はてなキーワード: 形式上とは
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先日開催されたシャニマス5thライブについて、私は開催期間二日間の両日の現地チケットに応募し、一日目に参加致しました。
個人的には二日間両日参加したかったところ、一日しか当選しなかったのは発売形式上仕方の無いことですので、残念ではありましたが、五周年という節目のライブであり、大変楽しみにしておりました。
ライブの内容については、従来の今年度に発表された楽曲のみの形式から、過去発表された楽曲のパフォーマンスもあり、全体の演出内容について不可解な点がありつつも楽しませていただきました。
しかしながら翌日配信された二日目の内容を視聴し、楽曲については同様の形態でありつつも、前日には不可解なままであった演出に対して、シャニマスの展開を交えた解決を提示するような内容の公演となっており、愕然としました。
はっきりと申し上げて、一日目の公演内容と二日目の公演内容は、演出内容からいって同質のものではなく、また一日目の公演内容は二日目の公演内容に対して不完全又は不十分なものとしか感じられませんでした。
繰り返しになりますが、私は可能であれば両日現地にて鑑賞したいと考えていたところ、抽選の結果やむ無く一日目のみ現地で鑑賞する形となりましたが、そのような参加者にとり、今回のような演出内容は、発表の効果が最大となるように一日目の参加者を蔑ろにしたとしか感じ取ることは出来ませんでした。
このような演出は内容からいって、一日目と二日目ではなく別々の公演というべきであり、そうでなければ可能な限り両日の鑑賞を可能とする通し券の販売や、そもそもより収容人数の多い会場での開催を行うべきではないでしょうか。
正直なところ、不完全な公演を、完全な形での公演と同一である公演の第一日であるかのように欺かれて鑑賞する形となり、またその料金が同額であったことには到底満足出来ません。二度とこのような参加者を蔑ろにした演出を行わないでいただきたいです。五周年というシャニマスにとって記念すべき日を祝う為の公演で、このように作品の発表を劇的にすることを目的として冷水を浴びせられたことに大いに憤っています。
日本の少子化の原因としては子育て支援の不足を上げる人が圧倒的多数で、未婚率の上昇を上げる人は少ない
で、少子化の原因に未婚率の上昇を上げる人でも未婚率の上昇の主要因を経済要素ではなく
お見合い婚の減少と自由恋愛の増加に原因を求める人が多いんだけど
個人的にはそれも違うと思うんだよね
単に自由恋愛って「だけ」なら、どんどん積極的に相手を作って恋愛その果ての結婚をすればいいので、それだけでは未婚率上昇の原因にならなくない?寧ろお見合い婚よりも結婚は増えそう
今の未婚率の上昇って形式上は自由恋愛という事になっているけれどその実は自由恋愛というよりも細かい作法が決まり決まっていてガチガチのルールで不自由になってるせいじゃないかと思う
ナンパは迷惑行為だとか上司から部下へのアプローチはセクハラだとか、
最低三回はデートして脈ありかどうか確認してからでないと告白しちゃ駄目だとか、知り合って1週間以内に男から連絡先を聞いて来なかったら脈なしだとか、
自分と釣り合った相手としか付き合っちゃいけないとか…とにかくルールが細かすぎて、定型じゃないと不可能でしょう
こういう作法って確かバブル期からじゃないかと思うんだけど、実際にバブル期辺りから少子化も始まってるよね
自由恋愛といってももっとざっくばらんなやり方が主流ならば婚姻率も上がると思う
例えば自分の両親(60代)も自由恋愛で結婚したタイプだけど、旅先のナンパで知り合って居住地も学歴も離れていて本来ならば知り合うような間柄にはない同士だった
今はそういうのって多分無理だよね
海外はどうなのかねえ
海外には日本のような告白文化はないらしいが、そうだとすると日本以外に恋愛の作法が複雑怪奇化して少子化してそうなんだけど
実際にはそうでもないようなので本当に不思議
何か問題については公金云々解決しなければならない事項が山積してるが、決定的に悪い結果はもうもたらされていて「生活保護の受給対象になりうる本人の内心に生活保護を受けないという意思を強く植え付けてしまう可能性」を高め過ぎたところにあると思う。
たしかに世間から白い目で見られそうとか、プライド的になあ……と思う部分は今までもあった。それでも「最後の最後行き着くところ」という認識は活きていたはず。水際対策で弾かれようが「困ったら頼らないといけない」のは分かってたはず。
それが今回「特定の主義主張をもとに差別ともとれる発信をしていた特定の集団」が「生活保護や障害者年金などの福祉制度を使って金を集めていたかもしれない」という事象があまりにも大きなスケールで発生したことにより、それと相対する集団に属していた場合に「社会福祉に頼った瞬間抗弁抗議の資格を失う」と考えてしまう可能性が出てきた。(自分はそう考えている)
生活保護やそれに準ずる社会福祉が「最後のセーフティネット」ではなくなりただただ「使うべきでないもの」になってしまった。
生活保護は(形式上)信条や内心を問わず国民が享受できうるものでなければならないはずで、それを国や行政側が保証するのは勿論のこと、受給する側にも「信条によって受けるか受けざるか」考えさせないようにしないといけないはず。
きっとクラスター規模を測ればたいした人数はいないかもしれない。この問題に関わったり注視したりしている人々の間で、より社会福祉に対するイメージが変質してしまえば、それは(すくなくとも現行の)生活保護制度の死であると考える。言われ過ぎたことばだけど「人権を叫ぶものにより人権は殺される」形に見えた。
唯一救いとも思えるのが、いまのところネットでの加熱に対して各マスメディアがまだ小欄程度の報道にとどまっているところ。報道しない自由を発揮されてると言われまくり(地上波じゃ全然聞かない)だが、仮に収入無しかギリギリの独り暮らしオタクがいて、その人がインターネット環境をひとつももっていなければまだ「生活保護があるか」と頭の片隅に残しておける。この問題を知ったら飢える決意か地下帝国へ行く決意をすると思う。
マスメディアはどこかしらに操られてるという各種言説に沿わせるなら
・生活保護で出るお金を減らしたいか行政の手間を軽減させたいならガンガン報じさせる
だと思う
何が書いてあるか、誰が書いているか、の違いか|文学作品ならそら後者やろうけど、技術書や理論論文で後者重視したら権威主義への傾倒でしかないな
いや、文学研究でも「何が書いてあるか」です(「何が書いてあるか」を解釈する上で「誰が書いたか」という情報が必要な場合があるだけ)。たとえば、ピケティが英語で書いた論文なら英語から訳すべきで、ピケティがフランス人だからといってフランス語から重訳するのはおかしい。逆に、仮に著者がイギリス人でも、フランス語で書かれた本ならフランス語から訳すべき、そういう話です。文系が大事にしているのは「文章それ自体」であって、文章それ自体を忠実に原語から訳すことが重要である、というのが文系の考え方。
(だって、「オリジナルの文章」こそが我々にとっての生データですからね。もちろん完全にオリジナルなのは難しい場合が多いけど、なるべくオリジナルに近づける努力をすることは必要で、原文にあたるのはその基礎的な作業であって学部生とかの未熟な人でない限りは省くべきではないプロセスですよね、ってこと)
さえぼう氏側は「間違いが起こり得る」としか言わず、具体的にどこが「間違いだった」という指摘がないから、屋上屋を架す空論でしかない。具体的に誤訳だったという指摘、出版から随分経つけど今までにあった?
これはもう「具体的に間違いがあるから問題だ」ではなくて「重訳なのがけしからん」という話なので……具体的な実害の問題じゃなくて規範の話をしてるんですよね。ただ、その規範が他の分野の人たちに受け入れられていない、という状況。
たとえば増田は、ちょっとマニアックな事柄についての論文を有名な査読誌に投稿したことがあるんですけど、「よく調べてあるけど学術的インパクトが足りない(要は面白くない)。却下」という趣旨のやり取りを何度かして、もういっか、めんどいから載るとこに載せよ、って思って当時所属してた機関の紀要に無査読の論文書いたことがあるんですよ。業績欄には当然その論文を載っけてます(もちろん査読の有無は明記した上で)。で、この論文が形式上査読なしであることに特段の問題はないですよね。だって研究結果が間違ってるわけじゃないもの。ただ有名な雑誌に載るほど面白くないだけ。それでも、論文には査読がついていて当然、という人たちは「いや、査読なしだと間違った論文が載るリスクがあって、だから査読がないものは論文と認めるべきではなく……」って言いたくなるんじゃないですか? 「重訳だと誤訳のリスクが……」ってのもそういうことですよ。
物理学そのものではないですけど、いちおう、文系には科学史という分野もあり、そこでは物理学の歴史について原語を使った研究がされてます。たとえば、 isbn:4486021746 なんかは、ソ連時代の物理学をめぐる論争について研究した本で、がっつりロシア語の文献を読み込んでます(ネットで読める論文だと、DOI: 10.34336/jhsj.47.248_193とか)。外国の学者が書いたこの本 isbn:4815808090 も、英語以外の文献も読んでたような(この本は面白いので超オススメです)。アインシュタインはドイツ語で相対性理論の論文を書いたわけですからね(DOI: 10.1002/andp.19053221004)。もちろん、繰り返すようにこれらはあくまで「物理学を対象とした文系の学問」であって、物理学そのものではないので、「物理学では基本的に英語版からの翻訳」というのはそうなんだろうなぁ、と思いますが。
これ、医学系が人文系にIF要求するような無理筋を感じる 読者がやるのはピケティの研究じゃなくてピケティを踏まえた研究では
これメチャクチャ思いました。過去の査読云々の論争を思い出しちゃいましたよ( anond:20181009070341 とか、 anond:20181011090428 とか、このへんの話ね)。「翻訳するときは原典から訳すのが当然だろ!」「いや、別に重訳でも意味が取れてればそれでいいじゃん……」「出版のスピード感も大事だし……」っていうやり取り、まんま過去の「論文は全部査読するのが当然だろ!」「ええ、別に無査読で載せても、後続の論文でしっかり吟味されてればそれでいいじゃん……」「出版のスピード感も大事だし……」っていうやり取りとソックリというか。増田は「なんで原典にあたるという当然のことを重要視しないんだろう……」って思っちゃうんですけど、理系や経済学の人たちも「なんで査読という当然のことを重要視しないんだろう……」って思ってたわけですよね。まあだから、あんまり自分野の基準で他分野にケチつけるのはよろしくないなぁと、自戒を込めて。
増田に書いたことは原文ママじゃなくて要約です。当たり前でしょ……(ほんとはきちんと細かく落とす理由を書いてあったけど自分の専門分野も出した雑誌の名前も言いたくない)。まあ「大意」とか「趣旨」とか書いておくべきだったかもしれないけど流石にこの文面見たら要約だとわかるっしょ? って思ったんですけど伝わらない人もいるんだなぁと新鮮な驚きを感じたので「趣旨」って付け足しておきましたわ。要約を鉤括弧で括ったこちらにも非はあるし。
だから丁寧に「有名な査読誌に出して面白くないからと蹴られた」話をしたんですけど伝わりませんでした? 間違いがあるとかじゃなくて、マニアックすぎてうちの雑誌に載せるには面白くない、っていう理由で却下されたんですよ。まさかそこに引っかかる人が出てくるとは。ちゃんと経緯は書いてあるでしょ。
でもまあ、反射で「査読ついてないなんてけしからん」って思っちゃうってことですよね。重訳もそういうことです。反射で「直訳しないなんてけしからん」って思っちゃう、っていう話。
わざと言ってます? それとも本当に読めてない? 「よく調べてあるけど」と前置きしたでしょ? 研究成果それ自体への疑義は査読者からは呈されていません。むしろ称賛されてます。その上で面白くないから書き直せってやり取りを何度もしたの(再投稿を可とするリジェクトだった)。何度か書き直して、ああこれは先方が求める「面白さ」と増田がこの研究に感じている「面白さ」が噛み合うことはないな、と思ったので再投稿せずに無査読紀要に載せることにしました。自分にとっては自明なことなので説明不足になっていたきらいはあり、そこは申し訳ないけど、もとの文章ちゃんと読んでくれませんか?
だいたい、研究成果の正しさはディジタルじゃなくて、「部分的には正しいが、しかし……」みたいにグラデーションがあるものでしょ。査読で100%の正しさが保証されると考えているならそれは大間違いですよ。増田の研究だって、研究手法と結論的に「正しいか、間違いか」なんてディジタルに言えるような研究じゃないっす。なので査読で「間違いだとわかる」なんてこともほぼあり得ない(資料の読解間違いとかはあるかもしれないけど、増田の論文が総体として「間違い」であることを示すには増田の論文と同程度以上の調査をし論文を書く必要があるんで、普通の査読じゃ「間違い」とか言えないはず。関連する資料を全部諳んじてる大家なら別だけど)。
そもそもピケティ先生は狭い学術ギルド内論文として書いたんじゃなく経世済民の書として世に問うたわけだから増田の話(や一部ブコメ)は大分ズレてるのでは。例えば「翻訳とか無駄で原本を参照汁」的な暴論との文字数
学術業界だけじゃなくて、一般書の方でも最近は「原語から訳すべき」という流れが定着しつつあったじゃないすか。スタニスワフ・レムも昔はロシア語からの重訳だったけどポーランド語からの新訳が出てるし、昔はフランス語経由で訳されてたイスマイル・カダレも今はアルバニア語から訳されてるし、バスク語やチベット語やイディッシュ語の文学が翻訳されてきたでしょう? そういう流れが出てきてたのに有名なフランス語の本を英語から重訳するなんて、というショックは当然ありますよ(だから私は『三体』も相当ガッカリしましたよ。中国語版には検閲が入ってる、と聞いて納得したけど。エーレンデュル捜査官シリーズの方は、重訳自体はもう仕方ないけど、頼む~~~せめて著者の名前がおかしいのくらいはどうにかしてくれ~~~って感じ。重訳のせいで著者の名前すらおかしな表記がされてるんですよね……)。時代を巻き戻す気か、と反射で思っちゃうのも無理はないです。
夫の大学時代の友達に自分の顔を「下の上」と自認する人がいる。
あまり人の顔を上や下と評価したないけれど、普通に格好いい側の男性で、クラスで1番とは言わないけれど、上位層に入る顔立ちである。
しかも、こういう表現は良くないが、あまり彼の顔立ちに似つかわしくない、端的に言えば不細工な女の子とも付き合う。
最初は遊び人なのかと思っていたが、夫からよくよく話を聞くと、自己評価があまりに低すぎて、
女性から好きと言われると、こんな自分を好きになってくれる人がいるなんて、とすぐ寝てしまうのだという。
夫の友人ではあるが、親友というほどの間柄でもなく、人様のことなので放っておくしかないかと思っていたのだが、
ひょんなことから、あるコミュニティ内で彼が都合の良いセフレとして扱われていることが判明してしまった。
女性陣が彼氏がいない時期に人恋しくなった時に、その彼に「やっぱり好き」と連絡するとすぐに迎えに来てくれて、
肉体関係を持ち、飽きたら捨てるということが繰り返されているようなのだ。
この話を聞いた時、自分でも意外だったのだが、そういう恋愛体質の女の子がセフレ扱いされることがあるけど、
男性でもそういうことがあるんだと思った。つまり、自分にも偏見があったんだなと思った。
話が横道に逸れるので、私の偏見の話は置いておくと、さすがにこのまま放っておくのは良くないという話に夫となり、
彼を含めて3人で話してカウンセリングまがいのことをした。
彼いはく、自己評価がとにかく低く、人に愛されることに飢えているのだという。
彼自身は普通のサラリーマンで、ギャンブルや女遊び(キャバクラや風俗など)に行く風でもなく、
なのに、なぜこれまでの彼女と長続きしないのかを問うと、
どうやら彼女から「他の女の子に言い寄られたらどうする?」と聞かれたときに馬鹿正直に「こんな自分のことを好きになってくれるのなら寝るかも」
と言ってしまっているようなのである。そりゃ彼女としては伴侶にするには心もとない。
それで、フラ続け、しまいにはあるコミュニティの女性陣にこの性格がバレてしまって上述のコミュニティ内での都合の良いセフレ扱いに収まっているらしい。
もしかしたら幼少期に愛されていなかったというトラウマがあるだとか、
一見中の上に見える見た目は整形のおかげだとか、私たちが知らないこともあるのかもしれない。
しかし、夫が「もしうちの妻が好きって言ってきたら寝るの?」って聞いたら
「自分から行くことはないけど、そう言ってくれたら寝ると思う」と言われ、二人で頭を抱えた。
どうやらセックス依存症ではないようで、性行為自体に強いこだわりがあるようではなさそう。
別れた彼女のストーカーになったり、リストカットなどの自傷行為をして相手を引き止めるようなヤンデレタイプでもない。
働きぶりはわからないが、仕事は普通にやっているようだし、夫の友人たちも含めて、彼の性格上の問題を言う人はいない。
彼とはあまり仲良くない夫の友人の一人は「ただのB専だと思ってた」くらいの感想で、彼のこの問題には気づいていなかった。
鬱症状でもないし、サイコパスだとか、アスペだとかそういう感じでもない(もちろん私は医学的判断はできないが一般的用語としてのそういう感じの人ではない)
彼自身も普通の結婚をして、自分を愛してくれる人と普通の幸せになりたいと言う。
ここまで彼の話を聞いてしまって、私自身怖いと思うのが、夫と喧嘩をした時に彼に「好き」と連絡を取らない自信がないと言うのもある。
彼の弱みを知っている私は都合よく便利に彼を利用することもできる。ストーカーにならないのも、綺麗に別れてくれるのも都合がいい。
何より彼の顔立ちは上位層に入ると私は思う。
そんな弱い自分も怖いので、彼にはどこかでカウンセリングや治療?などを受けてもらいたいと思うのだが、どういう施設に繋ぐのがいいんだろうか検討がつかない。
メンタルクリニックではなさそう。何度も繰り返すが、通常の社会生活上、彼の精神におかしなところは全く見えない。
またはマッチングアプリや婚活サイトがいいんだろうか?でも、彼は形式上の結婚にこだわっているわけではなく、
仮にそう言う場所で付き合ったり結婚できても、この女性は自分のことを本心で好きではないかもしれないとまた思って、
別の女性のところに行くように思うのだ。
暇な時Twitterのトレンドをよく見てるんだが知らない世界が見れて楽しい。
ワードから内容が類推出来ないトレンドを見るんだけど最近面白かったのがkpopの韓国オタクと日本オタクの抗争。
韓国もライブは形式上撮影禁止みたいなんだが誰もルール守ってないらしく、日本でのコンサートも同じように撮影して強制退場くらうことにブチギレ。
韓国にはお裾分け文化があるらしく、日本人は観に行く癖に盗撮してお裾分けしてくれない。ズルい!とキレる韓国人と日本は本当に撮影禁止なんだから郷にいれば従え!とキレる日本人。
日本に行ってしまうアイドルに対して寂しく思う本国のファンに向けて「さっさと終わらせて帰ってくるから」と全世界に向けて発信してしまうアイドル。
「分かってはいるけどせめて見えない所で言って欲しい」と悲しむ日本人に「ざまぁw本国ファン愛されてっからww」と煽る韓国人。
煽り合戦が高まり過ぎて韓国人「独島でコンサートしよう」日本人「え?竹島?また日本でコンサートしてくれるの?ありがとう!ww」と若い世代が喧嘩してるのがクソおもろい。
彼女の事はさっぱりわからん、記事を斜め読みしただけだが、違和感を覚えた。
「大阪のタトゥー入り「美人市議」が議会を相手に大立ち回り!」
の記事
引っかかったのはこのセンテンス
「中国籍の方は中国政府から依頼されたらスパイ行為をしなければならない」と指摘。しかし市議会は「中国人に対する差別的な発言に当たる」として同26日、添田氏に謝罪と反省を求める決議を全会一致で可決した。
「中国人」じゃないだろ、主語は「中国政府」であるべきで、市議会のトンチンカン。
解説しよう
当たり前。
国交を結べば民事、刑事、商事、あらゆるトラブルが起きるがデュープロセスが確立していない相手政府に裁く権利を与えることはできない。
なんかあったらこっちの法で裁くからね。こっちの法はちゃんとしてるから任しとけ。
が、ところが、形式上ギリギリ整えただけで統帥権は天皇が保持しシビリアンコントロールも無い。
天皇大権の意思決定に対して国民が民主的にオーバーライドする法的機能も無い。
大日本帝国憲法にある「輔弼」はアドバイス程度の機能しかない。
そんな国に先進国は金になるからと交易を拡大し、国家のバグに目をつぶり技術や知識を垂れ流した
イギリスの統治論を模倣した解釈論で誤魔化していたが、案の定悪用された。
莫大なツケを払うことになった。
本来は国家体制の脆弱性を見極め付き合いの範囲を限定すべきだった。
しちゃダメってのが国際合意、国家の責任でお付き合いの範囲を限定しなきゃならない。
国民同士、市民レベルでの交流がどうであるかは別の話だし、人間として差別はイカンと啓蒙するのは結構な事なのだが
中国に対して「我々と対等に付き合える国家体制を作りなさい、国際常識に倣いなさい、そうでなければ国家としての付き合いは制限する」
当たり前の事なんだよ。
なんでもザルで許しちゃダメなの
すでに我々自身で失敗してんだよ
また、特定の自助グループを非難する意図も、自助グループの存在を非難する意図もありません。
先日、初めてある自助グループに参加した。
私は既婚なのだが、夫婦間での問題が実害として表れ始めたので、相談機関に相談したところ、自助グループに参加することになった。
自助グループとはどういうものかというと、なにかしらの問題を抱える人が集まり、お互いの経験や現状を話し、つらさなど気持ちを分かち合う場だ。基本的に「言いっぱなし・聞きっぱなし」、すなわち問題や気持ちを吐き出して整理する場所で、傾聴に重点がおかれた形式をとることが多い。
なぜ、傾聴が重視されるかというと、発言に対して正論で責められると吐き出すものも吐き出せず、結局そこでは安心して話せないことになるからだ。
そもそも、正論で片付けられるような状況であればそこまで困っていないというのもある。問題というのは様々なバックボーンや出来事のタイミングなど複雑な要素で成り立っているので、誰かにとっての正論が必ずしも当てはまるものではないということは確かだ。
とりあえず、誰にも言えないことを吐き出せる。そういう場所として自助グループがある。
(結論からして、具体的なアドバイスは医師やカウンセラー等、金銭的対価を払って、ある意味「職業的責任を持ってくれる」人たちに頼ることが良いかと思う。
ただ、他の人の経験を聞ける、自分も経験を話せると言う点では自助グループは有意義だとも思う。個人的な感想です。)
私もメンタルの病を持っており、医師やカウンセラーに頼りつつ、同じようにメンタルの問題がある人と繋がったり、信頼できる人を見つけて、お互いに傾聴するような関係を築いたりもしてきた。そういう前提のもと、前述の経緯で、ある自助グループに参加した。
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びっくらこいた。
形式上は傾聴だ。まずミーティング的なものがあり、その際は順々に気持ちを吐露していく。これについてその場でアドバイスされることはない。
また、ミーティング中は特定の施設や団体等の名前を出すことは禁止されている。
しかしその後「ご飯行きましょ」という流れがあり、どこの病院がいいとかそういう話はミーティング後にすることになる。正直状況的には藁をも掴む思いなので、参加した。
前述の通りミーティング後の食事等でまた状況の話をするわけだが、何を話しても「それは病んでいる」「おかしい、普通じゃない」といった反応がくる。
正直病んでてもともとなのである。
自分の話になるが、物心がついたときから「死にたい」と言って暴れたり、自傷行為に走ったりしてきて、頻繁に家出もしていた。大人になってからやっとの思いでメンタルクリニックにつながり、服薬とカウンセリングでなんとか生きてきたし、今もそうだ。
親との関係がそもそも拗れていたのだが、最近になって親との関係も徐々に清算されてきた。親元はすでに離れているのだが、親も勉強したり考えたりしたようで、こちらも落ち着いて話せる環境になってきた。親には、「心配はするけど、生きたいように生きなさい」と言ってもらえて、荷が下りたような気持ちになったのが、最近のことである。
病みつつ、病んでるなりになんとかやっていっている。
そこに状況の否定が来ると、混乱する。
おかしいと言われれば、たしかにおかしいだろう。病んでいる。そんなことはわかっている。
まあ、おかしいだとか普通じゃないと否定される分には「世間的にはそうですよね」で片付けられるのだが、決定的にしんどかったことの一つが、自助グループ以外の繋がりを否定されたことだ。
前述のとおり、同じような境遇の友人がそれなりの数居り、お互い「それはつらいね」「そういうとき、私はこうしたよ」など、傾聴を重視した関係を築くことに成功したわけだが、そのことをぽろっと自助グループで話したところ「友人に話すことはあまりよくない」といったことをアドバイスされた。
また、親とも少しずつ和解しており、今では困ったことがあると相談する関係なのだが、そのこともぽろっと話したら「親に相談することも良くない」らしかった。
そして、「自助グループで話すのがいい」という流れになる。相談するなら自助グループの人にしなさいと連絡先を渡された。
友人に話すことには良くない面もある、それは理解できる。
「死にたい」「つらい」「助けて」といったことを頻繁に友人に対して言うのは、友人に心的介護を要求することになる。それは友人にとって良くないのはもちろん、自分にとっても良くない。介護する側と介護される側となると、対等な関係ではなくなるからだ。
しかし、そこは理解した上で、友人とは付き合っている。本当にどうしようもないときは、病院やカウンセリングに頼る。友人にサービスは要求しない。傾聴はするし、お互いの嬉しかったことや悲しかったことを共有こそするが、それは友人関係の範囲でのことだ。逆に、その辺りの意識が共有できない相手に相談することはない。
これは(成人して一応社会生活を送れる身としては、)友人を親に置き換えてもほぼ当てはまる。少なくとも私の状況では。
なので、病院やカウンセリングを中心に頼っている今は、友人たちとも親ともかなり良好な関係が築けていると思っている。
友人や親とは一応心配しあってはいるし、お互いの状況や気持ちを聞いて「そりゃきびしいなあ」とか「やったやん」などと言うことはあるが、それで「あれをしてあげた、これをしてあげた」ということはない。
そんな関係を、あまり詳しく話をしていない段階で否定されたことに衝撃を受けた。
また、そもそも傾聴が重視されるはずの自助グループで傾聴が機能していなかったことも衝撃だった。
夫とはクールダウン期間として別居しているのだが、事情を考慮した結果、また同居をするつもりでいる。
その旨を話すと、鬼のように止められた。
たしかに同居にはデメリットもある。心理的に距離が保てない(=自他境界が曖昧な)二人が同居すると、それはそれはトラブルが絶えない。
しかし、「自他境界が曖昧で問題が起こる」ということを自覚した上で、病院やカウンセラーを頼りつつ落としどころを見つけていく、ということはそんなにまずいことなのだろうか。
実際、別居のメリットも十分感じた。
最初はお互い(別居に対する)抵抗感があったが、一回離れてみると見えてくることはたくさんある。自分の生活を律するのは最終的に自分だということ、金銭的にお互いを頼ることはなるべく避けた方が良いこと、べったりと一緒にいなくても生きていけること、たくさん気づくことがあった。
でもその上で、仕事場へのアクセスや金銭的事情、また単純に「適度に自他境界をつくり、一緒にいる楽しさに目を向けられる関係を目指したい」という点で、つまり試行錯誤をするというプロセス上、とりあえず同居してみてもいいのではないかと思っている。
トラブルがあれば、その都度カウンセリングや医療機関を頼る、また一時的に親族の元に身を寄せることもできる体制を構築した。これが保険となり、同居を前向きに考えられるようになった。
細々(こまごま)とした事情を自分の中の天秤にかけた結果が「同居」なのだが、それは自助グループ的にはあり得ない様子なのである。
これがまた結構な人数で説得される。そうなると場としては同調せざるを得なくなってしまい、「確かにそうですね…」と言ってしまった。
そのことがまあまあなダメージで、自助グループに行く度に「同居絶対ダメ」と説得されるのだが、そのあと1~2日はもやもやして寝込んだり泣いたりしてしまった。
もともとメンタルの病で意志薄弱なところがあるのだが、私のことは私で決める、ということが少しずつ出来るようになってきたところだ。
そこに大人数の説得が来て、かなり混乱した。もしバックボーンが違えども混乱するのではないか、と思う。
また付け加えると、ミーティング中の発言に関しても多少の突っ込みを受けた。これでは「言いっぱなし聞きっぱなし」の意味がなく、傾聴とは言えないのではないだろうか。もやもや、もやもや…
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その自助グループに参加してから、混乱したり寝込んだり涙したりしていたわけだが、その自助グループで「確かにそうですよね」等と言っていると、どんどん自助グループへの関与を勧められる。毎日どこかしらでやっているので、ほぼ無限に勧めることが可能なのだ。
それで、その場の流れで「では、~曜日は~でやっている会に参加します」などと言ってしまった(本当は、要らないことは言わなければいいので、ここは私の落ち度と思う。)。
その場では参加する宣言をしたわけだが、私の場合、しんどさは大体翌日~翌々日にやってくるので、その場は平気でも後々「あんなことを言ってしまったが、行かなければならないのか…死にたい…」という状態になる。
行く宣言をした自助グループの会を翌々日に控え、「死にた~い…」となっていたとき、前からかかっているカウンセラーの顔が浮かび、カウンセリングで相談したらいいのではないかと考えた。
ここ数ヵ月希死念慮は無かったのに、こんなに死にたいのはまずい状況だ。しかし意志薄弱傾向もあって、「自分で決められない、誰かに相談しないと落ち着かない…誰か背中を押してくれ…でも友達にも親にも話すのはやめた方がいいって言われたし…」等と、くどくど考えていたが、最終的に友人が背中を押してくれたので、すぐカウンセリングに行くことにした。
カウンセラーにつらさを話すと、まずつらさを肯定してくれた。もうこの時点で涙が出るほど安心した。
一通り打ち明けたところ、自助グループの役割や傾聴の意義について説明を受けた。また、傾聴が徹底されている自助グループもたくさんあり、自助グループが全部私の経験したような場所ではないことも教えてくれた。
心の底から、「このカウンセラーさんと繋がっていて良かった…」と思った。
結局、しんどかった自助グループとは距離を置くことにした。今は、カウンセラー、医師と相談しつつ生活を建て直し、また傾聴が機能している他の自助グループに参加してみる方向で動いている。
何故この文章を書いたかというと、「自助グループ しんどい」で検索すると、「自助グループに行きたくないというのは偏見があったり、病識がないからだ」「とりあえず継続して行った方がいい」といった記事が出てくるからだ。
その自助グループや、自助グループというもの自体を否定する気持ちは全く無い。実際、それで助かっている人はたくさんいるからだ。継続して色々な場所の会に通えば、どこかしらで自分と合った環境が見つかることも考えられる。吐き出せる場所が見つかれば、問題を抱えた人にとっては大きな助けになる。
私も、「それはそう、でも私はこうする」という切り分けができれば、多分その(しんどかった)自助グループに通っていたと思う。また、そこはしんどくても、同じグループの他の会を探すとか、しんどくてもご飯の流れだけは断って自衛するとか、そういう手もあった。
でも、傾聴があまりよく機能していない自助グループに、病気持ちで意志薄弱の傾向がある人が行くと、調子を崩すこともある。
場の流れを崩す恐怖が強くて、うまく自衛ができない人もいる。
その場合は、カウンセラーや医師に相談してみてほしい。自助グループは、死にたくなってまで行くものではないと思う。また、そこまで病的に意志薄弱(または意志があってもそれを伝えるのが苦手)なのであれば、まず医療機関等を頼るのが最優先だ。
それに、自助グループはたくさんあるので、「ここしかない」ということもない。その点でも、医師やカウンセラーと相談して、安心して話せる自助グループを探してみてほしい。
(カウンセラーについても、無資格のカウンセラーはたくさんいますが、臨床心理士さんのいるカウンセリングルームの方が安定感があるのでおすすめします。ライフハック。
臨床心理士さんが居る相談機関を探せるホームページがあるので、リンクを張っておきます。
また、特定の自助グループを非難する意図も、自助グループの存在を非難する意図もありません。
先日、初めてある自助グループに参加した。
私は既婚なのだが、夫婦間での問題が実害として表れ始めたので、相談機関に相談したところ、自助グループに参加することになった。
なにかしらの問題を抱える人が集まり、お互いの経験や現状を話し、つらさなど気持ちを分かち合う場だ。基本的に「言いっぱなし・聞きっぱなし」、すなわち問題や気持ちを吐き出して整理する場所で、傾聴に重点がおかれた形式をとることが多い。
なぜ、傾聴が重視されるかというと、発言に対して正論で責められると吐き出すものも吐き出せず、結局そこでは安心して話せないことになるからだ。
そもそも、正論で片付けられるような状況であればそこまで困っていないというのもある。問題というのは様々なバックボーンや出来事のタイミングなど複雑な要素で成り立っているので、誰かにとっての正論が必ずしも当てはまるものではないということは確かだ。
とりあえず、誰にも言えないことを吐き出せる。そういう場所として自助グループがある。
具体的なアドバイスは医師やカウンセラー等、金銭的対価を払って、ある意味「職業的責任を持ってくれる」人たちに頼ることが良いかと思われる。(個人的感想です。)
私もメンタルの病を持っており、医師やカウンセラーに頼りつつ、同じようにメンタルの問題がある人と繋がったり、信頼できる人を見つけて、お互いに傾聴するような関係を築いたりもしてきた。そういう前提のもと、前述の経緯で、ある自助グループに参加した。
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びっくらこいた。
形式上は傾聴だ。まずミーティング的なものがあり、その際は順々に気持ちを吐露していく。これについてその場でアドバイスされることはない。
また、ミーティング中は特定の施設や団体等の名前を出すことは禁止されている。
しかしその後「ご飯行きましょ」という流れがあり、どこの病院がいいとかそういう話はミーティング後にすることになる。正直状況的には藁をも掴む思いなので、参加した。
①全体的に否定される
前述の通りミーティング後の食事等でまた状況の話をするわけだが、何を話しても「それは病んでいる」「おかしい、普通じゃない」といった反応がくる。
正直病んでてもともとなのである。
自分の話になるが、物心がついたときから「死にたい」と言って暴れたり、自傷行為に走ったりしてきて、頻繁に家出もしていた。大人になってからやっとの思いでメンタルクリニックにつながり、服薬とカウンセリングでなんとか生きてきたし、今もそうだ。
親との関係がそもそも拗れていたのだが、最近になって親との関係も徐々に清算されてきた。親元はすでに離れているのだが、親も勉強したり考えたりしたようで、こちらも落ち着いて話せる環境になってきた。親には、「心配はするけど、生きたいように生きなさい」と言ってもらえて、荷が下りたような気持ちになったのが、最近のことである。
病みつつ、病んでるなりになんとかやっていっている。
そこに状況の否定が来ると、混乱する。
おかしいと言われれば、たしかにおかしいだろう。病んでいる。そんなことはわかっている。
②繋がりを否定される
まあ、おかしいだとか普通じゃないと否定される分には「世間的にはそうですよね」で片付けられるのだが、決定的にしんどかったことの一つは、自助グループ以外の繋がりを否定されたことだ。
前述のとおり、同じような境遇の友人がそれなりの数居り、お互い「それはつらいね」「そういうとき、私はこうしたよ」など、傾聴を重視した関係を築くことに成功したわけだが、そのことをぽろっと自助グループで話したところ「友人に話すことはあまりよくない」といったことをアドバイスされた。
また、親とも少しずつ和解しており、今では困ったことがあると相談する関係なのだが、そのこともぽろっと話したら「親に相談することも良くない」らしかった。
そして、「自助グループで話すのがいい」という流れになる。相談するなら自助グループの人にしなさいと連絡先を渡された。
友人に話すことには良くない面もある、それは理解できる。
「死にたい」「つらい」「助けて」といったことを頻繁に友人に対して言うのは、友人に心的介護を要求することになる。それは友人にとって良くないのはもちろん、自分にとっても良くない。介護する側と介護される側となると、対等な関係ではなくなるからだ。
しかし、そこは理解した上で、友人とは付き合っている。本当にどうしようもないときは、病院やカウンセリングに頼る。友人にサービスは要求しない。嬉しかったことや悲しかったことを共有こそするが、それは友人関係の範囲でのことだ。逆に、その辺りの意識が共有できない相手に相談することはない。
友人たちとはかなり良好な関係が築けていると思っている。そこを、あまり詳しく話をしていない段階で否定されたことに衝撃を受けた。(今思うとあまり詳しく話をしていない状況だったから否定されたのかもしれない。)
③傾聴が機能していない
また、そもそも傾聴が重視されるはずの自助グループで傾聴が機能していなかったことも衝撃だった。
夫とはクールダウン期間として別居しているのだが、事情を考慮した結果、また同居をするつもりでいる。
その旨を話すと、鬼のように止められた。
たしかに同居にはデメリットもある。心理的に距離が保てない(=自他境界が曖昧な)二人が同居するとそれはそれはトラブルが絶えない。
しかし、「自他境界が曖昧で問題が起こる」ということを自覚した上で、病院やカウンセラーを頼りつつ落としどころを見つけていく、ということはそんなにまずいことなのだろうか。
実際、別居のメリットも十分感じた。
最初はお互い(別居に対する)抵抗感があったが、一回離れてみると見えてくることはたくさんある。自分の生活を律するのは最終的に自分だということ、金銭的にお互いを頼ることはなるべく避けた方が良いこと、べったりと一緒にいなくても生きていけること、たくさん気づくことがあった。
でもその上で、仕事場へのアクセスや金銭的事情、また単純に「適度に自他境界をつくり、一緒にいる楽しさに目を向けられる関係を目指したい」という点で、つまり試行錯誤をするというプロセス上、とりあえず同居してみてもいいのではないかと思っている。
トラブルがあれば、その都度カウンセリングや医療機関を頼る、また一時的に親族の元に身を寄せることもできる体制を構築した。これが保険となり、同居を前向きに考えられるようになった。
細々(こまごま)とした事情を自分の中の天秤にかけた結果が「同居」なのだが、それは自助グループ的にはあり得ない様子なのである。
これがまた結構な人数で説得される。そうなると場としては同調せざるを得なくなってしまい、「確かにそうですね…」と言ってしまった。
これがまあまあなダメージで、自助グループに行く度に「同居絶対ダメ」と説得されるのだが、そのあと1~2日はもやもやして寝込んだり泣いたりしてしまった。
もともとメンタルの病で意志薄弱なところがあるのだが、私のことは私で決める、ということが少しずつ出来るようになってきたところだ。
そこに大人数の説得が来て、かなり混乱した。もしバックボーンが違えども混乱するのではないか、と思う。
また付け加えると、ミーティング中の発言に関しても多少の突っ込みを受けた。これでは「言いっぱなし聞きっぱなし」の意味がなく、傾聴とは言えないのではないだろうか。もやもや、もやもや…
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それで混乱したり寝込んだり涙したりしていたわけだが、その自助グループで「確かにそうですよね」等と言っていると、どんどん自助グループへの関与を勧められる。毎日どこかしらでやっているので、ほぼ無限に勧めることが可能なのだ。
それで、その場の流れで「では、~曜日は~でやっている会に参加します」などと言ってしまった(本当は、要らないことは言わなければいいので、ここは私の落ち度と思う。)。
それで参加する宣言をしたわけだが、私の場合、しんどさは大体翌日~翌々日にやってくるので、その場は平気でも後々「あんなことを言ってしまったが、行かなければならないのか…死にたい…」という状態になる。
行く宣言をした自助グループの会を翌々日に控え、「死にた~い…」となっていたとき、前からかかっているカウンセラーの顔が浮かび、カウンセリングで相談したらいいのではないかと考えた。
ここ数ヵ月希死念慮は無かったのに、こんなに死にたいのはまずい状況だ。しかし意志薄弱傾向もあって、「自分で決められない、誰かに相談しないと落ち着かない…誰か背中を押してくれ…でも友達にも親にも話すのはやめた方がいいって言われたし…」等と、くどくど考えていたが、最終的に友人が背中を押してくれたので、すぐカウンセリングに行くことにした。
カウンセラーにつらさを話すと、まずつらさを肯定してくれた。もうこの時点で涙が出るほど安心した。
一通り打ち明けたところ、自助グループの役割や傾聴の意義について説明を受けた。また、傾聴が徹底されている自助グループもたくさんあり、自助グループが全部私の経験したような場所ではないことも教えてくれた。
心の底から、「このカウンセラーさんと繋がっていて良かった…」と思った。
結局、しんどかった自助グループとは距離を置くことにした。今は、カウンセラー、医師と相談しつつ生活を建て直し、また傾聴が機能している他の自助グループに参加してみる方向で動いている。
何故この文章を書いたかというと、「自助グループ しんどい」で検索すると、「自助グループに行きたくないというのは偏見があったり、病識がないからだ」「とりあえず継続して行った方がいい」といった記事が出てくるからだ。
その自助グループや、自助グループというもの自体を否定する気持ちは全く無い。実際、それで助かっている人はたくさんいるからだ。継続して色々な場所の会に通えば、どこかしらで自分と合った環境が見つかることも考えられる。吐き出せる場所が見つかれば、問題を抱えた人にとっては大きな助けになる。
私も、「それはそう、でも私はこうする」という切り分けができれば、多分その(しんどかった)自助グループに通っていたと思う。また、そこはしんどくても、同じグループの他の会を探すとか、しんどくてもご飯の流れだけは断って自衛するとか、そういう手もあった。
でも、傾聴があまりよく機能していない自助グループに、病気持ちで意志薄弱の傾向がある人が行くと、調子を崩すこともある。
場の流れを崩す恐怖が強くて、うまく自衛ができない人もいる。
その場合は、カウンセラーや医師に相談してみてほしい。自助グループは、死にたくなってまで行くものではないと思う。また、そこまで病的に意志薄弱(または意志があってもそれを伝えるのが苦手)なのであれば、まず医療機関等を頼るのが最優先かと考えている。
あと、自助グループはたくさんあるので、「ここしかない」ということもない。その点も、医師やカウンセラーと相談して探してみてほしい。
(カウンセラーについても、無資格のカウンセラーはたくさんいますが、臨床心理士さんのいるカウンセリングルームの方が安定感があるのでおすすめします。ライフハック。
臨床心理士さんが居る相談機関を探せるホームページがあるので、リンクを張っておきます。
ワテはあんな時に投げる金が神様に本気で祈ってる奴を救う時に効果を発揮したらええなぁと思うだけやで
まぁ現代は金自体にちゃんと効力があって金が集まったところがたまに慈善事業とか社会福祉とかに金を使うんやからそれでええんやと思うわ
その上で死のうが死ぬまいが神様が処理するんやのうて、火葬場やら特殊清掃の人達が上手いこと頑張ってくれるんやな
日本人はみんなツンデレやからそうやって人間が作り上げた神である社会に対してアレもダメじゃないコレもダメじゃないと言うけど
なんだかんだ美味しい水は啜ってるんや、その言葉を本気にしてしまってこの社会という神様には甘えられる場所が無いと断じてしまうのが結構な頻度で現れとるけど
それでも昔はその符号の下に様々なことをやってもらったんやからそりゃ形式上でも感謝はするわな
今の社会はみんな人権というものが生まれてしまってダニノミ並みに役に立たなくなった奴等でも社会という神の名の下に人間扱いさせてもろうとるせいで、よくわかっとらんねんな
こうやって日本語喋れんのも不満を欠けるのも社会の教え、社会の規律の名の下にやっとるだけよ
それが宗教国家に代わって神様の道理で大量虐殺されてないだけなんや
今は自由民主主義、もしくは平和主義って神様に従っとるだけなんや
その権能は今ここにあるものが全てや
二人目のB子さんは、ある意味で私と同期だった。私がK市に採用された年に、高校を出たばかりの彼女が入庁してきた。
K市に入ってからの私というのは、せっせと新人公務員として基本的な事柄を勉強したり、各庁舎をぐるぐると見回って雰囲気を掴んだり(大抵は職員への挨拶を兼ねている)、K市が主催するイベントにスタッフとして十数回と参加したり、多くの自治体の職員が集まる研修に出席したり、ほかの幹部がまとめた人事政策に対してフィードバックを述べたり……あっという間に5ヵ月が過ぎていった。
その頃だった。B子さんについての苦情が寄せられたのは。毎年9月にある新人職員への人事面談の折に、B子さんのいる課から上がってきた。一応、直属の上司も事実であると認めた苦情ということで、今度はB子さんと面談室で話をすることになった。指導的な色合いが強い内容になる。
今でも思い出す。あの女は人生をナメていた。なめ猫なんて甘っちょろいものではない。すでに組織を蝕む害獣となりかけていた。
面談室に入ってきた彼女を見て衝撃を受けた。髪の毛は脱色しているし、恰好は女性向けファッション誌に出てくるそのものだったし、朱色のスカートの丈は相当な短さだったし、口紅は真っ赤だったし、ピアスをしていたし、首に〇〇〇〇〇もついていたし……どこから突っ込んでいいのかわからない。
私も、世間一般では活発で知られた営業会社で働いていたが、彼女ほど派手な恰好の女子社員はさすがに見たことがない。せいぜい茶髪や控えめなチークだった。多くのお客様の前に出ないといけないからだ。
A夫さんの時と同じく、面談室の両側のソファにお互いに座った。こちらには人事課長が、向こうにはB子さんの直属の上司がいる。
面談が始まった。初めに私の方から、「B子さんですね。お仕事で忙しいところすいません。まずは事実の確認ですが、今着用しているような衣服を先輩に注意されたことはありますか」と尋ねた。
以下、大まかなやりとりになる。
「その先輩には、なんて言って答えましたか」
「私の自由です、と何度言ってもわかってもらえないんで、『ハラスメントです、やめてください、気持ち悪いです。これ以上は親に話します』と伝えました」
「それは、先輩があなたのことを思って言ってくれたのではないですか?」
「違います」
「では、どんな気持ちだったと思う?」
ほかの行動、例えば自分が気に入らない職員を無視するとか、夜の窓口勤務中にチョコレートを食べながらほかの女性職員と雑談していたとか、勤務時間中に携帯をいじって過ごしていたことなど、色々と聞いていったが、終始ブスッとした調子で返答するのみだった。最後に、だるそうな口調で「何とかやってみます」とだけ告げた。
面談中、私はB子さんの履歴書や採用試験時の成績を見ていた。偏差値50くらいの公立高校を出ていて、英検や漢検の初級程度を持っていて、採用試験(筆記試験)ではほぼ満点を取っていて、性格適性検査ではやや嘘つきと出ていて、肝心の面接試験では、「明るくハキハキしていて、利発な印象を受ける」とあった――採用試験でわかることなど、この程度のものだ。
いったん話は逸れる。私が採用された背景(どんな目的を叶えたくて私を採用したのか)、当時の市長から受けた勅命を述べる。
「優れた職員を残し、不要な人間は残さない」「次世代に残すべき職員を採用する」「そうした職員が辞めない環境を作る」といったものだ。
冒頭に述べたように、このK市の新規採用職員の3年以内離職率について、十数年前は1割未満だったものが、私が市長からスカウトされた年には約35%まで悪化していた。20人採用したら、3年以内に7人が辞めていることになる。3年超えになると、もう数パーセント上昇する。
辞めた者の中には、将来を嘱望される人材が何人も含まれていた。ボリュームゾーンは30才手前で、これまで将来を期待されて県庁や国の機関に出向したり、エース級の職員が配属される部署で頑張っていた職員らが退職を選んでいた。この状況を正すことが、私に課せられた任務だ。
市長の談によると、人事課が収集した退職理由の中でトップだったのが、「将来、昇進しても幸せになる未来が見えない」で、肉薄して2番目だったのが、「異常な言動を取る職員が多いうえ、上の人が彼らに何の対策もしない。働いているのがばかばかしい」というものだった。
このうち、私が解決に役立ちそうなのは二番目の課題だった。一番目の課題は、プロパーの職員が自ら考えて実行すべきことである。外部の人間である私が考えるのはお門違いだ。アドバイスはさせてもらうが……。
話を戻す。
これらを踏まえて、B子さんへの対応を考えることになる。面談を終えて、私はその場で人事課長に目配せをして問いかけた。
「B子さんを切りましょう」
「試用期間とはいえ、難しいのでは。やめておきましょう。あの子はまだ若い。立ち直るかもしれない」
ツッコミが入った。想定どおりだ。
試用期間中の分限免職処分は、K市はもちろん、県内他市町でもほとんど例がない。が、私はそれに成功した市町村のいくつかを研究していた。
「試用期間での成績が不良である場合、正式に採用しないことができます。判例を調べましたが、いくつかの市町村では実際に行われているようです」
「うん……考えるべきところではある。あの子は、ちょっとひどいとも思います。ただ、私の権限ではちょっと決めかねます」
「わかりません。市長にも副市長にも総務部長にも伺ってみないと。これは全庁的な問題なので、もっと、いろいろと議論を重ねてみるべきかと」
「市長は問題ないでしょう。ほかの人は私が説得してみます。しかし、第一には人事課長であるあなたの職分ではないですか」
「それはそうですが、職員の進退そのものを判断することはできません。それを言うなら、私さんの役職は一応は部長級なんですし、私らと違って一流の会社にいましたし、市長の元部下なんでしょう。私よりもやりやすいんじゃないですか。とにかく、私にはどうすべきかわかりません。例年であれば、あの子はそのまま正式に採用されます」
人事課長は乗り気でないようだった。
それから面談室を出て、人事課に戻って、課内の奥野須美に着席した。
私の机と椅子は人事課の奥にある。
2022/01/02 追記 奥野須美さんには着席していません。奥の隅の誤りです。
その後も何度か討論を重ねた後、B子さんへの対応が決まった――退職勧告だ。
後日、総務部長の口頭での承認を得た。市長は、「お前の好きにやれ。判は押す。証拠は絶対に固めるように」とのこと。副市長は猛反対だった。予想どおりの瞬殺だった。
そして、不安そうにする人事課の職員らに対して私は、「市長からは、現場で判断していいとの答えをもらっています。何かあれば私が責任を取ります。あなた達に迷惑はかけません。協力を求めます」と答えた。
責任など取りたいはずもない。が、ここはレイズの場面だ。攻めるのだ。戦え。今しかない。ここで勝てれば、私の信用は外部登用組の管理職(※当時、国や県や民間から計4人の出向を受け入れていた)の中でも相当に高くなる。ここは何としても取りたい。
方針が決まったとなれば、後は実行だ。
今回のメンバーは、人事課長と私だった。前回は私が面談を主導したので、今回は課長が行うことになった。こういう貴重な経験は、多くの人間でシェアすべきという考えによる。
人事課長は、不安そうな顔つきだった――この人は将来を嘱望されている。当時は50代半ばで、順当に上の人間の席が空けば総務部長にもなると言われていた。
「安心してください。上の人間は『方針』を認めています。あくまで方針だけですが。今後のK市のためにも、ぜひあなたが実施すべきです」
私が激すると、彼はしぶしぶ動き出した。
そして、いよいよ始まった面談は、思ったよりも淡々としていた。B子さんが面談室に1人で入ってきた時、人事課長がソファの中央に腰掛けていた。話の最中は、私が脇にある椅子で見守っていた。
さて、Bさんとのちょっとしたやりとりの後、人事課長は「あなたを本採用できません」と告げた。それから、理由などの説明が終わると――B子さんは顔を一瞬だけ歪ませて、また元の顔に戻ると、「わかりました」とだけ告げた。面談後は、泣きそうな表情でその場を後にした。抵抗はなかった。
あっけないほどすぐに終わった。時間にして5、6分だった。もっと抵抗されると思っていた。本人もわかっていたのではないだろうか。自分がこうなることを。
「〇〇課長、やりましたね。苦しかったでしょうが、これが新しい一歩なんですよ。踏み出せたじゃないですか」
私は、片方の拳で人事課長の脇腹を貫いた。彼はちょっと痛がるようにしてから、拳を額に当ててソファの上で態勢を沈ませる。
神妙な面持ちで、「B子さんは何とかなるんですかね。これは脅しの一種ですよね。反省すれば、クビにはならないんですよね?」と呟くように述べた。
「お前みたいな悪いお人好しが組織を腐らせるんだよ。もっと組織のために悪者になってみろ」
という言葉を飲み込んで私は、その場の片付けを始めた。
B子さんの退職の話を聞いた副市長が、再び私と総務部長を呼び出した。やはり逆鱗に触れたようだった。今回は稟議書(※B子さんの聴取記録のこと。A夫さんは犯罪の関係で市長までそれを回す必要があった)を回すほどの案件ではなかったのに、なぜわかったのだろうか。私だってB子さんの今後を考えている。分限免職だが、形式上は年度末での通常の退職という形にしていた。
副市長とは激しい議論になった。彼が退職するまで、少なくとも5回は苛烈な論戦をした思い出がある。私は何度も説明した。これから公務員業界が厳しくなっていく中で、これまでの人事政策を変えていく必要があることを。勤務成績が極端に悪い職員を追い出すことの合理性を説いた。
が、わかってもらえることはなかった。副市長は、人事課の主導で職員を辞めさせるのを避けたいようだった。最後に、こういうやり取りがあった。
「市長が「それでいい」と、どうしても言うなら私は反対しない。一番に重い責任を取るのは市長なんだから。しかし……こうした案件について私は承認しない。法令上は、市長の意思さえあれば有効な意思決定だ。やりたいなら好きにやれ。もうこういった件は私のところに持ってくるな。不愉快だ。いいね?」
「いえ、それでも副市長に話は持っていきます。ここのルールですからね」
数日後、B子さんの母親から人事課に電話がかかってきた。電話を受けたのは私だった。「B子の母です」と名乗る声を聞いた時、私はB子さんに関係する資料を手元に手繰り寄せた。
「この度は、娘が申し訳ないことをしました。本当にすいません」
開口一番がそれだった。
B子さんが本採用にならなかった理由は本人に説明したが、母親が再確認をしたかったようだ。
「理由はB子さんが述べたとおりです。公務員、いや社会人としてよくない面が多すぎました。もちろん、いきなり職場に来るなということではなく、来年3月末までは在籍できます。給料もボーナスも満額払われます。その間に、また就職活動の方をしていただいて~」
「本当にすいませんでした……お給料までお支払いいただいて。今回はご迷惑をかけましたが、何かあったらまたよろしくお願いします」
終始謝りっぱなしだった。この子にしてこの親あり、という俗諺の例外を今まさに見ていた。
「この親からあの子が育ったのか!?」とその時は何となく考えていたのだが、後日、答えのようなものが見つかった。申し訳ないが、ここで公表することはできない。一線を越えていると判断する。
その時、私の中に罪悪感のようなものが込み上げてきた。世の中には、どうしようもない事情というものがあって、それに翻弄され続ける人間も当然に存在する。B子さんも、その1人だった。
少しだけ話そう。あの後、総務部長が、「せっかくだから、もっとあの子を調べてみたら」と助言してくれた。指示されるがまま、市民課(住基ネット)や税務課(税務情報システム)や福祉課(福祉情報システム)でB子さんの情報を集めてみた。すると……。
今の私が、当時の私にアドバイスをするとしたら、「あと1年は様子を見てもいい」(地方公務員法には試用期間延長のルールがある)と告げるに違いない。
いかに私が民間企業で人事責任者をやっていたとしても、人にはその数だけ事情がある。即座にすべてを把握する力はない。結果的に、私はそれを汲み取ることができなかった。もっと、深く細かくB子さんに寄り添っていたらよかった。
ここまでの描写だと、まるで私と副市長が犬猿の仲だったように映るが、実際には違う。仕事で一緒になることがあれば、普通に冗談などを言い合っていた。
例えば、遠方にある他市町の児童福祉施設を視察していた時だった。市長、副市長と私その他は、保育の現場を見た後に自由見学していたのだが、やがて2階の大きな吹き抜けになったフロアの隅に辿り着いた。そこには、「幼児 プレイコーナー」と看板に書かれたスペースがあって、どうやら小さい子ども向けの遊び場のようだった。プラ素材の小さい滑り台から、小学校低学年向けのジャングルジムまで、様々な遊具が置いてある。
副市長は、「あの名前は気に入らない」と呟いた。文書のインデントが0.5文字ズレているだけで不機嫌になる人だ。例えば、いま私は、上の「幼児 プレイコーナー」を半角スペースとしたが、K市で働いている時なら公務員業界の慣行に従って全角スペースにしただろう。
私は、「一般的な名称だと思いますが……どこかおかしいところが?」と意見したところ、「色々ある」とだけ返ってきた。
夜になって、視察終了祝いの一次会があった。さあ次はどこで飲もうかと、市長や副市長その他と歓楽街をうろついていた。このレベルの役職の人はK市内で飲めないため、こういった視察が貴重な機会になる。
と、酔っぱらった副市長が私の襟ぐりを掴んだ。風俗街の一角を指さしている。
「幼児プレイあります」「ママに甘えたい!」「授乳もOK」などと書かれた看板やのぼりが立ち並んでいた。
「後で行ってみるか。おごるぞ」と意気込む副市長に対し、市長が「昼もやってるみたいだ。なあ副市長、視察の前に(以下自主規制)」とツッコミを入れていた。
それで私は、「もしかして、副市長はあのとき風俗のことを考えてたんですか!? あの真剣な顔で、さっき現場で見たどの先生がよかったとか? ねえ副市長」
「ふざけているのかお前はッ!! 真面目にやれ!」
副市長は激昂していた。
歓楽街の一角で怒鳴られる私を尻目に、市長とほかの幹部はどこかに行き始めていた。
「わからないです」
「法律では満1歳から就学前の子どもを幼児と言うんだろうが!! あそこには小学生も遊べる立体遊具があっただろうが!! 矛盾に気づけッ!」
「すいませんでした」
年に一度は視察などで副市長と飲む機会があったが、普段が真面目すぎるだけで、面白い顔もちゃんとある。
人間は基本的にそうだ。あなたにとって好きな面も嫌いな面も、両方ちゃんと澄んだ目で見ることができるのなら、ケンカになっても関係が壊れることはない。
あなたは、自分が嫌いな人間のことを認めることができるだろうか。人のいいところを見つけることができるだろうか? 自分でも今、何を書いているのかわからなくなってきた……。
本気で選挙で現状を変えないと自由が無い、老後どころか明日の命すら危ない・・・って国じゃないからね、日本は。
一国の政治トップを名指しでボロカスに批判したり、なんなら誹謗中傷しても平気でいられる国、つまり日本・アメリカ・イギリス・フランスその他主要な先進国はまともなんだよ。
政治トップを堂々とボロカスに叩くことが出来ない国、いくつか思いつくよね? そういう国の国民たちこそ本気で政治に興味を持つべきだが、残念ながらそういう国はそもそも選挙が無いか、あっても形式上だけで、まともに機能してないんだよね。