江頭2:50が、
「いわき市に救援物資届けたついでに、福島第一に潜入試みた」というルポ本を著し、
それを見て「いわき市まで買いに行きたい」というはてブコメントが多数あったため、
「ならば、ブックツーリズムが成立する余地があるんじゃないか」と直感した次第。
境港市(水木しげる出身地)ならオバケ・妖怪に関する古本・漫画・同人誌を集積して無人店舗展開すればいいし、
新潟市(水島新司出身地)なら野球に関する古本・漫画・同人誌を集積して無人店舗展開すればいいし、
北九州市(松本零士出身地)ならSF漫画・古本・同人誌を集積して無人店舗展開する、
そうすれば立派なブックツーリズムだ。
ついでにネットゲリラの古い記事あさっていたら、米沢氏の話がでてきた。
http://shadow-city.blogzine.jp/net/2007/12/post_1352.html
米沢氏のコミケに対する方針というのは徹底していて、とにかく「中身には干渉しない」という姿勢だった。本人は水木しげるマニアで、自分でも漫画を描いたりするんだが、コミケも当初は「創作同人誌」の売買の場として作られたんだが、蓋をあけてみると、1970年代は少女漫画、80年代はアニメ、それからロリコンと、目論見とはまったく違ったモノで占領されてしまう。それでもイヤな顔しないで黙々と参加サークルのために開催し続けてきた。
もう語り尽くされていることではあるだろうけど、こうした場をつくるということ(そのために多大なリスクを負いチャレンジするということ)、この倫理観、もう大分議論は収束/終息したのだろうけど、Pixivのナントカさんもよく考えた方がいいんじゃないかなー。
町田ひらく、うさくんといった、ロリコン雑誌から出てきた(あるいは育てられた)漫画家がのびてきたこともそうだし、あるいは青林工芸社やコミック・ビームも90年代のアングラ感をまるでかんじさせず2000年代にはいって目覚ましい成果をあげた。人が何かを表現するそのエネルギーに場を与えるということは、札束に書かれた数字より富んだ意味があると僕は思うけどな。