はてなキーワード: 教育現場とは
娘に中学受験をさせようか、それとも地元の公立中学校へ行かせようか迷っている。
職員玄関で『不審者じゃありませんよ』プレートを渡されたのにも驚いたが、なによりも授業風景に腰を抜かした。
教科書を読めば分かるようなことを教員が白墨で板書し、生徒がそれを紙のノートにシャーペンで写している。
紙が手元になきゃ情報得られないじゃないか。ネットワークに繋がらない情報は情報価値ゼロだよ。
数式や漢字の書き取りなんかはペンタブレット使えばいいだけの話。
あと分からない言葉あってもググれないじゃないか。どうすんだよ。
ここまで書いた内容を妻に話したら「小学校も私立中学も同じよ」と返された。知らなかった。
もう学校に頼るのはやめよう。
公立にせよ私立にせよ、娘にはノートPCを学校へ持って行かせようと思う。
娘の通う小学校では『スマホ禁止』という意味不明な拘束、もとい校則があるらしい。
しかしPCは禁止されてない。うっっしゃぁぁぁあああ!!(価格.comで3万円ノートをポチる)
安いノートPCはバッテリー取り外し可のものが多いじゃないですか。
さらに生産ロットが多いから、別売りのバッテリーも安いじゃないですか。
スペアのバッテリー携帯すれば、駆動時間の問題はクリアできます。
問題は重量ですね。重い。
でも教科書・ノートを電子化すればプラマイゼロかマイナスですしおすし。
だいたい諭吉10人オーバーのPC落っこどしてぶっ壊れたら泣きます。娘が泣かなくても私が泣きます。
見て分からない人間に言って分からせるのは難しい。こんな言葉がある。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、 ほめてやらねば、人は動かじ。」。五十六ちゃんの名言だ。
見ても分からない人間に教えるのはかくも難しい。「見て分かるでしょ?」で済む「見て分かる人材」がいかに貴重なことか。
「1を聞いて10を知る」なんてまだまだ有能じゃない。「聞かなくても知る」のが真に有能だ。
人生には無数のシチュエーションがある。本で読んだ知識が通用しない時、頭で考えていた通りにいかない時も沢山ある。「言われなくても知る」には知識や思考だけではダメなんだ。
「見て分かる力」が大事なんだ。そんな「見て分かる力」を持った人こそ「地頭がよい」とみるべきだ。
ところで、程度の差はあれ見て知るのは誰でもやっていることである。私たち人間は頭で考えなくても見てある程度学習できる。
いちいち全てを頭で考えていたら頭がパンクする。時間もかかる。忙しい世の中にもついていけない。だから多くの知識は見て学ばねばならぬ。見て分かる力は超重要。
重要な力だが個人差は激しい。見ても中々覚えられない人から一発で覚えられる人までいる。見て一発で多くのことが分かる人は極めて少ない。そんな人材を我が国は育てるべきだ。
知識だけで役に立たない人間はいくらでもいる。そこで「生きた知識」って言葉が叫ばれる。臨機応変に使える知識。
そんな知識をつけるにはどうすればいいか?とにかく実践?そうじゃない。沢山実践しても要領をつかめないと意味がない。その要領をつかむために見て分かる力が重要なのだ。
「身体で覚える」という言葉は窓から投げ捨てよう。馬車馬のように働くのは御免だ。無駄な努力大好きなドMでもない限り。
日本は美徳の勤労を「無駄のない勤労」にアップデートすべき。国際競争に勝つためにも、そうすべき時代に来ている。今すぐにも見て分かる力を養成せねば。
見て分かる力は従来の学校教育では育たない。知識偏重は駄目ってことで思考を育てる教育が推進されてる。でも、思考偏重もダメなんだよ。
確かに論理的思考力は情報の真偽や矛盾を判断するのに重要だ。また、思考力があれば知識の少なさをかなりカバーできる。だから、思考力は育てたほうがよい。
だけど、思考力だけでは臨機応変にはほど遠い。いくら論理を構築しても現実に即していないと意味がない。論理性と実用性の間には解決しがたい隔たりがあるのだ。
なのに思考力ばかりが重視されてしまっている。それも本の知識をもとにした思考が想定されており、現場の知識はほとんど想定されない。
そんなことだから、それに反発して「とにかく実践」を連呼する実践至上主義が出てくる。結果、頭でっかちな人間と体育会系人間を育てているだけで、本当に必要な人材を育てていないのである。
そもそもの原因は思考への誤解である。思考など人間の情報処理の氷山の一角なのである。それがよく分かってないから思考偏重になる。
人間はいちいち考えずとも見て沢山の情報を処理している。思考はその一部をピックアップして制限された処理をしてるだけ。
具体的には、使用言語、論理性、興味、好み、道徳性、常識、先入観といった制限を受けるということだ。
そうした制限とは引き替えに良質な情報が得られるかはともかく、とにかくかなり制限される。仮に良質でも微量では役に立たない恐れがある。
そんな思考ばかりを推進せず、まず現場の実物や実態をよく見たほうが良い。そのほうが現実に即した情報が大量に入る。
この手段を世間では「観察」や「直観」と呼ぶ。「観察」だと得られるのは生データであり規則性を認識するニュアンスが弱い。よって、ここでは「直観」という言葉を用いる。
教育学において直観は古くから重視されてきた。しかし、教育制度や教育現場ではあまり重視されてこなかった。
思考への過剰な信頼が原因である。今こそ我が国はデカルトに象徴される西洋近代合理主義を振り払う時なのだ。
スローガンは「見りゃ分かる」だ。この言葉をどんどん使っていこう。「ググレカス」(調べれば分かる)や「頭使え」(考えれば分かる)は抑え目にしていこう。
俗に言われる「空気読め」という言葉や、世の会社で言われる「周り見ろ」という言葉もこの亜種だ。じつに妥当な言葉である。
ただ、「見ようとしないこと」を非難してはいけない。部下が言うことを聞かないのはあなたが部下を「見ていない」からである。
また、「見ても分からないこと」も非難してはいけない。誰でもステップバイステップで成長していくのであり例外はない。適切なステップを与えるのは教育者の役目である。
よく話題になるっていうか非難される論調でよく耳にするよね。
「絵描きさんでしょ、さささって簡単でいいから、結婚式のイラスト描いてよタダで!」ってのがいいか悪いか、って感じで。
プロに無料で頼むことは勝手だろ、とか、受ける受けないも勝手だろ、とか、
プロに無料で頼む行為そのものがプロの待遇をさげるからだめだろとか。
基本的には、頼む人は厚かましい人、っていう論調で語られるケースが目立つかな。
俺も同意。
いくら知り合いでも、プロじゃなくてアマでも、仕事を頼めば謝礼は払うべきって思ってる。
俺が話したいのは教育の話だ。
プロに無料で仕事を頼むのは、基本的には推奨されていない空気を感じるが、こと教育に関してはそうでもない気がする。
教育者としては、目の前にいる子供のために、自分のすべき仕事がどれくらいあって、何をどれだけすべきかってのは自分でだいたいわかると思う。
仮にその量を100としよう。
そうするとやっぱり、できるだけ100しなきゃいけない、100しようと本人は思うわけだ。
しかし、実際、教員の仕事として給与を出すのは40だけです、といわれるわけだ。
そうすると腹立たしいわけだけど、じゃあ40しかしません!とはなかなか言えないし、同僚の先生にびっくりするような
批判をされるし、モンペから問題にされることもあるし、何より目の前の子供のためになるならば、と思って結局は100近く、
なかなか全部は無理でも90とかの仕事をするわけだ。
しかし、それだけやっても、教育に関しては保護者の要望って様々な価値観があるから、教員の考える最大公約数的な100が、
実は我が子にとっては20なんです、って言う親がでてくるわけだ。
100は無理でも70くらいはしてよ、って言ってくる。
そりゃまあ、教員がすべき仕事はちゃんとすべきだ、って思うよね。
しかし、そうやって全保護者の求めることを全部こなすと、じつは一人の教員は200くらい仕事しなきゃいけなくなる。
一人でできる限界量は90-100。
こりゃ問題だわ。
で、教員の多忙問題の話になると、そりゃ待遇改善すべきだ、教員を増やすべきだ、って話になるわけだけど、
プロにただで頼む問題に否定的な意見を表明する人が、実際その状況になると、当然の権利として、
プロにただで仕事を要求しているのが教育現場だ、って特殊な状況に気づいていないことだと思う
しかし教員も最大公約数的なベストな方法しか実際は無理なわけだ。
教員の待遇を改善しよう、って他人事な賛同はしてくれなくていいので、
教育のプロに対して、納めてる税金以上、教員の給料以上の要求をしていないか、ってことだけ、思い出してくれたらそれでいいと思う。
今は少し太くなってる。
プラチナ万年筆から出ているのがなじみがあるやつだと思う。800円くらい。
http://www.platinum-pen.co.jp/softpen_top.html
採点中にインクが切れると今まで覚えていた答えを忘れたり、調子が狂ったりするので2本は持っておきたい。
ペン先と補充用インクも忘れずに。
家で採点しようとして、学校に忘れてきた場合は、ぺんてるのサインペンで代用できる。
黒と赤。できれば速乾タイプ。
教員になって、その日に使う。ひたすら名簿や帳簿にスタンプ押していくので、採点ペンよりも先に買っておくべきもの。
確かそれぞれ1200円くらい。
好きなの買えばいい。浸透式のスタンプは音読カードの確認用として活躍する。子どもたちに使わせるなら浸透式。
忘れた子ども用。最終奥義で貸し出す。持ってこないのが悪いのに、大抵持ってこないのは学力低位な子。忘れたんだから漢字練習でもしろ、と言うとぐんぐん学力が落ちていくので貸さざるを得ない。
クラス規模にもよるけど、3セットずつくらい。これは100均のでいい。分度器だけは左右均等に開くソニックのがよい。
学校用に販売されているシール。量販店で買うと親と被る場合があるのでオススメできない。
大抵200枚で200円だが、キラキラが入っていると50枚とかになる。
業者に電話するとき、「学年費じゃなくて私の個人で買います。」で自分宛に請求が来る。学期末にまとめて支払いで大丈夫。
何でも良いが、中がコルクだとプール指導の時に水没させた時に一瞬使えなくなる。
B4サイズがはいるかごを持っておくと、開いた状態でノート提出をさせられる。
スーパーのエコショッピング用のかごは、職員室から教室の荷物の移動に役立つ。
ノート40冊、プリント120枚、漢字ドリル40冊、全部持って移動とかざらにある。
体育の時に。普通の時に着るのは怠慢というか、子どもの頭が切り替わらない。
座学の時は座学のための服を着る。メリハリを持つ、持たせるのが大事。
ここまではまぁ普通に持っているはず。
そして、他にもいろいろあるけれども、ここから先は持っているとオススメなもの。
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音楽の授業をする時や、合唱曲の練習など、多岐にわたって活躍。どうせチョークの粉で接触不良になるので、安いので良い。
サスティーンペダルも同時に購入すること。
lightning-HDMIのアダプタも買っておく。そうすることで電子黒板につなげる。
SDカードのスロットがついていると、子どもが写真を撮って自分で印刷するという流れができる。
子どもが使えるようにしておくとまたちがう。学級会の話し合いのメモ、理科の観察、体育では動画モード、何でも使える。
複数台そろえておくと班ごとに使ったりできるのでいい。どうせ壊れるので安いので良い。
オススメはオリンパスのVH-510かその後続。価格と性能のバランスがいい。
教室の狭い空間に違和感なくおけるのはSurface。残念ながらMacは教育現場では役に立たない。
校務用パソコンが整備されている学校もあるが、教室に持ち運んで良い学校は少ない。
よって、これ。動画を見せたりするならWiMAXなどの契約をしておくと、校内のLANと分離されるのでオススメ。
というか個人所有のPCはセキュリティポリシーで校内LANにはつなげない。
なごむ。子どもに活躍の場を与えられる。中にはメダカでも入れておけば5年の理科で使える。
他にも色々買ったけど、授業スタイルによってまだまだそろえるべきものはある。基本的に全ての教科を指導するので、全ての教科で必要な用具類はそろえておきたい。
これもまた、特に裁縫セットなんかはどんどんコンパクトになっているので、時々買い換えないと子どもに説明するときに混乱が起きる。
29歳ニート。
金がなくなっては親にもらってきた10年弱なので(大学はストレートで卒業。大学卒業後からカウントするとして)、もらった金額はどえらいことになる。
さすがに30の大台に近づいてやばいと思ったが、今までストレスから逃げ続けてきた人間がいきなり正社員を目指すのも無理ゲーだと思ったので、手始めに近くの某ファミレスでバイトすることにした。
そもそも飲食店では絶対に働くものかと思っていた。自炊もほとんどしないし、その理由も洗い物が苦手だから。んで接客業も無理。クレーマーみたいなのに不当に暴言吐かれるとか耐えられない。でも何を思い違ったのか、キッチンならやれるのではないかと思った。客との接触は一切なしだし、なんか時給も高かったし、早朝から働けるのが良いかなと思った。早朝ならヒマなんじゃないかなという淡い期待もあった。あれほど飲食店ではやらないと思っていたのに。接客をしなくても良いとはいえ、そこではスタッフ同士での人間関係があったわけだが、それは何とかなると踏んでいた。ファミレスのキッチンってどうなってるんだろ?という興味もあった。
面接。
ニートの経歴はさすがにありのままに喋ったらまずいと思い、適当にバイトしてたことにした。経歴詐称。
そうしたら面接3分で採用となった。そりゃ今の飲食業界のこと考えたらまあこんなもんだろうな。
休憩室に行ってみると何人かの社員だったりバイトだったりがいるのだが、ものすごく和気あいあいとしている。元気いっぱいだ。この人たちはなんでこんな生き生きしているのだろうとか思った。いわゆる体育会系というやつ?こちとら30手前の元ニートだ。日銭を稼ぎに来ているだけだから夢も希望もない。30代のオーナーと20台の社員が何人かと、近くの大学に通う学生、パートのおばちゃん、そんな感じ。
当たり前のことだがランチ時のキッチンは地獄。まあこれはフロアも地獄だろう。この世のものとは思えなかった。ランチ時だけ時給を3000円くらいにするべきではないかとか思うのだけど、そんなわけにもいかないよな。
入社2,3年(たぶん)の若手社員(とうぜん年下)がいた。女。仮に「なでしこジャパン」と名づける。
初日。
メニューは厳格にマニュアルが決まっていて、サラダ作るにもデザート作るにもレシピが決まっていてまずはそれを作業する中で覚えなければならない。それはそうだ。覚える。しかし1,2回で覚えられるわけがない。
んで先ほど教わりながら作ったメニューがもう一度注文が入る。自分でやってみるように言われて作る。レシピ表を見ながらゆっくりと。
でもここでなでしこに怒られる。
「さっき教えたましたよー(覚えてないんですか?)」
マジか。これがいわゆるブラック企業というヤツなのか。いや、それともこれが社会に出ると言うことなのか。今まで逃げ続けてきたから知らなかった。
しかもその後に言われたことが衝撃だった。
(ひとり言のように、あるいは他のバイトに問いかけるように)「2回同じこと教えるってメンドウじゃない?すごくメンドウだと思うな。ワタシだけ?」
マジか。
まさかこんな序盤に、こんな方法で精神を削られるとは思わなかった。
「2回同じことを教えるのは面倒くさい」こんな当たり前のことはない。正論すぎる。正論でもって精神を削る。これが社会か、、、!
でもレシピを覚えるっつったってそりゃ限度があるでしょう。1回じゃ無理。慣れてないんだし。先が思いやられた。
数日経つと、なでしこはいつの間にか別の店舗に異動になっていた(若手社員はいろんな店舗に回されるらしいね)。
代わりに来た社員(当然年下)は優しい人だったので良かった。
1カ月がたち(このペースで記述していたら終わらないので端折る)、もしかしたらこのまま続けられるかもしれないと思った。
でもやっぱり無理だった。
20代の学生、30~40代のパートのおばちゃんの中で、アラサー元ニートは不当に蔑まれた。軽んじられた。
「なんでこんなこともできないんですか?」というプレッシャー。常にこれとの戦いだった。
向いてないなりに一生懸命やったのだが。
教育現場では「なんでこんな問題もわからないの?」という言い方はご法度だが、社会というものはそんなに甘くなかった。知らなかった。いや、今となっては知らないふりをしていただけだ。
でも全ては良好な人間関係が築いているかどうかだということも分かってしまった。
例えば、新メニューが始まったとする。
それを初めて客に出すために作る時、ミスをしたくないからレシピ表を見ながらやる。
そうすると「えっ、覚えてないの?」と言われてしまう。もちろん冷たい言い方で。これはもう何も言い返せない。逆ギレはできない。それは紳士のやることではない。
しかし円滑な人間関係を構築している学生バイトだと、「講習受けてないっす」とか「次○○でしたっけ?」とかいう気の抜けた質問をしても許されているようだ。
注意するにしても「勘弁しろよー」と言ったようなサークルの先輩後輩のようなノリ。この差は何なのだろう。
であるならばその良好な人間関係を築きたいものだったが、それが出来なかったようだ。
こちらが好意を示すとそれが返ってくると本で読んだから(逆に相手を嫌うとそれが伝わって嫌われてしまう)、そうするように努めたのだが、いつまで経ってもそういう関係は築けていない。これからも築けないことも分かった。
ということが2ヶ月の段階で分かったから、やめた。
それにしても学生バイトの「自分はだいたいの仕事ができる頼れる男だ」と言わんばかりの全能感はなんだ。
自分がいないと店が回らない、店長よりも仕事ができる、といったような自信は。
将来、就職試験の面接で、学生時代に経験したことというテーマで「飲食店のアルバイトで現場を回していました」とでも言うのだろうか。
まあそんなことはいい。
2か月で逃げ出してしまった。
この先どんな仕事も出来る気がしない。
タヒにたい。。。
塩村議員に対する野次。
隊長や某コラムニストらのゲスい「塩村ビッチ論」はおいといても、塩村議員がどう感じ何に涙したのかはわからない。
だけど、このニュースは不妊に悩む女性にとってはショッキングなことであったことは間違いないと思う。
かくいう私も都内在住で30代不妊に悩む女性として憤ったり悲しかったり。
不妊って、本当にしんどい。「子供ができなかったなら仕方ない」と覚悟を決めないとやってられない。
数ヶ月前から不妊治療のクリニックに行き始めた。日本の(というより東京都の)不妊治療の現状を知って衝撃を受けた。
時間予約ができないので2時間待ちは普通。いつ行っても待ち合いスペースは20代〜40代の女性であふれている。
こんなにたくさんの女性が不妊に悩んでいるんだ、と衝撃的だった。
第二に、保険が利かない診療科目が多いので当然ながら治療費が高額。
通常なら1回の通院で3000円〜10000円以上かかる。
これが週に数回かかるとなるとかなり痛い。
もちろん、体外受精をすると1回につき数十万円が飛んでいきます。
そして、どれだけ高額の治療を受けても、それが必ずしも「結果」(=妊娠・出産)に結びつく訳ではない。
第三に、時間の融通が効かないということ。
初期のタイミング指導なら、排卵日1週間前くらいから毎日のようにクリニックに通って、超音波で卵子の育ち具合を見て、十分な大きさになってきたら医師から「今晩タイミングとってくださいね〜(=sexしてね)」と指導される。
困るのは、「じゃあ、明日の朝、もう一度来てください」と言われること。
働いている身としては「いや、無理です!」としか言えない。
私は教員をしている。授業計画に沿って授業をしているので、突然「授業を休む」なんてとんでもない。今日の明日で、代わりの人に授業をやってもらうわけにもいかない。
もちろん「私、不妊治療してるんで突然休むことあります!」と宣言すれば、受け入れてくれる職場ではあると思う。(学校にもよるだろうけど、教育現場は出産・育児に関することについては割と寛容です)
だけどその場合、授業を頻繁に休講にする理由として、生徒や保護者にも「不妊治療宣言」をする必要があるだろう。保護者からは「そんなにすぐ休む人をうちの子の担当にするな」というクレームも来るだろう。
結局、仕事を休む訳には行かないので、不妊治療クリニックの通院は今のところやめている。
私のように、仕事の都合で不妊治療を続けられない女性って少なくないと思う。
長々と書いてしまいましたが、とにかく不妊って「しんどい」ってこと。
不妊治療の一番辛いところは「私が悪いのか」と自己批判・自己嫌悪に陥りがちなところだと思います。
妊娠できない自分が悪い、妊娠するための治療も受けられない自分が悪い、と。(科学的には、不妊の原因は男性と女性で半々だけどね)
そういう実感を持ちつつ、件の野次のニュースを見ると「あぁ・・・」って絶望しかないですよ。
おっさん世代には「産めない女性が問題」という認識が未だにあることとか、そして今後不妊治療が受けやすくなるような社会制度が作られたり、社会的な認知が広がることはないだろうこととか。
というわけで本題ですが、そういうおっさんに同じような痛みを持たせられるセクハラ野次って何がありますか?!
「お前のくされチンポ、いつ勃つんだよ!」みたいな?
午後9時くらいまで全員学校に残って自主的に勉強しているらしい(塾のようなものには行かないようだ)
ちなみに日本のような部活は存在しない(学校からスカウトされるものはある。自分から入るものではない)
エリートコースは
地元の伝統的な中学校→地方の伝統的な高校→北京大学 だったかな。うろ覚え
ただ、競争が激しすぎて小さな子供が自殺するのが中国で問題になっていると言っていた
(追記)
上記はエリートコースに乗っている女性から教えてもらったのだけれども
個人的には元増田の言うとおり教師の給料を上げるのは良いことだと思う
塾に行かずとも学校で勉強できるのも良いと思うけれどこっちは難しいか
日本の教育現場の現状は教師の数が足りないのと負担が大きすぎると聞いたことがある
良い所だけ取り入れられたらいいとおもう
90年代、学校教育、特に教師に対するバッシングは凄まじかった。反体制なムーブメントと共にマスコミも便乗し、その結果教育現場の生活指導的な部分が過剰に規制され、体罰の禁止、テストや競走の順位付け禁止というある種いびつな現象を生んだ。
しかしゼロ年代後半から「モンスターペアレント」という言葉が出現し、その言葉がバッシングの対象を親側にスライドさせた側面は確実にあると思う。
学校側に理不尽な要求をしてくる厄介な人達が存在する、という事は現場では以前から認識されていたが、そういった人種を上手く言い表せる言葉がなかった為、言及のターゲットとして焦点を当てにくかった。
しかし「モンスターペアレント」という言葉が出現したことにより、その言葉の響きと人種を一括りにできる利便性から、マスコミや言論の場で頻繁に使われるようになり、その結果教師バッシングを終結させ、バッシングの対象を親側にスライドさせる動きとなった。
このように特徴のあるヒト、モノ、コトを一括りにできる便利なネーミングの存在は、争点をまとめやすく言及のターゲットとして焦点を当てやすくなり、言論の流れを変える力がある。
「ストーカー」という言葉がある。手塚治虫の「ブラックジャック」には若きブラックジャックが思いを寄せる女医を毎夜毎夜帰り道に危険が無いように後ろからついて回っていたという描写がある。結果的に暴漢から女医を助け、「いつも見守っていてくれたのね」と女医が感動する美談としてストーリー上では語られている。当時は美談としての解釈も可能だったのだ。しかし、現代では間違いなく犯罪者扱いである。
本人としては善意からの行動であったとしても、「ストーカー」という言葉は単にその行動を表す言葉であるため、言葉と共に性犯罪者というイメージが勝手に付随され、女性側としては恐怖と嫌悪感の対象でしか無くなってしまう。「ストーカー」という言葉が存在する以前は多様な解釈が可能だったのが、以後は一括りに扱われ一つの解釈しか出来なくなってしまった。
「草食系男子」も大きな力を持った言葉だ。命名者の当初の意図とはニュアンスが違うそうだが、現在定着している意味は「女性に積極的になれない男性全般」といったところだろう。
ハッキリ言ってこの手の男性は大昔から存在している。決して最近になって現れた兆候ではない。
「男はつらいよ」での寅さんは、いくら女性から積極的に誘われたとしてもあと一歩のところで女性を口説き倒してモノにすることができないウブで女々しい一面を見せているが、観客からはそこがいい、味のある男と好意的にとらえられ支持され続けていたのだ。
しかし「ストーカー」同様、現在この手の男性は「草食系男子」以降多様な解釈がされずに一括りに扱われ、「オスとしての本能を失った情けない男性」という一つの解釈しか出来なくなってしまったのである。
事程左様に人々の言動の流れを変えるネーミングという大きな力。使いやすいからといって安易に使用すると、魔女狩りのような悪質なレッテル貼りの一端を担ってしまう可能性がある。言葉にはそういった力を持つ場合もあるのだ、という意識は常に持っておく必要があると思う。
「算数」は「数学」とは別の独立した学問だというならそれでもいいんだけど
今の教育現場で高校とかで「数学」と別の科目としての「算数」が実施されている訳でもないし…
現状として「算数」が「数学」の前段階として扱われている中で「数学として誤っている」ことが「算数では正しい」というのが数学嫌いを生む要因の一つになっているのが悲しい
掛け算には順序があるよ (順序肯定派)
| └─ 教科書もそう書いてあるんだからそうなんだよ (教科書固執派)
| └─ 学習指導要領にもそう書いてあるよ (実は書いてない派)
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├― 理解を深める、理解力を測るために必要なんだよ (教育論派)
| ├─ 根拠はあるよ (根拠教えて派)
| | └─ 日本の数学の教育水準は高いよ (相関因果混同派)
| └─ 根拠は無いよ (論外派)
| └─ 逆に順序がないという証拠を見せろよ (悪魔の証明派)
|
| ├─ 授業の終わりまでだよ (不正解否定派)
|
| └─ 不正解を貰うことで子供は考えるよ (正解を不正解にする派)
| └─ この程度で萎縮するようじゃどの道挫折するよ (マッチョ派)
|
├― 逆が正解だよ (変則肯定派)
|
├― 順序に反対したところで教育現場は変わらないよ (消極的肯定派)
|
|
└― 受けと攻めははっきりしておく必要があるよ (カップリング派)
掛け算に順序はないよ (順序否定派)
|
| ├─ 数え方で順序は入れ替わるよ (トランプ配り派)
| └─ 面積を教えるときどうするんだよ (縦横派)
|
| ├─ 不正解にすることで子供が萎縮するよ (萎縮危惧派)
| ├─ 順序を重視するなら問題文に記せよ (無記述否定派)
| └─ "×"を使わず独自の記号を使えよ (算術記号原理派)
├─ 算術記号の"×"と言語の"掛ける"は別物だよ (算数国語分離派)
| └─ ×は「掛けるまたは掛けられる」という算術記号だよ (新定義派)
├─ 順序は教えるための道具でその場限りのローカルルールだよ (順序道具派)
└─ 順序があるとする根拠が何も無いよ (根拠見せろ派)
先の沖縄での女性蔑視発言を経て女性票が著しく減った大阪維新の会は、その汚名を返上すべく今年の大阪府職員採用試験では、女性を優先的に採用した。
これぞ職権乱用かつ私的に女性しか採用しないといった方法で以って公務員試験で女性を優遇せしめた事は言語道断である。
何故ならば雇用均等法および男女共同参画社会基本法に則れば、男女比は同じにすることが義務付けられるべきであり、男性ばかりを優先的に採ってきた反省から
しかしながら、実際に女性が面接試験すなわち筆記試験に合格し二次試験となった時、ほぼ全員の女性が即通過となり、逆に男性の割合はとんと減少している。
これはどういうことか?
先日、朝日新聞で、こんな記事が載っていた。
公募校長に橋下徹氏の鶴の一声。氏の友人という事で面接なし即採用という校長がいたという内容だった。
ちなみにこの校長、民間校長職に赴任してから半年で不祥事を起こし、これまた橋下氏の鶴の一声で不問になっている。
やはりというか、大阪教育委の人事権を氏が持った事でこのような愚行がなされる、というのであれば本当に大阪の教育現場を正そうとする姿勢とは裏腹にやりたい放題である。
これまた先日も、維新の会市議の美延映夫氏が政治資金パーティーで起こした学校教育の現場での不祥事を、橋下徹氏が庇ったのであったが、果たしてこれが橋下徹氏のやりたかったことなのだろうか?身内に甘い体質作りが氏のやりたかったことだとしたら、正直言って失望したと言わざるを得ない。
氏は今日もツイッターでつぶやいているが、何故かフォロワー達は擁護や同情はあれど批判的なリツイートが殆ど見当たらないのである。
これはどこかの不敬罪議員の周囲と似ているような気がしてならない。
やはり、こういった行為が当然のようにあって、また箝口令が敷かれているのだろうか。
批判は悪だ、これではナチスと揶揄されても仕方がないではないか。
件の不祥事で減った維新票を取り戻すために、大阪府職員採用試験まで私物化する愚行、誰かが止めなければならないのではないか?
理論武装した娘との交渉は困難を極める。
例えば端末の購入。
「どこどこの店だとキャッシュバックがいくらあって、事務手数料と初月オプション加入料を差し引いても1万円以上の黒字。ソースはこのURL」といったことを言ってくる。
子供は親に「買って」とねだっているのではなく、「契約書にハンコを押して」と言っているのだ。
維持費についても「3円運用できる」、「物置に眠っているモバイルルーターに格安SIM挿してWi-Fi専用機として使う」、「今度うちの固定回線のプロバイダー代えるよね? 今ならキャンペーンで……」などと、子供の小遣いでやりくりできる代案をいくつも出してくる。
タブレット端末が教育現場で使われている記事を見つけると「ねぇ」と言ってくる。ポルノサイトよりニュースサイトがある意味有害コンテンツ。
お前はまだ子供だからSNSやソシャゲでトラブルになったらどうするんだと言うと、「炎上ツイッタラーや課金兵たちは大人だよ」と切り返される。
親としてはぐうの音も出ない。
「スマホ 子供」で検索すると、どうすれば成人向けコンテンツと課金サービスから子供を隔離できるかといった議論を親たちがしている。
恐らく問題はそういうことじゃなくて、情報とどう向き合うかなのだと思う。
ずいぶんと抽象的な表現だが、具体的な言葉は生き馬の目を抜くような情報技術の世界においてはすぐ陳腐化してしまう。
拡張性に乏しいiPhoneでさえ、グーグル先生に聞けば抜け道が分かる。Android端末は言わずもがなだ。
娘には今、「父さん提督は“艦これ”に忙殺されていて、契約書にハンコを押す暇もないんだ」とよく分からないことを言ってごまかしている。
最近か少し前に良く体罰だの教職員による暴力だのでニュースになっているのを見かける.
大抵のニュースで取り上げられるのは過度な教育によって起きる暴力での指導だったと思う.
このニュースを見た人達や情報を得た人達は"暴力で解決しようとするのはよくない"といった意見が多く、たまに"教育だから仕方がない"といった意見もチラホラ見かける.
後者はたいていそういった教育を受けてきた人達が多いのでは無いだろうか.私は力で解決するような教育を受けたことがないので予想でしかないが.
そして最近では親の過保護(上記の場合は除く)もあり教育現場ではあまり力を行使するような場面も多くなってきた.
しかしこの状況にも私は疑問がある.
私は必要な状況ならば暴力というか力を行使した教育を容認すべきだと思っている.
何故なら最近の若者(という表現は微妙だが) はあまりにも態度が酷い. 昔なら授業中に寝ていたら頭を叩かれたり、悪いことをしたならば悪くて殴られたりというのもあった.
さすがに殴るのは度が過ぎてると思うが、注意するだけでは無意味であると感じられる.
もちろん授業中に寝るなど言語道断の行為だ. 指導者に対してはあまりにも失礼極まりない態度だ.①
悪いことをしたら悪いということを身にしみて感じさせるのにはある程度の力は容認されるべきだと思っている.
またこれらの報道を通じて生徒は教員に対して力の及ばないものだということが小学生にも理解できる.
そして態度の悪い奴は教員に対して舐めた態度をとる. 最悪注意などでは意味ない状況もある.
これらのことから私は必要な状況ならば多少の教育に力が介入することを容認すべきだと思う.
① 授業中に寝る行為について
授業中に寝る行為はよろしいとは言えない態度である.しかし家庭環境によっては授業を受ける間に寝るしかないという子供が居る可能性がある.
このような状況の場合で力が介入することはあまり良いとは言えないだろう. ③
②口頭での注意について
口頭で注意することが無駄な場合とは比較的簡単な問題だ.まず口頭だけで注意する.そうすれば力を行使すべき人の区別ができる.口で言えばわかる人は口頭だけで済むだろう.
それでも悪い行為を続けるのならば力を行使すべきであると思う.
③人によって行使すべきか否かによる差別
人は自分が悪い状況に置かれた場合しばし差別だという事を言及する.これは厄介なのは親の介入だ.
悪いことをしたならばそれ相応の見返りが必要であるというのに対して子供が傷つけられたと感じる親はいまどきほぼ全員だろう.
しかし親以外の人から怒られるというのはそれもまた非常に良い経験であると思う. それは口だけで叱責されるものとは別のものである点にも.
結論から言うと、私は力の介入した教育は場合によっては必要であると思っている.
しかし文頭に例示したニュース等を見ているとあまり教員に教育を任せることは些か不安であるようにも感じられる.
また必要な状況と場合を判断できない可能性も考えられる.そういう場合は極力手を出さずに口だけで叱責した方が下手な問題を起こさずにすむだろう.
非常に難しい問題であるとは思う.
http://bipblog.com/archives/4502962.html
まあ、昔からある論争で、一言でいうなら『「子供」の「供」は「供え物」あるいは「従者」の意味だが、子どもは大人の供え物じゃないから「子ども」と書け』というやつです。これに対して『子供を「子ども」と書くのは言葉狩りだ』という勢力がいて、長年血で血を洗う戦いを繰り広げているのでした。
さて教育界ではどうなっているのかというと、公務員には「表記便覧」というものがありまして、作成文書の表記は基本的にはこれに沿うようにします。
で、地方公務員たる我々小学校教員もこれに従う訳ですが…おっと失礼、この時の「訳」はひらがなで書けと表記便覧にある…というわけで、「こども」表記も実は規定されています。
曰く、「こども」は「子供」と書くのが現在の規定です。そして「こどもたち」は「子供たち」と表記します。(少なくとも東京都では)
ちなみに10年ぐらい前は「子ども」「子ども達」だったらしい。
まあ、そんな状況ですので、いまだにネットで「教育現場では『子ども』と書くらしいが、そんなのうんたらかんたら」と語気を荒げる方を見かけるのですが、そっと言ってあげたい。
「その情報、もう古いです。」
でもこれ、どうせまた10年ぐらいしたら変わる気がする…もうさ、この論争いい加減どっちかに固定して欲しいんですけど…。
これって上の派閥争いの勢力図の結果なのかなあ…とぼんやり思っています。ぶっちゃけどうでも良い。
まあね、我々はお上の言うことに従うだけですけどね…しょせん(×所詮)公僕ですし。
①
>これはそういうゲームなのです。
ゲームは現実を基礎として可能性や実現度に関して人間の知覚において擬似的に体験させることで快楽を得る嗜好の形態です。
現実がゲームに似ているのではなく、ゲームは現実を基礎として現実の世界において存在できるように作成された商品です。
ゲームが現実の下位クラスであることを認識するには大人になって感覚による知識などを得ることが必要ではないかと想像されます。
現実のルールを基盤にしていないゲームがなにかひとつでもありますか。
たとえば「夢」は現実にはいまのところ存在していませんが、夢と似た構成のゲームがありましたか。
「Aさんに声をかけたらBさんだった。Bさんはカエルで、私は橋を渡ろうとしたら足元が崩れてちがう商店街に移動して、お店で飲み物を買おうとしたらそこは実家だった。実家は農家でまわりに民家はなく。」
みたいなストーリーを自分自身がたった一人体験したという以外の話を、夢という記憶に近い情報を共有できていない現在の段階で聞いたことがありますか。
現実のルールを基にしてはいますがそれをゲームという感覚で共有しようとしている行動自体が「夢みたいなもの」ではないですか。
あなたの夢見た世界を現実にする手段としてはゲームがあると思いますが、世界はオーナーもメーカーもユーザーも無いですよね。
世界を支配しているのは特定個人だ、という「夢」も抱くのは自由です。それをおしゃべりして受け入れられる友達は、社会に出たら数が少なくなっていくのではないでしょうか。
②
>これから数十年後、日本の子供達は公務員の家族の子供がメインになります。
匿名掲示板で自由を謳歌されているようですが、匿名なので個人について意味はありません。どれが僕の文章ですと開示いただいた分だけをまとめとして情報を総合的に得ますがさらに他にも文章があったりまたは他人の文章を項目に加えても判りようがありません。
それを踏まえて匿名の方が特定個人や団体を指摘しても「フィクション作品にでてくる団体が実在しているか、またはそれらを具体的に指摘しているものか」という価値観には疑問を匿名である私個人は抱きます。
もちろん今後それが発生するか、その市場規模はと思い図ることができる情報でないことではあります。歴史上成功例があるから効果があるだろうというのは意味の無い発言ということになります。
では転じて意味のある発言と考える候補とすると「歴史上成功した例を私が実際に取り組み始めます。この結果がでることは自分は確信しております。」ということになります。
実行すること自体にのみ「意味」という他人の評価を得る結果を生成します。
行動すれば結果はでる、だがしないまたは行動しても結果は目に見えているという情報そのものはその時点で情報としての役割を終えている末端消費商材ですので、情報を得た時点で取引が終了しているものと同等の価値、転売時にどれほどの価値になるであろうかと考えます。
特定の業界を席捲した成功者がいかにして市場の全てを掌握できたかという伝記本を情報として販売したとしても、その業界にはもう他者の立ち入る隙は無いという裏づけ情報を手に入れてもその市場に入るための手段に自身の研究として使う以外、転売したりするときに本の値段以上の価値が発生するものでしょうか。
これからの時代、これがメインになる、これが大多数になるであろう、こういう流れになる、はどの業界のどの部分がどういう方向になるのか、ただ大きなタイトルをもってきて「こうなる」というのでは「大きな船は遠くまで旅ができる、しかし小さな港につけることはできない」といったなにやらすごい発言のようですが実際の船を所有するオーナーはそんな名言を教えていただかなくてもわかっている話で実際そういった条件を前提に行動をされていくことと思います。
この文章をはじめ、なにがどうなるというのを行動もせず発言すること批評すること、批評について賛同者に実行者を含めない場合または評論自体が感覚として自身が認識したことを羅列するだけでは「自分の感覚を自己紹介しているだけ」ということになります。
自己紹介自体には自己という存在を相手に知らしめることとして十分な意味がありますが、匿名である状態での自己紹介にはなんら意味はありません。
②が文章の大半を占めるので、お伝えしたい内容のほとんどになりますが最後に
日本、世代、現実、経験、理論などはご感想に述べられていることについてご自身と、お話をされていることとに一切関係がありません。
世界のなにがどうなっても、いつもどおりの仕事をしていつもどおりのお給料をもらって、いつもの買い物にいったらいつもと違っていてショック、ということになるかと思いますがご自身には変化が一切なく供給されるものについての変化にご自身が感想を抱くだけで、それはご自身単体の感想です。
「世界が変わったのにみんな何にも思わないのかよ俺だけが世界の異変に気付いているのかよ」とかフィクション作品にまみれているという雰囲気がまた未成熟さを感じさせるのだと思いますが、大人になればそこまでピュアな心を維持できません。
他の方がとくに顔色を変えずに消費税が割り増しされた商品を買っていく様子をみて「社会がおかしい」とかよりも自分の家計と会社の残業時間を鑑みることなどを一例にしたいと思います。
自分の残業時間で生産された商品が流通市場の何割り増しになってコストをいくら下げて売上がどれほどあがってそこからの納税分で社会サービスがいくら向上して社会がよくなるとか、考えなくても日々の業務を懸命にすることで成果はでるはずなので考慮する必要も意味もありません。
そのうえで労働と対価と社会性についてご自身の環境を疑問に思うことがあれば、発言の方向性はまたちがったものになるのではないかとおもうところから「社会生活が充分ではないのではないか」という感想を受けることになるのではないでしょうか。
総理がバカで右翼で経済が滞って日本人の意識が低くて戦犯で商品のレベルが下がった、とそういう見識をお持ちだとお話をされてなにがどうなるのですか。
だれが、どうするのですか。
ご自身が満足する以外に、ご自身が満足するためだけに自分のストーリーを人に「そうだね」といわせしめんとしている以外が、なにか文中に存在していましたか?
教育現場では「うんそうだね」とは言われなくても実際に今後行動する指針や論理の基盤としての知識をできるだけ記憶の引き出し上部にもってこようと繰り返し伝達したり、行政は「うんそうだね」という書き込みだけではなく実際に生産、消費、成長を促すことを紙切れに書いた文字や電子の塵にしないように印紙をはりつけて価値のある物質として約束を物質化したり発言を物質化したりしていますが、末端で消費する個人は自身の時間や身体能力などを消費して自分自身を切り売りしなくてもよい備蓄を得て、それを交換に他人の生産物と交換していますが、ご自身は消費するだけで他人から金銭を必要とするような生産、再利用性や価値を文中のどこに含まれていたかを考えて、「無料で匿名なのに再利用価値がある情報だ」という評価を一人の対話者から得ていることで「一人からは義務教育以下の消費行動である」と認識されている可能性があります。
世界に問題があふれているなら、解決してください
それをしている大人がわるい、というならだれが悪いのか、だれと話をしてどういう方向にすすめれば問題は解決するのか、個人名または団体に発言者ご自身が依頼できる数の案件を挙げてみてください。
たとえば、日本は最低でなんの価値もなくて失敗ばかり、なら日本以外の成功している国に移住してください。
移住できない理由について、移住を許可しない人間の名前と、移住を許可するための条件を教えてください。
移住先が見つけられないのであれば、日本よりよい国の条件を挙げてみてください。
また日本をよくするのであれば、誰がどうするかという意見はもちろん重要ですが、その人たちを動かすための方法とコスト回収方法を教えてください。
それらを解決しましょう。
移住したいがお金がない、とかあるかもしれませんがそれならお金を稼いでください。
どうやったらお金がかせげるか、それをご自身で考えるのは大人であれば必要だと思いますし、しろといわれたことをするのであればご自身の生活を24時間ソーシャルメディアで流せばいいのではないかと私は意見します。人にいわれたことに隷属しねぇ、とか言われるのでしたらご自身で考えてください。ご自身でお金の稼ぎ方が思いつかないのであれば、それがご自身の「国内での価値」なのだと思います。
「そういうのはわかんないんだけど、雰囲気として自由じゃないなーってゆうか、なんかもっとでかいことしたいし。俺を満足させられない世間って、俺さえも満足させられるようにするってことが社会じゃない?」
とか、権利は主張して責任、責任といっても「なにかしろ」という命令ではなく「自身に対する入金先の明示と、交換する有価物の項目を明示する」ことを責任と称しその責任を放棄している状態を「中学生みたい」と言われているのではないでしょうか。
買えもしない車の乗り心地を評論したり、いやなら出て行ける店に居続けて文句をいったり、こうするともっとよくなるという意見について実行内容に一切加担する要素がない状態のことを「きみのその行動をもし実際に行うとしたら、君ではできないので他に代理として行う人がいるのか」という状態を保護者つきという状態と表しているのではないでしょうか。
大人さんの方でしたら「税金、おさめてるし」以外の社会参画とご自身で取り組める改革についてご意見を発してみてはどうでしょう。
子供の方でも税金は納めてらっしゃいます。もちろん保護者の方のお財布から。
保護者の管轄化にあることが「子供」と評価される基準で年齢や容姿ももちろん含みますが「親に生活を維持してもらっている状態」を何歳になっても「子供」だと評価されることもあると思います。
子供である場合は「保護者の生活がよくなりますように」といった意見の出し方が理想的という基準からも「子供」と揶揄するにあたって、評価者の見解から小学生やら中学生などといった表現をすることがあるかもしれません。
仕事もお金もなくても、デモには参加するとかいう人も、いると思います。
行動だけじゃない、言葉にも意味がある、というのであれば公証人役場にいって印紙を貼るべきです。
有料サービスのWebメディアを使うことでも、それなりに価値はあるのではないかとも、思います。
この「私個人」という匿名の相手に対して一言一句、ご自身の感想を述べるのはご勘弁いただければと思います。匿名の私とあなたがなにをどう交流してもお互いにも閲覧される状態にも何も意味がありません。
私自身も、匿名のアノニマスダイアリーという日記をつかって自分の文字を自分のために書いただけであって、お返事を全文引用されて書かれても拝見できませんしお返事も差し上げることができないと思います。
もし返事をされても匿名ですので、返事を「送った相手からの反応」という事実としてお返しすることができません。
もちろん「私はこの文章があなたのものだと確証しているので、こう書いた」と「日記」に「自分の思い」を書かれるのはご自由です。
重ねて「そんなことはない、俺は大人だ。」という主張をする方法として挙げたいのは「ご自身の社会参画と憂思する案件に対するご自身の取り組みの紹介」を用いるで、指摘された「存在理由をビーコンのように発するのは出席簿に返事をする学生みたいなもの、哲学的にハイと返事しようが理化学的にハイと返事しようが大人は子供の夢想をにっこりわらって処理するだけ」を回避できるのではないかと、私は思います。
人に見せたりしない日記に、誰かや何かに対して、どうしたほうがいいとか、書いたりしたこと、ありますか。
匿名の日記が「日記」であることは、ご自身のためだけに記録する媒体であることを意味するにちょうどよいタイトルなのではないかと感じています。
アノニマスダイアリー自体に閲覧数が多いからそこに便乗して自己を個人として紹介していっても、だれにも見せない日記に本当の俺はちがうんだといくら書いてもというそれに似ていませんか。
世界を変えるにはまず自分から、その自分のために自分以外の書き込みもある日記という存在はなんだか有効に活用できそうではないかと、私は感想を持っています。
5月3日の日経に「日本人の金融行動は2極化しているのでは?」という問題提起があった。
「極端なリスク回避嗜好者(現預金嗜好者)と、FXとかにバンバン投資して、極端にリスクテイクする人と、
2極化していて、中間層(ほどほどにリスクを取る人)が希薄」という趣旨。
これって、金融行動以外の、市民の社会行動、あるいは各種リテラシーについても、言えるのでは?
30年前、40年前とかと比べて、中庸に山が来る正規分布から、「リテラシーが凄い人」と「リテラシーが全く駄目な人」に
2極化が進行している気がする。
例えば、行政が、医療費増大を抑えるために、市民に「健康啓発・運動啓発」をしているが、
「運動する市民」と「運動しない市民」の2極化が、30年前・40年前より、一層分化していたりする。
運動する市民の側は、より一層運動に励むが、運動嫌いな市民は、より一層運動時間が減少してしまったりする。
で、問題なのは、行政が「健康啓発セミナー」を開催しても、集まるのは
「もともと健康・運動好きな、健康オタク」ばかり来場してしまって、行政としてはもっとも来場して欲しい
運動好きな人にますます運動を啓蒙したら、活性酸素で却って体を痛めてしまうのだが・・・
厚生労働省とかが「市民の運動時間調査」しても、平均を見て論議するのは、全くの見当外れになる。
例えば「運動時間合計が1週間で1時間未満の人の比率が、30年前比でどう推移したか?」を可視化して、
運動とかの場合だと、例えば40年前とかは、職場で「大運動会」「ソフトボール大会」なんかがあって、
運動嫌いな人でも半強制的に運動に参加させられる「仕掛け」があったが、それが廃れて、
「運動と向き合わなくても生活していける時代」になった、という面が大きい。
・・・あらゆる場面で「嫌いなジャンル、苦手なジャンルがあっても、別に向き合わなくても構わない時代」になり、
リテラシーボトム層は、ますますボトムダウンする、という構図になっている。
一方、運動好きな人のサークルは益々盛んになり、より上手い人は上手くなり、運動量が増える。
なので、市民の間の「運動量の断絶」は、40年前比では相当酷くなっている。
「そういうスクールにも行かず、親が夏に海・プールに連れて行くこともない家庭の子」とでは、
水泳の技量に相当な断絶が発生してしまい、体育教育現場では相当問題化しているらしい。
40年前とかなら、芸能に疎い人でも、それなりに「山口百恵がどうした」「石原裕次郎がどうした」ということを知っていた。
おそらく世間話でそれなりに芸能の話題が出ていたので、あまり芸能に関心がなくても、必要に迫られて
しかし、今では別にAKBがどうした、EXILEがどうした、ということに全く無関心でも、まあ生きていける。
40年前と比べると、芸能情報に一切無頓着という「芸能オンチ」は、より一層深刻になっているのでは?
一方、ネットの深化で、芸能オタク層の芸能知識の深度は、40年前比でも相当深まっていると思う。
以前は芸能偏差値40~60に満遍なく分布してたのが、今は芸能偏差値80のオタクがいる一方で、
芸能偏差値20の「世間知らず」もそれなりに存在して、芸能偏差値40~60の中庸層は薄くなった気がする。
他にも「料理の腕」とか「日曜大工の腕」とか、さまざまなリテラシー、ライフハックで「2極化」が進行しているのでは?
あと、先日麻生副総理が、「1年間病院に行かない高齢者に、10万円あげることで、過度の病院通いを抑制できる」
とのアイデアを披露していたが、「病院通い」も2極化している気がする。
「用もないのに、病院にやたらと行きたがる、薬を貰いたがる人」と、
麻生氏は「用もないのに病院に行きたがる人」の抑制として「1年間行かなければ10万円のご褒美」というアイデアだったんだろうが、
これで「用もないのに・・・」という層が、果たして行動変化させるか?
結局、「医者嫌い」な人に10万円を交付するだけで、「用もないのに・・・」という人はなんら行動を変えない気がする。
→「医者嫌い」な人に10万円を交付して、「交付実績が上がった、政策効果が出た」と総括するようじゃ、単なるアホである。
この場合は「医師嫌いな人に、もっと病院に行ってもらうように啓蒙」しながら、一方で
「過度に病院通いする人に、あまり病院通いしないように抑制啓蒙する」という両面作戦が必要になるので、極めて難しい啓蒙戦略が必要になる。