馬鹿というものは古来より身内が『いじる』感覚で喧伝して世に広まるものなので、ことネット世代においては、身近にウォッチャー気質の人間がいるときが一番危険といえる。気をつけよう。
どういう人間がウォッチャー気質なのかというと、例えば行動パターンがネット発の運動に影響されるようなタイプ。例えば『突如として』(←ここ重要)嫌フジとか嫌サントリーとか言い出すようなの。
あとtwitter使ってる人間なら、自分の発言より引用やRTのほうが多いような人間。これは特に危険だ。ほいほいとあることないこと1ボタンでRTしまくる。そっとフォローを外しておくとよい。
仕事の充実などで以前ほど時間を取れなくなるというのはよくある話。
また何かがきっかけで情熱が戻ってくる可能性も少なからずあるので
とりあえずは現状のままでいいんじゃないかね。
たしかに、たいていの学問には、羽生名人のいうところの高速道路が存在しうる
せっかく高速道路を整備しても、乗った車には法定速度で走る能力がないかもしれない
自分の持っている知識をどういう風に伝えるのが効率的か
どう順序立てれば理解が早いか
試行錯誤の末にやっと誰でも安心して走れる道が完成する
はっきり言って、考えるのが面倒くさい
あれは仮想の海を作る事でその上をあたかも海上を航行するように空中を移動できる技術だ
おそらく、重力航行で重力源を発生させるよりはローコストなんだろう
その証拠として、重力航行後の慣性航行ではその完成を消さないために仮想海を発生させている
ここで疑問
仮想海の発生には制限があるだろうか
例えば、目標地点を正面に捉えた時
水平に仮想海を展開するのでなく、斜めに展開することで艦の自重によって進むようになるのではないだろうか
また、仮想海で艦全体を包めば浮上するだろうか
もしくは、部分的に発生させる事でブレーキとなり、逆噴射などを使わずに停止する事ができるのではないだろうか
まぁ、知らん
ここ数年、業界の流れについて行けてない感が酷い。
買ったかどうかも分からなくなる上に、買ってきても積んでることが多い。
どうしてこうなったのか?
手を出した作品数が多すぎて、フォローしきれないのも一因だが
やっぱり仕事が充実するに伴って、そちらに時間が費やされてるからかなと。
あと単純に年取って情熱が薄れたのもある。
低クオリティ作品まで手を出す余裕もあったしね。
これが良い傾向なのか、悪い傾向なのかは分からんが
どうする事もできないのは残念。
不当ってことはない。
最後に、宇野は「〈いま・ここ〉だけが無限に広がるこのリトル・ピープルの時代の新しい世界においては、私たちは〈いま・ここ〉に「潜る」こと、徹底して内在的であることが逆説的に超越に接近してしまう」と語るけど、このレトリックって、大澤真幸が麻原彰晃に対して指摘した、
徹底した俗物性、過剰なまでの〈内在性〉が、逆に、麻原の〈超越性〉の根拠になっているのではないか。(大澤真幸『虚構時代の果て』)
とまったく同じなのだけど、これは本人的には大丈夫なのかしら。
ttp://blog.livedoor.jp/toshihirock_n_roll/archives/51653048.html
たとえば『完全自殺マニュアル』の鶴見済氏やオウム真理教の麻原彰晃は、「革命」を失った今、世界を変えるのではなく自分を変えようとしたわけですよね。ドラッグや「修行」によって。麻原は鶴見さんほど徹底できなかったヘタレだから革命のでき損ないに走っちゃったわけです。しかし、彼らのやったことはまさに「内在」的なアプローチだったと思う。だって、世界変革を「諦めて」自分をチューニングするんだから。
でも、ぼくがこの本で書いた「拡張現実の時代」においては、先ほどのゲームの例が代表するようにネットワーク的なものに支援されて超越―内在といった図式自体が崩壊していて、徹底的に内在することが超越に近づくというモチーフが頻出する。「ここではない、どこか」ではなく「いま、ここ」に留まったままゲームのルールを書き換えるための想像力の行使に焦点を合わせているわけ。それはそのまま「虚構の時代」(鶴見・麻原)と「拡張現実の時代」の違いでもある。ここもポイントで、「外部」を断念するというとすぐに鶴見・麻原的なものを年長世代自体は想像しちゃうけれど、それは90年代で時間が止まっている思考ですね。21世紀的な現実は「徹底して内在することによる超越」が、自意識のチューニングではなく現実のコミュニケーションとして創作物の生成や社会変革の可能性の方向に向かっている。これがまさに「仮想現実から拡張現実へ」ということ。
いやいやいや。。。ちょっとウノさん、何言ってるんですか・・・・。「内在」っていうこれまで批評用語としては、「超越-内在」っていう二項対立の一項として使われてきた用語を、かなり強引に自分タームの「内在」(これってむしろ「組織のインサイダー=内在者」っていう意味に近いと思うんだけど)に引きつけて使ってて、不要に名前空間のコンフリクトを起こしてる気がする。まさに、
人文系の評論はすぐに一般名詞を専門用語化する傾向がある。しかも、その本だけでしか通用しない専門用語をすぐにつくっちゃうのだ。”壁_temp”とか、”想像力_temp”とかいう名前にしてくれればわかりやすいのだが、我慢して慣れてみよう。
っていう奴。今まで現代思想界にはCritique.naizaiっていう広く使われてる変数なり関数なりがあったのに、そこにまた紛らわしいUno.naizaiっていう変数なり関数なりを持ってきてて、そこでCritique.naizaiをUno.naizaiと間違えてコンパイルした人に、「お前はUnoパッケージをインポートしてないから俺の本が読めてない」って文句言うのはちょっと無理筋過ぎないか。
まあ、用語の問題を脇に置けば宇野常寛の言いたいことも分からなくはない。現代思想や社会理論がこれまで、超越(トップダウンの理想主義的な社会モデル)か、内在(個々人の内面=インナースペースからの改革)か、という二項対立に拘泥したきたのに対して、組織の内在者=インサイダーが、組織へのハッキング的なコミュニケーションによるアプローチをかけることによって、ゆるやかに社会を変えていきましょう、ってのが彼の言いたいことなんだろうなあ、と思う。だけどそこで、現代思想のこれまで数十年の歴史のある用語体系に土足で踏み込んで、「内在」なんていう一般名詞を無理やり自分タームで使うのは無理筋だし、これまでその用語体系を使ってきた人の名前空間を不必要に混乱させる振る舞いだと思う。せめて「内在者(インサイダー)的アプローチ」くらいの用語にしておいてくれれば分かりやすいのにねえ・・・
それはそうなんだろうけど、、、DB設計なんて保守開発では前任者(初期設計者?)の思想に思いっきり縛られるるからなぁ。
長期保守されているシステムで参照制約とシステム設計が有機的かつ、効果的に紐付いているシステムなんて今んとこ見たことないっす。
◆美の追究一門
◆生活機能性重視派
◆性能重視派
◆ポエマー一門
◆語感がいいんだよ一門