はてなキーワード: 教育現場とは
何かTM2502氏が(蛇足)あーんまーりだぁー! - Why do you need ...?と嘆いていたので、実際青二才氏の該当エントリ(体罰と「想像力」と「公共性」と… - とある青二才の斜方前進)を読んでみたところ文章があまりにも汚いので、添削修正して翻訳してみました。え、何故自身のブログに書かないのかって……? だって、何かヤじゃん、何かさ。
なお、強調するタグ等はiPhoneからの更新なのでありません! ごめんなさい! あ、あと青二才氏本人から消せと苦情が来たら消しますのでご了承ください。また私自身国語が苦手なので、もし何かおかしい部分がありましたら修正いたします。
では、以下が本文となります。
僕は経済学の人だから「公共財の概念」から見て、体罰は必要だと考える
Twitter等で「教育目的なら体罰も必要になる」と発言したところ「体罰が無くても教育はできるし、クラス運営もまともにできる」と反応が返って来た。この発言の問題点を浮かび上がらせる為に、ここで岡田斗司夫さんとの対談での東浩紀さんの発言を引用する。
「体罰ならまだ明確な線引きができるが、これがハラスメント(嫌がらせやいじめ)ともなれば、もはや線引きさえできなくなる。従って、生徒と関わらないように、関わらないようにすることこそ教員の合理的な行動である。」
以上の発言は「いじめ問題」だけに限れば的を得ている。つまりは「教師に与えられた「権限」と、教育者が「求められる水準」が不一致になっている」ことが問題である。
家の中で「しつけ」をする機会が共働き等で減れば、ますますこの「不一致」は拡大する。たとえば「子ども」が教育の現場に増えたら、教育の現場に「勉強教えろ!」と親御さんが言ったところで、現実は授業が聞けずコミュ力が無い子供がそうでない子供の授業を妨害し、勉強を教える以前の問題になる。これは病院や自動車教習所も同じだ。
ここで経済学を使って例えれば、確かに患者も生徒も(及びその保護者は)「お客様」ではあるが、その考えは50%は正しく、50%は間違っている。確かに、医者も先生も「正しいこと」は教えられるが、「正しいこと」を守ったり実行する気がない人には教えても無駄だ。
とりあえず学校も病院も、基本的には「病気を治す・免許取るのはあなただから、目的を果たしたければちゃんとやってね」という場所なので、体罰や反抗的な人が荒らしたりすることも少ない。(そして、利用者に「大人」の割合が多いからね)
だけど『公共財』という概念で考えたときに「リスクを負うのはあなただから、あなた自身がちゃんとやってね」では済まないのが「公教育」の難しさである。
ここでいう『公共財』とは、道路や学校の授業、映画館や電車のように「みんなで使う・共有するモノ・サービス」のことを指す。
経済学の用語だから難しく聞こえるが、要は「映画館でしゃべる客・暗闇でおっぱい触る男、喘ぐ女は死ねばいい」「電車の中で吐くなよ!臭いじゃないか!!あああ、そこ((((;゚Д゚))))もらいゲロするなよ(´・ω・)」というだけの話だ。
しかしそんなお客でも、お金払ってる以上は排除できない、理由は原則として誰でも利用できる施設だから。例えば電車で隣の椅子に、横に巨乳女子高生が座ってても、臭いホームレスが座ってても、同じ料金を払わなければならないからだ。
この『公共財』という概念は、学校に対しても適用してもいいと考える。理由は授業はバカでも賢くても平等に受けられ、そこで授業中に騒ぐ奴がいれば「俺の勝手」ではすまない。
そして騒ぐ奴に限り「スクールカーストが高い」場合が多く、生徒同士で注意して自浄する事もできない事が多い。僕が体感した例としては、腕力の強い野球部部員が若い女教師いじめて辞めさせられる(注釈:「辞めさせられた」という述語が「野球部員」か「女教師」のどちらの主語に掛かってるかは不明)というパターンを目撃したことがあるし、そういう生徒は自分よりも弱い・優しいから殴ったりしない先生にはでかい態度をとる。
更に高校も大学も簡単には「停学・退学」を行うことはできないから、そういう生徒が教育サービスを劣化させるという事はどの段階の教育にも言える。
だが経済学上は「問題児は業務妨害・営利妨害」と判断でき、問題児に対してしかるべき制裁をくだせないような教育現場は、真面目で優秀な生徒に対し罪悪である。
自分の思想は「保守的な(個人的)功利主義者」と定義しているので次のように考えている。明らかに迷惑な生徒は「人権の範囲内で」殴られて然るべきであり、また殴られない現状こそがおかしい。(※私も宿題忘れて殴られたことはあるので。)
「公の利益の最大化」を考えるなら、むしろ体罰は人権問題と衝突しないで容認されるべきで、人権と衝突するのは「教育的要素がない」場合であり、つまりは「(迷惑な生徒の)暴力」に対して衝突するのだから、悪いのは体罰というツールではなく、体罰を振るう相手や目的を定義しない「人間」の方だ。
そもそも教育現場を『公共財』として見て、教師を「インフラ」として見れば、教師に高いハードルを求めるような「体罰は絶対ダメ」だという論調や、「偏差値が高くなるような教育をやれ」という論調を、教師の仕事として定義するのはおかしい。
学校は塾の代わりじゃないし、教師はあなた達の召使いじゃない!
公共財を守るために、躾の悪い子どもに体罰を振るのは仕方ない事で、まして体育会系の学校だとなおさらだ。それを体育会系でも関係なしに「全面的に(いついかなる時も)体罰禁止」という言い方をメディアで、ネットで、報道が、政治家が、庶民が主張するのはイかれてる!
スポコン的なシゴキを否定するなら、au等が「巨人の星」を使うのは「体罰推進作品」を使うのは不味いのではないか。
だけど、体罰反対論者に聞きたいのは「星一徹は飛雄馬憎しで、体罰を行なっていたか?」という議論。
あらゆるハラスメント(嫌がらせやいじめ)でも同じ議論ができるけど、体罰そのものを「悪」という人達は、体罰された相手との相互関係を考慮しておらず「頭ごなしな人達」こそ愛がないのではないか?
一徹氏を全面的に賛同するわけでは無いが、星飛雄馬がプロになって注目選手になれたのは間違いなく一徹のしごきがあったからだ。
学校においても、全国区のスポーツ学校になるために「体罰」は切っても切れない関係のはずた。それを文科系の知識人等が自分の価値観、愛情の形で「あれは暴力だ」と言っているに過ぎないのではないか?
例えば、自分の子が万引きしたときにビンタしたと打ち明けた母親がいるが、その場合は子どもが「被害者」なんですか? 親が感情的になったから、悪いのは親なのですか?
答えは求めてないから、いらないよ。てめーの脳天に杭を打ち込んでやりたいと思ってるだけだ!
見出しはこれ http://anond.hatelabo.jp/20121219191602
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/unix/1288765389/232
232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/25(日) 15:05:26.72 今月はじめ、職場に新しいPC(Pentium4の結構ハイエンド構成)が入りました。 多分私が運用保守をまかされそうな雰囲気です。業務的にとある構造分析や シミュレーションなど行う必要がありOSにオープン系を採用するのは 聞いていたのですが、搬入されたPCのダンホール箱に乗っかっていたのは UNIXのインストールパッケージでした。 「うへぇ~、よりによってUNIXかよ」 デバイスドライバがない、コマンドが変・オプションがない、X環境が古い、 今の奴は日本語入力大丈夫なのか(Wnn/Canna/kinput2)、将来の64bit移行はどうなのか、 今時のネットで必須のflashのプラグインは存在するのか不安はつきませんし、 非メジャーなのでネット上の情報も少なく調べるのも大変です。 おそらく導入に際して、大学など教育機関で最初にそれに触れて刷りこまれた人間が 強気の知ったかぶりをして発言権を得て「俺流」をつらぬき紛れ込ませたのでしょう。 昔、当時、唯一CADなどのエンジニアリング環境が充実していたUNIXは大学など 教育機関に浸透していて、日本のUNIX界に多くのバカを輩出しました。 これから私は、おそらくそういうバカが、makeしてもemacsが入らない、 TeXが入らない、コンソールでEUCは使えないのか、Rubyが使えないのかなどと、 サバ管気取りの偏ったどうでもいい我侭を言い出し、(だから鯖にするんじゃねーよ、 鯖の常識で話すなつーのに)それと戦わなければならないのでしょう。 そして時代によって決着している、過去10年のUNIX界隈のくだらないそれらの議論が 再現され、それに巻き込まれるのでしょう。もう今からうんざりです。 だからお願いです。教育現場ではPlamoでもDebianでもRedHatでもKondaraでも Slackwareでもなんでもいいですがメジャーかつ現行のLinuxにしてください。 教育機関で懐古趣味のバカを量産されると現場が非常に苦労するのです。
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/unix/1355909018/4
4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/19(水) 18:44:07.79 今月はじめ、職場に新しいPC(Core i7の結構ハイエンド構成)が入りました。 多分私が運用保守をまかされそうな雰囲気です。業務的にとある構造分析や シミュレーションなど行う必要があり、複数マシンでファイルを共有するのは 聞いていたのですが、起動したマシンの/etc/fstabの項目に書かれていたのは nfsという文字でした。 「うへぇ~、よりによってNFSかよ」 ファイルロックすると刺さる、ファイルを消したのに.nfsXXXが残る、 今の奴はACL大丈夫なのか、ファイルのCapabilityに対応してるのか、 今時のLAN上で使ってもセキュリティは大丈夫なのか不安はつきませんし、 ユーザーが減ってるのでネット上の情報も少なく調べるのも大変です。 おそらく導入に際して、大学など教育機関で最初にそれに触れてすりこまれた人間が 強気の知ったかぶりをして発言権を得て「俺流」をつらぬき紛れ込ませたのでしょう。 昔、当時、唯一ローカルディスクかネットワーク上かの区別なく透過的にファイルに アクセスできたNFSは大学など教育機関に浸透していて、日本のストレージ界に 多くのバカが輩出しました。 これから私は、おそらくそういうバカが、ファイルに書き込んだら所有者がnobodyに なっちゃったよとか、タイムスタンプがずれるよとか、NFSv4にしたらマウント できなくなったよとか、TCPよりUDPの方がオーバーヘッドが無い分速いはずだよね などと、鯖管気取りの偏ったどうでもいい我侭を言いだし、 (だからNFS鯖にするんじゃねーよ)それと戦わなければならないのでしょう。 そして時代によって決着している、過去25年のNFS界隈のくだらないそれらの議論が 再現され、それに巻き込まれるのでしょう。もう今からうんざりです。 だからお願いです。教育現場ではSambaでもNetatalkでもFTPでもなんでもいいですが 安定してユーザーが多いファイル共有システムにしてください。 教育機関で懐古趣味のバカを量産されると現場が非常に苦労するのです。
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/unix/1351627596/3
3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/31(水) 10:57:28.82 今月はじめ、職場に新しいPC(Core i7の結構ハイエンド構成)が入りました。 多分私が運用保守をまかされそうな雰囲気です。業務的にとある構造分析や シミュレーションなど行う必要がありOSに*BSDを採用するのは聞いていたのですが、 搬入されたPCのダンホール箱に乗っかっていたのはFreeBSDのインストールパッケージ でした。 「うへぇ~、よりによってFreeBSDかよ」 カーネルが変、日本語環境がない、ソフトが変・揃ってない、今の奴は 日本語文字コード大丈夫なのか(utf-8)、x86_64環境は大丈夫なのか、 今時のネットに繋いでもセキュリティは大丈夫なのか不安はつきませんし、 非メジャーなのでネット上の情報も少なく調べるのも大変です。 おそらく導入に際して、大学など教育機関で最初にそれに触れてすりこまれた人間が 強気の知ったかぶりをして発言権を得て「俺流」をつらぬき紛れ込ませたのでしょう。 昔、当時、唯一PC98環境が充実していたFreeBSDは大学など教育機関に浸透していて、 日本のFreeBSD界に多くのバカが輩出しました。 これから私は、おそらくそういうバカが、ポーツ(笑)でemacsが入らない、 TeXが入らない、コンソールでEUCは使えないのか、Rubyが使えないのかとかなどと、 鯖管気取りの偏ったどうでもいい我侭をいいだし、(だから鯖にするんじゃねーよ、 鯖の常識で話すなつーのに)それと戦わなければならないのでしょう。 そして時代によって決着している、過去20年のFreeBSD界隈のくだらないそれらの議論が 再現され、それに巻き込まれるのでしょう。もう今からうんざりです。 だからお願いです。教育現場ではUbuntuでもdebianでもFedoraでもRHELでも OpenSUSEでもなんでもいいですがメジャーかつ現行のLinuxにしてください。 教育機関で懐古趣味のバカを量産されると現場が非常に苦労するのです。
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/unix/1209056071/887
887 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/21(日) 11:56:55.61 今月はじめ、職場に新しい組み込みマシン(ファン付きだけど結構省スペース構成)が 入りました。多分私が開発全般をまかされそうな雰囲気です。業務的にとある 構造分析やシミュレーションなど行う必要があり、プログラムにアセンブラを 使用するのは聞いていたのですが、添付のサンプルソースコードからチラッと 見えたのはsethi %hi(hoge),%o0という命令でした。 「うへぇ~、よりによってSPARCかよ」 長くなるバイナリーコード、奇数アドレスワードアクセス不可、使いにくい レジスタウィンドウ、今時の素早いコンテキストスイッチに対応できるのか不安は つきませんし、今の若者はこんなCPU使わないので人材も少なくソフト開発も大変です。 おそらく導入に際して、大学など教育機関で最初にSPARCに触れて刷りこまれた人間が 強気の知ったかぶりをして発言権を得て「俺流」をつらぬき紛れ込ませたのでしょう。 昔、当時、32bitCPUでRISCでM68K系よりも高速で動作したSPARCは 大学など教育機関に浸透していて、日本のCPU界に多くのバカが輩出しました。 これから私は、おそらくそういうバカが、16bitイミーディエイト値すら1命令でロード できかないのかよとか、関数呼出しのたびになんで約100バイトもスタックフレームが 要るんだよとか、フラグレジスタの読み出しがなんで特権命令なんだよとか、 %g0ってレジスタ値変わらないし壊れてるよ、初期不良で交換だよとか、 アセンブラ通気取りの偏ったどうでもいい我侭を言い出し(だからSPARC使うんじゃ ねーよ) それと戦わなければならないのでしょう。そして時代によって決着している、 過去25年のCPU界隈のくだらないそれらの議論が再現され、それに巻き込まれるの でしょう。もう今からうんざりです。 だからお願いです。教育現場ではi386でもi568でもi686でも x86_64でもなんでもいいですが現行のCPUにしてください。 教育機関で懐古趣味のバカを量産されると現場が非常に苦労するのです。
前のはこれ http://anond.hatelabo.jp/20121219191602
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/unix/1036951410/601
601 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/10(火) 15:04:00.62 今月はじめ、職場に古いパソコン(i486DX2の結構ローエンド構成)が入りました。 多分私が運用保守をまかされそうな雰囲気です。業務的にとある構造分析や シミュレーションなど行う必要がありハードにパソコン系を採用するのは聞いていたの ですが、搬入されたパソコンのダンホール箱に印刷されていたのはPC-9801という 文字でした。 「うへぇ~、よりによって98かよ」 NetBSD/OpenBSDインストール不可、Solarisも不可、SATA-HDDからブートできるのか、 今時のLCDディスプレイにつながるのか、FreeBSD9.xは対応してるのか、 今時のネットに繋いでもセキュリティは大丈夫なのか不安はつきませんし、 非メジャーなのでネット上の情報も少なく調べるのも大変です。 おそらく導入に際して、大学など教育機関で最初にそれに触れて刷りこまれた人間が 強気の知ったかぶりをして発言権を得て「俺流」をつらぬき紛れ込ませたのでしょう。 昔、当時、唯一コンソールでの漢字ROMによる日本語表示ができたPC-98は大学など 教育機関に浸透していて、日本のパソコン界に多くのバカを輩出しました。 これから私は、おそらくそういうバカが、makeしてもemacsが入らない、 TeXが入らない、firefoxは使えないのか、Rubyが使えないのかなどと、 サバ管気取りの偏ったどうでもいい我侭を言い出し、(だから鯖にするんじゃねーよ、 鯖の常識で話すなつーのに)それと戦わなければならないのでしょう。 そして時代によって決着している、過去20年のパソコン界隈のくだらないそれらの 議論が再現され、それに巻き込まれるのでしょう。もう今からうんざりです。 だからお願いです。教育現場ではPC/ATでもSPARCでもPA-RISCでも PowerPCでもなんでもいいですがメジャーかつ現行のマシンにしてください。 教育機関で懐古趣味のバカを量産されると現場が非常に苦労するのです。
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/unix/992942337/737
737 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/16(日) 16:27:31.40 今月はじめ、職場に新しい組み込みマシン(ファンレスの結構省電力構成)が入りました。 多分私が開発全般をまかされそうな雰囲気です。業務的にとある構造分析や シミュレーションなど行う必要があり、プログラムにアセンブラを使用するのは 聞いていたのですが、添付のサンプルソースコードからチラッと見えたのは LD A,(HL)という命令でした。 「うへぇ~、よりによってZ80かよ」 アドレッシングモード皆無、リロケート不可、使いにくいインデックスレジスタ、 今時の関数引数のスタック渡しに対応できるのか不安はつきませんし、 今の若者はこんなCPU使わないので人材も少なくソフト開発も大変です。 おそらく導入に際して、大学など教育機関で最初にZ80に触れて刷りこまれた人間が 強気の知ったかぶりをして発言権を得て「俺流」をつらぬき紛れ込ませたのでしょう。 昔、当時、8bitCPUでi8080上位互換でi8085よりも多くのツギハギ命令を追加拡張した Z80は大学など教育機関に浸透していて、日本のCPU界に多くのバカが輩出しました。 これから私は、おそらくそういうバカが、ADD A,(HL)はできるのにADD B,(HL)は できないのかとか、相対アドレスのCALL命令はないのとか、 スタックフレームポインタとして使いたいのにLD HL,SPっていう命令ないじゃんとか、 アセンブラ通気取りの偏ったどうでもいい我侭を言い出し(だからZ80使うんじゃねーよ) それと戦わなければならないのでしょう。そして時代によって決着している、 過去30余年のCPU界隈のくだらないそれらの議論が再現され、それに巻き込まれるの でしょう。もう今からうんざりです。 だからお願いです。教育現場ではi386でもi568でもi686でも x86_64でもなんでもいいですが現行のCPUにしてください。 教育機関で懐古趣味のバカを量産されると現場が非常に苦労するのです。
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/unix/1011306728/134
134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/15(日) 14:17:53.53 今月はじめ、職場に新しいPC(Core i7の結構ハイエンド構成)が入りました。 多分私が運用保守をまかされそうな雰囲気です。業務的にとある構造分析や シミュレーションなど行う必要があり、X Window System上のアプリケーションを 使用するのは聞いていたのですが、OSを起動して黒いバックに白い文字だけの 英語の画面に表示されていたのはlogin:というプロンプトでした。 「うへぇ~、よりによってxinit方式かよ」 CUIログインなんて古い、コマンド入力なんて古い、今の奴は日本語入力設定大丈夫 なのか(XMODIFIERS)、今時のマルチシート環境に対応できるのか不安はつきませんし、 xinitユーザーが少ないのでネット上の情報も少なく調べるのも大変です。 おそらく導入に際して、大学など教育機関で最初にxinitに触れて刷りこまれた人間が 強気の知ったかぶりをして発言権を得て「俺流」をつらぬき紛れ込ませたのでしょう。 昔、当時、X11で唯一$HOME/.xinitrcを手書きするというCUI的方法で環境設定できた xinit方式は大学など教育機関に浸透していて、日本のX11界に多くのバカが輩出しました。 これから私は、おそらくそういうバカが、GNOME/KDEはどうやって起動するのか、 ウィンドウマネージャを終了したらXごと落ちたとか、ck-xinit-sessionはないのか などと、X11通気取りの偏ったどうでもいい我侭を言い出し(だからxinit方式にするん じゃねーよ)それと戦わなければならないのでしょう。そして時代によって 決着している、過去25年のX11界隈のくだらないそれらの議論が再現され、 それに巻き込まれるのでしょう。もう今からうんざりです。 だからお願いです。教育現場ではgdmでもkdmでもwdmでも xdmでもなんでもいいですがグラフィカルなディスプレイマネージャにしてください。 教育機関で懐古趣味のバカを量産されると現場が非常に苦労するのです。
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/unix/1094041299/383
383 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/12(木) 19:20:13.06 今月はじめ、職場に新しいPC(Core i7の結構ハイエンド構成)が入りました。 多分私が運用保守をまかされそうな雰囲気です。業務的にとある構造分析や シミュレーションなど行う必要があり、制御コマンドとしてシェルスクリプトを 使用するのは聞いていたのですが、そのファイルを開いて1行目に書かれていたのは #!/bin/tcshという文字列でした。 「うへぇ~、よりによってtcshかよ」 ファイル記述子のリダイレクト不可、クオートのネスティング等に無理あり、 今の奴でさえシェル関数は使えないし、パイプラインの終了ステータスもおかしいし、 今時の担当者が扱ってセキュリティは大丈夫なのか不安はつきませんし、 スクリプトとしてのcshは嫌われるのでネット上の情報も少なく調べるのも大変です。 おそらく導入に際して、大学など教育機関で最初にcshに触れて刷りこまれた人間が 強気の知ったかぶりをして発言権を得て「俺流」をつらぬき紛れ込ませたのでしょう。 昔、当時、シェルで唯一aliasやhistoryやジョブコントロールの機能が使えた cshは大学など教育機関に浸透していて、日本のシェル界に多くのバカを輩出しました。 これから私は、おそらくそういうバカが、$*でスペース入りファイル名が扱えないとか $<でファイルから読めないのかとか、if文の条件式のコマンドでリダイレクト できないのかなどと、シェル通気取りの偏ったどうでもいい我侭を言い出し (だからcshスクリプト書くんじゃねーよ)それと戦わなければならないのでしょう。 そして時代によって決着している、過去25年のシェル界隈のくだらないそれらの議論が 再現され、それに巻き込まれるのでしょう。もう今からうんざりです。 だからお願いです。教育現場ではbashでもzshでもkshでもashでも Bourne shでもなんでもいいですがBシェル系のシェルにしてください。 教育機関で懐古趣味のバカを量産されると現場が非常に苦労するのです。
続く。
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
ここは増田だ。ここでならいっしょに遊べる。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を高度に形式化して使える人がいるのは、正直こわいです。
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
ここは増田だ。ここでならいっしょに遊べる。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、みんなあきれ果てて38もレスしなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
ここは増田だ。ここでならいっしょに遊べる。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、みんなあきれ果てて38もレスしなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
ここは増田だ。ここでならいっしょに遊べる。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、みんなあきれ果てて38もレスしなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
俺は基本的に体罰撲滅派で、なぜなら自分が殴られて不快な思いをする可能性を一ミリでも排除したいからです。
だが、今はどうでもいい。予防線に使おうとは思わない。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、おれは疲れて果ててこんな真似しなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
俺は基本的に体罰撲滅派で、なぜなら自分が殴られて不快な思いをする可能性を一ミリでも排除したいからです。
だが、今はどうでもいい。予防線に使おうとは思わない。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、おれは疲れて果ててこんな真似しなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
俺は基本的に体罰撲滅派で、なぜなら自分が殴られて不快な思いをする可能性を一ミリでも排除したいからです。
だが、今はどうでもいい。予防線に使おうとは思わない。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、おれは疲れて果ててこんな真似しなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
俺は基本的に体罰撲滅派で、なぜなら自分が殴られて不快な思いをする可能性を一ミリでも排除したいからです。
だが、今はどうでもいい。予防線に使おうとは思わない。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、おれは疲れて果ててこんな真似しなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
http://anond.hatelabo.jp/20130113151019
俺は基本的に体罰撲滅派で、なぜなら自分が殴られて不快な思いをする可能性を一ミリでも排除したいからです。
だが、今はどうでもいい。予防線に使おうとは思わない。
議論の前提…体罰は暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
前提の時点で「体罰=暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的に機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。
多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。
それはさておき、前提を結論と直結させる論法は特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールだから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合、激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。
1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」があります。ストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。
おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものだから、正しいも間違うもあるか、と?
相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。
この場合、あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じています。
では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。
「ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?
それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます。当事者の高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?
2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。
さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力のプロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります。
よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからないから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生?
もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパスは一定の割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画は一定の確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています。世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定の割合でどの職業にも発生します。
3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治的恫喝やドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります。日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法を継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学で修士号をとった桑田元選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手と六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソースは朝日)と明かされています。プロ野球、六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。
桑田元投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかねます。
あと「違法だから」。その通りですね。日本は法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。
4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
教育心理学と脳科学を臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。
ゴリラはリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツはオタクのキーボード遊びと違うんじゃイ」
一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。
海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。
5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。
「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。
おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーンの経営者フォロワーや東京都知事選を見ればわかるように、今の日本で奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。
というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマンは奴隷と形容してさしつかえありません。
その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?
6.私は体罰によってまっとうになった。だから、体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですから、ひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。
あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?
7.体罰がなくなったから、子供がゆとりになり、学力が低下したじゃないか!
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
さすがにこの仮想敵はサンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。
でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供のパーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf
つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。
上記論文が体罰を要因として組み込んでいないのはまことに遺憾です。
8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。
野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります。
9.体罰をダメにすると、教育現場が萎縮してしまう
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
たとえば、はてながダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットのダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。
いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。
いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています。
彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。
正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。
10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは?
「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。
11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰は必要だ。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
障碍者の定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつのは勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラ・ゴリラ(学名なので差別語ではない)は子供も障碍者も平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。
12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある。問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなたは権力者による暴力が正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか?
ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会で未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。
「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田の風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思います。しかし、「自分は常識として正しいから論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、おれは疲れて果ててこんな真似しなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。
あと、
なんだっけ、
そうそう。
汚物は消毒だー!
左翼の皆様いわく、無防備都市宣言のように、無防備になれば攻撃されないとのこと。つまり、体罰を食らったのは、この生徒が反抗的だったためである。生徒側にさらなる無防備な行動を義務付けるようにすれば、先生からの体罰はなくなるはず。左翼様の偉大なる「無防備」の精神を、今こそ教育現場に広めるべきである。
左翼の皆様いわく、無防備都市宣言のように、無防備になれば攻撃されないとのこと。つまり、体罰を食らったのは、この生徒が反抗的だったためである。生徒側にさらなる無防備な行動を義務付けるようにすれば、先生からの体罰はなくなるはず。左翼様の偉大なる「無防備」の精神を、今こそ教育現場に広めるべきである。
左翼の皆様いわく、無防備都市宣言のように、無防備になれば攻撃されないとのこと。つまり、体罰を食らったのは、この生徒が反抗的だったためである。生徒側にさらなる無防備な行動を義務付けるようにすれば、先生からの体罰はなくなるはず。左翼様の偉大なる「無防備」の精神を、今こそ教育現場に広めるべきである。
高校のバスケットボール教師が生徒を30発、40発殴って、自殺に至らせた事件がありました。ただ、こういう乱暴な教師はいるのだろうな、とそれほど驚きはなかったのですが、それより驚いたのは、マスコミ、世間一般にも体罰を容認する声があるということです。正直、「え?本当に同じ文明人なの?」と愕然とした気持ちになりました。しまいには、子供やその親を「軟弱だ」とか「ケアが足りない」と攻める論調すら出てきています。
そこで、体罰容認論によくある擁護論にまとめて反論してみました。世間の人の言う「ある程度の体罰」でも「子供のためを思った体罰」でも、教育に体罰は認められません。
体罰は暴力です。暴力は刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。
愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動しています。ストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供を虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰が子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。
「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまいます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます。子供相手なら、なおさら許されません。
欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります。体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学のスポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰でスポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。
教育心理学、脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習・記憶をつかさどる海馬の神経細胞が破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もあります。http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html
「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理は論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)
あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですから。あなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。
第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供の教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。
桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要な合意形成・指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。
それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます。
そもそも教師の仕事は「未成熟な子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。
それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。
精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつのは勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。
では、権力者による暴力が正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。
「何を当たり前のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。でも、そんな「当たり前」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、体罰がダメだというのはわかると思います。しかし、「自分はやられてきたから正しい」という謎論理によって体罰を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、教師が殴ったのが30発ではなくて、3発だったら、子供の方を攻める論調が勝ちそうな気がします。
仮に体罰が正当化される場面があるとしたら、モヒカンの子供が火炎放射器を持って「汚物は消毒だぁぁ〜〜」と乗り込んで炎をまき散らしたときくらいで、火炎放射器を持ち込む子供がいない以上、普通の教師が体罰をふるうことは正当化されません。
怒るというのは、感情論。 テメェむかつくんだよ!ってこれ怒るだよね。 つまり、怒ってる側に理由があって、怒られる側には理由がない。
教師はコレをやっちゃダメ。
叱るというのは、生徒の側に悪いことが合って、それをやっちゃだめだよということで、咎めるというとも違う。
咎めるというのは『なじる。非難する』の意味を含んでいるので、優しく咎めるという言葉は成立しないが、優しく叱るというのは成立するだろ。
つまり、怒っちゃダメだが、叱ってもいい。というのは。感情的になってはいけないが、生徒が悪いことをしたら、それを悪いことだと教えてあげる事は必要。
という意味で、最初の筆者はいってるとおもうよ。これはあってるだろ?
叱られる側に理由がなく、ただ単に怒ればばなんでもいいと思っている教師がいて、それが問題ということ。
生徒に問題がないことで怒ってはいけない。という話。
今回の場合は キャプテンやりたければ殴るぞ!殴られたくなければ2軍落ち って。生徒はなにも悪くないことで怒られてる。これが怒る。叱るじゃない。
ちなみに、アスペでよくある。あなたは宿題わすれたらしいけど、犬に食べられたの?というのは 叱るではなく 咎めるもしくは、なじる。
このへんの区別が、教育現場でついていないのが問題。
いつぞやの増田が書いてたような、前髪の長さにまで踏み込む校則や、掛け算の順序問題を見てると
学校というものが守りたいものが。どういうものか見えてくる気がする
意味不明なレベルにまで暴走した校則は、生真面目で、何にも染まっていない子どもというものを守りたいのかなって思うし
掛け算からは、掛け算の意味と式の意味っていうものを子どもに理解して欲しい、それを守りたいのかなって思う。
大人が作った子ども像、子どもはこうあるべきで、こう考えているのが望ましい、みたいなものを刷り込むのが教育だけど
長年の学校教育の歴史の中で、あまりにも世間から隔離培養された結果、あさっての方向にねじれた保守文化ができてしまったように思う。
学校はねじまがったそれを刷り込むことこそ教育だと疑ってやまない。
それを教えることに誇りすら覚えてるだろう。
だから、前髪の長さやかけ算の順序が日本の学校以外で何ら意味のないものだと知っていても、それを廃止しよう、変えようという気が起こらない。
最悪、日本の学校以外で何ら意味のないガラパゴスなものだと認めても、それが教育現場では必要なのだと開き直るようになると思う。
いじめ自殺者を前に、いじめが「あった」「なかった」で議論が始まるのも、長年にわたって形成されたあるべき学校、あるべき子どもを守りたいからだと思う。
大きく報道されて社会問題になってさんざんバッシングされて、やっと、学校にいじめや暴力や学力低下やが存在することを、学校が認めてもよくなるんだろうなあ。
まあ印象論だけど。
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/linux/1263028279/298
298 :login:Penguin:2012/03/14(水) 06:01:43.41 ID:gAhyxynR >>283 >>291がVineを押してますが… 今月はじめ、職場に新しいPC(Core i7の結構ハイエンド構成)が入りました。多分私が運用保守をまかされそうな 雰囲気です。業務的にとある構造分析やシミュレーションなど行う必要がありOSにLinuxを採用するのは 聞いていたのですが、搬入されたPCのダンホール箱に乗っかっていたのはVineのインストールパッケージでした。 「うへぇ~、よりによってVineかよ」 カーネルが古い、日本語環境が古い、ソフトが古い・揃ってない、今の奴は日本語文字コード大丈夫なのか(utf-8)、 x86_64環境は大丈夫なのか、今時のネットに繋いでもセキュリティは大丈夫なのか不安はつきませんし、 非メジャーなのでネット上の情報もすくなく調べるのも大変です。 おそらく導入に際して、大学など教育機関で最初にそれに触れてすりこまれた人間が強気の知ったかぶりをして 発言権を得て「俺流」をつらぬき紛れ込ませたのでしょう。 昔、当時、唯一日本語環境が充実していた(*)Vineは大学など教育機関に浸透していて、日本のLinux界に多くのバカを 輩出しました。((*)昔の話です。現在はutf8対応やsambaのvfs対応など使い物にならないレベルで遅れていそうです) これから私は、おそらくそういうバカが、emacsを入れさせろ、Texを入れさせろ、コンソールでEUCは使えないのか、 crond使えないのかとかなどと、サバ缶気取りの偏ったどうでもいい我侭をいいだし、(だから鯖にするんじゃねーよ、 鯖の常識で話すなつーのに)それと戦わなければならないのでしょう。そして時代によって決着している、過去20年の Linux界隈のくだらないそれらの議論が再現され、それに巻き込まれるのでしょう。もう今からうんざりです。 だからお願いです。教育現場ではubuntuでもdebianでもFedoraでもRHELでもopenSUSEでもなんでもいいですが メジャーかつ現行のものものにしてください。Kernel2.6 gcc4 glibc2.4 GNOME3/KDE4が最低ラインです。 教育機関で懐古趣味のバカを量産されると現場が非常に苦労するのです。
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/unix/999172129/740
740 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/15(木) 13:42:50.73 今月はじめ、職場に新しいPC(Core i7の結構ハイエンド構成)が入りました。 多分私が運用保守をまかされそうな雰囲気です。業務的にとある構造分析や シミュレーションなど行う必要がありOSにUNIX系を採用するのは聞いていたのですが、 搬入されたPCのダンホール箱に乗っかっていたのはSolarisのインストールパッケージ でした。 「うへぇ~、よりによってSolarisかよ」 カーネル再構築不可、コマンドが変・オプションがない、KDE環境がない、 今の奴は日本語文字コード大丈夫なのか(ja_JP.PCK)、x86_64環境は大丈夫なのか、 今時のネットに繋いでもセキュリティは大丈夫なのか不安はつきませんし、 非メジャーなのでネット上の情報も少なく調べるのも大変です。 おそらく導入に際して、大学など教育機関で最初にそれに触れて刷りこまれた人間が 強気の知ったかぶりをして発言権を得て「俺流」をつらぬき紛れ込ませたのでしょう。 昔、当時、唯一フリーウェアのmake一発率が高かったSunOSは大学など教育機関に 浸透していて、日本のSolaris界に多くのバカを輩出しました。 これから私は、おそらくそういうバカが、makeしてもemacsが入らない、 TeXが入らない、コンソールでEUCは使えないのか、Rubyが使えないのかなどと、 サバ管気取りの偏ったどうでもいい我侭を言い出し、(だから鯖にするんじゃねーよ、 鯖の常識で話すなつーのに)それと戦わなければならないのでしょう。 そして時代によって決着している、過去20年のSolaris界隈のくだらないそれらの議論が 再現され、それに巻き込まれるのでしょう。もう今からうんざりです。 だからお願いです。教育現場ではUbuntuでもDebianでもFedoraでもRHELでも OpenSUSEでもなんでもいいですがメジャーかつ現行のLinuxにしてください。 教育機関で懐古趣味のバカを量産されると現場が非常に苦労するのです。
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/unix/1000022300/812
812 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/18(水) 15:51:49.38 今月はじめ、職場に新しいPC(Core i7の結構ハイエンド構成)が入りました。 多分私が運用保守をまかされそうな雰囲気です。業務的にとある構造分析や シミュレーションなど行う必要があり、拡張カードを刺してHDDを増設して使う ことは聞いていたのですが、納品された拡張カードに書かれていたのは AHA-2940Uという型番でした。 「うへぇ~、よりによってSCSIかよ」 たった20MB/s、コネクタもケーブルも太くて古めかしい、今の奴はOS入れても /としてマウントできるのか、今時の高速HDDに対応できるのか不安はつきませんし、 SCSIユーザーが少ないのでネット上の情報も少なく調べるのも大変です。 おそらく導入に際して、大学など教育機関で最初にSCSIに触れて刷りこまれた人間が 強気の知ったかぶりをして発言権を得て「俺流」をつらぬき紛れ込ませたのでしょう。 昔、当時、唯一HDDやCD/MO、テープドライブ等を外付けにでき、デイジーチェインで 拡張性が高かったSCSIは大学など教育機関に浸透していて、日本のストレージ界に 多くのバカが輩出しました。 これから私は、おそらくそういうバカが、ターミネーターが無いよとか、 SCSIケーブル全長1.5mだっけ? 6mじゃないの?とか、SCSI IDがぶつかっちゃった、 などと、SCSI通気取りの偏ったどうでもいい我侭を言い出し(だからSCSIにするん じゃねーよ)それと戦わなければならないのでしょう。そして時代によって 決着している、過去25年のSCSI界隈のくだらないそれらの議論が再現され、 それに巻き込まれるのでしょう。もう今からうんざりです。 だからお願いです。教育現場ではSATA1でもSATA2でもSATA3でも eSATAでもなんでもいいですがシリアルATAのHDDにしてください。 教育機関で懐古趣味のバカを量産されると現場が非常に苦労するのです。
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/unix/1061122459/497
497 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/03(金) 20:34:26.89 今月はじめ、職場に新しいPC(Core i7の結構ハイエンド構成)が入りました。 多分私が運用保守をまかされそうな雰囲気です。業務的にとある構造分析や シミュレーションなど行う必要があり、X Window System上のアプリケーションを 使用するのは聞いていたのですが、X11を起動して表示されたのは、 白黒メッシュのバックに平面的な緑の枠のウィンドウマネージャでした。 「うへぇ~、よりによってtwmかよ」 カラーXpmアイコン表示不可、ウィンドウ最大化とかできない、 GNOME非対応、今の奴はタイトルバーに日本語表示大丈夫なのか、 今時の仮想デスクトップ環境に対応できるのか不安はつきませんし、 twmユーザーが少ないのでネット上の情報も少なく調べるのも大変です。 おそらく導入に際して、大学など教育機関で最初にtwmに触れて刷りこまれた人間が 強気の知ったかぶりをして発言権を得て「俺流」をつらぬき紛れ込ませたのでしょう。 昔、当時、X11で唯一標準ウィンドウマネージャとしてソースツリーに含まれていた twmは大学など教育機関に浸透していて、日本のX11界に多くのバカが輩出しました。 これから私は、おそらくそういうバカが、GNOME/KDEのウィンドウマネージャをtwmに 設定できないのかとか、$HOME/.twmrcを設定するGUIツールはないのかとか、 タスクバーはどこにあるのかとか、X11通気取りの偏ったどうでもいい我侭を言い出し (だからtwm使うんじゃねーよ)それと戦わなければならないのでしょう。 そして時代によって決着している、過去25年のX11界隈のくだらないそれらの議論が 再現され、それに巻き込まれるのでしょう。もう今からうんざりです。 だからお願いです。教育現場ではmetacityでもkwinでもfvwm2でも mwmでもなんでもいいですが普通のウィンドウマネージャにしてください。 教育機関で懐古趣味のバカを量産されると現場が非常に苦労するのです。
続く。
@ueno_wan
暗い4年間が始まる。脱原発派と護憲派、ジェンダー平等派にとって。教育現場にとってもだ。インフレ、借金、東アジアの緊張、貧困と格差、弱者切り捨て…亡国政権の始まりだ。
東浩紀がラジオで左翼言論人は滅んだと熱弁していて思い出した、はてサ系の炎上案件でよくある光景
↓
↓
東浩紀が擁護をする
↓
東浩紀が
「サヨクの人たちの心情も理解できるし正しいのもわかるが、闇雲に批判してても何も変わらないよ」
「そんな事言ってたら何も変わらない、足を引っ張るな」
と反発する
結局、今回の選挙でわかったのは、はてサのみなさんが考えるほど人間は賢くなかったし
その状況が左翼的な啓蒙一つで改善するようにも到底思えないという事
「お花畑左翼」 とよく2ちゃんねるなんかで「アレ」なサヨクに対して使われる言葉があるが
もうはてサレベルの「正しい」左翼の人達でもこの中に入っちゃう時代なんだろうなと思った
(数世紀レベルではサヨクの理想世界に変わるかもしれないがそれだとやはりアレな範疇でしかない)
更にこの実感が強くなったのは
TL上でサヨクの人たちが日本終わった、民主主義は終わったなどと嘆き、まるっきり2009年のネトウヨと同じ反応を見る中
経済系の人たちが是々非々で今回の選挙を評価しているのを見たとき
更に具体的に言うと
@ueno_wan
暗い4年間が始まる。脱原発派と護憲派、ジェンダー平等派にとって。教育現場にとってもだ。インフレ、借金、東アジアの緊張、貧困と格差、弱者切り捨て…亡国政権の始まりだ。
と呟いてるのを横目にTBSの番組で飯田泰之や荻上チキがあまりイデオロギーに固執せずに各党の政策を是々非々で討論してるのを見た時だ
出演していたメンツを上げると
荻上チキ、武田一顯、斉藤淳、萱野稔人、飯田泰之、津田大介、東浩紀、開沼博、西田亮介、速水健朗、萱野稔人、湯浅誠、神保哲生
といった面々で、一部を覗いて所謂「サヨク」ではなく、数年前まではラジオはともかくテレビでは見れなかった若い世代が中心だ