はてなキーワード: 担保とは
今回のCOVID-19感染症、武漢の流行から見てきての所感。日本国は、起きている事象を把握し、人・モノ・金の適切な投入がまるでできていない。4月8日に発表された緊急事態宣言そのものは、そんなに悪い内容ではないが、実効性のある政策としては、いくつか重要な漏れがある。
まずは長期戦略。国内のCOVID-19流行は、ここ数日で始まったわけではない。1カ月以上前から国家的危機が訪れる可能性は、十分に示唆されていた。それにも関わらず、現状としては「緊急事態を1カ月で脱出する」という緊急避難方針と、1カ月かけての「効果測定」が目標となっている。端的に言ってアホだ。
4月6日の、新型コロナウイルス感染症対策本部会合で安倍総理は「PCR検査の1日の実施数を現在の倍の2万件に増やす」「保健所の体制整備と合わせてクラスター対策を強化する」という方針は出ている。これは大変良い方針ではあるが、いつまでに、どう実現するかが不明瞭であり、4月8日の緊急事態宣言に伴う会見では、一切触れられていない。
ここ最近の、特に東京都の検査状況を見るに、「検査の実施数」「保健所の体制整備」については悲惨な状況が続いている。この両者の不足は、それこそ何週間も前から話題にはなっており、3月2日の国会答弁において「すべての患者が検査を受けられる十分な検査能力を確保する」と某総理大臣が明言したにも関わらず、国にしても、東京都にしても、改善の手は僅かにしか打ってこなかった。オリンピックを気にして、報告数を抑えるために放置していたのかもしれないが、現状はどこからどう見てもアホだ。
そして、ここを本気で改善する気があるのであれば、緊急事態宣言に伴う会見において、コミットメントは無理だとしても、何らかの責任ある発言はあってしかるべきだが、見事にスルーされた。
この「長期戦略がないアホ」と「検査能力不足のアホ」は密接に絡み合っている。軍事に例えて言うならば、作戦目標が不明瞭なうえに、スカウティング(偵察)能力も足りない部隊が、勝利できるだろうか。しかも今回の敵は、隙を見せれば指数関数的に増えるのだ。
ここで少し脱線。あくまで私の観測範囲だけかもしれないが、ネットを見ていると、今の東京はニューヨークのx月x日と一緒だ。日本の対策は緩すぎる。強力なロックダウンと、それを守らせる/守るための充実した補償をという意見が、個人・マスコミ含めて、とても多いように感じる。補償に使われるお金というのは、信用創造という仕組みで生み出すことはできるけど、信用についても、生産力や「生産に伴う徴税」により担保されている部分も大きい。もちろん、国の信用をすり減らして、一時的にお金を生み出すことはできるけれども、財が生産されない期間があれば、その分だけ国富は失われる。
もし仮に、強力なロックダウンを実施しないと、より多くの生産機会が失われたり、信用が失われるのであれば、強力なロックダウンは有効な仕組みだ。一方で、過剰に人の動きをとめて、全部補償するのは、莫大な富を失う、極めて不条理な行動になる。それでは、強力なロックダウンは必要なのだろうか。今回の非常事態宣言で十分かもしれないが、もしそうだとしても、いつまでつづければいいのだろう。行動抑制政策の緩和を決断したとして、やっぱり再開しなければいけないという判断はどうするのだろう。そう、あのアホが登場するのだ。「検査能力不足のアホ」
このアホがゆえに、正しい判断ができずに、ものすごく大きな国富をリスクに晒し、目隠しをしてのギャンブルをしなければいけない。それが日本国の実情だ。そして改善の兆しは見えず、現場は疲弊し、あるのは期限不明の方針だけだ。この検査能力は、この疫病との戦いで直接的・間接的に使える武器でもある。直接的には、緊急事態宣言の会見の中での言及もあった「クラスター対策による封じ込め」だ。言い換えると、検査・検査・検査、隔離。もしも陽性となり隔離ができれば、もう他の人に感染させることがなく、その接触者も自宅待機させることで感染を抑制できる。スピードも大事だ。早く隔離できれば、それだけ2次感染、3次感染は防げる。
(この「接触者」は発症するまでは検査不要という指針がWHOから出ているが、無症状の人が一定比率で存在し、その無症状者からの感染の報告もあり、「接触者の接触者」は待機していない現状からすると、検査能力や接触者調査能力に余力ができ、検査場での感染リスクが抑えられるのであれば、無症状の接触者も含めて検査実施の価値はある)
そして、検査を間接的に使う方法は、長文になるし、多くの人に知って貰うべき内容でもないので詳細は省くが「大きなレッドゾーン」を作り、感染確定者をひとまとめにし、人的リソースや、特に今後の枯渇リスクが高い、防護具を節約する運用体制を確立するための活用となる。病院におけるマスクをはじめとしたPPEの兵站は、現状ですら怪しい状況にあり、さらには輸入も途絶えつつある中で長期戦になることも明確だ。感染有無が不明確な患者がいると、1人づつ防護具を着替える必要があるが、こんなことを悠長にやっている余裕がないのは明瞭だろう。検査実施についても、検査の場所や日時を調整をするスタッフ、毎回着替えて検査を実施する医師、そのあとに検体を密封して運ぶ保健所職員等、人的リソースも含めて枯渇するのが当然な運用が続いている。
早急に専門検査場を用意し(閑古鳥のないているクリニックとか、公園に検診車とか)、完全予約制とし、防護具の脱着なしに毎回消毒液噴霧の体制とし、検査場内での感染リスクを排除しつつリソースの消耗を抑制する運用を確立するべきである。防護具の枯渇を防ぎ医療スタッフを守るのが、作戦遂行上、何よりも重要なのは、どんだけ戦略がなくても自明だろう。
ついでに、初乗り5000円とかでいいので、解雇多発のタクシー業界で、検査場までの安全な輸送手段も検討するといいだろう。長期戦確定なので、単純努力とか根性ではなくて、余剰な資源を生かす形で投資をし、今後ボトルネックとなりうる希少リソースを節約するオペレーションを考えるべきだ。この例だと、医療・保健所スタッフ・防護具を節約するために、感染疑い者の方を運び、感染不明瞭者をできるだけ病院に近づけないという方策だ。運転席と客席を気密隔離して、毎回消毒できるようなタクシーを改造するような投資は必要とはなるが、一定雇用が守れ、希少なスタッフや資材の消耗を防ぎつつ、感染者の移動に伴う感染拡大リスクも防げるだろう。
(余談になるけど、他国を見ていると、一定数以上の流行規模になると、いくらロックダウンしても病院周辺へ人が集まり、そこを中心に感染が持続しているように思える。家族の手を煩わせない感染疑い者/感染者の輸送手段確立や、病院内における「感染疑い者(本当は未感染)」への感染抑止も有効な感染抑止手段であり、そこにコストをかけるのはロックダウンに比べると格段に費用対効果が高いと思う。)
検査場の混雑を避けるための予約の仕組み。積極的疫学調査における行動歴や接触者の調査。これらはITを活用し、極力省力化や高度情報化をすすめて、長期戦を戦い抜く工夫も必要だ。国としても、もはや厚労省単独でことに当たる状況じゃないだろう。多省庁での連絡会議を定期開催し、長期戦前提でできることを早急に進めるべきだ。検査の機械化・自動化もあれば、文科省他所轄の感染研以外の研究所・大学等からの応援も必要だ。東京の検査能力の限界を超えれば、国交省所轄の業者でも自衛隊でもいい。検体を余力のある他県の検査室へ運ぼう。接触者調査なんかは、警察や警察OBも得意分野だ。
途中少し省略したけど、どうしても書かなければと思ったことを書きなぐったら、クソ長くなった。ソーシャルディスタンシングや、軽症者施設確保が進んだのはとても良いことだけど、まだまだ、やらなければいけないことは多数ある。日本は、国家債務も大きく、経済成長も乏しく、また国の信用の元である日銀資産にせよ、我々の老後を守る年金資産にしても、多くの国富が「日本社会の生産力」に投資されている。疫病を克服しつつ、「日本社会の生産力」を維持し回復しないと、「日本死ぬ」は、あっけなく現実のものになるだろう。
そのための総力戦に、まずは検査を。そして、人・モノ・金を適切に動かそう。ロックダウン&補償は最適解である可能性もあるが、大きく間違っている可能性もある。政治家や官僚、そしてマスコミも、普段の何倍も頭を使って、ゴールに一歩でも近づけるよう、死力を尽くして欲しい。
3月4日にこちらの増田(https://anond.hatelabo.jp/20200304212124)を投下する程度には病態を理解していたり、検査の過不足については2月末から指摘している(https://anond.hatelabo.jp/20200228013154)けど、ただの匿名ブロガー。
「弱者の味方」に対しては批難しにくいという立ち位置を最大限に活かして、言いたいこと言いまくってるね。
問題なのは、多面的な考察が足りないのでバランスが悪いというのと、あくまで「(ぼくの考える)弱者」なのでこれまた偏っている。
更に困ったことに、意見の軸足が結構コロコロ変わるので、コメンテーター個人個人を見てると一貫性のなさに混乱する。
玉川氏はずっと変だけど、白鴎大学の先生も、最初の頃はまともな部類かと思っていたのだけど、最近は疲れているのか変な具合になってきているし。
とりあえず最近だと、政府批判をしつつ国家は口出しするな監視するな、と声高に叫ぶ一方で、ロックダウン(から呼び込まれる国家による制限)を推奨するような発言をするという。普段から視聴者を煽って政府の足を引っ張っているくせに、変なところで頼るんだよね。
ちなみに、番組自体がネットだと叩かれてるのは承知しているけど、聞き流す分には比較的マシだと思っていつもつけてる(誤報含め)。
話はちょっとズレるけど、
が、どうも被っているように見えるんだよね。
週明けに学校再開予定の某県の養護教諭です。新年度に向け、緊急対応や生活を送る上での注意点などのマニュアルを作成したり、保護者向けのお願い文書やメール連絡網の文面を考えたり、必要な衛生物品の在庫を整備したり、健診の日程や持ち方を検討したりしています。
もう限界です。
消毒液やそれを入れる霧吹き、液体石けん、ディスポーザブル手袋やマスク、すべての衛生物品が足りない。手に入らない。文科省からは「マスクがない場合は養護教諭や家庭科教員などが作れ」などという通知も出ています。何を考えているのですか。今回の対応のために、厚労省や文科省の出している通知を読みました。3月24日の大臣会見の内容も読みました。この状況下で、なぜ学校再開という決断に至ったのか気になったからです。「一斉臨時休業を始めたときよりも状況が改善しているわけではなく、むしろ感染者が増えている地域もある中で、なぜ学校を再開するのかというと、国民の皆様の感染拡大防止に関する意識が高まっているという認識があるからであります」と仰っていました。全身の力が抜けました。意識があっても、消毒薬や石鹸やマスクがないのです。どう感染予防をするのですか。意識があれば、確実にひとり1メートルなどという距離を取ることは到底困難な教室で授業をしても感染拡大しないのですか。小学校低学年は、正直、身の回りの清潔を保つこともままなっていないような子もいます。指しゃぶりや爪噛みをしたり、鼻を触ったり、床に寝そべったり、平気でします。ましてや新年度です。今日から小学生になりたての子供たちです。在校生も、1ヶ月以上休んだ後、久しぶりに学校に来ています。教員の指導や対応でどうにかなるレベルは越えています。
今わたしの頭の中にあるのは、万が一本校で感染拡大が起こった場合、たとえ十分なエビデンスが担保できていないような対応策であっても、報道やSNSで批判されないような「十分な対応を取りました」というポーズを取るための対応策を考えねば、ということと、もし自分が感染者となった場合、動向調査や報道で明らかになって批判されるような行動を絶対にしてはならないな、ということだけです。感染拡大防止は正直、無理です。いずれどこかの教育機関で起こります。起こらなかったとしたら、それはただの偶然です。
感染拡大が起こるなら、わたしの勤務地以外の場所であって欲しい。寧ろ政府が危機感を持ち、再度の一斉休校と、学童等の可能な限りの閉鎖の判断をしてくれるなら、早くどこかの学校で感染拡大が起こって欲しい、とすら思ってしまいます。心労からか毎日胃が痛く、寝ても覚めても辛いです。帰るころにはスーパーも閉まっており、外食なんてこの状況下でもってのほかですし、家事をする気力もないので、毎日カロリーメイトなどを食べて、痛みを紛らわせるためにお酒を飲んで寝ています。養護教諭ですから、このままでは体を壊してしまうなという自覚はあります。しかし、コロナウィルスに感染し、専門職としての信頼を失い、メディアで報道されるくらいなら、コロナの為に身を粉にして働き、結果体を壊した・命を失ったほうが人間として清いのではないかと思うのです。最近、自分が何か行動を起こすたびに「養護教諭から感染拡大 教育機関のずさんな感染予防体制」「感染者発生市で外食か 市内養護教諭コロナ陽性」「趣味は「バンド演奏」 養護教諭からコロナ感染拡大」など、ありもしないニュースの見出しが頭に浮かびます。
東日本大震災のときに毎日原発の動向にヒリヒリしてたのと同じ以上に毎日ヒリヒリしてる。
そんな状況で自分が何を考えていたかの記録を残しておきたくて自分なりに整理してみた。
どれだけの数を揃えれば十分という予測も難しいとは思うけど、仮設でも数を揃えないといけないのは
リソースは人工呼吸器と医療スタッフとスタッフが使用するマスク、防護服。
これは足りないのであれば、国内の製造工場を持ってるメーカーに依頼してすぐに増産しなきゃいけない。
もし余ったなら、日本より遅れて感染が始まる国に提供すればいい。
医療スタッフに関しては通常医療との兼ね合いにしかならないのが怖い。
海外では引退したスタッフを現場復帰させるとかの手を打ってるけど、そうしてでも数を増やしてローテーションして疲労を抑えていかないと破綻する。
無症状orごく軽症で服薬で済むなら、診断と処方自動化できないかなーとは強く思う。
処置の自動化はまだ当分先だろうけど、CTの画像診断なんかはかなりの精度で診断できるはずだから今後のためにそういった技術開発も必要。
ここが間に合わないと結果的にキャリアーを放置することになって感染が止まらなくなる。
この施設には医療スタッフは最低限で良いはずだから、無症状患者自身による施設管理を考えても良いと思う。
ポストコロナの世界では未感染者と既感染者(免疫保持者)で違う生活を送る、物語の中の階層世界が来るのかななんてぼんやり思ったりもする。
ただ、免疫保持者がある程度動かないと国全体の完全な機能停止はできないから、相応のインセンティブをつけて活動してもらうべき。
封じ込めのためのロックダウンを行うのであれば、最も"不要ではない"外出は食料品の購入。
そこでの感染拡大を防ぐのであれば、食料配給の検討もしなきゃいけないと思う。
ただ、汚染されていないことの担保をしながらの全国的な配給って現実的ではない気もしてしまう。
ぶっちゃけ景気刺激のバラマキより、国主導で生活ができる準備のほうが優先順位圧倒的に高いと思ってる。
引き落としの人は良いけどコンビニとか銀行振込にしてる人は、支払にいけなくなると滞納でライフラインが止まる可能性がある。
幸い凍死しる時期では無いけど、夏まで伸びてエアコン使えないとかはかなりまずい。
その時は自宅待機で出社せず全家庭がエアコン使うとなると消費電力もかなり膨大になりそう。
企業や店舗が稼働しない分でトントンになればいいんだけど・・・。
あと、原油の輸入が減ったり止まったりするとそもそもの発電量がガクッと落ちることの対策も必要。(そんな対策あるのか?)
これしないと企業が経済活動止められないか、大量解雇して自殺者だらけになる。
どんな保護政策を打ち出したって「窓口にお越しください」じゃ意味ない局面が実際に訪れた。
必要な届け出をWEBで完結するための仕組みは必須。ついでに選挙もWEBでできるようにしてほしい。
これを言うと、WEBが分からない人はどうするんだって言う人もいるけど、
じゃあ窓口に書類出したり選挙で投票者の名前書くときに識字できない人はどうするのって話。
そういった意味では、ただでさえ遅れてるIT教育のより一層の強化は必要だと思う。
インフラ系の事業者を除いた企業はできるだけ早く活動の停止or完全在宅勤務にするべき。
仮に従業員から感染者を出したとき、従業員の健康面ももちろん大事だけど、
活動自粛をせずに病気を広めた企業として認知されたら、実質もう終わりでしょ。
コロナ期間中だけじゃなくて、終わったあとにこそBCPの観点から最優先で取り組まなきゃいけなくなる。
東日本大震災のあとには拠点やサプライチェーンへの対応としては対策がある程度なされただろうけど、
全国的な人の移動を止めなきゃいけないことへの対応はまだ全然できてなかった。
従業員に任せるな。ちゃんと企業で用意しないとだめ。暫定的なものでもいいから。
国で強制的にやらせるわけにもいかないことがほとんどだからこそ、
国の、人の命と生活を助ける。これ以上のブランディングはない。
国が出している「疑いの条件」「その際の連絡先」をしっかり守って、可能な限り医療現場の圧迫を避ける。
また、ロックダウン前までは可能な限りの行動自粛と、きちんとした自分の行動の記録。
もし感染が判明したとき、経路をきちんと医療機関や行政に伝えられるようにしておく。
言わずもがな。外出の必要性がほぼ無く、すでにマスク溜め込んでるのにまだ買おうとしてるやつとか○ねばいいのに。
状況が進めば食料の買い占めは心情的にどうしても発生してしまうと思うから、
なるだけ早い段階で国が準備して援助がある旨を通達できるようにしてほしい。
特に子供がいる家庭で、子供のストレスが高まっていくと親の負荷も一気に高まるからそこのケアの方法を
各家庭で考え実践してシェアできるようにすることを進めていかなきゃいけない。
最終的な行動と判断はそれぞれ異なってくるのは当然だけど、
せめてその前に正しい情報の集め方、入ってくる情報の正誤の判断はある程度できるようにならないと。
また、リテラシーは発信することに関しても必須。デマとかもってのほか。
例えば相応の住人がいるマンションだったりすると、もし誰か感染者出たら十中八九白い目で見られる。
ほとんどの人がなりたくてなってるわけじゃないんだから、できるだけ寛容になるべき。
そのための一番のハードルが恐怖。怖いから警戒するし、危険のタネとなる人に厳しくなる。
恐怖はできる限り慎重さとできうる準備に変換して、心の片隅に置いておけるように。
行動を楽観的に行うのではなく、できる限りの準備をしたうえでの先行きに対する楽観性は必要。
ずっと悲観的にいても心がつらくなってしまうから、できることをした上で自分や周りの人や将来を信じる。
自分が知っている身の回りの情報を発信したり、逆に行政からの発信を周りの人に教えてあげたり。
あとはビットコインの採掘で一時期流行ったけどPCのリソースを演算に貸すような仕組みが、
今回のウイルス解析やワクチン開発とかでも一部使われてるからよかったら参加してみる。
3Dプリンターで人工呼吸器のパーツ製作みたいな話もあるみたい、すごいね。
もっといろんな情報知ってる人とか賢い人は、もっともっと有効なこととかも考えられるんだろうけど、今の所これくらいが精一杯かな。
1年後とかに見たら気付けてないこと、勘違いしてることだらけなんだろうけど、考えることってやっぱり大事だから、
今時分が何を考えて、どう思ってたのかはちゃんと振り替えれるようにしておきたい。
そろそろ経済を動かし始めるべき時期について考えた方がいい。
その際に大事なことは、被害規模がアンダーコントロールであるかどうか?ということになるかと思う。
アメリカ政府発表によると、アメリカ政府は何もしなければ220万人、良く対策できて10万人から24万人の死者が出るという予測を持っているということらしい。
これはワクチンが出来上がるまでの期間の犠牲者とすると、最短1年8か月らしいので20か月で考えてみると、月平均で死者12000人であれば許容範囲ということになる。
十分ケア出来ている重症者の致死率が10%とすれば、1か月の間に12万人の重傷者を受け入れられるリソースが整えば良いということになる。
同時に、一定期間の重症者の治癒数と発生数を比較して、治癒数が大きい傾向があれば、リソースの破綻が起きない事も予測できる。
この辺りはアールノートを求める際に、現在までもSIRモデルを使ったりで行って来てるんだと思うので、割と確度の高い予測が立つはず。
この条件が成立するのが、アメリカ政府が経済を動かす決意をする条件なのかなと想像する。
これを日本に当てはめた場合、簡単にして人口3分の1(日本1.2億 アメリカ3.2億)、1万人あたりの病床数4倍とする(日本137、アメリカ30)と考えたら、
大雑把に言って、死者が毎月1000人、合計2万人が良くやった場合の最大値ということになるか。その10倍の10000床が重症者用に必要となる。
軽症患者には一般病床の利用やホテルなどの利用、自宅隔離も考えられるとしても、重症者に対しては死者数を抑えるために十分なケアが必要だ。
現在、それが可能な指定感染症の病床数が1800なので、これを5倍程度用意できたタイミングが、日本にとっては経済を動かしても問題ないタイミングになりそうだ。
今現在、東京都だけで+4000床を目指してるらしいので、その計画の達成時でのSIRモデルを用いた流行規模の予測がアンダーコントロールであれば、自粛が解除できるのではないか。
他の病気や負傷に対応しつつ新型コロナウイルスの重症者すべてに十分なケアが出来るか
という点が医療崩壊として語られているので、重症者対応用のリソースの数を担保しつつ犠牲者数がアンダーコントロールであれば、自粛解除しても問題はないだろう。
インフルエンザで毎年1万人死んでるんだから、新型コロナウイルスの死者が合計2万人で抑えられれば良くやったと言えるし問題はないだろう。
実際には政府はもっとうまくやって1万人くらいで止められるかもしれないが、合計死者数2万位であれば
経済を止める被害の方が甚大だし、経済的な被害を抑えることを、そろそろ我々も気にした方がいい。国の財政、我々の生活の方が大事だ。
ただ今回パァッと放出したところで、日本は消費に結びつかない国だから、あんま意味ないだろうね
金融緩和と財政拡大が継続して行われるという担保があれば人々の期待を変化させることが出来るかもしれないが、少子化を解決しない以上、有り得ない夢物語
大企業に入社するには、高校2年間は受験勉強に費やしてマーチ以上に受かり、大学2~3年間は勉強やインターンで経験を積み、さらに就職試験対策をしたうえで就職試験に挑む必要がある。この狭き門を通過して、ようやく(名目上の)終身雇用と賞与と言う恩恵にあずかることができる。人によっては高校受験もしているからさらに+2~3年努力が必要になる。一方、統計(https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/koyou/haken/18/dl/gaikyou.pdf)によると派遣社員の75%は四大卒未満であり、無試験合格のいわゆる「Fランク大学」を足すと80%は超えるだろう。
10代で何年も遊びたいのを我慢して努力した人間と、遊んでいた人間の待遇が平等であって良いのだろうか。もちろん家庭の事情などで大学に進学でなかった、正社員で就職したが事情により退職せざる負えなかった、という個々の事情は考慮する必要があるが、それでも奨学金を含めて機会の平等はある程度担保されている。そう言うと「奨学金は借金」「そういう情報に接することができない層もいる」という反論もあるだろうが、そこまで行くと「福祉」の世界の話になると思う。当たり前だが、大企業勤務の高額所得者の方が納税額は多く「福祉」にも貢献している。
行き過ぎた自己責任論は嫌いだし、セーフティネットは用意されるべきであると思っているが、権利ばかり主張するのは見ていて痛々しく思う。
人間ってさウイルスと細菌と細胞の塊じゃん?他の動物も植物も微生物もそうじゃん?
ウイルスも第4のドメインとか言われてるけどたぶん生き物じゃん?
『生き物と無生物を分ける意味はない』と言う増田もいたが、生き物は能動的だから無生物とは違うじゃん?
でも、無生物は能動的では無いって言い放つと今度は『自己組織化する分子』ってのが出てくるじゃん?
[academist Journal] 無生物から生物を産み出す自己組織化 – フラーレンからマイクロサイコロを作る、触角を生やす。
https://academist-cf.com/journal/?p=5873
▼ 自己組織化
雪の結晶は、自己組織化により六角形を基本とした似たような形が作られるが、湿度や温度のわずかな違いによって無数のパターンを作る
2005年の動画でだいぶ古いけど科学技術振興機構(JST)の運営する jstsciencechannel のこの動画がわかりやすいよ
未来を創る科学者達 (60)自然の作るデザインが未来を描く! ~自己組織化によるナノテクノロジー~
化学進化についてはこの動画がわかりやすいよ。英語だけど字幕もつけられるよ
What is Chemical Evolution?
そもそも能動的ってなんだよ人間の自由な意識とかある?とかいうと無いじゃん?
すべては反応で気のせいじゃん?
自由意志を担保するには物理から精神が派生しているのではなくその逆とするしかないじゃん?
でも増田に書き込む反応ってなんだよってなるじゃん?
日本生物物理学会も “材料的には生命と非生命の物質の間に本質的な違いはありません.それでは,「生命」と「物質」の違いはどこにあるのでしょうか?“ とか言っている
だが、増田にもよく現れがちな ”生きる意味について考える” については結論がでた
それは即ち、『自己組織化や分子の振る舞いや目的を考えること』 である
ふぇぇぇ、日本のナノテクノロジーやバイオテクノロジーは無双しそう
<関連増田>
麻生大臣記者会見。
記者「銀行は事業者支援はしますか?」
麻生「君、家を担保に金借りたことある?」
記者「ないです」
麻生「そんな顔してるよな。銀行がやると思う?
冷たいぜ。
銀行は、雨が降ったら傘を取り上げ、
晴れたら傘を差すというだろ」— 鈴木領一 「1%アクション!」 (@suzuryou) March 16, 2020
儲かっている会社であっても安全ではない会社なんていくらでもある。はてなにいるような重箱の隅をつつくような批判ばっかしてるネガティブキャラがいれば安全性なんて作れないんだよ。はてぶとかツイッターでコメントするときお前ら安全性を感じてるか?炎上しないだろうかと慎重にツイートすることあるだろ?クソ野郎が一人でもいるとその場は安全じゃなくなるんだよ。
金が無いと安全性が担保しづらいのは確かだ。余裕がないと安全なんてゆったりしたこと言ってられないし、カネがないとどうしてもクソ野郎を雇うことが多くなるからな。
けど金があれば良いってわけじゃない。というかカネがないとうまく行かないのは安全性に限った話ではなくて、モチベーションとかチームの学習とかあらゆるものがネガティブに影響を受ける。
安全性のある職場で働きたい、みたいな期待を感じることが時々あるんだけど、安全性を作る責任はお前も担ってるからな?
お前が意見を言うときにチームにとっての建設的な意見だけを言うようにして、
お前が意見をもらったときには感情的にならず冷静に一旦全部受け止める、
これを「全員が」「何度も繰り返す」ことで作られた信頼を安全性と呼ぶんだよ。
あとはぶっちゃけバカがいると安全性はちょっと作りにくいよな。
バカがどんなにバカな意見を言っても鼻で笑ったりせずに真面目に返事するのって、地味に辛いんだよ。
またチームが安全だからといって成果がでるわけではない、というのはメルカリが本体以後すべてのプロジェクトで失敗してることで証明されたよな。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を想起させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。
結論としては以上となる。